雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

知人の知人 ・ 小さな小さな物語 ( 249)

2011-07-20 14:50:44 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
あなたには、何人の知人がおりますか?
いきなりの質問で恐縮ですが、実は、私自身がふと思い立って数えてみました。
「暇だなあ」っておっしゃるのですか? とんでもありません。極めて純粋で高邁な学術的観点からの考察ですよ・・・。
本当のところを申し上げますと、私の知人の知人が、最近とみに名をあげている女優さんなものですから、この縁は、どの程度自慢していいのか計算してみようと思ったことからなんです。


ところが、いざ数えるとなると、そうそう簡単なことではありません。
そもそも、知人の定義というのが、そう簡単なものではないのです。例によって広辞苑の力を拝借したのですが、知人とは、「互いに知っている人」と説明されています。
つまり、片方だけが知っているというのでは知人には当たらないわけですが、知っている度合いのことは説明されていませんから、親子や夫婦も知人の一種でしょうし、朝夕時々挨拶を交わす名前も知らない人も知人のうちに入るのかもしれません。
生まれたばかりの赤ん坊の知人は、パパとママと、あとごく限られた数人に過ぎないでしょうが、小学生ともなれば、その数はずっと増えることでしょう。三十代ともなれば、さらにその範囲は増えますし、すでに接触することが無くなってしまった人でも知人加えるべき人の数は相当な数になることでしょう。これが、七十代八十代ともなれば、本人が元気であれば、すれ違っていった知人の数は膨大なものとなってきます。但し、すでに故人となった人の数も増えてきますが、個人の場合は知人とは呼ばないのかどうか、これも難しいところです。


よく聞くことですが、ノーベル賞とまではいわなくとも、そこそこの賞を得たり、三億円が当たったりすると、それが公表されていなくても、突然、親戚や知人が増えてくるそうです。中には詐欺的な人もいるのでしょうが、潜在的な知人の数は意外に多いということではないでしょうか。
そこで、一人当たりの知人が千人だと仮定してみますと、知人の知人の数は、その千倍の百万人となり、知人の知人の知人ということになりますと、十億人となり、かなりの重複があるとしても、日本の人口の過半を包含してしまうことになります。


離婚するとかしないとか、辞職せよとかしないとか、八百長したとかしないとか、もう飽き飽きだと思いながらもついついテレビ報道を見てしまうのは、その渦中の人々が、自分の知人の知人の知人かも知れないと感じているからかもしれませんねぇ。
そういえば、かの人気沸騰中の女優さん、正しく申し上げますと、私の知人の知人の娘さんでした。つまり、わたしを取り巻く十憶人の中の一人に過ぎないということなのですかねぇ。余り、人には自慢できそうもありません、がっかり・・・。

( 2011.02.08 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建国記念の日 ・ 小さな小さな物語 ( 250 )

2011-07-20 14:49:26 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
本日は、国民の祝日の一つ「建国記念の日」です。ご存知でしたか?
大変失礼な問い掛けだとは思うのですが、「建国記念日」ではなく「建国記念の日」だということをです。
私自身は、この祝日が制定される前後のことを少々承知しているものですから、当然分かっているはずなのですが、「建国記念日」と「建国記念の日」とを混同して使っています。


世界中の国々、といいましても、手元の資料にある分だけですので、その一部の国を見る限り、ということになりますが、その全ての国に祝日が制定されています。国により、かなり特徴的なものもありますが、殆どの国で設置されているのは、年の初めである一月一日(元日)であり、春分や秋分など気候変化によるものが多いように思われます。
その中で、天体の運行などと無縁な祝日もそれぞれのお国の事情に従って定められていますが、その中で最も多いものは、呼び名はともかく「建国記念」とされる日です。


「建国記念」とされる日は、これも各国様々で、憲法制定、支配国家からの独立、開放、などが多いようです。
わが国の場合は、神武天皇が即位したとされる日、すなわち現在の常識としては神話に基づいて定められている数少ない事例にあたります。
わが国の場合にも、明治維新や第二次世界大戦における敗戦と被占領政策からの脱皮など、新たな建国の日とすべき転換点はあったはずですが、わが国文化の根底に流れている天皇制というものを捨てることが出来ず、神話時代にまでさかのぼる悠久の流れを重視した結果としての制定だと考えられます。
ただ、不幸にも、二月十一日を「建国記念日」と制定するのには、旧軍事勢力の台頭を懸念する政治勢力もあり、その妥協の産物として「の」の字が加えられたようです。


そういえば、わが国の国民の祝日は、現在十五日ありますが、「元日」「憲法記念日」「天皇誕生日」以外の十二の祝日には、すべて「の」の字が入っています。それらが必要な「の」なのか、意図的な「の」なのかはともかく、「の」の一文字で妥協を図ろうとするのは、いかにも日本人らしい知恵だということだけはいえます。
ただ、国民の祝日が記念日としての意味合いがどんどん薄れ、要は休めればよいという風潮に流れているように思えてなりません。「成人の日」や「敬老の日」のように、近くの月曜日にした方がレジャーに便利でしょうなどという考えは、全くけしからんなどと思うのは私だけなのでしょうか。 

( 2011.02.11 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手足と足手 ・ 小さな小さな物語 ( 251 )

2011-07-20 14:48:19 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
人間にとって、「手」と「足」は別の機能を担うものとして明確に分けられていると思うのですが、他の動物の場合は、当事者の意識はともかく、私たちが見る限りあまりはっきりしていない場合が多いように思われます。
例えば、犬や猫の場合、前足と後足では、かなり違いがはっきりしていて、前足を「手」と表現してもいいような気がしますし、クマなども前足が似たような働きを持っているようです。カンガルーは、その生態を知っているわけではないのですが、絵本などに登場する姿を思い浮かべてみますと、前足は相当「手」に近いように思います。
しかし、これが馬や牛となりますと、前足と後足に働きの差はあるように思われても、前足が「手」のようだとは思えません。タコの手足の見分け方、などという笑い話もありますが、実際に見分けるのはかなり難しいでしょうし、第一タコ自身が手足を分別しているかどうか、いささか疑問です。


さて、話を人間に戻しまして、通常私たちは「手」と「足」は、それぞれ異なった働きをするものと考えていると思うのですが、この二つを一緒に表現する時には、その順番によりかなり違う意味合いを持ってきます。
「手足」と表現する場合、もちろん「手足が冷える」などの日常会話もありますが、「手足となって働く」というように、誰かのために役立つという意味合いが強くなります。ただ、この言葉、「親分や上司のために働く」といった使われ方が多く、やや卑屈な感じがしないでもないのですが、本当は、弱い人、困っている人のための「手足となる」べき言葉だと思うのです。
一方で、「足手」となると、少々意味合いが違ってきます。ほとんどの場合「足手まとい」と使われ、他の活動の邪魔になる表現となってしまいます。


「辛い」という字と「幸せ」という字はよく似ている、だから、辛くとも頑張っていれば幸せがやってくるのだ、というのは時々目にするパターンですが、「手」と「足」も、「手足」となるか「足手」となるかは、わずかな差です。
別に言葉遊びをするわけではないのですが、私たちは、この似て非なるものを考えてみるような気がしてならないのです。


あるテレビ番組で、「孤独」をテーマとして取り上げていました。大変辛い内容でした。
当地では、阪神淡路大地震の被災者住宅の問題が、今も大きな課題として残っています。残念ながら、来年の地震発生応答日まではマスコミはあまり相手にしてくれないのでしょうが、未だ被災者住宅に残っている人たちの高齢化、孤独、そして、立ち退き期限という厳しい問題も無視できなくなってきています。
その厳しい現実の中で生活している人たちが、自分よりもさらに弱い人のための「手足となって」動いている姿や、何とか人さまの「足手まとい」にならないようにと切々と語る一人暮らしの高齢者の姿は、今日も現実のなかにあるのです。
無責任なことで申し訳ないのですが、この文章は報道を見ただけの感想に過ぎないのですが、本当の意味での社会的な弱者と呼ばれる立場にある人に対して、「手足」になることなどとても出来ませんが、その万分の一でもお役に立ちたいと思っているのですが・・・。

( 2011.02.14 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストレス解消法 ・ 小さな小さな物語 ( 252 )

2011-07-20 14:47:13 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
現代人にとって、ストレスという存在は避けて通れないもののようです。
新聞、雑誌、テレビにラジオはもちろんのこと、インターネットを中心とした各種の情報源を、少し注意をしてみてみますと、ストレスに関するニュースや情報は溢れるほど取り上げられています。
ストレスは、何も現代人に特有なものではなく、古代から、おそらく人類が登場した時から、あるいはその前から存在していたと考えられますが、現代社会におけるストレスの存在は無視できないもののようです。


ストレス解消法についても、数多くの方法が発表されています。
例えば、適度な運動が良い。入浴が良い。趣味を持ちなさい。友人を持ちなさい。適宜な酒も有効。音楽がよろしい・・・、等々。もっと深刻な場合は専門医の診断を受けることの必要性や、もっと神秘的で怪しげな方法を伝授されることさえあるようです。
このように、次々と、その対処方法が示されていることから分かることは、それぞれの方法がそれぞれの人には有効なのでしょうが、全体としてはストレスに悩む人の数は減っていない証左でもあります。


ストレスの解消が、消しゴムで鉛筆文字を消すようにはうまくいかない原因の一つは、ストレスを生み出す原因がとても多く複雑であることです。
ストレスとなっている原因さえ分かれば、それを解消させれば、ストレスは消えてしまうはずです。
しかし、その発生源は、人間関係一つとってみても、近隣との関係、職場や学校関係、通勤通学途上などに数限りなく発生する可能性があり、テレビや映画で見るスターが原因となることかもあるそうです。それに家族関係、中でも配偶者となれば・・・、まあ、これは個人差が大きいようですが。
それらの一つ一つを解消していくのは大変なことですが、どの種類のストレスでも軽減させることが出来る具体的な手段があるにはあるのです。
それは何かを壊すことです。いらない茶碗を割る。大切な茶碗ならもっと有効。紙を破る。風船を割る。障子に穴をあける。窓ガラスを割る・・・、これは、少々乱暴ですが。
考えてみますと、これらの行為は、何かを壊すことで壊れそうになっている精神を立て直しているのかもしれません。おしゃべりでストレスを解消しているのは、聞かされる人に転嫁しているのに過ぎないかもしれませんし、酒で憂さを晴らすのも似ています。


私たちのストレスは、虹のように七つの顔を持っています。色も黒もありそうですから、もっと多彩なのかもしれません。それらが一つ二つと顔を出して私たちを苦しめます。解消法などというもので消えたと思っていても、それらは誰かに転嫁したか、別の色のストレスに移したのに過ぎないように思うのです。
突出してきたストレスを各自が有効な手段を見つけ出して、しばらく誰かにお預けするか別の色に移転させることで静めて、多彩なストレスと仲良くしていくことこそ大切なのではないでしょうか。
幸い私は、このブログに文章を書くことでストレスを軽減させていただいていますが、その分だけ、不運にもこのブログを開いてしまった人がお預かりしてくれているのでしょうね。

( 2011.02.17 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正義とは ・ 小さな小さな物語 ( 253 )

2011-07-20 14:45:50 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
内外ともに騒がしいニュースが伝えられています。
チュニジアで勃発した民衆蜂起による独裁政権打倒の動きは、安定した国家体制と思われていたエジプトを揺るがし、さらに周辺諸国に波紋を広げています。
長く続いている独裁に近い体制に対して、その抑圧や一部の層による不正蓄財や余りにも大き過ぎる貧富の差に対して、これまでは力も団結力もないと思われた人々が、「正義」の名のもとに集結し、怒涛のような変化を起こしつつあります。


わが国はといえば、まあ、これを平和なのだというのでしょうか、時の政権や政治の面での国民の代表たるべき人たちの混迷の中、別にデモが起こるわけでもなく、少し冷静になれば信じられないような不正実に対しても、私たちは寛大で忍耐強い国民だと誇りに思います。むしろ、この国で「正義」などと正面から訴えると、胡散臭い輩と思われてしまいます。
また、何度わけの分からない発言をしても、余りの軽さにあきれながらも、まだコメントを求めに行くマスコミもマスコミですが、堂々と意見を述べておられる政治家といわれる人を見ていると不思議な気持ちがしてきます。しかも、双方ともに「正義」を担っていると本気で思っているらしいのです。


例によって、広辞苑の力を拝借してみますと、正義とは、「①『荀子』正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。 ②『漢書』正しい意義または注解。 ③『justice』イ、社会全体の幸福を保証する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各身分がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の平等が正義の観念の中心となり、資本主義社会は各人の法的な平等を実現した。これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって始めて実現されると主張するが、この場合に正義と自由との問題が生ずる。 ロ、社会の正義にかなった行為をなしうるような個人の徳性。」
以上ですが、これ、何かの論文から抽出したものではなく、広辞苑で説明されているものなのですよ。


つまり、「正義」とは、そうそう簡単に口にしてはいけない言葉なんですよ。その意味をよく理解していて、自分がどの立場に立って正義を唱えているのかを承知したうえで始めて使える言葉であって、単に相手より正しいと主張するのに、「正義」などという言葉を持ち出してはいけないのです。
やたら「正義」を唱える人に胡散臭さを感じるのは、案外、健全で正しい感性の持ち主なのかもしれません。
因みに、「正義感」の意味を見ますと、「正義を重んずる気持」とあります。こちらは、重んずる気持があればいいようですので、もし使う場合には、せいぜい「正義感」程度で止めておくべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

( 2011.02.20 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懸命に生きる ・ 小さな小さな物語 ( 254 )

2011-07-20 14:44:38 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
歴史上の人物の生涯などを見てみますと、もちろんそれは、誰かによって描かれたもので、実態とは全くといっていいほど違うものでしょうが、その生き様は私たちにいろいろなことを語りかけてくれます。
現在放送されているNHKの大河ドラマは、その描かれ方の正否はともかく、登場してくる人物は、誰もが懸命に生きているように見えます。


何も歴史上の人物を引き出さなくても、現在各種の報道機関などで伝えられている人物の動向を見るだけでも、いろいろなことが考えさせられます。
混乱が伝えられる海外の国の指導者たちの様子を考えますと、権力の座に長くあったことからの弊害が色濃く伝えられていますが、それも事実でしょうし、一方で権力の座に着いた当初は、国家や国民のために懸命に働いていただろうということも事実だと思うのです。
わが国の政治的な指導者とされる人たちの姿を見ても、同じようなことが言えます。
高い理想と、不屈の行動力で今日の地位を得たと思われる人たちであっても、さて、指導的な立場に立ってみると、こんなつもりではなかったという思いが少なくないでしょうし、指導される立場から見ますと、その思いは何倍も強く感じるものです。
でも、なかなか、静かに去るということは出来ないようですね。


一人の人間の一生を、最後の一瞬だけで評価するのは間違いだとは思います。
人の一生は、もっとトータルで考えるべきだと思いますし、当ブログで、『ラスト・テンイヤーズ』という作品を書きましたのも、そのことを訴えたかったからです。
しかし、権力の座や、現在の地位にしがみついているように見える人たちを見ていますと、長年の功績を最後の僅かな期間で台無しにしている人も少なくないようにも思われます。


私たちは、全ての私たちは「懸命に生きている」ものです。
傍目にはぐうたらしているように見えても、自分自身では何の望みもないような言葉を吐いていても、本当は懸命に生きているものです。
それで良いのですし、そうあるべきだと思うのです。生を受けている限り最後の最後まで懸命に生きるべきだと思うのです。
ただ、その「懸命」のなかに、ある年代に至った時には、現在持ってしまっている立場や権限や財力などを、なんとか公平な目で自分自身を見つめる力を養って、「懸命に捨てて行く」ことが必要なのではないでしょうか。

( 2011.02.23 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平気で生きる ・ 小さな小さな物語 ( 255 )

2011-07-20 14:43:35 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
新聞やテレビなどのニュースを見るたびに思うことですが、世の中には哀しい出来事が多すぎます。
何も、最近に限ったことではないのでしょうが、明るいニュースでは読者や視聴者の関心を掴むことが難しいらしく、哀しいことや悲惨なことに報道の重心が傾いているようにも思われます。


しかし、例えば今朝の新聞を広げてみても、圧倒的に辛いものや哀しいことが多いように思われます。
世の中の出来事を、単純に「明・暗」と区分けすることなど出来ませんし、それぞれの立場により見え方が微妙に違うことも確かです。けれども、やはり、「明」より「暗」に属するニュースが断然多いように思います。国内政治しかり、国際政治しかり、経済問題や個人の生活に関するものでも明るいものはあまり見当たりません。地震や火山の爆発など個人の力ではどうにもならない災害に対して、その怒りをどこに持って行けばよいのか分からない渦中にある人の苦しみは、想像を絶するものなのでしょう。
いたいけな子供に対する犯罪やいじめは後を絶ちませんし、高齢者にまつわる哀しいニュースは増えるばかりです。
「生きていく」と簡単にはいいますが、そうそう簡単なことでもなさそうです。


最近、このような文章を読む機会がありました。
「『悟り』とは、いつでも平気で死ねることだと思っていたが、それは誤解だと思った。それは、如何なる時にも『平気で生きて居る』ということあった」と自らの心境を述べているという言葉です。
俳人・歌人として知られる正岡子規の言葉ですが、正しく記憶しておりませんので、若干の違いがあるかもしれません。


生きて行くことが辛くなったり、もうどうでもいいような気持になることは、その深刻さに差はあるとしても、多くの人が一度や二度は味わうことがあるのではないでしょうか。
物事悲観的にとらえれば、限りなく落ちて行きます。時には、自分をより絶望的な場所に追い込んでしまうことも少なくありません。
しかし、幸か不幸か、私たちは人生八十有余年の時代に生きています。百歳を超える人など今時珍しくもありません。長く生きれば生きるほど辛い経験も付いてきます。今こそ、どんな状況下にあっても、『平気で生きて居る』という「根性と悟り」が必要なのではないでしょうか。
なお、脊椎カリエスに苦しんだ文豪は、三十五歳で亡くなっています。

( 2011.02.26 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きていること ・ 小さな小さな物語 ( 256 )

2011-07-20 14:42:35 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ニュージーランドの地震は、大変な惨事となってしまいました。
関係者の方々には、ただただお見舞い申し上げます。そして、奇跡というものがあることを祈るばかりです。


わが国が世界に冠たる地震国であることは承知しているつもりですが、実は、彼の国もわが国と同じように地震多発国のようですし、この十年を考えてみても、いくつも大きな地震が発生していますが、その場所は決して一定地域に限られているわけではないようです。
地震予知などの研究がすすめられ、長期的な予報についてはある程度の成果もあるそうですが、この星に生きている以上避けて通れない宿命なのかもしれません。


被災地の無残な光景を報道で見るにつけ自然の脅威を思い知らされますが、同時に、捜索にあたる人々の姿に胸が熱くなります。
隣国オーストラリアをはじめとして、多くの国からの援助隊が捜索や復旧にあたっているそうですし、もっと違う形での支援はさらに大きな広がりを見せているはずです。そして、その多くの人々が、何とか一人でも多くの命を救い出したいと懸命になっており、絶望がささやかれかけてからもその努力は衰えを見せていません。一つの命の重みをつくづくと思い知らされる光景でもあります。


その一方で、どちらに「正義」があるのかは知りませんが、紛争地域では風に舞う木の葉よりも軽々と人命が失われていっています。飢えとの戦いに敗れ、散っていく子供の命の数は膨大な数に上ります。
幸い私たちの国では、紛争からも、飢餓との戦いからも守られています。
しかし、悲しい形で命が失われていくことは後をたちません。生きているということがどれほどの意味があるのかとか、死ぬということがそれほど大変なことなのか、などと考えてしまうことは、程度の差こそあれ多くの人が経験することです。一つの命が消えたところで、どうということもないと思うこともあるかもしれません。
しかし、多くの人たちが奇跡を念じながら救出にあたっている姿を見ると、一つの命の重さ、たった一つの命に連なっている多くの人々の想いの深さを、私たちは忘れてはならないように思うのです。
生きていること、そのことだけで救われる人が周囲にいることを考えてみたいと思うのです。

( 2011.03.01 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きとし生ける物 ・ 小さな小さな物語 ( 257 )

2011-07-20 14:41:34 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
私たちは、どういう天の配剤で存在しているのか分かりませんが、今、確かに生きていることは紛れもない事実です。
それがどういう意味を持っているのか、何故生きているのか、何故生かされているのか、はたまた本当に生きているのか・・・、などと言い出せば際限がなくなってしまいますが、ごく単純に私たちは生を受け、今を生きていると考えています。
それだからこそ、私たちは「懸命に生きる」べきですし、どんな状況下であっても「平気で生きる」根性が必要ですし、命というものはそれほど軽いものではないということを認識して「生きていくこと」が大切だと思うのです。


今回を含め続けて四回が「生きる」ということがテーマになってしまいました。
少々向きになってしまったという反省もありますし、知ったかぶりの意見を想いにまかせて書いてしまったことに恥ずかしい気持ちもあります。まあ、少しは長く生きてきた者の意見としてご辛抱下さい。


さて、今回のテーマの「生きとし生ける物」とは、「この世に生きている物すべて」といった意味です。
私たちは、命を大切だと思うのであれば、それも、自分の命が大切なものであると思うのならなおさらに、他の命も大切にしなくてはならないのは当然の理論です。さらにいえば、自分の命を大切と思わない人はなおさらに、「命]そのものに関わってはならないと思うのです。
考えてみますと、私たちは「命」に対して、不思議な感覚を持っています。伝染病やウイルス汚染で殺処分された大量の牛や鶏をとても可哀そうだと言います。出荷直前の肉牛が急遽殺処分されることに対して可哀そうだと感じてしまいます。それも、業者の人が気の毒だというのは分かるのですが、牛が可哀そうだと思ってしまうのです。この感覚は何なんでしょうか。
「牛を殺すのは良いが、鯨を殺すのは許せない」「家畜を殺すのは良いが野生の動物は駄目だ」などというのも、「命」そのものから考えれば、やはり不思議な感覚だといえます。


とはいえ、私たちは多くの命を犠牲にしなくては生きて行くことなど出来ません。それを植物まで広げれば、私たちは生涯をどれほどの「命」の犠牲によって全うするのでしょうか。いくらちっぽけな命だからといって、それが自分のものだからといって、そうそう粗末には出来ないのは当然のことだと思います。
私たちの祖先は、動物や植物ばかりでなく、山や川や月や星に命を感じ、風や雲の流れからもその息吹を感じ取っていました。それらを、八百万(ヤオヨロズ)の神として崇め、畏れ、感謝してきたのです。
私たちは多くの命を頂いて生きています。それだからこそ、どれほど小さな命であっても無駄な殺生をしてはならないのです。そして、時には、胸を張って大きく息をして、八百万の神々の声を聞いてみるのも良いのではないでしょうか。

( 2011.03.04 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽計業務妨害罪ですか? ・ 小さな小さな物語 ( 258 )

2011-07-20 14:40:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
偽計業務妨害罪って、ご存知でしたか?
私自身、そのような犯罪があることは漠然と知ってはいましたが、カンニングがその罪にあたるなんて、全く知りませんでした。


新聞やテレビの報道によりますと、偽計業務妨害罪とは「虚偽の風説を流布し、又は、偽計を用いて人の業務を妨害すること」だそうです。
わが国は、たしか法治国家だったと思いますので、このたびの京都大学等の入試試験におけるカンニング行為が、この条文に合致するのであれば実行者に対して厳しい罰を与えねばならないでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。
今回の騒動が、組織的かつ金銭的な利得が目的となっていればともかく、単純なカンニング行為であれば、この騒ぎようは異常な気がするのです。


もし今回のことが、偽計業務妨害罪にあたるとなった場合、「虚偽の風説を流布し」には当たらないと思いますので、「偽計を用いて人の業務を妨害すること」にあたると思われます。つまり、入学試験は大学の業務だということが前提になります。
もし今回のことが有罪となれば、大学は業務を妨害されたということであり、それは、入学試験は妨害されたということであり、他の受験者に満足な場を提供できなかったということになります。当然大学側は、他の受験者に対しては、満足な場を提供するという前提で受け取っている受験料を返還しなくてはならないのは、ごく当然なことではないでしょうか。


カンニング行為が許されない行為であることはだれでも認めるところです。それでなくても、要領よく立ち回ったり、見つからなければいいのでしょうという犯罪もどきのことが多すぎます。
しかし、そのような風潮に警告を与えるために、若い青年を犠牲にしてはなりません。そのような対象は、他にたくさんいるでしょう。力のある人はそっとしておいて、力の弱い者を寄ってたかって叩くのは、あまり恰好のいいことではないですよ。
今回の当事者に対しては、被害を受けたなどと言っている大学は、この人物に二度と受験する資格を奪うぐらいで十分なのですよ。当事者の行為が許されないことは当然ですが、不十分な監督体制が罪人を産んでしまったことも反省されて、訴えを取り下げることを願っています。

( 2011.03.07 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする