道慈と神叡 ・ 今昔物語 ( 巻11-5 )
今は昔、
聖武天皇の御代に、道慈(ドウジ)、神叡(ジンエイ)という二人の僧がいた。
道慈は、大和国の添下郡の人である。俗姓は額田氏。聡明にして仏法を学んだが理解力に優れていたので、さらに仏法を深く学び伝える為に、大宝元年(西暦701)という年に、遣唐使粟田道麻という人に従って震旦に渡った。某(意識的に欠字にしている)法師を師として、無双の法門を学び極めて、震旦において( 破損による欠字 )来た。聖武天皇は、これを尊んで( 破損による欠字。この後も欠字が見られる )、さらに、道慈に並ぶ智者は一人もいなかった。
一方、法相宗の僧に神叡という者がいた。某国某郡の者である。俗姓は某氏である。( 某の部分は、意識的欠字。神叡は帰化人であったらしい。)
神叡は、聡明であるが、仏法を学ぶことは薄く、道慈とは比べるまでもない。ところが、神叡は心の中で知恵を得たいと願っていた。大和国の吉野郡の現光寺の塔のひさく形(ヒサクガタ・仏塔の頂上の九輪の上にある宝珠)には、虚空蔵菩薩が鋳つけられていたが、神叡は、それに紐を付けて引き、「願わくば、虚空蔵菩薩、私に知恵を与えたまえ」と祈った。
すると、数日経った頃、神叡の夢に尊い人が現れて「この国の添下郡の観世音寺という寺の塔の心柱の中に、大乗法苑林章という七巻の書が納められている。それを取り出して学ぶとよい」と告げた。
夢が覚めたのち、神叡はその寺に行き、塔の心柱を開いてみると、七巻の書があった。それを取り出した学んだところ、たいそう知恵のある人となった。
そこで、天皇はこのことをお聞きになり、直ちに神叡を召して、宮中においてあの道慈と学問を競わせた。
道慈は、もとより聡明なうえに、震旦に渡りすぐれた師について十六年に渡って学んできた者である。神叡の方は、それほど知恵者であるとは知られておらず、このところずいぶん優れた知恵を積んだとお聞きになっても、「どれほどのこともあるまい」と天皇は思っておられたが、道慈が論議(ロンギ・問答により経論の要義を議論すること)をしたところ、神叡の答える様子は、実に昔の迦旃延(カセンエン・釈迦十大弟子の一人)のようであった。
論議百条を互いに問答したが、神叡の知恵の方が明らかに勝っており、天皇はたいそう感心され、この二人に帰依した。共に封戸(フコ・古代の封禄制度)を与え、道慈を大安寺に住まわせ三論を学ばせ、神叡を元興寺に住まわせて法相を学ばせた。
その道慈の肖像は、大安寺金堂の東の登廊の第二門に、諸々の羅漢と共に書き加えられている。あの神叡が見つけた七巻の書は、現在まで伝わっていて、法相宗の規範の書となっている。
思うに、虚空蔵菩薩の御利益は計り知れない。それによって神叡も知恵を得ることが出来たのだと人々は噂した、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* 遣唐使粟田道麻とあるのは、粟田朝臣真人というのが正しいらしい。粟田道麻(道麻呂)という人物も実在するが、五十年ほど後の人である。
☆ ☆ ☆
今は昔、
聖武天皇の御代に、道慈(ドウジ)、神叡(ジンエイ)という二人の僧がいた。
道慈は、大和国の添下郡の人である。俗姓は額田氏。聡明にして仏法を学んだが理解力に優れていたので、さらに仏法を深く学び伝える為に、大宝元年(西暦701)という年に、遣唐使粟田道麻という人に従って震旦に渡った。某(意識的に欠字にしている)法師を師として、無双の法門を学び極めて、震旦において( 破損による欠字 )来た。聖武天皇は、これを尊んで( 破損による欠字。この後も欠字が見られる )、さらに、道慈に並ぶ智者は一人もいなかった。
一方、法相宗の僧に神叡という者がいた。某国某郡の者である。俗姓は某氏である。( 某の部分は、意識的欠字。神叡は帰化人であったらしい。)
神叡は、聡明であるが、仏法を学ぶことは薄く、道慈とは比べるまでもない。ところが、神叡は心の中で知恵を得たいと願っていた。大和国の吉野郡の現光寺の塔のひさく形(ヒサクガタ・仏塔の頂上の九輪の上にある宝珠)には、虚空蔵菩薩が鋳つけられていたが、神叡は、それに紐を付けて引き、「願わくば、虚空蔵菩薩、私に知恵を与えたまえ」と祈った。
すると、数日経った頃、神叡の夢に尊い人が現れて「この国の添下郡の観世音寺という寺の塔の心柱の中に、大乗法苑林章という七巻の書が納められている。それを取り出して学ぶとよい」と告げた。
夢が覚めたのち、神叡はその寺に行き、塔の心柱を開いてみると、七巻の書があった。それを取り出した学んだところ、たいそう知恵のある人となった。
そこで、天皇はこのことをお聞きになり、直ちに神叡を召して、宮中においてあの道慈と学問を競わせた。
道慈は、もとより聡明なうえに、震旦に渡りすぐれた師について十六年に渡って学んできた者である。神叡の方は、それほど知恵者であるとは知られておらず、このところずいぶん優れた知恵を積んだとお聞きになっても、「どれほどのこともあるまい」と天皇は思っておられたが、道慈が論議(ロンギ・問答により経論の要義を議論すること)をしたところ、神叡の答える様子は、実に昔の迦旃延(カセンエン・釈迦十大弟子の一人)のようであった。
論議百条を互いに問答したが、神叡の知恵の方が明らかに勝っており、天皇はたいそう感心され、この二人に帰依した。共に封戸(フコ・古代の封禄制度)を与え、道慈を大安寺に住まわせ三論を学ばせ、神叡を元興寺に住まわせて法相を学ばせた。
その道慈の肖像は、大安寺金堂の東の登廊の第二門に、諸々の羅漢と共に書き加えられている。あの神叡が見つけた七巻の書は、現在まで伝わっていて、法相宗の規範の書となっている。
思うに、虚空蔵菩薩の御利益は計り知れない。それによって神叡も知恵を得ることが出来たのだと人々は噂した、
となむ語り伝へたるとや。
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* 遣唐使粟田道麻とあるのは、粟田朝臣真人というのが正しいらしい。粟田道麻(道麻呂)という人物も実在するが、五十年ほど後の人である。
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