ラヴェンダーの咲く庭で

「みゃーきんぐ・ぷあ」から変更。保護猫と綴る日々の備忘録、独り言にすぎない半径5mの記録です!基本、読み専です。

最後の言葉

2015-09-23 00:38:53 | 日常
快晴。

夕方から義兄の容態が刻々と悪化、
旦那携帯から待機中の私にも「明日は来るように」と連絡があった。
その後、何度も自宅に電話、喪服を持ってきて欲しいとか、明日の高速バスの時間とか。
サイズも変わり喪服3着、革靴2足、ベルトやらワイシャツやも複数、とにかく手荷物にしては大荷物になり、うんともすんとも持ち上がらない重さ。
出発前に、まず駅までたどり着けるのかが不安になる。
早目に戸締りし、重い荷物でのろのろと歩いて最寄駅まで何とか辿り着き、
そこから目的の駅に降りて、のろのろ乗り場まで歩いて無事に辿りついた時にはホッ、高速バス乗り場で小一時間待つ。
勿論、出発前に旦那にバスの到着時間を知らせ、病院で落ち合う事、
荷物については日頃、詰めが甘く、思慮が足りない事で文句を言ったら、「頼まなければよかった」と逆切れされた。
大体昨日危篤に近いと呼ばれて、「そんな事は無い」と手ぶらで行こうとして、ようやく説得してパンツや下着の替えを持たせたのだが、心から、
「危篤?そんな事なナイナイに、お前は医者かっ?」と突っ込みたくなるわ。
「私だけあんたの言いつけを聞いて、遅れて登場で、変に親族一同の前で悪目立ちするのも心配だわ。」と心の中で突っ込んでいた。

高速バス、行きの風景。
間に合うのか、そればかり思うバス亭

何故に彼岸花はお彼岸に一斉に季節を知るのであろう…


東京ドイツ村



亀山ダムだったと思う。






鴨川シーワールド


何と平和な光景と日常が延々と続くのか…。

さて、目的の病院が目の前に近づくにつれて私は、
危篤であったら旦那は出迎えには来れないであろうし、
もし出迎えに出て来れたなら、全てが終わってしまい、間に合わなかったのだと思う事にした。

病院に到着して、運賃を精算してふとドアを見ると旦那が出迎えに外に出ていた。
大荷物を「ありがとう」と受け取り、
私の顔を見るなり充血した目で「間に合わなかったよ、アイツ、逝っちゃったよ、」と口を塞ぎウッと涙を流した。



昨日の義兄の意識があった時の旦那の話であるが、
病室に駆けつけた旦那が眼にしたものは、ごった返した親戚と、
意識朦朧とし、口もろくに聞けないながらも、まだまだしっかりしようと努力している義兄の姿であった。
お義母さんは病人本人の前で「この子は死ぬんですーーーーっ、」の取り乱す大騒ぎで、
親戚にも「どうにかしろ」と旦那と強制退場した、旦那が義両親を実家に連れて帰ったのがこの世で最後の見納め、別れとなった。

義兄は弟が病室に入ってくるなりお義母さんの「今日、この子は死ぬんですーーーっ!」をBGMに、

弟に向かって力をふり絞って、ゆっくり一言、
「ま だ、ま だ、」と一言、言ったそうだ…。

その時点で最高血圧は80、下は測れない。最後まで生きるファイトを燃やしていた…。

その後意識が混濁していき、妻子が見守る中、夜中に酸素マスクが取り付けられ、
その後の生と死を乗り越える境が、息を殺し見守っている家族(二人は医療従事者)にすらもわからない瞬間であり、
朝の6時頃には多分、この世から脳死状態で静かに旅立っていったのだろう、
甥っ子1から待機の義両親、旦那の家族が来るように電話があり、(そして、そこからも親族にも連絡が行き、)
義兄は機械につながれている事で機械の力で生きているように見えただけになリ、8時に皆が揃ったところで即外され、
揃った皆の前で死亡宣告がなされた。
私が高速バスで出発した時にはこの世の人ではなく、
バスで到着した時は、その後の義兄の亡骸がエンゼルメイクのために病室から引き揚げたタイミングであった。

その後、テレビでも紹介されて有名な海の見える、天国に近い最上階の霊安室に、
義兄はとても綺麗にしてもらって運ばれてきて、私はそこで義兄と数か月ぶりに対面した…。
大勢の宗教のお友達と親族が一斉にすすり泣き、焼香の後に遺体に取りすがり、
お義母さんは多動であって、喋り出して止まらず、義父は逆にピクリとも椅子に座ったまま動かない。
義兄はまだまだ生きられそうな姿で寝ており、とうてい現実には思えない風景である。

私は弟に「ま だ、ま だ、(死なない、頑張る、生きるの意)」と言ったお義兄さんを、
生前は大の苦手だったのだが、泣ける、「いいお兄さんじゃないか!最高の兄貴だ!」と旦那に言った。

そして自宅への搬送の瞬間に、顔はドウランのようなものでメイクされていたが、
一瞬キャリーからめくれてしまった足の裏が、(そこまではさすがにメイクしていないので)
黄疸でありえない程の黄色だったのも見てしまった。
本当に、気持ち悪くても、だるくても、痛くても、最後まで肝性脳症まで生きようと頑張りぬいたのだ…。
その足の裏の黄疸一瞬で、闘い抜いた全てと、体の限界を納得出来た。

秋晴れの素晴らしい天気の中、
行楽で賑わう大海原の見える病室で、
お彼岸の日に一人闘いぬいて、すっと旅立ってしまったのだと実感した…。
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