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日々の暮らしのなかで

記憶の間で

2017年11月20日 | 日記
記憶とは曖昧なものである

強く刻まれる記憶と、
薄く滲んでしまう記憶がある

キョーレツな体験なら、強烈に覚えているし、
日常の忙しさの中で、形を消してしまう
記憶もある

さらに、個人差のある記憶の中でも
共通の体験をしているにも関わらず、
覚え方に誤差が出来てしまうことに
興味をソソられる

すなわち、同じ経験をしたとしても
一人は強烈な興味を持ち、
もう片方は、そうでも無かった!という
感想を持ったのだ

この誤差は、時には厄介な時もある

特に、片方が大きな声の持ち主だった場合、
もう一人の記憶は

「間違ったもの!」

と言う、面白くないレッテルを貼られてしまうからだ

また、大きな声で主張することによって
周りの人間の記憶さえも、

「書き換えてしまう」

世にも恐ろしい特殊能力まで得てしまう

そして、最大にして最強に恐ろしいのは、
その大きな声の持ち主の記憶は
さして印象に残るほどのことでもない、
平たく言えば、

「間違った記憶」

の場合が多く、それが正道となってしまうと、
後々厄介なことになりかねない

ただ、ご安心あれ

そういう曖昧な記憶はやはり、
多数派の前では、徐々に効力を失っていく

大きな声で主張しようとも、
記憶の断片をつなぎ合わせた証言の前には、
やはり

「間違った記憶」

としての立場が鮮明になってしまうからだ

でも安心も出来ない

時として、間違った記憶というのは、
深く刻まれる場合もある

それは誰もが

「そうであって欲しい!」

と言う、強い概念が生み出す願望が
形となって記憶に残ってしまうからだ

「自分の意見は正しい!」

知らず識らずのうちに、自分の立場を証明する、
無かった事が現実になってしまう記憶も存在する

自分の主義主張を通すためだが、
それは自分でも気づかぬうちに、
記憶が置き換えられているにすぎない

時には人の記憶の言葉に、耳を傾けるのも
必要なことだと思うよ

すべて自分が正しいとは
限らないからね
 
 
 
 
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