私が初めて読解力の重要性に気付いたのは50年前の浪人をしているときである。予備校の現代文の先生が、文章を読ませる際に生徒に求めることはただ一つ。
「筆者は何を言いたいのか?」
それだけだった。しかし、そうしたトレーニングをするうちに、現代文だけではなく、古典も漢文も世界史も英語の長文も、どんどん読めるようになっていった。その意味で、現代文の授業は私の人生を切り開いてくれたともいえる。だから、予備校時代に使った「現代文」のテキストは今も大切に持っている。
そもそも文章というのは何かを伝えたいために書かれている。だから、その言いたいことをつかむことさえできればそれで十分である。たとえ1000ページの本でも、一言で「筆者はこういうことを言いたいのだ」ということがわかればいいわけである。
その際大切なことは、まず「全体像=筆者の言いたいこと」をつかむということである。それさえつかめれば、細かなことは自然にわかってくる。
ところが、私が高校時代に受けた教育は「まず部分を理解し、それから全体像をとらえるという方法」であった。しかし、こうした読み方をしていると、細部にとらわれ全体像が見えなくなってしまう。最初に全体像があって、そのあとに部分がわかってくる。普段、ほとんどの先生は実はこうした読み方をしている。
しかし、いざ自分が教室で授業を行うと逆の教え方をしてしまう。授業を「作る」ため、部分をごちゃごちゃ説明し、そして全体像に迫ろうとする。「筆者が言いたいことは何か」を1時間かけて生徒に考えさせるのでは時間を持て余してしまう。だから、部分を詳細に説明し、授業を「作る」。しかし、それでは生徒は部分ばかりを見るようになり、全体が見えなくなってしまう。浪人している時に初めて文章を読むということは、まず「全体像」をつかむことだと気づかされたのだった。
私は教員になって以来、生徒に「自分でまとめて」「書かせること」にこだわってきた。だから、いわゆる「まとめプリント」は出さない。生徒が教科書を読んで自分でまとめるという大切な機会を奪うからである。(この辺りは社会科特有のことかもしれない)。
ともかく、本当に分かれば難しい専門用語を使わなくても「小学生にでもわかるように」やさしく説明できるはずである。そんな風な理解をしないことには現実には使い物にならない。テスト前に一夜漬けで覚えて、テストが終わればすぐ忘れてしまうような薄っぺらな知識ではなく、10年たっても20年たっても脳みそにグサッと突き刺さって忘れることができない本物の知識を身につけてほしい。
そのように生徒の学習態度を変えるにはテスト問題を変えるのが一番である。逆に言えばテスト問題を変えないことには、生徒の学習態度は変わらない。そんなことから、定期考査では、1問=100点の論述試験を課してきた。
今の学校は、目先の得点を挙げることに血眼になっている。行政のトップでさえ、全国学力テストの平均を気にしている。目先の点数をアップさせるために、教師がやさしく書いたまとめプリントを作って「はい、これを覚えなさい」方式の教育が横行している。そんなことをすれば生徒はますます教科書を読んで自分でまとめることをしなくなる。テストで高得点を上げられない一つの理由は、「読解力の欠如」である。一見、親切に見える教育が実は一番罪深い。
新井紀子さんの著書を読んで、ようやく今までの私のやり方が間違いではなかったと言ってもらえた気がする。まさか、読解力の重要性を数学のAI研究者から指摘されるとは思っていなかった。
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