どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

旅の記憶 写真

2011年09月12日 | 日記
週末をかけて 旅の写真を「茶室」に載せました

―旅の記憶 2011―

無料のページを使用しているため 枚数に制限があり 73枚となりました

厳選に厳選を重ね というか これしかないか ということもあり

サイズを小さくしないと載せられないものもあり コメントも入れたので けっこう時間がかかってしまいました

写真の腕は 今もって全く無い!

ヘボです!

ただ 文章だけではわからないものを多少でもカバーできたらと思って載せました


お薦めは スライドショーを選択してテーマなしにチェック

音楽は無いほうがいいのですが 今回 まどろみ というのが気に入りました

これならOK!私の美学に折り合いを付けられます

スライドショーでは 私のコメントを見ることができません

こちらを見るにはフォルダの すべて を選択してから 一枚一枚 次 をクリックしてください

画像の上でクリックすると大きくなります

幾つか それで見ていただきたいものがありますので それもコメントには書いてあります

素敵なタイルなど もっと載せたいものが沢山あったのですが 紹介できないのが残念です

は? 見るほうはもうお腹イッパイ?

そうでしょう そうでしょう

よ~~くわかりますとも
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旅の記憶(豊橋・岡崎・知多・常滑・名古屋)⑰―旅の終わりはいつも黄昏時

2011年09月10日 | 日記
名残惜しい気持ちで揚輝荘をあとにし 近くにあったコメダ珈琲店で「たっぷりアイスオーレ」を飲む

名古屋が初店舗とあって ここ愛知県には数多くあるチェーン店らしいが 私は初めて見た

のどが渇いていたせいか ステンレスの大きなカップのそれを ほとんど一気飲み


結局 見学予定のところを幾つか残すことにして 私はごく普通の裏の名古屋を見て帰ることにした

丸の内に「河文」という老舗の料亭があるという

勿論 たとえランチだろうと入れたものではないが 入り口だけでも見ようかと思って 行ってみた

余談だが 名古屋には「八勝館」という「河文」の二分する老舗の料亭が八事にある

地図で検索したところ 広大な土地

料金のほうも 居酒屋10回分かと^^


丸の内でウロウロしていたら もっと面白そうな怪しげな道が目に入った

堀川を渡ると 今までとはまるで違った景色になる

元禄13年(1700年)の大火のあと 道を四間に広げたことから

四間道(しけみち)とよばれるようになったというその一角は土蔵や古い町家が並んでおり 

町並み保存地区に指定されているという

名古屋の町の発祥地といってもいい場所なのだそうだ

町名を那古野(なごの)

でも ナゴヤと読めなくもないね

堀川の水運を利用するため 清洲越えのあと商人が住み着いた結果 こういった土蔵を持つ町並みとなったそうだ


小さな商店街にはスナッや小料理の看板があり 昼間見る私にはなんともしなびて見えたが

あれも夜になれば 光り輝くのだろう

そして私のようなノンベイに 楽しい酒を出すに違いない

遠い過去の町の雰囲気を残したその道からは 高層のビル群やセントラルタワーズが見える

これらはあと何年生き残るのだろうか

過去の遺産に多く触れ 前回の日記の最後に言ったように 建物は語りたがっていると強く感じた旅だった


もうひとつ 多くの人に世話になったことを付け加えておく

建築物も町並みも 確かにそこにある

それを見るのが目的だから 他人がいようといまいと それ自体の鑑賞には何の関係もない

だが 相手は気にも留めていないだろうが 私の旅に間違いなく彩りを添えてくれた

見学と旅の違いはここにある

普段はあまり気にもしないことだが 私も人並み以下ではあっても やはりひとであるのだ

少々こっぱずかしいが 帰りの新幹線の中で撮り溜めた写真を見ながらそんなことを思っていた

旅の帰りは 可能な限り私の好きな黄昏時を選ぶ事にしている

車窓の景色が次第に色濃くなっていく その変化を見るのが好きなのだ

旅は終わった


週末にしか時間が取れず 結果1ヶ月近くもかかってしまった

相変わらず長いだけで 他人の旅日記なんて面白いものではないだろうとはわかっているが

お読みくださった方には 感謝!

書き足らなかったことも沢山あるし

誤字・脱字 その他誤った記載もあるかもしれないが それにはどうか両目を瞑って下さい

以上をもって 私の「旅の記憶」は尾張 じゃなかった 終わりとします

※ 写真は後日公開予定ですが 何分にも9年目のPCは最近いささかポンコツでして・・・どうなるか・・・
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旅の記憶(豊橋・岡崎・知多・常滑・名古屋)⑯―「揚輝荘」の「聴松閣」

2011年09月10日 | 日記
「伴華楼」は 和館に接して作られた(地下室があるらしいのだが)洋館をさす

洋館というよりも 洋間に近い

中には入れないものの 扉や窓は開けてあるので 内部を垣間見ることはできる

腰壁の五色玉石貼りが(これはいたるところに使用されているが)見事

煙突の市松模様も 大正モダンを連想させる

二階の外壁に使ったさわらのうろこ状の板 窓枠など 細かいところにまで気を配った建物だったが

写真を撮ろうとしていると 蚊が飛んでくるのには参った


この北園の庭は 修学院離宮を模したといわれる回遊式

でも あまり庭を愛でる私ではなく ぐるりと一周してから 職員に尋ねた

南園にある「聴松閣」は見ることが出来ないんですよね

でも どこか チラとでも見える場所ってありませんか?

職員 その質問が多いのかどうか ニヤリと笑って

一箇所だけ あります(そうこなくっちゃ!)


教えられたとおりに歩いていく途中の薬局で 虫刺されの薬を買った

すでに三箇所ほど 膨らみ始めている

坂を上りきると 木の陰にはなっているものの 建物の玄関付近が見えた

ハーフティンバーの外壁といわれているが それはわずかにわかる程度


かつてここは 迎賓館の役目を担っていた

外国人 文化人 もちろん経済界や華族などもだろうが 何千人にも及ぶ園遊会も開かれたという

中国やインドなどを旅した祐民は アジアの留学生なども泊めていたようだ

そのせいか地下はインド風であり 壁画も残っているという


時は アジアの政治が大きく動いていた頃 

謎のトンネルもあり 汪兆銘を匿う計画もあったというから 

一体ここでどんな人物によって何が語られ 画策され 秘密や密約が交わされたのか

今は豪華マンションによって分断されたこの地の過去を想像すると 好奇心をかきたてられる

建物だって 語りたがっているのだ  
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旅の記憶(豊橋・岡崎・知多・常滑・名古屋)⑮―「揚輝荘」と松坂屋と澁澤栄一

2011年09月04日 | 日記
桑名から名古屋に戻ると そのまま地下鉄に乗り換えて覚王山で降りる

すでに勝手知ったる道

昨日は門前払いだったが 今日はご対面できるのだと思うと 日泰寺参道の坂道を歩く足取りも軽くなる

地下鉄の駅名は「覚王山」 町名は「法王町」と なんだか妙に偉い感じの場所なのだ


門は 開いていた!!

この旅で見たかったベスト3のうちの残りのひとつに やっと出逢えた

その名を「揚輝荘」

小高いこの地から見る月が奇麗なため 陶淵明の四時の一節「秋月揚明輝」からとったという

当時 1万坪の森を拓いて作った伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)の別荘

大正14年から移築及び新築の工事を始め 完成は昭和14年頃といわれる 

その広大な土地は 今はマンションが建ちスーパーが出来たりして 南園と北園に分断されている

名古屋市に寄贈されてから 北園は無料公開(内部及び南園は 特別公開日以外に見ることはできない)


その北園にあるのが「伴華楼」(バンガロウと読ませ 山小屋のバンガローとかけている)

尾張徳川家から譲られた茶室付き和室をここに移築した時 増築した洋館

例の鈴木禎二設計で 小ぶりだが御洒落である

エントランスの 石を使った柱の棚にまず見とれてしまった

その私の姿がどう映ったのか 職員の方が話かけてくださった


伊藤次郎左衛門祐民とは 松坂屋の初代社長である

家業であった「いとう呉服店」は 遡ること400年ほど前 織田家の小姓の子孫が始めたとか

なんか この話は耳にした覚えがあるぞ

江戸時代には日本で一番の売り上げとなったらしい

京都では こちらに足を向けて寝ることはできない というほどだったとか

でもなぜ?やっぱり江戸が一番じゃないの?白木屋とか 越後屋とか

いとう屋は 上野にあった松坂屋という店を買収した結果 そうなったようだ


その人がいきなり 東京に澁澤栄一の「晩香廬(ばんこうろ)」ってあるでしょ?と言い出した

はい 去年の秋 見ました

この次郎左衛門さんはかなり澁澤に影響を受けていてね だから名前もバンコウロに対してバンガロウ

へぇ~~~


澁澤栄一を団長とする渡米実業団に参加した結果 デパートを作ることになるのだが・・・

確か 昨年資料館を見たとき そんな写真やらを見た記憶があるなぁ

ここから先は 澁澤栄一記念財団の記載とは違うのだが その職員の話からすると

実は当初 彼はそのメンバーには入っていなかったのだそうだ

これは その前に日本の主要都市がアメリカの使節団を招待したことがあり そのお返しとしての招待

日本が招待するという時 名古屋は参加していなかったため 名古屋から参加することはできなかった

初めに参加しなかったのは 何故でしょうか?

う~ん まぁそれが名古屋というか・・・と職員

なんとなくそれだけで 名古屋 愛知県ってものがわかってきたような気がする

で それを知った澁澤は そんなケチなこと言うな 行きたかったら連れていったる

ということで 資格は35歳以上だったのにもかかわらず 彼は31歳で参加できたのだそうだ

そこにどんなドラマがあり どんな人脈やその他もろもろが動いたか動かなかったか それはわからないが

彼は伊藤銀行の取締役として 名古屋からは彼を含めて3名がアメリカに向けて出航した

他の都市とは 東京 横浜 大坂 神戸 京都 

名古屋は一番少ない参加者だった    
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