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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

045.asayan実況 TESⅣ:OBLIVION‐Test Ver.

2009年05月29日 | ヘタレゲーマークロニクル・ムービー版

-Gamer's Chronicles of "HETARE" Movie Edition #04-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 既にご存知の方も多いかと思いますが、しばらく前にインターネット社のVOCALOIDシリーズ第2弾、『メグッポイド』のリリースが発表されました。

Blog0295  VOCALOIDと言えば、Ver.1.0の頃から製品をリリースしているクリプトン・フューチャー・メディア(以下CFM)が有名で、現行のVer.2.0系では、最早“社会現象”と言っても過言ではないほどの高い人気と評価を得る『初音ミク』があります。
 インターネット社は、VOCALOID製品のメーカーとしては後発になりますが、元々PC-98時代(DOS時代)から国産MIDIシーケンサーの雄として高い評価を得ている『Singer Song Writer』(以下SSW)シリーズや、新機軸ループシーケンサーの『MIXTURE』、また、ニワンゴとの共同で『ニコニコ動画公式ムービーメーカー』を開発、リリースしているメーカーです。
 VOCALOID製品では、昨年2008年に、人気アーティストのGacktの歌声ライブラリを使用した、同社で初めてのVOCALOID製品、『がくっぽいど』をリリースしており、今回はその第2弾となります。
 今回の歌声ライブラリは、インターネット社では初となる女性ヴォーカリストを起用。今や若手人気ナンバーワン声優と言っても過言ではないほどの人気を得る声優、中島愛(なかじまめぐみ。愛称:まめぐ)をフィーチャー。 そう! 『マクロスF』のあのヒトです! いよいよVOCALOIDでも“キラッ☆ミ”出来ます!(笑)
 とりあえず、「アタシの歌を聴けぇーッ!」とか言わせておけばいいんじゃないでしょうか?(笑)
 ……まあ、僕は観た事ないんですけどね?『マクロスF』。(←オイオイ)
 加えて、キャラクターイラストレーターには『機動警察パトレイバー』、『鉄腕バーディー』のゆうきまさみを迎え、かなり気合が入っている様子がうかがえます。
 う~ん、コレは売れそうな予感。
 リリース後は、ニコ動に多種多様なネタ動画がうpられると思いますが、全国のVOCALOID職人の皆様、これを機に、CFM社製のVOCALOIDだけでなく、インターネット社製のVOCALOIDにも手を出してみてはいかがでしょうか?
 リリースは来月、2009年6月26日の予定。
 価格はオープンプライスですが、実勢価格は15,750円程度。
 初回限定版には、撮り下ろしまめぐブロマイドがバンドルされるそうです。
 ちなみに、まだ不明ですが、既にインターネット社の他の製品を使用、ユーザー登録されている方は、インターネット社の公式HP(→こちら)のサポートページから、優待版(注:パッケージが簡易包装になるが、実勢価格よりかなり安い。筆者は、SSW8.0VSユーザーだったため、当時リリースされたばかりの『MIXTURE』を定価の半額程度の価格で買えました)が購入出来るようになるかも。
 この記事を書いている2009年5月27日現在では、まだ優待版のリリースは発表されていませんが、情報が入り次第追ってお伝えします。



 それはさて置き、今回は『ヘタレゲーマークロニクル・ムービー版』の第4弾をお届けしたいと思います。
 今回は、当ブログでは、以前実に3回にも渡って詳細に紹介させて頂いたPCゲーム、『The Elder ScrollsⅣ:OBLIVION』の実況ゲームプレイです。
 ……ですが、ワケあってテスト版をそのままうpる事にしました。
 このテスト版は、ムービーのキャプチャ、編集、エンコードテスト用に撮ったモノで、本来は公開しないつもりだったんですが、このテスト版を収録後、本番用のネタを仕込むためにゲームをやっていたら、ゲームファイルが突如クラッシュ。再起不能になりました。つД`)゜。
 そのため、今回はこのテスト版をそのままうpる事にしました。ご了承下さい。 ってゆーか察して下さい。
 うぅ……、大好きなゲームだからシッカリやりたかったのに……。
 そう言えば、以前のブログ記事の時も、直前にゲームがマトモに動かなくなってSSが撮影出来なかったハズ。
 ……なんで僕のPCはTESⅣとこんなに相性が悪いんだ?
 それはともかく、今回はそんなやっつけ仕事的な内容ですが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。


・動画の概要

 今回の動画も、外部のストリーミング動画投稿サイト、YouTubeを利用させて頂いております。
 TESⅣの詳しい内容に関しては、当ブログの記事、『010~012.忘却界ぶらり旅-Part.1~3』を参照して下さい。


‐動画の仕様‐

ストリーミングサイト:YouTube
動画分割数:3
トータル再生時間:28分01秒
ファイル形式:WMV
解像度:640×480pix


・難しいこと

 この動画は、asami hiroakiが個人的に作成したモノです。そのため、動画内でasami hiroakiが言っている事は、全てasami hiroakiの個人的な意見、見解、及び解釈であり、TESⅣの開発者、あるいは国内外のTESⅣのMOD開発者、及び全てのTESⅣプレーヤー各位の意見、見解、及び解釈を代弁するモノでは決してありません。
 従って、この動画に対するご意見、ご感想、ご要望、あるいは誹謗中傷等は、全てasami hiroaki宛に当ブログのコメントへ頂くようお願い致します。
 また、この動画には著作権、あるいは利用制限などのロイヤリティは一切ありませんが、動画のダウンロード、及び複製、転写、転載、再配布、インターネットを利用した他の動画投稿サイトへの投稿は、YouTubeの利用規約に違反する恐れがあるのでご遠慮下さい。
 以上をご理解頂いた上で、トークショー的な娯楽として楽しんで頂ければ幸いです。


・asayan実況 TESⅣ:OBLIVION-Test Ver.

-Pert.1-

再生時間:9分24秒


-Pert.2-

再生時間:9分19秒


-Pert.3-

再生時間:9分19秒


・プレーヤーキャラクターについて

 今回使用したプレーヤーキャラクターは、PC版で各種MODを導入する事でどなたでも再現可能です。


-必須MOD-

Beautiful People 2ch Edition Ver.1.8.0
 種族追加MOD。通称BP2ch。
 このMODに収録されているカスタム種族、『Lolita』を使用しますが、DLしたアーカイブを解凍すると、実に1.3GBを超える大型MODなので、導入には注意が必要です。
 ちなみに、BP2chは、このVer.1.8.0を以って開発終了だそうです。

Female Eyecandy Body Replacer Nude
 体形変更MOD。通称EC。
 装備MODによっては、このECボディをベースにモデリングされている事が多く、装備によっては手足が消える事があるので、見た目の違和感を無くすためにも導入しておきましょう。
 また、これはフルヌード版ですが、下着版(注:こちら)もあります。 体形そのモノは同じなので、お好きな方をどうぞ。

Black Luster Wepons and Armor for Exnems Body
 日本人MODクリエーターによる装備MOD。
 クォリティかなり高めの装備MODで、国内外で高い評価を得ています。片手剣と弓と矢は、このMODを導入してインペリアル・シティのお店で買って下さい。
 EC専用なので、導入の際はECを同時に導入する必要がありますが、デフォルトボディ用(注:こちら)もあります。

Lera and Pizz Hiyoko Store
 日本人MODクリエーターによる装備MOD。
 Lera&Pizz様が製作した装備MODが買えるお店がチェイディンハルにオープンするMOD。防具はこのMODを導入して購入して下さい。
 基本的に、ECボディ専用の装備ばかりなので、ECを同時に導入して下さい。

An Imperial Beauty
 美形キャラセーブデータ。
 本来はRen’s Beauty用なので、BP2chではそのままでは使えませんが、ある方法を利用すると使えるようになります。

Elder Face Lift

 フェイス形状データ抽出ツール。
 このツールを使うと、上記のセーブデータのフェイス形状データを抽出し、BP2ch種族にも適用させる事が出来ます。

Chargen With Numbers 0.02
 キャラクターメイキングのパラメーターを数値化してくれるMOD。
 ただし、飽くまでも数値を表示するだけで、パラメーターを数値で指定するような事は出来ないので注意。

Idles Poses Replace
 ポーズMOD。
 イベントリー画面などに表示されるキャラクターのポーズを変更します。
 3種類の中から選ぶ事が出来、片手剣、弓、杖を装備した時のポーズをそれぞれ個別に設定出来ます。
 ムービーの中で使用していたのはPose3ですが、必須というワケではないので、導入はお好みでどうぞ。


-作り方-

 予め上記のMODを全て導入し、ゲームが正常に動作するかテストして下さい。(注:MODの導入に関しては、OblivionWikiJPなどのウェブサイトの記事を参照して下さい)
 まず、チュートリアルエンドの下水道の出口までゲームを進めて下さい。そして、出口まで来たら、鉄格子に触れて種族選択画面を呼び出します。
 種族選択画面を呼び出したら、ココで“Imperial”の種族を選択します。名前や髪型などはテキトーでおk。後で変更します。
 種族を選択したら、一旦セーブ(本セーブ)してゲームを終了します。
 ゲームを終了したら、Elder Face Liftを起動します。そして、Load側にAn Imperial Beautyのセーブデータを指定し、Write側に先ほどセーブしたセーブデータを指定。フェイス形状データをコピーします。
 コピーしたら、再びゲームを起動します。 顔が変わっているハズなので、これを確認したら、再び種族選択画面を呼び出します。
 ココで、種族を“Lolita”に変更します。顔の形状や年齢などのパラメータは、一切変更しないで下さい。デフォルトに戻ってしまう場合があります。
 名前や髪型や髪の色、目の色はお好きなモノを選んで頂いて構いませんが、Lunaちゃんは髪型はRen’s Hairの04、目の色はRed、髪の色は、赤を900程度、緑と青を-800程度にしてあります。
 星座やクラスは、ムービー内で説明している通りですが、これはお好みで良いと思います。
 キャラクターが完成したら、一旦セーブ(保存用)して、下水道を出て下さい。
 後は、シティやチェイディンハルで装備を買えばLunaちゃんが完成します。走る度にフリフリ動く尻尾に萌えて下さい。(笑)
 ちなみに、BP2chを導入すると、LolotaやHumanなどの追加種族に専用の声が適用されます。 CVが誰なのかは知りませんが、なかなかの萌えVoiceなのではないでしょうか?
 皆さんも、MODを導入してかぁいい女の子との旅を楽しんでみてはいかがでしょうか?(←そんなまとめかい!)



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


はぁ~あ、ビバノンノン!

Th3046  
Thanks for youre reading,
See you next week!

コメント (1)
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044.Dear AYRTON-Part.3

2009年05月22日 | フリートーク

-Free Talk #06c-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 しばらく前の事になりますが、今月の頭ぐらいに、当ブログの合計アクセス数が3000Hitを超えました!
 今年の頭にリニューアルした時は2000Hitだったので、約4ヶ月ほどで1000Hitを加算した事になります。
 週平均は、90程度。月平均が330前後といったトコロ。現在は、このぐらいで推移しております。
 実にありがたいコトです。
 しかし、最近気になっているのがググサーチ。
 以前は、L4DやCS:S関連のワードヒットがランキング上位を占めていたのに、最近はそれ以外のサーチヒットが多くなってきています。
 もちろん、L4DやCS:S関連のワードヒットもあるんですが、それ以外のサーチヒットが増えてきてるのです。
 具体的には、『Hoover』、『Makina』、『We are not alone』、『Photoshop』など、音楽や映画関連のワードヒットが増えてきているようです。
 また、ページ別のアクセス数も、トップは相変わらずL4DとCS:Sですが、それに続いて『棚から一掴み』のコーナーや『映画を“読む”』コーナーがランキングしてます。 つーか、『034.Super Hoover Trooper』が予想外に伸びてビックリです。 quadさまご本人にコメントを頂けたおかげでしょうか?
 しかし、それより何より驚かされたのが、ググサーチのキーワードランキングで『朝水 日記 あさやん』というキーワードが第2位にランキングされた事です。(注:1位は『luvtrax』)
 数字で言うと、過去90日間で24Hitもある。(笑) あり得ないです。(笑)
 比較対照として他の例を挙げると、トップの『luvtrax』は27Hitですが、3位の『Steamレーティング』は6Hitしかないので、これがどれほど驚異的なHit数かお分かり頂けると思います。
 誰が検索してるのか分かりませんが、僕の与り知らぬトコロで当ブログがこうして注目されているのかと思うと、嬉しくもありますが、同時に怖くもありますね。 わざわざググサーチして当ブログを見に来て頂いた方々を失望させてはいないかと、少し不安を憶えてしまいます。
 アクセスして頂いた方、そして、今アクセスして頂いている方、当ブログをごひいきにして頂き、誠にありがとうございます。
 これからも、皆様に楽しんで頂けるような記事を提供出来るよう精進して参りますので、今後とも、ヲタク兼ヘタレゲーマーのブログ、『週間! 朝水日記』のご愛顧のほど、よろしくお願い致します。(多謝)



 さて、こんな前振りをしておきながら、今週は極めて私的なシリーズの第3弾、『Dear AYRTON』のパート3をお届けします。
 今回は、僕がアイルトン・セナという存在を知ってから、彼を応援し続けた約4年間の思い出を追いながら、アイルトン・セナというレーシングドライバーの魅力に迫っていきたいと思います。
 今回が、シリーズ完結編です。
 今週も、最後までお付き合い下さいませませ。


・アイルトンの思い出

 それでは早速参りませう。
 僕がアイルトンというレーシングドライバーの存在を知ったのは、まだ中学生だった1990年の事だ。
 当時、僕はフォーミュラーワンにはそれほど興味がなかったが、二つ年上のイトコがF-1ファンで、彼が録り貯めたF-1中継のVTRを見せてもらったのをキッカケに、僕はF-1ファンになった。
 今でもハッキリ憶えているが、シーズンが後半戦に入った8月、グランプリの主役は、ドライバーズタイトルを争うフェラーリのアラン・プロストと、マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナだった。
 キャリアも長く、既に3度のワールド・チャンピオンの座を獲得していたプロスト。
 若いながらも、二度目のタイトルを狙うアイルトン。
 ライバル心をむき出しにしながら、常にレースを牽引する二人のタイトル争いは、シーズン終盤の第15戦、日本GPまでもつれこんだ。
 この頃には、僕はすっかりF-1に魅了され、中でも赤と白のツートンカラーのボディのマシンを駆るアイルトン・セナというレーシングドライバーに注目していくようになっていた。
 当時は、何故自分がアイルトンに惹かれるのか理由が分からなかったが、これは後にあるレースを見て、ようやくその理由を理解する。 が、ココでは詳細を語らず、とりあえず後述としておく。
 さて、90年の日本GPである。
 前回記した通り、このレースではスタート直後、ポールポジションからスタートしたアイルトンと、フロントローからスタートしたプロストが1コーナーで接触。両者コースアウト、両者リタイアという何とも後味の悪い結果に終わった。
 しかし、これによりポイント差でプロストの逆転がなくなり、結果的にアイルトンは二度目のワールドチャンピオンを決めた。
 そう、アイルトンは、“世界一速い男”になったのだ。
 どんな世界でもそうだが、“世界一”になる事は、並大抵の努力で出来る事ではない。
 もしかしたら、人によっては、「努力以前に“天性の才能”が必要」と断じるかもしれない。
 確かに、アイルトンは天性の才能を持っている。それは、誰も疑わない事実だろう。
 しかし、アイルトンにはそれとは別に、“世界一”になった全ての人々が共通して持っている、“もう一つの才能”がある。
 それが、“努力する才能”である。
 例えば、今や日本のみならず、本場アメリカでも確固たる地位を築き、前人未到の記録をことごとく打ち立て続けている日本人メジャーリーガー、イチロー選手。
 彼は、オリックスに入団した当時、年俸僅か数百万という、あまり注目されていない選手だった。
 ところが、それからあれよあれよと言う間に好成績を連発し、年俸はうなぎ登りに上がり続け、今では十数億という途方もない年俸を稼ぎ出す選手に成長した。
 その裏には、彼の人並み外れた“努力”があった。
 三度のメシより練習好きと言われるほど、自他共に認める練習好きのイチローは、「試合よりも練習の方が好き」と公言していたほどだ。
 この、人並み外れた練習量は、そのまま彼の成績に直結した。
 彼のバッティングは、日本でも、そしてアメリカでも、チームの優勝の直接的な要因の一つと言われ、今年春に行われたワールド・ベースボール・クラシックでは、日本代表チームの2連覇の立役者となった。
 そう、イチローは、類稀なる“努力の人”なのだ。
 これと同じ事が、アイルトンにも言える。
 前回記した通り、アイルトンは確かに裕福な家庭に生まれ、環境に恵まれていたが、決して最初から世界最速だったワケではない。
 カート時代には、世界はおろか国内でもあまり目立たない選手でしかなかった。
 しかし、ウェットコンディションの苦手克服や、後に“セナ足”と呼ばれる独自のドライビングテクニックを習得し、ブラジル国内でもカート界で一目置かれる存在になり、ついには国際レースの場で活躍するようにまでなった。
 さらに、自らの成績に妥協する事なく、モータースポーツへの情熱を燃やし続けたアイルトンは、愛しの妻と離婚してまでレースに出場した。
 そのステージをフォーミュラーフォードからF-3へと移し、そして念願のフォーミュラーワンへと着実にステップアップしていくアイルトン。
 その裏に、いったいどれほどの努力があったのだろう?
 いったい、どれほどの悔し涙があったのだろう?
 それを想い、想像すると、あの90年の日本GPでのプロストとのクラッシュが、「致し方無し」と納得出来ないだろうか?(注:アイルトンは、前年の日本GPにおいて、シケインでプロストとクラッシュしたのを“プロストの故意”と考えており、後年になって、このクラッシュを「その時の報復」と告白し、謝罪している)
 少なくとも、僕には理解出来る。
 だから僕は、アイルトンのファンになった。
 彼の走りに、彼の情熱に、彼の努力と才能を感じたからだ。
 90年のシーズンが終わる頃には、僕はすっかり、アイルトンの大ファンになっていた。


 91年のシーズンは、思い出深いレースが多い。
 しかし、その中でも最も印象深いレースと言えば、第2戦のブラジルGPを置いて他にはないだろう。
 それまで、嫌われ続けた母国GPでの初優勝。
 レース序盤から、いきなりギヤボックスが壊れるというトラブルに見舞われ、レースが進むにつれその症状は悪化の一途をたどり、ラスト10周は6速のみで走った。(注:通常、レーシングカーは一定以上のエンジン回転数を保っていないとストールしてしまう。しかし、コーナーでは速度を落とす必要があり、必然的にエンジンの回転数が落ちてしまう。これを、一定以上落とさないようにするためにはシフトダウンが欠かせないが、ギアボックストラブルにより、アイルトンはシフトダウンなしで周回する事を余儀なくされた。どうやってスピードとエンジンの回転数をコントロールしていたのか分からないが、まさに“神業”と言っていいほどのアクセルコントロールだ)
 そうして掴んだ勝利の果て、アイルトンは大声を上げて歓喜した。
 そして、ポディウム(表彰台)に上ったアイルトンは、激しい疲労のため最早立っているのもままならないほどだったが、それでも重いボトルを担ぎ上げ、自らにシャンパンシャワーを浴びせて自らこの勝利を称えた。
 92年のシーズンでは、ハイテクデバイスを装備したウィリアムズとマンセルの後塵を拝し続けるという苦しい開幕となったが、マンセルの開幕連勝記録を止めたのは、やはりアイルトンだった。
 第6戦のモナコGPは、今でも僕が一番好きなレースだ。
 レース終盤、ピットインしたマンセルのスキを突いてトップに躍り出るアイルトン。
 しかし、ピットアウトしてきたマンセルがあっと言う間に追い付く。
 僕は、アイルトンがオーバーテイクされるシーンを予想した。 しかし、その予想は嬉しい誤算によって覆される。
 ラスト7周。
 アイルトン対マンセルの一騎打ち。
 マシンスペックで劣るアイルトンは、しかしその絶対不利の状況を覆し、ついにはモナコGP通算5勝目を上げた。
 この二つのレースを通して、僕はようやく、自分がアイルトン・セナというレーシングドライバーに惹かれた理由を理解した。
 それは、彼の“プロフェッショナル”としてのプライドだ。
 アイルトンは、確かにレースへの情熱を持っている。しかしそれ以上に、“プロフェッショナル”としてのプライドの高いドライバーでもある。
 既に二度のワールドチャンピオンを獲得していたにも関わらず、一番最初に成し遂げなくてはならないハズの母国GP優勝を成し遂げられない不運。
 アイルトンは、もしかしたら一生、母国GPでの優勝を挙げられないのではないかという恐怖心を抱いていたハズである。
 その状態で、6速以外が全て入らなくなるという最悪のマシントラブルを抱え、他のドライバーであるなら、優勝どころか完走すら諦めてしまいたくなるような状況にありながら、アイルトンはプロフェッショナルとしてのプライドを失う事なく、気力だけで走り続け、F-1挑戦8年目にして悲願の、悲願の母国GP初優勝を成し遂げた。
 92年のモナコGPでは、マシンスペックで圧倒的優位に立ち、前年に自身が打ち立てた開幕4連勝の記録をあっさり打ち破り、初タイトルに向けて波に乗るマンセルの後塵を拝し、アイルトンはレースを諦めかけていたハズである。
 しかし、マンセルとウィリアムズピットの僅かなミスのスキを突き、トップに立ったアイルトンは、それまでのモナコGP通算4勝の経験をフル活用し、押さえるべきポイントを一つ残らず押さえ、背後に迫るマンセルをことごとくブロックし続けた。
 ディフェンディングチャンピオンとしてのプライド。
 モナコマイスターとしてのプライド。
 そして何より、プロフェッショナルとしてのプライドが、アイルトンに振られ続けるブルーフラッグをことごとく無視させた。
 確かに、アイルトンは才能がある。
 それは、ある意味誰も真似出来ない天賦の才能だ。
 しかし、それと同時に、アイルトンは“世界一”になった全てのヒーローが持っている類稀なる“もう一つの才能”を持っている。
 そして、誰よりも高く、レースへの情熱を燃やし続ける原動力としての“プライド”を持っている。
 それは何より、アイルトンが自らを“プロフェッショナル”たらしめた直接的な要因と言えるだろう。


・アイルトンが残したモノ

 そんなアイルトンが亡くなった1994年5月。
 僕は、その瞬間をTV中継を通してリアルタイムに知る事になった。
 前戦までリタイア、ノーポイントで迎えた第3戦。
 僕は、「今日こそは勝ってくれるだろう」と、期待に胸を躍らせながらTVの前に座り、深夜のF-1中継を見ていた。
 しかし、番組は突然中断され、レース終了後の夕闇迫るサーキットを背に、実況と解説の二人は沈痛な面持ちで、涙を隠す事なく、アイルトンの死を告げた。
 その時僕は、その言葉を疑った。
 どうしても信じられなかった。
 何故なら、死んだのがアイルトンだったからだ。
 決してそんなハズはない。
 そんな事、あっていいハズがない。
 どうしても信じられなくて、どうしても、受け入れなくて……。
 でも、僕には何も出来なかった。
 大抵のファンがそうだったに違いない。
 何も出来ず、それでも受け入れられず、信じたくなくて、でも、僕らに出来る事は、ただ、泣く事だけだった。
 その後、僕はアイルトンの死を調べていく過程で、この年のレギュレーション改正に重大な欠陥がある事を知った。
 そしてそれは、アイルトンのライバルとして長い間同じレースを走り続けたプロストがコメントした通り、グランプリ“興行”を優先したFIAとその責任者たちにこそ、責任があるのだと確信した。
 FIAの老人たちは、アイルトンという偉大な英雄を失って初めて、自分たちの過ちに気付いた。
 遅過ぎる。
 誰もがそう思っただろう。
 僕もそう思った。
 気付いた時には、もう遅過ぎたのだ。
 何故ならもう、アイルトンは、この世にいないのだから……。
 だから僕は、F-1への興味を失った。
 世界最高峰の自動車レース。
 男たちが、自らの情熱とプライドをかけて、たった一つの“ワールドチャンピオン”という名の頂点を目指して命がけで戦うスポーツを、単なる“金儲けの道具”に利用していた主催者の思惑を知って、僕はフォーミュラーワンというスポーツへの興味を失った。
 プロストは、アイルトンの死後にこうコメントしている。

「私が復帰する事など、絶対に、絶対に、絶対に、ない」

 それは、「今のレギュレーションでは、いずれ自分もアイルトンと同じ運命をたどる事になるから」という、明確な警告に裏打ちされたメッセージだ。
 前年の93年のシーズンにおいて、プロストは自身通算4度目のワールドチャンピオン(当時最多)を決めて引退した。
 最終戦のポディウムに揃って立ったアイルトンは、プロストと肩を組んでその栄誉を称えた。
 アイルトンのデビュー当時から、既にトップドライバーとして活躍していたプロスト。
 そのプロストを先輩として、また同時にライバルとして、強烈に意識し続けたアイルトン。
 88年と89年のシーズンには、マクラーレンで後に『史上最強のコンビ』と評されるほどの活躍をした二人だったが、この頃には既に関係に亀裂が生じており、89年の鈴鹿でのクラッシュが決定的なモノとなり、二人の犬猿の仲はグランプリ界でも有名なモノになっていく。
 結局、プロストが93年のシーズンを以って現役を引退するまで、この関係が修復される事はなかった。
 しかし、94年の事故直前、母国フランスのF-1中継の解説者になったプロストは、フリー走行中のアイルトンと無線中継で話しをしている。
 その時、アイルトンはこう言った。

「アラン、キミがいなくて寂しいよ。」

 プロストを初め、マンセルも、パトレーゼも、ピケも、中島も、鈴木も、アイルトンのかつてのライバルたちは、皆フォーミュラーワンを引退していた。
 アイルトンのこの言葉は、かつてのライバルたちがいなくなり、切磋琢磨してお互いを刺激し合える“戦友”がいなくなった事に対する、極めて素直な心からの言葉だろう。
 そして、プロストとアイルトンは決意する。
 それまでのわだかまりを清算し、お互いがお互いに非があった事を認め合い、和解する事を。
 1994年4月30日。
 記者会見の場に揃って現れたアイルトンとプロストは、公式の場で謝罪し合い、熱い抱擁を以って、全てを水に流して和解した。
 事故の前日、アイルトンの死まで、あとわずか24時間というタイミングでの出来事だった。
 その瞬間、プロストは何を想っていたのだろう?
 きっと、ただの一ファンに過ぎない僕には、とうてい想像もつかないほどのショックを受けたに違いない。
 僅か24時間前に、抱き合ってお互いを許し合ったばかりなのに。
 これからきっと、良き友人として付き合っていると思った矢先なのに。
 その時プロストは、何を思っていたのだろう……。


 だが、決して悪い事ばかりではない。
 アイルトンの死の直前、元F-1ドライバーのニキ・ラウダは、アイルトンの下を訪れ、フォーミュラーワンマシンの安全性について話し合った。そして、翌週会合の場を設けようという事で話しはまとまった。ラウダは、レギュレーション改正を訴える団体のリーダーになってほしいと、アイルトンに要請していた。
 実際、ドライバーズミーティングなどの場において、議論のテーマがマシンやルールの安全性に関する話題になると、その話しの中心にいたのは、常にアイルトンだった。
 アイルトンは、早い段階からマシンの安全性について改善すべきというスタンスを明確にしていた。
 しかし、アイルトンの想いとは裏腹に、FIAは安全性を無視したとしか思えないようなレギュレーション改正を慣行。 皮肉にも、アイルトンはラッツェンバーガーに続いて、その犠牲者となる形になった。
 しかし、アイルトンの死を以って、FIAはようやく自らの過ちを悟り、レギュレーションを改正する。
 これは、マシンの安全性を最優先した形での改正で、年を追う毎にレギュレーションは改正され続け、フォーミュラーワンマシンの安全性は、94年当時と比較して飛躍的に向上した。
 これにより、フォーミュラーワンでは相変わらずあわや大惨事のクラッシュが毎年のように起こっているが、フォーミュラーワンでの死者は、アイルトン以降一人としていなくなった。
 もしかしたら、天国にいるアイルトンは、この現状を満足そうに見ているのかもしれない。
 自らの死が、決してムダにはならなかったのだと……。


 事故の当日、母国ブラジルでは、サッカーの試合を中断してまでアイルトンの死を国民全員が悼んだ。
 アイルトンの遺体は、定期便のファーストクラスを貸し切って移送され、空港ではブラジル空軍の戦闘機が出動して出迎えた。 さらに空港では、100万人を超える群集が、アイルトンの帰国を出迎えた。
 ブラジル政府は、アイルトンの葬儀を国葬として執り行った上、命日の5月1日を“交通安全の日”と定めた。
 葬儀には、アラン・プロストを初め、ゲルハルト・ベルガーやミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが参列し、亡骸は故郷のサンパウロ市内にあるモンルビー墓地に葬られた。
 アイルトンのクラッシュを最も近くで見ていたミハイル・シューマッハは、葬儀には参列出来なかったが、ほぼ毎年のようにアイルトンの墓前に花を手向けているという。
 そしてそれは、シューマッハのみならず、世界中のアイルトンのファンが同じ事をしている。
 「神の愛より我を分かつものなし」という墓碑銘が刻まれたアイルトンの墓は、今もなお、この墓を見舞う人々の花が絶える事はない。
 2006年、イギリスのF-1情報誌、F1 Reacingは、フォーミュラーワンに長年携わってきた専門家や関係者ら28人に投票を依頼し、『史上最速のF-1ドライバー』を選出した。
 アイルトンは、シューマッハを抑えてランキング1位に輝いた。
 本名、アイルトン・セナ・ダ・シルバ。
 享年、34歳。
 祖国と、家族と、モータースポーツをこよなく愛したブラジルの英雄。
 今安らかに、モンルビーの丘に眠る。


・Dear AYRTON

 Dear AYRTON
 アナタのいないフォーミュラーワンは、とても寂しいです。

 Dear AYRTON
 アナタのいないフォーミュラーワンは、とてもつまらないです。

 アナタの死を知った僕たちは、
 とても戸惑い、うろたえ、怒り、ただただ、
 泣く事しか出来ませんでした。
 アナタという存在、アナタという才能、アナタという輝きに、
 僕らは魅了され、僕らの心は、
 アナタと共にサーキットを駆け抜けていきました。

 アナタの死を知った僕たちは、アナタという存在を、
 アナタという英雄を、アナタという心の一部を、失ってしまいました。
 アナタという存在は、アナタという才能は、アナタという輝きは、
 すでに僕らの心の一部だったのです。

 でも、僕らのそんな悲しみも、
 天国にいるアナタは、あまり気にしてないのでしょう。
 アナタが、今でも気にしているのは、今のグランプリ界の事でしょう。

 もしかしたら、アナタは今でも、心配しているかもしれません。
 もしかしたら、アナタは今でも、危惧しているかもしれません。

 フォーミュラーワンは、安全になったのか?

 ……安心して下さい。
 アナタの死を識って、フォーミュラーワンは大きく変わりました。
 アナタの死を識って、老人たちはようやく、その重い腰を上げました。

 レギュレーションは、
 ドライバーの安全性を最優先したモノになりましたよ?
 フォーミュラーワンは、
 ようやくアナタが望んだ通り、安全になりましたよ?

 だからアイルトン、
 これからは安心して、趣味のラジコンヘリを思う存分飛ばせますよ?


 Dear AYRTON
 アナタのいないフォーミュラーワンは、とても寂しいです。

 Dear AYRTON
 あなたのいないフォーミュラーワンは、とてもつまらないです。

 でもアイルトン、
 アナタのいないフォーミュラーワンは、とても安全になりました。
 アナタのいないフォーミュラーワンは、誰も死ななくなりました。

 この時がもっと、早く来ていたらと。
 この時代が、アナタの生きているうちに来てくれたらと。
 そう願わずにはいられません。
 でも、気付くのが、遅すぎたのですね?
 アナタはもう、この世にはいないのですね?

 だから、残された僕らに出来る事は、
 もう二度と、あのような悲劇を起こさない事。
 もう誰も、アナタの後を追わせない事。

 だからアイルトン、どうか祈っていて下さい。
 もう誰も、死なないように。
 だからアイルトン、どうか見守っていて下さい。
 安全になったフォーミュラーワンの、行く末を。

 神の御手に抱かれて、
 天の御国から、
 いつまでも、
 いつまでも、
 いつまでも、
 末永く、
 安らかなる、
 眠りの中で……。


『時が経っても、また死の時も、
 私たちがアイルトンから切り離されることはないでしょう。
 彼の一部は私たちひとりひとりの中にあります。
 彼の決断、勝利に対する意志、彼の勇気は、
 いつまでも私たちの上に残るでしょう。
 ここ数日、私は愛と尊厳の表示を
 かつて経験したことがないほどに見て参りました。
 ひとりの英雄が世を去りました。
 しかし、ここにひとつの民族が生まれたのです。』

           ――ヴィヴィアンヌ・セナ
             (アイルトンの姉、葬儀の送辞より)


 このブログ記事を、心からの敬意と、感謝と、親愛の情を込めて、
 今は亡きアイルトン・セナと、
 自動車事故でこの世を去った我が友人に、捧ぐ――。


・アイルトン・セナ:F1生涯記録

 GP出走回数:161ラウンド(歴代11位)
 ポールポジション獲得回数:65回(歴代1位)
 ファステストラップ獲得回数:19回(歴代8位)
 GP優勝回数:41回(歴代2位)
 生涯獲得ポイント:614ポイント(歴代2位)
 1戦当りの獲得ポイント:3.81(歴代5位)
 ワールドチャンピオン獲得回数:3回(歴代2位タイ)
 最多ラップリーダー:2982周/13578km(歴代1位)
 最多連続ポールポジション獲得ラウンド数:8ラウンド(歴代1位)
 全周回リードしての優勝回数:19回(歴代1位)
 ポールトゥウィン回数:29回(歴代1位)
 同一GP優勝回数:6回/モナコGP(歴代1位)
 同一GP連続優勝回数:5回/モナコGP(歴代1位)

※注:歴代ランキングは1994年当時のモノです。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


騎乗されてみた。

Th3045 Thanks for youre reading,
See you next week!



-参考資料-
※今回の記事は、以下の書籍、及び雑誌記事、並びにウェブサイトの記事を適宜参照しました。 ただし、書籍類は現在入手困難です。予めご了承下さい。

・Thank you AYRTON, Good bye SENNA
 /F1速報 94年6月16日臨時増刊/ニューズ出版
※事故直後に出版された追悼本。プライベートを含めた貴重な写真を多数掲載し、今宮純、津川哲夫といったお馴染みの面々から、アラン・プロストやニキ・ラウダ、フランク・ウィリアムズやロン・デニスといった、アイルトンに所縁の深い面々のコメントを多数掲載。アイルトンの全レース記録も掲載されている。

・週間オートスポーツ 2009年5月7日&14日合併号/三栄書房
※週間オートスポーツのゴールデンウィーク合併号。アイルトンの命日である5月1日に合わせて、この号で追悼特集が組まれた。

・Wikipedia日本語版
 検索ワード:アイルトン・セナ
※毎度お馴染みのWikipediaです。今回も、記事内のリンク先も参照しております。合わせてご覧下さい。

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043.Dear AYRTON-Part.2b

2009年05月16日 | フリートーク

-1993年-

 前年を不本意な結果で終えたアイルトン。 しかもこの年は、ホンダが撤退し、マクラーレンはフォードエンジンを搭載するようになった。
 ウィリアムズに対抗すべく、有力チームはマクラーレンを含めてニューマシンにアクティブ・サスとTCSを導入。ようやくウィリアムズに対抗出来るシャシーになったが、肝心のエンジンは、前年にベネトンが使用していたモデルの改良型で、ベネトンが搭載している最新モデルに劣るモノだった。
 そのため、アイルトンはマクラーレンとの年間契約を拒否。シーズン前には、引退を示唆する発言もしていた。 一説には、この年F-1を引退してインディカートに転向したマンセルと同じく、カートへの転向もウワサされた。 それを裏付けるかのごとく、同郷の大先輩であるエマーソン・フィッティパルディのチーム、ペンスキーをテストドライブしていたりする。
 しかし、最終的にはマクラーレンに残留。第7戦のカナダGPまで、1戦毎のスポット契約という異例の措置で、この年のシーズンはスタートした。
 マンセルやパトレーゼといった、かつてのライバル達が引退し、アイルトンにとってはライバルが減り、しかもライバルチームに引けを取らない戦闘力のあるマシンを得て、この年はアイルトン有利と思われた。
 しかし、そこに思わぬ“老兵”がライバルに名乗りを上げる。
 91年に引退したハズのプロストが、なんと事もあろうかウィリアムズと契約してグランプリに帰ってきたのだ!
 もしかしたら、ウィリアムズはマンセルとパトレーゼに代わって、プロストとアイルトンのコンビを考えていたのかもしれない。実際、アイルトン自身もウィリアムズへの移籍を希望していたという。
 しかし、88年と89年のシーズンにチームメイトになり、お互いの考え方の違いからすれ違ったままの二人が、勝てるマシンを求めたからと言って再びチームメイトになる事は考えられない。
 恐らくは二人とも、契約条項に『アイツをチームメイトにしないこと』という条件を加えていたハズである。
 そのため、ウィリアムズはプロストを選び、チームメイトにはこの年がデビューイヤーとなったデイモン・ヒル(注:初代モナコマイスター、グラハム・ヒルの実子)が選ばれた。
 対するマクラーレンは、スポット契約のアイルトンをファーストドライバーに選び、パートナーには前年にマイケル・アンドレッティとのいざこざ(注:アンドレッティが年間契約を拒否し、スポット契約になったため)があった新鋭のミカ・ハッキネンが選ばれた。
 開幕戦をポールトゥウィンで飾ったウィリアムズとプロストは、しかしその後調子を落とし、このスキを狙ってアイルトンとマクラーレンが優勝を重ね、ドライバーズポイントで有利に立つ。
 第2戦のブラジルGPでは、大雨を味方につけて母国グランプリ2勝目を挙げている。
 第6戦のモナコGPでは、前年に続いて3位スタートから巻き返し、モナコ5連勝の快挙を達成。同レースで通算優勝記録を6に伸ばし、グラハム・ヒルの記録を抜いて歴代1位の座に着く。
 名実共に、アイルトンは2代目モナコマイスターの称号を手に入れた。
 しかし、シーズン中盤からウィリアムズが復調し、プロストどころか、シューマッハやハッキネン、果てはルーキーのヒルに至るまで、若手選手の後塵を拝する事も少なくなかった。
 第8戦のフランスGP以降、アイルトンはようやくマクラーレンとの正式な年間契約を結び、シーズンフル参戦を明確にするが、マシンの戦闘力は一向に上がらず、苦しいレースが続いた。
 結局、第13戦のイタリアGPのリタイアによって、アイルトンはタイトル争いから脱落。続く第14戦のポルトガルGPで、プロストは前人未到の通算4回目のワールドチャンピオンを決めた。
 チャンピオンを決めた事で、続く第15戦の日本GPと第16戦のオーストラリアGでPは、プロストは明らかに精彩を欠いていた。
 タイトル争いから解放されたプロストは、純粋にレースを楽しんでいたのかもしれない。
 この2レースは、アイルトンが“最後の”連勝を飾り、93年のシーズンを締めくくった。
 最終戦の表彰台に立ったプロストとアイルトンは、お互いの肩を組み合って栄誉を称えあった。
 プロストは、この年を最後にレーシングドライバーを完全に引退。
 アイルトンは、6年もの長きに渡り、自身を3度のワールドチャンピオンに導いたマクラーレンを去り、ウィリアムズへの移籍を決めた。
 アイルトンのライバル達が一人、また一人と、グランプリを去っていく。
 そして、アイルトンの存在を脅かす若手の有望選手が一人、また一人と増えていく。
 世代交代の時期が、もうすぐそこに迫っていた。
 1993年11月7日。
 最終戦、オーストラリアGPの決勝を以ってシーズン終了。
 アイルトン・セナ、運命のタンブレロまで、あと半年。


-1994年-

 さて、94年のシーズンであるが、これはもう書く必要はないだろう。
 一応、アイルトンの成績は、全レースポールポジション、全レースリタイアとだけ書いておこう。


 では次に、アイルトンの魅力について語っていこう。
 ……と思ったが、もう既に前回の記事を200行ほどオーバーしてしまいました。(笑)
 すまぬ、今回はココでto be continuedにさせてくれ。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
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 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


騎乗してみた。


Thanks for youre reading,
See you next week!



-参考資料-
※今回の記事は、以下の書籍、及び雑誌記事、並びにウェブサイトの記事を適宜参照しました。 ただし、書籍類は現在入手困難です。予めご了承下さい。

・Thank you AYRTON, Good bye SENNA
 /F1速報 94年6月16日臨時増刊/ニューズ出版
※事故直後に出版された追悼本。プライベートを含めた貴重な写真を多数掲載し、今宮純、津川雅彦といったお馴染みの面々から、アラン・プロストやニキ・ラウダ、フランク・ウィリアムズやロン・デニスといった、アイルトンに所縁の深い面々のコメントを多数掲載。アイルトンの全レース記録も掲載されている。

・週間オートスポーツ 2009年5月7日&14日合併号/三栄書房
※週間オートスポーツのゴールデンウィーク合併号。アイルトンの命日である5月1日に合わせて、この号で追悼特集が組まれた。

・Wikipedia日本語版
 検索ワード:アイルトン・セナ
※毎度お馴染みのWikipediaです。今回も、記事内のリンク先も参照しております。合わせてご覧下さい。

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043.Dear AYRTON-Part.2a

2009年05月15日 | フリートーク

-Free Talk #06b-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 超久々のローソンニュ~~ス。
 去る5月12日、当ブログでも以前紹介したローソンオリジナルミニフィギュア、『ANAユニフォームコレクションPetit』が、装いも新たに『アンコール』として再びリリースされました。
 前回同様、今回も間もなくDVDがリリース予定の映画『ハッピーフライト』とのタイアップキャンペーンの一環で、今回は前回のカラバリ6種を含む全9種がラインナップされています。(注:モデルそのモノは前回と全く同じ)
 で、こちら(↓)が今回ラインナップされたカラバリモデル6種です。

Blog0292  カラーコーディネートが大きく異なるモノと、シャツやスカーフの色が変わる程度の微細な変更のモノがありますが、こういうのをキッチリ押さえておくのがコレクションの醍醐味(?)なのです。
 で、前回のラインナップと一緒に並べると、こうなります。(↓)

Blog0293  こんなカンジですね!
 小さいとはいえ、フィギュアが15体も並んでるとさすがに壮観です。
 ただ、小さいだけに微妙な製品ムラでも意外に目立つので注意が必要です。この写真でも、一部のモデルが製品ムラのため妙に目立ってますね。
 で、それとは別に、数量限定ですが、今年1月にANAの空港内ショップ(ANAフェスタ)やオンラインストア(aStyle)でリリースされた『ANAユニフォームコレクションⅡ』が、ローソンでもリリースされました。
 こちら(↓)がそれです。

Blog0294  こちらは、カラバリを含む全8種をラインナップしていますが、1BOX6個入りのため、最低でも2BOX買わないとコンプ出来ません。
 実を言うと、僕は1月にリリースされた直後にオンラインストアで既に買っていたんですが、8個買って惜しくも2種足りずコンプ出来なかったんです。 しかし、今回追加で買って、何とか残りの2種が出たのでコンプ出来ました。
 いや良かった良かった。
 ちなみに、ANAフェスタやaStyleでは、現在も好評継続販売中です。(注:ただし、ANAフェスタでは店頭在庫がなくなり次第販売終了になるそうです)
 空港に行ってるヒマのない人は、以下のオンラインストアから通販するのが良いかと思います。

ANAオンラインストア『aStyle』内特設ページ

 先ほど記したように、ラインナップは全8種ですが、1BOXは6個しか入っていないので、最低でも2BOX分(12個)を注文するのが確実と思われます。
 ちなみに僕は、結局トータル3BOX分買いました。(笑)
 そうそう、食玩なので、パッケージにはANAオリジナルの黒飴が入ってます。結構美味しいです。(^ ^;)



 さて、今回の『週間! 朝水日記』は、前回お届けした『asayan的アイルトン・セナ追悼記』の第2弾です。
 今回は、アイルトンの生い立ち、及びフォーミュラーワンでの活躍を紹介しながら、アイルトン・セナというレーシングドライバーの魅力に迫っていきたいと思います。
 今週も、最後までお付き合いのほど、よろしくお願い致します。


・生い立ち

 アイルトン・セナ・ダ・シルバ。
 1960年、ブラジル、サンパウロに住む実業家、ミルトンとネイジの間に生まれた第二子に、両親はアイルトンと名づけて可愛がった。
 二人にとっては初めての男の子(注:第一子は女の子)だった事もあり、二人はアイルトンを溺愛した。
 父ミルトンは、地元でも有名な街の名士で、様々な事業を多角経営する実業家で、しかも地元の大地主だった。
 裕福な家庭に生まれたアイルトン。
 そんな彼が、モータースポーツと出会ったのは、なんと4歳の時だった。
 父ミルトンは、息子のために手作りのエンジン付きカートを与えた。 アイルトンは、この瞬間からカートに夢中になった。
 しかし両親は、息子を甘やかす事なく、カートに夢中になるアイルトンに厳しい条件を与えた。

学校の成績が落ちたらカート没収。

 アイルトンは、カートを没収されたくない一心で、学校の勉強にも努力を重ねた。
 その甲斐あって、アイルトンは学校の成績を落とす事なく、同時にカートにも没頭した。 父は、そんなアイルトンの熱中振りを見て、資金面で彼のドライビングテクニックの向上をバックアップした。


 13歳になったアイルトンは、カートレースに参戦するようになる。しかし、始めた当初はそれほど目立った成績を残せなかった。
 特に、雨のレースは大のニガテだった。ウェットコンディションのレースにおいて、アイルトンがスリッピーな路面に悪戦苦闘する中、ライバル達はいとも簡単にアイルトンを抜いていった。
 そこでアイルトンは、サーキットに水を撒いて、ワザとウェットコンディションにしてコースを周回するトレーニングを取り入れ、ウェットコンディションでのドライビングテクニックを徹底的に研究した。
 この努力の甲斐あって、アイルトンはウェットコンディションでもライバル達に引けを取らないドライビングテクニックを身に付け、カート界でも一目置かれる存在になっていく。
 またこの経験が、後に『レインマイスター』と呼ばれるほど、雨に強いアイルトンのドライビングスタイルに集約されていく事になる。
 ちなみに、アイルトン本人は、ウェットコンディションのレースがキライだと言っている。
 マシンが撒き散らす水しぶきで視界が悪くなり、コーストラックが滑りやすくなって危険度が増すため、雨のレースを嫌うのは、レーシングドライバーであるなら至極当然の事である。
 日本人初のフォーミュラーワンドライバーとなった中島悟も、『雨のナカジマ』と呼ばれるほどウェットレースに強いドライバーだが、本人はウェットレースを嫌っている事を公言している。
 また、後に『セナ足』と呼ばれるドライビングテクニックも、このカート時代に養われたモノである。
 これは、シフトアップやシフトダウン時(注:カートにはシフトチェンジがないので、減速時や加速時)にアクセルを小刻みに煽るテクニックの事で、いわゆる“ダブルクラッチ”の延長線上にあるテクニックである。
 アイルトン自身が尊敬するレーシングドライバーとして名を挙げるケケ・ロズベルグも同様のテクニックを持っていたが、アイルトンのそれは、ロズベルグのテクニックを遥かに凌駕し、秒間6回ものアクセルの開閉を行うという。
 実際、前回紹介したテレメトリーデータでも、約0.1秒の間に4回ものアクセル開閉を行っている事が明確にデータとして記録されており、その速さと精度は、アイルトン独自の天性の才能と言えた。
 事実、後に中谷明彦やゲルハルト・ベルガーなど、複数のレーシングドライバーがこの『セナ足』の再現に挑戦しているが、誰一人として再現出来た者はいない。
 一説には、ターボ時代のフォーミュラーワンにおいて、アクセルオフによってターボが一時的に切れる現象、いわゆるターボラグを発生させないようにするために磨かれたテクニックだとされる事もあるが、アイルトンはそれ以前からこのテクニックを使っており、カート時代に養われたモノだと語っている。
 ただ、その効果のほどは、実際には「よく分からない」というのが、エンジニアや他のドライバーの統一した見解である。
 テレメトリーデータでは、コーナーの立ち上がりで100~300回転程度高いエンジン回転数を示しており、セナ足による効果と考えられているが、因果関係は立証されていない。
 中谷明彦は、「常人の理解を超えた領域でのテクニック」と評価している。
 ちなみに、この天性の才能が、時に災いする事もあった。
 ロータス時代、チームが導入したドライビング・バイ・ワイヤ方式(注:アクセルペダルとスロットル間を電気信号で繋ぐ方式の事。航空機のフライ・バイ・ワイヤ方式と同じ原理)のノイズ除去機能に、このセナ足がノイズとして認識されてしまい、アイルトンが望むスロットル開度がエンジンに正確に伝わらないという、何ともエンジニア泣かせなトラブルを抱える事があったそうだ。
 また、アイルトンのトレードマークである黄色地に緑のラインが入った、ブラジルの国旗をイメージしたヘルメットのマーキングは、このカート時代から既に使っていた。


 こうしたテクニックを身に付けたアイルトンは、1977年、南米カート選手権に出場。
 このレースにおいて、アイルトンは初出場初優勝の快挙を成し遂げ、カート界にその名を轟かせるようになる。
 翌78年には、ブラジル国内のカート選手権に出場し優勝。南米選手権でも、前年に続いてチャンピオンとなり、この実績を引っさげて世界選手権にも出場した。
 残念ながら、結果は6位入賞だったが、アイルトンの名はカート界で有名になっていく。
 ちなみに、この年には日本選手権にも出場しており、個人で4位入賞。 団体では5位入賞の成績を残している。
 アイルトンにとっては、第2の故郷とも言える日本への、これが初来日となった。
 79年と80年には、ブラジル選手権と世界選手権に出場。ブラジル選手権では3連覇を達成し、世界選手権では2年連続の表彰台(注:両方とも2位)に昇った。
 また、80年には幼馴染みだったリリアンと結婚。(注:結果的に、これが最初で最後の結婚となる) 自らスポンサーを募るPR活動を始め、レース資金を集めるようになった。
 1981年、ジム・ラッセル・レーシングスクールを受講するため渡英。同時に、イギリスのフォーミュラーフォード1600(注:フォード社製のシャシーとエンジンで構成された1600ccクラスのジュニア・フォーミュラー。フォーミュラーカーの一番下のクラス)のタウンゼンド・ソアンセンやRACイギリスのシリーズに出場し、なんと両シリーズでシリーズチャンピオンに輝く。
 また、ブラジルカート選手権では4連覇を達成し、世界選手権では4位入賞を果たした。
 ところが、家族との約束と資金不足が重なり、アイルトンはシーズン終了と同時にレース活動からの引退を宣言。ブラジルに帰国する。
 しかし、レースへの情熱冷めやらぬアイルトンは、ブラジルでの定住を強く希望した妻、リリアンとの離婚を決意。翌82年に再び渡英し、一つ上のカテゴリーであるフォーミュラーフォード2000に参戦。ペースイギリスやEFDAのヨーロッパ選手権に出場し、ほとんどのレースで優勝、もしくは2位という驚異的な勝率を挙げ、この年の両シリーズのシリーズチャンピオンに輝く。
 翌83年には、フォーミュラーワンの登竜門と呼ばれるF-3クラスに転向し、マルボロイギリスのシリーズにフル参戦する。
 ココでも、アイルトンは驚異的な速さを見せ付け、同シリーズの年間チャンピオンを獲得する。
 また、毎年マカオで開催されるF-3の国際レース、マカオグランプリにも初出場し、優勝している。
 この実績が高く評価され、1984年、アイルトンはついに、フォーミュラーワンチームのトールマン・ハートと契約。念願のF-1デビューを果たす事になる。


・フォーミュラーワン ~アイルトンの居た時代~

 ではココからは、アイルトンが戦った10年間のフォーミュラーワンシーズンを、シーズン毎に簡単に紹介していこう。


-1984年-


 トールマン・ハートからフォーミュラーワンデビューを果たしたアイルトンだが、実は“初めて乗った”F-1マシンはトールマンのマシンではない。
 83年のシーズン中、アイルトンはウィリアムズのマシンをテストドライブしている。
 この時、まだ足を悪くする前のフランク・ウィリアムズ(注:ウィリアムズのチームオーナー兼監督。足を悪くし、後に車椅子生活を余儀なくされるが、敬意を以って“車椅子の闘将”と評されるようになる)に見込まれる。
 しかし、結果的にウィリアムズはアイルトンとは契約せず、アイルトンがもう一度ウィリアムズのマシンに乗るには、この後実に10年もの歳月を要する事になる。
 さて、トールマンでデビューしたアイルトンの84年は、しかしフォーミュラーフォードやF-3の時のような順調な滑り出しとは言い難い苦しいシーズンになった。
 第1戦、祖国ブラジルで迎えた開幕戦は、ハートエンジンのターボトラブルでリタイア。その後も、6位止まりやリタイア、失格が続き、厳しいグランプリに手痛い洗礼を受ける形になった。
 ところが、第6戦のモナコGPにおいて、世界はアイルトン・セナというドライバーの持つ資質を見せ付けられる。
 スタートから大雨になったこのレースは、ただでさえ難易度の高いモンテカルロの低速テクニカルコースで、しかもウェットコンディションの悪視界とスリッピーな路面にライバル達が手こずる中、13番グリッドからスタートしたアイルトンは、カート時代に培ったウェットコンディションの特訓が功を奏し、ファステストラップ(注:レース中の最速ラップレコード)を叩き出し、瞬く間に順位を上げていった。
 そして、自身とチームにとって初となる2位表彰台に立った。 後に『レインマイスター』、そして『モナコマイスター』と評されるアイルトンの実力を世界に見せ付ける結果となった。
 この後、2度の3位表彰台を経験するが、マシントラブルを含めたリタイアが目立つシーズンになった感は否めない。
 また、翌85年の契約が決定していたロータスへの移籍を、チームに無断で発表したペナルティとして、第14戦のイタリアGPを出走取り消しさせられている。


-1985年-

 当時、JPSのスポンサードを受けており、真っ黒のボディカラーが特徴的だったロータスに移籍したアイルトンは、第2戦のポルトガルGPで初のポールポジションを獲得。以降、実に12年にも渡って破られる事がない生涯ポールポジション獲得回数64回という、前人未到の大記録の、これが最初の一歩となった。
 加えて、このレースでは前年のモナコGPと同じくまたも大雨に見舞われたが、アイルトンは終始トップを独走しそのままゴールイン。念願のフォーミュラーワン初優勝は、本人も驚く自身初のポールトゥウィンとなり、一つのレースでいきなり3つもの“初”を獲得する偉業を成し遂げる。
 また、この後もアイルトンは予選に強さを見せるようになり、この年だけで計7回のポールポジションを獲得。
 ただし、優勝は第13戦のスペインGPを含めて2回と少なかった。 が、2位と3位の表彰台をそれぞれ2回獲得し、年間ランキングでチームメイトのエリオ・デ・アンジェリスを抑えて4位に食い込む。
 またこの年は、3つのレースでファステストラップを記録している。


-1986年-

 3年目となるこのシーズンは、前年と同じくロータスで戦う事になった。
 予選での速さに磨きをかけたアイルトンは、前年を上回る8回のポールポジションを獲得。しかし、決勝では前年と同じく2回の優勝に止まった。
 とは言え、完走した全てのレース(注:6レースでリタイアしている)で8回の表彰台を含む入賞を果たし、終始安定した結果を残し、シーズン中盤までは年間チャンピオン争いにも加わった。
 残念ながら、中盤以降エンジントラブルに悩まされるレースが続くようになり、最終的にランキング4位に止まる。
 また、この時しょっちゅう目の前を走る姿を見せ付けられる事になるウィリアムズのマシンに搭載されていたホンダエンジンの速さを痛感し、ホンダエンジンとのコンビネーションを熱望するようになる。
 ちなみに、この年のベストレースと言えば、やはり第2戦のスペインGPを置いて他にはないだろう。
 ポールポジションからスタートしたアイルトンは、背後に迫るナイジェル・マンセルと手に汗握るバトルを展開し、超僅差、僅か0.014秒差でマンセルを制するというデッドヒートを展開している。
 しかし、この頃からマンセルとの間に確執が生じるようになっていく。


-1987年-

 JPSがフォーミュラーワンから撤退し、新たにキャメルをメインスポンサーに迎えたロータスは、マシンのボディカラーをそれまでのJPSブラックから目の覚めるような鮮やかなキャメルイエローに変更。
 また、アイルトンの再三の要求に応える形で、それまで長い間共に戦ってきたルノーエンジンに別れを告げ、新たにホンダエンジンを搭載する事になった。
 さらに、ロータスはこの年に極東の島国から単身フォーミュラーワンに乗り込み、初の日本人F-1ドライバーとなった中島悟と契約。アイルトンと中島は、この年のシーズンをチームメイトとして共に戦う事になった。
 後に中島は、この時のアイルトンは、F-1一年生の自分の面倒を良くみてくれたと語っている。
 潤沢な資金と、当時最強を誇ったホンダエンジンを獲得したアイルトンは、フォーミュラーワン4年目のこの年に、並々ならぬ決意を秘めていた。
 それは、初のドライバーズタイトルの獲得。
 既に、前年にタイトル争いを経験していたアイルトンは、この年に初の年間チャンピオンの座に着くべくシーズンに望んだ。
 しかし、この年にロータスが新しく導入したアクティブ・サスは、信頼性に乏しく、トラブルが多発した。
 第4戦のモナコGP、第5戦のデトロイトGPにおいて、タイヤの磨耗が少ないというアクティブ・サスの利点を生かし、長いレースディスタンスをタイヤ無交換で走る事で連勝を決めるが、結局優勝はこの2回だけで、やがて表彰台からも嫌われるようになっていく。
 予選でもいつもの速さが見られず、精彩を欠き、ポールポジションは僅か1回という結果に終わった。
 第11戦のイタリアGPでは、予選4位からのスタートながら順調に周回を重ね首位に立つ。が、終盤でトップ独走中に痛恨のコースアウト。何とかレースに復帰するが2位に終わり、この時点でチャンピオン争いから脱落する。
 さらに、最終第16戦のオーストラリアGPでは、2位でゴールしたものの、レース後の再車検でブレーキダクトのレギュレーション違反が発覚し失格。年間ランキング3位に終わった。
 ちなみに、この年は鈴鹿で初の日本GPが開催された年でもある。
 カート時代以来、久々の来日となったアイルトンは、予選7位からスタートするも、順調に順位を上げていき、最終的に2位でフィニッシュ。ホンダエンジンに、母国での初グランプリ初表彰台をプレゼントした。
 また、この年はホンダエンジンがその強さを見せ付けた年だった。
 第7戦のイギリスGPでは、チームメイトの中島やウィリアムズのピケらと共に、ホンダエンジン勢で1位から4位を独占する快挙を成し遂げている。


-1988年-

 この年、3年間のパートナーシップを続けてきたロータスに別れを告げ、アイルトンはマクラーレンに移籍した。
 マクラーレンは、この年からホンダエンジンを搭載し、さらにアイルトンのチームメイトは、当時既に2度のワールドチャンピオンを獲得していたトップドライバー、アラン・プロストだった。
 アイルトン、プロスト、マクラーレン、ホンダ。
 以降4年間に渡る、マクラーレンの黄金時代の幕開けである。
 マクラーレンのニューマシン、MP4/4とホンダエンジンの相性は素晴らしく、加えてワールドチャンピオン経験を持つプロストと、ワールドチャンピオンを狙える実力を持つアイルトンは、後に「史上最強のコンビ」と評されるほどの活躍を見せた。
 アイルトンとプロストは、シーズン開幕と同時に他の追随を許さない連勝記録を打ち立てていく。
 最終的に、全16戦中15戦で、プロストかアイルトンのどちらかが必ず表彰台の頂に上るという快挙を成し遂げ、マクラーレンは驚異的なペースでコンストラクターズポイントを重ねていき、なんと第11戦のベルギーGPで早くもコンストラクターズチャンピオンが決定してしまうという異常事態を発生させてしまう。
 しかし、肝心のドライバーズタイトルは、シーズン終盤までもつれ込んだ。
 アイルトンとプロストは、同じチームメイト同士でありながら、ライバル心をむき出しにして優勝を争い、タイトルの行方は、結局第15戦の日本GPまでもつれ込んだのだ。
 このレースで、アイルトンは予選トップ通過を決め、ポールポジションを獲得する。
 ところが、肝心の決勝でスタートを失敗してしまい大きく後退。一時は、優勝どころか表彰台すら危ぶまれた。
 しかし、既にシーズン7勝を挙げていたアイルトンは、ノリに乗っていた。
 スタートミスにも悲観する事なく、逆に闘争心を奮い立たせ、先行するライバル達を一台、また一台と抜いていく。
 結局、終わってみればポールトゥウィンでアイルトンがレースを制し、ホンダエンジンの母国で、自身初となるワールドチャンピオンを獲得! 5年目にして、アイルトンはフォーミュラワンの頂点を極めた。
 最終的に、アイルトンはこの年、16戦中8勝、ポールポジション13回という、前年までとは比較にならないほどの成績をあげ、チームメイトのプロストと共に、マクラーレン勢は10回もの1-2フィニッシュを決めた年だった。
 しかし、第13戦のポルトガルGPにおいて、アイルトンが故意に幅寄せしたとしてプロストが抗議。物議を醸し出し、マンセルに続いてプロストとも関係に溝が出来始める。


-1989年-

 ディフェンディングチャンピオンとして89年のシーズンを迎えたアイルトンは、それまで長く付き合ってきたカーナンバー12に別れを告げ、チャンピオンの証であるカーナンバー1のマシンに乗る事になった。
 開幕戦は、前年と同じく母国ブラジルで開催された。
 しかし、前年にはレース中の違反行為で黒旗失格。
 その前の年には、マシントラブルでリタイアと、母国開催のレースに良い思い出がないアイルトンだが、この年はワールドチャンピオンになって帰ってきた年である。
 念願の母国グランプリ初優勝に向けて、アイルトンは並々ならぬ決意を持っていたに違いない。
 予選では、その決意が表れポールポジションを獲得。ところが、決勝では精彩を欠き、屈辱的な11位という最悪の結果に終わってしまう。
 第2戦以降、ようやく本来の走りを取り戻したアイルトンは、第4戦のメキシコGPまで3連続のポールトゥウィンを達成。 第5戦のアメリカGPでは、決勝でファステストラップを叩き出しながらもリタイアしてしまうが、前年の第14戦、スペインGPからこの年のこのアメリカGPまで、8戦連続ポールポジション獲得という大記録を達成。この記録は、現在に至るも未だ破られていない。
 また、このアメリカGPで獲得したポールポジションは、自身の通算ポールポジション獲得回数の34回目に当り、それまでジム・クラークが保持していた最多ポールポジション獲得回数33回を、実に21年ぶりに更新するモノでもあった。
 これを含め、アイルトンはこの年、前年と同じく13回のポールポジションを獲得。ただし、優勝回数は6回と、前年と同等と言うほどの成績ではなかった。
 しかも、優勝と同様にリタイアも多く、6回ものレースでリタイア、ノーポイントに終わってしまう。
 アイルトンに対するチームメイトであり最大のライバルでもあるプロストは、優勝こそ少ないモノの、終始安定した順位でポイントを重ね、タイトル争いを終始リード。
 最終的に、第15戦の日本GPにおいて、アイルトンとプロストがシケインで接触しプロストはリタイア。アイルトンはレースに復帰するも、シケインのショートカット(注:後にストールしたエンジンの押し掛けに変更)のため、レース後に失格が決定。プロストの3度目のタイトルが決まった。
 またこの接触がレース後「故意によるものではないか?」と問題となり、FIAはアイルトンのスーパーライセンス(注:一般的に、F-1に出場するために必要とされているレーシングドライバーライセンスの1種と言われているが、実際には“スーパーライセンス”というライセンスは存在しない。ただし、F-1に出場するには、国際A級ライセンスと同時に、FIAが定める複数の条件のいずれか一つの条件を満たしていなければならず、この条件を満たしている事を認める認定証が、実質的なスーパーライセンスと考えてよい)剥奪も検討した。
 最終的に、スーパーライセンス剥奪は免れたが、これが決定打となり、アイルトンとプロストの確執は決定的なモノになる。
 アイルトンはマクラーレンに残留したが、プロストはフェラーリへの移籍を決意する。


-1990年-

 この年は、チームメイトにプロストにフェラーリを追い出された形になったゲルハルト・ベルガーを迎え、前年から問題になっていたライセンスが、開幕直前の2月になってようやく発行(注:そのため、前年に年間ランキング2位だったにも関わらず、アイルトンのカーナンバーは27になった)され、アイルトンはシーズン開幕戦を向えた。
 前年のシーズンを共に戦ったマクラーレンのMP4/5の改良型、MP4/5B(名車。通称“バットマンディフューザー”と呼ばれる立体的なデザインの大型リアディフューザーが特徴的なマシン)を駆るアイルトンは、前年、及び前々年と同じく、フェラーリに移籍したプロストと、三度タイトルを争う事になる。
 予選では、最早自身の“定位置”となったポールポジションを10回獲得。第14戦のスペインGPでは、目標だった通算50回目のポールポジションを獲得し、決勝でも6勝を挙げた。
 だが、その背後にはいつもプロストがいた。
 プロストは、スペックでマクラーレンに搭載されたホンダエンジンに劣るフェラーリエンジンながら、終始安定した走りで堅実にポイントを重ね、トップを行くアイルトンの後塵を、まるで背後霊のように付きまとい続けた。
 結局、タイトル争いはシーズン終盤までもつれ込み、タイトル決定戦は、またもや第15戦の日本GPになった。
 予選でポールポジションを獲ったのは、やはりアイルトンだった。
 しかし、フロントロー(注:予選2位)に着けたのも、やはりプロストだった。
 アイルトン対プロスト。
 前年と全く同じ構図は、なんとその結果までもが、前年の再現となった。
 スタート直後、イン側のアイルトンは、ラインを譲る事なく1コーナーに飛び込む。
 しかしアウト側からスタートしたプロストも、アイルトンに1コーナーを譲る気など毛頭なかった。
 サイドバイサイドで1コーナーに飛び込む両者。
 両者譲らず。
 両者先行せず。
 従って、結果は、当然の事ながら、接触。
 前年のクラッシュをそのまま再現した形になった両者。唯一つ違っていたのは、ドライバーズポイントでリードしていたのが、プロストではなくアイルトンだったという点である。
 両者リタイアという、何とも後味の悪い結果に終わったが、この時点でプロストの逆転がなくなり、アイルトンが2年振り、2度目のワールドチャンピオンを決めた。
 またこのレースでは、この年にフォーミュラーワン3年目を迎えた鈴木亜久里が、日本人ドライバー初の3位表彰台に昇るという快挙を成し遂げて話題になった。
 シーズン終了後、ワールドチャンピオンの表彰式において、ホンダの創始者である本田宗一郎氏と交わした熱い抱擁に、アイルトンは涙を流した。


-1991年-

 再びディフェンディングチャンピオンとなったこの年、マクラーレンとホンダは、新開発のMP4/6型のシャシーと、これまた新開発のV12気筒エンジンを満を持して実戦投入した。
 しかし、オフシーズンの開発が遅れに遅れ、満足にテスト出来ないまま開幕戦を迎える事になった。
 だが、アイルトンは開発の遅れやテスト不足などないかのごとく、開幕戦からいきなりポールトゥウィンを決める。
 続く第2戦のブラジルGPでは、ポールポジションからスタートするも、レース序盤からいきなりギアボックスにトラブル発生。レースが進むにつれ、症状はどんどん悪くなっていき、レース終盤には、なんと6速以外のシフトが全て入らなくなってしまう。
 だが、アイルトンはそれに悲観する事なく、母国グランプリ初優勝に向けて気力だけで走り続けた。
 世界最高峰の自動車レース、フォーミュラーワンに挑戦して8年目。 これまで、何度もそのチャンスがありながら、寸でのトコロで逃し続けていた、母国グランプリでの優勝。
 そして、チェッカーを受けた瞬間、アイルトンは絶叫した。
 グランプリ初優勝を決めた、85年のポルトガルGPよりも。
 初めてのタイトルを決めた、88年の日本GPよりも。
 前人未到の通算50回目のポールポジションを決めた、90年のスペインGPよりも。
 二度目のタイトルを決めた、90年の日本GPよりも。
 どんなレースよりも、どんな記録よりも、どうしても欲しかった悲願の、悲願の母国グランプリ優勝の栄冠。
 ゴールしたアイルトンは、コクピットの中で大声を上げて歓喜した。
 表彰台の頂きに立ったアイルトンは、疲労困憊で上がらなくなった腕に鞭打って、自分自身にシャンパンシャワーを浴びせて、自らを称えた。
 これを含め、この年のアイルトンは第4戦のモナコGPまで、前人未到の開幕4連勝の大記録(注:ただし、この記録は翌年マンセルにあっさり抜かれる)を打ち立て、早くもタイトル争いに王手をかける。
 しかし、好調に見えたこの成績は、それとは対照的なチームメイトのベルガーの成績の方が、マシンのコンディションを如実に表しているというのが、アイルトンとベルガーの共通した見解だった。
 そのため、アイルトンは事ある毎にホンダのエンジニアに改善を要求。時には、プレスのカメラに向かって「ホンダよ、もっと仕事しろ」と檄を飛ばすほどだった。
 これを立証するかのごとく、第5戦以降のアイルトンの成績は低迷し、第9戦のドイツGPまで、優勝とは縁のないレースが続くことになる。
 しかし第10戦、ハンガリーGPの直前、アイルトンにとっても、チームにとっても重大なニュースが飛び込んでくる。
 ホンダの創始者、本田宗一郎氏死去。
 前年のワールドチャンピオンシップの表彰式において、「来年も良いエンジン造るよ!」と、力強くアイルトンに約束した人が、帰らぬ人となった。
 このニュースに、アイルトンとホンダ陣営は自らを奮い立たせた。
 そしてアイルトンは、ホンダのスタッフはもちろんの事、マクラーレンのクルーに至るまで、腕に喪章を巻き、亡き本田宗一郎氏の弔い合戦にすべくハンガリーGPに挑んだ。
 その気迫がアイルトンを、ホンダを、マクラーレンを変えた。
 アイルトン・セナ、ポールトゥウィン。
 アイルトンは、6戦振りの優勝を、天国の本田宗一郎氏に捧げた。
 波に乗るアイルトンとマクラーレンは、続く第11戦、ベルギーGPを制し、再びドライバーズタイトルで首位に立つ。
 ところが、続く第12戦、イタリアGPにおいて、ポールポジションを獲得しながらも、この年フェラーリからウィリアムズに移籍したマンセルに及ばず、2位に終わってしまう。
 これを機に、ウィリアムズとマンセルは連勝を重ね、アイルトンはロータス時代と同じように、マンセルの後塵を拝するようになってしまう。
 結局、タイトルはまたしても、第15戦の日本GPが決定戦の場になった。
 マンセルは、何としてもこのレースに勝ち、続く最終戦のオーストラリアGPにタイトル獲得をかけるつもりだった。
 対するアイルトンは、ポイント差で有利に立っているとは言え、追われる者の弱みからこのレースでとっととタイトルを決めてしまいたかった。
 アイルトンは、予選をチームメイトのベルガーに譲り、自身はフロントローからスタートした。ベルガーを先行させ、自身は後ろに居るマンセルを抑える事で、自身が優勝しなくても、“マンセルの優勝を阻止”する事で、チャンピオンシップポイントで有利に立つ作戦に打って出たのである。
 アイルトンの執拗なブロックに業を煮やしたマンセルは、10周目のホームストレートでアイルトンのスリップストリームから出てオーバーテイクにかかる。が、焦りが出たのか1コーナーでコースアウト。
 この瞬間、マンセルのリタイア、ノーポイントが決まり、アイルトンは2年連続、3度目のワールドチャンピオンを決めた。
 その後、レースは終始安定したペースで進み、アイルトンはベルガーを抜いてトップに立つ。2台は、3位以下を大きく引き離していった。
 しかし、チェッカー目前のホームストレートで、アイルトンは後ろのベルガーを呼び寄せ、これまで自分を全面的にバックアップしてくれたチームメイトに感謝の意を込め、ベルガーに優勝を譲った。
 これは、実はアイルトンとベルガーが事前に決めた取り決めで、「1周目の1コーナーに先に飛び込んだ方に優勝を譲る」(注:2番目になった方は、マンセルのブロック役に徹する)という約束をアイルトンが守ったモノだったが、これを知らされていなかったチーム監督のロン・デニスと、レース後3人で議論になったそうだ。
 最終戦のオーストラリアGPでは、通算60回目のポールポジションを獲得するも、大雨のためレースは僅か14周で終了。獲得ポイントが半分になったが、アイルトンはこのレースに優勝し、有終の美を飾った。
 また、かつてチームメイトだった中島悟は、このシーズンを最後にレーシングドライバーを引退し、日本国内でF-3000(注:後のフォーミュラーニッポン)やGT選手権(注:後のスーパーGT)で自らチームを率いて、若手の育成に務めるようになる。


-1992年-

 2年連続のワールドチャンピオンに輝き、再びディフェンディングチャンピオンとなったアイルトンは、前人未到の3年連続ワールドチャンピオンをかけて92年のシーズン迎えた。
 長年のライバルだったプロストや、同郷の先輩であるネルソン・ピケが引退し、ライバルが減ったアイルトンにとっては、この目標は難なく達成出来ると考えていた。
 しかしアイルトンは、開幕戦から思わぬ劣勢を強いられる事になる。
 マクラーレンのニューマシンの開発が遅れ、アイルトンは前年のマシンの改良型であるMP4/6Bで開幕戦に望んだ。
 しかし、最大のライバルとなったのは、前年のシーズン終盤でアイルトンとマクラーレンを苦しめたウィリアムズとマンセルだった。
 この年、ウィリアムズは長い間研究開発を続けていたハイテクデバイス、アクティブ・サスとTCSを満を持して導入。マシンそのモノは、前年モデルの改良型であるFW14Bだったが、このハイテクデバイスの装着により、走行安定性が飛躍的に向上し、マンセルは開幕戦をポールトゥウィンで飾ると、続く第2戦のメキシコGP、第3戦のブラジルなど、前年にアイルトンが打ち立てた開幕4連勝の記録をあっさり打ち破り、前人未到の開幕5連勝を達成。
 対するアイルトンとマクラーレンは、第3戦のブラジルGPでニューマシンのMP4/7を投入するも、開幕戦の南アフリカGPと第5戦のサンマリノGPで3位に入ったのが最高で、それ以外はリタイヤや、入賞外の9位という屈辱的な順位に甘んじなければならなかった。
 シーズンを通してこの傾向は続き、結果的に、アイルトンは全16戦中4回しか優勝することが出来なかった。
 それはまるで、かつてロータス時代にホンダエンジンで常勝を重ねたウィリアムズを再現しているかのような光景だった。
 しかし、そんな低調な成績が続く中、世界中のF-1ファンに「さすがアイルトン!」と言わしめるレースを見せ付ける事もあった。
 この後、長いフォーミュラーワンの歴史の中でも1、2を争う名勝負と呼ばれる事になる、“モナコGPの奇跡”である。
 シリーズ序盤の山場は、常にモナコGPである。
 まだフォーミュラーワンカテゴリーが設立されていなかった1942年に初めて開催されたこのレースは、モナコ市内の名所を巡る市街地コースで行われ、市街地ならではのテクニカルでタイトなコーナーが連続する難コースながら、数々の名勝負が展開された。
 フォーミュラーワンカテゴリーが設立されると、モナコGPはフォーミュラーワンシリーズに組み込まれ、シーズン序盤の重要なレースとして常に注目されるようになる。
 アイルトンは、F-1デビュー当時からこのレースを得意としており、デビューイヤーの84年には、大雨の中2位に入ってグランプリ界を驚かせた。
 さらに、87年の同レース初優勝を含めて、アイルトンはモナコ4勝という驚異的な勝率を誇っており、加えて89年から91年までに3連勝しており、この年は前人未踏のモナコ4連勝がかかっていた。
 対するマンセルは、前人未到の開幕6連勝がかかっており、タイトル争いでシーズン後半を有利に進めるためにも、アイルトンを抑えてこのレースを制する必要があった。
 マンセルは、前評判通りに予選でポールポジションを獲得した。対するアイルトンは、精彩を欠いて予選3位に甘んじる。
 決勝でも、両者の順位はほとんど変わらず、アイルトンが2位に浮上するも、マンセルはアクティブ・サスとTCSという秘密兵器を装備したマシンで異次元の走りを見せ付け、2位のアイルトンに28秒もの大差を付けてトップを独走する。
 ところがレース終盤、ピットから思わぬ指示がマンセルに入る。ピットインしろと言うのだ。
 ワケが分からないマンセル。
 一説によると、ピットのテレメトリーがスローパンクチャーを示唆するデータを表示したため、大事をとってのピットインだったらしいが、正確なところは分かっていない。
 マシンに不調が見られないマンセルは、しかしピットの指示に従い、残り8周というタイミングでピットインした。
 ところが、このピットインが最悪の形で裏目に出る。
 ピットクルーのミスにより、このタイヤ交換に異常に時間を取られてしまうマンセル。
 その様子を、マクラーレンのピットは無線でアイルトンに知らせた。
 それを聞き、レースを諦めかけていたアイルトンは、自らを奮い立たせた。
 何とかピットを後にするマンセル。予想外に時間がかかってしまった。だが、アイルトンとの差は28秒もあるのだ。簡単には抜かれはしない。たとえ抜かれても、すぐに抜き返してやるさ。
 マンセルは、そんな事を思いながら、ピットを後にしたのかもしれない。
 しかし、コーストラックに戻ったマンセルは、ピットレーンの出口で我が目を疑った。
 何故なら、マンセルの目の前を今通り過ぎていったのは、28秒以上後ろを走っていたハズのアイルトンのマシンだったからだ。
 そしてラスト7周。
 グランプリの歴史に今尚語り継がれる、アイルトン対マンセルの炎のようなバトルが始まる!
 既にモナコ4勝を上げているアイルトンは、レースを完璧に把握していた。
 コース幅が狭く、トリッキーでタイトなコーナーが連続するモンテカルロの市街地コースは、ポールポジションからのスタートが絶対条件と言われるほどオーバーテイクが難しいコースである。
 ラインを僅かにずらすだけで、簡単に後続をブロック出来るからだ。
 マシンスペックで劣るアイルトンは、ハイテクデバイスに身を固めたマンセルにあっという間に追いつかれてしまう。
 しかしアイルトンにとっては、それは予想の範囲内だった。 アイルトンは焦る事なく、しかしマンセルに譲る事なく、まるで前年の日本GPの再現のように執拗にマンセルのレコードラインをブロックし、マンセルを一歩たりとも前に行かせなかった。
 怒ったマンセルは、ピットクルーを介してマーシャルに「ブルーフラッグをもっと振れ!」と要求。(注:ブルーフラッグは、前走者に対して“後続車に抜かせなさい”という意味を持つ。本来は、周回遅れのマシンやトラブルを抱えてスローダウンしたマシンに対して振られるモノ。ただし、悪質な場合を除くが、無視しても基本的にペナルティはない) 実際、マーシャルはアイルトンに対してブルーフラッグを振ったが、アイルトンはこれをことごとく無視。
 そして、まるで86年のスペインGPの時のように、超僅差での勝利をモノにする。チェッカーを受けた時のマンセルとの差は、僅か0.215秒しかなかった。
 アイルトン自身、69年にモナコマイスターと呼ばれたグラハム・ヒルが打ち立てたモナコGP通算5勝に並ぶタイ記録を打ち立て、連勝記録を4に伸ばした。
 マンセルは、開幕連勝記録が5でストップ。
 またこのレースは、モナコGP通算50回目の記念レースでもあった。
 その後、ハンガリー、イタリア、日本の各GPで優勝するが、マンセルとウィリアムズを脅かす存在にはなれず、アイルトンはメキメキと頭角を現してきた新人、ミハイル・シューマッハの後塵を拝するランキング4位という不本意な結果に終わった。
 また、この年を最後に、ホンダはグランプリでの活動の一時休止を発表。
 アイルトンとホンダのパートナーシップは、6年で終わりを告げる事になった。


to be continued...

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042.Dear AYRTON-Part.1

2009年05月08日 | フリートーク

-Free Talk #06a-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先日の事、ちょっと想うトコロがあって、Valve社のCS1.6を買いました。
 2000年にリリースされ、CS:Sの前身となったこのゲームは、基本的にCS:Sと同じ内容なんですが、ゲームエンジンがHavokベースのSourceエンジンではなく、QuakeエンジンベースのGold Sourceエンジンの上、マップデザインが微妙に違っていたり、ゲームエンジンの関係上、既に9年も前のゲームというコトもあり、グラフィック的にはCS:Sにかなり劣る内容です。
 しかし、やはり一昔前のゲームなので、要求するマシンスペックがかなり低く、また聞いたハナシによると、CS:Sと比較してリコイルコントロールが異なるため、かなりHSし難いとのコト。
 最近、自分自身のCS:Sのプレーヤースキルに頭打ちを感じてきたので、CS:Sに良く似た、“CS:Sとは異なるゲーム”をプレイする事で、何とかこの頭打ち状態を打開出来ないモノかと考えたのです。
 で、CSをSteamでDL購入して早速ゲームを起動。すると、何故か見慣れぬダイアログが。
 英文だったのでよく分かりませんが、どうやら「VGAがサポート対象外だからソフトウェアレンダリングモードで起動するね。」的な事が書いてある様子。

…………はい?(´・ω・`)??

 とりあえずゲームは起動したので、サバ作成機能を使ってソロでどんなカンジか見てみる事にしました。
 “ソフトウェアレンダリングモード”ということらしいので、下手すりゃfps30切るんじゃないかと思いましたが、やってみたカンジは大丈夫そう。最低限、ディスプレイのリフレッシュレート(60Hz)程度のfpsは出ている様子。

なんだ。問題ないじゃん。

 ゲームのオプションからはVシンクを切れないようなので、後でディスプレイプロパティで強制Vシンクオフにすりゃいっか。 などと思いながら、壁撃ちなどしたりしてみました。
 が、試しに投げモノの具合を見てみようと思い、SGを投げた次の瞬間!

重ッ!!

 視界に煙が広がると、fpsが極端に喰われ、ヘタするとfps一ケタになってるんじゃないかと思えるほどカクつくカクつく。(笑)
 ダメこりゃ。
 何とかハードウェアレンダリングモードに切り替える手を探そう。
 で、オプション設定やディスプレイプロパティを色々弄った結果、レンダリングモードを“D3D”にして、Vシンクを強制オフにすれば、何とかハードウェアレンダリングモードで起動したので、今はそれでプレイしてます。
 しかし、fpsはリフレッシュレートが平均値。場合によっては30程度になる事もしばしば。
 加えて、件のSGが明らかにおかしい。
 SGが展開しても、微妙に暗くなる程度で視界が全く潰れない。ほぼ完全に煙が透過されている状態で、もうチートそのモノです。
 ネットなどで色々調べてみましたが、解決法分からず。
 なので、さすがにベーシックルール系のパブサバには接続出来ないので、もっぱらDM系のサバで遊んでます。
 まあ、元々射撃スキルの矯正のために買ったゲームなので、DMのみなのはむしろ好都合なのですが、やはりこの状態はあまり気分の良いモノではありません。
 もしも解決方法をご存知の方、いたら教えて下さいませませ。(願)



 それはさて置き、今週はタイトル通りのフリートークコーナーです。
 ブログなので当たり前と言えば当たり前なんですが、今回は、いつにも増して極めて個人的な内容です。
 なので、興味の無い方はムリに読んで頂かなくてもいいです。
 ホント、ただ単に、僕が個人的に書いておきたいと思っただけなので。
 一応、今週も最後までよろすこです。


・15年前の悲劇

 その時、誰もが我が目を疑った。
 1994年5月1日、日曜日。
 場所はイタリア、エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県、イモラ。
 世界最高峰の自動車レース、フォーミュラーワングランプリ、94年シーズンの第3戦、サンマリノGP、決勝。
 カーナンバー2のウィリアムズFW16ルノーは、スタートから7週目、コントロールラインから1km余りの位置にある高速左コーナー、“タンブレロ”を突如直進。 250km/hオーバーのスピードのまま、コンクリートウォールに激突。
 レースは、この事故のため一時中断された。
 確かに、モータースポーツは危険な競技である。 最高300km/hオーバーのスピードで、鉄とアルミとカーボンのカタマリが、100リットルもの化石燃料を搭載して走るのだ。 それは、ドライバーが常に死と隣り合わせで居る事を意味している。
 しかし、そうであるが故に、このような大事故が起こったとしても、それはある意味必然的な事であり、ある意味当たり前の事であり、モータースポーツであるならば、カテゴリーを問わず、世界中の何処にでもある“よくある光景”だ。
 だが、この事故だけは筆者にとっても、またフォーミュラーワン界にとっても、世界中のモータースポーツファンにとっても、極めて、極めて特別な事故だった。
 何故なら、その時このマシンをドライブしていたのが、アイルトン・セナだったから……。
 今回は、15年前にこの世を去った“音速の貴公子”、アイルトン・セナを偲び、『asayan的アイルトン・セナ追悼記』を記していきたいと思う。


・悪夢の3日間

 ではまず、当時の記録を元に、1994年のフォーミュラーワンシーズン第3戦、サンマリノGPのレースウィークを順を追って再現してみよう。
 そもそも、この年のサンマリノGPは予選からおかしかった。
 4月29日、金曜日。
 予選1日目の午後1時17分、バリアンテ・パッサでルーベンス・バリチェロがクラッシュ。マシンが宙に浮くほどの速度でコンクリートウォールに叩きつけられるという大事故であったにも関わらず、バリチェロは鼻骨を折る程度で済んだ。
 バリチェロは、レースに出場出来なくなり悔しがったが、幸いにも命に別状はなかった。
 4月30日、土曜日。予選2日目。
 予選のタイムアタックが始まった時、ドライバーやチームのメカニック、コースマーシャル、さらにはレースの主催者に至るまで、誰もが「トラブルは昨日で終わりさ。」と楽観していた。
 しかし、予選開始から僅か18分後、それが誤りであった事を全ての関係者が悟った。
 午後1時18分、ビルヌーブ・コーナーで、今度はローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュ。
 すぐさまレスキュー隊が駆けつけ、ラッツェンバーガーに応急処置を施したが重体。ヘリコプターでボローニャの病院に搬送され、医師達による懸命な処置が続けられたが、事故から約1時間後の午後2時15分、間もなく死亡が確認された。ほぼ即死の状態だった。
 前日のバリチェロの事故は、それが終わりのカーテンコールではなく、始まりの1ベルだったのだ。
 明けて日曜日。
 運命の5月1日、日曜日。
 サンマリノGP、決勝。
 前日までの予選でスーパーラップを叩き出し、自身通算65回目のポールポジションを獲得したアイルトンは、この決勝に並々ならぬ意欲を燃やしていた。
 それまでの開幕戦のブラジルGP、そして第2戦のパシフィックGP(注:この前年に新設されたばかりの日本のTIサーキット英田で開催された初めてのGPレース。これを含めて、この年は英田と鈴鹿で2回のGPが日本で開催された)で、アイルトンは2戦ともリタイア、ノーポイントのままこの第3戦を迎えた。
 対するライバル達は、若手の中でも一際有望と言われていたミハエル・シューマッハが、この年になっていよいよ本領を発揮し、前2戦で連勝。チャンピオンシップポイントでトップに立っていた。
 アイルトンは、既に3度のワールドチャンピオンを獲得していたが、92年にはナイジェル・マンセルに。93年にはアラン・プロストに、それぞれチャンピオンを奪われ、苦しいシーズンが続いていた。
 しかも、先の二人が乗っていたのは、今自分が乗っているウィリアムズ・ルノーのマシンだった。
 4度目のワールドチャンピオンを狙うアイルトンは、それまで6年もの長きに渡って3度のワールドチャンピオンの座を獲得したマクラーレンを去り、ワールドチャンピオンが狙えるマシンを求めてウィリアムズと契約した。
 しかし、いざフタを開けてみればこの通り。ワールドチャンピオンを狙うどころか、1勝を挙げる事すらままならない状況が続いていたのだ。
 しかし、焦ってはいけない。
 焦っては、またリタイアしてノーポイントになってしまう。
 しかも、前日と前々日の予選では、死者が出るほどの大事故があったばかりだ。
 大丈夫。まだ3戦目だ。今日からでもきっと巻き返せる。
 焦るな、焦るな、焦るな……。
 レース前、スターティンググリッド上で、もしかしたらアイルトンは、そんな事を考えていたのかもしれない。
 午後2時2分。フォーメーションラップが終わり、レースはスタートした。
 だがその直後、再び事故が起こった。
 グリーンシグナルと共に、アイルトンは快調にスタートした。 しかし、後方からスタートしたJ・J・レートとペドロ・ラミーが1コーナーで激しく接触。 飛散したタイヤが観客席に飛び込み、8人が負傷する大事故が発生した。
 コースマーシャルはすぐさまイエローフラッグ(注:“コース上危険有り注意”の意)を振り、セーフティカー(注:コース上の危険物を取り除く作業中、レースカーの走行スピードを一定以下に抑えるためにコースを走行する先導車。コレを追い越すと失格になる)が出動し、レースは一時中断となった。
 この瞬間、誰もが悟ったハズだ。
 今年のイモラは何かがおかしい。
 しかし、先にも記したように、モータースポーツは死と隣り合わせの危険な競技であり、このような出来事は日常茶飯事である。
 レースの進行に問題がなければ、レースは最後まで続けられる。
 この時も、やはり同じだった。
 クラッシュしたレートとラミーは軽傷で、マシンは大破したがすぐにどかせられる状態だった。
 マーシャルたちは大破したマシンを回収し、コースに散乱したパーツを拾い、こぼれたオイルを処理した。
 セーフティカーが出動して5周が経過した午後2時15分、セーフティカーがコースアウトし、マーシャルのグリーンフラッグ(注:“安全確保”の意)が振られた瞬間、レースは再開した。
 スターティンググリッドとほぼ同じ順位でレースを再開するマシン。そのトップは、もちろんポールポジションを獲ったアイルトンだ。
 6週目、アイルトンは、今期初勝利に向けてトップを快走した。実際、レースの中継映像を見ても、この時のアイルトンは、それまでの2戦とは打って変わって快調に見えた。
 しかし7週目、コントロールラインから約1kmの地点にある、イモラサーキット名物の左コーナー、タンブレロ。 6速全開。オーバー300km/hで駆け抜ける世界でも有数の超高速コーナーだ。
 このサーキットを走った事のあるドライバーは、誰もが「ステアリングを僅かに切るだけで曲がれるイージーコーナー」と言い、しかし同時に、誰もが「勇気を試されるコーナー」と呼ぶこのコーナーに飛び込んだアイルトンのウィリアムズFW16ルノーは、コーナー出口を真正面から捉えるカメラのフレームに右側からフレームインし、画面ほぼ中央のコーナーアウト側一杯でその後に続くストレートセクションに入る。 ……ハズだった。
 午後2時17分、レース再開から僅か2週目。
 予定通り、カメラのフレームに右側からフレームインしたFW16は、しかしコーナーエンドを立ち上がる事なく直進。
 マシンは、オーバー250km/hの猛スピードのままコンクリートウォールに激突した。
 もう一度言おう。
 その時、誰もが我が目を疑った。
 フロントとリアのウィング、右側のフロントとリアのタイヤとサスアーム、さらには右側のサイドポンツーンに至るまで、完全に大破したアイルトンのFW16は、まるでカーリングのストーンのようにコースサイドを滑り、コーストラックの縁石直前で停止。
 その瞬間、アイルトンの首が僅かに動いたように見えた。
 しかしそれ以降、アイルトンは、まるで意志を持たない化石のように、動かなくなってしまう。
 マーシャルが、狂ったようにイエローフラッグを振りながら、アイルトンの下に駆け寄る。 そして、すぐさまレスキューチームの必要性を悟り、振っていたイエローフラッグをレッドフラッグ(注:“危険、レース中断”の意)に代えた。
 レスキューチームによって、アイルトンに気道確保の応急処置が施された。 その間に、要請を受けたヘリコプターが現場に到着。レスキューは、アイルトンに生命維持装置を接続し、注意深くヘリに乗せた。
 午後2時25分、ヘリコプター離陸。
 ボローニャ市内にあるマジョーレ病院(注:前日、及び前々日のラッツェンバーガーとバリチェロもこの病院に搬送された)に搬送されていった。
 アイルトンが寝かされていた地面には、直径1メートルに及ぶ血溜りが出来ていたという。
 午後3時、ヘリコプターがマジョーレ病院に到着。アイルトンの命運は、待ち受けていた医師団の手に委ねられた。
 それと時を同じくして、サーキットでは5週目終了時点での順位とタイム差のまま、残り53周を周回する2ヒート制にルールを変更して再開。
 しかし、レース終盤の49周目、今度は最後のタイヤ交換を済ませてピットアウトしようとしたミケーレ・アルボレートの右リアタイヤがメカニックのミスで外れ、近くにいたフェラーリとロータスのクルーを薙ぎ倒した。
 幸い軽傷で済んだが、これがコーストラック上で起きていたらと思うと背筋が寒くなる。
 午後4時17分。
 結局、レースはシューマッハが開幕3連勝を決めて終了した。
 だが、表彰台に立ったシューマッハら三人の表情に笑顔はなく、恒例のシャンパンファイトも行われなかった。
 誰もが、そんな気分にはなれなかった。
 誰かが言った。

「イモラの丘には魔物が棲む。」

 1987年には、ネルソン・ピケが。
 1989年には、ゲルハルト・ベルガーが。
 1991年には、ミケーレ・アルボレートが。
 1992年には、リカルド・パトレーゼが。
 タンブレロで大事故を起こしたドライバーは多い。
 しかし、その誰もが軽傷で済んでいる。
 イモラの丘に棲む魔物は、それまであわや大惨事のクラッシュを引き起こすイタズラを何度もしてきてが、ドライバーの命を奪うまでの事は滅多にしなかった。
 だが、イモラの丘に棲む魔物は、FW16を駆る34歳のブラジル人だけは、生還を許さなかった。
 午後6時3分、アイルトン・セナ、脳機能停止。
 午後6時40分、アイルトン・セナ、心停止。
 それから約1時間後の午後7時45分、担当医のフィアンドリア女医は、記者会見の席上、集まったプレス一同に沈痛な面持ちでこう言った。

「アイルトン・セナは、生きることをやめました。」

 本名、アイルトン・セナ・ダ・ジルバ。
 “音速の貴公子”と呼ばれ、3度のワールドチャンピオンに輝き、祖国と、家族と、モータースポーツをこよなく愛したブラジルの英雄は、この瞬間、帰らぬ人となった。
 直接の死因、頭蓋骨の複雑骨折による脳挫傷。
 享年34歳。
 フォーミュラーワンに初めて参戦してから、丁度10年の歳月が流れた時だった。


・その時何が起こったのか?

 では次に、当時の記録、及びその後に明らかになった事実を元に、クラッシュの瞬間とその原因を検証してみよう。
 アイルトンのクラッシュは、実は謎が多い。
 その一番の原因は、アイルトンのマシンがトラブルを起こした瞬間、すなわちタンブレロの途中でコントロールを失うその瞬間を明確に捉えた映像残っていないからだ。
 アイルトンのクラッシュの瞬間を最も近くで見ていたのは、アイルトンの真後ろを走っていたシューマッハだった。
 当時、シューマッハはレース後、その瞬間の事を次のように語っている。

「アクシデントが起きた1週前から、あのコーナーでセナのマシンのリアは激しく路面に当たっていて、動きが神経質でコースアウトしそうだった。 そして次の周には、本当にコースを飛び出してしまった。 リアが路面に当り、スキッドし、少し横を向いたかと思ったら、そのままコースアウトしてしまったんだ。」

 このシューマッハの証言を裏付けるように、シューマッハのマシンに搭載されたオンボードカメラは、アイルトンのマシンが激しくバンプし、リアディフューザーから激しく火花を散らす姿が克明に捉えられている。(注:ただし、映像はオンボードカメラ特有のノイズだらけで、一部映像が途切れている。ヘリからの空撮映像もあるが、遠景のため参考にはならない)
 このような現象は、確かに大事故に繋がる可能性が高い。
 これよりも後年、それもフォーミュラーワンではなくル・マン24時間耐久レースでの出来事だが、1999年、もううろ覚えなのでアレなのだが、確かユノディエール(注:ル・マン・サルテサーキット市街地コース名物の約3kmも続く超ロングストレート。かつては最高400km/hオーバーと言われたほどだったが、安全のため途中2箇所にシケインコーナーが作られた)で起きた事故で、この年久々にル・マンに帰ってきたメルセデス・ベンツのマシンが、フロントをTV中継画面でも分かるほど激しくバンプさせたかと思った次の瞬間、突如フロントが浮き上がり、目測で3メートル以上宙に浮き上がり、バク転をキメてそのままフェンスを飛び越えてコースアウトしてまうという、前代未聞の事故が起きている。
 幸い死傷者は出なかったが、メルセデスチームは全てのマシンを引き上げて棄権。以降、メルセデスはル・マン参戦を断念し続けている。(注:1955年にも、メルセデスはクラッシュによりマシンが観客席に飛び込み、死者80名以上という大事故を起こしている。また85年には、ザウバー名義だがメルセデスのエンジンを搭載したマシンがミュルサンヌで宙を舞う大事故を起こしている)
 このメルセデスの事故は、確かフロントのダウンフォース不足とセッティングミスが原因だったと思うが(注:記憶違いだったらすみません)、一見平坦に見えるコーストラックは、実は細かい凹凸でイッパイである。
 この細かい凹凸の衝撃を吸収するために、クルマにはショックアブソーバーという懸架装置が取り付けられている。
 ガス圧とオイルの流動粘度を利用したこの装置は、タイヤからサスペンションアームを介して伝達される路面の衝撃を吸収し、減衰して車体が上下にバンプするのを防ぐ役割りがある。
 一般の市販車の場合、十分なロードクリアランス(注:車体の最低地上高の事)がある上、生産コストや乗り心地優先で設計、セッティングされるため、市販車のダンプストロークはかなり長いが、レースカーの場合、特にフォーミュラーカーのように、車体が小さく、ショックアブソーバーを収納出来るスペースに限りがあるクルマの場合、ショックアブソーバーは市販車とは比較にならないほど小さく(注:500mlのペットボトルぐらいの大きさ。市販車は2Lのペットボトルぐらいの太さで、車種によっては長さはその倍近い)、加えて走行性能優先で乗り心地度外視で設計、セッティングされている。
 アブソーバーのスプリングレートで言うと、市販車が5kg/mm程度なのに対し、フォーミュラーカーは20kg/mm以上という、ほとんどリジットサス(注:ショックアブソーバーを廃した懸架装置の事。いわゆる“チョッパー”と呼ばれるハーレーなどをベースにしたアメリカンカスタムのバイクに利用されている事がある)のような硬さである。ダンプストロークが僅か数センチしかないので、フルボトム(アブソーバーが完全に縮んでしまう現象の事。アブソーバーを前出のリジットサス化してしまう)を防ぐためにスプリングレートを上げているワケだが、セッティングを一つ間違えると、タダでさえロードクリアランスを極限まで低くしたフォーミュラーカーは、路面の凹凸をアブソーバーで吸収仕切れなくなり、フルボトムしてアンダーカウルを激しく路面に擦らせてしまう。
 こうなると、マシンの走行安定性は極端に低くなり、ハンドリングにも影響が出やすくなる。
 そうなると、シューマッハが指摘したような症状が頻発していたアイルトンの事故は、マシンのセッティングミスが原因という事になるが、セッティングはメカニッククルーとドライバーであるアイルトン自身とのディスカッションをベースに行われる。 そのため、アイルトンがわざわざドライブしにくいセッティングを選択するとは考え難い。
 そのため、当時は何らかの予期せぬトラブル、特に、タイヤのスローパンクチャーが直接の事故原因とされた。
 スローパンクチャーとは、タイヤの空気圧の低下、すなわちパンクの事であるが、タイヤは、通常2.0~3.0気圧程度に空気圧が保たれるように調整される。
 しかし、走行中になんらかの外的要因――タイヤに貫通するほどの損傷、あるいはバルブの破損など。アイルトンのクラッシュ前に、スタートでクラッシュがあった事を思い出して欲しい――により、この空気圧が低下し、2.0気圧未満になると、タイヤは車体重量で潰れ、結果的にロードクリアランスが僅かに低くなる。
 市販車であれば、それこそ気圧が1.0気圧未満になっても、ある程度ロードクリアランスが保たれるので、近くのガソリンスタンドにたどり着くまで走行可能だが、元々ロードクリアランスが僅かしかないレースカーにとっては、ほんの数ミリのロードクリアランス低下でも致命傷になりかねない。
 また、加えてこの年は、それまでのマシンレギュレーションが刷新され、前年まで使用可能だったハイテクデバイス、すなわちアクティブ・サスとTCSが使用禁止になり、加えてレース中のピットストップ時の給油が可能になった。
 アクティブ・サスとは、コンピュータ制御により、アブソーバーのセッティングを走行中にリアルタイムに、しかも自動的に変化させる事が出来るシステムの事で、80年代にはロータスが既に同様のシステムを開発していたが、信頼性に乏しく、90年代には淘汰されていた。
 しかし、92年のシーズンにおいて、ウィリアムズがこれを独自に開発し導入。同シーズンにおいて、ナイジェル・マンセルを初めてのワールドチャンピオンの座に着かせる直接的な要因になった。
 TCSとは、トラクション・コントロール・システムの略で、92年シーズンにウィリアムズが試験的に導入し、93年には流行的にほとんどのチームが採用(注:前出のアクティブ・サスも、93年シーズンにほとんどのチームに採用された)したシステムで、これもコンピュータ制御でトラクションを制御(注:主に抑制)し、例えば停止状態から急激にアクセルを踏み込んだ時、駆動輪のトラクションが急激に上がって駆動輪が空転するのを抑える等の働きがある。
 また、レース中の給油は、それまで給油が禁止されていたために大きな燃料タンクに100リットルものガソリンを入れておく必要があったのが半分程度でよくなり、ガソリンタンクは小さくなり、入れておく燃料も少なくて済むようになった。
 つまり、結果的に車体の総重量が減ったのである。
 加えて、それまで燃費を計算し、レースディスタンス中にガス欠する事がないようにする必要があったのがなくなり、燃費度外視の燃調を施してエンジンパワーを上げる事が出来るようになった。
 これらのレギュレーション変更は、ハイテクデバイスによるチーム毎のマシンスペックの格差(注:ハイテクデバイスの開発にはお金がかかるため、中には資金不足から導入出来ないチームもあった)をなくし、加えてマシン同士が近差で抜きつ抜かれつのデッドヒートを展開する事で、“レース興行”を面白くしようという主催者(FIA)の思惑があったからだ。
 しかし、こうしてレギュレーションが改正されても、エンジンの馬力規制などはなく、それに伴う走行速度の上昇、及び走行安定性向上のための空力パーツの追加は認められず、アクティブ・サスやTCSを欠き、走行安定性が低下したにも関わらず、エンジンがパワーアップし、給油による更なるパワーアップが施され、レースはさらにスプリント化した。
 そのため、スローパンクチャーという僅かなマシントラブルが、あの大惨事を引き起こしたのだと考えられた。
 だが、レース後にタイヤを回収したグッドイヤーのスタッフは、後に「タイヤに問題はなかった」と発表。 先にも記したように、マシンがコントロールを失う瞬間の映像が残っていないため、クラッシュの原因はタイヤやアブソーバー、サスペンション、ステアリングやエアロダイナミクスに至るまで、様々なマシントラブルの可能性が検証されたが、どれも決め手に欠き、諸説入り乱れたまま原因不明となった。
 レース後、ボローニャの交通事故調査部は、ウィリアムズ・ルノーの主要スタッフに過失致死の疑いがあるとして、以降10年に渡って法廷で審議が行われた。
 ココでも、前出のような様々なマシントラブル、あるいはアイルトン自身のドライブミスが検証されたが、やはり決定的な証拠に乏しく、最終的に、2003年に不起訴が決定し、2004年に再審が行われたが、やはり証拠不十分のまま不起訴となり、2005年に完全終結が宣言された。
 ところが、ココに来て新事実が浮かび上がってきた。
 アイルトンのマシンのテレメトリーデータである。
 テレメトリーデータとは、エンジンの回転数や速度、シフトポジションはもちろんの事、ステアリングの油圧やアクセル開度、ステアリングにかかるドライバーの力など、走行中のマシンに起こっているありとあらゆる現象を数値化し、マシンから無線でピットのコンピュータに送信され記録される、言わば航空機のフライトレコーダーと同様のシステムの事である。
 アイルトンのマシンがコントロールを失う瞬間、すなわち7周目のコントロールラインから11秒~13秒のテレメトリーデータを見てみると、11秒300の時点で、ステアリングの油圧(注:いわゆるパワステ)が急激に上昇している。これは、明らかにステアリングに何らかのトラブルが起きた証拠である。
 アイルトンは、それを瞬間的に察知し、ほぼ同時にアクセルを半分程度戻し、フルスロットルからいわゆるパーシャルスロットルにしている。
 しかし、その0.2秒後、ステアリングの油圧は低下を続け、修正不可能と悟ったアイルトンは、アクセルから足を離して完全にスロットルオフの状態にする。
 ところが、その0.7秒後、ステアリングの油圧があり得ないほど急激に上昇し、極めて深刻なトラブルが発生した事を示している。
 その後、テレメトリーは12秒800の時点で全ての数値がゼロになり、グラフはそのままフラットになる。マシンがコンクリートウォールに激突したからだ。
 これで分かるように、マシンはそれまで言われていたスローパンクチャーやサスペンション周り、あるいはエアロダイナミクスにトラブルが起こったのではなく、ステアリングの油圧低下が原因でクラッシュしたのだ。
 こうなると、今度は「なぜステアリングの油圧が低下したのか?」が問題になってくるが、今となっては、これを調査するのは不可能に近い。
 何故なら、事故車そのモノが、もうこの世に存在していないからだ。
 クラッシュしたアイルトンのFW16は、裁判の証拠物件として当局が押収したが、2005年の審理終了宣言後、ウィリアムズに返却され、ウィリアムズはこれを解体破棄している。
 原因を調べようにも、調べる対象そのモノが、もうないのだ。
 とは言え、その原因として考えられている説が一つある。 ステアリングコラムの破損である。
 ステアリングは、ステアリングホイール(ハンドル)からステアリングコラムというシャフトを介し、ピニオンギアと噛み合うラックがステアリングアームを動かしてフロントアップライト(ナックルともいう)を押して、初めてタイヤが左右に曲がる。
 このステアリングホイールとピニオンギアを繋いでいるコラムシャフトは、市販車の場合はドライビングポジションとラック&ピニオンの位置関係上、ユニバーサルジョイントを介している事が多いが、レースカー、特にフォーミュラーカーの場合は、重量低減のためにもシンプルな方式が取られる場合が多い。すなわち、コラムシャフトを一本のパイプにしてしまう方式である。
 しかし、ウィリアムズのマシンは、ステアリングホイールをドライバーの手ごと、フロントノーズのカウル内にすっぽり納めてしまうボディデザインが採用されており、アイルトンは手がカウルに当たる事があるのでこれを嫌っていた。
 実際、アイルトンがかつてドライブし、3度のワールドチャンピオンに輝くその瞬間を共に戦ったマクラーレンのマシンをよく見てみると、ステアリングホイールがカウルの外に出ているデザインになっている事が分かる。
 アイルトンは、元々口径の大きなステアリングホイールを好んで使っていたため、マクラーレンはそれに合わせてマシンを設計していたのだろう。
 ところが、ウィリアムズのマシンはアイルトンの好みに合わない設計で、しかも設計の性格上、アイルトンが愛用していたステアリングホイールが使えなかった。
 アイルトンは、仕方なく口径の小さなステアリングホイールに代えたが、それでもカウルに手が当たるのはどうしようもなかった。
 アイルトンは、チームに再三改善を要求。苦肉の策として、ウィリアムズのデザイナーのエイドリアン・ニューウェイは、コラムシャフトを数センチ切断し溶接。補強のために接合部をパイプで覆った。
 これにより、ステアリングホイールの位置が奥に引っ込み、僅かに下に下がった事で、アイルトンの要求に答えられると考えた。
 しかし、これが裏目に出た可能性がある。
 すなわち、溶接が不十分で、激しい走行で疲弊した接合部が、タンブレロでマシンを襲った強烈な横G(注:遠心力)に耐え切れず、ついには折れてしまったのではないか?
 そう考えると、テレメトリーが示した異常なステアリングの油圧の急上昇と急減少も、説明がつくように思える。
 もちろん、これは飽くまでも状況証拠から推測される憶測に過ぎない。先にも記した通り、ウラを取ろうにも事故車はもうこの世には存在していないのだ。
 しかし、もし仮に、アイルトン本人に、このクラッシュについてインタビューする事が出来たなら、アイルトンはきっとこう言うだろう。

「そんな事はどーでもいい! 重要なのは、フォーミュラーマシンの安全性だ!」

 何度も記したように、モータースポーツは常に死と隣り合わせの危険なスポーツである。レーシングドライバーは、常に死を覚悟してレースに望まなくてはならない。
 しかし、だからと言って、ドライバーの安全性に無頓着であっていいという事は、断じて、断じて、ないッ!!
 1994年。
 この年のフォーミュラーワンは、前年とは全く異なるマシンレギュレーションが規定された年だった。
 アクティブサス、TCSの使用禁止(注:確か、セミATとABSの使用禁止も検討されたと記憶しているが、どちらも使用禁止には至っていない)、給油ルールの復活、エンジンの馬力規制なし、空力デバイスの追加なし。
 これらのレギュレーション、及びレースルールの改正により、マシンスペックの格差はなくなり、レースは高速化し、さらに熱いデッドヒートを観客に提供する事で、FIAは更なるフォーミュラーワン人気を得られると考えた。
 それにより、“レース興行”は更なる利益を得られると考えた。
 だが、アクティブサスとTCSを失い、空力デバイスを追加出来ないため、マシンの走行安定性は低下し、しかしエンジンの馬力規制がない事と、給油ルールの復活に伴い、マシンスピードは上がったが、ドライバーにはさらに過酷でタイトなドライビングが要求された。
 営利優先で運営されるグランプリ。
 その危険性を危惧した元F-1ドライバー、ニキ・ラウダは、事故の直前、アイルトンの下を訪れて、アイルトンとマシンの安全性について話し合った。
 そして、マシンの安全基準の見直しを訴える団体のリーダーになってくれるように、アイルトンに要請した。
 もし仮に、この要請があと半年早かったら、レギュレーションは見直され、マシンの安全基準が高まり、アイルトンはクラッシュしたとしても、命までは奪われなかったのかもしれない。
 仮定を言い出したらキリがない事は分かってる。
 だが、仮定を言わずにはいられないほど、僕は当時も、そして今でも、多くのフォーミュラーワン関係者が断言するように、94年のレギュレーション改正には納得がいかない。
 アイルトンは、あるいはその犠牲になった一人だったのかもしれない。



 といったトコロで、そろそろいつもの書き過ぎっぽい量になってきたので、今回はココまで。 ですが、次回もコレ、続きます。
 次回は、アイルトンの思い出を中心に、アイルトン・セナというレーシングドライバーの魅力に迫っていきたいと思います。 来週もお楽しみに!
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


はたと出会う。

Th3043 Thanks for youre reading,
See you next week!



-参考資料-
※今回の記事は、以下の書籍、及び雑誌記事を適宜参照しました。ただし、現在はどちらも入手困難です。予めご了承下さい。

・Thank you AYRTON, Good bye SENNA
 (F1速報 94年6月16日臨時増刊)/ニューズ出版
※事故直後に出版された追悼本。プライベートを含めた貴重な写真を多数掲載し、今宮純、津川哲夫といったお馴染みの面々から、アラン・プロストやニキ・ラウダ、フランク・ウィリアムズやロン・デニスといった、アイルトンに所縁の深い面々のコメントを多数掲載。アイルトンの全レース記録も掲載されている。

・週間オートスポーツ 2009年5月7日&14日合併号/三栄書房
※週間オートスポーツのゴールデンウィーク合併号。アイルトンの命日である5月1日に合わせて、この号で追悼特集が組まれた。テレメトリーデータの下りは、この雑誌の記事を参考にしました。

コメント (1)
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