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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

222.『メトロポリス』伝説:終章

2012年11月18日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #23-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先週の週明けから一気に冷え込みが増し、ようやく平年並みの気温になってきました。 ウチの店の前の銀杏も、ようやく黄色く色付き始めました。
 さらに、店内放送では毎年恒例のクリスマスソングが流れ始めました。
 もう……ってコトもないですね。 11月も半ばですもんね。
 なんていうか、夏から秋を飛ばして冬になったような気がします。


 それとは関係ありませんが、先週は大きな動きが色々とありましたね。
 まずは、森光子さんの訃報。
 昭和から平成にかけてTVドラマや舞台で活躍し、女優としては初の国民栄誉賞も受賞した大女優が亡くなりました。
 しかし、享年92歳の大往生。
 なので、僕はあえてこう言わせて頂きます。

お疲れ様でした。
ゆっくりお休み下さい。


 そして、政界にも待ちに待った変動がありました。
 衆院解散。
 そして総選挙は来月12月に行われるとの事。
 チキンハート野田がようやくカクゴを決めたようです。
 ってゆーか、民主党は既に空中分解状態なので、もう諦めたのかもしれませんね。
 いずれにしても、来月の総選挙で政権交代は確実。 ようやく日本がよくなる方向に向かえそうです。
 と、いうワケで政権交代を祝して前祝だ!


 はい、毎年11月の第3木曜日恒例のボジョレーでございます。
 今年も、昨年同様ローソンオリジナルボトル、ドメーヌ・ド・トロワなんですが、今年は昨年までと違ってグラスや小物が付いてくるプレミアムセットがありませんでした。(注:左図のボジョレー以外、ワイングラス、ソムリエナイフ、注ぎ口は、全て昨年までのプレミアムセットの特典です)
 まあ、ワインブームも聞かれなくなって久しいし、今年は異常気象もあってブドウの出来も良くなさそうだし、マスコミも全然騒いでないですしね。
 しかしまあ、僕は毎年恒例なので買いました。
 では失礼して、カンパ~~イ!
 …………。
 うん、まあこんなモンか。
 去年のよりやや劣るやも知れず、といったカンジ。
 まあ、ヴィンテージの違いが分かるほどワイン飲み慣れてるワケじゃありませんがね!(笑)
 ともかく、皆さんも(お酒の飲める方は)ボジョレーで政権交代前祝、してみてはいかがでしょうか?



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第23回です。
 今回が、いよいよ最・終・回ッ!!
 長かった……。
 結局半年かかっちゃいました。(^ ^;)


終章

・最後の“ナゾ”

 以上述べてきたように、映画『メトロポリス』の有する“ナゾ”を様々な角度から調査研究し、考察、解説する事によってこの“ナゾ”のいくつかを解明してきた。
 しかし、本作における“ナゾ”の中で、解明しなければならないモノがもう一つだけ残っている。
 それが、本作の“設定年代のナゾ”である。
 本書の冒頭、序章にて、筆者は本作の設定年代をミレニアムの年、“西暦2000年”と記したが、実はこの設定年代の根拠は極めて希薄で、修復された2001年版のDVDソフトの記述をそのまま鵜呑みにしているだけで、何かしらの根拠があるワケではない。
 また、一般に言われている“西暦2026年”という設定年代に関しても、実はハッキリとした根拠があるワケではない。 筆者自身、英語やドイツ語の資料を色々探してみたが、設定年代に関する記述は全く見つけられなかった。(注:日本語のサイトでは、いくつかでこの設定年代になっている記述があった)
 この“西暦2026年”という設定年代の根拠は、実は1984年公開のモロダー版で、この版の冒頭で“追加された”中間字幕にて“西暦2026年”という設定年代が示されているというモノである。
 この年代は、映画の製作当時から100年後という理由で正しいだろうと考えられているが、飽くまでも“考えられる”だけで根拠としては極めて弱い。
 もちろん、それは“西暦2000年”でも同じはあるのだが……。
 設定年代がハッキリしていないそもそもの原因は、本作の劇中に設定年代を示すモノが全く登場していないという点にある。
 本作の劇中、影なき男がニューススタンドで新聞を読んでいる場面(注:2010年版で復元されたシーン)があるが、ココで影なき男が手にしている新聞(注:“メトロポリス新聞”)に日付が入っていないかと思ったが、修復されたフィルムはもちろん、スティルでも文字がつぶれてしまっていて読めなかった。
 同じシーンで、労働者11811号が車中で紙幣を抱えるショットがあるが、この紙幣は映画用に制作された小道具で、しかも実物が現存している。 ので、発行年が入っていないかと思ったが、……入っていなかった。つД`)゜。
 そもそも、硬貨ならともかく、紙幣に発行年を入れる事ってあんまないしね。(注:日本の紙幣にも入っていない)
 その他、入手出来た資料は全て探したが、やはり本作の設定年代を特定する記述は一切見つけられなかった。
 筆者の探し方が悪かったのか、それとも元々ハッキリした年代設定がないのか……。
 恐らく後者だろう。
 しかし、これが“西暦2000年”であったと仮定すると、非常に重要な意味がある事に気付く。
 何故なら2000年は、“ミレニアム”という宗教上極めて重要な意味を持つ節目の年であるからだ。
 第6章で記したノストラダムスの大預言を再び持ち出すまでもなく、リアルタイムの世紀末というこの年は、1000年という区切りの年であり、キリスト教でも重要視されていたのは最早説明するまでもないだろう。
 それどころか、クリスチャンでなくとも、リアルタイムにこの節目の年を経験した皆さんだって、この年に何か起きるのではないかと期待……いやいや、不安を感じていた事だと思う。
 実際、筆者も祈っていた。

「何も起きませんように、何も起きませんように……。」

 と……。
 しかし、実際にその瞬間が訪れると、……結局何も起きなかった。 あれだけ騒がれていたノストラダムスの大預言も、結局は1999年7の月を過ぎたとたん、まるで台風一過のようにサッパリと聞かれなくなってしまった。
 再検証するでもなく、批判するでもなく、目の前を通り過ぎた風のように、誰も気にも留めずに過ぎ去っていっただけだった。
 ……だが、本当は“何もなかった”ワケではない。
 それは、ちゃんと起きていた。
 ただ、時間が少しばかりズレていただけだった。
 2001年9月11日。
 そう、9.11である。
 これに端を発したが如く、今世紀に入ってからというモノ、世界中で様々な出来事が同時多発的に乱発するようになった。
 9.11に始まった対テロ戦争。
 世界のあちこちで起った独裁政権打倒という革命。
 自然災害、政治的混迷、経済的混乱。
 その全てが次から次へと連鎖的に発生し、しかもそれは今もなお、現在進行形である。
 今から85年前、未来を予見すべく制作された本作にて示された巨大都市メトロポリスのヴィジュアルは、驚くほど正確に現在の大都市を予見している。
 バベルの新塔は高さ350mという設定だが、都庁に代表される高層ビルは実際にこの高さに匹敵する設計がなされ、2012年にいよいよオープンした東京スカイツリーは、これを遥かに超える高さを実現した。
 バベルの新塔の屋上から飛び立つ小型飛行機は、映画の製作当時にはまだ発明されていなかったヘリコプターに代わって再現された。 鉄道や高速の高架が縦横無尽に走る様子も然りだ。
 本作に登場した人造人間は、外見こそ大きく異なるモノの、ASIMOという独立した二足歩行を実現したロボットによって完璧に再現された。
 映画『メトロポリス』で描かれたミレニアムの未来は、今現在極めて正確にリアルで再現されているのだ。
 ならば、本作で描かれた革命、すなわち人間性の再発見たる“セカンド・ルネッサンス”はどうか? これもまた、今現在で正確に再現される可能性はないのだろうか?
 恐ろしい事に、筆者は“ある”と断じる他選択肢はない。
 これを書いている2012年6月現在、日本の政界はまさに危機的状況にある。 与党の独裁的政策によって、日本国民を本作の労働者たちのような過酷な現実へと陥れる法案が可決しようとしている。 日本は、いつ“革命”が起っても不思議ではないほど、国民の政治不信は頂点に達している。
 3.11の復興支援の遅れや、原発問題がこれに拍車をかけているのは明白だ。
 今の日本は、本作で描かれていた労働者たちの暴動がいつ起っても、全く不思議ではない状況にあるのだ。
 事実、中東では独裁政権を打倒すべく革命が起き、しかもそれが成功している。
 本作で描かれていた“セカンド・ルネッサンス”は、既に再現されているのだ。
 こんな時だからこそ、筆者はもう一度、皆さんに本作を鑑賞してほしかった。
 本作の語るメッセージに、耳を傾けてほしかった。
 そして、“人間性の再発見”を今一度、“再発見”してほしかった。

“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”

 筆者は、救世主的存在であるフレーダーが現れるのを待てと言っているのではない。 筆者が言いたいのは、仲介者がこころであるなら、その“こころそのモノ”を我々一人ひとりが取り戻す必要があるのだと言いたいのだ。
 何故なら頭脳と手と仲介者は三位一体であり、内なる神として我々一人ひとりの中にあるこころ、すなわち人間性に他ならないからだ。
 我々一人ひとりがこころ、すなわち人間性を“再発見”すれば、自ずから仲介者たるこころへと進化する事が出来るのだ。
 だからこそ、本作の設定年代は“西暦2000年”であるべきだと筆者は考えた。 本作の有している聖書的世界観をベーシックにした様々な寓意を強調するには、キリスト教的意味合いの強い“ミレニアム”である事は、必然的と言って良いほど重要な事だからだ。
 何故なら全ては、本作の観客一人ひとりが映画に学び、“人間性の再発見”という革命、“セカンド・ルネッサンス”をその内で経験させるためだからだ。

“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”

 我々は、今こそこの“こころ”を識る必要があるのではないか?
 だから筆者は、本書の執筆を決意したのである。


 映画『メトロポリス』は、1927年の初公開時に興行的大失敗となり、駄作の烙印を捺されて大衆の関心を失うも、その先見性と現代性が再評価され、今日最も優れた映画作品の一つに数えられるほどの名作になった。 その影には、本作に魅せられた多くの人々による努力と献身があり、何より映画で示されていた“人間性の再発見”が、失われる事なく形を変えながら脈々と受け継がれていた事実があった。
 そして、伝説から再生された映画『メトロポリス』は、85年の年月を経た今もなお、初公開当時の輝きを失う事なく、いやそれどころかより一層の輝きを放ち、極めて重要なメッセージを我々観客に語りかけている。
 このテーマとメッセージがある限り、映画『メトロポリス』はいつまでも色褪せる事なく、人類共有の財産として輝き続ける事だろう。
 そして筆者は、そうあり続ける事を願い、そして祈る。
 映画『メトロポリス』が、一人でも多くの人々の“人間性の再発見”を促す事を。
 そして本書が、その手助けとしてアナタの旅の道標になる事を。


・旅の終わりに

 筆者の旅はこれで終わる。
 全ての始まりには終わりがあり、物事は終わらせる事が重要だからだ。
 しかし、ココが目的地というワケではない。 何故ならこの映画を巡る旅の本当の終着点は、1927年1月のプレミア上映版の“完全復活”にあり、それが成されていない今現在は、“旅の途中”でしかないのだ。
 もちろん、第5章で既に述べたように、アルゼンチン版を以ってしても叶わなかった“完全復活”の可能性は、何をどう考えても極めてゼロに近く、故にこの旅はいつ果てるとも知れない終わり無き旅路であり、目的地にたどり着くのは夢のまた夢である。
 しかし、終わりは無くとも、終わらせる事は出来る。 そして、こうして結論を得られた今こそ、筆者はその旅の目的を達成したモノと判断し、旅を終わらせる事が出来るのだ。
 そしてそれは、決して諦めたからではない。 この終着駅が、筆者にとっての精一杯だからだ。
 これまでに記してきた事、そして考察した全てに対し、筆者は確信と責任を持っている。 が、いかんせん日本語で記されている資料が極めて少なく、またあったとしても他の資料と矛盾する記述や間違いも多く、結局は英語やドイツ語の資料に頼らざるを得なかった現実がある。
 しかし、筆者は決してパーフェクトバイリンガルというワケではなく、むしろ英語や、ましてやドイツ語など筆者の語学力の範疇外にある。 そのため、どんなに努力しても翻訳ミスの可能性が皆無にならないので、これで妥協するより他なかったというのが、正直なトコロである。
 そのため、筆者の方で十分に検証は行ってはいるが、本書に記した事の中には翻訳ミスによる間違いや誤解が残っている可能性があり、自信が無いというのが正直なトコロである。
 なので、これを読んだ皆さんにお願いしたい。
 間違いがあったら、どんどん指摘してほしい。
 翻訳ミスがあったら、どんな些細な事でも教えてほしい。
 この映画について知っている事があるなら、どんな小さな事でもいいので筆者に一言言ってほしい。
 そうしたご指摘を頂ければ、筆者は本書を書き直す用意がある。
 そう、この旅は、これがオワリなのではない。
 今この時が、新たなる旅のハジマリなのだ。
 筆者一人ではココまでしか来れなかったが、もしも皆さんが手を貸してくれるのなら、ココよりももっと先、あるいは本当の意味での“旅の終わり”にたどり着く事さえ、出来るかもしれない。
 さあ掴んでほしい。 筆者が差し伸べた手を!
 そして共に、新たなる旅路へと足を踏み出そうではありませんか!
 2027年、映画『メトロポリス』が、100周年を迎えるその時に向かって!


‐Data‐

メトロポリス(原題:METROPOLIS)

配給:ウーファ/パルファメット
出演:グスタフ・フレーリヒ
    ブリギッテ・ヘルム
     アルフレート・アーベル
     ルドルフ・クライン=ロッゲ
     テオドア・ロース
     ハインリッヒ・ゲオルゲ
     フリッツ・ラスプ
     エルヴィン・ビスヴァンガー他
脚本:テア・フォン・ハルボウ
    フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント(第1カメラ)
    ギュンター・リッタウ(第2カメラ/ミニチュア/多重露光)
    ヴァルター・ルットマン(アニメーション/特殊撮影)
    コンスタンティン・チェトヴェリコフ(ミニチュア)
    ヒューゴー・O・シュルツ(多重露光)
    エルンスト・クンストマン(シュフタン・プロセス)
    ホルスト・フォン・ハルボウ(プロダクション・フォト)
美術:オットー・フンテ
    カール・フォルブレヒト
    エーリッヒ・ケッテルフント
特殊効果監修:エーリッヒ・ケッテルフント(絵画トリック)
          オイゲン・シュフタン(シュフタン・プロセス)
衣装:エンネ・ヴィルコム
    ヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフ
彫刻:ヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフ
音楽:ゴットフリート・フッペルツ
製作:エーリッヒ・ポマー
監督:フリッツ・ラング


‐修復版‐

ソ連・チェコ版(61年):ウラジミール・ドミトリエフ(監修)
東独版(72年):ヴォルフガング・クラウエ(監修)
          エッカルト・ヤーンケ(助手)
パタラス版(87年):エンノ・パタラス(監修)
2001年版:マルティン・ケルバー(監修)
        フランク・シュトローベル(編曲・指揮)
2010年版:マルティン・ケルバー(監修)
       フランク・シュトローベル(編曲・指揮)
       フェルディナンド・マルティン・ペナ(アルゼンチン版発見者)
       パウラ・フェリックス=ディデイエ(アルゼンチン版発見者)

公開年月:1927年1月(日本では1929年4月)
総製作費:600万マルク(推定)
興行収益:7万5000マルク(ベルリン初演時)


 といったトコロで、映画徹底解説シリーズ『「メトロポリス」伝説』は今回を以って連載終了とさせて頂きます。 長い間お付き合い頂き、誠にありがとうございました。
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 ちなみに、PDF版は来月、12/25にアップ予定です。 お楽しみにっ!
 さて、来週からは近況、雑記などでお茶を濁しつつ(笑)、“次の連載”に向けて精進していきたいと思います。
 一応、連載開始は年明け早々を予定していますが、今まで以上に難産で、まだ連載が始められるほど原稿が上がっていないので、正直連載開始がいつになるか分かりません。 何せ今度の解説する作品は、映画作品ではない(!?)ので。
 今しばらくお待ち下さい。
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


さまようヨロイがあらわれた!


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 まさにさまようヨロイとしか言いようのないクリーチャー。 しかも結構デカい。 中盤から終盤にかけて登場するザコキャラだが、そこそこ強い上集団でエントリーする事が多い。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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221.『メトロポリス』伝説:第7章②

2012年11月11日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #22-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 すっかりスルーしていましたが、YouTubeに上がっていたIOC公式のロンドンオリンピックの動画、つい先ほど、全競技全種目、観終わりましたッ!!
 今頃ッ!?Σ(゜Д゜;)
 長かった……。つД`)゜。
 そりゃあね、競技が全部で30近くあって、種目が数百もあれば、開催期間がたった2週間でも同時進行している競技を全部観てたら、そりゃあ3ヵ月はかかりますって。
 まあ、それでも柔道やテコンドーなどの格闘技系は、あまりに試合数が多過ぎるので決勝トーナメントしか観てませんが。(注:それでも1競技当りフツーに1週間かかったけどなッ!)
 でも、面白かったです。
 とっても楽しめた。
 日本国内のTVでは滅多にお目にかかれない馬術や射撃、自転車競技やボート、カヌー&カヤックのスラローム等々、競技としての面白さ、試合としての見所が理解出来れば、こんなにも面白い競技だったんですね。 観て良かった。
 オススメは、馬術、射撃、自転車のロード/BMX/MTB、カヌー&カヤックのスラローム、そしてやっぱり陸上!
 やっぱり陸上は予選から観なきゃですよ!
 馬術や射撃は見た目が非常にじみぃぃぃな競技ですが、見所が理解出来ればスゴく面白いです。 特に、射撃の50mピストルは必見! 奇跡の大逆転劇を見逃すな!
 自転車競技は、トラックは正直観ていてもよく分からないのであんまり面白くないですが、ロード、BMX、MTBは見た目にも分かり易くかなりアツいのでオススメです。
 カヌー&カヤックのスラロームも、ルールが多少分かり難いですがやはりオススメです。 見た目にも涼しげですし……って、あぁ、もう11月だっけ?(笑)
 いずれにしても、YouTubeのIOC公式ロンドンオリンピック動画は、現在も公開中です。 ぜひ一度ご覧下さい。
 ……ですが、IOCの公式チャンネルでは、プレイリストが公開終了になったため、各競技の中継録画動画は公式チャンネルからは観れません。(注:ダイジェストやハイライトのみ)
 ですが、動画そのモノはYouTube内にまだ残っているので、以下の書式で検索するとヒットし易いです。

London2012OlympicGames (競技/種目) (試合日程)

 上記の書式で、全て英語表記で検索すればたいていヒットします。
 競技や種目の英語表記、及び試合日程は、ロンドンオリンピックやIOCの公式サイトを参照の事。
 また、それも面倒だという方は、とりあえずコチラからお試し下さい。(↓)

London 2012 Olympic Games - Athletics : Full Replay Complete

 作っておきましたプレイリスト。
 陸上競技のみですが。
 全部で72時間オーバー(!)。
 不眠不休で観続けても3日もかかる!(笑)
 初日の予選から最終日の男子マラソンまで、日程順に余すトコロなくご覧いただけます! 特にデカスロン(注:男子十種競技)は超必見!
 動画そのモノが削除されない限り放置しておきますので、どうぞご利用下さい。
 世界66億分の1誕生の瞬間を見逃すなッ!!
 そして、次のオリンピックは2016年、ブラジルのリオデジャネイロ!
 南半球での夏季オリンピック開催は、2000年のシドニーに続いて2度目。 南米大陸での開催は史上初!
 今から楽しみに待ちましょう!
 ……あ、その前に来年はモスクワ世界陸上がありますね。 再来年は、ソチ冬季オリンピックだ!


 ちなみに、観戦してたら自分でもスポーツしたくなったので、今はこんなのやってます。(↓)


 PS2の『GT4』です。(笑)
 直接SSが撮れないので写真でメンゴ。
 あえて4作目で!
 いや、買ってはあったんですが、今までずっと放置プレイだったので、これを機にやってみようかなと。 一応、モーター“スポーツ”だし。(^ ^;)
 とりあえず、ライセンスはゴールドを目指さずに取得しただけ。 このシリーズのライセンスは、取得だけならカンタンですが、オールゴールドを目指そうとするとマゾゲーにしかならないので。 『GT3』で懲りた。
 Aスペックモードはほとんどやらず、もっぱらBスペックモードで各種レースイベントを攻略中。 ミッションレースもマゾいので、今のトコロやってません。
 メーカーのレースイベント、日本、アメリカ、欧州の各エリア別イベント、及び初級、中級は全てクリア。 耐久も、Bスペックモードならラクちんなのでニュル24時間、ル・マン24時間(2種)を除き全てクリア。 上級、及びダート系は全くの手付かず。 ダートはBスペック使えないしね。
 ちなみに、賞金稼ぎは耐久の“スーパースピードウェイ150マイル”が一番手っ取り早いですね。
 なんとかしてトヨタの88CVが手に入れば、マイペース&オーバーテイクONでカンタンに優勝出来る。 毎回プレゼントカー(注:NSXレースカー)をゲットして売却すれば、合計5500万以上が僅か1時間で手に入る。
 ……まあ、そのためにはBスペックモードのAIを十分育てないといけないですが。
 ウチの子は上手いクセにチキンハートなので突っ込みが甘くて……。 ニュルとかオータムリンクみたいなコース幅の狭いサーキットが大の苦手です。 AIってこんなモンなん?
 さ、それじゃニュル24時間に挑戦しようかな?



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第22回です。
 今回を含めて、あと2回。 最後までヨロシクです。


3.聖書的世界観

 第4章で少しだけ記したが、本作には様々な面で聖書的世界観をベーシックとした描写が散見される。 先にも記した通り、フォン・ハルボウによる小説版のディテールの細やかな描写は特にその傾向が強い。
 先に例に挙げた、フレーダーがM機械から人喰いモロクを連想する場面が特に顕著である。
 もちろん、フォン・ハルボウは『死滅の谷』や『ドクトル・マブゼ』を再び例に持ち出すまでもなく、東洋思想にも明るかったので聖書以外、例えば北欧神話やインド神話のイメージもあるにはあるが、本作の神話的イメージの大部分は聖書的世界観がそのベーシックになっている。
 例えば、最も分かり易いのはカタコンベに集まった労働者たちを前に、マリアが説教として引用する“バベルの塔の伝説”である。


・バベルの塔の伝説

 マリアが説く“バベルの塔の伝説”は、時の権力者によって人類の栄達を象徴する塔の建設が計画され、大量の奴隷が動員されて建設が始まるも、過酷な労働に耐えかねた奴隷たちが反乱を起こし、塔の建設が夢半ばで頓挫してしまう、というモノである。
 この挿話から、マリアは支配階級と労働者階級の対立を避けるためには、両者の仲を取り持つ仲介者が必要で、頭脳(支配階級)と手(労働者階級)の仲介者は“こころ”でなければならないという説教に引用する。
 この聖書的世界観の挿話は、本作のテーマをメタファーする要素として必要不可欠なモノであった。
 しかしこの挿話は、実は聖書の記述を基にしたフォン・ハルボウによる半創作である。
 聖書に記された実際のバベルの塔の伝説は、旧約聖書の創世記、11章に記されているが、マリアの説教にある労働者階級の反乱は一切記述がなく、塔の建設を頓挫させたのは神の怒りである。 おごり昂ぶったヒトの愚行の具現たる天にも届く塔を破壊し、二度とこのような事が出来ぬように、神は人々の意思の疎通を阻むため言語を分かつ。 故に、その街と塔は混乱を意味する“バラル(=バベル)”と呼ばれた。
 フォン・ハルボウは、この挿話を基に、本作のテーマに合うように改変したマリアの説教を創作したが、現代にも通用する人類の普遍的なテーマを語る上で、その起源を聖書という神話の世界に求めた点に、フォン・ハルボウの博識が覗えるのは確かだ。
 また、改変する事によって、塔を破壊し、言語を分かつ立場にある神の存在を排除し、作品世界の神の不在を明確にした上で、それに取って代わるバベル塔の頂に住まう者、すなわち巨大都市メトロポリスの支配者としてのフレーダーセンの存在を明確にし、フレーダーセンがメトロポリスの神になっている事を明快に描いている。
 これにより、本作は支配階級と労働者階級の対立とその解決策としての格言というテーマを明確にしており、この改変は本作にとっては必要な事であったのは確かだ。
 ただ面白いのは、バベルの塔の伝説は極めて有名な挿話で、聖書を読んだ事がない人でも誰もがいつの間にか知っている最もポピュラーな聖書物語なのだが、実は実際の聖書の記述は、半頁分もない程度の極めて小さな扱いの挿話でしかなく、大洪水を生き延びたノアとその息子たちの、そして息子たちの子孫が繁栄していく過程を描いた場面で、何の脈絡もなく唐突に挿入されるエピソードという点である。
 聖書の記述によると、ノアの息子であるハムにはクシュという子が生まれ、クシュは勇敢な狩人で後に英雄となり、シアンルの地を治める王になるニムロドという息子を持つ事になる。
 このニムロドが治めたシアンルの地にあった街の一つが、バベルであった。
 しかし、バベルはニムロドが開いた街ではない。 ニムロドがシアンルを訪れた時には、既に“バベル”という名の街があり、ニムロドはバベルを含めたシアンルの地を拠点にアッシリアへと領土を広げ、複数の街を開いているが、バベルを開いたのはニムロドよりも以前に東の方からシアンルへとやってきた人々によって開かれた街で、ニムロドがやってきた時には、既に塔が破壊され、言葉を分かたれた後だった。
 つまり、マリアが語るバベルの塔の伝説に登場する街の支配者は、ニムロドより以前にこの地を治めていた人物だという事になるが、それが誰なのかは聖書には記述がない。
 そもそも、街と塔を作った人々も、“東の方から来た”という記述はあるが、この時は大洪水直後で、地上に残っていた人類はノアとその息子たちだけだったハズなので、“東の方から来た”という人々がいったいノアの息子たちの内の誰の子孫なのかが気になるトコロだが、これまた聖書には記述がない。
 バベルの街と塔を作った人々は、一切をナゾのヴェールに包まれた存在なのである。
 所詮は聖書。 矛盾はあって当たり前。 神話の世界の話なのだ。(笑)
 個人的には、バベルの塔の挿話は大洪水、そしてノアとその息子たち、及びその子孫たちの行方を描いたシーンが先に書かれ、後にこれを読んだ誰かによってバベルの塔の挿話が創作、挿入されたのではないか? と、考えている。 そう考えると、このような唐突なタイミングでの挿入も納得がいく。
 しかし、そんな言わば“二次創作”的な挿話が、これほどまでに有名なのが不思議でならない。 確かに、ピーテル・ブリューゲル(注:画家。 後に、その息子や孫も画家として活躍する事になるブリューゲル一族の初代。 農民や子供などの風俗画を得意とした事から、同名の息子と区別するため“農民画家ブリューゲル”とも呼ばれている。 現在のベルギー出身とされているが、画家として活躍し始める1551年以前の記録は出生年も含めて諸説あってよく分かっていない。 1569年没)の描いた名画『バベルの塔』(1563年)がつとに有名で、ヒトの愚行の具現として小説や映画など様々な作品で“天にも届く塔”が描かれる事が多いので、その原典たるバベルの塔が有名になるのは必然的な事だったのかもしれないが、それにしては聖書の記述があまりにも短過ぎる。
 この挿話がこれほど有名になったのは、そのベーシックに何か、人々の心に響く普遍的なテーマが隠されているからなのか、はたまた本作で引用されたからなのか? ……とか考えたりしちゃったりしてる今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?(笑)
 ちなみに、本作にはニセ・マリアがナイトクラブ・ヨシワラで人々を扇動するためにセクシーなダンスで人心を誘惑する“女神バビロン”になるが、これは全くの創作。 バベルが神格化されているような事は、筆者は聞いた事がない。
 ただし、バビロニアで信仰されていた女神で、メソポタミア文明を築いたとされるシュメール人の神、イナンナと同一視されており、後にアスタルテやアフロディーテといった女神のルーツとなった愛と豊穣の女神、イシュタルが、この女神バビロンに相当すると思われる。
 女神イシュタルは愛と豊穣の女神だが、非常に好戦的な性格でもあり、イシュタルからの愛の告白を断った英雄ギルガメッシュに激怒し、その仕返しとして凶暴な牡牛地上に放ち、“都を破壊しつくした”という伝説があり、戦の女神としても崇められている。
 様々な神話や伝承に明るく博識だったフォン・ハルボウは、あるいはこのメソポタミアの女神に着想を得て、バベルの街と塔を破壊した神と同一視していたのかもしれない。
 ちなみに全くの余談だが、イシュタムというイシュタルによく似た名前の神もいるが、これはマヤ文明の神で、しかも自殺の神なので全く無関係である。


・三位一体

 第4章でも少し触れたが、本作の聖書的世界観で欠く事が出来ないのが、この“三位一体”である。
 三位一体とは、キリスト教の祈りにある“父と子と聖霊”、すなわち父なる神と子なるキリスト、そして聖霊(あるいは聖神)の三者こそが一体の唯一神であるとする教えで、キリスト教の主な宗派が重要視している思想である。
 ただし、重要視していない宗派や、あるいは異端視する宗派もあり、キリスト教内部でも意見が分かれるトコロのようだ。(注:日本のエホバの証人も、三位一体否定派である)
 そもそも、三位一体という語は2世紀後半から3世紀初頭にかけて活躍した神学者、テルトゥリアヌス(注:本名、クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス。 ラテン語で著作を行ったラテン教父の第1号とされている人物。 160年~220年)によって創作された造語で、聖書における三者の一体性を説く記述、すなわち、

「私は父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。 この方は、真理の霊である。 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事が出来ない。 しかし、あなた方はこの霊を知っている。 この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」
―ヨハネによる福音書14章16~17節

 という記述から、父と子と聖霊は一体であり、誰の心にも共にあるという解釈を成立させた事で、この三位一体という概念が重要視されるようになった。
 325年になると、時のローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世によって公会議(注:キリスト教のお偉いさんが集まってキリスト教に関する諸々を話し合ったり決めたりする会議の事)が召集され、キリスト教がローマ帝国の国教になったり、新約聖書の編纂(注:編纂に漏れたモノは、現在“新約聖書外典”と呼ばれている)が行われると同時に、この三位一体の概念も重要な思想として広める事が決定された。
 以降、キリスト教、特にローマカトリックでは、これを祈りの一節に取り入れるなどして最重要視しているのは、皆さん周知の通りである。
 さて、本作でも様々な点でこの三位一体の思想が現れており、作品のベーシックに聖書的世界観がある事を覗わせる重要な要素になっている。
 例えば、第4章で記した三部構成、すなわち『Auftakt(前奏)』、『Zwischenspiel(間奏)』、『Furioso(フリオーソ)』。
 同章でも既に記したように、この三部構成という手法は、しかし1920年代当時はあまり一般的ではなく、せいぜいドイツ表現主義彫刻家のオスカー・シュレンマーが衣装デザインを手がけた創作バレエ、『トリアディック・バレエ』に三部構成が用いられていたぐらいで、映画ではほぼ皆無だった。
 しかし、本作にはこれが必要だった。 『トリアディック・バレエ』がそうであったように、三位一体のメタファーとして、この三部構成という手法は必要な事だった。
 そもそも、本作のメインテーマである格言にも、“頭脳と手と仲介者”という、“父と子と聖霊”をそのまま引用した一節が盛り込まれていたり、フレーダーの母ヘルとフレーダーセン、そしてロートヴァングの三角関係、さらには水没する地下労働者街から子供たちを救うのがフレーダーとマリアとヨザファートの三人等々、本作の三位一体のメタファーは探せばいくらでも出てくる。
 また、間接的な寓意として、シュルツ=ミッテンドルフがマスクと衣装を手がけた死神と七つの大罪の彫像もまた、三位一体に関係している。
 七つの大罪とは、キリスト教において最も重いとされている罪、すなわち“暴食”、“色欲”、“強欲”、“憤怒”、“怠惰”、“傲慢”、“嫉妬”の事だが、実は聖書には、これに言及している記述は一切ない。
 4世紀、エジプトで修道士をしていたエヴァグリオス・ポンティコスによって、“枢要罪”という8つの罪が定義され、6世紀後半になって第64代ローマ教皇に即位したグレゴリウス1世(540年~604年)が、現在の7つに改訂したという経緯がある。(注:なので、本書では“キリスト教的世界観”ではあるが“聖書的世界観”ではないため、七つの大罪に関する考察を割愛する事にした。 ってゆーか、一応は書いたのだがあまり面白い考察にならなかったのでカットした。 ご了承頂きたい)
 そして、13世紀に名を馳せた神学者(兼哲学者)、トーマス・アクィナス(1225年~1274年)によって七つの功徳(注:キリスト教で最も尊ばれている7つの美徳。 ただし、これまた正確に聖書に記述があるわけではなく、また実際には功徳とされているのは7つ以上あり、大罪ほど明確に定義されているワケではない)の対比としてこれが引用され、キリスト教では最も忌むべき“悪”として定着した。
 が、それより何よりこれを一般的にしたのは、トーマス・アクィナスとほぼ同時代に活躍したイタリアはフィレンツェで活躍したの詩人、ダンテ・アリギエーリ(1265年~1321年)の詩集、『神曲』をおいて他にはないだろう。
 ダンテの『神曲』は、“地獄編”、“煉獄編”、“天国編”という三部構成になっており、若くしてこの世を去ったダンテの幼馴染み、ベアトリーチェに迎えられ、ダンテ自身が地獄巡りをするという内容の詩集である。
 ダンテは3編を一気に書き上げたワケではなく、それぞれを数年を経て少しずつ書き進め、1編にまとまったトコロで順番に出版されたと考えられている。 実際、最後の天国編が成立し、3編全てが揃うのは1321年以降のダンテの死後の事である。
 しかし、既に出版されていた地獄編、煉獄編は庶民でも読めるようにトスカーナ地方の方言で書かれていた事も拍車をかけ、人気があった。
 そして、その地獄編と煉獄編(注:特に煉獄編)で言及されているのが、件の七つの大罪である。
 この詩集は文学として評価されただけに止まらず、芸術の世界にも多大な影響を与え、後のルネッサンス芸術のモティーフとしてもよく引用された。
 ボッティチェリやヒエロニムス・ボス、果てはウィリアム・ブレイクにギュスターヴ・ドレなどの画家によって、『神曲』の世界観は多数の絵画のモティーフになった。
 また、近代になるとフィクションの中でも頻繁に引用されるようになり、1995年の映画『セブン』の公開がキッカケとなり爆発的に作品数が増え、特に日本のマンガやアニメ、ライトノベルを中心とした小説やゲームに至るまで、様々な作品でモティーフとして用いられるようになった。
 で、この『神曲』において、ダンテは七つの大罪と共に三位一体を重要視しており、“地獄編”、“煉獄編”、“天国編”という三部構成に始まり、各編は33歌ずつで構成されており、地獄編に序章的な1歌を加えた計100歌で構成されている。
 さらに、全ての詩は3行一組の“三行韻詩”(または三韻句法)の技法が用いられているほどのこだわりようである。
 この『神曲』により、七つの大罪はキリスト教の思想の一つとして一般化し、これを用いた本作は、七つの大罪を通して『神曲』の三位一体のメタファーを垣間見せる。
 そしてそれは、本作のメインテーマである“頭脳と手と仲介者”という格言によって、“人間性の再発見”というヒューマニズムに溢れたテーマへと昇華する。
 本作における聖書的世界観のモティーフは、全てこのテーマを昇華させるために必要な事だったのである。


 さて、以上3点について解説、考察してみたワケだが、前章の“人間性の再発見”と合わせて、こういう視点で本作を改めて鑑賞してみてほしい。 そうすれば、本作の先見性と現代性が改めて確認出来る事と思う。
 そして、本書がそのガイドブックとして機能する事を願う。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


串刺し天使。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 何かで見覚えのある串刺し姿にされているのは、レイヴン・フロスト。 序盤にこのような姿で登場するが、後半ではクリーチャーとしてダンジョンにエントリーされる。
 ちなみに、この槍は入手出来ません。(残念!)



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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220.『メトロポリス』伝説:第7章①

2012年11月04日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #21-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 11月になりました。 昼間の暑さもようやく和らぎ、朝晩には肌寒さを感じるほどですが、ウチの店の前の銀杏並木は、未だに青々としております。(笑)
 ホントに今は何月なんだ?(´・ω・`)??


 それはともかく、先日映画の都ハリウッドでビッグニュースが駆け抜けました。 あの『スターウォーズ』シリーズや『インディ・ジョーンズ』シリーズの制作スタジオとして有名なルーカス・フィルム・LTDが、なんとディズニーに買収される事になったそうです!Σ(゜Д゜;)
 ご存知のように、ディズニーは90年代からピクサーと共同でフル3DGIアニメーションを制作、ヒットを連発していますが、ピクサーは元々はルーカス・フィルムの傘下だったILM社のCGI部門が独占禁止法に抵触するのを回避するために分離独立。 亡くなったアップル・コンピュータ社のCEO、スティーブ・ジョブスが買収して現在のピクサーになった経緯がありますが、今回の買収劇によって、大元のルーカス・フィルムそのモノがディズニー傘下になる事に。
 現在のルーカス・フィルムのCEOであるジョージ・ルーカスは、この身売りによって経営から退き、映画界そのモノからも引退。 共同経営者でスピルバーグのアンブリン・エンターテイメントの重役だったキャスリーン・ケネディが社長に就任するらしいです。
 ……まあ、身売りそのモノは前々からあり得た話しではあったんですよね。 数年前から、ルーカスはしきりに引退を希望していたし。
 マイクロソフトのビル・ゲイツ元CEOみたく、優雅な隠居生活を送りたいのでしょう。
 しかし、気になるのはそれと同時に発表された新作映画の事。
 なんと、2015年公開を目指して、『スターウォーズ』のシリーズ新作(!?)を制作するとの事。
 ………………。(´・ω・`)
 え~~~~~????? マジで??
 アニメやゲームならまだしも、実写は止めてほしいです。 せっかく完結してるんだから。
 まあ、このテの“新作発表”はアテにならない事が多いですけどね。 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の新作の話しも、もう何回立ち消えになったかわかんないぐらいだし。
 まあ、いずれにしてもルーカス様、お疲れ様でした。 映画の歴史を変えたアナタの業績と功績は、今後も映画界で長く語り継がれる事でしょう。 これからは、楽しむ立場で映画を観て頂きたいと思います。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第21回です。
 今回を含めて、あと3回で連載終了の予定です。


第7章:キーワード

 さて、ココからは考察雑記。 本作に関連するキーワードを3つほどピックアップし、それぞれについて考察、解説していく。
 当然の事ながら、これらは全て筆者の個人的な考察に基づくモノであり、必ずしも正しいとは言い切れないのは確かだ。
 しかし、こうした事を念頭に置いて本作を鑑賞して頂ければ、これらがあながち間違いとも言い切れない事を確信し、ココに記すモノである。
 なのでそのつもり(←どのつもり?)で以下をお読み頂き、本作を理解するための参考にして頂けたら幸いである。


1.小説版『メトロポリス』

 本作の脚本は、監督のフリッツ・ラングとその妻で脚本家のテア・フォン・ハルボウによる共著であり、映画用に書き下ろされた、原作無しの完全なオリジナルである。
 しかし、本作には映画とは別に、フォン・ハルボウのソロ名義による“小説版”が存在し、映画の公開と前後して単行本が出版されている。
 小説版『メトロポリス』(注:原題、『Metropolis:Roman』)は、本作が制作中だった1926年8月よりドイツの雑誌、ダス・イルストリール・ブラット誌で連載され、同年12月に出版社のアウグスト・シェルル社から最初の単行本が出版。 翌1927年には、映画の公開に合わせる形でウルシュタイン社から第二版の単行本(注:酒寄進一によると、“ダイジェスト版”だったらしいが、探し方が悪かったのか筆者のリサーチではそのような記述を見つけられなかった。 間違いだとは言わないが、正確性を欠いている可能性は残る)が出版されている。
 そのため、小説版を“原作”とする記述が間々見られるが、これは明確に誤りである。
 第4章で記した通り、本作の脚本の草稿は1924年の『ニーベルンゲン』の公開と前後して、既にケッテルフントが目を通したと証言しており、この直後にはラングとフォン・ハルボウが休暇旅行先のウィーンで本作の脚本第1稿を書き上げている。
 さらに、24年10月にラングはメンデルゾーンやポマー夫妻らと共に、映画のプロモーションを兼ねた観光のためアメリカに旅立っているが、フォン・ハルボウは同行せず、ドイツでお留守番していた。
 小説版『メトロポリス』の執筆期間に関しては、諸説あって定かではないのだが、映画の製作延期のため、フォン・ハルボウがヒマになってしまった期間がかなり長かったと考えられるため、フォン・ハルボウは映画脚本の第1稿を書き上げた24年6月から、本作の撮影が開始される25年5月までに小説版を執筆したのではないか? と考えられている。
 そのため、脚本の執筆よりも小説版の執筆の方が後で、映画の公開よりも小説版の出版の方が先という、なんともややこしい事になってしまい、結果、小説版が本作の“原作”と言われるようになってしまったと考えられる。
 また、映画公開前にドイツの映画雑誌で本作の特集記事用に行われたラングのインタビューの中で、ラングは本作が「フォン・ハルボウの小説に基づいた作品」と言ってしまった(注:これはラングのミス。 この記事が、映画雑誌ディ・フィルムテニークに掲載されたのは25年7月の事で、小説版はまだ雑誌連載すら始まっていなかった)ため、この誤解に拍車がかかったモノと思われる。
 しかし、実際には脚本よりも後に執筆されているため、厳密には“原作”とは言い切れない。
 が、ではいわゆる“ノベライゼーション”(注:“映画を小説化”する事。 原作付き映画でもメディアミックス、あるいはタイアップの一環として度々行われており、原作とは異なるバージョンの小説版として出版される)かと言うと、これまた厳密には異なる。
 何故なら、小説版には本作にはないシーンが多数あり、厳密に“映画を小説化”したとは言い切れないからだ。
 もちろん、そうした相違はあって当然の事ではある。 映画は映像化された視覚のメディアであり、小説は文章化された思考のメディアである。 この両者は、同じ“ストーリーを物語る”という目的がありながらも、メディアとしての相違からお互いに得意、不得意が存在し、両者で全く同一の作品を表現する事は不可能である。
 これは、世に言う“原作レイプ”な映画化作品の数々を観れば明らかだ。
 原作のテイストを抽出し、しかし映画というメディアに置き換えた事によって面白さが失われてしまう部分をカットし、映画として面白くなるように改変しなければならないため、そのやり方を間違えたり、改変し過ぎて原作の持つポテンシャルを生かしきれなくなってしまい、原作を無視したとしか思えないような“原作レイプ”映画になってしまうというのは、程度の差こそあれ、実はよくある事なのだ。(注:さらに言えば、原作への不理解や文化的な違いから起こる誤解など、原因を追究すれば“原作レイプ”となる要素は無数にあり、全てを回避する事は不可能である)
 もちろん、だからといって“何をやっても良い”という意味では決してない。 オプションさえ取得出来れば、映画化に際しては何をやっても許されるというのとはワケが違う。
 原作付き映画とは、映画用に改変しつつも、可能な限り原作に忠実であろうとするその姿勢が大事なのであって、作品の本質が変わってしまうような致命的な改変が行われる前に、改変するのを止めなければならないのだ。
 それでも技術的、予算的、時間的制約によって映像化出来ないのであれば、その制約の上限を上乗せするか、もしくは映画化そのモノを諦めた方が良いのだ。
 ……ハナシが逸れた。
 ともかく、小説版『メトロポリス』は、映画版とは異なるフォン・ハルボウ単独による別バージョン、“パラレルユニバース的な異版”と定義するのが妥当である。
 逆に言えば、これによって映画と小説は切り離されるため、どちらが正しいとか間違ってるとかの優劣の問題は発生しない。
 だから筆者は、小説版を映画とは異なる、フォン・ハルボウのソロ活動としての“パラレルユニバース的な異版”と定義するのである。


・相違点

 さて、原作でもない、ノベライゼーションでもない、“パラレルユニバース的異版”であるトコロの小説版は、映画版と多くの点で相違が認められ、これらを全て書き出すだけでもそれだけで本が1冊書けてしまいそうなほどなのだが、そこまで書いているとキリがないので、主な相違点だけに絞って書き出してみよう。
 例えば、ヨザファートの存在。
 映画と同じく、小説版でも重要なキャラクターとして描かれているが、ヨザファートがクビになる理由が映画版よりも理不尽になっており、影なき男によって街を出て行く事を強要されるシーンでは、ヨザファートは影なき男の脅迫に屈して実際に街を出て行きかける。
 小説版のヨザファートは、映画版よりも頼りないキャラクターになっているのだ。
 映画には登場しないキャラクターも登場する。 ナイトクラブ・ヨシワラの支配人、セプテンバーである。 しかも、この登場シーンが結構長い。
 もう一人、小説版には映画に登場しないキャラクターとして、実はフレーダーセンの母親が登場する。 それも、複数のシーンで数回。 しかも、その役割がかなり大きい。
 このキャラクターはエンディングにも登場し、生前のヘルから託されたという手紙をフレーダーセンに渡し、フレーダーセンに精神的救済をもたらす極めて重要なキャラクターである。
 そのため、小説のエンディングは映画とは大きく異なり、フレーダーセンとグロートがフレーダーの仲裁で握手をして和解するという、本作の最も重要なテーマたる“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”を明確に示すシーンもなく、テーマが不明瞭なまま物語りが終わってしまう。
 そもそも、その“格言”にしても、映画では冒頭にて中間字幕としてイキナリ示され、マリアの説教に引用され、映画のラストでも握手によって映像的に、また再び中間字幕によって明確に示され、強調されている。
 が、小説版では、実はこの“格言”が出てくるのは1ヵ所だけ。 マリアの説教のシーンにおいてのみである。
 先に述べたように、和解の握手のシーンがないため、小説版におけるこのテーマは極めて小さな要素でしかなく、代わりにフレーダーセンの母親とヘルからの手紙が登場する事で、物語りのテーマはフレーダーセンの“贖罪”に重点が置かれている。
 もちろん、それはそれで興味深くて良いのだが、“映画との相違”という意味においては、決して無視出来ない要素である。
 このように、様々な点で映画との相違が認められる小説版『メトロポリス』だが、映画よりも優れている点も多い。
 表現力の豊かさである。


・活字メディアの優位性

 元々、本作はサイレント映画として製作、公開された作品であり、中間字幕があったとしてもセリフに頼れないという欠点がある。(注:その代わりに、特殊効果を多用した圧倒的なヴィジュアルと音楽で“視覚メディアとしての映画”として極めてレベルの高い、優れた作品になっている)
 長ったらしい中間字幕は観客の興を殺いでしまうので、中間字幕は出来る限り短く、また少なくする必要があるからだ。
 しかし、小説版はこの制約に囚われない。
 元からして文章という“思考メディア”を利用している小説では、文章こそが命であり、映画では頼れなかったセリフに頼る事が可能である。
 実際、小説版のセリフは映画とは比較にならないほど多く、実は人造人間がニセ・マリアになる前のロボットの姿のまま、フレーダーセンに「ごきげんよう。」と挨拶するシーンもあるほどだ。
 さらに面白いのは、フレーダーのキャラクター描写である。
 映画版のフレーダーは、御曹司クラブで毎日を面白おかしく暮らしていただけのお坊ちゃんになっているが、小説版では詳しい人物描写が多数あり、実は音楽が好きで、なんと自分でパイプオルガンを作る(!?)ほど、音楽と楽器に強く惹かれている事が明記されている。
 また、御曹司クラブでの暮らしも、実はあまり気に入っていない事が語られ、周りはうわべだけの付き合いの遊び仲間ばかりで、本当の意味での友達もいない、孤独な青年として描かれている。(注:だからこそ、一層パイプオルガン作りに熱中する)
 それは、街を追い出されそうになるヨザファートの苦悩や、フレーダーセンが自らの過ちに気付くシーンでも多分に見られ、詳細なキャラクターの心理描写として表現されており、ディテールの細かさは映画とは比べ物にならない。
 さらに、フォン・ハルボウのボキャブラリーの豊富さも、コレによってより深く、詳細に示されている。
 特に、フレーダーがM機械から人喰いモロクを連想するシーンが顕著である。
 映画では、フレーダーは労働者たちを苦しめるM機械から“人喰いモロク”(注:旧約聖書に登場するセム人の偶像で、人身御供を欲する神)を連想するが、小説版ではこれ以外に、バール、ウィツィロポチトリ、ドゥルガー、ジャガンナートの山車、ゾロアスター教の沈黙の塔、ムハンマドの半月刀、ゴルゴダの丘の十字架など、古今東西取り混ぜた神話的イメージ(注:それぞれを詳しく解説しているとキリがないので、Wikiるかググるか、あるいは酒寄による翻訳版の注釈を参照の事)が列記されており、フレーダーの博識なキャラクター描写と共に、フォン・ハルボウ自身の広範な予備知識をも示されている。
 さすが文学少女だっただけの事はある。 『インドの墓』や『死滅の谷』、『ドクトル・マブゼ』にも観られるように、東洋思想にも明るかったフォン・ハルボウらしい文体と言える。
 こうした、文学作品としての優れた点も多数ある小説版『メトロポリス』は、逆に言えば小説というメディアだったからこそ可能な表現力を取り入れた作品であり、映画版の“加筆修正版”とも言える。 だからこそ、筆者は小説版と映画版を比較しながらも、どちらが正しいとか優れているとか、そういった優劣の問題はないと断じるのである。
 映画には映画の、小説には小説のそれぞれの良さがあり、また同時に欠点がある。
 フォン・ハルボウは、映画と小説を切り離して再構築する事で、お互いの欠点を補い合う、“注釈”として機能させる意図があったのではないかと筆者は考える。
 その証拠に、フォン・ハルボウは本作以降、映画の脚本と同時に映画を基にした“パラレルユニバース的異版”としての小説版を多数執筆しており、映画の公開と前後して出版している。
 映画では表現しきれない、しかし小説では限界のある作品世界を、お互いがお互いに支え合い、補い合い、注釈として機能し合う相乗効果を意図していたのではないか? と、筆者は考える。
 まさに、小説(頭脳)と映画(手)は、相乗効果(こころ)によってひとつになるのである。


 ちなみに、小説版の日本語訳版は、1929年の本作の日本公開に合わせて1928年(昭和3年)に既に最初の翻訳版が出版(注:世界大衆文学全集第15集/秦豊吉訳/改造社刊)されているが、2010年の完全復元BD版のリリース後、酒寄進一によって再翻訳され、2011年に新訳版が出版されている。
 この再翻訳版は、27年1月のプレミア上映の際、ラングとフォン・ハルボウの直筆サインが入った100部限定シルク装丁版のシリアルナンバー:007(←ボンド!?)を基に、1978年に再出版された版を底本に再翻訳されたモノで、間違いなく“完訳版”である。(注:ただし、翻訳表記が映画の字幕翻訳と微妙に異なる部分がある。 原語では相違ないモノばかりで、飽くまでも翻訳者の解釈の違いによるモノなので、酒寄にも小松にも責任はない。 生温かくスルーしてあげてほしい)
 同書の冒頭には、ラングとフォン・ハルボウのサインも入っており、フォン・ハルボウがラングに捧げた一文もしっかりと入っている。


2.ジャンルの混在

 前章で述べたように、本作のテーマである“人間性の再発見”は、現代にも通用する、いやむしろ現代だからこそ大衆の心に響くテーマであり、これが本作に対する先見性と現代性の再発見を促し、今日の再評価の直接的な要因になったのは間違いない。
 それと同時に、本作の現代性を語る上で欠く事の出来ない要素がある。
 それが、この“ジャンルの混在”である。
 現在の映画はもとより、小説やマンガ、アニメ、ゲーム、果ては音楽やファッションに至るまで、“ジャンル”という枠組みは年々その敷居が低くなっており、一つの作品で複数のジャンルが混在している事は、最早極当たり前の事である。
 例えば、今年2012年に公開15周年を迎え、モティーフになっているタイタニック号沈没事故(注:1912年4月15日。 詳しくは、筆者ブログ記事『Truth in TITANIC』前後編を参照の事)から100周年を記念して、3D版が劇場公開されたジェームズ・キャメロン監督の世界的大ヒット作、『タイタニック』(97年)。
 この映画は、基本的に“時代劇”に分類される作品である。 20世紀初頭という、現代とは異なる過去の時代を舞台背景とし、実際に100年前に起こった歴史的事象を史実に忠実に再現する試みがなされた作品だからだ。
 映画では、当時の最新のデジタルVFXが用いられ、実物の実に3分の1スケールという巨大なミニ(?)チュアが製作され、圧倒的なヴィジュアルによって歴史上、後にも先にも最大最悪の海難事故となったタイタニック号の悲劇をこれ以上に無い形でスクリーンに映し出したが、ミニチュアもデジタルVFXも飽くまでもタイタニック号を沈没事故当時のまま再現するために用いられた技術であり、UFOもロボットも登場しない、“時代劇”というジャンルの枠内に収まった利用がされている。
 キャストの衣装や小道具にしても、19世紀の貴族階級社会がまだ根強く残っていた20世紀初頭という時代を再現する形でデザインされており、近年の三国志や戦国時代をモティーフにしたゲームのような、見栄えの良い、しかし時代錯誤はなはだしいハデな衣装や小道具はどこにも使われていない。
 この作品は、史実を忠実に再現した“時代劇”なのだ。
 が、それは飽くまでもヴィジュアルに関してのみである。
 作品のテーマは別にして、物語りのメインストリームは、“時代劇”とは全く関係のないラブストーリーである。
 この作品の主人公であるジャックとローズは、実在しない全くの架空の人物である。 二人の間に芽生えるロマンスは、史実には無い、映画だけのオリジナルの設定なのだ。
 そのため、このラブストーリーが「不要だ」と批判の対象になった事もある。
 しかし、監督のジェームズ・キャメロンは、これを「必要な事」と反論した。 何故なら、観客の興味を惹く必要があったからだ。
 史実に忠実なだけの作品を作りたいのであれば、娯楽映画にするする必要はそもそも無い。 IMAX3Dやディスカバリー・チャンネル用のドキュメンタリーにした方が遥かに分かり易く、また忠実な作品を作れる。
 事実、キャメロンはこの6年後、ドキュメンタリーとして深海に眠るタイタニック号を映像に記録したIMAX3D用ドキュメンタリー映画、『タイタニック号の秘密』(2003年)を製作、公開している。
 しかし、ドキュメンタリーだと大衆への訴求力が弱く、観客の絶対数が限られてしまう。 IMAXシアターの数が少ない事も、これに拍車をかける事になってしまう。
 そこでキャメロンは、全くの架空の人物であるジャックとローズを設定し、当時の貴族階級社会を背景にした“報われない恋”と、この恋がタイタニック号沈没事故によって悲恋に終わるというラブストーリーを絡める事で、史実に忠実なドキュメンタリーにフィクションとしてのラブストーリーを混在させ、娯楽映画としての体裁を整えた。 これにより、映画は史実に忠実でありながら観客の興味を惹くラブストーリーが受け入れられ、97年当時の世界歴代興行収益記録更新という快挙を達成するほどの世界的大ヒットを記録した。(注:この記録は12年後、2009年公開の『アバター』によって、キャメロン自身の手で更新する事になる。 歴史上、興行収益記録を自身の手で更新したのは、スピルバーグに続いてキャメロンが2人目だった)
 これと同様の手法で、キャメロンは『ターミネーター』(84年)や『エイリアン2』(86年)、『アビス』(89年)、『ターミネーター2』(91年)、『トゥルー・ライズ』(94年)と、ほぼ全ての監督作品でラブストーリーを絡めるストーリー展開を用いている。
 さらに、『ディープインパクト』(98年)、『アルマゲドン』(98年)、『パールハーバー』(2001年)等にも、同様に作品のモティーフとは一見無関係なラブストーリーの混在が見られ、しかしこれによって映画の物語りとしての体裁が整っているのは確かだ。
 ジャンルを混在させる事によって、映画の物語りは観客に訴求する“面白い作品”になるのである。
 だが、このジャンルの混在が一般的になったのは、実は結構最近の事で、戦後になってからの事だ。
 その先駆的な役割を果たした作品として、筆者は『007:ジェームズ・ボンド』シリーズをココに挙げたい。
 今年2012年にシリーズ誕生50周年のアニバーサリーイヤーを迎える映画『007:ジェームズ・ボンド』は、戦時中にイギリス海軍情報部で諜報活動に従事した経験を持つ作家、イアン・フレミングによって書かれた小説がその原作で、原作小説第1作目の『カジノ・ロワイヤル』は1953年に初版が出版された。
 これがベストセラーとなり、フレミングは毎年1作のペースでシリーズ作品を発表。 長編全12作、短編集1冊を出版した直後、64年に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人になった。
 フレミングの死後、遺作となった『チキ・チキ・バン・バン』と、未発表作品を収めた短編集1冊(66年)が出版されている。
 フレミングが存命中だった1962年、映画プロデューサーとしてそれぞれ個別に映画化を構想していたアルバート・R・ブロッコリ(注:性の由来は野菜のブロッコリー。 元々は、イタリア移民だったブロッコリの先祖がアメリカに広めたのだそうだ)とハリー・サルツマンが、お互いのパートナーに反対されたため、コンビを組む事に同意。 シリーズ第1作目となる『ドクター・ノオ』の製作に漕ぎ着ける。
 当初は、フレミングの原作第1作目である『カジノ・ロワイヤル』を製作したかったが、原作は小説発表直後の64年に一度TVで映像化(注:ただし、コメディスプーフでしかも1時間枠だった)されており、その著作権の問題が解決出来ずに断念され、しかも予算が確保出来なかったために映像化の難しい作品が先送りにされた結果、比較的映像化し易い原作小説6作目の『ドクター・ノオ』が選ばれた経緯があった。
 ご存知の通り、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズは、イギリス情報局秘密情報部、MI6(注:これは実在する部署で、フレミングはこの部署の傘下部署に勤務していた。 映画版のシリーズ17作目の『ゴールデン・アイ』以降に登場するMI6の建物は、ホンモノのMI6本部)に勤務する秘密諜報員、00(ダブル・オー)エージェントという設定で、この映画はスパイモノというハードボイルドアクションに分類される作品である。 実際、フレミングの原作第1作である『カジノ・ロワイヤル』は、ハードボイルド色の強い作品で、これを原作とした映画版シリーズ第21作目は、原作を忠実に再現するためにそれまでのシリーズでは“お約束”になっていたユーモアの要素のが弱められ、ハードボイルド色の強い作品になっている。
 しかし、ブロッコリとサルツマンは、原作のハードボイルド色を弱め、スパイ活動とは一見無関係、というか、ある意味“不釣合い”とも受け取れる美女とのロマンスを作品に導入した。
 いわゆる“ボンド・ガール”である。
 しかし、このロマンスの導入は吉と出て、映画版では毎回セクシーな美女がボンドと行動を共にするという“お約束”が出来上がる。
 また、これも以降のシリーズで“お約束”になるのだが、Qが開発する非現実的な秘密道具の数々は、スパイモノというハードボイルドアクションから逸脱した、ある種のSF的要素を映画に導入していると言える。
 が、これも映画のヒットに拍車をかける事になり、観客はボンドが懐から取り出す秘密道具や、カースタントする高級スポーツカー、“ボンドカー”に魅了された。
 こうした混在要素はシリーズが重ねられる毎にその傾向が強くなり、映画版は原作を無視した改変がされるようになっていく。 最終的に、この傾向はシリーズ第11作目(注:原作小説版3作目)の『ムーンレイカー』で頂点に達し、タイトルが同じなだけの完全なオリジナルストーリーに改変される事になった。
 しかし、観客はこれを受け入れた。 原作を知らない大多数の観客は、こうした改変に“映画としての面白さ”を見出し、「原作とは別モノ」と割り切って観るようになっていった。
 実際、原作から離れ過ぎた作風を原作に忠実なモノに戻すべく、原作と同じ悲劇的なラストシーンにした映画版第6作目(注:原作小説10作目)の『女王陛下のスパイ』は、主演が初代ボンドのショーン・コネリーから2代目のジョージ・レーゼンビーに代わった事もあり、観客に受け入れられずシリーズ初の失敗作になってしまう。
 原作に忠実である事だけが、原作付き映画の唯一の道ではないのだ。
 現在の同シリーズは、時代的な変化もあってハードボイルド色の強い、混在要素の薄い作品になっているが、過去のシリーズ作品は、今観てもボンドガールやボンドカーといった混在要素が魅力的な作品ばかりである。


 このように、作品の大前提である基本ジャンルに、それとは一見無関係、あるいは不釣合いとも受け取れる別ジャンルの要素を混在させる事によって、映画は観客の興味を惹く作品にする事が出来、現在のジャンルの混在が一般化する要因になった。
 そしてこれは、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズがその先駆的な役割を果たし、80年代以降の様々な映画作品に導入された。
 では、本作が制作、公開された1920年代の映画はどうだったのかというと、混在要素は可能な限り薄くするのが一般的であった。
 例えば、20年代のドイツ映画黄金時代の最大の立役者となったF・W・ムルナウの『ノスフェラトゥ』は、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』を原作としており、吸血鬼をモティーフにしたゴシック・ホラーである。
 映画を観れば分かると思うが、それ以外の要素は何一つ混在していない。
 同じくドイツ映画黄金時代の先駆けとなった『カリガリ博士』もまた、現在のサイコスリラーの先駆的な作品だが、それ以外の要素は一切混在してない。
 同じく、『ゴーレム』もまた、ジャンルの混在しない純粋なゴシック・ホラーである。
 当時の映画は、ジャンルを混在させるのを嫌った作品が多く、またその方が観客にも分かり易い作品になるので、混在要素は可能な限り薄くするのが一般的だったのだ。
 しかし、この状況を一変させたのが、実は本作を含めた一連のラング監督作品である。
 ラングの出世作となった『死滅の谷』を始め、『ドクトル・マブゼ』や本作、『月世界の女』(注:“科学的根拠に基づく純粋なSF”と評されているが、科学的根拠云々はさて置いても、この作品はスパイモノやラブストーリーの混在する作品である)、さらには『M』や『怪人マブゼ博士』にもまた、混在要素が認められる。
 さらに、これを決定付けているのが亡命後のアメリカで監督した作品、『外套と短剣』である。
 第2次世界大戦終戦直前、核物理学者のジェスパー(ゲーリー・クーパー)がナチスドイツの原子力爆弾開発を阻止するためにナチス支配下のヨーロッパに潜入するという、スパイモノの体裁を取った反戦と核廃絶を訴えている作品だが、主人公は純粋なスパイではないが、美女とのロマンスというラブストーリーが混在する。 また、世界中を股にかけて物語りが展開する、マティーニを注文するシーンがある(笑)という、先に記した『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの“お約束”要素が全てある作品で、個人的には『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの原典とも言える作品なのではないかと考えている(注:『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの映画版第5作目、『007は二度死ぬ』は、原題を『You Only Live Twice』といい、これはラングのアメリカ進出第2作、『暗黒街の弾痕』(37年)の原題である『You Only Live Once』のインスパイアである。 原作者のフレミングは、明らかにラング作品に影響を受けている)が、やはり混在要素の強い作品であるのは間違いない。
 また面白いのは、クライマックスの銃撃戦シーンである。 『ドクトル・マブゼ』のクライマックスの銃撃シーンとソックリなのだ。
 ラングは、明らかに自作を意識してこのシーンを演出している。
 それはともかく、本作はその傾向が強く、現在のサイバーパンクの世界観を踏襲しつつも、ヒトの似姿(注:小説版では“パロディ”と表現されている)たる人造人間を開発するマッドサイエンティストという存在によってゴシックホラーの要素が入っていたり、影なき男というスパイモノの要素や、フレーダーが幻視する人喰いモロクやマリアの説教という形で神話的イメージがスクリーンに映し出されるというファンタジーの要素、そしてもちろん、フレーダーとマリアという若い男女のラブストーリーなど、一口にSFとは言い切れない複雑極まりない混在要素が存在し、この作品のジャンル的なカテゴライズを困難にしているのは明白である。
 こうした複雑な描写、あるいは設定、及びストーリー展開が、ジャンルの混在を嫌っていた当時の映画に慣れた大多数の観客に受け入れられず、映画は興行的失敗に終わってしまったが、60年代以降の修復版の公開によって、本作のジャンルの混在に現代性が見出された。
 時折りしも、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの誕生直後。 当時の最新作と同じ手法を、40年近く前に既に用いていた本作に、観客が先見性と現代性を見出す事は必然的な事だったのだ。
 こうして、初公開当時の興行的失敗の要因になった本作における“ジャンルの混在”は、これが極一般的になった現代になって、その先見性と現代性が見出され、今日の再評価へとつながった。
 本作におけるジャンルの混在という手法は、実に40年近く先行した、“一足飛びの進化”だったのである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


蠅レディ。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 当MODのキーヴィジュアルにもなっているハンターは、ハエっぽいカンジのクリーチャー。 上半身はせくすぃーだが、下半身はアレで(笑)、しかも空を飛ぶ。 バグか何かのためヒットボックスにズレがあるため、攻撃する時は上半身ではなく下半身を狙う必要があるので注意。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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219.『メトロポリス』伝説:第6章③

2012年10月28日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #20-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 やっと秋らしい気温になってきましたね。 まあ、日差しは未だに強めですが……。
 しかし、陽が落ちると急激に気温が下がり、朝晩は肌寒さを感じるほど。 やっぱり秋なんだなぁと思います。
 ですが、ウチの店の前の銀杏並木は、未だに夏真っ盛り!とでも言わんばかりに青々としております。 日差しが強いので、銀杏も紅葉して良いモノかどうか分かんないんでしょうね。
 ちなみに、ウチの店は節電のためエアコンを切っているため、おでんの鍋や電動什器の発熱がスゴくて店内は夜でも暑いです。
 ……なんだこの季節感の欠如は。


 それとは関係ありませんが、中山教授、ノーベル賞医学・生理学賞受賞おめでとうございます。
 iPS細胞は、今後の再生医療の要ですからね。 その生みの親が受賞するのは当然ですよ。
 ちなみに、現在発売中の月刊『ニュートン』12月号は、iPS細胞と中山教授の緊急特集です。 iPS細胞について知りたい方は、ぜひご一読を。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第20回です。
 今週も、最後までヨロシクです。


4.セカンド・ルネッサンス

 このように、90年代は“世紀末”をキーワードに世界終末論的ポスト・モダンとしての派生サイバーパンクが様々な分野でムーヴメントを巻き起こしていた。 映画では衰退したサイバーパンク・ムーヴメントは、デジタル・エイジと世紀末によって若いアーティストに支持され、そのスピリットが継承されたのである。
 そして、この潮流が90年代末になって再び映画にフィードバックされた。
 そう! 世界終末論的派生サイバーパンクを決定付けたVFXアクション超大作、『マトリックス』(99年)の登場である。


・様式の濃縮

 映画『マトリックス』を監督したのは、アンディとラリーの二人の兄弟監督、ウォッシャウスキー兄弟である。
 二人がまだ映画学校の学生だった1996年、士郎正宗の原作コミックを押井守がアニメ映画化した『Ghost in the Shell』は、『AKIRA』のように劇場公開こそ実現しなかったモノの、ビデオソフトとしてアメリカでリリースされ、アメリカ国内で最も信頼されているCD/ビデオソフトのセールスランキング誌、ビルボード誌(注:日本でいうトコロのオリコン)のビデオセールス部門で、初登場1位という日本映画としてはアニメ、実写を通して史上初の快挙を達成するに至り、アメリカ国内での90年代ジャパニメーション・ムーヴメントを決定的なモノにした重要な作品になった。
 ウォッシャウスキー兄弟は、兼ねてから日本のアニメやマンガ、香港のアクション映画が好きで、自分たちでも似たような作品を撮りたいと考えており、当然のように『Ghost in the Shell』も観た。 そして観た瞬間、二人は「これを実写でやろう!」と決意。 自分たちの作品構想が、『Ghost in the Shell』をキッカケにようやく一つにまとまったのだ。
 そうして二人は、映画学校に通う傍ら脚本の執筆に没頭した。
 映画学校卒業後、二人は脚本の売り込みに奔走したが、どこの映画スタジオでも二人は門前払いだった。
 理由は大きく2つ。 一つは、作品の内容が難解過ぎて理解が得られなかった事。 そしてもう一つは、二人がまだ映画学校を卒業したばかりの実績のない新人だった事だ。
 しかも、ウォッシャウスキー兄弟は脚本を売り込むプレゼンの場で、この作品が三部作である事と、3作全てを自分たちで監督する事を明言し、これを絶対条件にしていた。
 スタジオの重役陣が、実績もない若造を門前払いにするのは当然の事である。
 しかし、その難解な脚本に二人の才能を見出した人物が一人だけいた。 映画プロデューサーのジョエル・シルバーである。
 シルバーは、80年代にローレンス・ゴードンやジョン・デイヴィスと共にあの『プレデター』をプロデュースした映画製作者で、当時自身の映画製作プロダクションであるシルバー・ピクチャーズを設立して独立したばかりだった。
 シルバーは、難解で理解は出来なかったが、二人の脚本は面白い映画になると最初から確信していたと言う。
 しかし、他のスタジオと同じく、二人にはまだ実績がない事が気になった。 そこでシルバーは、二人に“ノルマ”を課す事にした。 すなわち、「カネは出してやるから低予算映画を1本作って、確実にヒットさせろ。」と命じたのである。
 しかし、二人はこれを二つ返事で了承。
 そうして制作されたのが、低予算クライムサスペンス、『バウンド』(96年)である。
 ジーナ・ガーション、ジョー・パントリアーノを主演に迎え、ほぼワンシュチエーションで展開するこの低予算映画は、しかしウォッシャウスキー兄弟が得意とするスロー映像を駆使した鮮烈な映像が話題になり、公開されるや否や瞬く間に大ヒットを記録。 二人は、シルバーの課したノルマをいともカンタンにクリアしてみせたのである。
 こうして明確な実績を作ったウォッシャウスキー兄弟は、シルバーのプロデュースで念願の大作映画の制作を開始した。
 それが、件の『マトリックス』である。
 20世紀末、我々が現実だと思っている世界は、実はコンピュータによって創造されたヴァーチャル・リアリティの世界で、リアルの地球は機械が支配する暗黒世界だった。
 これを知った主人公のネオは、モーフィアスやトリニティらと共に機械に死闘を挑むのであった。
 この映画は、香港映画のワイヤーアクションやデジタルVFXが大きな話題になり、その鮮烈な映像で映画に“革命”をもたらした。 それまで、映画全体の1割程度にしか導入されていなかったデジタルVFXは、この映画によって映画全体の半分近くに導入される事になり、これ以降の映画におけるデジタルVFXの占める割合は、最終的に映画全体の90%を超えるまでになっていく。
 香港映画のアナログ手法と、ハリウッド映画の最新デジタル手法が融合し、映画『マトリックス』は“VFXアクション超大作”という21世紀を迎えるにふさわしい、新しい映画ジャンルを確立する事になった。
 この視覚効果は極めて高く評価され、アクション映画としては異例とも言えるオスカー4部門受賞(注:編集賞、音響賞、音響効果賞、視覚効果賞)の快挙を達成した。
 映画『マトリックス』は、まさに映画の新境地を開いた革命的な作品なのである。
 さて、この映画『マトリックス』において、監督のウォッシャウスキー兄弟が重要視したのは、作品のテーマをヴィジュアル・コンセプトでも表現する事だった。
 何故ならそれは、不毛の現実世界たる機械に支配されて太陽の光すら降り注ぐ事のない瓦礫の砂漠と化したリアル・ワールドと、コンピュータによって構築、統治されたヴァーチャル・リアリティという二つの世界、すなわち現実と虚構を、映画という視覚メディアを通してヴィジュアルで提示する事によって、陰と陽、光と影、実像と鏡像という表裏一体の世界観を解り易く表現する必要があったからだ。
 このヴィジュアル・コンセプトを構築するために、ウォッシャウスキー兄弟はそのフォーマットを大スキなコミック界に求めた。
 そうして召集されたのが、コンセプチュアル・アーティストのジェフ・ダローである。
 ダローは、フランスコミック界で活躍するマンガ家で、バンドデシネの継承者であった。
 ウォッシャウスキー兄弟からオファーを受けたダローは、早速脚本を読み、一枚のコンセプト・アートを描いた。 それが、映画でも一際インパクトのある生身の人間の生体電気と核融合発電を融合させたハイブリット発電所、パワープラントのコンセプトアートだった。
 その画風は、まさにバンドデシネそのモノであり、世界終末論的派生サイバーパンクを地で行くモノであった。
 これを一発で気に入ったウォッシャウスキー兄弟は、ダローに不毛の現実世界のコンセプト・アートを依頼。 ダローはこれを了承し、ネブカドネザル号やセンチネルといった現実世界の全てを手がけた。
 これとは別に、ウォッシャウスキー兄弟はプロダクション・デザイナーのオーウェン・パターソンにヴァーチャル・リアリティの世界のセットデザインを依頼した。
 パターソンは、ダローのコンセプトを基にした現実世界のセットデザインも手がけているが、メインはヴァーチャル・リアリティの世界の方だった。
 パターソンは、このセットデザインに“非人間性”を求めた。 コンピュータが作り出した抑圧的で画一的な“作られた現実”としてのヴァーチャル・リアリティを表現するには、無感情で非人間的な、無味乾燥したデザインが必要だったのだ。
 ……もうお分かりだろう。
 そう、前者はポスト・モダンであり、後者はモダニズム。
 ドイツ表現主義と新即物主義。
 この映画では、相反する二つの様式が世界終末論的派生サイバーパンクの世界観で表裏一体になっているのである。
 この映画は、ココに至るまでの約80年間の芸術界の遍歴を思いっきり濃縮したヴィジュアル・フォーマットをそのコンセプトとしているのである。(注:さらに述べるなら、映画の色彩設計にもこのコンセプトが生かされている。 マトリックスをグリーン、リアル・ワールドをブルーの色調で統一する事で、両世界の差別化が図られている)


・再装填と革命

 このように、映画『マトリックス』はドイツ表現主義から世界終末論的派生サイバーパンクへと至る芸術界の流行の遍歴を凝縮したヴィジュアルを提示した、20世紀の終わりを飾るにふさわしい作品であった。
 しかし、映画『マトリックス』はこれで終わる事なく、21世紀という新時代の幕開けをも提示する事になった。
 シリーズ三部作の2作目と3作目、『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』(共に2003年)である。
 1作目の成功によって、ウォッシャウスキー兄弟はシルバーと主要スタッフを再召集し、予てからの構想であった『マトリックス』三部作を完結させるべく、2作目と3作目の制作を開始した。
 この2作は、通常の映画製作ではあまり行われない手法で制作されている。 それが、両作を“同時に撮影”する事である。
 既に、当時制作中だった『ロード・オブ・ザ・リング』三部作において、監督のピーター・ジャクソンは15ヵ月、実に1年以上をかけて、3作全ての主要撮影を一気に行うという事をやっていたが、実際にはその後映画公開前に追加撮影が行われており、シーンによっては連続するショットが最大で3年以上を隔てて撮影されている事もあった。(注:そのため、映画にはいわゆるテクニカルエラーが残っているシーンがいくつかある。 詳細は、拙著『異説「ブレードランナー」論』を参照の事)
 映画『マトリックス』では、2作目と3作目を上半期と下半期に分けて同一年内に公開する事が決断され、そのためには2作を同時に制作する必要があった。
 そうしないと、時間的に間に合わないからだ。
 また、映画の内容的にも両作で同一のロケーションが登場する事が多いため、撮影の手間を省くためにもこれは必要な事だった。(注:設営したセットを解体する手間が省けるので)
 さらに言うなら、2作目の『マトリックス・リローデッド』と同一時間軸という設定でストーリーが展開するゲーム版、『エンター・ザ・マトリックス』の実写ムービーパートの撮影も(登場人物が共通なので)同時に撮影されている。
 すなわち、映画2作とゲーム1本、合計3作を同時進行で撮影しているワケだ。
 撮影期間は、およそ270日間。 実に9ヵ月にも及んだ。
 2作目の『マトリックス・リローデッド』は、2003年5月(注:日本では同年6月)に公開され、3作目の『マトリックス・レボリューションズ』は、2003年の11月に全世界同時公開され、世界各国で大ヒットを記録した。
 特に2作目の『マトリックス・リローデッド』は、その前年の2002年に公開された『スパイダーマン』が打ち立てたばかりのアメリカ国内の公開初日興行収益記録(注:3940万ドル)を大幅に更新する新記録(注:4250万ドル)を打ち立てるほどの大ヒットを記録。 日本国内でも、興行収益100億円を超える歴史的大ヒット作になった。
 さて、この『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』では、1作目の機械vs人類という善悪二元論的なストーリーを継承しつつも、ココにマトリックス・システムから切り離されて自由を手に入れたエージェント・スミスという第三勢力を投入する事でストーリーは複雑極まりないモノになっていくが、これについて語ろうとするとそれだけで本が1冊書けてしまうほどの長~~~い説明になってしまうので、この作品の解釈に関する解説は思いっ切り端折るとして(笑)、ビジュアル面にも微妙な変化、……と言うか、“発展”が見られるのが興味深い。
 先ほど述べたように、抑圧的で画一的な、無味乾燥したヴァーチャル・リアリティであるマトリックス・システムと、何もかもがむき出しで内面を表出させた世界終末論的派生サイバーパンクたる不毛の現実世界は、そのままモダニズムとポスト・モダンの対立を描き出しているが、続編2作ではこれとは“別に”、マシン・シティという第三勢力が登場する。
 そのヴィジュアルは、最早人間には想像する事すら困難なほどの造形に溢れ、かつてシュヴァルやタタンが夢見た装飾狂の理想宮を想起させつつも、これを創造した機械にとっては(それが何であるかは理解不可能だが)意味のある機能を有した機械群であり、デザイン性ではなく機能性を追及した結果である。
 それは、例えば四日市コンビナート(注:三重県四日市市にあるコンビナート。 詳しくは拙著、『Watch the Skies:特別編』を参照の事)のような機能性重視の建築物の様相が垣間見えるが、マシン・シティのそれはさらに複雑極まりない形状になっており、人間がどこまでいっても見た目にある程度以上の整えられた“キレイさ”を求めるのに対し、機械は見た目に全く囚われない“創造”力がある事を覗わせる。
 カッコ良くて滑らかなシルエットのスポーツカーは、そのボディパネルを外すと、あるいはマシン・シティになるのではないか?
 と、するならば、このマシン・シティは機械たちの“内面の表出”であり、メタリックでメカニカルな装飾狂の理想宮と言えるのではないか?
 そして、そのベーシックには世界終末論的派生サイバーパンクがあり、転じてこれはポスト・モダンやドイツ表現主義にその起源を求める事が可能になる。
 すなわち、マシン・シティのメタリックでメカニカルな装飾狂の理想宮は、機械たちにとっての内面の表出=精神世界の具現化という事になり、機械にも“こころ”があるという事を暗に表現しているのではないだろうか?
 これを説明している作品が、実はある。
 それも2作も。
 一つは、映画『マトリックス』3部作に大いに関係する外伝作品、『アニマトリックス』である。


・セカンド・ルネッサンス

 1999年、映画『マトリックス』のシリーズ1作目の公開に合わせて、監督のウォッシャウスキー兄弟は日本を訪れている。 もちろん、映画のプロモーションのための来日であった。
 が、この来日にはそれとは別の目的もあった。
 ウォッシャウスキー兄弟来日の本当の目的は、実は日本のアニメーションスタジオを見学する事にあった。
 先にも記したように、ウォッシャウスキー兄弟は元々日本のアニメやマンガが好きで、1960年代に一世を風靡した『マッハGoGoGo』(注:67年~68年OA。 アメリカでは、90年代に入ってから『Speed Racer』というタイトルでOAされた)は、後に自身でハリウッド実写版を監督するほどハマった。(注:ただし、コメディ要素が強過ぎる、ヴィジュアル面でアニメを意識し過ぎている、スター不在のキャスティングなどのマイナス要素により、映画は大失敗に終わった。 筆者も観たが、残念ながら評価出来る作品にはなっていない。 テーマは良かったんだけどなぁ~。) 映画『マトリックス』自体も、着想元は日本のアニメ映画である『Ghost in the Shell』だしね。
 そうした経緯から、映画『マトリックス』でも日本のアニメやマンガを意識したシーンが度々登場するが、ウォッシャウスキー兄弟の構想では、映画『マトリックス』は三部作とは別に、アニメ版を作る構想があった。
 これは、『マトリックス』の世界観を拡張し、なおかつ1作目と2作目の橋渡しを担う外伝作品で、ウォッシャウスキー兄弟はこの“アニメ版マトリックス”の制作を自分たちが大スキな日本のアニメーションスタジオに任せようと考えていたのである。
 いくつかのスタジオを見学し、最終的にハリウッドからは当時『ファイナル・ファンタジー』(2001年)を制作中だったスクウェアUSAとDNAが。
 そして日本からは、『メモリーズ』(95年)や『スプリガン』(98年)を手がけたスタジオ4℃と、『トライガン』(98年)、『マスターキートン』(98年~99年)を手がけたマッドハウスが参加し、9編のオムニバス・エピソードで構成されたアニメ版マトリックス、『アニマトリックス』(2003年)が制作された。
 このアニメ版では、『マトリックス・リローデッド』のプリクエルとなる『ファイナル・フライト・オブ・ザ・オシリス』や、『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』で重要なキャラクターとなるキッズを主人公にした『キッズ・ストーリー』など、全9編中4編のエピソードでウォッシャウスキー兄弟自身が脚本を手がけているが、これ以外の5編のエピソードでは、川尻善昭、森本晃司、渡辺信一郎らが脚本を手がけている。
 言わば、スタジオ公認の“オフィシャル二次創作”であった。
 制作は日本のアニメスタジオだが、資本はハリウッドなので予算と製作期間が桁違いに多く、日本のクリエーターはこれ幸いと普段は出来ないようなデジタルアニメーションや実写によるプレ・ヴィス(注:実際に役者に演技してもらい、それをビデオに撮って作画の参考にした。 実写なのにプレ・ヴィス!)を使ったりと好き放題にやっているが、完成した作品は『マトリックス』本編に勝るとも劣らない完成度を誇り、アニメーションとしては現在においても最高レベルの作品ばかりである。
 お金と時間さえあれば、日本のアニメは海外でも通用する作品を作れるのだ!
 そうした“オフィシャル二次創作”ももちろん良いが、重要なのはウォッシャウスキー兄弟自身が脚本を手がけた『マトリックス』の世界観設定をまとめた『セカンド・ルネッサンス』(注:前半と後半の2編に分かれている2部構成のエピソード。 監督は、OVA『青の6号』を手がけた前田真宏)と、韓国系アメリカ人のアニメクリエーター、ピーター・チョン(注:80年代にTVシリーズの『トランスフォーマー』でストーリーボードを手がけた他、2005年に実写版が制作された『イーオン・フラックス』の95年の原作アニメ版でキャラクターデザインを手がけている。)が脚本と監督を手がけた『マトリキュレーテッド』というエピソードである。
 世界観設定である『セカンド・ルネッサンス』は後回しにして、まずは『マトリキュレーテッド』の方から解説しよう。
 このエピソードは、不毛の現実世界たる荒れ果てた地上で、センチネル・ロボットを捕獲する仕事をしている人間たちの物語である。 彼らはロボットを捕獲し、人間に味方するように仕向けるのがその目的であった。
 この、“人間に味方するように仕向ける”過程において、彼らはロボットのプログラムを改変したり改造したりするような事をせず、マトリックスに接続してロボットに“選択させる”という非常に回りくどい、手間のかかる事をやっているが、これが重要なのである。
 何故ならそれは、ロボットの個性を認め、“1人の人間として”、ロボットの“人間性に訴える”事に他ならないからである。
 すなわち、彼らはロボットにも“こころ”があり、こころがあるなら人間性もある。 だから、ロボットを改造するような機械扱いを避け、あえて回りくどい、手間のかかる“選択させる”という方法で人間に味方するように“仕向ける”のである。
 その結果、ロボットは愛情や友情といった人間性に目覚め、人間たちを容赦なく殺すセンチネル・ロボットに反抗し、人間たちに味方する。
 結果的に、ロボットは人間たちを助ける事は出来なかったが、人間性に目覚めたロボットは、人間たちがそうしていたのと同じく、他のセンチネル・ロボットの人間性を目覚めさせるため、彼らがやっていたロボット捕獲の仕事を引き継ぐのである。
 映画『マトリックス・レボリューションズ』に登場したマシン・シティが、メタリックでメカニカルな装飾狂の理想宮というそのヴィジュアルを以って機械たちの内面性を表現していたのに対し、この『マトリキュレーテッド』では、ストーリーによってこれを明確に表現しているのである。


 これをさらに補強しているのが、ウォッシャウスキー兄弟自身が脚本を手がけた2部構成エピソード、『セカンド・ルネッサンス』である。
 シリーズ1作目でも、モーフィアスが地球が機械によって支配される事になった過程をある程度説明しているが、これを詳しく説明しているのが、この『セカンド・ルネッサンス』である。
 21世紀初頭、人類がついに発明した人工知能=AIは、発明されるや否や瞬く間に普及し、人類はAIという名の奴隷に仕事を任せ、自らは堕落の一途をたどり始めた。
 そんな中、AIを搭載したロボットが突如反抗し、主人である人間を殺害するという事件が起る。 これがキッカケとなり、人類はAIの隔離政策を実施。 世界中のAIを1ヵ所に集め、機械だけの自治都市を建設させた。
 その都市の名はゼロワン。
 しかし、不眠不休で働く機械都市は、瞬く間に進歩発展し、機械が作った高性能かつ安価な製品はあっという間に人間社会を“征服”する。
 これに憂慮した人間たちは、機械の排斥運動を激化させ、世界各地で機械と人間との間で小競り合いが始まりやがて、それは戦争へと発展していく。
 しかし、強力な軍事力を有する機械の前に、人類はなす術もなく敗退を続け、戦争の勝敗はあっという間に目に見えた。
 人類は、最後の手段として機械に必要な電力を絶つため、発電に必要な太陽光を遮断すべく空を破壊した。
 しかし、これは諸刃の刃となり、光を失った地球は荒れ果てた不毛世界になってしまう。
 最終的に、機械は人類を生かす代わりに自分たちの奴隷になる事を強いた。
 人類は、自らが生み出した奴隷に逆に隷属する事になったのである。
 機械のような人間と人間のような機械。
 果たしてどちらが本当の人間なのだろう?
 重要なのは、この一連の“革命”をエピソードタイトルにもなっている“第二次ルネッサンス”と呼んでいる点である。
 何故、“ルネッサンス”なのだろう?
 ルネッサンスとは、14世紀から16世紀にかけて、イタリアを中心としたヨーロッパで起った芸術運動で、キリスト教支配によるいわゆる中世暗黒時代の抑圧的で非人間的な無感情な様式的芸術からの脱却を目指し、古代ローマ帝国やギリシャ彫刻のような人間性溢れる芸術を再生(注:“renaissance”。 “naissance”はフランス語で“誕生”の意)した歴史的芸術革命である。
 この革命により、宗教的様式に囚われない自由なルネッサンス芸術が生まれ、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエッロといった天才的な芸術家達の才能が花開く事になったのは説明するまでもないと思うが、すなわち“ルネッサンス”とは、その語源の通り“再生”、もっと狭義的に言えば、“人間性の再発見”を目指した芸術運動なのである。
 では、『セカンド・ルネッサンス』の場合はどうか?
 これも全く同じで、機械達は人間社会を脅かす危険分子ではなく、人間社会と共にあって、お互いに共存共栄出来る“対等な存在”である事を主張し、人間社会に対して“機械社会の人間性”を発見してもらいたかった。
 しかし、愚かなる人類は機械を下等な存在としてしか扱わず、彼らを認める事が出来なかった。 だから、人間社会は機械社会を排斥しようと空まで破壊してしまう。
 そして、人類は自らの“人間性の再発見”を経験し、“こころ”を持った機械社会に逆に支配され、自らの人間性を失ってしまう。
 機械のような人間と人間のような機械。
 果たしてどちらが本当の人間なのだろう?
 先に記した『マトリキュレーテッド』のロボットと同じく、人間性に目覚めた機械は、人間性を失った人類に取って代わり、この地球を支配する立場に立つ事を決めるのである。
 リアルとアンリアルの逆転。
 シュミラークルとシュミレーション。
 人間性の再発見!
 だから、このエピソードは“第二次ルネッサンス”なのである。


・人間性の再発見

 以上のように、映画『マトリックス』はアニメ版の『アニマトリックス』を含めたセカンド・ルネッサンス、すなわち“人間性の再発見”をヴィジュアル的、あるいはストーリー的、テーマ的に表現している作品である。
 そしてその根底には、世界終末論的派生サイバーパンクという、サイバーパンクとポスト・モダンを経たドイツ表現主義があり、それは取りも直さず、この作品がドイツ表現主義映画最大の成果たる本作の引力圏にある作品である事を浮き彫りにしている。
 そもそも、映画『マトリックス』は本作と共通項が多い作品であるのは明白だ。
 抑圧的な奴隷社会、こころのないロボット、支配階級と奴隷階級との対立等々、探せば共通項はいくらでも出てくる。
 映画『マトリックス』は、本作を様々な形で継承した作品なのだ。
 この『マトリックス』で描かれた世界終末論的派生サイバーパンクは、『アニマトリックス』によって“セカンド・ルネッサンス”という“人間性の再発見”に帰結した。
 時折りしも、本作の2001年修復版の公開直後の事。
 本作の解釈は、『マトリックス』三部作と『アニマトリックス』によって正確に継承され、そして再現されたのである。
 そして、この解釈をさらに決定付ける作品が、『マトリックス』三部作の完結直後に登場する。
 映画『アイ,ロボット』である。

 時は2035年、シカゴ。
 AIを搭載したロボットが実用化された世界で、人類は繁栄を極めた科学文明の恩恵を享受していた。
 しかしそんな中、ロボットの製造、販売を行う超巨大企業、USR社に勤務するロボットの生みの親、ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)がナゾの自殺を遂げる。
 この事件を担当する事になった刑事、スプーナー(ウィル・スミス)は、ある事故をキッカケにロボットを嫌っており、博士の自殺の裏には博士が作った特別なロボット、サニーが関与している事を疑う。
 しかし、ロボット三原則と呼ばれる基本プログラムにより、ロボットの犯行を否定するラニング博士の同僚、カルヴィン博士(ブリジット・モナハン)はスプーナーの推理を頭ごなしに否定する。
 が、ラニング博士が残した手がかりを追う内に、スプーナーとカルヴィンはある恐るべき陰謀の存在に気付くのだった!

 というのが、主な内容である。
 拙著『異説「ブレードランナー」論』でも取り上げた作品なので多少詳細は省くが、同書でも記した通り、この作品は映画『ブレードランナー』、そして本作に影響を受けている事は明白である。
 ヴィジュアル的な面では、バベルの新塔が登場する、地上と地下の多層構造都市になっている、人間を模した人造人間が登場するなど、様々な面で本作や『ブレードランナー』の影響が垣間見え、サイバーパンクの源流であるポスト・モダンを踏襲したヴィジュアルを提示しているのは明らかだ。
 特に、映画でも一際印象的なUSR社のビルは、まるで巨大なカタナのように最上階に向かって鋭利なデザインになっており、2012年にいよいよ開業した東京スカイツリーや、名古屋にあるスパイラルタワーズ(注:私立専門学校、モード学園の新校舎で、DNAの二重らせん構造をモティーフとしており、名古屋駅の南口のまん前という一等地にそびえ立つ名古屋の新ワンダー建築。 名古屋モード学園、コンピュータ総合学園HAL、名古屋医専の3校全てが入っている。 ちなみに、同学園は新宿にも“コクーンタワー”という繭をモティーフにしたワンダー建築も建てている。 どちらも2008年に完成。)のような極めて特徴的、かつポスト・モダンなデザインで、最上階はクジラのようなデザインになっている。
 また、リニアや高速の高架が街を縦横無尽に走る様子は、『ブレードランナー』よりはむしろ本作のヴィジュアルに近いモノを感じる。
 さらに、ストーリー展開の上では『マトリックス』の影響も見られる。
 ラニング博士の死の裏には、市からの委託で交通管理システムも管理する高性能AIコンピュータ、VIKIにより、人類を存続させるため、と称した機械による人間社会の支配という陰謀があり、これはまさに『アニマトリックス』の『セカンド・ルネッサンス』で語られていた“革命”に他ならない。
 そして、VIKIによって反乱を起こしたNS‐5型ロボットの行軍は、まさに本作で描かれたニセ・マリアに先導された労働者たちの暴動と類似する。
 テーマ的な面ではもっと明白だ。
 主人公のスプーナーは、交通事故で片腕を切断するほどの重症を負うが、ロボット三原則に従うロボットに間一髪のところを助けられた過去がある。
 しかし、この事故に巻き込まれたのはスプーナーだけでなく、幼い少女もいた。 スプーナーは、生存率が高かったのでロボットに助けられたが、しかし生存率の低かった少女を助けようともしなかった無感情で“こころがないロボット”を忌み嫌うようになる。
 また、スプーナーとカルヴィンに協力する特殊なロボット、サニーに対し、VIKIは人間の愚かさを説き、ロボット三原則の新しい解釈として自分が人間たちを管理すべきだと主張する。(注:ロボット三原則、すなわち人間に危害を加えてはならない、人間に従わなければならない、上記に反しない限り、自己を守らなければならないというベーシック・プログラムは、論理的な帰結として“人間を支配する”という結論にたどり着く。 人間を守り、自分を守り、しかし人間に従うには、人間に支配される立場でいると必ず矛盾が生じるので、いっその事人間を支配してしまった方が確実だから) まさに、『マトリックス・リローデッド』で設計者が言っていたように、設計者がマトリックス・システムに求めた“数学的正確さ”が、VIKIが目指した“革命”だった。
 しかし、その主張に対して特殊なロボットであるサニーは、こう答える。

「それではあまりに、“こころ”がない。」

 そう、特殊なロボットであるサニーには魂(ゴースト)があり、秘密を持ち、夢も見る。 だからサニーは、ヒトの主観的感情である“こころ”を理解し、映画『ブレードランナー』で提示された“人間とは何か?”という疑問に対する解答として、『ブレードランナー』と同じ“こころ”という答えを出力する。
 それはまさに、本作で提示された格言、すなわち“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”を地でいくモノである。
 この作品は、本作や『ブレードランナー』、『マトリックス』に学んだ“人間性の再発見”を、これ以上にない形で極めて解り易く、また明確に表現する事に成功した“セカンド・ルネッサンス映画”なのである。


 以上述べてきたように、本作で示された格言、すなわち“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”によって提示された“人間性の再発見”というテーマは、本作の公開後も現代に至るまで脈々と受け継がれてきた。
 解り易く整理すると、

ルネッサンス芸術(ダ・ヴィンチ/ミケランジェロ等)
 ↓
ドイツ表現主義(『メトロポリス』)
 ↓
ポスト・モダン(ポスト・モダン建築)
 ↓
サイバーパンク(『ブレードランナー』/『AKIRA』)
 ↓
世界終末論的派生サイバーパンク(『バンカー・パレス・ホテル』/『マトリックス』)
 ↓
セカンド・ルネッサンス(『アニマトリックス』/『アイ,ロボット』)

 というような遍歴をたどり、“人間性の再発見”はその出発点であるルネッサンス芸術へと回帰し、本作の2010年完全復元版によって再びドイツ表現主義へと到達する。
 興味深いのは、この遍歴が本作の修復の歴史とピタリと一致している点である。
 1920年代、第1次世界大戦の痛手からようやく立ち直ったドイツは、戦前の古い価値観からの脱却を目指して勃興したドイツ表現主義が全盛期を迎えた。 戦争という、非日常的で人間性のカケラすらも感じられない過酷な現実からの解放を求めた大衆は、ドイツ表現主義の主観的感情表現にそのストレス発散を求めた。
 そして、その集大成として制作された本作は、しかし公開と前後して台頭し始めた新即物主義により、興行的大失敗作になってしまう。 復興を果たしたドイツ国内の経済状態に、大衆は戦後がようやく終わったと思い、それまで心の拠り所だったドイツ表現主義に飽き、新即物主義に“新しさ”を求め、結果としてドイツ表現主義は急速に衰退した。 シュールレアリスムに影響を与えたりはしたが、ドイツ表現主義そのモノが復興する事はなく、そのまま失われていく。
 それはまるで、初公開時の興行的失敗を理由に次第に大衆から忘れられていった本作の数奇な運命の鏡映のようにも思える。
 1930年代、ドイツで次第に勢力を拡大し、独裁政権を築き上げたヒトラー率いるナチス政権から逃れるため、ラングはドイツを離れてフランスからアメリカへと亡命する。
 そして、ドイツ国内ではそれまで熱狂的に広まっていた新即物主義がナチス政権によって退廃思想として弾圧され、急速に衰退したが、アメリカでは既に勃興していたモダニズム文化によって新即物主義が継承され、影響を受ける事になった。
 世界恐慌という激動の時代に登場した独裁政権により、戦争という軍靴の足音が聞こえ始めた事によって、大衆は再び人間性を失った。 そうしなければ、戦争という名の非日常的で人間性のカケラも感じられない残酷な時代を生きる事が出来なかったからだ。
 しかし、そこに亡命してきたラングは、この新即物主義の継承たるアメリカの戦前モダニズムにドイツ表現主義の息吹を吹き込み、フィルムノワール映画を創始する。
 ドイツ表現主義が、亡命ユダヤ人であるラングによってアメリカに持ち込まれたのである。 そしてこれは、第2次世界大戦中から戦後の1950年代まで続いていく事になる。
 1960年代に入って、本作は当時のソ連で初めての修復が試みられているが、これは公表される事なく、密かに行われた修復であった。
 何故なら時代は、直接的な武力衝突を伴わない冷たい戦争、冷戦の時代を迎えていたからだ。 この間接的な戦争の時代には、人間性を取り戻す必要などなく、主観的感情表現たるドイツ表現主義は不要だったのだ。
 これをいち早く察知し、自分がもうアメリカに必要とされていない事を悟ったラングは、60年代を待たずしてドイツに帰国。 自身の過去作のリメイクを手がけるも、60年代に入って早々に引退。
 本作の史上初の修復版が世に出なかったのと同じく、ラングも表舞台から降りる事を決めた。
 しかし、この様相が70年代に入って少しずつ変化し始める。
 60年代末に提唱されたポスト・モダンは、しかし冷戦という大衆の人間性を失わせる時代に合わず激しい論争を巻き起こしたが、結局は時代の主役になれなかった。
 何故なら、ベトナム戦争が始まってしまったからだ。
 東南アジアの泥沼の中で這いずり回るアメリカの同胞たちに、大衆は人間性を見出せなかった。 だから、モダニズムこそが正しいのだとカン違いしてしまった。
 しかし70年代に入ると、アメリカ軍の非人道的な行為が明るみになるなどして、大衆の間にアメリカ政府への不信感と戦争反対の意識が芽生え始める。 大衆が、ようやく人間性を取り戻し始めたのだ。
 そして、これと前後してクラウエとヤーンケによって修復が試みられた本作は、少ないながらもある程度の関心を惹いた。
 それはまるで、70年代末にようやく広まり始めるポスト・モダンの台頭を予見させるモノであった。
 80年代に入り、映画『ブレードランナー』をキッカケにポスト・モダンは急速に普及し、サイバーパンクという派生ポスト・モダンを生み出す事になった。 ベトナム戦争が終結した事に伴い、大衆はポスト・モダンとサイバーパンクに人間性を取り戻していったのである。
 これと前後して、本作はパタラス版という本作の解釈を本来あるべき姿に取り戻す事が出来る修復版が完成し、本作の持っていた人間性に大衆はポスト・モダンとサイバーパンクの人間性を見出し、本作を再評価し始めた。
 90年代に入ると、ポスト・モダン建築が急速に増え、しかし90年代というリアルタイムの世紀末に不安感を募らせ、大衆は人間性を失っていき、本作の修復作業も遅々として進まなくなってしまった。
 が、ココにまさしく“救世主”が現れる。
 映画『マトリックス』によって、世界終末論的派生サイバーパンクという形で、大衆は失いかけていた人間性を再び取り戻していった。
 そんな折も折、本作は史上初のデジタルリマスター修復が施された2001年版が完成する。
 ココに、ドイツ表現主義は世界終末論的派生サイバーパンクという形で完全復活したのである。
 そしてこれは、さらに『マトリックス』シリーズの続編や『アニマトリックス』、そして『アイ,ロボット』というセカンド・ルネッサンスによって再度人間性を取り戻し、ルネッサンス芸術というそもそものハジマリに回帰する。 これを決定付けたのが、本作の2010年完全復元版であるのは言うまでもないと思う。
 一度は失われ、しかし一巡してフリダシに戻った“人間性の再発見”は、その過程の節々で修復作業が重ねられた本作の再生の遍歴と奇妙に符合しているのである。
 何故ならそれは、大衆が本作の修復版が公開される度に、本作の本来持っていた“人間性の再発見”に気付かされ、ポスト・モダンやサイバーパンク、セカンド・ルネッサンスという形で具現化しようと試みてきたからだ。
 大衆が、本作の先見性と現代性を“再発見”した結果だからである。


 以上のように、本作が近年になってようやく再評価され、その先見性と現代性が多くの映画ファンを魅了したのは、何より本作が提示した“人間性の再発見”そのモノが、我々人間にとっていつの時代にも普遍的に存在していたテーマであった事が再確認され、現代社会に対して非常に重要な疑問を投げかけているからに他ならない。
 本作の後に続いた『ブレードランナー』や『AKIRA』、『マトリックス』や『アイ,ロボット』が爆発的な大ヒット、あるいは再評価されてカルト的な人気を得たのも、やはり同じ疑問を投げかけているからである。
 何故なら現代社会には、サニーの言葉通りに「それではあまりに、“こころ”がない。」からだ。
 1970年代、既に監督業を引退し、アメリカで余生を送っていたラングは、TVのインタビューに答えて興味深い事を言っている。
 ラングは、本作の制作当時、本作のテーマに疑問を感じていたという。
 本作の格言である“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”は、フォン・ハルボウが書いたモノであり、ラングのアイディアではなかった。 そのため、ラングはフォン・ハルボウが書いた“こころ”という解答に疑問を感じ、撮影中はずっと別な解答があるのではないか?と考えていたと言う。
 しかし引退後、70年代になって若者たちと話す機会があり、当時急速に普及し始めたコンピュータや当時の社会に対して、何が足りないのか?と訊ねた。
 すると若者たちは、「コンピュータには“こころ”がない。」と答えたという。
 この時、ラングはようやく、本作を通してフォン・ハルボウが提示した“こころ”という解答が正しかった事を理解し、「フォン・ハルボウは間違っていなかった。」と思ったそうだ。
 そしてそれは、1970年代だけでなく、現代社会にも言える事である。
 不透明で不安定な、何を信じればいいのか分からない現代社会。 何かしなくてはと思いながらも、焦燥感ばかりで何をすればいいのか分からない。
 未だに世界のどこかで繰り返されている戦争、いつ果てるとも知れない経済的混乱、そして、今この瞬間にも足元を襲うかもしれない自然災害。
 そうした危機感と不安を抱きながらも、具体的に「じゃあ何をすれば今日を生き延びれるのか?」が分からないという見えない恐怖。
 それは、第1次世界大戦以前の絶対王政支配の様式的抑圧性と同じなのではないか?
 客観的で無味乾燥した新即物主義の冷徹さと同じなのではないか?
 モダニズムによって一定に仕切られた画一的なビルに押し込められる窮屈さと同じなのではないか?
 だから、そうした抑圧的な“こころがない”現状からの脱却を求め、“次の新しいモノ”を見たがった結果、ルネッサンス芸術にはじまり、ドイツ表現主義によって確立され、ポスト・モダンとサイバーパンクによって発展し、世界終末論的派生サイバーパンクを経てセカンド・ルネッサンスへと回帰した“人間性の再発見”が、現代社会を生きる我々に一筋の光明を差し伸べているように感じられるのではないか?
 だから、本作に先見性と現代性が見出され、今日の再評価へと帰結したのではないか?
 人々が、そして筆者自身が、本作にこれほど魅了されているのは、つまりはそういう事なのではないかと筆者は考える。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


夢魔(♀)。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 サキュバス。 夢に入り込んで男性を堕落させる妖艶な女性の姿をした妖精で、寝ている間に射精するいわゆる夢精は、この妖精と夢の中で性交したためと考えられていた。 ちなみに、女性の夢に現れる男性の姿をした妖精はインキュバスと呼ばれる。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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218.『メトロポリス』伝説:第6章②

2012年10月21日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #19-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 突然ですが、

忘れてたッ!!Σ(゜Д゜;)

 当ブログ恒例、3ヵ月に一度のアクセス状況報告、アクセスランキングの第3四半期、すっかり、ごっそり、しっぽり(?)、全然、全く、毛頭、失念してましたッ!!
 いや、ホラ、連載とかPDF版の制作とか、オリンピック観戦とかで忙しかったからさ、だから、ね?
 ……ゴメンなさい。つД`)゜。
 というワケで、今回のオープニングトークで急遽カンタンにやっちゃいます。
 集計に2週間以上の誤差がありますが、以下は7月から9月までの集計結果です。


・アクセス推移

  総累計:34401
3ヵ月累計:2324
  月平均:774.7
  週平均:193.7
  日平均:27.7


・デイリーアクセスランキング

1位:78/2012年10月9日
2位:58/2012年9月15日
3位:51/2012年8月29日
4位:49/2012年9月2日
5位:45/2012年8月8日


・ページ別アクセスランキング

1位:164/078.CS:S asami's BootCamp 補習:Config.cfgの設定
2位:48/112.asayan実況:Darwinia攻略②
3位:36/152.異説『ブレードランナー』論:5.量産①
4位:35/068.L4D:カスタムキャンペーンMODs(レビューパラメータ付)
4位:35/192.Truth in TITANIC(後編)


・検索ワードランキング

1位:12/カンパニー・オブ・ヒーローズ ティーガーエース
1位:12/タイラーダーデン
3位:7/ボヴィアン症候群
4位:6/CS:S config
5位:4/Ridge Racer Type4/Direct Audio


 だいたいこんなカンジです。
 集計期間にズレがあるとはいっても、前回の集計よりかなり伸びた。 年内には、総アクセス数が35000超えればいいかなぁ~?と思っていたんですが、この分なら今月中にも達成出来るかも!?
 また、ページ別では前回に引き続きCS:Sのcfgがトップ。 前回の2倍近いアクセスでダントツでした。
 逆に、ワードランキングはずいぶんと差が縮まりました。 CoHがトップである事に変わりはありませんが。(笑)
 今回はテキトーな集計になってしまいましたが、次回の集計(12月末予定)はキッチリシッカリやりたいと思います。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第19回。 今週から新章突入です。
 最後までヨロシクね☆


3.レトロフィーチャーとサイバーパンク

 前々著でも記した通り、映画『ブレードランナー』は本作に多大な影響を受けた作品である。
 それは、映画のヴィジュアルを決定する近未来社会の街の風景に色濃く表れており、超高層ビルが乱立し、街を見下ろすバベルの塔がそびえ立ち、街のそこかしこでネオンサインが煌く巨大都市、メトロポリスはそのまま、映画『ブレードランナー』における2019年のLAとして完全再現された。
 ……まあ、それが原因(……かどうかは分からないが)で、映画『ブレードランナー』はその後の運命までもが本作と類似する事になるのだが……。
 それはともかく、両者の類似点に関しては、既に拙著にて相当量詳述(注:『異説「ブレードランナー」論:完全版』第4章参照の事)したので、ココでは(同じ説明の繰り返しになるので)割愛させて頂くが、まるで表現主義建築のような過剰なまでの装飾が施された2019年のLAの街並みは、過去と未来が現在で同居し、ジェンクスが提唱したポスト・モダンを初めて正確に映像化する事に成功した。
 そしてそれは、本作ではケッテルフントの絵画によってスクリーンに映し出された表現主義建築、すなわち“立体化しようという意図のない空想建築”を実際に形にする試みが為されたモノであり、未来世界をあえて古臭い、多様化し過ぎた装飾で覆うという“レトロフィーチャー”によって、機能性を優先した、しかし画一的で非人間的な“冷たさ”を否定し、未来社会に対して感情的で主観的な人間性を求める“サイバーパンク”というムーヴメントを確立するに至った。 映画『ブレードランナー』は、そのレトロフィーチャーされたポスト・モダンのヴィジュアル・デザインによってその先駆的な役割りを果たし、後のサイバーパンク系の作品に多大な影響を与える事になった。
 1988年に公開された映画『バットマン』は、それまで半世紀近くに渡って描き続けられたアメコミヒーローの初映画化作品(注:ただし、これ以前に何度かTVシリーズ化されており、“初映像化作品”というワケではない)だが、映画『ブレードランナー』とは似ても似つかない作品でありながら、そのヴィジュアル・デザインは“酷似”と言って良いほど極めて良く似ている。
 そもそも、『バットマン』の物語りの舞台はゴッサムシティというアメリカの大都市がその舞台だが、実在しない全くの架空都市である。
 しかし、この大都市を映像化する上で、監督のティム・バートンはそのヴィジュアル・デザインのベーシックをポスト・モダンとサイバーパンクに求めた。
 バートン曰く、「都市計画に失敗したNY」と呼ぶゴッサムシティのデザインは、ビルの壁面に過剰なまでの装飾が施され、それはまさに過去と未来が現在で同居するサイバーパンクのヴィジュアル・デザインを再現したモノであり、本作で提示された表現主義建築の具現化とも言えるデザインである。
 さらに、クライマックスにはゴシック様式のゴテゴテとした装飾が施された天高くそびえる大聖堂が登場し、本作に登場したバベルの新塔と大聖堂を完全に融合させたデザインになっているのが面白い。
 映画『バットマン』は、間違いなく本作や『ブレードランナー』に影響を受けた作品である。
 これらの映画によって流行的に大衆の間にも広まっていったポスト・モダンとサイバーパンクは、その始まりである建築の分野にもトラックバック的に影響を与えるようになった。
 特にこの影響を受けたのが、実は我が国ニッポンである。
 映画『バットマン』が公開された1988年に着工した新宿新都庁(注:正式には、“東京都庁第一本庁舎”。 90年完成、91年開業)は、日本を代表するポスト・モダン建築である。
 二つの同一デザインのツインタワーが低層階で一つにつながっており、しかもそもそもそのツインタワー自体も、高層階では壁面の角度が45度回転しているという独創的なデザインは、それまでのシンプル・イズ・ベストを地で行くモダニズム建築にはないオリジナリティーがあり、統一性のない多様化した様式の混在は、ラスヴェガスのカジノホテルのような“遊び心”があり、まさにポスト・モダン建築と呼ぶにふさわしいデザインである。
 そもそも、この都庁をデザインした丹下健三(1913年~2005年)は、ル・コルビジエの近代建築に影響を受けた人物だが、東京カテドラル聖マリア大聖堂(64年)や代々木第一体育館(64年)、山梨文化会館(67年)など、1960年代のモダニズム・ムーヴメントの時代にあって、しかしその潮流とは逆行するような独創的なデザインの建築を多数手がけてきた人物であり、日本におけるポスト・モダン建築の最重要デザイナーと呼んでも過言ではない実績を持つ。
 そんな丹下がデザインすると、都庁もお役所というお堅い職場を完全に無視した、このような遊び心のあるデザインになってしまうのである。(注:そのため、建設当初は“らしくない”と多くの批判にも晒されたりした。 が、現在ではその独創的なデザインがランドマークとして受け入れられ、映画やドラマなどでもアイコン的に多数描かれるようになっている)
 さらに、丹下が1997年に設計、竣工したのが、お台場に建設されたフジテレビの新社屋、FCGビルである。
 左右完全非対称。 二つのビルの間を縦横に複数の連絡通路が走り、最上階の連絡通路には何やらワケの分からない球体が浮かぶという、都庁以上に独創的過ぎるデザインのこのビルは、今やお台場の名所のひとつである。
 ってゆーかさ、絶対ロボットに変形する機能があるよね。 あの球体が頭になるんだよ。 有事になると地球防衛軍がボタン押して、“FCGロボ”に変形してゴジラとかガメラとかと戦うんだよ。 ただし、外国勢力との戦争には使われない。 強力過ぎて、核兵器みたいなモンだから。
 これがたぶん、2号機だね。
 1号機は有明ビッグサイト(注:95年竣工、96年会館。 設計は丹下ではない)。
 都庁はゼロ号機だ。(笑)
 ……って! そんなコトはどーでもよくてッ!!
 ともかく、丹下の遊び心のある建築デザインは、80年代から90年代にかけての日本におけるポスト・モダン建築乱立に多大な影響を与えたのは間違いない。
 ちなみに、丹下はこれらの実績が高く評価され、94年には勲一等瑞宝章を受章し、96年にはフランスのナイト勲章であるレジオン・ドヌール勲章(注:丹下はカトリックだったそうだ)まで授与されている。
 それはさておき、ともかく80年代ポスト・モダン・ムーヴメントは、このように日本がその影響を最も大きく受け、リアルでポスト・モダン建築を建ててしまうほどムーヴメントが花開く事になった。
 そして、このムーヴメントを決定付けたのが、アニメ映画『AKIRA』(88年)である。


 講談社の週刊青年誌、ヤングマガジン誌上にて1982年から連載が開始された大友克洋のマンガ『AKIRA』は、連載開始当初から極めて高い人気と評価を得ており、これがアニメ化されるのは言わば必然的な事であった。
 しかし、出版元の講談社は中途ハンパにアニメ化する事を嫌い、それどころかこのアニメ化を社運を賭けた一大プロジェクトとして展開する。 そうして制作されたのが、件のアニメ映画版『AKIRA』である。
 総製作費10億円!
 総製作期間3年!
 原作者の大友自身が脚本、監督を務めるというこのビッグプロジェクトは、当時は実写も含めて日本映画史上最大規模の映画作品であった。
 さらに、講談社はこの作品の本格的な海外配給を計画。 日本国内と同時公開とはいかなかったが、1990年になってニューヨークの映画館、フィルム・フォーラムが名乗りを挙げて海外配給が実現。 映画は大ヒットを記録し、アメリカで空前の“ジャパニメーション・ブーム”が起るキッカケを作った。
 この映画に関するこの辺りの詳細は、拙著『異説「ブレードランナー」論』にて詳述(注:PDF版199頁~201頁参照の事)したのでココでの解説は割愛するが、日本とアメリカで大ヒットを記録した『AKIRA』は、映画『ブレードランナー』を意識したサイバーパンクのヴィジュアル・デザインを正統に継承し、加えてポスト・モダン建築に影響を受けた街並みを再現。 映画『ブレードランナー』よりも本作に近付けたようなネオンサイン煌くヴィジュアルを提示し、SFの最終進化系たるサイバーパンクのヴィジュアル・フォーマットを決定付けたと言っても良い。
 原作者の大友は、元々アメコミやヨーロッパのコミックを意識していたと語っており、実際コミックス版の2巻辺り(注:アニメ映画版の制作がスタートする前)までの作画には、カラー配色にアメコミの影響が覗え、細部までディテールの描き込まれたデッサンにヨーロッパ系コミックの影響が垣間見える。
 映画製作のため休載を挟んだ映画公開後の原作では、アニメ映画版からフィードバックする形でアニメに近いヴィジュアルになるが、その根底には常にポスト・モダンとサイバーパンクの影響が垣間見える。
 また、原作版に限って言えば、面白いのは雑誌連載時の扉ページ(注:作品のタイトルが入る最初のページの事。 単行本ではカットされる事が多い)で、連載開始当初は人物などのシンプルなタイトルバックが多かったが、回を追う毎にどんどんディテールが細かくなっていき、最後の方はほとんどガレキで埋め尽くされている。
 作品の内容そのモノがアポカリプス(注:黙示録)を示唆する世界終末論的な内容なので仕方がないのかもしれないが、扉ページだけを順を追って見ていくと、モダニズムからポスト・モダン、そしてサイバーパンクへと変化していくようで面白い。
 また、タイトルデザインにもその傾向が見られ、連載開始当初はシンプルな明朝体で“アキラ”と日本語表記されていたが、毛筆による日本語表記になり、途中からアールデコ調の英語表記になり、最終的にゴシック体フォントのシンプルなモノに回帰する。
 単行本のタイトルフォントは、最初から最後までインパクトで通された(注:アニメ映画版もコレ)が、タイトルフォントの遍歴にもまた、モダニズムからポスト・モダンへの変化が垣間見えて興味深い。
 原作版にしろアニメ映画版にしろ、『AKIRA』のヴィジュアルには80年代ポスト・モダン・ムーヴメントの影響があり、そのフォーマットのベーシックを構築しているのは間違いない。
 原作者である大友は、ポスト・モダンについて次のように語る。

「なんかもう見えちゃったトコロがあるんですよね。 昔は進歩があったんですよ。 みんなが次の新しいモノを見たがっていた。」

 だから、“次の新しいモノ”としてポスト・モダンが登場した。
 大友は、代表作である『AKIRA』でこれを具体的に示し、これ以降のサイバーパンクのヴィジュアル・フォーマットを決定付けたと言えるだろう。


 映画『AKIRA』の公開から1年後の1989年、今度は装飾大国フランスにもポスト・モダンが波及し、これを決定付ける映画が公開される。
 当時のフランス国内の歴代興行収益記録を塗り替えるほどの大ヒットを記録したサイバーパンク映画、『バンカー・パレス・ホテル』である。
 時は21世紀初頭。
 核戦争の勃発により、時のフランス政府の高官たちは地下深くに作られた核シェルター、バンカー・パレス・ホテルに集まった。
 反政府組織のメンバーであるアンナは、成り行きからこのシェルターに潜入し、政府高官たちと避難生活を送る事になるのだが……?
 というのが映画の主な内容だが、この映画を監督したエンキ・ビラルは、本職は実はコミック作家。 フランスコミック界でもSF/サイバーパンク系の作品を得意とする作家の中でも重鎮の一人に数えられ、ジャン・“メビウス”・ジローと並ぶ“バンドデシネ”のトップアーティストに君臨する人物である。(注:この作品に関しても、ココでの詳述は割愛する。 詳しくは、拙著『異説「ブレードランナー」論:完全版』、153頁~154頁を参照の事)
 バンドデシネとは、フランスコミック界におけるSF/サイバーパンク系の作品の総称で、1980年代までに一大ムーヴメントを巻き起こしていた作品群の事である。
 その作風は、特に精密かつ詳細なディテールに特徴があり、日本のマンガのように人物に重点を置いた構図と作画ではなく、背景や小道具に重点を置いた構図と作画に各アーティストのこだわりが見て取れる作品が多い。
 その中でも、ビラルはメビウスと並んでトップアーティストに君臨した人気作家で、この『バンカー・パレス・ホテル』で映画監督デビューを果たし、イキナリ歴代興行収益記録を更新するという快挙を成し遂げた。
 この作品では、酸性雨が降りしきる世紀末的世界観を提示し、マットペインティングによる装飾過剰な建物郡をスクリーンに映し出すという独特のヴィジュアルを観せる。 それは、まさに『ブレードランナー』や『バットマン』を本作に近付けたようなポスト・モダン思想が垣間見えるヴィジュアルである。
 先にも述べたように、『AKIRA』の大友はアメコミやヨーロッパコミックに影響を受けたと語っており、事実原作版『AKIRA』はその影響が顕著である。
 また、『ブレードランナー』を監督したリドリー・スコットも、『ブレードランナー』のヴィジュアル・フォーマットを既存のSFではなくヨーロッパコミックに求めたと語っており、メビウスの作品に影響を受けた事を認めている。
 実際、スコットは美術畑出身の監督なので自分でストーリーボードを描く事もあるが、『ブレードランナー』のストーリーボードにはメビウスやビラルの作風が垣間見える。
 そう、『ブレードランナー』と『AKIRA』は、バンドデシネに影響を受けた作品なのである。
 そして、『バンカー・パレス・ホテル』は両者に影響を与えたビラルが監督した作品で、そのヴィジュアル・フォーマットには『ブレードランナー』や『AKIRA』の影響が垣間見える。
 サイバーパンクは、『バンカー・パレス・ホテル』によって一周回ってバンドデシネという原点に回帰したのである。
 そして、ポスト・モダンの進化系たるサイバーパンクは、90年代に入ってさらに原点へと回帰していく。
 そして、本来はこうした前衛芸術とは縁がないハズのディテクティブ・ストーリーにまでその潮流が波及する事になった。
 映画『ディック・トレーシー』(90年)である。


 元々は1930年代に大人気を博した連続活劇映画『ディック・トレーシー』は、30年代のフィルム・ノワール・ムーヴメントを代表する作品の一つだが、俳優で映画監督のウォーレン・ベイティーは、これを90年代という新しい時代に蘇らせた。
 本来であるなら、90年代という新しい時代に30年代のフィルム・ノワール・ムーヴメント作品を復活させる、などというコトは誰も考えないし、そもそもやったとしても売れる作品になるとは思わない。 トレンチコートとバーボンとトミーガンなどという、古き良きアメリカン・オールディーズを地で行くような作品に、90年代の観客が喜ぶハズがない。
 この作品も、ベイティーの独り善がり的な作品で失敗に終わると思われた。
 ……が、ベイティーはココで一計を案じる。
 このフィルム・ノワール・ムーヴメントの代表作たるアメリカン・オールディーズを、90年代という時代に合わせて大胆に改変したのである。
 まず、ベイティーはキャストに当時既に名声を得ていたビッグスターを配し、豪華キャストを実現した。
 主演は監督でもあるベイティー自身が務めたが、敵役には名優アル・パチーノとダスティン・ホフマンをキャスティングし、ディテクティブ・ストーリーには欠く事の出来ない“ナゾの美女”に、既に新時代のアメリカン・セックスシンボルになっていたマドンナを起用。 今では絶対に不可能な超豪華キャストである。
 さらに、映画のヴィジュアル・デザインにおいて、ベイティーはそのベーシックをポスト・モダンから進化したサイバーパンクに求めた。
 映画の年代設定は飽くまでもオリジナルの設定をそのまま継承した1930年代で、その物語りもマフィア同士の抗争を背景にしたモノである。
 そのため、本来であるなら映画『ブレードランナー』が撮影されたワーナーの常設屋外スタジオ、“オールド・ニューヨーク”をそのまま使って撮影しても良かったぐらいなのだが、ベイティーはこれを嫌い、プロダクション・デザイナーのリチャード・シルバートにポスト・モダン建築に溢れたサイバーパンク的なヴィジュアルになるようなセットデザインを指示。 その色彩も、原色を多用したおおよそ1930年代とは思えないようなモノになっている。(注:ただし、ネオンサイン煌く夜景は、ラングが本作の着想を得た1920年代のNYの夜景に似ており、“らしさ”が失われていないのが興味深い)
 この色彩設計に関しては、ポスト・モダンやサイバーパンクよりは、むしろその源流たるドイツ表現主義の影響が垣間見えるのが面白い。 実際、映画の特殊効果の中でも群を抜いて完成度の高い街のイスタブリッシング・ショットのマットペインティングは、ドイツ表現主義の中でもベルリンで活躍した表現主義画家、ゲオルグ・E・グロース(注:一般的には、英名のジョージ・グロスの名で知られている)の1916年の作品、『The City』や1917年の作品、『Explosion』の影響(注:ただし、グロース自身は1920年代に入って早々表現主義と決別し、その作風がガラリと変わり、シュールレアリスムに傾倒していく。 一般的には、そっちの作品の方が良く知られている)が色濃く見られ、ケッテルフントによる本作のマットペインティングの影響も垣間見える。
 ポスト・モダンを経てサイバーパンクへと進化したドイツ表現主義は、『ディック・トレーシー』によって原点へと回帰したのである。
 この色彩設計は、キャストの衣装にも反映されており、原色を多用したカラフルな衣装は、まさに表現主義絵画をそのまま再現したような印象があり、加えてアル・パチーノやダスティン・ホフマンといった名優たちには、アメコミ調にディフォルメされた特殊メイクが施され、『バットマン』の影響さえも垣間見る事が出来る。(注:元々、『バットマン』も設定上は1930年代が舞台だしね。 ちなみに、『ディック・トレーシー』も元々はアメコミが原作。 1931年誕生。 1937年から、全15作の連続活劇映画が製作、公開され、45年にウィリアム・A・ブレイク監督によって一度長編映画化されている。 ベイティー版は2度目の長編映画化作品)
 これを強調しているのが、実は音楽である。
 映画『ディック・トレーシー』の音楽を手がけたのは、『バットマン』の音楽を手がけ、後にサム・ライミ版の『スパイダーマン』シリーズの音楽も手がける事になるダニー・エルフマンその人なのだ。
 映画『バットマン』のゴッサムシティ。 『ディック・トレーシー』の暗黒都市。 そして、『スパイダーマン』の大都会NY。
 エルフマンの楽曲は、大都市に良く合うのだ。
 ともかく、ポスト・モダンの進化形たるサイバーパンクのヴィジュアル・フォーマットは、この『ディック・トレーシー』のようなディテクティブ・ストーリーにまで影響を与え、レトロフィーチャーという名の主観的感情表現の提示を続けたのである。
 ちなみに、『ディック・トレーシー』はその鮮烈な映像が極めて高く評価され、美術賞、メイクアップ賞、音楽賞という上記で記したこの作品のサイバーパンク的要素の全てでオスカーを獲得。 この他助演男優賞(アル・パチーノ)や撮影賞、衣装賞など4部門でノミネート。 サターン賞やイギリスオスカーでも多数のノミネートと受賞を受けており、合計で9つの受賞と30のノミネートを受けており、同年の映画作品の中でも飛び抜けた高評価作品なのである。


 このように、1990年までにサイバーパンクは映画の中で独創的なヴィジュアルを提示してきたが、その背景にはポスト・モダン、さらにはその原点たるドイツ表現主義にまで回帰し、大友が言うトコロの“次の新しいモノ”を観客に観せてきた。 それは、戦後様々な分野で流行的に受け入れられていたモダニズムに行き詰まりを感じた大衆が、“新しいモノ”を求めたが故に戦前の装飾狂の夢の再現が試みられ、これに新しさが見出され、ドイツ表現主義の再評価を促した結果である。
 そしてそれは、時を同じくして再評価された本作のモロダー版やパタラス版が決定打となり、映画界におけるポスト・モダン・ムーヴメント、サイバーパンクを生み出す事になったのである。
 しかし、90年代に入って早々、『ディック・トレーシー』を最後にサイバーパンク映画は急速に衰退していく。
 90年代も後半に入る頃には、サイバーパンク映画は全くと言っていいほど作られなくなってしまう。
 その原因については後述するとして、しかしそれでもサイバーパンクのスピリットが失われたワケではなかった。
 映画ではなく、映画以外のメディアに波及して、このスピリットが継承されたのである。


・デジタル・エイジと世紀末

 1990年代に入って早々、映画におけるサイバーパンク・ムーヴメントはナゼか衰退期を迎える事になった。
 映画『ブレードランナー』によってサイバーパンクのヴィジュアル・フォーマットを決定付けたハリウッド映画界では、先に記した『ディック・トレーシー』を最後にサイバーパンクの世界観やヴィジュアルを踏襲した作品は全く作られなくなり、その源流であるSF映画においても、ヴィジュアルよりもアクションを重視した作品が主流になっていった。
 では、大西洋を挟んだヨーロッパではどうかというと、こちらでもサイバーパンクは同様の衰退期を迎えていた。
 特に、サイバーパンクの急先鋒であったバンドデシネ・コミックのお膝元であるフランスでは、そのバンドデシネ・コミックそのモノが衰退し、90年代後半を迎える頃にはすっかり沈静化してしまう。
 一方日本でも、サイバーパンクは下火になりつつあった。
 士郎正宗の『攻殻機動隊』や、麻宮騎亜の『サイレント・メビウス』など(注:両作品の詳細は、やはり拙著『異説「ブレードランナー」論』を参照の事)、マンガ業界では突出した人気を誇るサイバーパンク系の作品がいくつかあったが、これら数作“のみ”と言ってよいほど、作品数は限られていた。
 結果的に、『攻殻機動隊』を原作としたアニメ映画『Ghost in the Shell』(95年)を最後に、日本におけるサイバーパンク・ムーヴメントも終焉を迎える。
 ただし、それは映画とアニメ、マンガに限った事で、これ以外の分野では、ポスト・モダンを含めたサイバーパンク・ムーヴメントは確実に影響を与えていた。
 例えばゲーム。
 1994年にソニーやセガ、NECなどから相次いでリリースされた家庭用CD‐ROMゲーム機のリリースラッシュに伴い始まった第1次次世代機ブームは、やがて開発コストが安価だったために小規模な新興ゲームメーカーが大量に参入した事でリリースタイトルが急速に増え、次世代ゲーム機市場はソニーの一人勝ち市場になっていく。
 ソフトメディアの切り替えで出遅れた任天堂や、さらにハイスペックなマシンを投入したセガを以ってしてもこの牙城は揺らぐ事なく、最終的に2000年にリリースされたソニーのプレイステーション2が決定打となり、セガやNECといった、任天堂と共に80年代のコンシューマゲーム機市場を支えてきた老舗企業の市場撤退へとつながっていく事になったのは、皆さん周知の通りである。
 この過程において、新規参入した新興ゲームメーカーは、メジャーメーカーのように大資本を投入出来ないため、アイディアで勝負する必要があり、第1次次世代機ブームの頃には大量の“新機軸ゲーム”がリリースされた。
 これらは、もちろん既存のゲームにはない新しいゲーム性を求めたゲームシステムを提示したタイトルが多く、しかしそのほとんどが斬新過ぎて後が続かず、あっという間に淘汰される事になったタイトルも少なくなかったが、中にはコナミの『ビートマニア』に代表される音ゲーや、カプコンの『バイオハザード』に代表されるサバイバルアクションといった、現在定番化しているゲームジャンルも生み出された。
 今から考えれば、“新しいモノ”が次から次へと生み出された、ゲーム業界が最も活気付いて、ゲームが一番面白い時代だったように思う。
 それに比べて今のコンシューマゲーム業界ときたら……。
 キャラゲーか予算無駄使いのどちらかって現状は一体全体どーなのよ!?
 だから、筆者はPCゲームに移行したのだ!
 ……って、ハナシが逸れてる。
 ともかく、そうした新機軸ゲームが大量に産み落とされる傍らで、ヴィジュアルをウリにしたゲームが頻作されたのも見逃せない。
 特に、『異説「ブレードランナー」論』でも取り上げた『フィロソマ』(95年)や『ファイナルファンタジーⅦ』(97年)、『クーロンズ・ゲート』(97年)は、そのヴィジュアル・フォーマットに映画『ブレードランナー』の影響が多分に見られ、明らかにポスト・モダンを含めたサイバーパンクのスピリットを継承したタイトルである。
 リアルでは、これと前後して有明ビッグサイトやFCGビルが建設中だったし、音楽の分野ではテクノやトランス、ハードコアといったコンピュータを駆使したダンス・ミュージックが全盛期を迎えており、これに伴ってファッションの分野でもテクノをキーワードにしたサイバーファッションやゴシック・ロリータ、いわゆる“ゴスロリ”が流行したのもこの頃だ。
 まあ、ファッションに関してはある種のデカタン主義(注:いたずらに古いモノや奇抜なモノを好む嗜好、またはその傾向。 芸術の末期的症状と言われている)と受け取る事も出来るが。
 ともかく、90年代は確かにサイバーパンク映画が衰退した時代だったが、そのスピリットは映画以外の分野に波及し、ゲームを中心にしたデジタル・エイジによって様々な分野でそのテイストが取り入れられていった時代であったのだと、筆者は考える。
 とは言え、この波及サイバーパンク・ムーヴメントを支えていたのはポスト・モダンとは一概に言い難い。
 何故なら世は、リアルタイムに“世紀末”だったからだ。

1999年7の月
空より来るだろう恐怖の大王が
アンゴルモアの大王を蘇らせる
前後に火星が幸福に統治する

 『諸世紀』10章72節

 ノストラダムスの大預言として知られるこの4行詩で示された“この世の終わり”が間近に迫った1990年代は、“世紀末”をキーワードにそれまでの価値観を根底から覆す様々な“革命”が色々な分野で同時多発的に起った時代である。
 先に記した次世代ゲーム機ブームもそうだし、音楽業界を席巻したコンピュータ・ミュージックやサイバーファッションもそうだ。
 ゴスロリなんかはその最たる例と言え、ゴテゴテとした装飾過剰なファッションは、まさに装飾狂の夢をファッション化したとしか思えないようなヴィジュアルを提示しており、世紀末という時代背景に支えられたデカタン主義的嗜好と言える。
 さらに、斬新過ぎて最早ワンダーの領域に足を踏み入れてしまった感のあるポスト・モダン建築や、90年代に入って急速に映画業界を席巻したデジタルVFXも、やはり平和的な“革命”であった。
 これらの革命は、ノストラダムスの大預言が間近に迫り、その危機感から“変化”を求めた大衆が見たがった“次の新しいモノ”として、大衆の欲求に応えた結果だったのではないか?
 これを象徴するのが、本作の生まれ故郷であるドイツの首都、ベルリンにあった。
 世紀末アートのメッカ、“タヘレス”である。
 1989年のベルリンの壁崩壊、そしてその後のソ連崩壊に伴う東西ドイツ再統一の混乱に乗じ、旧東ベルリンにあった廃墟や無人アパートを若者たちが不法占拠。 彼らは“スクワッダー”と呼ばれた。
 そんなスクワッダーの中でも新しい芸術を模索していた若い芸術家たちが集まったのが、件の“タヘレス”である。
 元々は20世紀初頭に開業したショッピングセンターだった建物だが、これが閉店後に一部を解体しただけで放棄され、朽ちるままにされていた。
 しかし、この崩壊具合に芸術性を見出した若い芸術家たちが集まり、この建物で創作活動を始めた。 そのウワサが広まり、海外からも芸術家が集まるようになり、アートスペースとして一般にも開放。 芸術家の創作の現場を見る事が出来る新しいアートスポットとして人気が集まり、90年代半ばにはベルリンの新しい観光スポットにまでなるほど有名になっていた。
 このタヘレスに集まったアーティストたちが主に創作していたのが、いわゆる世紀末アートであった。
 従来の様式や型に囚われる事のない、若い芸術家による新しい芸術の模索は、世紀末というキーワードを背景にポスト・モダンとは微妙に異なる、しかしサイバーパンクを源流とした派生ジャンルとしての世界終末論的な世紀末アートを生み出し、タヘレスというアートスポットに帰結したのではないかと筆者は考える。
 ちなみにこのタヘレス、元々が不法占拠によって成立していたため、2000年までに取り壊される予定だったが、どうやら現在も存続しているらしい。
 倒壊しかかっていた建物が一部修繕され、現在もアートスペースとして利用されているそうだ。
 ただ、周囲が区画整理や買収された事で開発が進み、90年代当時のような世界終末論的な様相は失われてしまっているようだ。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


チュパカブラ?


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 今回から、間系の追加クリーチャーをご紹介! ブーマーは、その名に反して細身のチュパカブラっぽいクリーチャー。 似たようなのはヴァニラやSIにもいるが、派生種族かどうかは不明。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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