在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

第32回「筑豊」から日本人と在日韓国・朝鮮人の歴史を訪ねる会(6月7日)に参加して

2015年07月12日 14時23分12秒 | Weblog
戦後50年の修学旅行
戦後50年、そして阪神・淡路大震災の年に高校生400人を2班編成で「筑豊・長崎」の修学旅行をしたのが少し前のように思うのに20年経ちました。筑豊を知る近隣の高校の先生から話を聞き、井手川泰子・石本シゲコ・上野英信さんの本を紹介されたのが筑豊を知る最初の本でした。
今考えると「やっちゃった!」かも知れない。どこにもお手本のない修学旅行ではまず自分たちが新幹線も止まったので、フエリーで筑豊へ通い、勉強することでした。事前学習、具体的な行程など「筑豊の強制連行を考える会」のおかげです。皆さまのご恩は忘れません。自分の故郷でイベントをするような感覚でした。学年の教師が協力し、生徒の学習委員会も一生懸命に取り組んでくれました。当初はいい顔をしなかった管理職も修学旅行当日はマスコミ各社の取材を受け、帰校したら「ありがとう、ご苦労さん」との言葉をかけてくれました。生徒や保護者から「学校の修学旅行でしかできない体験でした」と感謝の言葉を聞くと苦労が報われる思いでした。旅行社の依頼で観光バスガイドの資料を作成、出発前の直前研修に立ち会ったのは本当にいい経験でした。

・修学旅行後
炭鉱離職者の多い大阪に目をむけるようになりました。
1996年、貝島大之浦炭坑第3坑の朝鮮人寮の風呂場の窓から逃走した黄甲さんと筑豊訪問、小林文雄先生の案内で現地に立った時、黄さんは、17歳の青年に戻って走り出しました。お連れ合いの金元善さんとは故郷の韓国忠清南道の江景を訪ねました。
1998年、住友忠隈炭坑に強制連行された安承録さんと筑豊訪問、お連れ合いの故郷中間市も写真を撮りにまわりました。(病気で故郷に帰れなかったのです)
※「ピースおおさか」であった集会で黄さんと安さんは私を介して最初で最後の出会いをしました。お2人と談笑する私の写真が残っています)

・訪ねる会に参加し続けて
戦後50年から毎年のように訪ねる会に参加してきましたが、最初に「復権の塔」を案内してもらった時の感動は鮮やかに残っています。いろんなところで「慰霊碑」と名のつく碑がありますが、亡くなった人々の魂を慰めるのではなく「復権」だと思いました。
今年は、その運動に関わった井手川泰子さんの話をお聞きして碑に対する思いにふれることができました。
私は、読谷村に5年間アパートを借りていたので、2001年から沖縄愛楽園を何度も訪ね、故松岡和夫牧師から愛楽園は患者立だと青木恵哉(私の育った徳島出身)、服部団次郎の話を聞かせてもらいました。千石公園の「復権の塔」に出会い服部団次郎の話が出て「えつ、どんな関係?」と気になり、松岡牧師に尋ねたら『沖縄から筑豊へ』(服部団次郎)を教えてくれました。今回の訪ねる会から大阪に帰り、読みなおしてみました。
沖縄戦末期に本土へ引き上げた服部団次郎の胸の内を、そして1万個の名前を書いた石を埋めた「復権の塔」を追悼に終わることなく「人間性回復」を考え願う場にと大きな運動として建立したことに感動を覚えました。

・炭鉱映画上映会
先日7月4日に大阪市内のエルおおさかで「三池炭鉱閉山20年展」プレ企画の炭鉱映画上映会がありました。「炭坑」(1947年)、日本ニュース戦後編・炭坑関連ニュース(1945年~1948年)抜粋、「坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛から」(2013年)。
国策に翻弄された炭坑、戦後も経済発展のために増産政策、石油エネルギーへの転換、現在稼働している釧路コールマインの映像もありました。
「坑道の記憶」では、井手川さんを思い浮かべながらフイールドワークの復習をした思いです。その翌日5日に「明治産業遺産」の世界文化遺産登録が決まったとの報道。
そのニュースを聞きながら安承録さんと一緒に大阪・和泉市のお宅を訪問したことのある
吉田一郎(曹順化・1923年7月15日生)さんを少しでも皆さんの記憶に残さねばと思うようになりました。             

吉田一郎(曹順化・チョ・スナ)さん              
1943年に筑豊山田の炭鉱へ強制連行された
月夜の寒い夜に3,4人と1度逃走するが捕まってリンチを受ける
戦後宮崎高千穂砂防堰堤工事で同胞の親方の豊田さんに出会った
2007年1月18日の夕方、彼は、大阪府の南部・岸和田市の老健施設で息を引き取った
(2007年1月19日の告別式に参列した夜に書きなぐった文章を思い出しました)

「降ろされたのは飯塚駅、駅から遠かったよ」と吉田さん
「吉田さんのコヒャンは?」と私
「ワンド」「ワンド」と吉田さん
彼の故郷は全羅南道莞島から船で三時間の小島
全体で20戸くらいの漁村

跡継ぎの兄の身代わりに強制連行された
それは1943年頃だと言う
官斡旋方式の強制連行は小さい島にも及んだ
彼の本名はチョ・スナ

朝鮮語も日本語も読み書きせず
彼の貯金通帳をつくった同胞の親方のおかみさんは
書きやすい「吉田一郎」と彼の日本名をつけた
50年以上親方と人生を共にした歴史
親方と出会ったのが宮崎県高千穂の砂防ダム工事現場。
和泉市に住むようになった親方を和歌山の飯場から訪ねて来た吉田さん
親方が説得し厚生年金の掛金を給料から天引き
おかげで在日一世では珍しく厚生年金に加入していた彼
でも厚生年金がよく理解できない吉田さん
何度も、文句を言ったとか
「なんでお金引いているのや?」

朝夕涼しくなった昨年9月
自宅で倒れたままの2日間
夜にもカーテンが揺れ、窓のしまらないのを不思議に思った階下のNさんが119番
府中病院に友人のYさんと見舞ったが熱が高く苦しそう
「民生委員でないあなたたちに病状を知らせられない」と看護師

肺炎をおこし再起できないとの情報を聞く
でも、回復し元気になって春木のA病院の老健施設にうつることができた
それが昨年12月

吉田一郎さんが亡くなってもお通夜はなかった
1月19日の今日、10時から和泉市北部コミュニテイーセンターで会葬者9人とのお別れ
小さな告別式
祭壇に写真はない
お棺にお酒、お花を入れる
1人が何回も何回もお花を入れる
お棺に納められたあまり手をとおしてない背広
「十津川林道工事完成後、新宮に遊びに行った時自分が買ってやったもの」と親方

告別式後、親方夫妻から思い出話を聞く
そこで初めてわかった話
吉田さんの連れて行かれた炭坑は「山田市の炭坑」

冬の寒い月の夜、朝鮮人寮で逃走の相談がひそひそと行われていた
吉田さんも同行を決める
強制連行の通過駅「折尾駅」
恐怖の折尾警察につかまってしまう
連れ戻され木刀で殴られ
半殺しの目に遭う
彼の在日を生きる原点の地
炭鉱で栄えた山田市も今では人口1万人の小さな市

生涯家族をもたず、孤独に生きた彼
日本という国を知らしめてくれる歴史

本名は曹・順化(チョ・スナ)さん
法名は釈一念
眠るのは天王寺の一心寺

眠る前に
和泉の風に舞い
風にのって祖国の空を周遊し
生まれ育った小島を眺め
先に旅立った父母と手を取り合って再会をと祈る

強制連行した国に生きるわたし
たった1つできること
在日の方の証言を残し
自分の国と向き合わねば

訪ねる会では井手川さんから直方市の鉱夫の像、鞍手町石炭資料展示場・鞍手町歴史民俗博物館建設、復権の塔建立に対する熱い思い、「やると言ったらやる」実行力を肌で感じながら朝からずっと説明に聞き入りました。お聞きしてから帰り、今も延長線上に思索する日々です。ありがとうございました。
「石にしがみついても長生きしましょう」と握手して下さった温もりを大事にします。
歴史が風化し、私たちが忘れることを望む声が聞こえてきます。歴史を掘り起し、語り継ぐことがたたかいだと確信した筑豊への旅でした。
・追伸
筑豊から宮崎へと高速道路を走り、吉田一郎(曹順化)さんが働いた高千穂、そして旧南郷村(現在美郷町南郷)・「百済村」をまわって宮崎港から帰路に着きました。いい旅でした。

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