『 ノーベル平和賞メダル 140億円 』
ロシアの新聞社の編集長が受賞した
ノーベル平和賞のメダルが ニューヨークで競売にかけられた
落札額は およそ 140億円
驚きの金額だが ウクライナ情勢の影響もあるのだろう
売却で得た資金は ユニセフに寄付されるそうだ
平和の象徴とも言える 平和賞のメダルだが
大金に変わり 平和な活動に利用され 感動だが
その背景にあるのが 悲惨な戦乱であることに
胸が痛む・・・
☆☆☆
『 能登半島で強い地震が連続 』
能登半島で 強い地震が続いている
幸い 深刻な被害は発生していないが
地域の方々は 不安なことだろう
お見舞い申し上げます
この地域では 四年ほど前から 地震活動が活発で
2020 年 12 月以降で 震度 1 以上だけで 150 回以上発生しているそうだ
断層でも火山活動によるものでもなく 地殻変動の可能性もあるらしい
いずれにしても しばらくの間は続きそうなので
対応は限られるとしても
くれぐれも ご注意下さい
☆☆☆
『 山かくす春の霞 』
東の方より京へまうでくとて、道にてよめる
山かくす 春の霞ぞ うらめしき
いづれ都の さかひなるらむ
作者 おと
( 巻第九 羈旅歌 NO.413 )
やまかくす はるのかすみぞ うらめしき
いづれみやこの さかひなるらむ
* 歌意は、「 山にかかってその姿を隠している 春の霞こそ 憎らしい どちらが都なのか 分からないでしょう 」といった、旅の途中で春ののどかな景色を詠んだものでしょう。
なお、「まうでく」は「上ってくる」。「さかひ」は「ここでは、『あたり』といった意味」です。
* 作者の おと(乙 ?)は、平安時代初期の女性ですが、その経歴等については、ほとんど調べることが出来ませんでした。
ただ、父は壬生益成(ミブノマスナリ)という人物なので、この人の情報を追ってみました。
* 益成は、甲斐国の巨摩郡を本貫地としていたようで、甲斐国造の氏族にあたるとの記録もあるようですが、はっきりしません。生没年は、( 830 - 897 )と伝えられています。
いつから朝廷に出仕したのかは分かりませんが、879 年に左近衛将曹(サコンエショウソウ・従七位相当)に就いています。五十歳の頃の事ですから、貴族とは縁のない下層の官人だったのでしょう。
それでも、その後も昇進しており、887 年には遠江の介についています。介は守に次ぐ役職ですから、次官に近い重職だったことでしょう。
そして、この間の 887 年に「外従五位下」に昇っています。「従五位下」といえば、殿上人への最低基準にあたる地位ですから、かなりな出世といえますが、「外」が付きますと、都出身の貴族や官人と区別されていて、地方出身の官人に与えられた地位で、四位以上に昇るということはなかったようです。そうとはいえ、地方出身の官人としては大出世だったのではないでしょうか。
* 益成は、882 年に、それまでの本貫地である甲斐国巨摩郡から山城国愛宕郡に移っています。当然、自分の都合だけで出来ることではないでしょうから、おそらくは、かねがね希望していたことだったのでしょう。
そしてこの時、七人の子供たちを引き連れて移ったとされています。益成が五十三歳の頃ですから、子供の何人かは、すでに成人に達していたことでしょう。もしかすると、本歌の作者である「おと」も、この時同道していて、この和歌を詠んだのではないかと想像するのです。当時の一般女性が、甲斐国から都に向かうことなど、そうそうなかったでしょうから、突飛な想像ではないと思うのですが、どうでしょうか。
* 「おと」に関する情報や、他の和歌などを見つけ出すのは、私などでは困難でした。それほど多くの情報は記録されていないということだと思うのですが、そうだとしたら、どういう経緯でこの和歌が古今和歌集に選ばれているのでしょうか。
考えられることは、古今和歌集の撰者の一人に、壬生忠岑という人物がいますが、この人も甲斐国出身で同族であることは確かなようです。不確かですが、忠岑は益成の孫という説もあるようです。おそらく、忠岑の推挙があったのではないかと考えられるのです。
* 壬生忠岑の歌人としての評価は極めて高いものですが、官人としての地位は、益成より低いものでした。
しかし、「おと」が生きた時代、華やかな宮廷とは縁のない場所でも、和歌の上手が学び合い披露し合うような場所があったのではないかと思うのです。「おと」も、掲題歌を越えるような和歌をたくさん詠んだのでしょうが、残念ながら、今日に伝えられていないだけなのでしょう。
そう考えると、当時の文化的な発展は、一握りの貴族層やその周辺の人々に限ったものではなく、現在私たちが考えるより遙かに広がっていたのではないかと想像できるのです。
☆ ☆ ☆
『 夏は ほんの序の口 』
今日は 多くの地点で 真夏日が観測された
当地も 温度もさることながら 湿度が高く
個人的な不快指数は 100%を大きく越えてしまった
とはいえ まだ夏至も迎えておらず
夏の位で言えば まだまだ ほんの序の口
本番前に 熱中症対策の 完全習得に努めねば
とは思うが 早くも負けそう・・・
☆☆☆
『 各党首が大見得 』
参議院選挙に向かって 各党首が大見得
これ どう考えても 選挙活動そのものに見える
ルール上 問題はないのだろうが
告示日とか 選挙活動期間とかは
どれほどの意味が あるのだろうか
まあ それはともかく
各党首が 折角大見得を切っているのだから
言いっ放し なんてことがないことを ひたすら祈ろう
☆☆☆
『 魂が行き交う ・ 今昔物語 ( 31 - 9 ) 』
今は昔、
常澄安永(ツネズミノヤスナガ・伝不詳)という者がいた。
この者は、惟喬親王(コレタカノミコ・文徳天皇の第一皇子)と申される人の下家司(シモケイシ・親王家や公卿家に仕える者のうち下級の者。六位、七位ぐらい。)であった。
この安永がその親王の封戸の租税を徴収するために、上野国に出掛けた。そして、数か月して帰京の途につき、美濃国の不破の関で宿をとった。
ところで、安永には京に年若い妻がいたが、何か月か前に上野国に下る時から、留守中のことが大変気がかりであったが、ここにきて急に恋しくてたまらなくなったので、「いったい何事があるのだろう。夜が明ければ、すぐに急いで出掛けよう」と思って、関守の番小屋で横になっているうちに、寝入ってしまった。
すると、安永の夢に、京の方より松明を灯した者がやって来るのを見ると、童が松明を灯して女を連れている。「何者がやって来るのか」と思っていると、自分が寝ている番小屋のそばまで来たのを見ると、童が連れている女は、京にいる自分が心配している妻だった。「いったいどういう事なのだ」と不思議に思っていると、自分が寝ている所と壁を隔てた部屋に入った。安永はその壁の穴から覗いて見ると、その童は我が妻と並んで座ると、妻は鍋を取り寄せて、飯を炊き、童と共に食べ始めた。安永はそれを見て、「何と、我が妻は自分がいない間に、この童と夫婦になっていたのだ」と思うと、肝が潰れ、とても冷静ではいられなかったが、「こうなれば、どうするのか見ていてやろう」と思って見続けていると、やがて食事が終ると、我が妻とこの童の二人は抱き合って横になり、そのまま男女の交わりをする。
安永はそれを見ると、たちまち嫉妬の心が起こり、その部屋に飛び込んでみると、その部屋には灯りもなく、誰もいない・・、と思ったところで、夢が覚めた。
「ああ、夢だったのか」と思うと共に、「京で何が起こっているのか」と、ますます気掛かりになりながら、横になっているうちに夜が明けたので、急いで出立し、夜も昼も休むことなく京に帰り、家に駆けつけてみると、妻には何事もなかった。
安永は、「よかった」と安心していると、妻は安永を見て微笑みながら、「昨日の夜の夢に、『ここに見知らぬ童がやって来て、わたしを誘い出して、二人一緒にどことも知れない所に行き、夜に火を灯して、空いた部屋があったので入り、飯を炊いて童と二人で食べた後、一緒に寝ましたが、そこに突然あなたが現れましたので、童もわたしも大騒ぎしました』と思いましたところで夢が覚めました。そこで、あなたに何かあったのではと気掛かりでしたが、このようにご無事にお帰りでした」と言うのを聞いて、安永は、「私も然々の夢を見て、気掛かりに思い、昼夜を問わず急いで帰ってきたのだ」と言ったので、妻もそれを聞いて、不思議なことだと思った。
これを思うに、妻も夫もこのように、同じ時に同じような夢を見たのは、まことに驚くべきことである。これは、お互いに同じように「気掛かりだ」と思っていたので、このように夢を見たのであろう。あるいは、魂が行き交って見たのであろうか。合点のいかないことである。
されば、旅に出掛ける時には、たとえ妻子のことであっても、やたら不安に思ってはならないのである。こんな夢を見ると、魂が消えてしまうほど心配になるものだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 スイスも金利引き上げ 』
アメリカの政策金利が 急激に引き上げられ
多くの国が追随していることが 話題になっているが
スイス国立銀行(中央銀行)が 0.5%引き上げたことには
驚かされた
15年ぶりのことで 世界的なインフレが懸念されている証拠と言える
唯一わが国は 0金利に金融緩和継続を掲げており
わが国のことながら 「お手並み拝見」といった気持ちだ
もっとも スイスの場合は 0.5%引き上げても
まだ マイナス0.25%なのだから
この国の金融力は 次元が違う
☆☆☆
『 差がつきすぎた 』
米連邦準備制度理事会(FRB)が
政策金利を 0.75%の引き上げを決定した
物価上昇を 何としても抑えようとの 意思表明と言えるが
依然 「0金利・ジャブジャブの金融緩和」を続けているわが国とは
金利差が余りにも開き 円安も進んでいる
わが国の消費者物価も めでたく上昇が2%を越えつつあるので
為政者は 万々歳だということなのだろうか
「悪い物価高」だとか 「悪い円安」だとか
わけのよく分からない説明よりも
他国と比べた場合の 経済指標の悪さを認め
根本的な見直しを 行って欲しい
但し 「もっと物価上昇を」なんてのは 駄目ですよ
☆☆☆
『 いよいよ参議院選挙 』
国会は 本日で閉会
いよいよ参議院選挙に 突入する
6月22日告示 7月10日投開票が決定
今回の一番の争点が 何になるのか知らないが
防衛問題・軍備力増強が 争点になり得るのか
興味深い
この選挙のあとは しばらくは国政選挙はないので
与野党共に 大きな意味を持っているように思う
☆☆☆
『 哀れ 小中将の君 ・ 今昔物語 ( 31 - 8 ) 』
今は昔、
女御の御許にお仕えしていた若い女房がいた。小中将の君(伝不詳。「紫式部日記」に同名の人物が登場するが、関係は不詳。)と呼ばれていた。
容姿端麗で、気立ても悪くなかったので、同僚の女房たちは皆、この小中将の君に好意的であった。
これといった定まった男はいなかったが、美濃守藤原隆経朝臣(フジワラノタカツネノアソン・生没年未詳。1071年頃、美濃守であったらしい。)が時々通ってきていた。
ある日、この小中将が薄紫色の衣に紅の単衣を着て、女御の近くに伺候していたが、やがて夕方になり、御燈台に火が灯されたが、その火に、この小中将が薄紫色の衣を着て立っている姿形が少しも変わらず、袖で口を覆っている目許、額つき、髪の垂れ具合などが露ほども違わず映っているのを、女房たちは「何とよく似ていること」などと言って騒ぎ合ったが、この女房たちの中には、こういう折の対応が出来る年配者がいなかったので、只集まっておもしろがって見ているうちに、灯心を掻き落としてしまった。
その後で、女房たちが「こういう事があったのですよ」と小中将に話すと、「まあ、どれほど卑しげでひどい女だったのでしょうね。すぐに掻き消さないで、いつまでも見ていたなんて恥ずかしいことですねぇ」と言った。
その後、年配の女房たちがこれを聞いて、「あれは[ 欠字あるも、不詳。]なる物を。あの若い娘たちは、私たちにこうだと告げないで、掻き落としてしまうなんて」と言ったが、どうすることも出来ないで終った。
それから二十日ばかり経った頃、この小中将はこれといった原因もなく、風邪(現在の風邪より、範囲が広かったようだ。)を患って、二、三日は局で寝ていたが、やがて「苦しい」と言って自宅に退出した。
さて、隆経朝臣は、ちょっとした用事があって、知人の所へ出掛けようとして、女御の御部屋に参上したついでに、[ 欠字。「局の名前」か? ]を尋ねると、「ただ今は、里に退出されています」と大盤所(ダイバンドコロ・食物を調理する所。)の女童が言ったので、すぐに女の家を尋ねた。
七日、八日頃の月が西に傾く頃であったが、西向きの妻戸の内側に小中将が出ているので、隆経は妻戸を押し開いて入り、「明け方には出掛けなければならないので、その旨だけを告げて帰ろう」と思っていたが、この小中将を見ると、いつにも増して身にしみて愛おしく思われる上に、小中将も心細げな様子で、少し具合が悪そうなので、隆経朝臣は一旦は帰ろうと思ったものの、留まることにして共寝した。
夜もすがら語り明かし、明け方に帰るのも小中将が恋しそうにしているのを振り切って出てきたが、隆経は我が家に帰る道すがらも何か気にかかっていた。
家に帰り着くと、「気になって仕方がありません。用事を急いで済ませて帰ってきます」などと書いて届けさせたが、その返事を今か今かと待っていたが、ようやく届いたので、すぐさま開いてみると、他には何も書いていなくて、ただ「鳥部山」とだけ書かれていた。
隆経はこれを見て哀れに思い、それを懐に入れ肌に当てて、旅に出た。
その道すがら、これを何度も取り出して見たが、筆跡もまことに美しい。旅先では、しばらく滞在しなければならなくなったが、あの人の恋しさに、急いで帰った。
京に帰り着き、まず急いで女の家に行ってみると、家から人が出て来て、「すでにお亡くなりになりましたので、昨夜、鳥部野に葬り奉りました」と言う。それを聞いた隆経朝臣の心中を、どう喩えればよいのだろうか。さぞ、悲しかったことであろう。
されば、人の姿が火影に立って見えたならば、その芯の燃えくずを掻き落として、その人に飲ますべきである。(一部に「欠字」あり推定した。)また、祈祷も十分しなければならない。大変不吉なことであることを知らずして、飲ますことなく掻き落としてしまえば、昔からの言い伝え通り、このように死んでしまうのである、
となむ語り伝へたるとや。
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* 「鳥部山」の部分ですが、「鳥部野」「鳥辺野」とも呼ばれ葬送の地でした。
そして、当時、拾遺集にある『 鳥部山 谷に煙の 燃えたらば はかなく消えし われと知らなむ 』と言う歌が広く知られていて、この小中将の手紙の「鳥部山」も、この歌を指していたはずです。
☆ ☆ ☆