雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

あの気球は誰の物?

2023-02-15 19:05:46 | 日々これ好日

     『 あの気球は誰の物? 』

    正体不明の気球をめぐる 対応のあり方が
    国際問題化する懸念が 膨らんでいる
    領空内に入ってきた気球は 誰の物と考えるべきだろうか
    所有者が分かっておれば 交渉次第だと思うが
    正体不明の場合は どうするのが正しいのだろう
    そもそも 気球ほどの大きさの物が
    正体不明など あるのだろうか
    もし 他国の機密情報獲得が 目撃だとすれば
    あまりにも無防備だと言えるし なめきっているとも言える
    公正な協定を 早く実現させて欲しい

                    ☆☆☆

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ともにかれなむ

2023-02-15 08:01:35 | 古今和歌集の歌人たち

          『 ともにかれなむ 』

 心なき 草木といへど あはれなり
        今年は咲かず ともにかれなむ

           作者  尚侍広井女王

( 異本所載歌  NO.1126 )
    こころなき くさきといへど あはれなり
             ことしはさかず ともにかれなむ


* 歌意は、「 この桜は 心がない 草木とはいえ 悲しそうである きっと 今年は咲くこともなく 亡き帝と共に枯れてしまうのだろう 」と、亡き天皇を悼む歌です。
この歌の前書きには、「諒闇の年、冷泉院の桜を見てよめる」とあります。諒闇(リョウアン)とは、天子が父母の喪に服する期間を指しますが、臣下や国民も服喪しました。この歌では、嵯峨上皇の薨去( 842 )にともなうものです。
また、冷泉院とは、嵯峨上皇の御所のことです。そして、最終句の「ともにかれなむ」の「かれ」は、桜が「枯れる」と作者が御所を「離(カ)れる」ことが掛けられています。
なお、「異本所載歌」に分類されているのは、藤原定家の書写本にはないが、他に伝えられている書写本に収められている歌ということです。

* 作者の尚侍広井女王(ナイシノカミ ヒロイノミコ/ヒロイジョオウ)は、平安時代初期の官女です。
ただ、その出自については、難解な部分があります。
生年は未詳ですが、没年は 859 年で、行年は八十才を過ぎていたとされます。これから逆算しますと、生年は 780 年より前となりますので、誕生は奈良時代となります。
平安京を開いた桓武天皇ですが、その即位は 781 年、長岡京に遷都したのが 784 年、さらに平安京に移ったのが 794 年のことです。
私たちは、794 年を平安時代の始まりとしていますが、桓武天皇の立場から考えますと、その在位期間( 781 - 806 )の半分は平安京への混乱の中にあったのです。

* 広井女王は、「女王」と称されているので、皇族に繋がる一員として自他共に認められていたのでしょうが、その血脈は天武天皇から六代を経ているわけですから、皇族としての待遇を受けていたとは思えないのです。父とされる雄法王の官位は従五位上ですから、貴族として高位とは言えません。
ただ、広井女王の後の経歴を考えますと、若い頃から宮廷あるいはその近くに身を置いていたと推定されるのです。
その前提に立ちますと、奈良の都で誕生した広井女王は、幼少期は朝廷の移動と共に生活の場を替えていたのでしょう。そして、平安京に入ったのは、十代の半ば過ぎの頃で、当時の女性としては、最も華やかな頃だったのではないでしょうか。

* 広井女王の前半生は、推定することも難しいのですが、女官としての経歴は残されています。
831 年、従五位下、尚膳(カシワデノカミ)に就いています。膳司の長官で、食膳に関する職務で六十人ほどの女官がいたようです。
850 年、従四位上、権典侍になっています。典侍(ナイシノスケ)は内侍司の次官です。内侍司は女官だけの役所ですが、天皇の秘書役的な役割があり、この頃には相当の権限を有していたようです。
854 年、従三位に上っています。公卿に当たる地位です。
859 年、尚侍に就きます。尚侍(ナイシノカミ)は内侍司の長官で、女官の最高峰と言えます。平安時代中期頃からは、妃や更衣と同様、後宮入りした女性が就くことが多く、実務に就くことはなくなっていますが、この頃は、実務面の最高位であったと考えられます。そして、同年10月に亡くなっています。行年は八十余歳とされていますので、この昇進は、功労の意味があったのかもしれません。

* この経歴を見ますと、なかなか他に例を見ない女官生活を送った女性のように思われます。
従五位下に上った 831 年といえば、すでに五十歳を過ぎていたと思われます。何かと深い縁が感じられる嵯峨天皇は生存していましたが、退位して八年ばかり過ぎた頃の事です。よほど才覚が認められていたか、特別な理由があったと思われますが、よく分かりません。
同様に、権典侍に就いたのが七十歳を過ぎており、従三位に上ったのは七十五歳前後だと考えられます。
尚侍に就いたのは功労的なものだとしても、八十歳を過ぎる頃まで、女官の指導的な立場に存在し続けていたと思われるのです。

* 広井女王と嵯峨天皇には、特別な関係を匂わせるようなものがあるようです。
参考書によっては、山口女王を嵯峨天皇の妃とするものもありますが、正しくないような気がします。嵯峨天皇の妃には山口女王の名はありません。ただ、宮人(妃より下位の夫人)として、広井弟名女という人が記録されています。この人を生母とした人物に、正二位左大臣にまで上った源信がいますが、その人の生母は広井弟名女となっています。ただ、この広井弟名という人物がよく分かりませんが、広井女王の父とは別人と考えられます。
また、広井女王が嵯峨天皇の妃に近い立場にあったとすれば、掲題の歌を詠む頃には、髪を下ろしていて、その後、宮仕えすることなどなかったのではないでしょうか。

* 広井女王と嵯峨天皇の関係がどのようなものであったのかは、よく分かりませんが、深い信頼を受けていたことは確かなようです。
広井女王は、催馬楽(サイバラ・雅楽の一種で歌をともなう)の名手であったようで、多くの人に指導していたようです。また、嵯峨天皇から「和琴血脈」を受け継ぎ、仁明天皇と源信に伝えたとされています。この「和琴血脈」のことは不勉強ですが、和琴の秘伝書のようなものと思われます。二人の信頼関係は、並々ならぬものだったのでしょう。

* 広井女性という人物の、息吹のようなものを探りたいと思いましたが、残念ながら、その一端さえ捉えることが出来ませんでした。
ただ、嵯峨天皇から数えるとしましても、淳和・仁明・文徳・清和に至る五代の天皇の宮廷で重きをなし、清和天皇の後見役である藤原良房など台頭著しい藤原氏の支持を受けていた(尚侍になったのは清和天皇の御代ですが、天皇はまだ十歳だった。)と考えられるなど、長きに渡って王朝の内部を支え続けていた希有の女性だったと思われるのです。
この推定が正しいとすれば、歴史上、もっと注目されるべき女性のように思われてなりません。

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

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