道楽日記

NO TOMICA,NO LIFE しろくま@管理人

80'sプロ野球ヒーローズフィギュア

2006年09月02日 | 食玩・おまけ
久しぶりの缶コーヒーのおまけのネタです。
今、缶コーヒーのジョージアに「80's プロ野球ヒーローズフィギュア」が付いています。ここ数年プロ野球の人気が下降しているとか言われていますが、まあそれは、「たかが選手」発言など私利私欲しか考えない人物が、プロ野球に発言権を持っていることが大きな原因だとわしは思っとります。
1980年代といえば、わし的にはまだプロ野球に夢があったころですな。懐かしいです。

フィギュアは全15種もあるので、コメントは簡単にしてアップしていきます(フィギュア化されたプレーヤーは全員引退しているので、正確には「元選手」になるのですが、現役のときのフィギュアなので、敬称は「選手」って書きますね)。

讀賣巨人軍の原辰徳選手です。選手時代は「若大将」とか呼ばれてましたね。讀賣の現監督ですが、「ジャイアンツ愛」って他球団から選手を集めることですか。


讀賣巨人軍の中畑清選手です。いつでも「絶好調!」。「ここで一発!キ・ヨ・シ!!」


阪神タイガースの掛布雅之選手です。「ミスタータイガース」です。阪神から西武に移籍し、福岡ダイエーの監督を務めた田淵幸一氏を含めるかどうかで、3代目か4代目の「ミスタータイガース」になるそうです(初代の藤村富美男氏、2代目の村山実氏は確定のようです)。プロ野球の解説ではかなり讀賣びいきの解説をするので、関西では不評です(バットを“ブワット”、ファーストを“ホワスト”と言うのが気になります)。


阪神タイガースのランディ・バース選手です。阪神史上最強の外国人選手です。姓は正しくは「バス」と発音するそうです。阪神タイガースが21年ぶりのセ・リーグ優勝と初の日本一になった1985年には、セ・リーグ初の外国人三冠王とシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成しています。


阪神タイガースの岡田彰布選手です。現阪神監督です。「そら そうよ」が口癖です。地元住民としてはまだ阪神の優勝を期待しているのですが、監督の顔がおもろすぎて今一つ気迫が伝わってこないと思うのです。


広島東洋カープの山本浩二選手です。「ミスター赤ヘル」です。昨年まで広島の監督でしたが、成績も振るわず、黄色いサングラスをかけていたので、「ピーコ」と呼ばれていました。現役時代の背番号8は球団初の永久欠番になっています。


広島東洋カープの衣笠祥雄選手です。「鉄人衣笠」です。「鉄人」という愛称は、赤ヘルになる以前につけていた背番号が「28」だったので、鉄人28号に由来しています。実際に2215試合連続出場(現役引退で記録が途絶えました)を達成し、名実ともに「鉄人」でした。山本浩二選手に続いて、現役時代の背番号3は永久欠番になっています。わしが学生の頃、現役引退後、学校に聴講生として在籍していた時代があって、キャンパスで出合って感動しました(わしは物心ついてからの広島ファンです)。
余談ですが、広島の紙屋町交差点で広島時代のアレン選手とすれ違ったり、広島中央郵便局で並んでいると、その前に並んでいる人がアイルランド選手だったり、広島に住んでいた頃は結構楽しかったです。


横浜大洋ホエールズの高木豊選手です。屋鋪要、加藤博一の両選手と「スーパーカートリオ」として活躍してました。1993年オフに当時讀賣の駒田選手獲得に伴う大量解雇で自由契約となったときは、わしでも腹が立ちました。


中日ドラゴンズの矢沢健一選手です。1974年に中日ドラゴンズが讀賣のV10を阻止し、20年ぶりの優勝を記念して発売された「燃えよドラゴンズ」にも♪五番 谷沢がクリーンヒット~♪と歌われています。77年、79年版では♪矢沢の弾丸ライナー♪となっております。
ちなみに「燃えよドラゴンズ」は今でも歌詞を選手を変えながら続いており、2002、2004、2005年版は水木一郎アニキが歌っておられます。


阪急ブレーブスの福本豊選手です。今は朝日放送・サンテレビの野球解説者として主に阪神戦の解説をして数々の「福本語録」を残していますが、歴代1位の通算1065盗塁を記録している名選手でありました。競走馬と競争させられたこともありましたなぁ。
福本選手の現役時代の背番号「7」は、オリックス・ブルーウェーブの準永久欠番だったのですが、オリックス・バファローズになった現在は準永久欠番扱いも失効しています。


ロッテオリオンズの落合博満選手です。現中日ドラゴンズ監督です。ロッテ時代の1982年、1985年、1986年と三冠王を3度も獲得したスゴい選手でした。わし的には落合選手といえば、ロッテというイメージなのですが、その後中日、讀賣、日本ハムとチームを渡り歩きましたね。
中日の監督就任時に「他の人が出来ることが自分に出来ないはずがない」とのコメントが印象的でした。その言葉通り、就任1年目でリーグ優勝を達成したのはスゴいと思いました。


ロッテオリオンズの村田兆治投手です。全15種のうち唯一の投手です。独特のマサカリ投法が印象的なピッチャーでした。通算215勝していますが、肘の故障でフランク・ジョーブ博士のもとで、左腕の腱を右肘に移植する手術を受け、リハビリのため2年間登板なしという時期もありました。
50歳を越えた今でも、球速140km/hをマークし続けているスゴい村田投手ですが、本人は「マスターズリーグで140キロが出せなくなったら、もうボールを握るのは止める」と公言しているそうです。


西武ライオンズの石毛宏典選手です。 ドラ1でプリンスホテルから西武に入団し、新人王獲得など活躍してましたが、FAで福岡ダイエーホークスに移籍後、オリックスブルーウェーブの監督(1年で解任)となり、2004年に四国アイランドリーグを設立しました。独立リーグの運営は難しいと思いますが、わしの血の半分は四国の血が入っているので、応援しています。


近鉄バファローズのラルフ・ブライアント選手です。 近鉄の主砲のデービスが大麻不法所持により逮捕・退団した後、近鉄が中日の二軍で三振を繰り返していたブライアントを獲得したという経緯がありました。ホームランか三振かという豪快な選手でしたが、バットの芯に当たったときの飛距離といったらスゴいものがありました。推定飛距離170mといわれる東京ドームの天井スピーカーを直撃する一打や、千葉マリンスタジアムのスコアボードを直撃する本塁打を放ち、電光掲示板を破壊したこともありましたな。


南海ホークスの山本和範選手です。わし的には山本選手は南海というより、 ダイエーと近鉄というイメージが強いです。プロ野球へは近鉄に入団したのが最初ですが、解雇され一時期大阪・池田市のバッティングセンターで働いていた時期もあったそうです(わしは池田市に住んでいたので、そのバッティングセンターにはよく通ってました)。その後、穴吹監督の誘いで南海に入団して、南海・ダイエーの主力選手として活躍していたのですが、年俸の高騰で自由契約となり、その後入団テストを受けて近鉄に復帰。1999年、唯一の出場となったシーズン最終戦(VSダイエー戦)で最終打席で決勝ホームランを放ち、プロ野球選手としての最後を自らのバットで飾りました。わしはその試合をテレビで見ていたのですが、めちゃくちゃ感動したのを憶えています。


全15種なので、長~~いエントリーになりましたが、野球好きのわしのツボにハマる企画でした。しかし、ヤクルトと日本ハムの選手がいないんですよね。決して名選手がいなかったわけではないんですけどねぇ。