『 思うに任せないが 』
一部の都府県で 緊急事態宣言期間がスタートした
残念ながら 昨日今日あたりの人の流れは
昨年のような削減には ほど遠いようだ
さらに 昨年は余り話題にならなかった 路上飲酒などが
増えているとか
危機感が薄れたのか 自粛や要請の限界が見えたのか
それ以外にも 幾つもの理由があるのか
そして もっと有効な何かがあるのか
ただ どんな理由があろうとも
今の状態を 3年も5年も耐えるのは厳しい
ワクチンを頼りにしたいが
私たちにも あと一歩 努力が必要な気がする
☆☆☆
青柳の いと乱れたる このごろは
ひとすぢにしも 思ひよられじ
作者 女御藤原生子
( NO . 1251 巻第十四 恋歌四 )
あおやぎの いとみだれたる このごろは
ひとすぢにしも おもひよられじ
* 作者は、後朱雀天皇の女御。(1014 - 1068)行年五十五歳。
* 歌意は、「 青柳の 糸(細 い枝)が乱れるように あなたのお心は乱れていて いちずにわたしに思いを寄せていただくことは 出来ないのでしょうね 」といった、帝の愛情を恨んだ返歌である。
この和歌は、後朱雀天皇の贈答歌に対する返歌であるが、新たに麗景殿女御(レイケイデンノニョウゴ・藤原頼宗の娘延子)か、作者の入内後三ヶ月にして入内しており、そのことを恨んでのものらしい。
* 作者の 後朱雀天皇女御 藤原生子の父は、関白左大臣にまで昇った藤原教通、母は、当時の教養人として知られる藤原公任の娘である。また、教通は御堂関白藤原道長の五男であり、生子は道長の孫にあたる。つまり、女御である以前に、藤原氏の繁栄の真ん真ん中に育った女性ともいえるのである。
なお、生子の読みは、ふつうは「セイシ」とされるが、「ナリコ」「イクコ」と記されているものもある。
* 作者の父の教通は道長の五男であるが、相当優秀であるらしく、長男の頼通と同等の嫡子として遇されたらしい。十一歳で正五位下を叙爵、十五歳で従三位となり公卿の地位を得るなど、頼通と同等の昇進を続けた。
五歳年上の頼通は、年少の間はともかく、次第に不満のような気持ちを抱くだけでなく、危機感を抱くようになったであろうことは、想像に難くない。
父の道長が死去したのは、教通が三十三歳の頃であるが、おそらく、これによって頼通の教通への抑圧は増していったことであろう。
* 頼通は、凡庸であったとされる文献もあるようだが、偉大すぎる父道長と比べられる部分もあったと思われる。
当初は当然道長の権威に守られていたのであろうが、関白の地位を二十八歳から七十六歳まで務めたという実績は、並の人物ではなかったはずである。
ただ、教通にとっては、頼通という重しに抑え続けられた人生であったかもしれない。教通を紹介する場合、「関白左大臣」とするが、教通が関白の地位に就いたのは頼通退位後の七十三歳の頃であるから、頼通の存在が如何に大きな重しであったかが分かる。教通が頼通に接する態度は卑屈なほどに低姿勢であったともいわれ、関白の地位に就くにあたっても、頼通は実子に譲りたい意向であったが、藤原一族の中で強い発言力を持っていた姉の上東門院(一条天皇の中宮彰子)が道長の遺言として説得してしたものだという。
* 道長により頂点に達した藤原氏の繁栄は、1074年春に頼通が死去し、秋には上東門院も世を去り、さらに翌年には教道も亡くなったことで、藤原氏の政界での指導力は急速に衰えていった。
つまり、この三人の死去は、摂関政治の終焉であり、院政時代の始まりでもあったのである。
* こうした父教通の生き様は生子の生涯にも大きな影響を与えている。
教通にとって、生子を入内させることは悲願であったが、頼通への遠慮や抑圧からなかなか実現させることが出来ず、ようやく実現したのは生子が二十六歳のことであった。一条天皇の中宮である定子が入内したのが十四歳、上東門院彰子の入内が十二歳ということを考えれば、余りにも遅すぎる入内であった。
後朱雀天皇との仲は睦まじかったと伝えられているが、御子をなすことは無かった。天皇は 1045年 に崩御、行年三十七歳であった。生子の結婚生活は五年ほどである。この間にも、教通は生子の立后に向けて奔走したが、頼通の反対により実現しなかった。
* 生子は、後朱雀天皇崩御後程なくして内裏を退出している。1055 年に出家。1068 年に亡くなったが、この間の消息は多くないようだ。
内裏に在った時には、歌会を主催したとの記録もあるようだが、伝えられている和歌の数は多くない。
しかし、内裏を離れたとはいえ、従一位・准三后という地位があり、父も健在の中での晩年の生活は、傍目には何不自由のないものであったはずである。念仏三昧の期間もあったかもしれないが、内裏を離れてから出家するまでに十年ほどの期間があるのも気になる。
ただ、その間の消息は、余りにも少ない。
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