Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

藍墨ドローイング展 @ あらかわ画廊

2016年01月05日 11時37分51秒 | EXHIBITION


グループ展に参加いたします。

「藍墨ドローイング展」あらかわ画廊
2016年1月12日(火)ー23日(土)
11:00ー18:00(最終日16:00まで)日曜休廊

平澤重信 手塚恒治 高崎昇平 阿部清子 桑原聖美 菅野静香 清野晃代 亀井三千代

で、さてドローイングとは何ぞや
これは本当にいろいろで、定義することにあまり意味はないとふみました。

つまり「私にとってのドローイング」を提示することで
その作家の立位置が分かる、
というか 
逆説的かもしれませんが
ドローイング、という定義に合わせて描くのではなく
自分の作品の何をドローイングとするか、という
「宣言」に近いかな、と思いました。

今回、私の場合はあえて本画に対してドローイング、と分けなくて良い、としました。
素材の関係で、岩絵の具に対して墨、と分けることはありますが。

出品作品については
後日ご紹介いたします。





ところで、ドローイングといえば
先日の若林奮のドローイングは本当に素晴らしかった!!

それは、概念を平面化しようと試みる、とてつもなく困難な作業だと思いました。
作家の思考が直接的に感じられて
それは自然と同じような謎に満ちていて
人間はなんて未知なんだろうと感じました。
つきつめると波動になってしまう。
かつてアンゼルム・キーファーの作品を見たときも
同じような感覚に陥りましたが何故でしょう。

悲しいかな、素晴らしいそれらは私の「描く」とは全く違います。
私の場合は、モチーフを描く際、紙に現れた色と形に触発されて
モチーフがどんどんずれていきます。
頭の中の作業と、筆先の作業が別個で、かつ同時に進行していきます。
最終的に一つの世界になったとき筆を置きますが
それが元々の概念と一致するのが本当は理想なのですが…

最近は四肢のかたちがはっきりしてきて
不満です。

どちらかというと
最終的にはそれらのものが無くなっていってほしいからです。

墨は自由になりすぎて ついつい描いてしまう。
だから私にとっては岩絵の具に必要性を感じてしまうのです。

あれこれ考えると今現在、私にとって切実なドローイングは
それは額縁に入れて人さまに見せるようなものではないのかもしれません。



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