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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

針の穴を通す ・ 小さな小さな物語 ( 609 )

2014-09-05 10:10:15 | 小さな小さな物語 第十一部
春の全国高校野球大会が始まり、プロ野球のオープン戦も終盤となり、球春が盛り上がる季節となりました。
高校野球は、何十年ぶりかの出場組もあって、懐かしい校名を見ることもあるのですが、私などは、春の大会と夏の大会がごちゃ混ぜになっていて、報道されるほど久しぶりという感じのしない校名もあります。
プロ野球の方は、今は監督も解説者も言いたい放題で、どのチームも優勝を目指しているような報道を見たり聞いたりすることが多いのですが、監督の本心はどうなのでしょうかねぇ。もっとも、始まる前から弱気な発言はできないでしょうし、オープン戦はチーム力を調整する期間だとは思うのですが、それにしても、散々な状態の贔屓チームは、本番では一体どんなスタートを切ってくれるのでしょうか。

かつて、コントロール抜群の名投手に対して、「針の穴を通すような」という表現がなされることがよくありました。
最近はあまり耳にしないような気もするのですが、たまたま私があまり聞かないだけなのか、そのような投手がいなくなってしまったのか、科学的に不適当な表現だと考えるようになったのか、どれが理由なのでしょうか。
考えてみれば、あの野球のボールを、始球式のゲストではなかなか届かないほどの距離から「針の穴を通す」というのですから、相当なコントロールでしょうが、表現の自由とはいえ、実に大胆な発想だと感心してしまいます。

野球のボールを針の穴に通すのもかなり難しいことだと思うのですが、行方不明の飛行機を捜索するのも、それに負けないほど大変なことのようです。
地球の周りには、多くの国の偵察衛星とやらをはじめ沢山の衛星が回っており、様々なレーダーも、二重三重に地球上を覆っていると思われるのですが、それでも、あの巨大な物体を見つけることができないのかと不思議になってしまいます。
ある専門家は、「砂場の中から一本の針を見つけ出すようなものだ」と説明されておりました。どの程度の大きさの砂場なのかという説明はなかったのですが、1メートル四方の砂場と、10メートル四方の砂場とではその困難さには相当の差があると思うのですが、言っている方も、聞いている方も、なんとなくそれで通じるのですから、人間の感覚は不思議なものです。

野球のボールを針の穴に通すのも、砂場で一本の針を見つけるのも大切なことかもしれませんが、行方不明の飛行機の場合は、多くの人が搭乗しているのですから、不思議だなんてことは言って居れないのです。多くの国が支援に乗り出していることからその重要性が伝わってきます。
しかし、考えてみますと、使用済みの燃料の処理の仕方も知らない人間が原子力発電所を作ってしまったのと同じように、事故を防ぐことができず、その飛行の軌跡さえ追跡できない人間は、あの巨大な物体を飛ばせることが正しいのかどうかと、思ってしまったりします。
ここは、各国が、軍事的な秘密をも乗り越えて協力し合って、一日も早く発見してほしいものと願うばかりです。

( 2014.03.24 )
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チームワーク ・ 小さな小さな物語 ( 610 )

2014-09-05 10:08:53 | 小さな小さな物語 第十一部
甲子園球場での高校野球春の全国大会は、熱戦が繰り広げられています。
残念ながらわが県から出場していた高校は初戦で敗れてしまいましたが、大会はまだこれからといったところです。
まだ一回戦が終わろうとしているところですが、テレビで紹介される郷土の期待や、出場に至るまでの過程には、それぞれにドラマがあり、一部の野球エリート校を除けば、甲子園に出場するということが如何に大変なことかがよくわかります。
さらに言えば、野球エリート校であればあったで、チーム内の競争は激烈で、ベンチ入りを果たすだけでも簡単なことではないようです。

高校野球と言えば、私などは「チームワーク」という言葉を連想してしまいます。
「チームワーク」は、何も高校野球が専売というわけではないのでしょうが、なぜかよく似合うような気がします。
ラグビーなどでも、「一人は全員の為に、全員は一人の為に」といった精神が大切にされていますし、およそ団体競技においては、「チームワーク」というものを無視してチームの強化を図ることはできないことでしょう。
また、先日のオリンピックなどを見ていますと、チームとしての「チームワーク」とは少し違う形で、一人の選手を支えているコーチやスタッフなどが一丸となった「チームワーク」が重要な意味を持っていることがよくわかりました。

「チームワーク」という言葉は、出発点は「団体で行う仕事」を指すための言葉として生まれたように思われるのですが、日常私たちは、スポーツに限りませんが、団体における協調・連携といった協力関係を指すのが普通のようです。
スポーツの場合は、その結果が比較的はっきりと表れるものですから、「チームワーク」の重要性が強調されがちですが、むしろ、それ以外の場所で必要とされることの方が多いように思われます。
どちらの方がより重要だなどと考えることに意味はありませんが、私たちの日常において、二人以上が集まったり、行動したりする場面では必ず「チームワーク」的な働きの是非がその関係の安定や成果に少なからぬ影響を与えるものです。

「チームワーク」は、時には、横暴や個人攻撃の隠れ蓑になることも少なくないことに注意が必要です。
「チームワーク」の名のもとに、必要以上の犠牲を強いたり、成果を恣意的に歪めることは、一般社会において、珍しいことではないことは社会人であれば一度や二度は経験しているはずです。
野球における犠牲バンドは戦術であり、「チームワーク」の一役を担うことが多いのでしょうが、企業や国家における個人に対する犠牲バンドの強要は、多くの場合、悲劇の温床となっていることも歴史の教えるところです。
個人的には、「STAP細胞」の研究チームの今後の対応における「チームワーク」に大いに興味があります。

( 2014.03.27 )
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選挙の意味 ・ 小さな小さな物語 ( 611 )

2014-09-05 10:06:23 | 小さな小さな物語 第十一部
いわゆる民主政治というものの根幹を成すものに「選挙」というものがあります。民主政治についての正しい理念や制度については詳しくありませんので、不正確な点があればお許しください。
その乏しい知識をベースにしてですが、民主主義による政治形態とは、一般国民の中から、公平な選挙制度のもとで選ばれた代議員によって、国家が運営されるものだと思われます。
政治手法その他の在り方にもいくつもの要素が秘められているのでしようが、「選挙による代議員選出」は、最も基本となる重要なことだと思うのです。

ところが、その「選挙」というものが、何だかおかしいような気がしてならない現象が、あちらこちらで見られてならないのです。
例えば、世界的な緊張を生み出してしまったロシアによるクリミア併合も、その地に住む人々による「選挙結果」がロシアの大義名分の一つになっていますが、米欧諸国などはとても受け入れできないとしているわけです。
実際に、この種の住民の意思を名分として領土拡大を図った国家は、歴史上幾つもあるようなのです。
また、大阪では、何とも納得性に乏しい市長選挙が行われました。
法的には何ら問題はなく、市長はいつでも気に入らなければ辞職することが出来ますし、再選挙に立候補も出来るわけです。
ただ、こういうことが四年の任期中に何度でもできるのかどうかについて、馬鹿らしくて調べてもいないのですが、もし何度でもできるとすれば、何かの反対意見に出合うたびに辞職再出馬を繰り返す、人気者の市長が登場してくるかもしれませんねぇ。

わが国で最も重要な選挙となれば、やはり、衆議院・参議院の議員を選出する選挙だと思うのですが、その選挙が行われるたびに「違法選挙」として幾つもの訴訟が行われるのを、どう考えればいいのでしょうか。
「公平な選挙制度のもとで不正や圧力のない選挙が行われる」という、ごくわかりやすく、誰も反対しようがないようなことが、民主国家であるはずのわが国で、未だ実現できないということはどういうことなのでしょうか。

もっとも、選挙制度に対する不満は、民主国家として世界をリードしていると考えられている国々でも、多かれ少なかれあるようです。
また、世界中には、満足な選挙など望むべくもなく、それらしい選挙が行われる場合も他国の監視団を受け入れなければならない状態の国家も少なくないのです。
これらのことを考えれば、わが国の「選挙」にまつわる不満も可愛いものだということになってしまうのでしょうか。
ただ、はっきりさせておきたいと思うことは、選挙は確かに民意の象徴ではありますが、選挙で選ばれた人が、まるで錦の御旗でも得たかのように何をやってもよいということではない、ということを社会常識として定着させる必要があるような気がするのです。

( 2014.03.30 )
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沖ノ鳥島 ・ 小さな小さな物語 ( 612 )

2014-09-05 10:05:03 | 小さな小さな物語 第十一部
沖ノ鳥島で大事故が発生してしまいました。
わが国最南端の、まさに絶海の孤島と表現すべき過酷な場所で難工事に取り組んでいる方々がいることを、私などは意識のかけらさえ持っておりませんでした。
おそらく、わが国の最先端の技術と、最高水準の技術者を投入してでの工事だと思うのですが、それでもなお事故が起きてしまったのですから、その過酷さは想像を越えるものなのでしょう。
亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

沖ノ鳥島は、東京都に属していますが、東京からは1700kmの彼方にあります。
サンゴ礁からなる無人の島で、それでも大きさは東西4.5km、南北1.7kmあるそうで、意外に大きなものだと思うのですが、満潮時にはわずかな部分を1mばかりを残して水没してしまうそうで、波浪などによる浸食が心配され、20数年前から護岸工事などが実施されてきています。今回の事故は、係留施設建設の現場での事故だったようです。

わが国の国土の面積は、37万7800平方kmほどで、その広さはとても大国といえるものではありませんが、国土を取り巻く排他的経済水域(EEZ)の広さとなると、世界第6位に躍り出ることになります。
因みに、第一位はアメリカ、第二位はオーストラリアで、ともに700万平方km以上です。第三位以下は、インドネシア、ニュージランド、カナダと続き、第六位の日本は、447万平方kmです。
このうち、沖ノ鳥島の存在によりわが国にもたらされている排他的経済水域は、40万平方kmに及ぶそうですから、この小島を軽視することなどできないのです。

現在わが国は、デフレから脱却する瀬戸際にあります。
デフレ脱却がなされれば、何もかもうまくいくなどと妄想を抱いている人も少なくないようですが、そう簡単な話ではないはずです。物価が上がって、庶民の生活が楽になるなんて唱えている経済学者でもいるのでしょうか。
国民生活を豊かにすることが狙いであるならば、デフレ脱却は物価の上昇から始めるのではなく、庶民の所得向上から始めなくてはならないことは、ごく簡単な理論だと思うのです。
一人一人の国民が豊かになるためには、何としても国力の充実、経済的な繁栄が絶対に必要なはずです。
そして、そのカギを握っている対策の一つは、海洋資源の開発です。この豊かな領海、そして排他的経済水域を持ち、技術力にも優れているわが国には、大きな希望を抱くことができるのです。
そのためには、点在している島々の管理や開発が絶対に必要なのです。この沖ノ鳥島も、外国から狙われている島の一つなのです。
今回の事故の背景に、もし、厳しい予算や不十分な安全対策があるとするならば、国家を挙げてその対策を考えるべきだと思うのです。
地震だ津波だと、ご立派な対策論に奔走するのも結構ですが、その予算の一部でも、絶海の孤島を守ろうとして活躍されている人たちの安全の為に配分されることを願っています。

( 2014.04.02 )
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食文化 ・ 小さな小さな物語 ( 613 )

2014-09-05 10:03:54 | 小さな小さな物語 第十一部
『食文化』という言葉を時々目にします。
最近では、和食が世界無形文化遺産に登録されたとかで話題になり、「わが国の食文化の優れていること・・」などというコメントを見た記憶があります。
世界中に、私たちの食事内容が優れていると伝えてくれるのかと考えますと、何だか変な気がしますが、こと観光的には大変ありがたいご託宣ですから、大いに宣伝し、利用していくことに全く依存などありません。
しかし、その一方で、無形文化遺産に登録される和食とは、どういうものを指しているのでしょうか。
多くの日本人が、生涯口にすることなどないと思われるような、超一流の料亭や料理人によって作られた料理を「和食」と思いこんでいるような審査員によって審査されたのではないかと、私などは考えてしまうのですが、単なるひがみなのでしょうか。

そこで、『食文化』という言葉を辞書で調べてみました。
私の手元には、いずれも古いものなのですが、大小何冊かの国語辞典があります。ところが、そのいずれにも『食文化』という項目は掲載されていないのです。つまり、『食文化』という言葉は、日常耳にしたりするほどには認知されている言葉ではないようなのです。
一般的には、『食文化』とは、「食」にまつわる文化、例えば、食材、料理法、食べ方、食器、等々から生まれてきた生活文化のことを指すのだと思われます。それには、民族や国民性、風土、宗教、風習なども影響してくることでしょうから、ひと口に『食文化』といっても、わが国内だけでも多彩な面を持っているはずです。「和食」の定義も同様です。

このほど、国際司法裁判所は、わが国が南極海で行っている調査捕鯨は、科学的な調査とは認められないとして、捕鯨の中止を命じました。わが国の全面敗訴ということになりました。
この決定に対して、いくつかの意見が各界から聞こえてきているようです。
最も強硬なのは、国際捕鯨委員会から脱退して捕鯨を続けるべきだ、というものです。少し変わっているかもしれませんが、国際捕鯨委員会には八十八か国が加盟していて、捕鯨支持国が三十九か国、反捕鯨国が四十九か国なのだそうです。同委員会で商業捕鯨の禁止が決定されたのは1986年のことですから、早かれ遅かれ、今回のような決定は予想されることだったのです。
それに、科学的な成果があるか否かはともかく、たとえ一部でも市場に出回っている事実があるのですから、商業捕鯨といわれても否定などできないでしょう。
捕鯨国であるカナダは、同委員会を脱退しています。わが国も脱退するのも一つの在り方でしょうが、その場合でも、今の科学調査という名のもとの捕鯨は中断させざるを得ないでしょう。
だって、裁判をして、不満な結果が出たからといって、その組織を抜けてこれまで通りの行動をとるというのは、少々卑怯が過ぎるような気がするからです。

捕鯨の是非に関して、これはわが国の『食文化』だと主張される人もいるようです。
牛や馬を食べて、クジラやイルカはなぜだめなのか、という理論です。
反捕鯨を主張する人からは、自然保護やクジラが知能の高い動物であることなどをその理由としています。
確かに、愛らしい動物を殺して食べてしまうというのは何とも残酷な行為ですが、もし神という存在があるならば、何でもかんでも食べてしまう人類を、とても許しがたい残酷な動物を作ってしまったと後悔しているのではないでしょうか。
この後、わが国がどのように対処するのか難しいところですが、クジラを捕獲することを『食文化』として継続を主張することはやめてほしいと思うのです。「食」の根源は、「文化」である以前の「生存」の手段なのですから、グリーンランドやアラスカなどの先住民族が行っているクジラ漁とわが国の捕鯨とを同一視することなどできないと思うのです。

( 2014.04.05 )
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消費税攻防 ・ 小さな小さな物語 ( 614 )

2014-09-05 10:02:25 | 小さな小さな物語 第十一部
消費税が8%に上がって一週間が過ぎました。影響はいかがですか? 
もっとも、大きな買い物をする場合はともかく、日常の生活においては、消費税の3%アップは報道機関が大騒ぎするほど大変なことではなく、よほど注意していない限り大きなダメージなどないはずなのです。
但し、それが怖いところで、実は消費税の増税というものは、多くの人にとってはそれほどのことではないように感じられる面があるのですが、ボクシングで言うところのボディーブロのようなもので、その一発一発ではダウンしないのですが、いつの間にか体力を奪われていて、苦しい戦いに追い込まれていくものなのです。

それにしても、引き上げ前の三月下旬ごろの大騒ぎは、ささやかな生活防衛のためとはいえ、少々度が過ぎていたのではないでしょうか。
日用品や保存可能な食料品などは、生活防衛にいささかの役には立ったのでしょうが、多くの商品は、どうも消費者の方がまんまと踊らされてしまったという面もあるのではないでしょうか。
ここしばらくの動向を注意してみないと断言はできませんが、在庫整理とは言わないまでも、やがて値下げしなければならない商品をうまくさばいた業者は少なくないはずです。
引き上げ前にあれだけ大騒ぎしたのですから、引き上げ後も消費者はパワーを失わないように値段などの動向をしっかり見ていくことが大切だと思うのです。
「新たに消費税は別枠にしました」とか言って、三月より8%値上げされたものがあるそうです。「この機会に新商品」を売り出したとかで、3月と比較できない形で値上げがされたり、品物の量が減らされたり、「消費税10%まで、あと何か月」などという宣伝もすでになされています。
消費者たるもの、ある期間だけ頑張った程度では、生活防衛などできるものではないのです。

では消費税値上げに対してどうすれば生活防衛ができるのか?
答えは簡単です。3%分節約することです。
それでは生活水準が落ちてしまう、という意見も多いでしょうが、本当に生存ぎりぎりの生活をされている方の場合は無理でしょうが、おそらく国民の八割以上の方にとっては、苦痛であることは確かでしょうが、むしろ健康的な生活に役立つような気がするのです。
「そんなことをしては景気に悪影響を与える」という声もありますが、当たり前ですよ。健全な生活をしている人たちの消費は、3%の消費税引き上げが行われれば、3%消費が落ちるのは当然のことなのです。
何年かぶりでベースアップが行われたことは画期的なことなのでしょうが、今年の場合に限れば、それが国民の所得をどれほど引き上げることになるのでしょうか。とてもとても、全体としては社会保険料の増加分にもならないはずです。

消費税の引き上げはもちろんのこと、諸物価の値上がりは一般国民にとって、生活面のプラスなどありません。デフレからの脱却が魔法の杖のように言われますが、一般国民の生活は苦しくなるばかりです。
大切なことは、デフレからの脱却により、雇用が増え所得が増えることが絶対条件なのです。現在値上がりしているものの主因は、輸入価格の高騰と公的費用の値上がりにその多くが起因しています。何よりも大切な、生産性の向上がなされているのかどうか、円安が企業や個人の利益に還元されているかどうか、それが大切なのです。
それと、消費税の引き上げですが、これは国家財政が危機的な状態の為になされたものなのです。社会保障費に充てるとか、景気対策で悪影響を抑えるとか、政府も国民も、あまりきれいごとを言わないで、この国の財政を守るために必要だということを、真正面から唱えるべきではないでしょうか。

( 2014.04.08 )
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頑張れ STAP細胞 ・ 小さな小さな物語 ( 615 ) 

2014-09-05 10:00:48 | 小さな小さな物語 第十一部
STAP細胞をめぐる混乱の中、研究ユニットリーダーの小保方さんが記者会見を行い、大きなニュースとして取り上げられました。
この会見の結果については、テレビや新聞などの報道を見る限り、その評価は相当ばらつきがあって、言われているところの疑義については、何ら解決は見ていないようです。
ただ、この騒動のおかげで、日頃研究者と呼ばれる人と全く縁の薄い私などには、いろいろな断面を見せてくれました。

まず、彼女の記者会見の様子からですが、今回に限ったことではないと思うのですが、質問する記者と思しき人の中には実に品性にかける人物がいるものだと呆れてしまったことです。まるで見下したかのような言葉遣いや、自分が正義の味方とでも思っているかのような発言が見られました。まさか、あのような人物をジャーナリストとは言わないのだとは思うのですが、言論や報道の先端に立つ人たちには、それこそ、最低限度のマナーや常識を教えてほしいものです。ただ、少しばかり映像に映った姿をみる限り、とても新人とは見えなかったので、もしかするとあの程度の人物たちによってニュースが流されているのかと思うと、少々心細くなってしまいました。
今一つは、研究者が日々の実験などを記録しているノートが重要視されていることに驚きを感じました。学生や新人研究者の間はともかく、一人前の研究者にも、克明な記録が義務付けられているかの話には驚きました。確かに、現在の物理学や化学や医学をはじめ、多くの分野の研究には、膨大な設備と資金を必要とするのでしょうし、人員も一人でというわけにはいかないでしょうから、記録が必要になってくるのでしょうし、研究機関や企業などは、研究成果は研究者一人のものにするわけにはいかないのでしょうから、誰にでも分かるように記録を残すことがとても重要ということなのでしょうか。
しかし、エジソンは、そんな立派な記録ノートを作っていたのでしょうか。

今回の会見は、研究所と一研究者の戦いのように見えましたが、同時に研究所の支援を必要とする一研究者の悲哀もまざまざと感じられました。
また、研究機関に限りませんが、個人が生き生きと活動できる組織を作り上げることは実に難しいことだということを教えてくれました。
今回の研究論文の発表会見以来の騒動は、その調査委員会とかの発表も含めて、わが国のトップクラスと思われていた研究機関も、組織体としては、実に脆弱な面を持っていることが透けて見えてしまった気がします。
以前には、「一番でなくてはいけないのですか」などという迷言を吐いた人もいますし、ある古典芸能について資金援助を武器として、体制変更を迫ったりしています。その分野に対して知識も見識もない人が権限を持つのも困ったものですが、今回のことをでは、いくらスタープレーヤーを集めても、それだけでは素晴らしい組織は作ることができないことが分かったような気がします。
さらに言えば、今回の論文に名前を連ねていた人の中で、何の責任もないという調査結果は何なんでしょうか。うまくいけば美味しいところだけ頂こうということだったのでしょうか。また、そういう人たちがいて当たり前だという調査にあたった人たちの常識なんでしょうかねぇ。

STAP細胞はあるのか、ないのか。
今回の会見で小保方さんは、「ある」と断言しました。
ご自分でも再三「未熟」だったと言っておられるので、たとえはEP細胞混入などの懸念もあるかもしれません。
しかし、理化学研究所ほどの組織が研究ユニットリーダーに抜擢したほどの逸材なのですから、あと一年か二年、結果がはっきりするまで研究を続けてもらう体制を作るべきではないのでしょうか。その程度の度量を持った人物の一人や二人は、理化学研究所にもいることを願うばかりです。
研究論文がお話にならないほど未熟であったとしても、研究そのものになお「大発見」の可能性が残されているのであれば、凝り固まった常識とやらで若い研究者をつぶさないでほしいのです。そのような圧力に押し出されて、海外に流出した頭脳は決して少なくないはずだからです。
『 頑張れ! STAP細胞 』

( 2014.04.11 )
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小手先 ・ 小さな小さな物語 ( 616 )

2014-09-05 09:59:14 | 小さな小さな物語 第十一部
プロ野球の公式ボールが飛びすぎるということが、またまた話題になっています。
今回は、前回のようなある種の悪意を感じさせるようなものではないようですが、選手にとっては文句の一つもつけたいことのようです。
ボールが飛ぶのと飛ばないのとではどの程度違うかについて、データーらしきものを示して説明している報道もありましたが、今回の場合でいえば、100mで1~2mの差が出るそうです。
まあ、この差をどう見るかだと思うのですが、外野手が捕れるはずの打球がホームランになったり、センター前に落ちるはずのものが補給されてしまったりすることはあり得ることです。総じて、打者有利となるそうですから、場合によっては投手生命に影響を与える可能性もあるそうです。少々オーバーな気もしますが、3%の消費税引き上げであれだけ大騒ぎしたのですから、1~2%も飛ぶとなれば、やはり騒ぎ立てる必要があるようです。
それにしても、わが国の技術力で、どうしてこの程度の基準が守れないのでしょうか。

前回の騒動の後、プロ野球機構として抜本対策を取ったのか疑問を感じました。すると、「小手先の対策」という言葉が連想してきました。
そこで、早速「小手先」という言葉を辞書で調べてみました。その理由は、私は「小手先」という言葉を剣道などの「小手・籠手」から来ていると漠然と思っていたのですが、少々自信がなく辞書を調べてみたのです。
ところが、私の小型の辞書には「小手先」とい言葉は掲載されていないのです。広辞苑で調べてみますと、「手先。転じて、ちょっとした技能や才能」とありました。不思議なことに、私などが普通に使っていた「その場しのぎ」とか「深い考えがないこと」といった意味は載っていないのです。
インターネットを使って調べてみますと、三つ目の意味として、その場しのぎ的な意味が加えられていました。
このことから分かったことは、「小手先」という言葉、どうやら「手先」に「小」が付けられたものらしくて、武具や剣道などの「小手・籠手」から来たものではないらしいことです。それにしても、なぜ広辞苑は三番目の意味を加えていないのでしょうか。

だって、どうも私たちは「小手先」の対策が大好きのようなのですよ。
大きく言えば、「憲法解釈」しかり、「自衛隊」しかり、農業政策や年金制度などにもその特色が出ているように思われます。科学調査の為の捕鯨などというのは、「小手先」というより、もっとひどいような気もしますし、ごくごく小さな例としては、「熊手を買った」とか「育毛手術をした」など、ばかばかしい例もあります。
もしかすると、広辞苑は、これらのあまりにばかばかしい例に用いられるのを避けるために、「その場しのぎ」などの意味を除外しているのでしょうか。

まあ、好き勝手に言うのは簡単ですが、実は、私たちの日常においては、抜本的な対策で変更できることなど極めて少ないようです。外的な事故や災難にでも襲われた場合を別にすれば、ほとんどが「小手先」の工夫や対策で凌いでいるように思われます。そう考えれば、「小手先」の三つ目の意味は、そうそう悪い意味ではなくて、日本人の生きていく知恵を指しているのかも知れませんねぇ。
とりあえず私も、この文章を書いている机の周りの、悲しくなるほどに散らかっている物を、「小手先」の整理でもするとしますか。

( 2014.04.14 )
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生産年齢 ・ 小さな小さな物語 ( 617 )

2014-09-05 09:57:54 | 小さな小さな物語 第十一部
「生産年齢8000万人割れ」ということが、大きく報道されていました。
総務省の発表によりますと、2013年10月1日時点の人口推定によりますと、外国人を含む総人口は1億2729万人で、そのうちの生産年齢人口が7901万人になったというのです。
これは前年比116万人の減少で、32年ぶりに8000万人を割り込んだのだそうです。
そして、高齢者人口は3189万人で、総人口の25.1%に達しています。

人口減少社会、そして、少子高齢化社会などという言葉を耳にしだしてから久しいのですが、私たちの社会は、その現象に対して何らかの対策なり対処方針の知恵を少しは付けることができたのでしょうか。
今回の情報もそうですが、何か大変なことが起こったかのような、あるいは、もっと心配しなさいよ、といった感じの報道がなされているような気がするのです。
その一方で、情報を受け取る方は、「なるほど、そうなのか」と一応の関心は示しながらも、多くの人にとっては、何とかなるでしょう、といった以上の深刻さはないようです。

そもそも、この生産年齢という設定自体、いかにも時代錯誤の感じがしてしまいます。
生産年齢というのは、15歳から64歳までの人を指しますが、生産年齢の「生産」というのは、生産に携わる人、すなわち何らかの生産に関わっている人のことを指していると思うのですが、これ、現状に即した設定なのでしょうか。
統計というものは、その基礎となる設定を頻繁に変えれば、データー蓄積に役立たないことは確かですが、この生産年齢という設定は、人口動向を見る一つの手段以上の役には立たないような気がするのです。
実際の生産にあたる人の人口動向を見る指数には、労働力人口というものがあります。こちらは、15歳以上で、就業者・休業者・完全失業者の合計を算出したもので、実際に生産に従事しうる人口を把握するのに適しているようですが、学生・家事労働者・病弱者を非労働力人口としていることに異論を唱える人もあるようです。

いずれにしても、わが国の労働人口が減少していくことに大きな懸念があることは間違いのない事実でしょう。
すでに、ある職種においては、労働力不足が深刻になっているようで、東北の復興に関しても、予算さえ積み上げれば解決するものではないことが明らかになってきています。
しかし、現在もなお、働きたくても働けない人が数多くいることも事実です。その数は、失業率算出の対象としている人の数よりはるかに多いはずです。つまり、自分の望む条件に合致しないため、働くことをあきらめている人の数は少なくないということです。
わが国が、「生産年齢」人口が減少していく中で、経済的な活力を高めていくためには、この層を戦力化することが絶対に必要だと思うのです。
雇用のミスマッチということがよく言われますが、働く側の辛抱も必要ですが、保育施設や労働環境の整備も必要だと思うのです。
そして何よりも、外国人労働者の助けを受けることも必要でしょうが、高齢者と区分されている人たちの労働力活用こそが重要だと思うのです。この問題に関して、私たちはもっともっと知恵を働かせる必要があるのではないでしょうか。

( 2014.04.17 )
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大型客船の遭難 ・ 小さな小さな物語 ( 618 )

2014-09-05 09:56:43 | 小さな小さな物語 第十一部
韓国で大型客船沈没という事故が発生しました。
まだ救出活動の最中ですが、すでに多数の死者が出ており、なお行方不明者も多数いる状態です。事故原因などはこれからなのでしょうが、ただただ、亡くなられた方々のご冥福と、事故関係者の方々にお見舞い申し上げるばかりです。

それにしても、海難事故の恐ろしさを思い知らされる気がします。
列車であれ、航空機であれ、あるいは自動車事故であっても、交通手段の事故は結局のところは避けられないのかと思ってしまいます。
今回の事故の原因などはともかく、沿岸を進む大型客船であり、事故状態になってからほとんどが沈没してしまうまでにはそこそこの時間があり、救援の船なども早々に現場に到着したようですが、それでもこのような事態に至ってしまったのですから、乗客乗員の家族の方たちは、何ともやりきれないことでしょう。
また、船首部分をわずかに残して沈没状態になってからも、現代の技術では、救出に有効な手段は極めてスケールの小さい方法しかないようなのが、歯がゆい限りです。
家族の方々の無念さが、報道を通じて痛いほどに伝わってきます。

今回の乗客には修学旅行中の高校生が多く含まれていることも、とても悲しいとです。
かつて、わが国でも、生徒が多く乗っていた船が衝突事故により、沢山の犠牲者を出した事故がありました。
昭和三十年(1955)に発生した紫雲丸事故がそれです。
五月十一日、四国の高松と岡山県の宇野を結ぶ連絡船であった紫雲丸(1449トン)は、濃霧警報が出されている中、定刻から少し遅れて、視界が少し改善したので、六時四十分に高松港を出港したのですが、その僅か十六分後の六時五十六分に宇野から高松に向かっていた大型貨車運搬船である第三宇高丸(1282トン)と衝突してしまったのです。
事故の経緯や原因については省略しますが、紫雲丸には、乗客七百八十一人と乗員六十人が乗っていました。事故直後には漁船などが駆けつけて救助に当たり多くの人を助けましたが、百六十八人の犠牲者を出してしまいました。その中には、修学旅行中の児童百人余りが含まれるという実に痛ましい事故となってしまったのです。
実は、かねてから夢物語のような話としてあった、四国と本州を結ぶ橋の計画は、この事故により実現化へ大きく進み、瀬戸大橋の誕生となったそうです。
私は、瀬戸大橋を何度か渡ったことがありますが、この橋を見るたびに、何とも切ない気持ちになるのです。

太古の昔、丸木舟のような、それこそ木の葉のような小舟を使って、先人たちは、大陸と日本の間を行き来したのでしょうし、太平洋や大西洋をはるばると航海したらしいということも歴史の事実とされているようです。
その後、人間は、より大きく、より速く、そして頑丈で安全な船を作ってきたはずです。
しかし、残念ながら、船舶に限りませんが、いかなる科学の粋を集めても、絶対に安全なものなど作ることができないのだと思いますと、何ともやりきれない限りです。
今回の事故の行方不明者が、一人でも多く救出されることを祈るばかりです。

( 2014.04.20 )
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