雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

道慈と神叡 ・ 今昔物語 ( 巻11-5 )

2016-08-18 13:43:48 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          道慈と神叡 ・ 今昔物語 ( 巻11-5 ) 

今は昔、
聖武天皇の御代に、道慈(ドウジ)、神叡(ジンエイ)という二人の僧がいた。
道慈は、大和国の添下郡の人である。俗姓は額田氏。聡明にして仏法を学んだが理解力に優れていたので、さらに仏法を深く学び伝える為に、大宝元年(西暦701)という年に、遣唐使粟田道麻という人に従って震旦に渡った。某(意識的に欠字にしている)法師を師として、無双の法門を学び極めて、震旦において( 破損による欠字 )来た。聖武天皇は、これを尊んで( 破損による欠字。この後も欠字が見られる )、さらに、道慈に並ぶ智者は一人もいなかった。

一方、法相宗の僧に神叡という者がいた。某国某郡の者である。俗姓は某氏である。( 某の部分は、意識的欠字。神叡は帰化人であったらしい。)
神叡は、聡明であるが、仏法を学ぶことは薄く、道慈とは比べるまでもない。ところが、神叡は心の中で知恵を得たいと願っていた。大和国の吉野郡の現光寺の塔のひさく形(ヒサクガタ・仏塔の頂上の九輪の上にある宝珠)には、虚空蔵菩薩が鋳つけられていたが、神叡は、それに紐を付けて引き、「願わくば、虚空蔵菩薩、私に知恵を与えたまえ」と祈った。
すると、数日経った頃、神叡の夢に尊い人が現れて「この国の添下郡の観世音寺という寺の塔の心柱の中に、大乗法苑林章という七巻の書が納められている。それを取り出して学ぶとよい」と告げた。
夢が覚めたのち、神叡はその寺に行き、塔の心柱を開いてみると、七巻の書があった。それを取り出した学んだところ、たいそう知恵のある人となった。

そこで、天皇はこのことをお聞きになり、直ちに神叡を召して、宮中においてあの道慈と学問を競わせた。
道慈は、もとより聡明なうえに、震旦に渡りすぐれた師について十六年に渡って学んできた者である。神叡の方は、それほど知恵者であるとは知られておらず、このところずいぶん優れた知恵を積んだとお聞きになっても、「どれほどのこともあるまい」と天皇は思っておられたが、道慈が論議(ロンギ・問答により経論の要義を議論すること)をしたところ、神叡の答える様子は、実に昔の迦旃延(カセンエン・釈迦十大弟子の一人)のようであった。
論議百条を互いに問答したが、神叡の知恵の方が明らかに勝っており、天皇はたいそう感心され、この二人に帰依した。共に封戸(フコ・古代の封禄制度)を与え、道慈を大安寺に住まわせ三論を学ばせ、神叡を元興寺に住まわせて法相を学ばせた。

その道慈の肖像は、大安寺金堂の東の登廊の第二門に、諸々の羅漢と共に書き加えられている。あの神叡が見つけた七巻の書は、現在まで伝わっていて、法相宗の規範の書となっている。
思うに、虚空蔵菩薩の御利益は計り知れない。それによって神叡も知恵を得ることが出来たのだと人々は噂した、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 遣唐使粟田道麻とあるのは、粟田朝臣真人というのが正しいらしい。粟田道麻(道麻呂)という人物も実在するが、五十年ほど後の人である。

     ☆   ☆   ☆
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光明皇后の想い人(1) ・ 今昔物語 ( 巻11-6 )

2016-08-18 13:38:02 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          光明皇后の想い人(1) ・ 今昔物語 ( 巻11-6 )

今は昔、
聖武天皇の御代に、玄(ゲンボウ)という僧がいた。俗称は阿刀の氏(アトノウジ)、大和国の人である。
幼くして義淵(ギエン・原文は意識的な欠字になっている)という人に従って出家して仏法を学んだが、聡明にして理解が早かった。

震旦(シンタン・中国)に渡って正しい教えを持ち帰り、仏法をも広く学ぼうと思い、霊亀二年(716)唐に渡り、知周法師という人を師として、彼の唱える大乗法相の教法を学び、多くの正教(ショウキョウ・仏典)を持ち帰った。
その国の天皇は、玄を尊んで、三品の位を授け紫の袈裟を付させるようにした。そういうことから、その国に二十年いて、天平七年という年に、遣唐使の丹治比真人広成(タジヒノマヒトヒロナリ)が帰朝するとき、一緒に日本に帰ってきた。経論五千余巻と仏像などを持ち帰った。
そして、朝廷に仕えて僧正となった。
ところが、天皇の后、光明皇后がこの玄を尊び帰依なさったので、玄は后の側近くに親しく仕えることになった。后の寵愛はますます深まり、世間の人々はあれこれと良くない噂を取りざたするようになった。

その頃、藤原広継(正しくは広嗣)という人がいた。不比等大臣の御孫である。
式部卿藤原宇合(ウマカイ)という人の子でもあり、家柄は高く人柄も良かったので、世間に重んじられた人であった。その上、気性は極めて勇猛で、聡明で万事に優れていたので、吉備大臣(吉備真備)を師として漢学を学び、才能も豊かなので、朝廷に仕えて右近の少将になった。
この人はとても並の人ではなく、午前中は都にいて右近の少将として朝廷に仕え、午後になると鎮西(チンゼイ・九州)に下って太宰の小弐(ダザイノショウニ・大宰府の次官)として大宰府の政治を担っていたので、世間の人は不思議なことだと思っていた。その家は、肥前国の松浦郡にあった。

常日頃、広継はこのようにして過ごしていたが、玄を后が寵愛しているということを聞いて、大宰府より国解(コクゲ・諸国から中央官庁に提出する公文書)を奉って、「天皇の后が僧玄を寵愛なさっていることは、もっぱら世間の非難を集めています。速やかにその僧の出仕を留めていただきたい」と奏上した。
天皇はこの進言を、「全くけしからんことだ」とお思いになり、「広継ごときが何ゆえに朝廷の政が分かるというのか。このような者が世にあれば、きっと国の禍になるであろう。されば、速やかに広継を罰すべきである」と裁定なされた。

その当時、御手代の東人(ミテシロノアヅマヒト・正しくは大野朝臣東人)という人がいて、大変勇猛で思慮深く智謀にたけた者であったので、武人として仕えていた。
この東人に仰せがあり、「速やかに広継を討伐せよ」と使者を遣わされたので、東人はこの宣旨をお受けして鎮西に下って行った。

                                               ( 以下は、(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆



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光明皇后の想い人(2) ・ 今昔物語 ( 巻11-6 )

2016-08-18 13:36:44 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          光明皇后の想い人(2) ・ 今昔物語 ( 巻11-6 )

     ( (1)より続く )

鎮西に下った東人は、九州の軍勢を集めて広継を攻めようとしたが、これを知った広継は大いに怒った。
「私は朝廷の御為に間違ったことはしていないのに、朝廷は理不尽にも私を討とうとなされる。これはひとえに僧玄の讒言によるものだ」と言って、多くの軍勢を集め準備を整え待ち受けて戦ったが、朝廷方の軍勢が強く広継方は劣勢となった。
広継は竜馬(リョウメ)という名馬を持っていた。この竜馬は空をかけること鳥の如く野をかけること疾風の如くであったという。常には、その馬を乗物として、瞬く間に都に上り、あるいは鎮西に下っていたのである。

戦いは、広継奮戦するも朝廷の威光に勝てず、ついには責めたてられて広継は海上に逃れた。そして、乗っている竜馬を頼みとして高麗に渡ろうとした。しかし竜馬は、これまでのような勢いを失ってしまっていた。それを知った広継は、「もはや、我が運は尽きたり」と覚悟を決めて、馬もろともに海中に沈み死んでしまった。
一方、東人率いる大軍が責め寄せてきたが、広継が海に逃れたあとなので館には見当たらなかった。広継の姿を探し求めているうちに、沖から風が吹いてきて、広継が死体となって海岸に吹き寄せられてきた。
そこで東人は、その首を切り取って、都に持ち帰り、朝廷に奉った。

それから後、広継は悪霊となって、一方では朝廷を恨み奉り、一方では玄に復讐しようとした。
まず、その玄の前に悪霊が現れた。赤い衣を着て冠をつけた者が現れ、いきなり玄を掴み取って空に昇った。そして悪霊は、玄の身体をばらばらに引き裂いて地上に落とした。玄の弟子たちは、落ちてきた物を拾い集めて葬った。
その後も、悪霊は静まることがなかったので、天皇はひどく恐れて、「吉備大臣は広継の師である。すぐさま彼の墓に行って、何とかなだめて鎮めさせよ」と申し付けられた。

吉備大臣は宣旨を承り、鎮西に行って広継の墓に参り、言葉を尽くしてなだめたが、その霊の為に吉備大臣の方が危なくなりかけたが、吉備大臣は陰陽道を極めた人だったので、陰陽の術によって我が身を安全なように固めて、心をこめてなだめたので、その霊の祟りはおさまったのである。
その後、その霊は霊神(御霊)となって、その地に鏡明神(カガミノミョウジン)として祭られているのが、これである。
かの玄の墓は今も奈良にある、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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行基菩薩 ・ 今昔物語 ( 巻11-7 )

2016-08-18 13:35:27 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          行基菩薩 ・ 今昔物語 ( 巻11-7 )

今は昔、
聖武天皇が東大寺を建立し開眼供養をなさろうとしていた頃、行基という人がいた。
天皇はこの人を講師に任じられたが、行基は、「私はその任にふさわしくありません。やがて外の国より講師を勤められる人が参るでしょう」と申し上げて、その講師を迎えるために、天皇に奏上して、百人の僧を引き連れて、行基はその百人目に立ち、治部玄蕃寮(ジブゲンバンリョウ・寺院、僧尼の管理や外国使節の接待を司る役所)の役人を率い、音楽を調えて、摂津国の難波の津に出かけて行った。
しかし、見回してみても、誰一人としてきた人はいない。

その時、行基は、一前(イチゼン・「前」は机や道具などを数える語)の閼伽(アカ・仏前に供える水や花などの供物)の台を用意して海の上に浮かべて流した。その閼伽の台は、波のために乱れたり壊れたりすることもなく遥か西を指して流れて行った。そして、やがて見えなくなった。
しばらくすると、婆羅門僧正で名を菩提という僧が船に乗ってやって来た。先ほどの閼伽の台は、船の前に浮かんだまま帰ってきた。
この僧は、南天竺の人で、はるばると天竺から東大寺の供養に参列しようとして来たのである。行基はそれを予知していて出迎えられたのである。
婆羅門の僧は船より陸に上がり、行基と互いに手を取り合って喜ぶこと限りなかった。

遥かな天竺より来た人を日本の人が待ち受けていて、旧知の如く睦まじく語り合うのはまことに不思議なことだと誰もが思っていると、行基は僧正に歌を贈った。
『 霊山(リョウゼン)の 釈迦の御前(ミマエ)にて契てし 真如朽ちせず 相見つるかな 』
( 霊鷲山の 釈迦の御前で約束した 真如(不変の真理)朽ちることなく、約束通りお会いすることが出来ました。 )
これに対する婆羅門僧正の返歌は、
『 カピラエに 共に契りし甲斐ありて 文殊の御顔 相見つるかな 』
( カピラエ(釈迦誕生の地)で 共に約束した甲斐があって あなた文殊菩薩のお顔に お会いすることが出来ました。 )

これを聞いて、人々はみな、行基菩薩はさては文殊菩薩の化身だったのだと知ったのである。
その後、行基は婆羅門僧正を迎えて都に帰ってきた。天皇は喜び、僧正を尊ばれ、この人を講師として念願どうり東大寺の供養をなされた。
婆羅門僧正といわれるこの人は、この後、大安寺の僧となった。
この人は、もと南天竺のカピラエ国の人である。文殊にお会いしたいと祈願していると、貴人が現れて、「文殊は震旦(シンタン・中国)の五薹山(ゴダイサン)においでになる」と告げられた。そこで菩提(婆羅門僧正)は天竺から震旦に行き、五薹山に尋ね詣でられたが、その途中で一人の老翁にに出会った。その老翁は菩提に、「文殊は日本国の衆生を利益(リヤク・功徳を与えること)するために、その国に誕生なさいましたよ」と告げた。
菩提はこれを聞いて、本懐を遂げるためにこの国にやって来られたのである。その文殊がこの国に誕生されたというのは、行基菩薩のことなのである。それゆえに、「菩提がやって来る」と予知して、ここに来てお迎えすることが出来たのである。また、菩提もこの事を知っていて、旧知の人のように、このように互いに語り合うことが出来たのである。

凡人たちは、みなそれを知らず、不信なことだと思ったのは愚かなことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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鑑真和尚 ・ 今昔物語 ( 巻11-8 )

2016-08-18 13:34:16 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          鑑真和尚 ・ 今昔物語 ( 巻11-8 )

今は昔、
聖武天皇の御代に、鑑真和尚(ガンジンワジョウ)という聖人がおいでになった。
この人は、もとは震旦(シンタン・中国)の揚州、江陽県の人である。俗称は淳于氏(ジュンウノウジ)。
始め十六歳(十四歳とも)の時、大周の則天武后の御代の長安元年(701)という年に、知満禅師という僧に付いて、菩薩戒を受けて竜興寺という寺に住んだ。厳しい戒律を長年にわたり守り、やがて老境に入った。

その頃、日本国より仏法を学び伝えようとして、栄睿(ヨウエイ)という僧が震旦にやって来た。
( この後、破損による欠字が多い。 「仏法が日本に伝来しているが、正しく教えることの出来る人がいない。ぜひ、来朝して指導してほしい。といったことを栄睿らが鑑真に頼み込み、鑑真が応諾に至った」といった内容が書かれていたらしい。 )

鑑真は栄睿の勧めによって、栄睿に同道して日本に渡り戒律の法を伝えようと思い、天宝十二(唐の元号。西暦753年に当たる)という年の十月二十八日の戌の時(イヌノトキ・午後八時ごろ)に竜興寺を出て、揚子江の岸に行き船に乗ろうとした。
ところが、その竜興寺の僧たちは和尚の出て行くのを見て、名残を惜しみ悲しんで、泣く泣く引き止めたが、和尚は弘法(グホウ・仏の教えを広めること)の心が深いので止まろうとはしなかった。 
川岸に至り、そこから下って蘇州の黄(コウカイ)の浦という所に着いた。和尚と共に行く人たちは、僧十四人、尼三人、俗人二十四人であった。また、仏舎利三千粒、仏像、経論、菩提子(ボダイシ・菩提樹の種、あるいはそれで作った数珠)三斗、その他非常に多くの財宝もあった。

さて、数か月かかって、十二月二十五日にわが国の薩摩国秋妻浦に着いた。
そこで年を越し、次の年というのは、天平勝宝六年であるが、正月の十六日に従四位上大伴宿禰胡満(オオトモノスクネコマロ)という人を通して、和尚が震旦より渡来したことを奏上した。
同年二月一日、和尚は摂津国の難波に着いた。
 
天皇はこれをお聞きになって、大納言藤原朝臣仲麿を遣わして、和尚の来朝の目的を詰問させた。
和尚はそれに答えて言った。「この私は、大唐国揚州の竜興寺の僧で、鑑真と申します。奉じております教えは、戒律の法であります。この法を広め伝えるために遥々この国にやって来たのです」と。
天皇はこれをお聞きになって、正四位下吉備朝臣真吉備(キビノアソンマキビ)をもって、「私は東大寺を建立したが、戒壇(カイダン・受戒の儀式を行う所)を建て戒律を伝えよ。それが私の最も喜びとするところである」と詔(ミコトノリ)を下された。
これによって、人々は和尚を迎えて尊び敬うことこの上なかった。

その後、たちまちのうちに、東大寺の大仏の前に戒壇を築き、和尚を戒師として、まず天皇が登壇し受戒なされた。
次いで、后、皇子がみな沙弥戒(シャミカイ・見習い僧などのための戒律)を受けられた。また、賢憬(ケンゲイ)、霊福(リョウブク)などという僧たち八十余人が受戒した。
その後に、大仏殿の西方に別に戒壇院を建て、多くの人が登壇し受戒した。

その頃、后が病気にかかられ、お治りにならなかったので、和尚が薬を差し上げると、薬効がありその病が治られたので、天皇はたいへんお喜びになった。早速、大僧正の位を授けられたが、和尚は辞退して受けなかったので、改めて、「大和尚(ダイワジョウ)」という位を授けられた。
また、新田部の親王(ニイタベノシンノウ・天武天皇の第七皇子)という人の旧宅を和尚に与えられ、そこを住居とした。
そして、その地に寺を建てた。それが今の招提寺(ショウダイジ)である。

さて、天平宝字七年(763)という年の五月六日、和尚は、顔を西に向け、結跏趺坐(ケッカフザ・座法の一つで、仏像にもみえる)して亡くなられた。
( ここから欠字が多いが、「亡くなった後の三日間、頭頂部が温かかった。火葬に際しては香気が山に満ちた」といった内容があったらしい。 )
「死んで後、三日間頭の頂が暖かい人は、第二地(菩薩が修業する段階の一つ)の菩薩であると知るべきだ」と仰った。(誰が言ったのか、欠字になっている)
それで、和尚は第二地の菩薩であられたのだと、誰もが知ったのである。

かの唐より持って来られた三千粒の仏舎利は、招提寺に今もある。和尚の墓は、その辺(ホトリ)にある。
また、わが国の戒壇は、これより始まったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆




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弘法大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-9 )

2016-08-18 13:33:06 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          弘法大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-9 )

今は昔、
弘法大師と申される方がいらっしゃった。
俗称は佐伯の氏。讃岐の国の多度郡、屏風の浦の人である。母は、阿刀の氏の出である。その方が、聖人が来て胎内に入る夢を見て懐妊して、生まれてきた子である。

その子は、五、六歳になると、泥土で仏像を造ったり、草や木で仏堂に似た物を建てたりしていた。
ある時、その子は夢の中で、八葉の蓮華の中に諸々の仏がおいでになり、その仏たちと一緒に語り合ったという。けれども、この夢を父母にも話さず、もちろん他の者には一切話さなかった。
両親は、この子をとても敬い尊んでいた。また、ある人はこの子を見ると、貴げな童子が四人、常にこの子に付き従って礼拝していた。それで、近隣の人たちは、この子を「神童なり」と言い合っていた。
また、母の兄に一人の男(阿刀大足(アトノオオタリ)を指す)がいた。位は五位である。伊予親王(桓武天皇の第三皇子)という人について漢籍を学んでいた。この人が、その子の母に「この子はたとえ僧となるとしても、やはり漢籍を学ばせた方が良い」と勧めた。それで、この子は俗典(ゾクデン・仏教経典以外の物)を学び、文章道全般に上達する。

そして、延暦七年(788)という年、十五歳にして京に上った。大学寮の教官である味酒浄成(ウマザケノキヨナリ・経歴など未詳)という学者について、毛詩(モウシ)・左伝・尚書(いずれも五経の一つ)などを読み学んだが、これらを理解するのは以前から知っているかのようであった。
ところが、この少年は、仏道の方を好み、しだいに出家しようという気持ちが強くなっていった。そして、大安寺の勤操僧正(ゴンソウソウジョウ)という人に会い、虚空蔵の求聞持の法(コクウゾウノグモンジノホウ)を学び、心から信奉するようになった。

さて、この少年が十八歳になった時、心の中で、「これまでに私が学んだ漢籍は、すべて役に立たない。一生が終わった後には、虚しいことだ。ただ、仏の道を学ぶ以外にない」と決心した。
こう心に決めた後は、あちらこちらを廻って苦行を修めた。ある時は、阿波の国の大竜の嶽(ダイリュウノタケ)に行き、虚空蔵の法を行っていると、大きな剣が空より飛んできた。またある時は、土佐の国の室生門崎(ムロウトザキ・室戸岬)において、求聞持の行を観じていると、明星が口に入った。またある時は、伊豆の国の桂谷の山寺で、自ら大空に向かって大般若経の魔事品(マジホン)を書いた・・

(このあたり、破損による欠字か多い。主に、修業の段階について記されていると思われるが、一部推測を加えて記す)
延暦十二年、勤操僧正のもとで、和泉国の槇尾山寺(マキノオノヤマデラ)で剃髪し十戒を受ける。名を教海(キョウカイ)という。二十歳の時であった。(但し、空海の得度については、三十一歳の時という説もある。)

その後、自ら名を改めて、如空(ニョクウ)とした。
また、延暦十四年という年、二十二歳の時、東大寺の戒壇において具足戒(グソクカイ・比丘・比丘尼が守るべき戒律の総称。比丘は二百五十戒、比丘尼は三百五十戒、らしい)を受けた。それ以後、名を空海(クウカイ)となされた。
その後、「私は仏教以外の書物も、仏教の経典も学んだが、いぜん心の疑いが晴れない」と自ら思われ、仏の御前で誓言をなされた。「私は、速やかに仏になることが出来る教えを知りたいのです。願わくば、三世十方(サンセジツポウ・三世は過去・現在・未来。十方は四方と四隅と上下。/時間・空間共に全て)の仏たちよ、私の為に不二法門(フジホウモン・あらゆる事物・事象は「空」のもとでは平等であり一体であるという教え)をお教えください」と。

その後、夢の中に一人の人が現れて告げられた。「ここに経がある。大毘盧遮那経(ダイビルシャナキョウ)と名付けられている。これこそ汝が必要とする経典である」と。
夢覚めてのち、心中大いに喜び、夢で教えられた経典を探し求めたところ、大和国高市郡にある久米寺の東の塔の下でこの経典を見つけた。喜んでこれを開いてみたが、とても理解できない。しかも、わが国ではこれを知っている者はいなかった。
「私は唐に渡って、この教えを習得しよう」と決意して、延暦二十三年という年の五月十二日に唐に渡った。三十一歳の時のことである。

この時、遣唐大使として越前の守、正三位藤原朝臣葛野麻呂(カドノマロ)という人が唐に渡ったが、その随行人として渡ったもので、海路は三千里に及ぶ。
まず、その国の蘇州という所に着いた。そして、その年の八月に、福州に至った。同年十二月に、天皇(唐の皇帝徳宗)の使者を賜り、首都長安の都城に到着した。
京(ミヤコ)に入ると、この一行を見ようとする人々が道に溢れるばかりであった。ただちに、詔(ミコトノリ)によって、宣陽坊の官邸に住居が与えられた。次の年、やはり詔により、西明寺の永忠和尚(エイチュウカショウ)の旧宅であった寺院に移った。
そして、ついに青竜寺の東塔院の和尚(カショウ)、恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)にお会いするようになったのである。

                                             ( 以下、(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆







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弘法大師 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-9 )

2016-08-18 13:31:57 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          弘法大師 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-9 )

     ( (1)より続く )

さて、空海がついに廻り会った恵果和尚(ケイカカショウ)は、空海を見ると、笑みをたたえ喜びの表情で、「私はそなたが来るはずだとかねてから知っていたが、ずいぶん待ち遠しかった。今日やっと会うことが出来た。まことに幸いなことである。私には、法を授けるべき弟子がいない。そなたにすべて伝えよう」と言った。
そして、直ちに香花(コウゲ)を備えて、まず灌頂(カンジョウ・秘法を伝授する時に師が弟子の頭に水を灌ぐ儀式)の儀式を行う壇に入った。その後、入学灌頂(最初の灌頂)を行い、両部(胎蔵界と金剛界)の大曼荼羅(マンダラ・円形または方形の中に諸仏を絵図にしたもの)に向かって花を投げると、みな中尊仏である大日如来に着いた。和尚(カショウ)はこれを見て、ほめたたえ喜ばれること限りがなかった。その後、伝法阿闍梨の灌頂(秘法を伝授された阿闍梨と定められた儀式)の位を受けた。

そして、五百人の僧を招いて、斉会(サイエ・僧たちに食事を供する法会)を行った。青竜寺と大興寺の二つの寺の多数の僧がこの斉会に臨席し、空海をほめたたえた。
その後、恵果和尚が日本の空海和尚に密教を伝えること、瓶の水を移すかのようであった。
また、多くの絵師、経師、鋳師(イモジ・鋳物師)たちを呼び寄せ、曼荼羅{この後、破損による欠字。曼荼羅に関する諸道具か?}を伝授し、「私はそなたに法を授け終わった。今は、{破損による欠字。早く故国に帰ることを勧めている?}天下に法を広め、衆生の福を増すようにせよ」と諭された。

その当時、恵果和尚の弟子に供奉十禅師(グブジュウゼンジ・諸国から選ばれた十人の僧で、宮中に供奉した)の順暁(ジュンギョウ)という人物がいた。また、玉堂寺の珍賀という僧がいたが、その僧が順暁を訪れて言った。「あの日本の僧侶、たとえ尊い聖人だといっても、我ら一門の者ではない。だから、いろいろな教えを学ばせることはともかく、何ゆえ和尚は秘密の教えを授けられるのか」と。
そして、再三にわたって文句を付けた。すると、珍賀の夢の中に一人の人が現れて告げた。「日本のあの僧侶は、第三地(菩薩修業の段階の一つ)の菩薩である。内には大乗(ダイジョウ・衆生を迷いの此岸から解脱の彼岸に連れて行くもの)の心をそなえており、外面では小国の僧侶の姿をしているのだ」と言って、自分の振る舞いを厳しく咎めるものであった。そこで、翌朝空海のもとに行き、自分の過ちを詫びた。

また、宮城の中に三間の壁があり書(ショ)が書かれていた。それが破損していたが、誰も筆を取って書き直す者がいなかった。
天皇は詔を下して日本の空海和尚に書かせた。和尚は筆を取り、五か所に五行を同時にお書きになった。一本を口にくわえ、二本を二つの手に取り、二本を二つの足に挟んだのである。
天皇はこれを見て、感嘆なされた。但し、もう一間の壁には、和尚が墨をすって壁の表面にそそぎかけると、自然に一間いっぱいに広がる『樹』の文字になった。天皇は頭を下げて感服され、五筆和尚と名付けて菩提子の念珠をお与えになった。

また、空海が宮城の中を見て廻っているとき、ある川のほとりに来られると、そこに破れた着物を着た一人の童子が現れた。頭は蓬のようにぼうぼうであった。
その童子が和尚に尋ねた。「お前さんが、日本の五筆和尚か」と。「そうだ」と答えると、童子は「それなら、この川の水の上に文字を書いてみよ」と言う。和尚は、童子の言うのに従って、水の上に清水(キヨミズ)を讃える詩を書いた。その文字は、一点も崩れることなく流れ下って行った。童子はこれを見て、笑みをたたえて感歎の様子を示した。
童子は、「今度は私が書こう。和尚、これを見てみよ」と言って、水の上に『龍』という文字を書いた。ただ、右側にある一つの小さな点を付けていない。そして、その文字は浮かんで漂い流れて行かなかった。そこで、小さい点を付けると、その文字は響きを発し光を放って、その文字は竜王の姿に変わって、空に上って行った。
この童子は、文殊菩薩であられたのである。破れた着物は、瓔珞(ヨウラク・宝玉で作られた装身具。ここでは着物全体を指す)であった。そして、文殊菩薩の姿はたちまち消えてしまった。

また、空海和尚が故国に帰る日、高い岸に立って誓いを立てられた。「私が伝授され学んできた秘密の教えが、世に広まり受け入れられて、弥勒菩薩がこの世に出現なさるまで、その教えが保たれる土地があるだろう。その場所に落ちよ」と言って、三鈷(サンコ・密教の法具の一つ)を日本の方角に向かって投げると、遥かに飛んで雲の中に入っていった。(三鈷が落ちた所が高野山とされている)

その後、大同二年(807・大同元年とも)という年の十月二十二日に無事に帰朝した。
まず鎮西(九州)において、大宰府の大監(ダイゲン・三等官)である高階遠成という人に託して、唐から持ち帰った法文の目録を(破損による欠字。「朝廷に送り、勅を得て京に上る」といった内容らしい。)
そして、国内に広めよとの宣旨が下された。さらに重ねて、「大師の神筆唐において(破損による欠字部分の推定)の実績は並ぶものがない。速やかに大内裏の南面の諸門の額を書くように」との勅命があった。そこで、外門の額をすべて書き上げた。
また、応天門の額を打ち付けてから見ると、「応(應)」の字の最初の点が無くなっていた。驚いて、下から筆を投げて点を付けた。人々は、それを見て手を叩いて感歎した。

その後、念願通り、朝廷に願い出て真言宗を開き、世に広めた。
すると、諸宗の多くの学者たちが即身成仏の教義に疑問を持ち、論争を挑んだ。そこで大師は、その疑問を断つために、清涼殿において、南に向かい、大日如来の定印を結び深く念じると、顔の色が黄金のようになり、身体からは黄金の光を放った。すべての人は、これを見て頭を低く垂れて礼拝した。
このような霊験が数知れないほどあった。

大師は、真言の教えを盛んに広め行き、嵯峨天皇の護持僧(ゴジソウ・天皇の身体守護の加持祈祷を行う僧)となり、僧都の位に上られた。わが国に、真言の教えが広まったのはこの時からである。
その後、この僧都の流れを汲む者が諸所にあって、真言の教えは今も盛んに広がっている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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伝教大師 ・ 今昔物語 ( 巻11-10 )

2016-08-18 13:30:51 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          伝教大師 ・ 今昔物語 ( 巻11-10 )

今は昔、
桓武天皇の御代に、伝教大師という聖(ヒジリ)がいらっしゃった。
俗称は三津の氏(ミツノウジ)、近江の国志賀郡の人である。幼い頃から賢く、七歳になると、聡明さが際立った。何事についても前もって知っていた。父母は、これを不思議に思っていた。

十二歳にして、剃髪して法師になった。最初に、今の比叡山(寺院の意味か?)のある所に入り、草庵を造って仏道の修行をしていると、香炉の灰の中に仏の舎利(遺骨)が出現なされた。これを見て喜び、「この舎利を何に入れて供養申し上げようか」と思い悩んでいると、また、灰の中に黄金の花模様の器が現れた。そこで、この器にお入れして、昼夜礼拝し尊び敬うこと限りなかった。
そうしているうちに、自ら心の内で「自分はこの場所に寺院を建立して、天台宗の教えを広めよう」と思った。

延暦二十三年という年、唐に渡った。
まず、天台山に上り道邃和尚(ドウスイカショウ)という人に会って、天台宗の法文を習い伝授された。また、順暁和尚(ジュンギョウカショウ)という人に付いて真言の教えを学び伝授され、顕教・密教の法を修得すること瓶の水を移すが如く、であった。
その頃に、仏滝寺(ブツロウジ)の行満座主という人がやって来て、この日本の僧を見て、「私は、昔こういうことを聞いたことがある。それは、智者大師が『私の死後、二百余年を経て、ここから東の国より我が法を伝えて世に広めんがために、僧がやって来るであろう』と仰ったということである。今、思い合わせると、その僧こそこの人であろう。はやく法文を学び受けて、本国に帰って広めるがよい」と言って、多くの法文を瓶の水を移し入れるように伝授した。

ところで、大師が唐に渡ろうとした時、まず、宇佐の宮に詣でて、「旅の間、海難の怖れなく安全に渡海させてください」と祈られた。そして、念願通り彼の国に行き着き、天台の法文を習い伝授されて、延暦二十四年という年に帰朝したので、そのお礼を申し上げるために、まず宇佐の宮に詣でて、神の御前でうやうやしく礼拝して、法華経を講じてから申し上げた。「私は念願通り唐に渡り、天台の法文を学び伝授を受け帰って参りました。これからは、比叡山を建立し、多くの僧侶を住まわせて、唯一無二の一乗宗(イチジョウシュウ・唯一真実の一乗の教え説く「法華経」を根本経典とする宗派。天台宗を指す)を開き、有情のもの非情のもの全て成仏することが出来るという教えを悟らせ、これを国中に広めようと思います。本尊に薬師如来を造り奉り、『一切の衆生の病を治したい』と思います。しかし、その願いは、宇佐八幡大菩薩のご加護によって成就出来ることでございます」と申し上げた。

その時、神殿の内より妙なる御声があった。「聖人よ、そなたが願うことはまことに尊い。速やかにその願いを遂げるがよい。我は心から加護しよう。但し、この衣を着て、薬師の像を造り奉るべし」との仰せがあり、神殿の内より衣が投げ出された。これを取って見ると、唐の絹を濃い紫の色に染めて、綿を厚くしつらえた小袖である。これを賜り、礼拝して神殿を出た。
その後、帰って比叡山を建立したが、その賜った浄衣を着て、自ら薬師像を造り奉った。

また、春日の社に詣でて、神の御前において法華経を講ずると、紫の雲が山の峰の上から立ちのぼり、経を講じている庭一面を覆った。
このようにして、念願通りに、わが国に天台宗を唐より伝え広めることになったのである。
その後、この流れを汲むものが諸所にある。また、各国々にもこの宗を学ぶ者があり、天台宗は今も栄えている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 
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慈覚大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-11 )

2016-08-18 13:19:57 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          慈覚大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-11 )

今は昔、
承和の御代(834-848)に、慈覚大師(ジカクダイシ)という聖(ヒジリ)がおいでになった。
俗称は壬生の氏(ミブノウジ)、下野国都賀郡(シモツケノクニ ツガノコオリ)の人である。お生まれになった時、紫の雲がたなびいて、その家の上を覆った。

その当時、その国に広智菩薩(コウジボサツ・この場合の菩薩は、徳の高い人に対する尊称)という聖がいた。遠くからこの紫の雲を見て驚き、その家を尋ねてきた。そして、「この家に、何事があったのですか」と聞いた。家の主は、「今日、男の子が生まれました」と答えた。
広智菩薩は、その父母に「その生まれた男の子は、必ず尊い聖人となる人である。あなた方は、父母だとはいえ深く敬わねばならない」と教えて帰って行った。
その後、その男の子はしだいに成長して、いつしか九歳になった。
ある時、その子は父母に、「私は出家したいと思っています。広智師の所に行って、経を習いたいのです」と申し出て、習うべき経を求めていると、法華経の普門品(フモンボン)を得ることが出来た。それで、広智のもとでこの経を学ぶことになった。

そうした時、この男の子が夢を見た。聖人が現れて自分の頭を撫でているのを、そばにいる別の人が「お前は、お前の頭を撫でた人を知っているかな」と尋ねた。男の子とは「知りません」と答えた。すると、「この方は、比叡山の大師ですよ。お前の師となるはずなので、お前の頭を撫でたのだよ」と言う。
夢が覚めた後、「そうすると、私は比叡山の僧になるに違いないのだ」と思って、年十五歳にして(十五の部分は欠字になっている)、ついに比叡山に上り、初めて伝教大師にお会いしたが、大師は笑みを浮かべてたいそうお喜びになった。以前から知っている人に会ったかのようであった。
男の子もまた、大師のお姿が以前に夢で見た人のお姿と変わることがないと思った。
その後、大師に付き従って頭を剃り法師となった。名を円仁(エンニン)と言う。こうして、顕密(顕教と密教)の教えを学ぶようになったが、とても明敏であった。

やがて、伝教大師がお亡くなりになったので、「私は、唐に渡って顕密の法を学び極めよう」と決心して、承和二年(835・正しくは、この年は遣唐使に随行が認められた年で、実際に唐に渡ったのは承和五年である)という年に唐に渡った。
そして、天台山に上り、五薹山に詣で、あちらこちらと遊行して聖跡を礼拝し、仏法が流布している所に行ってはそれを学んだ。
その当時は、恵正天子(エショウテンシ・正しくは会昌天子。唐の武宗皇帝)という天皇の御代であったが、この天皇は仏法を滅ぼせとの宣旨を下し、寺塔を破壊し経典を焼き払い、法師を捕えては還俗させていた。使者は四方に派遣されていて、破壊を行っていた。

その頃、遊行中の大師(慈覚大師)はこの使者に出会った。一人での遊行中で従者はいなかった。
使者たちは大師を見つけて、喜び勇んで追っかけた。大師は逃げて、とある堂の中に隠れた。使者たちは追って来て、堂の扉を開き大師を捜した。大師はなす術がなく、仏像が並んでいる中に入り、(同じように座り不動明王を念じていた。・・欠字となっている部分の推定)使者らはいくら捜しても大師を見つけることが出来ず、ただ仏像の中に新しい不動尊が一体(増えているだけである。使者らがこの不動尊に疑念を抱いて・・欠字となっている部分の推定)見ていると、大師がもとの姿に戻って座っていた。
そこで使者は、「あなたはどういう人なのか」と尋ねた。大師は、「日本の国より仏法を学ぶために来た僧です」と答えた。
使者は不思議な体験をしたことに恐れ、還俗させることを中止して、天皇に事の次第を奏上した。すると宣旨があり、「その者は他国の聖である。速やかに国外に追放せよ」ということになった。それにより、使者は大師を釈放した。

                                   ( 以下、(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆





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慈覚大師 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-11 )

2016-08-18 13:18:39 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          慈覚大師 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-11 )

     ( (1)より続く )

釈放された大師(慈覚大師)は、喜び大急ぎでそこを去り、他の国へ逃げて行った。
その途中、遥かなる山を越えると人家があった。見てみると、城壁を堅固に築き廻らせていて、周囲を厳重に警戒していた。その一面に門があり、その門前に人が立っていた。
これを見た大師は喜んで走り寄り、「此処はどういう所でしょうか」と尋ねた。門前の男は、「此処はさる長者殿の家です」と答えた。そして、「聖人は如何なるお人か」と尋ねた。大師は、「私は仏法を学ぶ為に日本国より渡って来た僧です。ところが、仏法を滅ぼそうという世に廻り合ってしまい、しばらくは隠れているために、静かな所にいようと思っているのです」と答えた。

門前の男は、「この場所は、あまり人の来ることがなく、大変静かな所です。そういうことなら、しばらく此処においでになって、世の中が静かになった後に、此処を出て仏法を学ばれば良いでしょう」と言う。
大師はこれを聞いて、嬉しく思って、この男の後ろについて中に入った。すると、即座に門の鍵をかけてしまった。そして、門を入ってはるか奥の方に歩いて行った。大師も一緒に歩きながら見てみると、様々な家屋が重なり合っている。多くの人が住んでいて、騒がしい声が聞こえていた。その傍らに空き家があり、そこを大師の住処としてくれた。

大師は、「このような静かな所に来ることが出来た。世の中が静まるまでここに居よう。それが良いことだ」と喜び、「もしかすると、仏法に関する物があるかもしれない」と思って、あちらこちらと捜しながら見て歩いたが、まったく仏像も経典も見当たらなかった。
ところが、後ろの方に家があるので近付いて様子を立ち聞いてみると、人のうめき声などがさかんに聞こえてくる。不審に思って覗いてみると、人を縛り上げて天井から釣り下げて、下に壺を置いて、その壺に血を垂らし入れている。何をしているのか全く分からない。尋ねても答えない。おかしいと思いながら離れた。
そして、また他の場所を覗くと、そこからもうめき声が聞こえる。真っ青な顔色で、痩せ衰えた者が多勢臥せっている。その一人を招くと、這い寄ってきた。

「此処はどういう所ですか。このように、堪えられないようなことが行われている所は」と大師が尋ねると、這い寄った人は、木の端を取って、糸のように細い肱を差し伸ばして、土に文字を書くのを見ると、「此処は纐纈(コウケチ・古代の絞り染め)の城です。知らずに此処に来た人に、まず物を言わぬ薬を食べさせ、次には肥える薬を食べさせます。その後に、高い所に釣り下げて、体のあちらこちらを差し切って、血を出して壺に垂らし、その血をもって纐纈を絞り染めにして渡世にしている所です。それを知らないで、(このような目に合ってしまったのです。食物の中に胡麻のような黒い物が入っており、それが物が言えなくなる薬なのです。そのような物を出されたら・・欠字になっており、推定部分)食べてしまったような顔をして、誰かに話しかけられても口がきけないようにうめいて、決して物を言ってはなりません。我らもその薬を知らずに食べて、こういう目に合ったのです。何とかして逃げなければなりません。周囲の門は厳重に鍵がかけられていて、容易なことでは出られそうにありません」と書き綴っている。

大師は、これを見て仰天し茫然となった。しかし、気を取り直して、もとの居場所に戻った。
まもなく、食べ物を持ってきた。みると、教えられた通り胡麻のような物を食器に盛って前に置いてある。これを食べるようにしては懐に差し入れ、外に棄てた。食事が終わると、人がやって来て話しかけてきたが、うめくだけで何も言わなかった。
「うまくいった」というような顔つきをして去っていったが、その後には、肥える薬を色々と食べさせた。

人が立ち去った後、大師は丑寅(ウシトラ・北東。比叡山の方角を指すか?)の方角に向かって掌を合わせ礼拝して、「本山の三宝薬師仏(最澄作の薬師如来像)よ、なにとぞ私を助けて故国に帰らせてくださいますように」と祈った。
その時、一匹の大きな犬が現れ、大師の衣の袖をくわえて引っ張った。大師は犬の引くままについて行くと、とても通れそうもない水門(ミズト・水の取り入れ口)の所に出た。けれども犬は、そこから大師を引っ張り出した。
外に出たと思うと、犬は見えなくなっていた。
大師は涙を流して喜び、そこから足の向くに任せて走り続け、はるかに野山を越えて人里に出た。

里人が大師を見て、「どちらから来られた聖人ですか、そんなに走っておいでなのは」と尋ねた。
大師は、「これこれの所に行って・・」と、体験したきたことを話すと、里人は、「そこは纐纈の城です。人の血を搾り取って渡世としている所なのです。あそこに行って、帰ってきた人はおりません。まことに、仏神の助けなくては逃げることなど出来ません。あなたは、この上なく尊い聖人であられます」と喜び、去っていった。
大師は、そこからさらに逃げて、王城(唐の都長安)近くまで来て、様子を窺ってみると、恵正天子が亡くなっていて、他の天皇が即位され、仏法を滅ぼす政策は取りやめになっていた。

大師は、かねてからの念願通り、青竜寺の義操(ギソウ・正しくは弟子の義真らしい)という人を師として密教を学び伝授され、承和十四年(847)という年に帰朝して、顕密の法を広められた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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