『 たけのこを求める ・ 今昔物語 ( 9 - 2 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字。「呉」らしい。]の御代、江都(ゴウト・江蘇省の都市)に孟宗(モウソウ・254 年没)という人がいた。彼には父はなく、母だけがいた。
孝養の心が深く、老いた母を養っていたが、粗雑にすることなどなかった。その母は、歳を重ねて、笋(タカムナ・たけのこ)がなければ食事をしなくなった。そこで、孟宗は、長年の間、朝夕の食事に笋を添えるためにいろいろ探し求めて欠かすことがなかった。
笋が出回っている時期は求めるのは簡単だった。しかし、その時期が終ると、あちらこちらと走り回って、掘り出しては母に食べさせた。
ところが、ある冬の頃、雪が髙く降り積もり、地面が固く凍り付き、笋を掘り出すことが出来なかった朝、母に笋を準備することが出来なかった。その為、母は食事の時間を過ぎても、食事をすることなく、嘆きながら座っていた。
孟宗はその姿を見て、空を仰いで嘆き、「私は、長年の間、母を養うために、朝夕に笋を求めて探し回り、欠かすことがありませんでした。ところが、今朝は、雪が高く積もり地面は凍り、笋を求めることが出来ませんでした。その為、母は、食事の時間を過ぎても、食事をしようとはしません。老いた体なので食事をしなければ、きっと死んでしまうでしょう。今日の笋を準備できないとは、何と悲しいことか」と言って、激しく泣き悲しんだ。
その時、庭の中を見ると、突然、紫色をしたみずみずしい笋が三本、自然と顔を出した。孟宗は、これを見て、「私の孝養の心が深いがゆえに、天が憐れんでお与え下さったのだ」と思って、喜んでこれを採り、母にこれを与えると、母もまた喜んで、いつものように食事をした。
これを聞いた人は、孟宗の孝養の深いことを貴び誉め称えた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 木像の母 ・ 今昔物語 ( 9 - 3 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字。「漢」が該当する。]の御代、河内(カダイ・河南省の黄河以北の地域。)に丁蘭(テイラン・前漢の人)と言う人がいた。幼少の頃に、その母は亡くなっていた。
十五歳になった時、丁蘭は母の姿を恋しく思い、工(タクミ)に相談して、木でもって母の像を造らせて、帳(チョウ・帳台。高い台の四隅に垂れ絹をしつらえた間。)の内に置いて、朝夕に供給(クギョウ・食膳を供えること。)すること、生きている時のようであった。本当の母親に接するのと変わらなかった。
朝に出掛けていく時には、帳の前に行って出掛ける旨を告げた。夕に帰ってきた時には、帰って来たことを告げた。そして、今日あった事を必ず語って聞かせた。世間で起きたことを語らないということがなかった。
このようにして、熱心に孝養を尽くし、すでに三年が過ぎたが、丁蘭の妻は性格が悪く、常に丁蘭の行いを嫌って憎らしく思っていた。
ある時のこと、丁蘭が外に出掛けている間に、妻は火で以て木の母の像を焼いた。
丁蘭は夜になって帰ってきたが、木像の母の顔を見なかった。その夜、丁蘭の夢の中で、木像の母自らが丁蘭に、「お前の妻が、私の顔を焼いた」と語った。
夢から覚めて不思議に思い、朝になって行って見てみると、木像の母の顔が焼けていた。
これを見て後、丁蘭はその妻をいつまでも憎み、愛情を注ぐことがなくなった。
また、ある時、となりの人が丁蘭に斧を借りたいと言ってきた。丁蘭は木像の母にこの事を伝えると、木像の母はあまり良い顔をしなかったので、斧を貸さなかった。
隣の人は大いに怒り、丁蘭が外に出掛けている隙を狙って、密かにやって来て、太刀で以て木像の母の片腕を斬った。血が流れ出て、床に満ちた。
丁蘭が帰ってくると、帳の内から痛がる声が聞こえた。驚いて帳の内を開いて見ると、赤い血が床の上に流れていた。
怪しく思って近寄って見ると、木像の母の一つの腕が斬り落とされていた。丁蘭はこれを見て、泣き悲しみ、「これは、隣の人の仕業だ」と思って、すぐに隣家に行き、首を斬り落して、母の墓に祀った。
その時、国王はこれを聞いて、その罪を罰するべきであるが、孝養のためであるということによって、その罪を問わずして、丁蘭に禄位(ロクイ・俸給と官位)を与えた。
されば、堅い木に過ぎないといえども、母と思って孝養を尽くせば、天地は感じ取られるのである。赤い血が木像から流れたのである。孝養が深いがゆえに、殺人の罪を免れて、返って喜びを得たのである。
されば、孝養の貴き事は永く伝えられ朽ちることがない、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 我が子を殺して継子を守る ・ 今昔物語 ( 9 - 4 ) 』
今は昔、
震旦の魯洲(ロシュウ・春秋時代の国。孔子の出身地。)に兄弟二人の人がいた。一人は母の子で、一人は父の子である。
その父の子は、幼少にして父母共に死んでしまった。そのため、弟の母に弟と共に孝養を尽くした。
母の子が母に孝養を尽くすのは当然のことである。ところが、父の子が弟の母(継母にあたる)に孝養を尽くすこと、実の母に対するものより勝っていた。
ある時、隣の家の人が、酒に酔ってその家にやって来て、その母を罵り辱めた。
すると、この二人の子は、それを聞いて、この罵る隣の人を咎めて殴りつけたが、やがて打ち殺してしまった。
子供は、犯した罪は重いが、母を思う気持ちからなので、逃げようとはせず門を開いたまま家にいた。間もなく、役人がやって来て、この二人の子を捕らえて、殺そうとした時、兄は役人に、「この男を殺したのは、私がやったことです。速やかに私を殺しなさい。弟は何の罪もありません」と言った。
すると弟は、「兄は、決して殺していません。この男は、私が殺したのです。ですから、私を殺しなさい」と言う。
このように、二人は互いに命を失うことをかばい合った。
役人は、二人の申し出を聞いて、不審に思い、すぐにこの罪を確定させることは出来ず、帰って、国王に事の次第を申し上げた。
国王は、「その母を召し出して詰問すべきである」と仰せられたので、母に伝えると即座にお召しに従って参上した。
役人は、「お前の子供は、どういうわけで、たちまち命を失うことを互いにかばい合って、命を惜しまないのか」と訊ねた。
母は、「この罪は、全てわたしにあります。あたしが、子に命じて殺させたのです」と答えた。
国王は、刑罰の法には、情状の余地はない。お前が子らの罪を肩代わりすることは出来ない。ただ、その子二人を殺すべきである。但し、一人を殺し、一人を許すことにする。お前は、いずれの子を愛し、いずれの子を憎んでいるか」と仰せられた。
母は、「この二人の子のうち、弟はわたしの子です。兄は父の前の妻の子です。その父が死ぬ時、妻になっていたわたしに、『この我が子には母がいない。我もまた死なんとしている。身寄りがなく頼る所もない。我は、死に臨んでこの事を思うにつけ、心が安まらない』と言いました。わたしは、『わたしはあなたの言葉に従いまして、この子をおろそかにすることなく、実の母のように育てます。あなた、どうぞこの事でこの世に執心を残さないで下さい』と申しました。父は、わたしの言葉を聞いて、喜んで死にました。ですから、その言葉を誤る事がないように、わたしは、我が子を殺して、父の子を許していただこうと思います」と申し上げた。
すると国王は、母が答えるのを聞いて、約束を忘れていないことに感激して、全員をお許しになった。母もまた喜んで、二人の子を引き連れて家に帰っていった。
まことに、亡き夫との約束を違えることなく、我が子を殺して継子を守ろうという心は、そうそう有るものではないと、聞く人は皆感激し誉め称えた、
となむ語り伝へたるとや。
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『 虎にも慈悲の心 ・ 今昔物語 ( 9 - 5 ) 』
今は昔、
震旦の会稽洲(カイケイシュウ)という所に、楊威(ヨウイ・伝不詳)という人がいた。幼少の頃に父が亡くなっている。
その為、母と共に家にいて、母に誠心誠意孝養を尽くした。
楊威は、極めて貧しく、孝養の志が深いといっても、母に十分尽くすことが出来なかった。
ある時のこと、楊威は山に入って薪を採って、母に尽くそうとしたが、突然虎が現れた。虎は、楊威を見るや、襲いかかろうとした。
その時、楊威は、虎の前に跪(ヒザマヅ)いて泣き悲しんで言った。「私の家には年老いた母がおります。私一人で、衣食の世話をしております。私以外に世話をする子はおりません。もし、私がいなくなれば、母は、きっと餓死してしまいます。願わくば虎よ、慈悲の心でもって、私を喰い殺さないで下さい」と。
すると、虎は、楊威の言葉を聞いて、目を閉じて頭を低く下げると、楊威をそのままにして去って行った。
楊威は家に帰って思った。「今日、虎の難を遁れることが出来たのは、ひとえに私の孝養の心が深いがゆえに天がお助け下さったのだ」と思って、ますます老いた母に孝養することを怠ることがなかった。
これを聞く人は、皆、「畜生といえども、孝養の心に感動して、危害を加えることなく楊威を棄てて去って行ったのだ」と褒め感激した、
となむ語り伝へたるとや。
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『 母の形見の扇 ・ 今昔物語 ( 9 - 6 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字。地名などと考えられるが不詳。]張敷(チョウフ・女人となっているが、男かも知れない。)という女人がいた。生れて一歳の時に、その母は亡くなった。
その後、張敷は成長して、やがて二十歳になった時、家の人に尋ねた。「他の人は皆、母がいる。どうして、わたしだけ、母がいないのですか」と。
家の人は、「あなたは知らなかったのですか。あなたの母君は、あなたが生れて一歳の時に、若くしてお亡くなりになりました」と答えた。
張敷は、それを聞いて涙を流して悲しみ、「悲しいです、わたしは、母にお会いできないことが。ただ、わたしの母が生きていらっしゃった時、わたしのために残して置いて下さった品物でもあるのでしょうか」と言った。
家の人は、「絵が描かれた扇が一つあります。これは、あなたの母君が生きていらっしゃった時、『あの子が成人した時に、渡して下さい』と言って、納め置いた物です」と言って、扇を取り出して与えた。
張敷はその扇を見て、ますます泣き悲しんで、母を恋しがること限りなかった。
それから後は、毎日この扇を取り出して見ながら、涙を流して恋い悲しみ、見た後は、玉の箱の中に納め置いた。張敷は、母の姿を覚えておらず、母の恩も知らないと言えども、自然に母とのつながりを知って、ひたすらに恋うる心が深まった。
姿を見、言葉を聞いていてさえ、年月を経ると共に親子の契りを忘れていくことは世の常である。ところが、張敷は常に扇を見て、忘れることなく一生の間恋い慕ったのである。
この事を聞く人もまた、張敷を誉めなかったり哀れに思わないと言うことはなかった、
となむ語り伝へたるとや。
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『 父の後を追う ・ 今昔物語 ( 9 - 7 ) 』
今は昔、
震旦の会稽州に曹娥(ソウガ)という女人がいた。その父は、管弦を好みそれを楽しむのを日常にしていた。いつも友人に誘われては、外出して遊び回っていた。
ある時のこと、曹娥の父は、遊女たちに連れられて入り江に行き、船に乗って遊んでいたが、突然船が重心を失い、水中に沈んでしまった。その為、曹娥の父や船に乗っていた人は皆、水中に沈んで死んでしまった。浮かび上がった屍体は全くなかった。
その時、曹娥の年は十四歳であった。この事を聞いて、入り江に行き、父を恋しと泣き悲しむこと七日七夜に及び、大声で泣き叫び、その声は途切れることがなかった。しかしながら、その屍体さえも見ることが出来なかった。
そして遂に、曹娥は七日経ったところで、自らの衣を脱いで、祈願して、「わたしが、もし父の死骸を見ることが出来るのであれば、今この入り江に投げ入れるこの衣は沈んで下さい。出来ないのであれば、沈まないで下さい」と言って、入り江に衣を投げ入れた。すると、その衣は沈んでいった。
それを見て、曹娥もまた、自ら身体を水中に投げ入れた。
されば、子にとって、父母が死んで恋い悲しむことは、当然の事とはいえ、命まで棄てることはそうそう有る事ではない。
それゆえ、この事を見聞きした人は、曹娥を哀れに思い、また珍しい事だと思った。
また、その県の長官は、この事を聞いて、「奇特な事だ」と思って、曹娥の為に、その場所に碑文を立てて、末永くその孝養の深いことを示した、
となむ語り伝へたるとや。
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『 虎の命を守る ・ 今昔物語 ( 9 - 8 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字。地名が入るが不詳。]に、欧尚(オウショウ・伝不詳)という人がいた。
幼少の時から孝養の心が深く、父母に奉仕すること限りなかった。その父が死んだ後、欧尚は父の墓所に庵を造って住み、朝暮に父を恋い悲しんだ。
ある時、一頭の虎が山から出て来たので、郷の人はこれを見つけて、多くの人が、ある者は鉾を採り、ある者は弓箭を持って追いかけ、虎を殺そうとしたので、虎は追い回されて遁れる道がなくなり、命を守るために、欧尚の庵に走り込んだ。
欧尚はその虎を見て哀れに思い、虎を隠すために着物を脱いで虎を覆って、虎を隠した。すぐに、郷の人たちが虎を追って庵にやって来て、ある者は鉾で以て突かんとし、ある者は弓で以て射ようとしながら、「さっきの虎は、確かにこの庵に入ったはずだ」と言う。
欧尚は、「私は、虎を隠してなどいない。虎というものは悪い獣である。私も一緒になって殺すでしょう。それなのに、私が虎を隠すことなどありませんよ。虎は決してこの庵には来ていませんよ」と言って、虎を差し出さなかった。
郷の人たちは、これを聞いて、皆帰っていった。
その後、日暮れになって、虎は庵を出て山に入っていった。
その虎は、この恩をよく覚えていて、いつも欧尚の庵に死んだ鹿を持ってきた。その後、欧尚は自然と富貴な身になっていった。その原因は他にはなく、ひとえに孝養の心が深いからであり、また、生命を害しようとするのを助けたことによって、天がお授けになった富貴だと分かる。
されば、父母に孝養を尽くすということは、天が感激なさることである。不孝の人を、天は、皆、憎まれるのである。また、人は、生命が害されるのを見た場合には、必ず助けるべき事なのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 父を捜すこと七年 ・ 今昔物語 ( 9 - 9 ) 』
今は昔、
震旦の蜀郡の城都(ジョウト・都)に禽堅(キンケン)という人がいた。その人の父は信(シン)という。県の役人であった。
信の妻は、禽堅を懐妊して七か月になる頃、夫の信は、勅命を承(ウケタマワ)って夷域(エビスノサカイ・東方の遊牧民の地域。)へ行った。
夷は信を捕らえて、奴隷としてこき使った。信は家に帰ることが出来ず、朝暮に故郷を恋しがって泣き悲しむこと限りなかった。
やがて、十一年が過ぎた。信の妻は、故郷において月満ちて禽堅を生んだ。(時間経過がおかしいが、原文のまま記した。)
その後、妻は夫が帰って来ないことを嘆き悲しんでいたが、遂に他の男のもとに嫁いだ。
ところが、禽堅が九歳になった時、母に向かって父の居場所を尋ねた。母は、「お前の父の信は、お前が生れた年に、勅命を承って夷域へ行きました。ところが、夷に捕らわれて、生きているのか死んでしまったのかさえ分からなくなりました。たとえ生きているとしても、その所への道は遙かに遠く、会うことは出来ないでしょう」と答えた。
禽堅はこれを聞いて、涙を流して泣き悲しんで、父の居場所に尋ねて行こうと思って、遙かなる国境に向かって行ったが、その道は遠く、身体は疲れ食糧も尽きてしまったが、七年をかけて遂に父がいる所に至った。
禽堅は、父に尋ね会うことが出来ると、「私は、あなたの子です。母が私を懐妊して未だ生れない間に、あなたはこの地に赴かれました。私は生れて後、世間のことが分かるようになって、あなたを尋ねて、堪え難き道を懸命に、七年をかけて来ることが出来たのです」と語った。
父は我が子を見て、言葉を出すことも出来ず、ただ手を取って涙を流して感激すること限りなかった。また、その所にいる人も、この様子を見て、涙を流して感動し哀れに思った。
すると、夷の王の帳(王の名前となっているが、原文の誤訳らしい。)は、これを見て慈悲の心を起こして、信を解き放って帰らせた。それだけでなく、食糧なども与えた。
そこで、信は喜んでこの禽堅と共に故郷に帰った。その距離は五万里である。
山は険しく、河は深い。虎狼などの獣が、時を選ばず人を襲う。その為、行き交う人と出会うこともなかったが、禽堅は天地に祈り誓願して、遂に数年をかけて本の郷に帰り着いた。
これを聞いた人は、「珍しい事だ」と思った。親族や朋友たちは大変喜んだ。禽堅の孝養の心が深いがゆえに、父を故郷に帰らせることが出来、親族・朋友らと再会することが出来たのである。
また、母を迎えて、父と共に住むようになり、以前の生活に戻った。
されば、世間の人々は挙って禽堅を誉め尊んだのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 烏が土塊を運ぶ ・ 今昔物語 ( 9 - 10 ) 』
今は昔、
震旦の東陽という所に、顔烏(ガンウ・伝不詳)という人がいた。幼い時から孝養の心が深かった。
ある時、その父が亡くなった。顔烏は、父の葬儀を行い、墓を築こうとしたが、たった一人で土を背負って運び、決して他人の力を借りようとしなかった。その為、墓はなかなか完成しなかった。
すると、天地は顔烏の行いを助けようとした。たちまちのうちに千万の烏がその場所に集まってきて、それぞれが土塊(ツチクレ)を咥えて、顔烏が墓を築いている所に置いた。
これによって、墓は思い通りに早々と完成した。ただ、顔烏がその烏たちを見ると、どの烏も口から血が出ていた。その為、咥えて運んできた土塊には皆、血が付いていた。
この事を見聞きした人は、これを「不思議なことだ」と思い、孝養の心の深いことを貴んだのである。これによって、その県を、烏陽県(ウヨウケン)と名付けられた。その後、王莽(オウモウ・「新」を建国した人物。西暦 23 年没。)の御代に、烏孝県(ウコウケン)と改められた。
孝養の心が深いことを烏が示したので、烏孝県と言うのである、
となむ語り伝へたるとや。
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『 母の老いを悲しむ ・ 今昔物語 ( 9 - 11 ) 』
今は昔、
震旦の宗の御代に、韓の伯瑜(カンノハクユ・伝不詳)という人がいた。まだ幼い時に父が亡くなった。
その為、母とともに家にいて、大切に母の世話をしたが、伯瑜に少しでも落ち度がある時には、母は激しく怒り、杖で伯瑜を打って叱りつけた。伯瑜は、杖で打たれて体が痛かったが、じっと耐えて、泣くことはなかった。こうした事は、日常的に起った。
やがて、母は年老いて体も衰えてからは、杖で打たれても痛くもなかった。すると、伯瑜は、杖を抱えて泣いた。
母は、その様子を不思議に思い、伯瑜に訊ねた。「わたしは、長年の間、いつもお前を杖で打ってきたが、お前が泣くことはなかった。ところが、今、どうしてわたしの杖を受けて泣くのか」と。
伯瑜は、「長年の間、私は母上の杖で打たれて、体の痛みを懸命に耐えて、泣くことはありませんでした。ところが、今日は杖を受けても、杖が当たる所の力が強くなく、今までと全く違います。母上が年老いて力が衰え弱くなられた為だと思うと悲しく、泣いてしまいました」と答えた。
その時、母はこれを聞いて、「私に杖で打たれてその痛さに泣くと思っていたのに、私が年老いて力が弱くなったのを悲しんで泣くのか」と知って、伯瑜をしみじみと大切に思うこと限りなかった。
これを聞いた人は、伯瑜の心を讃え感動したのである。
孝養の心が深いがゆえに、わが身の痛みを忍び、母の力の弱ったことを悲しんだのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆