雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  やんぬるかな

2012-03-08 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行

             やんぬるかな


「やんぬるかな、ここまでであったか・・・」
如水は、天を仰いだ。
家康からの使者の到着を伝えられた時、如水の胸中を様々な思いが駆け巡った。
大敵とはいえ対峙しようとしている島津を降すことに、それほどの難儀を感じているわけではなかった。
しかし、嫡男の長政は家康のもとにあり、その身を危険にさらすわけにはいかなかった。


世に言う天下分け目の関ヶ原の合戦という表現は、歴史認識からいえば正しい。
まさにこの戦いによって、天下の権は豊臣家から徳川家に移ったことは明らかであり、後年の大坂の役は、豊臣家の滅亡という大きな意味はあるとしても、天下云々という戦いではなかった。
万が一にも、局地戦において大坂方が勝利して、例えば徳川家康を討ち取ることが出来たとしても、それで豊臣家の天下が戻るようなことはなかったであろう。

しかし、慶長五年(1600)九月十五日、美濃の国関ヶ原において、東西両軍合わせて二十万ともいわれる大軍が激突し、しかも半日余りで決着してしまったこの戦いが全てであったわけではない。
この戦いに向けての、各地での前哨戦があり、追討戦もあった。
よく知られているように、徳川主力軍を率いた徳川秀忠が、信州で真田氏の抵抗に遭い関ヶ原に参陣出来なかったのもその一例であり、全国各地で東西勢力の激しい戦いや、きわどい調略戦が展開されたのである。
九州においても、大坂の動向や東西両勢力の情勢を窺いながら、激しい戦いへと突入していったのである。

この頃、黒田如水(官兵衛孝高)は、豊前中津城にあった。
形の上では如水は隠居の身であり、当主である嫡男長政は黒田軍の主力と共に大坂に居り、徳川家康と行動を共にするはずであった。
しかし、如水はおとなしく留守を守っているわけではなかった。大坂の動向を探り、あらゆる可能性に対して策を練っていた。

やがて、家康が上杉討伐のため大軍を率いて大坂を離れると、三成挙兵の情報が伝わってきた。
予想通りの動きであった。徳川の勢力が図抜けているとはいえ、大坂方の力もそうそう劣るものでもなかった。家康に率いられている大軍には、いずれも勇猛をもって知られた武将たちが加わっていたが、その多くが秀吉恩顧の大名である。いざ合戦となれば、そうそう家康の軍配通りに動くかどうか、家康は不安を抱き続けることだろう。
戦いは、一朝一夕に決着することはなく、そこにつけ込む隙があると如水は考えていた。

そして、危うく人質となりかけた妻と長政の新妻が大坂屋敷からの脱出に成功し中津城に到着すると、如水は好機の到来を確信した。
それに、妻女たちを守って脱出してきた中には、母里多兵衛や栗山四郎右衛門といった侍大将がおり、留守部隊は俄然戦力の充実が図られた。
如水は、この日のために蓄えて来た金銀や兵糧米を城中広間に積み上げて、広く兵員を募った。九州には秀吉による遠征の影響もあって、浪人が満ち溢れていた。如水の武名を慕って、浪人ばかりでなく百姓町人までも加えて、瞬く間に三千人を超える戦力が整った。

大坂からの情報を睨みながら、如水は九月九日に中津城を出陣した。手兵は九千人にも膨らんでいた。
九州は、西軍勢力が強い地域であった。東軍の旗幟を鮮明にしている有力大名は、加藤清正ぐらいである。九州の地は東軍勢力は劣勢にあり、如水は家康から、合戦が始まれば切り取り次第という密約があったともいわれている。

如水の出陣と同じくして、大友義統(ヨシムネ)が大坂から豊後に上陸した。
豊後は長年大友氏の勢力下にあり、秀吉により豊後一国を没収されている義統にとって、大坂方からの誘致は望んでもないほどの好機であった。武器や軍資金を与えられ、大坂で浪人を募っての参戦であったが、さすがに豊後上陸後に兵を募ると瞬く間に三千人もの兵団となった。

如水はその日は家臣の居城に入って一泊。その翌日には、東軍か西軍かの態度を鮮明にしない竹中重利(竹中半兵衛の従兄弟)の居城を取り囲み、味方につけることに成功する。黒田軍は竹中軍の兵も加え、国東半島の中央を進み、大友軍の先兵に攻撃されている杵築城の救援にあたった。杵築城は、細川忠興の持ち城であり、城代の松井康之らとは連絡を取り合っていた。
最初の大きな戦いは、安岐城の熊谷軍とであったが、栗山四郎右衛門らの活躍により大勝した。

九月十三日、黒田軍と大友軍の主力部隊が激突した。石垣原の合戦である。戦いは激戦となった。黒田軍も多くの被害を出しながらも、井上九郎右衛門らの活躍により、ついに勝利する。
大敗北となった大友軍からは逃亡者が続出、ついに大友義統は剃髪し墨染の衣姿で僅かの家臣と共に如水の軍門に下った。九月十五日のことで、奇しくも、家康が関ヶ原において大勝利を収めた日であった。

やがて、関ヶ原での敗戦を知った西軍方の諸城は、急速に戦意を失い、多くは如水の説得に応じて味方となっていった。
豊後一帯を一か月足らずで平定した黒田軍は、吸収した兵力を加えた大軍を北に向かわせた。毛利氏の小倉城や久留米城を開城させ、加藤清正軍も加わり、立花統虎の柳川城も開城させることに成功した。
残る勢力は、薩摩の雄島津氏だけである。

如水は、自軍に加わった立花統虎を先陣に立て、肥後を経て水島まで進んだ。
そして、そこで、徳川家康からの停戦命令を受けたのである。十一月十二日のことであった。


     * * *

黒田官兵衛孝高、のちの如水について語る時、必ずと言っていいほどに、「稀代の軍師」という言葉が付けられる。

播磨御着城の小寺氏に属し姫路城代を務める家に生まれた官兵衛は、毛利影響下にあった主家を織田陣営に移らせ、やがて秀吉の軍師として高い評価を受け、その死後には家康政権下の大大名としての地位を築いている。しかし、官兵衛の最期の闘いは、不完全燃焼であったように思える。
戦国末期の、最も激しい時代を最も激しく駆け抜けた男、多くの戦いを勝ち抜いた戦国時代の勝利者の一人とも見える男の晩年は、一体どのようなものであったのだろうか。

秀吉の九州討伐完了後、官兵衛は豊前の国八郡のうちの六郡が与えられた。表高は十二万石とも、十六万石あるいは十八万石とも、さらに実高は二十二万石であったと言われている。決して冷遇というほどではないとしても、秀吉の天下取りに多大な貢献をしている割には、不十分な処遇のように見える。しかも、大坂から遠く離れた豊前国である。
その原因には、官兵衛には、その才能ゆえに、秀吉に限らず天下人に危険な匂いを与える人物だったらしいのである。

伝えられているエピソードをいくつか紹介してみよう。

本能寺の変の悲報を受けた秀吉は、周囲の目も憚らず嘆き悲しんだという。
その時官兵衛は、「信長公の御事は言語に絶し候。御愁傷もっとも至極に存じ候」と同調したが、その後秀吉の耳元で、「君を弑せし明智光秀を討ち、天下の権柄を取り給うべき」と進言したという。
これにより、「中国大返し」が実現し、秀吉は天下人へと上っていった。
しかし、この時、秀吉が嘆き悲しんでいたというのは大いに眉唾ものである。心中、絶好のチャンスがやってきたと考えていたに違いない。ところが、冷静に同じことを考える男がもう一人いたのである。
秀吉が、官兵衛に危険な匂いを感じた最初かもしれない。

秀吉がお伽衆と雑談中、「もし、自分が死んだあと、天下を取る力量を持っているのは誰か」と尋ねた。
側近くにいる者は、遠慮がちに、徳川や前田や毛利の名前を挙げた。秀吉は、笑いながら首を振り、「官兵衛孝高であろう。あの者の知力は、とても自分及ぶところではない」と言ったという。
この話を伝え聞いた官兵衛は、早々と家督を嫡男長政に譲り、隠居した。

関ヶ原の戦いの論功行賞で、九州において無類の働きを見せた如水(官兵衛)に、何故報いないのかと尋ねられた家康は、「如水の働きは、心底が知れないものだ。長政だけに恩賞すればよい」と答えたという。

やはり関ヶ原の戦いのあとのこと。家康は長政の働きを大いに感謝して、その手を取って頭を下げたという。
凱旋してきた長政は、得意満面でこの話を父親に披露した。如水は不機嫌な様子でたずねた。
「家康が手を握ったというが、どちらの手を握ったのだ?」
「私の右手でございました」
「その時お前の左手は何をしていた?」
「何もしておりません。ただぶらぶらさせておりました」
「馬鹿者めが。なぜ空いている左手で家康を殺さなかったのだ」

この最後のエピソードなどは出来過ぎていて、稀代の軍師といわれるような人物がこんな軽率な言葉を人に聞かれるはずがないと思われるが、如水が天下まで狙っていたかどうかはともかく、九州制圧程度は考えていたように感じられる。

長政が筑前の国五十二万石余を与えられ、福崎改め福岡城の建設にかかると、如水は太宰府天満宮の庵で隠棲生活に入った。
城の完成後は、三の丸の通称御鷹屋敷で妻と共に完全な隠居生活に入った。しかし、その期間はそれほど長いものではなかった。
上洛し、高台院に秀吉未亡人(北政所)を見舞ったり、有馬に湯治に出掛けたりしているが、慶長九年(1604)三月、京都の黒田家伏見屋敷で没した。享年、五十九歳。静かな最期であったという。

                                       ( 完 )


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