見出し画像

南英世の 「くろねこ日記」

学校と成果主義


学校にも成果主義がとりいれらている。S,A,B,C,Dで人事評価を行ない、SとAのひとにはいくらかのボーナスみたいなものが出る。いささか古いデータで恐縮だが、大阪府教育委員会が公表した2005年のデータが手元にある。それによると、府立学校の評価結果の分布はおおよそ次のようだという。

S・・・約 3%
A・・・約35%
B・・・約61%
C・・・約 1%
D・・・  0%

バブル崩壊後、成果主義は徐々に日本に浸透してきた。学校で成果主義が導入されて約10年。今学校現場ではどういうことが行なわれているのか。

学校現場には、それぞれの特色に合わせた教育目標が設定されている。それには、センター試験の得点率とか、国公立大学合格者何名とか、退学者数の減少とか、数値化され目に見える指標が選ばれることが多い。そうした学校設定目標にいかに貢献するか。それが人事評価と大きく結び付く。こと進学校に関して言えば、センター試験やブランド大学に何名合格させたかがおもな評価基準となる。


その結果、どういうことが起きるか。各教員は、自分の受け持っている科目が、センター試験で何%の得点をとったかを最大の目標とする。
去年に比べてどうだったか、全国平均と比べてどうだったか、他の府立高校と比べてどうだったか。センター試験で高得点をとらせることが目的化すること自体、教育という観点から問題だが、もっと深刻な問題は、他の教科にお構いなく、自分の教科の得点を伸ばすことに血眼になるという点である。

できない生徒を放課後残し、できるようになるまで指導する。宿題を一杯出して、演習をさせる。小テストを繰り返し生徒を追い立てる。

一見すると、すごく指導熱心でいい先生にも思えるが、しかし、すべての先生にこんな指導をされたら、生徒はたまったものではない。宿題の量は膨大なものになり、生徒の負担は増すばかりである。ある生徒が、睡眠時間が2~3時間しか取れないと言っていたのを聞いて、わが耳を疑った。真面目な生徒ほど、出された課題をきちんとこなそうとする。また、課題を提出したかどうかを「平常点」として成績に反映させる教師が多いから、生徒は無理をしてでも課題を出そうとする。

今の学校システムでは、宿題を出す先生は、自分が出している宿題量しか分からない。宿題の総量を知っているのは、生徒だけである。経済学でいう、いわゆる「合成の誤謬」が起きているのである。

生徒の立場に立った「全体最適」を目指すのではなく、自分の教科のみの利益追求に走る「部分最適」を求める。先生のほうだって、人事評価が次の転勤に影響を与えるから、必死なのだ。その結果、生徒の24時間の時間の奪い合いが各教科で起きている。

「社会の本格的な受験勉強は10月からでよい。それまでに英・数・国をしっかりやっておけ」と日ごろから言っているが、この調子だと10月以降も、英・数・国に時間を取られて、社会にまで勉強時間が回ってこないのでないか、と危惧している。部分最適より全体最適、テストで高得点を取れるような授業より学問的な深さや味わいを大切にしたいと願っている私なんかは、もう時代遅れの教師なのかもしれない。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日常の風景」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事