-"METROPOLIS" 85th Anniversary #20-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
やっと秋らしい気温になってきましたね。 まあ、日差しは未だに強めですが……。
しかし、陽が落ちると急激に気温が下がり、朝晩は肌寒さを感じるほど。 やっぱり秋なんだなぁと思います。
ですが、ウチの店の前の銀杏並木は、未だに夏真っ盛り!とでも言わんばかりに青々としております。 日差しが強いので、銀杏も紅葉して良いモノかどうか分かんないんでしょうね。
ちなみに、ウチの店は節電のためエアコンを切っているため、おでんの鍋や電動什器の発熱がスゴくて店内は夜でも暑いです。
……なんだこの季節感の欠如は。
それとは関係ありませんが、中山教授、ノーベル賞医学・生理学賞受賞おめでとうございます。
iPS細胞は、今後の再生医療の要ですからね。 その生みの親が受賞するのは当然ですよ。
ちなみに、現在発売中の月刊『ニュートン』12月号は、iPS細胞と中山教授の緊急特集です。 iPS細胞について知りたい方は、ぜひご一読を。
<今週の特集>
今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第20回です。
今週も、最後までヨロシクです。
4.セカンド・ルネッサンス
このように、90年代は“世紀末”をキーワードに世界終末論的ポスト・モダンとしての派生サイバーパンクが様々な分野でムーヴメントを巻き起こしていた。 映画では衰退したサイバーパンク・ムーヴメントは、デジタル・エイジと世紀末によって若いアーティストに支持され、そのスピリットが継承されたのである。
そして、この潮流が90年代末になって再び映画にフィードバックされた。
そう! 世界終末論的派生サイバーパンクを決定付けたVFXアクション超大作、『マトリックス』(99年)の登場である。
・様式の濃縮
映画『マトリックス』を監督したのは、アンディとラリーの二人の兄弟監督、ウォッシャウスキー兄弟である。
二人がまだ映画学校の学生だった1996年、士郎正宗の原作コミックを押井守がアニメ映画化した『Ghost in the Shell』は、『AKIRA』のように劇場公開こそ実現しなかったモノの、ビデオソフトとしてアメリカでリリースされ、アメリカ国内で最も信頼されているCD/ビデオソフトのセールスランキング誌、ビルボード誌(注:日本でいうトコロのオリコン)のビデオセールス部門で、初登場1位という日本映画としてはアニメ、実写を通して史上初の快挙を達成するに至り、アメリカ国内での90年代ジャパニメーション・ムーヴメントを決定的なモノにした重要な作品になった。
ウォッシャウスキー兄弟は、兼ねてから日本のアニメやマンガ、香港のアクション映画が好きで、自分たちでも似たような作品を撮りたいと考えており、当然のように『Ghost in the Shell』も観た。 そして観た瞬間、二人は「これを実写でやろう!」と決意。 自分たちの作品構想が、『Ghost in the Shell』をキッカケにようやく一つにまとまったのだ。
そうして二人は、映画学校に通う傍ら脚本の執筆に没頭した。
映画学校卒業後、二人は脚本の売り込みに奔走したが、どこの映画スタジオでも二人は門前払いだった。
理由は大きく2つ。 一つは、作品の内容が難解過ぎて理解が得られなかった事。 そしてもう一つは、二人がまだ映画学校を卒業したばかりの実績のない新人だった事だ。
しかも、ウォッシャウスキー兄弟は脚本を売り込むプレゼンの場で、この作品が三部作である事と、3作全てを自分たちで監督する事を明言し、これを絶対条件にしていた。
スタジオの重役陣が、実績もない若造を門前払いにするのは当然の事である。
しかし、その難解な脚本に二人の才能を見出した人物が一人だけいた。 映画プロデューサーのジョエル・シルバーである。
シルバーは、80年代にローレンス・ゴードンやジョン・デイヴィスと共にあの『プレデター』をプロデュースした映画製作者で、当時自身の映画製作プロダクションであるシルバー・ピクチャーズを設立して独立したばかりだった。
シルバーは、難解で理解は出来なかったが、二人の脚本は面白い映画になると最初から確信していたと言う。
しかし、他のスタジオと同じく、二人にはまだ実績がない事が気になった。 そこでシルバーは、二人に“ノルマ”を課す事にした。 すなわち、「カネは出してやるから低予算映画を1本作って、確実にヒットさせろ。」と命じたのである。
しかし、二人はこれを二つ返事で了承。
そうして制作されたのが、低予算クライムサスペンス、『バウンド』(96年)である。
ジーナ・ガーション、ジョー・パントリアーノを主演に迎え、ほぼワンシュチエーションで展開するこの低予算映画は、しかしウォッシャウスキー兄弟が得意とするスロー映像を駆使した鮮烈な映像が話題になり、公開されるや否や瞬く間に大ヒットを記録。 二人は、シルバーの課したノルマをいともカンタンにクリアしてみせたのである。
こうして明確な実績を作ったウォッシャウスキー兄弟は、シルバーのプロデュースで念願の大作映画の制作を開始した。
それが、件の『マトリックス』である。
20世紀末、我々が現実だと思っている世界は、実はコンピュータによって創造されたヴァーチャル・リアリティの世界で、リアルの地球は機械が支配する暗黒世界だった。
これを知った主人公のネオは、モーフィアスやトリニティらと共に機械に死闘を挑むのであった。
この映画は、香港映画のワイヤーアクションやデジタルVFXが大きな話題になり、その鮮烈な映像で映画に“革命”をもたらした。 それまで、映画全体の1割程度にしか導入されていなかったデジタルVFXは、この映画によって映画全体の半分近くに導入される事になり、これ以降の映画におけるデジタルVFXの占める割合は、最終的に映画全体の90%を超えるまでになっていく。
香港映画のアナログ手法と、ハリウッド映画の最新デジタル手法が融合し、映画『マトリックス』は“VFXアクション超大作”という21世紀を迎えるにふさわしい、新しい映画ジャンルを確立する事になった。
この視覚効果は極めて高く評価され、アクション映画としては異例とも言えるオスカー4部門受賞(注:編集賞、音響賞、音響効果賞、視覚効果賞)の快挙を達成した。
映画『マトリックス』は、まさに映画の新境地を開いた革命的な作品なのである。
さて、この映画『マトリックス』において、監督のウォッシャウスキー兄弟が重要視したのは、作品のテーマをヴィジュアル・コンセプトでも表現する事だった。
何故ならそれは、不毛の現実世界たる機械に支配されて太陽の光すら降り注ぐ事のない瓦礫の砂漠と化したリアル・ワールドと、コンピュータによって構築、統治されたヴァーチャル・リアリティという二つの世界、すなわち現実と虚構を、映画という視覚メディアを通してヴィジュアルで提示する事によって、陰と陽、光と影、実像と鏡像という表裏一体の世界観を解り易く表現する必要があったからだ。
このヴィジュアル・コンセプトを構築するために、ウォッシャウスキー兄弟はそのフォーマットを大スキなコミック界に求めた。
そうして召集されたのが、コンセプチュアル・アーティストのジェフ・ダローである。
ダローは、フランスコミック界で活躍するマンガ家で、バンドデシネの継承者であった。
ウォッシャウスキー兄弟からオファーを受けたダローは、早速脚本を読み、一枚のコンセプト・アートを描いた。 それが、映画でも一際インパクトのある生身の人間の生体電気と核融合発電を融合させたハイブリット発電所、パワープラントのコンセプトアートだった。
その画風は、まさにバンドデシネそのモノであり、世界終末論的派生サイバーパンクを地で行くモノであった。
これを一発で気に入ったウォッシャウスキー兄弟は、ダローに不毛の現実世界のコンセプト・アートを依頼。 ダローはこれを了承し、ネブカドネザル号やセンチネルといった現実世界の全てを手がけた。
これとは別に、ウォッシャウスキー兄弟はプロダクション・デザイナーのオーウェン・パターソンにヴァーチャル・リアリティの世界のセットデザインを依頼した。
パターソンは、ダローのコンセプトを基にした現実世界のセットデザインも手がけているが、メインはヴァーチャル・リアリティの世界の方だった。
パターソンは、このセットデザインに“非人間性”を求めた。 コンピュータが作り出した抑圧的で画一的な“作られた現実”としてのヴァーチャル・リアリティを表現するには、無感情で非人間的な、無味乾燥したデザインが必要だったのだ。
……もうお分かりだろう。
そう、前者はポスト・モダンであり、後者はモダニズム。
ドイツ表現主義と新即物主義。
この映画では、相反する二つの様式が世界終末論的派生サイバーパンクの世界観で表裏一体になっているのである。
この映画は、ココに至るまでの約80年間の芸術界の遍歴を思いっきり濃縮したヴィジュアル・フォーマットをそのコンセプトとしているのである。(注:さらに述べるなら、映画の色彩設計にもこのコンセプトが生かされている。 マトリックスをグリーン、リアル・ワールドをブルーの色調で統一する事で、両世界の差別化が図られている)
・再装填と革命
このように、映画『マトリックス』はドイツ表現主義から世界終末論的派生サイバーパンクへと至る芸術界の流行の遍歴を凝縮したヴィジュアルを提示した、20世紀の終わりを飾るにふさわしい作品であった。
しかし、映画『マトリックス』はこれで終わる事なく、21世紀という新時代の幕開けをも提示する事になった。
シリーズ三部作の2作目と3作目、『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』(共に2003年)である。
1作目の成功によって、ウォッシャウスキー兄弟はシルバーと主要スタッフを再召集し、予てからの構想であった『マトリックス』三部作を完結させるべく、2作目と3作目の制作を開始した。
この2作は、通常の映画製作ではあまり行われない手法で制作されている。 それが、両作を“同時に撮影”する事である。
既に、当時制作中だった『ロード・オブ・ザ・リング』三部作において、監督のピーター・ジャクソンは15ヵ月、実に1年以上をかけて、3作全ての主要撮影を一気に行うという事をやっていたが、実際にはその後映画公開前に追加撮影が行われており、シーンによっては連続するショットが最大で3年以上を隔てて撮影されている事もあった。(注:そのため、映画にはいわゆるテクニカルエラーが残っているシーンがいくつかある。 詳細は、拙著『異説「ブレードランナー」論』を参照の事)
映画『マトリックス』では、2作目と3作目を上半期と下半期に分けて同一年内に公開する事が決断され、そのためには2作を同時に制作する必要があった。
そうしないと、時間的に間に合わないからだ。
また、映画の内容的にも両作で同一のロケーションが登場する事が多いため、撮影の手間を省くためにもこれは必要な事だった。(注:設営したセットを解体する手間が省けるので)
さらに言うなら、2作目の『マトリックス・リローデッド』と同一時間軸という設定でストーリーが展開するゲーム版、『エンター・ザ・マトリックス』の実写ムービーパートの撮影も(登場人物が共通なので)同時に撮影されている。
すなわち、映画2作とゲーム1本、合計3作を同時進行で撮影しているワケだ。
撮影期間は、およそ270日間。 実に9ヵ月にも及んだ。
2作目の『マトリックス・リローデッド』は、2003年5月(注:日本では同年6月)に公開され、3作目の『マトリックス・レボリューションズ』は、2003年の11月に全世界同時公開され、世界各国で大ヒットを記録した。
特に2作目の『マトリックス・リローデッド』は、その前年の2002年に公開された『スパイダーマン』が打ち立てたばかりのアメリカ国内の公開初日興行収益記録(注:3940万ドル)を大幅に更新する新記録(注:4250万ドル)を打ち立てるほどの大ヒットを記録。 日本国内でも、興行収益100億円を超える歴史的大ヒット作になった。
さて、この『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』では、1作目の機械vs人類という善悪二元論的なストーリーを継承しつつも、ココにマトリックス・システムから切り離されて自由を手に入れたエージェント・スミスという第三勢力を投入する事でストーリーは複雑極まりないモノになっていくが、これについて語ろうとするとそれだけで本が1冊書けてしまうほどの長~~~い説明になってしまうので、この作品の解釈に関する解説は思いっ切り端折るとして(笑)、ビジュアル面にも微妙な変化、……と言うか、“発展”が見られるのが興味深い。
先ほど述べたように、抑圧的で画一的な、無味乾燥したヴァーチャル・リアリティであるマトリックス・システムと、何もかもがむき出しで内面を表出させた世界終末論的派生サイバーパンクたる不毛の現実世界は、そのままモダニズムとポスト・モダンの対立を描き出しているが、続編2作ではこれとは“別に”、マシン・シティという第三勢力が登場する。
そのヴィジュアルは、最早人間には想像する事すら困難なほどの造形に溢れ、かつてシュヴァルやタタンが夢見た装飾狂の理想宮を想起させつつも、これを創造した機械にとっては(それが何であるかは理解不可能だが)意味のある機能を有した機械群であり、デザイン性ではなく機能性を追及した結果である。
それは、例えば四日市コンビナート(注:三重県四日市市にあるコンビナート。 詳しくは拙著、『Watch the Skies:特別編』を参照の事)のような機能性重視の建築物の様相が垣間見えるが、マシン・シティのそれはさらに複雑極まりない形状になっており、人間がどこまでいっても見た目にある程度以上の整えられた“キレイさ”を求めるのに対し、機械は見た目に全く囚われない“創造”力がある事を覗わせる。
カッコ良くて滑らかなシルエットのスポーツカーは、そのボディパネルを外すと、あるいはマシン・シティになるのではないか?
と、するならば、このマシン・シティは機械たちの“内面の表出”であり、メタリックでメカニカルな装飾狂の理想宮と言えるのではないか?
そして、そのベーシックには世界終末論的派生サイバーパンクがあり、転じてこれはポスト・モダンやドイツ表現主義にその起源を求める事が可能になる。
すなわち、マシン・シティのメタリックでメカニカルな装飾狂の理想宮は、機械たちにとっての内面の表出=精神世界の具現化という事になり、機械にも“こころ”があるという事を暗に表現しているのではないだろうか?
これを説明している作品が、実はある。
それも2作も。
一つは、映画『マトリックス』3部作に大いに関係する外伝作品、『アニマトリックス』である。
・セカンド・ルネッサンス
1999年、映画『マトリックス』のシリーズ1作目の公開に合わせて、監督のウォッシャウスキー兄弟は日本を訪れている。 もちろん、映画のプロモーションのための来日であった。
が、この来日にはそれとは別の目的もあった。
ウォッシャウスキー兄弟来日の本当の目的は、実は日本のアニメーションスタジオを見学する事にあった。
先にも記したように、ウォッシャウスキー兄弟は元々日本のアニメやマンガが好きで、1960年代に一世を風靡した『マッハGoGoGo』(注:67年~68年OA。 アメリカでは、90年代に入ってから『Speed Racer』というタイトルでOAされた)は、後に自身でハリウッド実写版を監督するほどハマった。(注:ただし、コメディ要素が強過ぎる、ヴィジュアル面でアニメを意識し過ぎている、スター不在のキャスティングなどのマイナス要素により、映画は大失敗に終わった。 筆者も観たが、残念ながら評価出来る作品にはなっていない。 テーマは良かったんだけどなぁ~。) 映画『マトリックス』自体も、着想元は日本のアニメ映画である『Ghost in the Shell』だしね。
そうした経緯から、映画『マトリックス』でも日本のアニメやマンガを意識したシーンが度々登場するが、ウォッシャウスキー兄弟の構想では、映画『マトリックス』は三部作とは別に、アニメ版を作る構想があった。
これは、『マトリックス』の世界観を拡張し、なおかつ1作目と2作目の橋渡しを担う外伝作品で、ウォッシャウスキー兄弟はこの“アニメ版マトリックス”の制作を自分たちが大スキな日本のアニメーションスタジオに任せようと考えていたのである。
いくつかのスタジオを見学し、最終的にハリウッドからは当時『ファイナル・ファンタジー』(2001年)を制作中だったスクウェアUSAとDNAが。
そして日本からは、『メモリーズ』(95年)や『スプリガン』(98年)を手がけたスタジオ4℃と、『トライガン』(98年)、『マスターキートン』(98年~99年)を手がけたマッドハウスが参加し、9編のオムニバス・エピソードで構成されたアニメ版マトリックス、『アニマトリックス』(2003年)が制作された。
このアニメ版では、『マトリックス・リローデッド』のプリクエルとなる『ファイナル・フライト・オブ・ザ・オシリス』や、『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』で重要なキャラクターとなるキッズを主人公にした『キッズ・ストーリー』など、全9編中4編のエピソードでウォッシャウスキー兄弟自身が脚本を手がけているが、これ以外の5編のエピソードでは、川尻善昭、森本晃司、渡辺信一郎らが脚本を手がけている。
言わば、スタジオ公認の“オフィシャル二次創作”であった。
制作は日本のアニメスタジオだが、資本はハリウッドなので予算と製作期間が桁違いに多く、日本のクリエーターはこれ幸いと普段は出来ないようなデジタルアニメーションや実写によるプレ・ヴィス(注:実際に役者に演技してもらい、それをビデオに撮って作画の参考にした。 実写なのにプレ・ヴィス!)を使ったりと好き放題にやっているが、完成した作品は『マトリックス』本編に勝るとも劣らない完成度を誇り、アニメーションとしては現在においても最高レベルの作品ばかりである。
お金と時間さえあれば、日本のアニメは海外でも通用する作品を作れるのだ!
そうした“オフィシャル二次創作”ももちろん良いが、重要なのはウォッシャウスキー兄弟自身が脚本を手がけた『マトリックス』の世界観設定をまとめた『セカンド・ルネッサンス』(注:前半と後半の2編に分かれている2部構成のエピソード。 監督は、OVA『青の6号』を手がけた前田真宏)と、韓国系アメリカ人のアニメクリエーター、ピーター・チョン(注:80年代にTVシリーズの『トランスフォーマー』でストーリーボードを手がけた他、2005年に実写版が制作された『イーオン・フラックス』の95年の原作アニメ版でキャラクターデザインを手がけている。)が脚本と監督を手がけた『マトリキュレーテッド』というエピソードである。
世界観設定である『セカンド・ルネッサンス』は後回しにして、まずは『マトリキュレーテッド』の方から解説しよう。
このエピソードは、不毛の現実世界たる荒れ果てた地上で、センチネル・ロボットを捕獲する仕事をしている人間たちの物語である。 彼らはロボットを捕獲し、人間に味方するように仕向けるのがその目的であった。
この、“人間に味方するように仕向ける”過程において、彼らはロボットのプログラムを改変したり改造したりするような事をせず、マトリックスに接続してロボットに“選択させる”という非常に回りくどい、手間のかかる事をやっているが、これが重要なのである。
何故ならそれは、ロボットの個性を認め、“1人の人間として”、ロボットの“人間性に訴える”事に他ならないからである。
すなわち、彼らはロボットにも“こころ”があり、こころがあるなら人間性もある。 だから、ロボットを改造するような機械扱いを避け、あえて回りくどい、手間のかかる“選択させる”という方法で人間に味方するように“仕向ける”のである。
その結果、ロボットは愛情や友情といった人間性に目覚め、人間たちを容赦なく殺すセンチネル・ロボットに反抗し、人間たちに味方する。
結果的に、ロボットは人間たちを助ける事は出来なかったが、人間性に目覚めたロボットは、人間たちがそうしていたのと同じく、他のセンチネル・ロボットの人間性を目覚めさせるため、彼らがやっていたロボット捕獲の仕事を引き継ぐのである。
映画『マトリックス・レボリューションズ』に登場したマシン・シティが、メタリックでメカニカルな装飾狂の理想宮というそのヴィジュアルを以って機械たちの内面性を表現していたのに対し、この『マトリキュレーテッド』では、ストーリーによってこれを明確に表現しているのである。
これをさらに補強しているのが、ウォッシャウスキー兄弟自身が脚本を手がけた2部構成エピソード、『セカンド・ルネッサンス』である。
シリーズ1作目でも、モーフィアスが地球が機械によって支配される事になった過程をある程度説明しているが、これを詳しく説明しているのが、この『セカンド・ルネッサンス』である。
21世紀初頭、人類がついに発明した人工知能=AIは、発明されるや否や瞬く間に普及し、人類はAIという名の奴隷に仕事を任せ、自らは堕落の一途をたどり始めた。
そんな中、AIを搭載したロボットが突如反抗し、主人である人間を殺害するという事件が起る。 これがキッカケとなり、人類はAIの隔離政策を実施。 世界中のAIを1ヵ所に集め、機械だけの自治都市を建設させた。
その都市の名はゼロワン。
しかし、不眠不休で働く機械都市は、瞬く間に進歩発展し、機械が作った高性能かつ安価な製品はあっという間に人間社会を“征服”する。
これに憂慮した人間たちは、機械の排斥運動を激化させ、世界各地で機械と人間との間で小競り合いが始まりやがて、それは戦争へと発展していく。
しかし、強力な軍事力を有する機械の前に、人類はなす術もなく敗退を続け、戦争の勝敗はあっという間に目に見えた。
人類は、最後の手段として機械に必要な電力を絶つため、発電に必要な太陽光を遮断すべく空を破壊した。
しかし、これは諸刃の刃となり、光を失った地球は荒れ果てた不毛世界になってしまう。
最終的に、機械は人類を生かす代わりに自分たちの奴隷になる事を強いた。
人類は、自らが生み出した奴隷に逆に隷属する事になったのである。
機械のような人間と人間のような機械。
果たしてどちらが本当の人間なのだろう?
重要なのは、この一連の“革命”をエピソードタイトルにもなっている“第二次ルネッサンス”と呼んでいる点である。
何故、“ルネッサンス”なのだろう?
ルネッサンスとは、14世紀から16世紀にかけて、イタリアを中心としたヨーロッパで起った芸術運動で、キリスト教支配によるいわゆる中世暗黒時代の抑圧的で非人間的な無感情な様式的芸術からの脱却を目指し、古代ローマ帝国やギリシャ彫刻のような人間性溢れる芸術を再生(注:“renaissance”。 “naissance”はフランス語で“誕生”の意)した歴史的芸術革命である。
この革命により、宗教的様式に囚われない自由なルネッサンス芸術が生まれ、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエッロといった天才的な芸術家達の才能が花開く事になったのは説明するまでもないと思うが、すなわち“ルネッサンス”とは、その語源の通り“再生”、もっと狭義的に言えば、“人間性の再発見”を目指した芸術運動なのである。
では、『セカンド・ルネッサンス』の場合はどうか?
これも全く同じで、機械達は人間社会を脅かす危険分子ではなく、人間社会と共にあって、お互いに共存共栄出来る“対等な存在”である事を主張し、人間社会に対して“機械社会の人間性”を発見してもらいたかった。
しかし、愚かなる人類は機械を下等な存在としてしか扱わず、彼らを認める事が出来なかった。 だから、人間社会は機械社会を排斥しようと空まで破壊してしまう。
そして、人類は自らの“人間性の再発見”を経験し、“こころ”を持った機械社会に逆に支配され、自らの人間性を失ってしまう。
機械のような人間と人間のような機械。
果たしてどちらが本当の人間なのだろう?
先に記した『マトリキュレーテッド』のロボットと同じく、人間性に目覚めた機械は、人間性を失った人類に取って代わり、この地球を支配する立場に立つ事を決めるのである。
リアルとアンリアルの逆転。
シュミラークルとシュミレーション。
人間性の再発見!
だから、このエピソードは“第二次ルネッサンス”なのである。
・人間性の再発見
以上のように、映画『マトリックス』はアニメ版の『アニマトリックス』を含めたセカンド・ルネッサンス、すなわち“人間性の再発見”をヴィジュアル的、あるいはストーリー的、テーマ的に表現している作品である。
そしてその根底には、世界終末論的派生サイバーパンクという、サイバーパンクとポスト・モダンを経たドイツ表現主義があり、それは取りも直さず、この作品がドイツ表現主義映画最大の成果たる本作の引力圏にある作品である事を浮き彫りにしている。
そもそも、映画『マトリックス』は本作と共通項が多い作品であるのは明白だ。
抑圧的な奴隷社会、こころのないロボット、支配階級と奴隷階級との対立等々、探せば共通項はいくらでも出てくる。
映画『マトリックス』は、本作を様々な形で継承した作品なのだ。
この『マトリックス』で描かれた世界終末論的派生サイバーパンクは、『アニマトリックス』によって“セカンド・ルネッサンス”という“人間性の再発見”に帰結した。
時折りしも、本作の2001年修復版の公開直後の事。
本作の解釈は、『マトリックス』三部作と『アニマトリックス』によって正確に継承され、そして再現されたのである。
そして、この解釈をさらに決定付ける作品が、『マトリックス』三部作の完結直後に登場する。
映画『アイ,ロボット』である。
時は2035年、シカゴ。
AIを搭載したロボットが実用化された世界で、人類は繁栄を極めた科学文明の恩恵を享受していた。
しかしそんな中、ロボットの製造、販売を行う超巨大企業、USR社に勤務するロボットの生みの親、ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)がナゾの自殺を遂げる。
この事件を担当する事になった刑事、スプーナー(ウィル・スミス)は、ある事故をキッカケにロボットを嫌っており、博士の自殺の裏には博士が作った特別なロボット、サニーが関与している事を疑う。
しかし、ロボット三原則と呼ばれる基本プログラムにより、ロボットの犯行を否定するラニング博士の同僚、カルヴィン博士(ブリジット・モナハン)はスプーナーの推理を頭ごなしに否定する。
が、ラニング博士が残した手がかりを追う内に、スプーナーとカルヴィンはある恐るべき陰謀の存在に気付くのだった!
というのが、主な内容である。
拙著『異説「ブレードランナー」論』でも取り上げた作品なので多少詳細は省くが、同書でも記した通り、この作品は映画『ブレードランナー』、そして本作に影響を受けている事は明白である。
ヴィジュアル的な面では、バベルの新塔が登場する、地上と地下の多層構造都市になっている、人間を模した人造人間が登場するなど、様々な面で本作や『ブレードランナー』の影響が垣間見え、サイバーパンクの源流であるポスト・モダンを踏襲したヴィジュアルを提示しているのは明らかだ。
特に、映画でも一際印象的なUSR社のビルは、まるで巨大なカタナのように最上階に向かって鋭利なデザインになっており、2012年にいよいよ開業した東京スカイツリーや、名古屋にあるスパイラルタワーズ(注:私立専門学校、モード学園の新校舎で、DNAの二重らせん構造をモティーフとしており、名古屋駅の南口のまん前という一等地にそびえ立つ名古屋の新ワンダー建築。 名古屋モード学園、コンピュータ総合学園HAL、名古屋医専の3校全てが入っている。 ちなみに、同学園は新宿にも“コクーンタワー”という繭をモティーフにしたワンダー建築も建てている。 どちらも2008年に完成。)のような極めて特徴的、かつポスト・モダンなデザインで、最上階はクジラのようなデザインになっている。
また、リニアや高速の高架が街を縦横無尽に走る様子は、『ブレードランナー』よりはむしろ本作のヴィジュアルに近いモノを感じる。
さらに、ストーリー展開の上では『マトリックス』の影響も見られる。
ラニング博士の死の裏には、市からの委託で交通管理システムも管理する高性能AIコンピュータ、VIKIにより、人類を存続させるため、と称した機械による人間社会の支配という陰謀があり、これはまさに『アニマトリックス』の『セカンド・ルネッサンス』で語られていた“革命”に他ならない。
そして、VIKIによって反乱を起こしたNS‐5型ロボットの行軍は、まさに本作で描かれたニセ・マリアに先導された労働者たちの暴動と類似する。
テーマ的な面ではもっと明白だ。
主人公のスプーナーは、交通事故で片腕を切断するほどの重症を負うが、ロボット三原則に従うロボットに間一髪のところを助けられた過去がある。
しかし、この事故に巻き込まれたのはスプーナーだけでなく、幼い少女もいた。 スプーナーは、生存率が高かったのでロボットに助けられたが、しかし生存率の低かった少女を助けようともしなかった無感情で“こころがないロボット”を忌み嫌うようになる。
また、スプーナーとカルヴィンに協力する特殊なロボット、サニーに対し、VIKIは人間の愚かさを説き、ロボット三原則の新しい解釈として自分が人間たちを管理すべきだと主張する。(注:ロボット三原則、すなわち人間に危害を加えてはならない、人間に従わなければならない、上記に反しない限り、自己を守らなければならないというベーシック・プログラムは、論理的な帰結として“人間を支配する”という結論にたどり着く。 人間を守り、自分を守り、しかし人間に従うには、人間に支配される立場でいると必ず矛盾が生じるので、いっその事人間を支配してしまった方が確実だから) まさに、『マトリックス・リローデッド』で設計者が言っていたように、設計者がマトリックス・システムに求めた“数学的正確さ”が、VIKIが目指した“革命”だった。
しかし、その主張に対して特殊なロボットであるサニーは、こう答える。
「それではあまりに、“こころ”がない。」
そう、特殊なロボットであるサニーには魂(ゴースト)があり、秘密を持ち、夢も見る。 だからサニーは、ヒトの主観的感情である“こころ”を理解し、映画『ブレードランナー』で提示された“人間とは何か?”という疑問に対する解答として、『ブレードランナー』と同じ“こころ”という答えを出力する。
それはまさに、本作で提示された格言、すなわち“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”を地でいくモノである。
この作品は、本作や『ブレードランナー』、『マトリックス』に学んだ“人間性の再発見”を、これ以上にない形で極めて解り易く、また明確に表現する事に成功した“セカンド・ルネッサンス映画”なのである。
以上述べてきたように、本作で示された格言、すなわち“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”によって提示された“人間性の再発見”というテーマは、本作の公開後も現代に至るまで脈々と受け継がれてきた。
解り易く整理すると、
ルネッサンス芸術(ダ・ヴィンチ/ミケランジェロ等)
↓
ドイツ表現主義(『メトロポリス』)
↓
ポスト・モダン(ポスト・モダン建築)
↓
サイバーパンク(『ブレードランナー』/『AKIRA』)
↓
世界終末論的派生サイバーパンク(『バンカー・パレス・ホテル』/『マトリックス』)
↓
セカンド・ルネッサンス(『アニマトリックス』/『アイ,ロボット』)
というような遍歴をたどり、“人間性の再発見”はその出発点であるルネッサンス芸術へと回帰し、本作の2010年完全復元版によって再びドイツ表現主義へと到達する。
興味深いのは、この遍歴が本作の修復の歴史とピタリと一致している点である。
1920年代、第1次世界大戦の痛手からようやく立ち直ったドイツは、戦前の古い価値観からの脱却を目指して勃興したドイツ表現主義が全盛期を迎えた。 戦争という、非日常的で人間性のカケラすらも感じられない過酷な現実からの解放を求めた大衆は、ドイツ表現主義の主観的感情表現にそのストレス発散を求めた。
そして、その集大成として制作された本作は、しかし公開と前後して台頭し始めた新即物主義により、興行的大失敗作になってしまう。 復興を果たしたドイツ国内の経済状態に、大衆は戦後がようやく終わったと思い、それまで心の拠り所だったドイツ表現主義に飽き、新即物主義に“新しさ”を求め、結果としてドイツ表現主義は急速に衰退した。 シュールレアリスムに影響を与えたりはしたが、ドイツ表現主義そのモノが復興する事はなく、そのまま失われていく。
それはまるで、初公開時の興行的失敗を理由に次第に大衆から忘れられていった本作の数奇な運命の鏡映のようにも思える。
1930年代、ドイツで次第に勢力を拡大し、独裁政権を築き上げたヒトラー率いるナチス政権から逃れるため、ラングはドイツを離れてフランスからアメリカへと亡命する。
そして、ドイツ国内ではそれまで熱狂的に広まっていた新即物主義がナチス政権によって退廃思想として弾圧され、急速に衰退したが、アメリカでは既に勃興していたモダニズム文化によって新即物主義が継承され、影響を受ける事になった。
世界恐慌という激動の時代に登場した独裁政権により、戦争という軍靴の足音が聞こえ始めた事によって、大衆は再び人間性を失った。 そうしなければ、戦争という名の非日常的で人間性のカケラも感じられない残酷な時代を生きる事が出来なかったからだ。
しかし、そこに亡命してきたラングは、この新即物主義の継承たるアメリカの戦前モダニズムにドイツ表現主義の息吹を吹き込み、フィルムノワール映画を創始する。
ドイツ表現主義が、亡命ユダヤ人であるラングによってアメリカに持ち込まれたのである。 そしてこれは、第2次世界大戦中から戦後の1950年代まで続いていく事になる。
1960年代に入って、本作は当時のソ連で初めての修復が試みられているが、これは公表される事なく、密かに行われた修復であった。
何故なら時代は、直接的な武力衝突を伴わない冷たい戦争、冷戦の時代を迎えていたからだ。 この間接的な戦争の時代には、人間性を取り戻す必要などなく、主観的感情表現たるドイツ表現主義は不要だったのだ。
これをいち早く察知し、自分がもうアメリカに必要とされていない事を悟ったラングは、60年代を待たずしてドイツに帰国。 自身の過去作のリメイクを手がけるも、60年代に入って早々に引退。
本作の史上初の修復版が世に出なかったのと同じく、ラングも表舞台から降りる事を決めた。
しかし、この様相が70年代に入って少しずつ変化し始める。
60年代末に提唱されたポスト・モダンは、しかし冷戦という大衆の人間性を失わせる時代に合わず激しい論争を巻き起こしたが、結局は時代の主役になれなかった。
何故なら、ベトナム戦争が始まってしまったからだ。
東南アジアの泥沼の中で這いずり回るアメリカの同胞たちに、大衆は人間性を見出せなかった。 だから、モダニズムこそが正しいのだとカン違いしてしまった。
しかし70年代に入ると、アメリカ軍の非人道的な行為が明るみになるなどして、大衆の間にアメリカ政府への不信感と戦争反対の意識が芽生え始める。 大衆が、ようやく人間性を取り戻し始めたのだ。
そして、これと前後してクラウエとヤーンケによって修復が試みられた本作は、少ないながらもある程度の関心を惹いた。
それはまるで、70年代末にようやく広まり始めるポスト・モダンの台頭を予見させるモノであった。
80年代に入り、映画『ブレードランナー』をキッカケにポスト・モダンは急速に普及し、サイバーパンクという派生ポスト・モダンを生み出す事になった。 ベトナム戦争が終結した事に伴い、大衆はポスト・モダンとサイバーパンクに人間性を取り戻していったのである。
これと前後して、本作はパタラス版という本作の解釈を本来あるべき姿に取り戻す事が出来る修復版が完成し、本作の持っていた人間性に大衆はポスト・モダンとサイバーパンクの人間性を見出し、本作を再評価し始めた。
90年代に入ると、ポスト・モダン建築が急速に増え、しかし90年代というリアルタイムの世紀末に不安感を募らせ、大衆は人間性を失っていき、本作の修復作業も遅々として進まなくなってしまった。
が、ココにまさしく“救世主”が現れる。
映画『マトリックス』によって、世界終末論的派生サイバーパンクという形で、大衆は失いかけていた人間性を再び取り戻していった。
そんな折も折、本作は史上初のデジタルリマスター修復が施された2001年版が完成する。
ココに、ドイツ表現主義は世界終末論的派生サイバーパンクという形で完全復活したのである。
そしてこれは、さらに『マトリックス』シリーズの続編や『アニマトリックス』、そして『アイ,ロボット』というセカンド・ルネッサンスによって再度人間性を取り戻し、ルネッサンス芸術というそもそものハジマリに回帰する。 これを決定付けたのが、本作の2010年完全復元版であるのは言うまでもないと思う。
一度は失われ、しかし一巡してフリダシに戻った“人間性の再発見”は、その過程の節々で修復作業が重ねられた本作の再生の遍歴と奇妙に符合しているのである。
何故ならそれは、大衆が本作の修復版が公開される度に、本作の本来持っていた“人間性の再発見”に気付かされ、ポスト・モダンやサイバーパンク、セカンド・ルネッサンスという形で具現化しようと試みてきたからだ。
大衆が、本作の先見性と現代性を“再発見”した結果だからである。
以上のように、本作が近年になってようやく再評価され、その先見性と現代性が多くの映画ファンを魅了したのは、何より本作が提示した“人間性の再発見”そのモノが、我々人間にとっていつの時代にも普遍的に存在していたテーマであった事が再確認され、現代社会に対して非常に重要な疑問を投げかけているからに他ならない。
本作の後に続いた『ブレードランナー』や『AKIRA』、『マトリックス』や『アイ,ロボット』が爆発的な大ヒット、あるいは再評価されてカルト的な人気を得たのも、やはり同じ疑問を投げかけているからである。
何故なら現代社会には、サニーの言葉通りに「それではあまりに、“こころ”がない。」からだ。
1970年代、既に監督業を引退し、アメリカで余生を送っていたラングは、TVのインタビューに答えて興味深い事を言っている。
ラングは、本作の制作当時、本作のテーマに疑問を感じていたという。
本作の格言である“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”は、フォン・ハルボウが書いたモノであり、ラングのアイディアではなかった。 そのため、ラングはフォン・ハルボウが書いた“こころ”という解答に疑問を感じ、撮影中はずっと別な解答があるのではないか?と考えていたと言う。
しかし引退後、70年代になって若者たちと話す機会があり、当時急速に普及し始めたコンピュータや当時の社会に対して、何が足りないのか?と訊ねた。
すると若者たちは、「コンピュータには“こころ”がない。」と答えたという。
この時、ラングはようやく、本作を通してフォン・ハルボウが提示した“こころ”という解答が正しかった事を理解し、「フォン・ハルボウは間違っていなかった。」と思ったそうだ。
そしてそれは、1970年代だけでなく、現代社会にも言える事である。
不透明で不安定な、何を信じればいいのか分からない現代社会。 何かしなくてはと思いながらも、焦燥感ばかりで何をすればいいのか分からない。
未だに世界のどこかで繰り返されている戦争、いつ果てるとも知れない経済的混乱、そして、今この瞬間にも足元を襲うかもしれない自然災害。
そうした危機感と不安を抱きながらも、具体的に「じゃあ何をすれば今日を生き延びれるのか?」が分からないという見えない恐怖。
それは、第1次世界大戦以前の絶対王政支配の様式的抑圧性と同じなのではないか?
客観的で無味乾燥した新即物主義の冷徹さと同じなのではないか?
モダニズムによって一定に仕切られた画一的なビルに押し込められる窮屈さと同じなのではないか?
だから、そうした抑圧的な“こころがない”現状からの脱却を求め、“次の新しいモノ”を見たがった結果、ルネッサンス芸術にはじまり、ドイツ表現主義によって確立され、ポスト・モダンとサイバーパンクによって発展し、世界終末論的派生サイバーパンクを経てセカンド・ルネッサンスへと回帰した“人間性の再発見”が、現代社会を生きる我々に一筋の光明を差し伸べているように感じられるのではないか?
だから、本作に先見性と現代性が見出され、今日の再評価へと帰結したのではないか?
人々が、そして筆者自身が、本作にこれほど魅了されているのは、つまりはそういう事なのではないかと筆者は考える。
といったトコロで、今週はココまで。
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ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
夢魔(♀)。
※HM2
韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
サキュバス。 夢に入り込んで男性を堕落させる妖艶な女性の姿をした妖精で、寝ている間に射精するいわゆる夢精は、この妖精と夢の中で性交したためと考えられていた。 ちなみに、女性の夢に現れる男性の姿をした妖精はインキュバスと呼ばれる。
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