雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

軍事クーデターか?

2021-02-01 18:30:08 | 日々これ好日

      『 軍事クーデターか? 』

   ミャンマーで 軍事クーデターとのニュース
   わが国との関係は深く 進出している企業も多い
   年配の人には 「ビルマの竪琴」で知られているし
   近年では アウンサンスーチーさんが有名だ
   近代は 政治的に厳しい状況が続いているが
   最近は 近代化が進んでいるとされる
   今回の事が どういう影響を与えるのか 心配だ

                  ☆☆☆

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今日か明日かと

2021-02-01 08:21:11 | 新古今和歌集を楽しむ

     わが世をば 今日か明日かと 待つかひの
                涙の滝と いづれ高けん

             作者  中納言行平

( No.1651  巻十七 雑歌中 )
        わがよをば けふかあすかと まつかひの
                  なみだのたきと いづれたかけん

* 作者は、平安時代初期の公卿・歌人である。 ( 818 - 893 ) 行年七十六歳。

* 歌意は、「 私の出世の時を 今日か明日かと 待っていても その甲斐はなく 涙の滝とこの滝と いずれが高いのだろうか 」と、昇進の遅さを嘆いたものであろう。
なお、この和歌の前書き ( 詞書 ) には、「布引滝を見にまかりて」とあるので、滝とは神戸市の山中にある布引の滝のことを指している。また、「かい」は、「甲斐」と「峡 ( 山と山との間の狭い所 ) を掛けている。
 

 * 作者・中納言行平 ( ユキヒラ ) の姓は在原氏。
父は、平城天皇の第一皇子である阿保親王。
母は、未詳。 平城天皇の妃である伊都内親王 ( 桓武天皇皇女 ) という説もあるようだが、はっきりしない。行平の義弟である在原業平 ( アリハラノナリヒラ・「伊勢物語」で名高い人物 ) の生母は伊都内親王のようであるが、行平とは異母兄弟と推定される。阿保親王には多くの子女がいるが、生母についてはほとんど伝えられていないようである。

* 父の阿保親王 ( アボシンノウ・792 - 842 ) は波乱の生涯を送った人物である。
平城天皇の第一皇子であることを考えれば、立太子してもよい存在と思われるが、早くからその候補でなかったらしいのは、母の身分が低いことよりも、祖父に当たる桓武天皇の覚えが良くなかったのではないだろうか。
それでも、809年、十八歳で親王として四品に叙せられたが、翌年に発生した廃太子を巡る政争 ( 薬子の変/平城太上天皇の変 ) に連座して、大宰権帥に左遷されている。実質的には流罪で、嵯峨天皇によって帰京が許されたのは 824 年のことである。作者の行平が誕生したのはこの間のことである。
826 年、阿保親王は奏請により、息子たちに「在原姓」を賜与させて、臣籍降下させている。自らの長年にわたる追放生活から、子供たちに皇族内の政争から距離をとらせようとしたのであろう。
ところが、阿保親王自身は、再び政争に巻き込まれている。842 年に発生した皇太子に関わる政変 ( 承和の変 ) では、謀議に加わらず防止に動いたとされるが、その三ヶ月後に急死している。死因は不詳であるが、単なる病死とは考えにくい。行年五十一歳であった。

* 作者の行平は、不遇の阿保親王の御子の中では、貴族として比較的順調な昇進をしたようである。主として武官として、あるいは地方官として、特に内政に優れていたとされ、因幡守・播磨守・信濃守などの守護職を歴任している。
そして、870 年に参議となり公卿の身分に達している。五十三歳の頃である。
882 年には正三位中納言に至り、893 年に行年七十六歳にして逝去した。

* 理由は伝えられていないが、文徳天皇 ( 在位 850 - 858 ) の御代の頃、行平は須磨に蟄居させられていたようである。そのときに、流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したとされ、謡曲の「松風」は当時のことを題材にして生まれたという。
また、今日でも使われている「ゆきひら鍋(雪平鍋/行平鍋)」は、行平が海女に塩を作るために海水を焚かせた鍋に由来するとも伝えられている。

* 「王」と呼ばれるべき星の下に生まれながら臣籍降下し、晩年に至って公卿の身分を得たとはいえ、本人にとっては、その生涯はどのようなものであったのかと思われる。
義弟である在原業平は、歌人として、あるいは伊勢物語の主人公として、今日、行平より遙かに著名であるが、その奔放とみえる生き様には、何か鎮めることの出来ない屈託のようなものが感じられ、行平とても同様であったのではないかと推定されるのである。
ひとりは奔放に生き、ひとりは実直に生きたと見えるが、行平の生涯については、その奥に秘められているものをもっともっと知りたいと思うのである。

     ☆   ☆   ☆ 

 

コメント (2)
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