水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

インスタント食品が生活を変える。

1960年01月22日 | 1960年
小麦輸入の増加
1945年の終戦から10年間、日本は深刻な食料不足のため、米・小麦を輸入した。アメリカからの小麦を輸入には、日本の再軍備が条件とされた(MSA協定)。アメリカは日本に輸出した小麦輸出代金を、全額、日本の銀行に預け、日本への経済援助に使った。日本国内ではアメリカからの経済援助を受けるため、食料需給が充足した後も小麦を輸入した。小麦の消費拡大のため、学校給食にはパンを使った。
アメリカ農務省は、アメリカ国内で生産過剰となった小麦の販路拡大資金を、オレゴン州小麦栽培連盟に提供した。連盟から日本に役員が派遣され、1956年から1960年まで日本各地に12台のキッチンカーを走らせて小麦料理を普及させた。パン技術者を養成する講習会や、粉食PR映画も作成した。
1960年には、脚気の原因になる米を減らし、栄養にすぐれた小麦を食べなくてはならない、という世論が出来上がった。
日本産の小麦は価格と品質でパンには不適当であり、アメリカの小麦を継続輸入することになった。日本の小麦栽培はほぼ全滅した。これはアメリカの思惑通りの結果であった。水田や畑の裏作としての小麦栽培も、アメリカ産小麦には価格と品質で負け、多くの農家は、冬の出稼ぎをするようになった。


インスタントラーメンの急増
1958年8月25日にサンシー殖産の発売したインスタントラーメン(商品名チキンラーメン)が爆発的に売れた。1958年12月にサンシー殖産は日清食品に社名を変更し、1959年12月に大阪府高槻市に近代的工場を完成させた。三菱商事の全国販売網で年間2億食の大量生産・大量販売が可能になった。良質安価の輸入小麦を原料とする工場生産であった。
1960年には1日1社といわれるほど多数のインスタントラーメン製造業者が出現した。淘汰されて残った大手5社とは、日清食品・サンヨー食品・明星食品・東洋水産・エースコックである。日本の小麦はインスタントラーメンの大量生産に適するような、品質の安定と数量の確保ができず、原料は輸入小麦に頼らざるを得なかった。
国産小麦は国内の小規模零細な手作り麺工場向けであった。

魚肉ハムと魚肉ソーセージ
魚が原料のハム・ソーセージは日本人の栄養状態を欧米並みに引き上げる画期的な発明といわれた。1952年には製造方法が確立されたが、安い原料魚がなかった。
1954年に静岡のマグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、アメリカの水爆実験による放射能を浴びて死者を出した。このため国内のマグロが放射能で汚染されているとして、売れなかった。マグロ価格も暴落した。
値下がりした大量のマグロが、ハム・ソーセージの原料として使われた。味の良さと安さで売れた。その後、技術開発が進められ、マグロ以外の魚種でもうまいハム・ソーセージが作られた。簡単便利、栄養豊富なおかずとして、学校給食などに大量に消費されるようになった。世界中に普及した魚肉ハム、魚肉ソーセージは日本の発明である。 

http://www15.ocn.ne.jp/~aoisora5/