いづちとか 夜は蛍の のぼるらん
ゆく方知らぬ 草の枕に
作者 壬生忠見
( No.272 巻第三 夏歌 )
いづちとか よるはほたるの のぼるらん
ゆくかたしらぬ くさのまくらに
* 作者 壬生忠見は、平安時代中期の歌人。生没年ともに不詳。天徳四年(960)の「内裏歌合」に登場しているので、この頃には成人していたらしいことが分かる。
* 歌意は、「 どこへ行こうとして 夜になると 蛍が飛び上って行くのだろう。行く方向も分からず 草の枕を棲み処にしている身なのに。」と、受け取った。「草の枕」は、ふつうは「人の旅寝」を指すが、ここでは、「蛍の棲み処」を指していると受け取って意訳した。
* 作者は、古今集の撰者の一人でもある壬生忠岑の子である。作者も歌人として著名であったが、共に官位は高くなく、忠見の最高位も正六位上と殿上人の資格にも達していない。
この時代、和歌の巧拙は、貴族に取って教養の重要な要素の一つであったが、同時に、厳格な身分制度は、和歌の力だけでは簡単に打破できるものでもなかったらしい。
* 上記の天徳四年の「内裏歌合」は村上天皇主催の歌合であるが、その時、作者の壬生忠見は、平兼盛(従五位上、光孝天皇の五代孫。)と競った時の逸話が残されている。
壬生忠見『 恋すてふ わが名はまだき 立にけり 人しれずこそ おもひそめしか 』
平兼盛 『 忍ぶれど 色に出にけり 我恋は 物や思ふと 人のとふまで 』
この二つの和歌の勝敗は、いずれも優れていて判定を決めかねていたが、天皇が「しのぶれど」とつぶやいたようだ、ということで兼盛の和歌の勝ちとなったという。
* 忠見にとっては、自信の作であったらしく、敗れたことによって悶々のうちに病死した、という伝承がある。しかし、これより後にも作品が残されているし、そもそも歌合では、相手を変えて何回も勝ち負けが行われるので、いくら自信作だといっても、少し大げさすぎる。
後世に作られた話であろう。
* なお、この二つの和歌は、ともに「小倉百人一首」に選ばれていることを見れば、どちらも甲乙つけがたい傑作なのであろう。
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