忘れじの ゆく末までは かたければ
今日を限りの 命ともがな
作者 儀同三司母
( No.1149 巻第十三 恋歌三 )
わすれじの ゆくすえまでは かたければ
きょうをかぎりの いのちともがな
* 作者 儀同三司母(ギドウサンシノハハ)とは、藤原道隆の妻貴子(タカコ)を指す。( 生年不詳 - 996 )
貴子の出自は高階氏(タカシナシ)。儀同三司とは、大臣より下位で大納言より上位の地位で准大臣を指すが、その唐名である。但し、わが国では正式な官名ではなかった。
貴子が、儀同三司母とされるのは、子の伊周(コレチカ)がその地位にあったことから付けられたものである。
* 歌意は、「 忘れまいという将来までは、頼みにすることは難しいので、お逢いできた今日という日を、最後とする命であってほしい。 」といった意味であろう。
この和歌の前書きには、『 中関白(藤原道隆)通ひ初め侍りけるころ 』とある。当時の結婚は、いわゆる「通い婚」であり、しかも、貴公子であれば、複数女性のもとに通うのは普通のことであった。しかも、道隆は、後に摂政関白太政大臣にまで昇り詰める兼家の嫡男であり、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原氏の御曹司であった。一方の高階氏は、公卿には程遠く、当時としてはとても対等であり得ない家柄であった。
この和歌は、百人一首にも入っているので、フアンも多いかと思われるが、実に切ない恋歌である。
* 高階氏は、天武天皇の五世王である高階峯緒を始祖としているが、その冠位は従四位上であり、しかも、長屋王の変で共に自害した桑名王につながる家系であることも考え合わせれば、藤原氏が全盛に向かう中にあって、不遇な一族ともいえる。貴子の父成忠は一族で初めて公卿にまで昇っているが、それは、道隆の昇進と孫にあたる定子の入内によるところが大きいと考えられる。
* 道隆が貴子のもとに通い始めた頃は、この和歌そのままに、貴子にとっては結実する可能性の低い逢瀬であったのかもしれない。
しかし、貴子は道隆の正妻となり、道隆の昇進に合わせて自らの地位も高めていった。その才能は、早くから、和歌ばかりではなく漢詩文にも優れていたという。
道隆は関白にまでなり、貴子も三男四女をもうけている。伊周など男子は早くに昇進し、女子のうち定子は一条天皇の中宮(後に皇后)、原子は三条天皇の女御として入内など中関白家は全盛を迎える。
* しかし、道隆が995年に亡くなると、中関白家は没落に向かう。後継の伊周などが、台頭してきた道隆の弟道長との政争に敗れ、さらには、定子も1000年に二十四歳の若さで世を去っている。道長が藤原氏の最全盛期を築いていくのと反比例して中関白家は没落の足を速めた。
定子が、道長の娘で遅れて一条天皇の中宮となった彰子にその座を奪われていく哀しみの一端は、清少納言によって『枕草子』に記されている。
ただ、貴子は、996年に亡くなっているので、一族の衰退は予感していたとしても、娘・定子の死を知ることなく世を去っているのは、せめてもの慰めかもしれない。
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