水面に映る光景

日常感じたことなど。

一之江名主屋敷

2006-10-31 22:54:29 | Weblog
 先週、そばの花を近くで見ることができるというので、江戸川区の“一之江名主屋敷”に行きました。
 瑞江駅から歩いて10分ほどの所です。
 
 確かにそばの花は咲いていましたが、見頃が過ぎ、収穫してしまったのでしょうか、あまりの少なさに、なんだか新聞の写真にだまされたような気分になりました。

 屋敷自体は、趣のある旧家の雰囲気そのままで楽しむことが出来ました。いまでも暮らせそうでした。
 ミニ森林浴も楽しめたし、久しぶりに藪蚊にも刺されました。

 瑞江という新興都市の活気に触れ新鮮な気分になりました。
 親子連れが多いのはやはり華やかな雰囲気を地域にもたらすようです。

 半日の心遊び、そんな感じ。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬大学医学部訴訟に思う 1

2006-10-30 13:09:27 | Weblog
 56歳の主婦佐藤薫さんが群馬大医学部医学科を不合格になったのは年齢のせいだと訴えた。年齢のせいだとは、はっきりいえないとして裁判所は請求を棄却した。

 客観的に点数のでるぺーパーテストで合格者の平均点より10点もの高得点を取りながら、主観的判断である面接や、小論文で落とされるということは年齢による差別といわれてもしょうがないと思う。

 不合格になった原因を公開しない限り、公平に判断したと、いくら言ってもそれは信用できない。


 分野が違うとはいえ学ぶことに挑戦している者として、佐藤さんの学びたいという気持ちが切に伝わってくる。
  あまりに前近代的な出来事で悲しみのあまり言葉が見つからない。

 とても残念なことだ。

 群馬大学さん、佐藤さんに学ぶ機会を与えてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報道写真に心

2006-10-28 00:20:37 | Weblog
感動の写真の続編(写真がなくてごめんなさい)。

 入園を拒否されて訴訟を起こしていた鈴花ちゃんの笑顔にまた会えました。
 仮入園の決定で保育園に通園していた鈴花ちゃんが本訴訟で入園を認められました。
 そのことを報じる写真に鈴花ちゃんの飛び切りの笑顔と成長が読み取れました(06・10・26)。

 毎日と朝日どちらも2枚の写真入りで報道しているが、私は毎日の写真が好き。私の心に響いてくる。

 ご両親の心を込めた暖かい子育てが伝わってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緊張の日々

2006-10-26 12:21:24 | Weblog
 予備校を変えて勉強するということは他流試合に出かけている気分です。

 今、私にとって一番苦手な科目(勉強の中心にしたいほど興味はあるが)、会社法の論文の答錬を受けています。
 力不足の上に変化の激しい法律で大変です。力不足を棚に上げてきちんと書きたいと見栄を張るので疲れます(アホカー)。

 行きたくないという気持ちになったり、問題を貰って読んだ後で、書かずに帰りたいという気持ちになったり、自分としては思いがけず苦戦しています。

 文章を書くことに抵抗感がそれほどないので、紙面を埋めることが出来ないということはありませんが、問題の筋を読み違えることが多く気持ちが落ち込みます。

 一方で、新しい講師との出会いは新しい視点を気づかされたり、抜けていた知識に気がついたり、と学ぶことが多くあります。

 頭が混乱気味の日々です。同じく文章を書くのでも、ブログの文章を書くことは楽しいい。しかし、それでは逃げになる。ジレンマです(大げさな)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天下の「天声人語」に違和感

2006-10-19 13:11:51 | Weblog
 昨日(06・10・18)の朝日新聞、天声人語の意味するところが理解来ません。代理出産のことを取り上げていると思うのですが。

 賛成にしろ反対(と言いたいのでしょうか?)にしろ、こんな茶化したようなことで済まされる話題でしょうか。すごく違和感を覚えます。不快感を感じます。

 このことに関しては、報道される範囲の事実だけを評価抜きで読むようにしていました。

 がんにかかることだけでも大変なことだし、結婚するかどうか、子どもを持つかどうかも大変です。親子の関係、夫婦の関係、それはそれでまた大変なことです。


 代理出産で子どもを持つことに、どれだけの時間とエネルギーとそして、心を費やしたことでしょうか。それを考えるだけでもことの重さが想像できます。ましてやその前提にがんという病気が存在するとすれば、その人たちの経験を仮に共有することさえもはばかられます。起きたことを評価なくを受け入れることしか出来ないような気がします。

 自立し自律した人たちが、共同し叡智を結集して、子どもの未来を創っていくことを信じたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の力を尽くす

2006-10-15 07:43:11 | Weblog
 「どんなもめごとも ことばの力をつくせばしずまる」という井上ひさしさんの言葉を読んで嬉しくなった(朝日、06・9・26)。
 憲法9条について子供達に伝えるための本の中で使われている言葉である。
 
 身近な所でも武力に頼る国に対して、今、世界中が警笛を鳴らしている。これは武力がいかに不快なものであるかを世界中が感じているからだと思う。
 
 
 また、言葉を尽くして理解してもらうことを放棄することも不快なことだと思う。
 私自身1年ほど前に「言葉を尽くせば分かってもらえると思うよ」とある人に言ったことがある。
 その時、即座にそんなことするくらいなら、わかってもらえなくていいと返された。
 
 次の言葉を飲み見込みながら、悲観的な気持ちになったので、その時のことが鮮明に記憶に残っている。
 その時私自身が言葉を尽くさなかったことは反省である。


 子供達とは本当によく話し合う。意見が合わないときも言葉を尽くして理解してもらうようにしている。
 
 息子が幼い頃、疑問を持ったことに説明を求めてきた。その時、大人になったら分かるといわずに、今の僕に分かるように説明してと言っていたことが今でも耳にこびりついている。
 
 一方、夫とは言葉を尽くして話し合ったという記憶がない。
 
 人と人との関係を大切にしようと思うなら、人としての武器である言葉を尽くさなければならないと改めて思う。
 身近な人との関係でも、遠く世界の人々との関係でも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひまわり基金法律事務所

2006-10-12 12:57:20 | Weblog
 日弁連のひまわり基金法律事務所の弁護士にお願いして訴訟の準備をしている人が身近にいる。 行政を相手に、自分の財産を守るための闘いを、財産を失う覚悟でしようというわけです(訴訟を起こすということは時間とお金がかかる)。
 
 いろいろ話しを聞くと、裁判は結局はお金の問題ではなく、いかに自分の心を納得させるかの闘いだと思えてきた。
 裁判所の判断が確定すれば、それが意に添わなくても受け入れなければいけないのが裁判制度ではあるが、受け入れの前提として自分の気持ちを納得させることが大事のように思える(もちろん主張が認められれば嬉しいいことだが)。

 それに携わる人たちもその心の納得感のお手伝いだと思う。

 これまで常駐の弁護士がいなかった島の人々にとっては、日弁連のひまわり基金法律事務所の開設により、法を身近に感じ利用する機会が増える。それだけでもいいことのように思う。

 訴訟を起こすと公務員としての地位を失うかと聞いてきた人に、裁判をすることは国民の権利だと言うと、とても納得感を漂わせて国民の権利ね、と繰り返していた。
 
 

 法テラス(ここ)が法務省管轄の独立行政法人であることから、最も重要なことである司法の独立が守れるのか、国民の法意識が国家の方に知らず知らずに引っ張られないのかの懸念もあるようだ(天下り先が増えるのではという懸念も)。
 
 国民が平等に(憲法14条)裁判を受ける権利(憲法32条)を享受するには今回の法テラスはbetterな制度であルと思う。
 もし問題が多発するならそれは運用の仕方にあると思う。法律と同じように制度もそれと使う人たちの心にあると思うからだ。

 法律というと固いイメージが付き纏い気味だが前回の神山昌子さんも透けて見える人間臭さにはまった。「新米弁護士ばかり」等非難も相次ぐが、不安はない。人生がこれだけ聞き上手にしてくれたからと語る。

 もちろん、法律の専門家は法律書というものを駆使する法技術は必要だが、究極的に人の心に寄り添う仕事とだ思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本に対する信頼 

2006-10-08 12:59:16 | Weblog
 以下の文章に出会った。

 「僕は人間にとっての本っていうものの存在をすごく愛していて、本を書く人は誰でもすごく尊敬しています。にもかかわらず適当なフレーズを本の中で連続発見すると、人間に対する世の中の全ての本の意義がちょっと薄まったようで残念です」


 共感することしきりである。
 本というものをかなり過信していた私だが、法律の勉強をするようになって以前より精読をするようになった。すると本には以外とミスがあるものだと分かった。
 
 著者として本を出したにもかかわらず、出来上がった本に責任を持たない人もいた。
 本全体に対する、信頼が薄まる、まさにそんな経験でした。
 本、大好き人間としては耐えられない状況だった。


 
 それから、本にかかわらず書かれたものに対して信頼が薄まるような状況に出会うことがあった。原稿を丸ごと人に書かせて自分の名前で出す人もいた。
 私にとっては 書かれたものは文字の羅列であって、言葉のもつ意味、文章のもつ意味、行間から読み取れるものは何もなく、興味がまるで持てなかった。

  貰った案内状に、言葉だけが並び、心が見えないとき、その案内状とともに出した人への信頼が薄くなる。
 一方でワンフレーズのメールの返信の言葉が、心に響くこともある。


 

 このブログで書いたことに責任をもつこと、読んでくださる方に、感謝を忘れないこと、この二つを両輪にして、これからも書いていきたい。

 今日は、久しぶりの秋晴れ。いいお天気です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法テラス(日本司法支援センター)

2006-10-05 12:15:23 | Weblog
 法テラスが本格的に活動を始めた。
 そこの常勤弁護士として北海道へ赴任する神山昌子さんを紹介した記事(朝日 9月30日)は、私を元気付けた。22回の司法試験挑戦という桁外れの挑戦力に胸がドキドキした。
 まだまだだという気持ちと同時に、時代の変化で仕事の場が広がっていることが嬉しかった。
 残念なのは、制度の改正でロースクールが中心となり、彼女のように22回も挑戦するということがほとんど出来なくなるということだ。
 
 裁判員制度とは別に、誰でもが司法試験を受けられるようにすることが司法を国民の近くに置くことの一つになると思う。
 私が、この試験に挑戦することで身近な人が興味を持ってくれることは実感する所である。


 法の支配(個人尊重のために権力を制限する)を実践する司法の世界ほど規制の少ない、個人の決定を重視する世界であって欲しい。

 金の時間を目標達成のために使おう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友との会話(金の時間に金の事を)

2006-10-04 07:47:33 | Weblog
 彼女から貴重な言葉を教えてもらった。
 
 金の時間には金のことを、銀の時間には銀のことを、銅の時間には銅のことを、そうすることですべてが金に成るということだ。
 
 感情的に時間を使いがちな私にとって、貴重なアドヴァイスだ。
 
 優先順位と共に、脳の疲れた状態に合わせて暮らしを組み立てなければいけないということだと理解した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする