雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

哀しい方の人生   第九回

2009-12-29 16:18:17 | 哀しい方の人生

敦子がお手伝いとして勤めることになった家は、近鉄沿線の高級住宅地にあった。

一度連れてこられた時には、その家がどの辺りに位置しているのか分からなかったが、奈良県ではあるが、いわゆる古都としての奈良とは全くイメージの違う、新しく開発された住宅地であった。
大阪市のベッドタウンとして大規模な開発が進められてきた一画で、その家の周囲はひときわ立派な住宅が並んでいた。


その家は関西では知られた企業の会長宅で、家族は会長夫妻だけで、他に古くから住み込んでいるお手伝いの女性がいた。
会長は八十歳位で、足が不自由なため家の中でも車椅子を使うことが多かったが、車椅子を含めて身の回りのことはすべて奥さまがつきっきりで世話をされていた。


それ以外の家事一切を長くこの家にいるお手伝いの女性が取り仕切っていた。
このお手伝いの人は「ふみさん」と呼ばれていたが、この人も六十歳を過ぎていて、一人で家事など全てをするのが負担になってきたため若いお手伝いを増やすことになったようである。


会社の経営は、会長の長男が社長になっていて、次男、三男も役員に就任していた。
敦子が勤めるようになった頃は、会長は週に二日ほど出社していたが、その時は会社から迎えの車が来て奥さまともども出かけていた。


敦子の仕事は、掃除や買物や洗濯や賄いの手伝いなどである。
ほとんどが古参のふみさんの指示に従うもので、一日が慌ただしく過ぎて行ったが、敦子にとっては楽しい日々だった。
お手伝いという仕事が、どのようなことをするのか知らないままにこの家に来たのだが、大変恵まれた仕事場と感謝していた。


敦子が一番嬉しかったのは、与えられた部屋が素晴らしかったことである。
八畳ほどもある洋間には立派な家具が付いていて、敦子が持ってきた衣服などは片隅に収まってしまった。そして、敦子のベッドは今まで見たこともないふかふかの素晴らしいもので、本当に自分が使っていいのか何度も何度もふみさんに尋ねた。


ふみさんは、その代わり一生懸命働いてね、と祖母を思い出すような優しさで言ってくれた。
部屋にはテレビがあり、自由に操作できるエアコンも設置されていた。


食事は、ふみさんの好みなのか老夫妻の好みなのか淡白なものが多かったが、これまで食べていた食事からすれば、御馳走の毎日だった。それに、頂き物のお菓子や果物は、いつも敦子に一番多く分けられた。


さらにありがたいことに、夕食が六時で、風呂に入っても八時頃には自分の部屋でくつろぐことができた。朝は六時に玄関前の掃除を始めるように指示されていたが、家にいた時よりも遥かに楽な起床だった。
洗濯も、大きなものや洋服類はクリーニングに出していたし、来客の食事が必要な時はたいてい外から取っていた。三度に一度くらいは敦子たちにも同じものを取ってくれたりした。


もっとも、何もかもが良いことづくめということではなかった。
掃除はともかく、広い庭は雑草が抜いても抜いても追いつかなかった。月に二回は庭師が来てくれていたが、真夏の雑草抜きは重労働だった。


しかし、敦子が一番戸惑ったのは、ふみさんの厳しい指導だった。
主人や奥さまが敦子を叱るようなことは一度もなかったが、ふみさんからは厳しくしつけられた。
特に挨拶や言葉遣いについて厳しく、最初はかなり負担だったが、敦子にとっては掛け替えのないほどの教育を受けたことになった。


肉親の情ということを別にすれば、敦子にとって最も恵まれた日々だったが、それは二年余りで終わった。
会長の病状が悪化し、阪神間にある病院に入院したからである。


そこの病室はホテルに近いほどの設備を持っていて、奥さまが付き添うことになり病院の近くに新しくマンションを借りることになった。
ふみさんは付いて行くことになったが、敦子は辞めねばならなくなったのである。

  **

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哀しい方の人生   第十回

2009-12-29 16:17:20 | 哀しい方の人生

敦子は、大阪市内に移りレストランに勤めることになった。

お手伝いを辞めなくてはならなくなった時、会長の知人が経営しているレストランを紹介してくれたのである。幾つかの店舗を展開している大規模なレストランで、そこでウエイトレスとして再出発することになった。


給料はお手伝いの時より良かったが、生活は厳しくなった。
会長宅の自分の部屋から考えると遥かにみすぼらしいアパートを借りたが、それでも家賃で給料の三分の一が消えていった。


敷金は退職金として奥さまが出してくれたし、電気製品なども持たせてくれたが、光熱費がこんなに必要だとは考えてもみなかった。
会長宅で働いていた時は、服などを買っても給料の半分程を残すことができたが、アパートを借りてみると生活するだけで精一杯だった。


ウエイトレスの仕事も外から見るよりも重労働だったが、別にそれが不満ということではなく、店長から仕事以外で呼び出されることが増えたため、半年余りで退職することになった。


敦子は、異性に対する警戒心のようなものが特に強かった。
自分のような父親も母親も知らないような子供を産んではならないという、防衛本能のようなものが働いていたのかもしれない。


次の勤め先には、小さな食堂を選んだ。
生活はさらに苦しくなり、これまでに貯めたものが少しずつ減ったが、小さな食堂の仕事はさして苦痛ではなかったし、ふみさんに鍛えられたこともあって、テキパキとした仕事ぶりは経営者に喜ばれた。


生活のことを考えれば、お酒を主体とした店に勤めることが良いことを知るようになったが、敦子はそれを避けていた。
それでも、お客などからの誘いを断りきれなくなり、退職することになった。
十五歳で社会に出た敦子も十八歳を過ぎ、小さな食堂などでは女性として目立つ存在になっていたからである。


その後も何度か勤めを変わった。
今の食堂は夕方から居酒屋風に変わる店だったが、女性店員も七人ばかりいる規模なので勤めやすく、給料もこれまでの中で一番良かった。客あしらいに慣れたことや、職場雰囲気も合っていたのか長続きしていて、勤め始めて一年程になっていた。


ただ生活していくことだけに必死だった敦子も、いつか、女性としての輝きを増していく年代になっていた。そして、同時に、ふと一人ぼっちの淋しさが全身におぶさりかかってくるのを感じるようにもなっていた。

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哀しい方の人生   第十一回

2009-12-29 16:15:32 | 哀しい方の人生

        ( 4 )


敦子と小林省一との出会いは、正月休みの偶然からである。


その頃敦子が勤めていた食堂は、現在の住居より少し京都に寄った街にあった。
そこはサラリーマンなどを客層にしていて、昼間は主に食事を出し、夕方からは居酒屋風に変わる、まあいえば、場末の食堂といった店である。そういった客層から、日曜日が休みで、盆と正月には数日間の休みがあった。


正月二日の午後、敦子は児童公園の休憩所にいた。
その児童公園は、昭和四十年代に開発された大規模な住宅地の一角にあるが、敦子が散歩を兼ねて時々立ち寄る所であった。


児童公園としては規模が大きく施設も立派なものなのだが、敦子はそのことよりも、そこからの眺望が気に入っていた。昭和四十五年に開かれた万国博覧会の会場跡が遠望できるからである。
その跡地の一部は、現在は万博公園として整備され一般に公開されているが、敦子は一度も行ったことがない。


晴れがましい公園など興味がなかったが、万博のシンボルの塔が遠望できるこの場所は好きだった。
天気の良い日などは子供たちがボール遊びなどをしていたが、敦子が立ち寄ることが多い日曜日の夕方には、誰もいないことの方が多かった。この辺りの住宅地も小さな子供が少なくなっているのか、広すぎる設備ががらんとしていることの方が多かった。
敦子は、人けのない静かな公園の休憩所で、ぼんやりと万博公園辺りを見ていることがよくあった。


この日は、途中で買ってきたハンバーガーを遅い昼食として食べるために、この公園の休憩所に寄ったのである。
この辺りで営業している飲食店が少ないこともあって、そのハンバーガの店は混雑していたし、何より、正月らしい飾り付けや雰囲気が敦子には息苦しかった。


敦子は正月が嫌いだった。
働くことが好きなわけではないが、仕事をしている時は一人ではなかった。これまでに何回か勤めを変わってきたが、そのいずれでも親切にしてもらえたと敦子は思っていた。大きな会社に勤めた経験はなく、個人の家や小さな食堂だったから、家族に近い扱いをしてもらえた。今勤めている店も、顔なじみの客もでき楽しかった。


しかし、休みの日は違った。朝遅くまで寝ていられるのは嬉しいが、起きた後は一日中一人で過ごさなくてはならなかった。
敦子は、一人ぼっちが嫌いなのだ。


夜は幼い頃からずっと一人だったので、それほど淋しいとも思わないし、そういうものだと思ってきた。しかし、昼の間も一人で過ごすのは辛かった。
毎年思うことだが、正月が特に嫌いだった。一日中一人で過ごさなくてはならない日が続くからである。テレビを見ても正月用の番組ばかりだし、外に出ても街全体が晴れがましく装っていることが、さらに敦子を正月嫌いにさせていた。


敦子はハンバーガーを取り出した。
一つか二つあれば十分なのだが、それだけ買うのが店の雰囲気に比べて惨めなような気がして、五つも買ってきていた。夜の食事を作るのも億劫なので、残った分を夕食に代用させればよいと考えていた。


朝からどんよりとした天気だったが、その時、パラパラと音を立てて雨が降り出した。雨というより、霰のようなものが混じっている音である。
一分ばかり激しい音を立てた後、突然静かになり細い雨に変わった。雪になる気配はなかったが、冷たそうな雨が煙るように降っていた。


その時、休憩所に若い男が駆け込んできた。
男は敦子に向かって、「ごめん、な」と会釈しながら声をかけると、敦子の居る場所とは反対側の角でジャンパーにかかった雨を手で払った。


「参ったなあ・・・」
男は独り言をつぶやき、敦子の方を見て恥ずかしそうに笑った。


敦子は、食べようとして半分顔を出した状態のハンバーガーを右手に持ったまま、困ったような笑顔を返した。
そして、そのまま食べるわけにもいかず、大きな紙袋の中に入れなおしてから、その中に入っていた紙ナプキンを取り出した。数人で食べるものと思ったのか何枚もの紙ナプキンが入れられていたので、それを男に手渡した。


男は、ピョコンと頭を下げて紙ナプキンを受け取り、顔と頭を拭った。その後ジャンパーの肩口辺りの雨も拭った。
「ハンカチも持ってなくって・・・」と、先程と同じような笑顔を見せてから、
「カッコ悪いよ、な」と、頭を掻いた。
敦子も引き込まれて、笑った。この男が小林省一だった。

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哀しい方の人生   第十二回

2009-12-29 16:14:36 | 哀しい方の人生

にわか雨に追われるようにして公園の休憩所に飛び込んできた小林省一と、ハンバーガーの大きな袋を抱えた敦子、これが二人の出会いだった。


二人は狭い休憩所の両端で、それぞれ違う方向の外を見ていた。雨足は静かになっていたが、すぐに止むような気配ではなかった。
無言の時間が敦子にはとても長く感じられたが、本当は五分位のことだった。
敦子は、紙袋を省一に見せるように持ち上げながら声をかけた。


「ハンバーガー、食べません?」
「えっ? オレ?」


「ええ、こんなに買ってきたの」
「いいんですか?」


「ええ、よかったらどうぞ。わたし一人では、とても食べられないわ」
「本当にいいんですか? 腹・・・、減ってるんですよ」
と、今度はいかにも嬉しそうに笑った。ごつい体付きと、まだ少年のようなものが残る笑顔がアンバランスで、それが敦子に親しみを与えた。


「どうぞ、遠慮しないで。一緒に食べましょ」
敦子は大きな紙袋を引き裂いて、コンクリートのテーブルの上に広げた。
二人の初めての食事のためのテーブルクロスだった。


「ハンバーガーは五つもあるのよ。でも、飲み物は、凍りついたようなコーラが一つだけ・・・」
敦子は歌うように語りかけた。


省一はテーブルを挟んで敦子と対面する辺りに立っていたのだが、直角になる位置まで移動すると、また先程のはにかんだような笑顔で敦子の顔を見つめた。そして、ジャンパーの内ポケットの辺りから缶コーヒーを二本取り出した。


「少し冷めたけど、温かいコーヒーが二本・・・」
省一も敦子に合わせるような口調で、缶コーヒーをハンバーガーに並べるように置いた。


「まるで手品みたい・・・」
敦子は呆気にとられたような表情で、手をたたいた。


「うん、あんまり寒いんで、カイロの代わりに買ったんだ」
「ええっ? でも、カイロを飲んでしまっていいの?」


「ほんとだ・・・。でも、もうご用済みでいい頃だよ」
「じゃあ、一つはわたしが頂いていい?」


「もちろんだよ。でも、缶コーヒー一つでハンバーガーを貰うなんて、ちょっとまずいな」
「気にしないで。ハンバーガーは少し冷めてるけど辛抱してね。さあ、早く食べましょう」


二人は缶コーヒーを開け、意味もなく乾杯のような仕草をしてから食べ始めた。
世の中が、狂おしいほどの好況に沸き立っている年の正月のことである。

そのような世相からはぐれ、世間に背を向けるようにして生きてきた二人が、氷雨に煙る公園の一角に吹き寄せられてきたような出会いだった。
敦子にとっては、ハンバーガーと缶コーヒーとはいえ、久しく経験していない一人ぼっちでない正月であり、小林省一の笑顔が温かいひとときだった。


雨が止むまでの二時間ばかりをその公園で過ごした二人は、阪急電鉄で梅田に出た。
どちらが誘ったというわけでもなく、正月休みを持て余していた二人は映画を観に行くことになり、映画館を出た時には、二人は体を寄せ合っていた。

敦子にとって初めての男性だった。 
異性に対して極めて警戒心の強かった敦子が、省一に何の危険も感じなかったのは敦子自身説明できないものだった。


  **


二人は、二月の下旬に新しくアパートを借り、一緒に暮らし始めた。
敦子にも省一にもそのような意識はなかったが、早くから社会の守りから外れたようにして生きてきた二人の出会いは、まだ育ちきらない若鳥が互いの傷口をいたわり合うための出会いでもあった。
敦子が十九歳、省一が二十一歳の厳寒の頃のことである。


やがて敦子は身籠り、その年の梅雨が終わる頃に正式に結婚した。
区役所に婚姻届を提出しただけで、結婚式も新婚旅行もできなかったけれど、その日二人は、二人が初めて会った公園でハンバーガーを食べ、あの日と同じように映画を観に行った。
それが二人なりのけじめであり記念だった。


敦子は自分には過ぎた幸せが与えられていることに感謝し、同時に幸せすぎることに不安を感じていた。
「哀しい方の人生」を歩くように運命づけられている自分が、こんな幸せな日々を送っていいのかと、少しずつ膨らみを増すお腹を愛おしみながら、怖れのようなものを感じていた。

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哀しい方の人生   第十三回

2009-12-29 16:13:53 | 哀しい方の人生

        ( 5 )


小林省一は、岡山県北部の町で育った。
普通の家庭の、普通の男の子として育ったが、普通の生活を踏み外したのは高校一年の時の万引き事件が発端である。


隣町のスーパーマーケットで万引きを働き、捕まってしまったのである。
普通の家庭で育った省一が、万引きという行為が良くないことは当然承知していたが、仲間内の一種の洗礼のようなもので、彼一人が加わらないわけにはいかなかった。犯罪を犯す危険より、仲間外れになることの方が遥かに怖かった。
しかし、結局捕まったのは、図体ばかり大きくて要領の悪い省一だけだった。


この事件そのものは、幸いなことにスーパーマーケットの責任者の好意で、警察や学校には知らされることなく、両親が謝罪して解決することができた。
同じように行動していた仲間のことは一切話さなかったので、彼らからは感謝されたが、それは当座のことだけだった。
日が経つうちに、表に出なかった秘密を知っている省一の存在は、彼らからすればうっとうしい存在となり、いつの間にかグループから外されていた。


その後は、歳の離れた兄が以前に使っていたバイクを乗り回すようになり、自然にバイクを通じての新しい仲間ができていった。
暴走族というほどのものではなかったが、同じようなグループと出会うこともよくあり、いさかいもしばしば起きた。
そして、いつものような争いごとが大きくなってしまい警察に補導されたのである。


その時も、いつの間にか省一が一方のリーダー格のように取り扱われることになってしまった。
警察の方は起訴されずに済んだが、学校の方からは厳しいけん責を受けた。両親の必死の対応で退学だけは免れたが、停学処分を受けてしまった。停学期間は短いものだったが、それにより学校が苦痛の場所に変わった。
結局、ずるずると数日学校を休んだのち、退学することに決め、家を出た。


省一は、大阪市内を転々とした後大阪市に隣接する街に移った。
その辺りには、わが国を代表する家電メーカーの本社や工場が集まっていた。そして、幾つかの大企業を中心にピラミッドを形成するように、関連会社や出入りしているあらゆる業者が集中していた。


省一がその街に移ったのは、新聞広告を見て面接を受けたからである。
大阪に出てきてから、パチンコ店と喫茶店に勤めたが、どちらも省一の性格に合わなかった。
新聞広告の会社は倉庫要員を募集していた。「学歴不問、身体強健」が募集条件だったが、自分にぴったりの条件だと思い応募した。


その会社に無事入社した省一は、倉庫の仕事は一週間しただけで、運転手の助手の方へ廻された。倉庫の仕事に就いている者が全員高齢者だったこともあり、運転助手として大型トラックで荷物を運ぶ部門に配置換えになったのである。
省一はこの会社に三年余り勤めることになったが、この間に一人前のトラックドライバーに育ててもらったのである。


省一にはトラック運転手という仕事が合っていたし、その職場も居心地の良い所だった。しかし、良いことは続かないもので、会社が大幅縮小されることになり、所属していた倉庫が閉鎖されることになってしまった。
会社の経営状態など省一に分かるはずもなかったが、この数年の円高などの影響から国内の家電製品は競争力を弱めていて、生産拠点を次々と海外に移していた。省一が勤めていた会社もその煽りを受けて、業務縮小ということになってしまったのである。


三年余り世話になった会社を退職することになったが、トラックドライバーとしての経験のおかげで再就職に困ることはなかった。
多くの募集先があり、就職するのに困ることはなかったが、省一が落ち着ける場所はなかなか見つからなかった。殆どの会社が最初の会社に比べると給料は良かったが、運転時間などの労働条件や同僚なども含めた環境はかなり悪く、どの会社にも落ち着くことができなかった。


省一は勤め先を次々と変えていった。いずれも大阪市内かその周辺都市である。
仲間とうまくいかないこともあったし、上司と喧嘩をしてしまったこともあった。会社の方が倒産してしまい給料を払ってもらえなかったこともある。
それでも、トラックドライバーとしてのしっかりとした技術を持っている省一は、その腕一本で生活していくのに困るようなことはなかった。


敦子との出会いは、省一にとってもこれまでの生き方を大きく変えるものとなった。

この数年、省一は極力他人との関わりを避けるようにして生きてきていた。仕事上同僚たちと関わらないわけにはいかないが、酒を飲まないこともあって仕事以外の場では一人のことが多かった。
省一が一番落ち着ける場所は、トラックの運転席だった。


しかし、敦子との出会いは、省一に新しい生活をもたらした。一緒にいて安心できる人がいることを知った。さらに、敦子の妊娠により、将来を考えることを知った。家庭というものを、漠然とではあるが思い描くようになった。
これまでの不運が終わったのだと考えるようになっていた。


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哀しい方の人生   第十四回

2009-12-29 16:13:14 | 哀しい方の人生

それは、やはり、正月二日のことである。


省一の勤める会社は十二月三十日から年末年始の休暇に入るのだが、荷主の関係で臨時の仕事があるのが例年のことだった。
この間の出勤には特別の手当てが付くことになっていたが、積極的に希望する者はなく運転手間の話し合いで出勤者を決めていた。


その運送会社で二回目の年末を迎える省一は、十二月三十日から三十一日にかけての仕事が割り当てられていた。
大晦日の夜遅くまでかかる可能性が高いので、運転手が一番嫌う日である。正月に出勤するのも余り有り難くないが、年末の仕事は道路の渋滞が凄まじいことが何より嫌われた。
しかし、仲間のうちの誰かが引き受けなくてはならなかった。


省一は、この他にも正月の仕事も引き受けていた。元旦の午後から二日の午前中にかけての仕事なのだが、これは別の運転手の割り当てになっていたのを交代したものである。
最初当たっていた男が久しぶりに故郷へ帰る計画をしていたので、省一の方から仕事を引き受けることを申し出た。


彼とは日頃から親しかったからだが、本当のところは、省一は休日出勤手当と特別手当が欲しかった。間もなく生まれてくる子供のために、少しでも多くお金を準備しておきたかったのである。


元旦の午後四国に渡り、三か所で荷物を受け取った省一は、神戸市にある納入先の倉庫に向かった。
夜中にフェリーで海を渡り、降りた後道路脇にトラックを止めて仮眠をとった。納入指定されている時間に早すぎるからである。


仮眠後、指定時間に合わせて納入は完了した。後は大阪北部にある会社に戻るだけである。
納入先から会社へは、有料道路に入るより一般道路の方が便利だった。正月は道路も空いていた。


省一の車のバックミラーには、小さな人形が掛けられ揺れていた。赤い帽子を被った子供の人形だった。
「もうすぐ、父親になる・・・」
と、省一は声に出した。
これまで経験したことのない充実感に、叫びたくなるような気持ちを抑えていた。


「今日の仕事の手当で、この人形のような赤い帽子を買ってやるんだ・・・」
省一の顔に、抑えきれないような笑顔が浮かんできた。


その時だった。
左折しようとしていた省一の大型トラックの後輪に、子供の乗った自転車が巻き込まれていった。


省一は、その後のことを、よく覚えていなかった。
省一が自分を取り戻した時には、何台もの警察車両の、くるくる回る赤いライトの点滅が滲んで見えていた。
誰かに何発も何発も殴られて膨れあがっ顔が、自分のものではないように熱っぽかった。


「オレが、幸せになれるはずなんかないんだ・・・」
省一は、呆然とした状態のままつぶやいた。


  **


まだ幼い子供は、即死状態だった。
事故は省一の一方的な過失とされた。さらに悪いことに、酒気帯び運転とされたのである。


省一は酒を殆ど飲まない。高校生の頃から悪ぶったこともしてきたし、酒も煙草も試していた。
しかし、煙草も好きになれなかったが、酒は全く駄目だった。体質らしく殆ど飲めなかった。


その日は、納入先で初荷の祝酒が用意されていた。そこでコップ酒を少しばかり口にしていた。
正確にいえば酒気帯びにあたるかどうかという程度の量だったし、その後で缶コーヒーなどを飲んだりしていたが、アルコールの臭いが残っていて、その場で逮捕され拘留されてしまったのである。


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哀しい方の人生   第十五回

2009-12-29 16:12:36 | 哀しい方の人生

突然の出来事に、敦子は大きくなったお腹をかばいながら走り回ったが、会社の人に頼る以外に方法もなく右往左往するばかりだった。


もともと無口な省一だが、二人で暮らすようになってからは敦子と明るく話すようになっていたのに、事故以後は殆ど口を利かなくなってしまった。
警察の取り調べでも何の言い訳もせず、敦子に対しても、あれほど楽しみにしていた生まれてくる子供のことさえも話さなくなっていた。


事故で亡くなったのは四歳の男の子だった。
父親と並んで自転車に乗っていたのだが、先に行っていた子供だけが省一のトラックに巻き込まれたのである。


省一が裁判で有罪になるのは決定的で、何とか執行猶予が付くように努力することが大切だというのが、相談に乗ってくれている弁護士の意見だった。

努力する方法は、被害者の両親に赦しを乞い、省一の罪を軽くしてくれるよう裁判官に陳述してもらうことだと教えてくれた。そして、そのためには、誠心誠意詫びることと、出来る限りの保証をして先方との示談を早く済ませることだ、とも教えてくれた。


事故補償については、勤めていた会社が加入している保険で対応してくれることになっていたが、被害者の代理人だという人は、敦子に慰謝料を厳しく請求してきた。
保険会社から支払われるものなど当然のものに過ぎず、それ以外にどうしてくれるのかということが誠意だと敦子に迫った。


敦子は、お嫁に行く時まで使わないように言われていた、叔父から貰った貯金を使うことにした。
結婚する時にも手を付けなかった貯金だが、この苦境に使うのは、叔父も、祖父も許してくれると思ったからである。


二百万円と、その後に僅かばかり加えたものと、加えられている利息も含めた全額を被害者宅に持参したが、
「こんな端金、子供の命の代わりになるとでも思っているのか」
「馬鹿にするにも程がある」
と、居合わせた数人から厳しく責められた。


敦子は、全てのものを投げ出したのに、こんな端金と罵られるのが悔しかったが、ただ頭を下げて、涙をこらえていた。
遺族とその関係者たちは、端金、端金と繰り返したが、そのお金を返してくれるわけでもなかった。


そして、集まっていた人の中から、さらに責められた言葉は敦子が一生忘れることができないものだった。
「あんたも、生まれてきた子を誰かに殺されればいい。そしたら、わしたちの悲しみが分かるんだから」


敦子は、身を伏せ、全身を震わせながら、今の言葉がお腹の子供に聞こえないようにと、ひたすら祈った。

敦子の努力は、先方から見れば、何もしてくれないということのようだった。省一は有罪となり、執行猶予は付かず収監された。


  **


最後の拠りどころとしていた貯金を支払ってしまった敦子は、出産の費用にも事欠く状態になった。
省一と生活を始めた時に借りた文化住宅から現在のアパートに移ったのも、家賃を減らす必要もあったが、一番の理由は、戻ってくる敷金を出産費用に充てるためだった。入居の時支払った額より減らされたが、敦子が縋ることができる唯一の資金だった。


省一は敦子に対しても極端に口数が少なくなっていた。
最初の面会の後、省一の弁護を担当してくれた弁護士から、省一の署名がされた離婚届の用紙が敦子に渡された。弁護士は、それが省一の贖罪の気持なのだと語った。


敦子はその場でその用紙を破り捨てた。
そして、敦子は、一人の肉親にさえ助けられることなく、小さな病院で出産した。

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哀しい方の人生   第十六回

2009-12-29 16:12:03 | 哀しい方の人生

      ( 6 )


「事故を起こしたのですから、省一が悪いのは当然です。
今こうして、自分の子供を抱く立場になってみると、遺族の方々の悲しみやわたしたちへの怒りや憎しみは当然だと思います・・・。
でも、省一は、あのお子さんを殺したのではありません。死なせてしまったことは事実ですし、言い訳もできないと思います。申し訳ないとも思います。でも、殺そうと思ってしたことではありません・・・」


敦子は、涙を流してはいたが、しっかりとした口調で石川に語った。
それは、語るというより、血の出るような叫びであった。


「省一はわたしの主人です。そして、省一があのお子さんを死なせてしまったことも事実です。省一やわたしがいくら責められても仕方がありません。わたしたちがいくら詫びても、詫びたりないと思います。でも・・・、そうだからといって、この子が誰かに殺されてもいいということではないでしょう?
わたしはこの子を守っていきます。あの事故がこの子の罪になるなんて、誰にも言わせません・・・」


日本の社会は今も連座制なのだ、と石川は思った。
家族が単位となって生活している以上、一人の失敗や犯罪がその家族全体を不幸の巻き添えにしてしまうことは避けられないが、生まれてくる子供まで罪が問われなければならないのか・・・、と石川は憂鬱な気持ちになっていた。


省一の大型トラックに巻き込まれて亡くなった男の子は、石川の子供とほぼ同年齢だった。
当時石川は、自分のこととして考えれば、子供を殺された両親の怒りの激しさは十分理解できる、と思っていた。それでもなお、敦子の境遇に同情する気持ちの方が遥かに強く、何とか力になれないかとの思いが強まっていた。


年を経て、当時のことを思い起こす時、四歳の子を交通事故で亡くした親の気持ちを当時の自分が理解することなどできるものではないと、つくづく思う。
無残な形で子供を失った親の気持ちを理解することなど誰にもできない。たとえ同じような経験をした人であっても、怒りと悲しみの最中にある人の気持ちを推し量ることなどできるものではあるまい。


しかし、それでもなお、敦子の子供のような立場の幼い子を、不幸の渦に巻き込んではならないと思う。敦子の子供の正夫くんを不幸にすることが、四歳の男の子を亡くした両親の悲しみを癒すことに役立つことは絶対にない・・・。
石川はこの考え方に年を経ても揺るぎはないが、現実は、そうもいかないようである。


「哀しい方の人生」などという考え方が、特別な意味をもって存在しているのかどうか知らないが、少なくとも石川にとっては、敦子から聞いたのが最初だった。


子供の親とはいえまだ若い女性が、安易に「人生」などという言葉を使うことでさえ違和感があった。幼い子供を抱えた若い母親が、人生を達観したような、それも投げ遣りのように聞こえる「哀しい方の人生を歩く運命にある」などと口にするのには、どう対応すればよいのかさえ分からなかった。


このことについて石川は、敦子と何度か話をした。
これまでのあまり恵まれなかった生い立ちから、自分には幸せな人生などなく、哀しい人生を送らねばならない宿命なのだと思い込んでいる・・・。それが敦子に「哀しい方の人生」などと言わせているのだと最初は推定していた。


その後、それが幼い日に祖母から植えつけられたものらしいことを想像できるようになったが、敦子にはそのような意識は全く持っておらず、それが自分の当然の運命だと思い込んでいるようだった。


石川は、敦子の考え方が間違っているということを分からせようと何度も試みたが、強く反論もしなかったが、彼の意見を受け入れる気配もなかった。それが自分の運命だと思い込んでいる気持ちは少しも揺るがなかった。


それでも石川は顔を合わせるたびに、人生は努力によって変えることができるものだと繰り返した。
敦子は、石川の熱弁のあと一呼吸置くと、
「努力なんかで、どうすることも出来ないことだわ・・・。石川さんには分かりませんわ。だって、石川さんは、わたしとは違いますもの」
と、静かに首を横に振りながら言った。


「違うって? どこが違うんですか?」
「石川さんは、哀しい方の人生じゃないから」


「私は悲しい方の人生ではない? 私は楽しい方の人生だというんですか?」
「楽しい方の人生などというものがあるのかどうかは知りません。でも、石川さんは悲しい方の人生を歩く人ではありませんわ。そのことだけは、わたしには分かるのです」


このことは、何度繰り返しても敦子は淋しく笑うだけで、石川の意見を全く受けつけようとしなかった。彼を非難するわけでも強い口調で反論することもなかったが、彼の考えを受け入れることはなかった。


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哀しい方の人生   第十七回

2009-12-29 16:11:05 | 哀しい方の人生

敦子は石川との会話の中で、自分は運の良い女なのだ、ということも口癖のように言っていた。


石川は最初にこの言葉を聞いた時、敦子が冗談を言っているのか、あるいは自虐的な意味で使っているのではないかと思った。
「哀しい方の人生」を歩いていることと「運の良い女」であることとは、余りにも矛盾していると思ったからである。


しかし、それは受け取る方の勝手な想像で、敦子は本心から自分は運が良いと思っているようだった。何度かの訪問を通じて石川が知っている部分を見る限り、とても幸運などといえない日々だったと思えるのだが、敦子はどれもが幸運の連続だったというのである。


敦子によれば、両親の顔さえ知らない生い立ちも、祖父母という人が居てくれたという幸運に恵まれたから何不自由なく育てられたというのである。高校進学をあきらめてお手伝いとして働くことになったことも、生涯経験することがないような素晴らしい部屋で生活することが出来たという幸運として捉えていた。


そして、折角のそれらの幸運が消えていったことについては、「哀しい方の人生」を歩く運命だから仕方がないのだと、淋しく笑うのである。


「哀しい方の人生」を歩かねばならない者でも、努力や幸運によって幸せを掴むことができるけれど、それはひとときのことで、いずれ「哀しい方の人生」に戻っていくのだというのが敦子の一貫した考え方だった。


反対に省一は、「哀しい方の人生」を歩く男ではないが運の悪い男なのだとも敦子は話した。
無口で気の優しい男なのに、体が大きいばっかりに、何か悪いことが起こった時にはひときわ目立ってしまい、損ばかりしている男なのだというのである。


「体は大きいけれど、あまりにも優しすぎるものだから、いつも損な役回りばかりさせられているの・・・」
と、省一のことを語る敦子の表情は、不運なことの多い息子を愛おしむ母親のような表情だった。


「わたしは省一と出会って、幸せをもらっています・・・。しかし、わたしは省一に何もしてやれないのが辛くって・・・。
でも、今なら少しは力になれると思うんです。わたしは運の良い女だから、二人合わせるとちょうど五分五分になれるんですよ」
と語る、真剣な面持ちの敦子の姿が印象的だった。


  **


石川が小林敦子と交流があったのは三か月に満たない期間である。小林省一とは一度も会わないままである。


偶然の事務ミスから知り合った若い母親と、短い期間だとしても生きてきた道の一端を聞かせてもらうようになったのには、決して傲慢な気持ちではないとしても同情心があったことは否定できない。

しかし、その部分を否定できないとしても、石川に強い印象を与えたのは、敦子が口にした「哀しい方の人生を歩く」という言葉だった。さらに、その境遇にかかわらず「自分は運の良い女」と言い、陰のない逞しさに惹かれたからである。


一方で、敦子が行きずりの人ともいえる石川に心を開いたのは、明るく振る舞ってはいたが、小さな子供を抱えた若い母親が担う荷物に耐えかねて、誰かに話すことで一瞬の安らぎを得ようとしていたのかもしれない。
だが、もしすると、敦子が石川と話す言葉は最後まで変わることなく美しい言葉であったことを思えば、心を開いてなどいなかったのかもしれない、と彼は言う。


石川が敦子と始めて会った時、すでにK市への転居の計画が進められていた。
敦子が働いていた食堂の主人と、アパートの家主でもある民生委員の人の尽力によるもので、省一が収監されている刑務所がある町への転居だった。
子供が生まれてからも昼間の短い時間だけ働かせてもらっていた食堂の主人の親戚がK市で営業していて、そこで働かせてもらえるよう話が進められていたのである。


省一は、相変わらず敦子と殆ど話そうとせず、子供の顔を見ることも苦しげであった。
その後も自分の判を押した離婚届の用紙を届けてきたが、敦子は面会の場でその用紙を破り捨てていた。それが、すでに三回になっていた。


「この子を、自分と同じような子供にしてはいけない。父親を知らない子供にしてはいけない」
と、敦子は言った。石川と最後に会った時のことである。


敦子の生い立ちの中に存在していないはずの父親だが、心の奥深くでうずき続ける存在でもあったのだと、石川の心は痛んだ。
さらに、自分には育ててくれる祖父母がいたが、この子には、わたしたち以外に誰もいないのだ、と付け加えた。


「あの人は運が悪い人ですが、わたしがついていれば大丈夫です。わたしの運とあの人の運でちょうど一人前なんです。二人でなら、この子を守っていけます。哀しい方の人生を歩いて行くわたしですから、哀しいことなんかには負けません・・・」

敦子は、ようやく独り立ちできるようになったばかりの正夫くんに靴を履かせて、正座した膝の上で跳ねさせながら石川に微笑みかけた。


敦子と正夫くんがK市に移って行ったのは、それから間もないことである。
                     
                              ( 終 )

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