雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

藤井王将 初防衛へ王手

2023-02-27 18:44:15 | 日々これ好日

     『 藤井王将 初防衛へ王手 』

    将棋の王将戦 藤井聡太王将と羽生善治九段が
    熱戦を繰り広げている
    第五戦は 藤井王将が勝って三勝目
    初防衛に あと一勝となった
    次戦 もし羽生九段が巻き返せば
    歴史に残るような 王将戦になりそうだ
    次戦は 3月11日・12日 
    興味津々だ!!
     
                                               ☆☆☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移りもゆくか

2023-02-27 08:00:40 | 古今和歌集の歌人たち

     『 移りもゆくか 』

 

 吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の
          移りもゆくか 人の心の

           作者  雲林院の親王

(巻第十五 恋歌五  NO.781 )
     ふきまよふ のかぜをさむみ あきはぎの
             うつりゆくかも ひとのこころの


* 歌意は、「 吹き荒れる 野風が寒くて 秋萩の 花の色が変わっていくように 世の流れとともに 人の心も同じように移り変わるのだろうか 」といった、世の無常を詠んだものでしょう。

* 作者の雲林院の親王(ウンリンインノミコ)とは、仁明天皇の第七皇子常康親王のことです。
母は、更衣の紀名虎の娘 種子です。
常康親王は、第七皇子であるばかりでなく、藤原氏の台頭が著しいこの時代、生母が紀氏であることから、皇位継承候補としては誕生した時点から外されていたようです。

* 常康親王の生年は不詳です。
仁明天皇には多くの后妃がおり、御子も伝えられているだけでも相当の数に上ります。常康親王は第七皇子ですが、必ずしも誕生順になっていない可能性もありますが、第四皇子の生年が 831 年、第八皇子の生年が 837 年という記録が残されていますので、常康親王の生年はこの間と推定できます。
常康親王の伝えられている消息は少ないのですが、840 年に無品(ムホン・品は皇子の官位に当たる。)ながら志摩国答志島を与えられた、という記録があります。
その次の記録としましては、851 年に亡き父帝を追慕して出家したことが残されています。

* 仁明天皇が薨去したのは 850 年のことですが、すぐその後を追っての出家のようで、その後は雲林院に隠遁する生活であったようです。
この時の常康親王の年令は、せいぜい二十歳程度だったのではないでしょうか。
この雲林院は、仁明天皇の先帝淳和天皇が離宮として造営したものを仁明天皇が受け継ぎ、その後 常康親王に与えられていたようです。
このように、幼いうちに答志島を与えられたり、雲林院を譲渡されるなどから分かるように、父帝は常康親王をたいそう可愛がっていたようです。また、若くして蔵人を務めた僧正遍昭も寵愛していたようで、その関係もあって常康親王と遍照は親しい関係であったようです。年令は、おそらく遍照の方が十歳以上年長であったと思われますので、常康親王にとっては、身分の差はともかく、兄あるいは師といった存在だったのかもしれません。

* 雲林院に移った常康親王は、869 年に没するまで十八年間を詩作三昧の日を過ごしたとされています。その期間は、宮廷で過ごした期間と等しいほど長いものであったのでしょう。ただ、遍照法師や素性法師などとは交流があり、没後の雲林院は遍照に託されています。
平安時代は、王朝が大きく発展し絢爛豪華な文化を築いていきました。その一方で、皇位をめぐる葛藤は、藤原氏を中心とした権力者たちの思惑もはらんで、激しく、時には凄惨なまでの争いが展開されました。
同時に、皇子や皇女の多くは、歴史の表舞台に立つことのない生涯を送っています。その事が、幸せであったのか否か様々なのでしょうが、さて、常康親王の場合はどうだったのでしょうか。

     ☆   ☆   ☆ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする