どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

旅の記憶(豊橋・岡崎・知多・常滑・名古屋)⑮―「揚輝荘」と松坂屋と澁澤栄一

2011年09月04日 | 日記
桑名から名古屋に戻ると そのまま地下鉄に乗り換えて覚王山で降りる

すでに勝手知ったる道

昨日は門前払いだったが 今日はご対面できるのだと思うと 日泰寺参道の坂道を歩く足取りも軽くなる

地下鉄の駅名は「覚王山」 町名は「法王町」と なんだか妙に偉い感じの場所なのだ


門は 開いていた!!

この旅で見たかったベスト3のうちの残りのひとつに やっと出逢えた

その名を「揚輝荘」

小高いこの地から見る月が奇麗なため 陶淵明の四時の一節「秋月揚明輝」からとったという

当時 1万坪の森を拓いて作った伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)の別荘

大正14年から移築及び新築の工事を始め 完成は昭和14年頃といわれる 

その広大な土地は 今はマンションが建ちスーパーが出来たりして 南園と北園に分断されている

名古屋市に寄贈されてから 北園は無料公開(内部及び南園は 特別公開日以外に見ることはできない)


その北園にあるのが「伴華楼」(バンガロウと読ませ 山小屋のバンガローとかけている)

尾張徳川家から譲られた茶室付き和室をここに移築した時 増築した洋館

例の鈴木禎二設計で 小ぶりだが御洒落である

エントランスの 石を使った柱の棚にまず見とれてしまった

その私の姿がどう映ったのか 職員の方が話かけてくださった


伊藤次郎左衛門祐民とは 松坂屋の初代社長である

家業であった「いとう呉服店」は 遡ること400年ほど前 織田家の小姓の子孫が始めたとか

なんか この話は耳にした覚えがあるぞ

江戸時代には日本で一番の売り上げとなったらしい

京都では こちらに足を向けて寝ることはできない というほどだったとか

でもなぜ?やっぱり江戸が一番じゃないの?白木屋とか 越後屋とか

いとう屋は 上野にあった松坂屋という店を買収した結果 そうなったようだ


その人がいきなり 東京に澁澤栄一の「晩香廬(ばんこうろ)」ってあるでしょ?と言い出した

はい 去年の秋 見ました

この次郎左衛門さんはかなり澁澤に影響を受けていてね だから名前もバンコウロに対してバンガロウ

へぇ~~~


澁澤栄一を団長とする渡米実業団に参加した結果 デパートを作ることになるのだが・・・

確か 昨年資料館を見たとき そんな写真やらを見た記憶があるなぁ

ここから先は 澁澤栄一記念財団の記載とは違うのだが その職員の話からすると

実は当初 彼はそのメンバーには入っていなかったのだそうだ

これは その前に日本の主要都市がアメリカの使節団を招待したことがあり そのお返しとしての招待

日本が招待するという時 名古屋は参加していなかったため 名古屋から参加することはできなかった

初めに参加しなかったのは 何故でしょうか?

う~ん まぁそれが名古屋というか・・・と職員

なんとなくそれだけで 名古屋 愛知県ってものがわかってきたような気がする

で それを知った澁澤は そんなケチなこと言うな 行きたかったら連れていったる

ということで 資格は35歳以上だったのにもかかわらず 彼は31歳で参加できたのだそうだ

そこにどんなドラマがあり どんな人脈やその他もろもろが動いたか動かなかったか それはわからないが

彼は伊藤銀行の取締役として 名古屋からは彼を含めて3名がアメリカに向けて出航した

他の都市とは 東京 横浜 大坂 神戸 京都 

名古屋は一番少ない参加者だった    
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 旅の記憶(豊橋・岡崎・知多... | トップ | 旅の記憶(豊橋・岡崎・知多... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事