敦子がお手伝いとして勤めることになった家は、近鉄沿線の高級住宅地にあった。
一度連れてこられた時には、その家がどの辺りに位置しているのか分からなかったが、奈良県ではあるが、いわゆる古都としての奈良とは全くイメージの違う、新しく開発された住宅地であった。
大阪市のベッドタウンとして大規模な開発が進められてきた一画で、その家の周囲はひときわ立派な住宅が並んでいた。
その家は関西では知られた企業の会長宅で、家族は会長夫妻だけで、他に古くから住み込んでいるお手伝いの女性がいた。
会長は八十歳位で、足が不自由なため家の中でも車椅子を使うことが多かったが、車椅子を含めて身の回りのことはすべて奥さまがつきっきりで世話をされていた。
それ以外の家事一切を長くこの家にいるお手伝いの女性が取り仕切っていた。
このお手伝いの人は「ふみさん」と呼ばれていたが、この人も六十歳を過ぎていて、一人で家事など全てをするのが負担になってきたため若いお手伝いを増やすことになったようである。
会社の経営は、会長の長男が社長になっていて、次男、三男も役員に就任していた。
敦子が勤めるようになった頃は、会長は週に二日ほど出社していたが、その時は会社から迎えの車が来て奥さまともども出かけていた。
敦子の仕事は、掃除や買物や洗濯や賄いの手伝いなどである。
ほとんどが古参のふみさんの指示に従うもので、一日が慌ただしく過ぎて行ったが、敦子にとっては楽しい日々だった。
お手伝いという仕事が、どのようなことをするのか知らないままにこの家に来たのだが、大変恵まれた仕事場と感謝していた。
敦子が一番嬉しかったのは、与えられた部屋が素晴らしかったことである。
八畳ほどもある洋間には立派な家具が付いていて、敦子が持ってきた衣服などは片隅に収まってしまった。そして、敦子のベッドは今まで見たこともないふかふかの素晴らしいもので、本当に自分が使っていいのか何度も何度もふみさんに尋ねた。
ふみさんは、その代わり一生懸命働いてね、と祖母を思い出すような優しさで言ってくれた。
部屋にはテレビがあり、自由に操作できるエアコンも設置されていた。
食事は、ふみさんの好みなのか老夫妻の好みなのか淡白なものが多かったが、これまで食べていた食事からすれば、御馳走の毎日だった。それに、頂き物のお菓子や果物は、いつも敦子に一番多く分けられた。
さらにありがたいことに、夕食が六時で、風呂に入っても八時頃には自分の部屋でくつろぐことができた。朝は六時に玄関前の掃除を始めるように指示されていたが、家にいた時よりも遥かに楽な起床だった。
洗濯も、大きなものや洋服類はクリーニングに出していたし、来客の食事が必要な時はたいてい外から取っていた。三度に一度くらいは敦子たちにも同じものを取ってくれたりした。
もっとも、何もかもが良いことづくめということではなかった。
掃除はともかく、広い庭は雑草が抜いても抜いても追いつかなかった。月に二回は庭師が来てくれていたが、真夏の雑草抜きは重労働だった。
しかし、敦子が一番戸惑ったのは、ふみさんの厳しい指導だった。
主人や奥さまが敦子を叱るようなことは一度もなかったが、ふみさんからは厳しくしつけられた。
特に挨拶や言葉遣いについて厳しく、最初はかなり負担だったが、敦子にとっては掛け替えのないほどの教育を受けたことになった。
肉親の情ということを別にすれば、敦子にとって最も恵まれた日々だったが、それは二年余りで終わった。
会長の病状が悪化し、阪神間にある病院に入院したからである。
そこの病室はホテルに近いほどの設備を持っていて、奥さまが付き添うことになり病院の近くに新しくマンションを借りることになった。
ふみさんは付いて行くことになったが、敦子は辞めねばならなくなったのである。
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