雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

甲子園 熱戦続く

2019-08-11 18:41:31 | 日々これ好日
        『 甲子園 熱戦続く 』

     高校野球 熱戦が続く
     まさに 炎天下のもと 点差はともかく 
     熱戦が続いている
     わが県の代表校は 大熱戦の末 たった今勝利した
     好ゲームだった

                     ☆☆☆
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音はしてまし

2019-08-11 08:18:47 | 新古今和歌集を楽しむ
     世の常の 秋風ならば 荻の葉に
             そよとばかりの 音はしてまし


                    作者  安法法師女

( No.1212  巻第十三 恋歌三 )
              よのつねの あきかぜならば をぎのはに
                        そよとばかりの おとはしてまし



* 作者は、平安時代中期の女性。生没年ともに未詳であるが、三条天皇とほぼ同時代を生きた女性と推定される。

* 歌意は、「 世のふつうの 秋風であれば 荻の葉に そよそよというくらいの 音は立てますでしょうに 」と、男の薄情を詠んだものであろう。

* 作者の安法法師女(アンポウホウシノムスメ)は、現代の私たちにはなじみが薄い人物であろう。新古今和歌集には掲題の和歌を含め二首入選しているが、そのうちの一首(No.1217)は能因法師が代作したものとされている。その事も含め、歌人として超一流というほどの女性ではなかったようであるし、宮廷にも出仕していないようである。その行跡についての伝承は極めて少ないようで、生没年も未詳である。

* ただ、父の安法法師については、いくつかの情報が伝えられている。
安法法師は、嵯峨源氏の左大臣源融(ミナモトノトオル・822-895 )の曽孫(六代孫との説もある)にあたる。源融は、嵯峨天皇の皇子であるが、源氏して臣籍降下した人物である。臣籍降下後も貴族として政権に影響を与え、六条河原に壮大な邸宅を構えたことから河原左大臣とも呼ばれたという。
しかし、安法法師の父の代には家運は衰退し、朝廷内で遇されることはなく、僅かに壮大な六条河原の邸宅だけは相伝されていた。
安法法師の確たる資料としては、962年に歌会を催したこと、989年に天王寺別当に就いたことがあるが、生没年は明らかでない。

* 安法法師は、相伝した壮大な六条河原邸の一画を寺院として住んでいたので、作者もその屋敷で生まれ育ったのであろう。
冒頭に挙げた和歌の前書きには、「 三条院、みこの宮と申しける時、久しく問はせ給はざりければ 」とあるので、 この和歌が、三条院のつれなさを恨んでのものと推定できる。
三条院 ( 976-1011 )とは、第六十七代天皇のことである。みこの宮とは、皇太子を指す。
986年、花山天皇は出家して、一条天皇に譲位した。この時、一条天皇はまだ九歳であり、同時に皇太子に就いた三条院(居貞皇子)は四歳年上で十一歳であった。
そして、この後のいつかの時点で、三条院は作者・安法法師女のもとに通っていたと考えられる。
ただ、三条院の皇太子時代は、1011年に即位するまでの二十五年にも及ぶので、この和歌が詠まれた時期を推定するのは難しい。
そうとはいえ、作者と三条院の逢瀬がいつの頃であったかにしろ、二人の年齢差はせいぜい十歳程度と推定するとすれば、作者の生年はおおよそ推定できよう。

* 一条天皇から三条天皇の時代は、藤原兼家とその子供の道隆、道長などにより、藤原氏の全盛に向かった時期にあたる。皇位継承も、外戚の地位を狙って権謀術数が展開されたであろうことも推定できる。同時に、特に一条天皇の後宮における勢力争いは、本人の意思に関係なく、中宮定子と彰子の勢力争いの図が出来上がり、それぞれのもとに才女が集まり、清少納言や紫式部に代表される平安王朝文化の絶頂期でもあったのである。
作者・安法法師女は、この時代に生きた女性なのである。

* ただ、作者が宮廷に出入りしていたという記録はない。また、三条院との関係も、明確な記録は何もないようである。三条院には、皇后、中宮の他に、東宮女御として二人の名前が残されているが、作者を連想させるような女性は記録されていない。 
また、当時の常識として、残念ながら、皇統に繋がる女性とはいえ、作者程度の家系では、天皇の妃妾として記録されることはなかったのであろう。

* いずれにしても、三条院、あるいはその後宮との関わりはともかく、衰えたとはいえ皇族に繋がる血筋であり、父も僧侶としてそれなりの地位を得ており、壮大な邸も所有していた。また、新古今和歌集が編纂されたのは、1200年の頃なので、作者が生きた時代から二百年近くも後のことである。少なくとも、この時代にもその名前が伝えられていたとすれば、それなりの生涯を送った女性であったと、推定したいのである。

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