雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

すばらしい決断

2018-06-29 19:14:17 | 日々これ好日
        『 すばらしい決断 』

     サッカーワールドカップ 見事予選突破
     ポーランドには負けたが きわどく ベスト16に
     結果オーライという人もいるが 残り時間がまだ10分ある段階で
     あの決断が出来るとは 並の監督ではない
     大きな拍手を送りたい そして 感謝 感謝

                  ☆☆☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲間の月

2018-06-29 08:37:08 | 新古今和歌集を楽しむ
     世の中に なほもふるかな しぐれつつ
                   雲間の月の いでやと思へど  


                     作者  和泉式部

( No.583  巻第六 冬歌 )

           よのなかに なほもふるかな しぐれつつ
                       くもまのつきの いでやとおもへど


* 作者 和泉式部(イズミシキブ)は、平安王朝文学を代表する歌人である。生没年は不詳であるが、清少納言・赤染衛門・紫式部などとほぼ同時代の女性である。

* 歌意は、「 世の中には、やはり時雨が降っている。雲間の月は、さあ顔を出そうかと思っているのだが。」といった意味と表面的には歌われているが、同時に、「 世間には、時を経ても、やはり冷たい時雨が降っている。それでは思い切って出家しようと、思ってはいるが・・」といった意味も、同時に詠み込まれていると考えられる。
激しく、そして波乱に満ちた生涯を送った女流歌人の、心情の一端が感じられるような気がするのである。
なお、「ふる」は「降る と 経る」。「いで」は「月が出る と 出家する」が掛けられている。

* 和泉式部の生没年については、多くの研究者が探求し諸説が出されているが確定に至っていない。
生年は、974年、976年、978年などがあり、ほぼこの前後と考えられる。没年については、愛娘・小式部内侍に先立たれたのが1025年のことで、その悲しみを詠んだ歌も残されているので、この後少なくとも数年は生存していたようである。

* 現在残されている古典などに基づけば、和泉式部こそが平安王朝時代の女流歌人ナンバーワンだと筆者は考えているが、その生涯は波乱に満ちたものであったようだ。
父は越前守大江雅致(マサムネ)、母は越中守平保衡(ヤスヒラ)の娘、ということから考えれば、貴族の娘とはいえ、藤原氏全盛の貴族社会においては、中下級に位置付けされる家柄であったのだろう。
ただ、母が昌子内親王(冷泉天皇の皇后)に仕えていたことから、和泉式部は幼い頃から宮中になじんだ生活であったようである。

やがて、橘道貞と結婚、一女をもうける。小式部内侍である。。道貞が和泉守であったことから、和泉式部も和泉国に下っていたようである。
やがて二人は不和になるが、その関係がさめきれないうちに、冷泉天皇の第三皇子である弾正宮為尊(タメタカ)親王と熱愛関係となるが、その期間は短く、親王は1002年に二十六歳で亡くなってしまう。
ところが、その翌年、為尊親王の弟君である帥宮敦道(ソチノミヤ アツミチ)親王と激しい恋愛関係となり、世間の非難を受け敦道親王の家庭にも悪影響を及ぼすに至る。しかし、この恋も、1007年に敦道親王が二十七歳で亡くなってしまう。
「和泉式部日記」は、この二人の激しい愛と悲劇を綴ったものである。

和泉式部は、服喪の後、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕を始めた。時の権力者藤原道長の強い要請があったためと考えられる。彰子は道長の娘であり、朝廷を掌握するうえで重要な存在であり、赤染衛門・紫式部・伊勢大輔など多くの才女を集めていた。当時、宮中などでは、和泉式部に対する非難は消えていなかったと思われるが、道長は、その点を考慮してもなお捨てがたい才能と魅力を和泉式部に感じたのであろう。

その後、道長の家司である藤原保昌と再婚。1020年から二、三年の間、丹後守となった夫と共に任国に下っている。
帰郷後の1025年に、愛娘の小式部内侍との死別という悲しい経験をしている。
このあと、保昌とも離別したらしい。
和泉式部の詠歌は、この二年後あたりが最後で、その後の消息は分からない。愛娘との死別が五十歳前後と推定するとすれば、没年は五十歳代、あるいは六十歳を過ぎた頃かもしれない。

* 和泉式部の晩年については、多くの逸話や伝説が残されている。墓所とされる場所も多い。
また、道長には「浮かれ女」と陰口されたとか、紫式部日記には「才能を認めながららも素行を非難」されているとか、その多情さを非難されているものも多い。
しかし、この時代の異性関係は現代の常識から判断するのは正しくないし、おそらく、才能豊かなうえに美貌に恵まれ魅力的すぎる女性には、とかくのやつかみは付きものであり、和泉式部もその面が多いようにも思われる。
また、晩年には仏教に強く帰依していたともいわれ、その生涯は決して浮かれたようなものでなかったと思われる。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする