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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

192.Truth in TITANIC(後編)b

2012年04月23日 | サイエンスマニアックス

終章

 このように、タイタニック号は最早伝説でもおとぎ話でもない、現実にあった史上最大の海難事故として現代に再生された。 実際に、100年前にあの惨劇の夜が起こったのだ。
 あれから100年の間、幸いな事にこの悲劇を超える海難事故は起きていない。 後にも先にも、1514人もの犠牲者を出す事になった海難事故は、タイタニック号が最初で最後である。
 それはもちろん良い事だ。 あの惨劇の夜を知って、人々があの事故から何かを学んだ証拠だからだ。
 歴史とは、積み重ねられた時間の経過ではない。
 歴史とは、その失敗から現在の我々が成功するために蓄積されたデータである。
 ならば我々は、そのデータから何かを学び取り、そして考えなくてはならない。
 何を?
 それは、この沈没事故が物語る、教訓である。
 タイタニック号の発見者、ロバート・バラード博士は、86年の調査の際、深海に眠るタイタニック号にこんな言葉を刻んだ金属プレートを残している。

「これは、傲慢から起こる過ちを現代へと伝える記念碑である。」

 その15年後、同じくタイタニック号を調査したジェームズ・キャメロン監督は、バラード博士と同じようにメッセージを刻んだプレートをタイタニック号に残した。

「ここで死んだ1500人の魂が今も我々に警告している。 “思いあがるな、常に慎重であれ”。」

 全く以ってその通りである。
 科学文明の妄信が起こしたタイタニック号沈没事故は、我々に“この船の二の舞を踏むな”と警告しているのである。
 2011年3月11日、日本を襲った“未曾有の大災害”、東日本大震災は、まさに現代のタイタニック号沈没事故であった。
 一瞬にして街を飲み込んだ大津波の映像に、我々は自然がいかに恐ろしいモノであるかをまざまざと見せ付けられる事になった。
 そして、その後の原発問題も含めて、現代の科学文明がいかに脆いモノであるかを知らしめる結果になった。
 あの恐怖……。 そして逃げ惑う人々の姿に、我々は“思いあがるな、常に慎重であれ”という教訓を学んだハズである。
 しかしそれは、同時にそれから遡る事1世紀も前に起こったタイタニック号沈没事故に、我々が実は何も学んでいなかった事も証明したのだ。
 タイタニック号沈没事故は、決して“100年前だから起こった”のではない。
 この事故は、東日本大震災という形で現代でも、“形を変えて起こり得る”事を我々に警告しているのである。
 あれから100年。
 過ぎ去った時間は、もう取り戻す事は出来ない。
 ならば、今の我々に出来る事は?
 そう、もう二度と、あのような惨劇の夜を、繰り返さない事。 犠牲になった1514人の魂をかけた教訓に学び、もう二度と、悲劇が起きないようにする事。

「思いあがるな、常に慎重であれ」

 朽ち果てた深海のタイタニック号の姿に、我々は今改めて、これを学ばなくてはならないのである。
 深海に眠るタイタニック号を蝕むバクテリアは、あとおよそ80年足らずで、その巨体を食い尽くすと言われている。


 このブログ記事を、タイタニック号沈没事故と、東日本大震災の全ての犠牲者に、捧ぐ。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週からは、『Wacth the Skies』の連載が再会します。 お楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


怪盗人間現る現る。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 なんだかドコかで見たコトあるようなないような盗賊系セクシー装備。 ニーソはやっぱりデフォですよね。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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192.Truth in TITANIC(後編)a

2012年04月22日 | サイエンスマニアックス

-Science Maniax #06:Special Edition-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週の小ネタはコチラです。(↓)
Blog1078  サントリーさんの缶コーヒー、BOSSのオリジナルミニカーコレクション。 今回は、今年2012年にシリーズ誕生50周年(!)を迎え、23作目となる最新作の公開が予定されているスパイ・アクションの代名詞、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの歴代ボンドカーからセレクトされた、全15種類をラインナップ。
 1缶用のスモールサイズ(注:全7種)と、2缶用のラージサイズ(注:全8種)がありますが、基本的にはサイズが違うだけでどちらも同一車種がラインナップされています。
 ナンバープレートなどもしっかりと再現しており、出来はいずれも合格点です。
 ではココで、上図右から順にカンタンに解説していく事にしましょう。(注:上図はフルHD解像度になっています。 見難い場合は、画像をクリックすれば拡大表示されます)


・アストンマーチンDB5
 シリーズ3作目、『ゴールドフィンガー』(64年)に登場した、記念すべき初代ボンドカー。 イアン・フレミングの原作では、ボンドはこれより前のモデルであるDB3に乗っているが、映画の製作当時は既に原作の出版から10年以上が経過しており、DB3では古いので当時の最新モデルだったDB5に設定変更された。
 後のシリーズ4作目、『サンダーボール作戦』(65年)にも登場し、シリーズ17作目の『ゴールデンアイ』(95年)では、ボンドの私用車として再登場し、フェラーリと峠バトルを繰り広げた。

・トヨタ2000GT:オープンカーVer.
 シリーズ5作目、『007は二度死ぬ』(67年)に登場。 ボンドが日本にやってくるという内容のため、ボンドカーも日本車が起用された。 ボンドカーになった唯一の日本車。
 本来、トヨタ2000GTはクローズドボディのみで、オープンカーは生産されていないのだが、映画での見栄えを良くするために、トヨタが直々にオープン仕様の特別車を製作した。

・ロータスエスプリ:潜水艇Ver.
 シリーズ10作目、『私が愛したスパイ』(77年)に登場。 ロータス社を代表するスーパースポーツカーで、当時の最新モデルだった。
 映画では、変形して潜水艇になるという設定だったが、今回のこれはそれを再現したモデルになっている。
 ちなみに、スモールサイズの方はシリーズ12作目の『ユア・アイズ・オンリー』(81年)に登場したエスプリ・ターボで、このラージサイズの変形前のバージョンというワケではない。

・アクロスター
 シリーズ13作目、『オクトパシー』(83年)に登場。 プレタイトルシークエンスでド派手な空中バトルを展開した。 当時発明されたばかりのパーソナルジェット機で、トラックの荷台に積める程度の小型ジェット機。 実際に飛行可能で、映画では開発者の協力を得て実際に飛行しているショットが多数使われている。
 ちなみに、この作品でボンドガールを演じたモード・アダムは、シリーズ9作目の『黄金銃を持つ男』(74年)でもボンドガールを演じている。 ボンドガールを複数回演じた事がある女優は、モード・アダムスが唯一。

・アストンマーチンV8ヴァンテージ
 シリーズ15作目、『リビング・デイライツ』(87年)に登場。 80年代のアストンマーチンを代表する人気モデル。 ラージサイズでは、劇中の氷上カーチェイスの際に出てきたスキー板のギミックが再現されている。
 結果的に、著作権の問題が解決出来ず、ティモシー・ダルトンが出演したのはシリーズ16作目の『消されたライセンス』と合わせて2作だけだったが、ダルトンのクールでスタイリッシュなボンド像は、後任となったピアース・ブロスナンの演技にも影響を与えたとか。

・Qボート
 シリーズ19作目、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』(99年)に登場。 映画用の完全なオリジナルモデルで、シリーズのお約束になっているプレタイトルシークエンスにおいて、ド派手な水上チェイスを繰り広げた。 ブロスナンがネクタイを直すショットがまた良いのだ!(笑)
 ちなみに、劇中の設定ではボンドにボンドカーを始めとした秘密兵器を提供している科学者、Qの“釣り船”で、まだ未完成という設定だった。

・BMW Z8
 同じくシリーズ19作目、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』(99年)に登場。 シリーズ17作目の『ゴールデンアイ』から、このシリーズ19作目までは、スポンサーの関係でアストンマーチンが使えず、代わりにBMWがボンドカーに起用された。 Z8は、当時の最新モデルだったが、劇中ではあっけなく真っ二つにされた。
 この後のシリーズ20作目、『ダイ・アナザー・デイ』(2002年)からは、スポンサーが変わった事でアストンマーチンがボンドカーに“復帰”する。

・アストンマーチンDBS
 シリーズ21作目、『カジノ・ロワイヤル』(2006年)に登場。 アストンマーチン社の当時の最新モデル。 同作品は、シリーズを製作している映画製作スタジオ、イーオン・プロダクションでは初めての映画化作品だが、実はTVと映画で過去に2度も映像化されており、その著作権の関係からイーオンでは製作出来なかったが、権利上の問題が解決され、シリーズ21作目にしてようやく製作された。
 イアン・フレミングの原作では、これが本来の記念すべき1作目である。
 この作品では、原作から設定を変更し、50年代から現代に舞台が移され、ボンドも“2代目007”という設定になっている。(注:設定上は、シリーズ1作目から20作目までは同一人物)


 とまあ、以上はなはだカンタンにではありますが、ボンドカーを解説してみました。
 実を言うと、『007』シリーズも取り上げたかった作品なんですが、いかんせんシリーズが50年、20作以上という、とんでもなく長いシリーズなので、解説対象としては何をどうがんばっても長過ぎるという結論から、取り上げるのを諦めてたんですよ。
 それに、人気のあるシリーズだけに、解説本も結構な数が出ているので、今さら僕が書くまでもないかな~?と思っていたんです。
 しかし、こうしてミニカーという形で解説出来たので、もうこれでいいや。 余は満足じゃ。(笑)
 ちなみに、年内にはこれまでのシリーズ全22作のアルティメット版をセットにしたBDボックスがリリースされる予定です。 あっしは既にDVDのセット(注:20作目までをセットにした、特性のアルミアタッシュケース付きDVD41枚組セット。 amazonで検索したら、たまたま半額セール中だったので買った。 買って良かった)があるので、BDまでは買わないと思いますが、恐らくシリーズは今度の23作目でラストになると思われるので、皆さんも記念に買ってみてはいかがでしょうか?
 また、来年2013年はイアン・フレミングの原作小説第1作、『カジノ・ロワイヤル』の出版から60年周年を迎えるため、新作の小説版も出版される予定です。



<今週の特集>

 さて、今週の特集コーナーは、先週に引き続き『サイエンスマニアックス』特別編、『真実のタイタニック』の後編をお送りします。
 今週も、最後までヨロシクね☆


第2章:生還者たち

 1912年4月15日未明―。
 惨劇の夜を乗り越え、18艘の救命ボートで身を寄せ合っていた生存者たちの視界に、蒸気船の船影が飛び込んできた。 フィリップスとブライドが打電したSOS信号を受信し、数時間の距離を隔てた海域から救助のためはるばるやって来たイギリス―ニューヨーク間を結ぶキューナード社の定期船、カルパチア号の船影だった。
 皮肉にも、タイタニック号の生存者たちはライバル会社の船によって救出されたのである。
 しかし、その到着に驚いたのは生存者たちではなく、カルパチア号に乗っていた人々の方だった。
 小さな救命ボートで身を寄せ合い、寒さに震えている生存者たち。 そしてそのボートの周りを取り囲んでいたのは、生存者の数を遥かに上回る死体の山、山、山……。
 その瞬間、この場所で起こったであろう狂気にも似た戦慄の一夜を想像し、カルパチア号の船員たちは恐怖した。
 生存者の数は710人。 計算上、犠牲者の数は1514人にも上った。(注:乗船者リストの書類不備により諸説あり、犠牲者の数は1490~1523人と言われている。 ココでは、現在最も有力視されている説を支持し、生存者数と犠牲者数を算出した)
 通常の倍の乗客を乗せる事になったカルパチア号は、進路を西に取り、目的地であるニューヨークへと急いだ。 カルパチア号の船員と乗客たちは、生存者たちを手厚く保護したという。
 もちろん、恐怖の一夜を過ごした生存者たちの体験談を聞こうと、ヤジ馬的な興味もあったのは確かだろう。 しかし、生存者たちは誰一人として、この夜の事を話そうとはしなかった。
 泣き叫ぶには遅過ぎ、語るには早過ぎた。
 彼らはただ、疲れ切った様子でデッキの上でうずくまっているだけだった。
 奇妙な静寂の中、カルパチア号は北大西洋の海を走り続けた。


 カルパチア号からの無線連絡により、タイタニック号沈没のニュースは世界を駆け巡った。
 世界一の船と豪語するタイタニック号の処女航海が、最初で最後の船出になったなど、最初は誰一人として信じる事が出来なかった。
 そのため、タイタニック号沈没のニュースを伝えた新聞があった傍らで、“タイタニック号は洋上にあり、全員無事”と報じた新聞さえあったほどだった。
 しかし、新聞各社がこぞってタイタニック号のニュースを報じた事に変わりはなく、図らずもイズメイが望んだ通り、ヘッドラインはタイタニック号一色に染まっていた。
 なんとも皮肉なハナシである。
 ロンドンに本社を置くホワイト・スター社には、民衆が殺到した。 タイタニック号はどうなったのかと、誰もが口を揃えて訊ねた。
 もちろん、当のホワイト・スター社にとっても、まだカルパチア号の到着前だった時点では、正確な情報など掴んでいなかった。 それでも、社に集まった数少ない情報を、民衆は先を争うように奪い合ったという。
 そんな状況が、実に4日間も続いた。
 1912年4月18日夕刻―。
 ニューヨークの港に、カルパチア号の船影が姿を現した。
 永遠のように長い長い4日間を過ごした群衆は、生存者たちを出迎えようと港に集まった。
 ……しかし、ニューヨーク港の埠頭、ピア54に接岸したカルパチア号から最初に降ろされたのは、タイタニック号の生存者たちではなく、彼らを救った18艘の救命ボートだった。
 下船した生存者たちは、しかし集まった群集に応える事もなく、疲れ切った様子でその場を後にした。 その姿に、群集は声をかける事も出来ず、ただ黙って見送ったという。
 そして、生存者たちは翌日から家路に着いた。
 この時点で、犠牲となった1514人の遺体の収容はまだ完了していなかったが、結局300人余りの遺体が収容されただけで、それ以上は捜索打ち切りとされた。
 収容された遺体は、カナダのハリファックスという港町に集められた。 そして、身元が確認出来た遺体は遺族の下に帰されたが、身元不明、もしくは引き取り手無しの遺体は、この地を自らの旅の終焉の地とした。
 この墓碑は、ホワイト・スター社から北大西洋の運行権を引き継いだキューナード社(注:タイタニック号の沈没によって経営危機に陥ったホワイト・スター社は、1934年にライバル企業のキューナード社に吸収合併され、キューナード・ホワイト・スター社になった。 が、45年に社名変更し、現在の社名であるキューナード社に戻る事になる。 なお、キューナード社は1998年、アメリカの海運企業であるカーニバル社傘下になっている)によって管理が続けられており、今もなお犠牲者たちの永眠の地になっている。
 だが、そんな彼らの犠牲があったからこそ、710人の命が惨劇の夜を生き延びる事が出来たのは間違いない。
 しかし、そんな生存者たちの中には、このタイタニック号沈没事故に勝るとも劣らない数奇な運命をたどる事になった者も少なくない。
 この章では、そんな生還者たちの物語りを3つほど紹介しようと思う。


1.コマ回しの少年-ダグラス・スペドン

 サウサンプトンを出港したタイタニック号の最後の寄港地となった、アイルランドのクイーンズタウン。 ココで下船した乗客の一人、フランシス・ブラウン神父が撮影した写真の中に、1等プロムナード・デッキ(注:7階建ての船の最上階に位置するデッキで、救命ボートが係留されていたデッキ)でコマを回して遊んでいる幼い少年の姿を写したモノがある。
 このコマ回しをしていた少年こそ、当時6歳だったスペドン家の長男、ダグラス・スペドンである。
 スペドン家はアメリカの貴族で、ニューヨーク郊外のタキシードパークに居を構えていた。(注:この屋敷は、現在も当時のまま保存されている)
 タイタニック号沈没事故の後、スペドン家は没落する事になったが、遠縁に当たるレイトン・コールマンⅢ世が祖母の遺品の中にダグラスの母親が遺した遺品を発見する。 その中の一つに、母親がダグラスのために描いた手作りの絵本があった。
 タイトルは『My Story』。 沈没事故から1年後、1913年に母親がダグラスにクリスマスプレゼントとして送ったモノだった。
 そして、その表紙に描かれていたのが、ポーラー・ベア。 一人っ子で、周囲に同世代の友達がいなかったダグラスの唯一の遊び相手だった真っ白なクマのぬいぐるみが、そのモデルである。
 この絵本は、ダグラスの成長記録でもあり、そこにはいつもポーラー・ベアと一緒だったダグラスの姿が描かれていた。
 ダグラスの両親は、アメリカの社交界で活躍する富豪で、毎年のように旅行に出かけるのが二人の楽しみだった。 カリブ海のバミューダ島や、アフリカのアルジェリアなど、夫妻は一人っ子のダグラスを連れて世界中を旅していた。
 この絵本には、そんな旅の記録も描かれており、もちろんあのタイタニック号に乗った時の事も描かれていた。
 絵本は、ダグラスの親友、ポーラー・ベアの視点で描かれていた。
 ポーラーは、ダグラスの胸に抱かれてタイタニック号に乗った。
 そして、あの惨劇の夜に遭遇する。
 ダグラスは、母親に手を引かれて何とか脱出に成功。 その時も、ダグラスはポーラーを片時も放さなかったという。
 しかし、救助に到着したカルパチア号に乗船する際、ダグラスは誤ってポーラーを救命ボートに落としてしまう。 親友と離れ離れになってしまったダグラスは、酷く落ち込んだという。
 だが、二人の絆はホンモノだった。
 生存者の乗船が終わり、今度は救命ボートそのモノがカルパチア号に引き上げられた。
 その時!
 思いがけず、あのポーラーが救命ボートからカルパチア号のデッキに転げ落ちたのである。
 さらに運の良い事に、その時通りがかったタイタニック号の船員がダグラスの事を良く憶えており、ポーラーがダグラスの親友である事も知っていた。 船員は、ポーラーを拾い上げるとダグラス少年を探し、彼の下にポーラーを返したのである。
 一度は引き裂かれ、しかし運良く再会したダグラスとポーラー。
 その後、ダグラスは別の救命ボートで脱出した父親とも再会し、一家“4人”は、誰一人欠ける事なく、タキシードパークの自宅へと帰りついた。
 ……が、運命の皮肉は3年後、再び二人の親友を引き離しそして、二度と再会させる事はなかった。
 1915年、9歳になったダグラスは、当時普及して間もない自動車にはねられ死亡。 これは、アメリカ国内の記録に残る最も古い自動車による交通死亡事故であった。
 タイタニック号と自動車―。
 当時の最新技術に振り回されたダグラスは、短い生涯を終えたのである。
 その後、父親はプールで溺れて他界。 母親もまた、悲嘆に暮れながら後追うように亡くなり、スペドン家の血筋は絶える事になった。
 そして、ダグラスの親友だったポーラー・ベアはその後行方不明となり、息子を想う母親の手作りの絵本だけが遺された。
 ちなみにこのポーラー・ベアは、その後コカ・コーラ社のCMキャラクターになるなどして有名になったが、1997年公開の映画『タイタニック』に始まったタイタニックブームに便乗する形で、ダグラスが所有していたモデルが復刻、市販された。(注:現在は入手困難)


2.最後の男性生存者‐ミシェルとエドモンド

 沈没事故直後の1912年4月30日。 全米の注目集めた新聞記事がデイリー・スケッチ紙に掲載された。
 そこに写っていたのは、フランス人の幼い兄弟、ミシェル(当時3歳)とエドモンド(当時2歳)。 ヘッドラインに書かれていたのは、“身元不明”の文字。 このニュースは全米中の注目の的となり、海を越えて海外にも伝えられる事になった。
 最終的に、この二人の幼い兄弟の身元は判明する事になるのだが、それが分かった時、二人が“身元不明”になった衝撃の真実が明らかになった。
 二人はなんと、誘拐事件の被害者だったのである!
 事の起こりは沈没事故から遡る事5年前、1907年に若い二人のフランス人が結婚した事に始まる。 新郎の名はミシェル・ナブラチル。 新婦の名はマルセル。 当時27歳と15歳という、若いカップルだった。
 結婚後、夫婦は二人の子宝に恵まれるも、同居していたマルセルの母親と夫は仲が悪く、幼な妻だったマルセルとの関係もこじれていき、ついに二人は離婚してしまう。
 幼い二人の兄弟は、妻のマルセルが引き取る事になった。
 タイタニック号出港の数ヶ月前、父ナブラチルはモナコのモンテカルロでタイタニック号の乗船チケットを入手。 しかし一人分ではなく、3人分のチケットだった。
 さらにナブラチルは、ココで“ルイ・ホフマン”という偽名を使い、自らをドイツ人の美術商だと名乗った。
 そしてナブラチルは、タイタニック号出港の直前にフランスのニースに住む幼い息子たちを訪ねて、二人にこう言った。
「世界一の船を見に行こう。」
 ナブラチル、またの名をホフマンは、こうして幼い二人の兄弟を“誘拐”したのである。(注:実の父親が誘拐犯という事実にいささか嫌悪する向きもあろうが、離婚し、親権を剥奪された親が我が子を誘拐するという事件は、実は海外ではそう珍しいモノではない。 現在でも結構よくある)
 だが皮肉にも、3人を乗せたタイタニック号は悲劇に遭い、結果、ナブラチルは遭難して死亡。 後に収容された遺体からは、なんと拳銃が発見された。 偽名“ホフマン”にとっては、決死の逃避行であったのだ。
 この“ホフマン”という偽名が元で、幼い兄弟の身元確認が困難になったワケだが、兄弟は1等船客の生存者、マーガレット・ヘイズに引き取られ、身元が判明するまでヘイズの世話になる事になった。
 この兄弟の身元捜しのニュースは連日新聞の紙面を賑わせ、誘拐される直前に母親から貰ったタマゴ型のチョコレートを、本当にニワトリが産んだタマゴなのだと新聞記者に主張した兄ミシェルの微笑ましいエピソードさえ、世界中に電信されたほど注目を集めた。
 が、そのエピソードが掲載された新聞記事に、一人のフランス人女性が思わず目を丸くした。 フランスのニースに住む実の母、マルセルであった。
 マルセルはすぐさまニューヨークの新聞社に手紙を書き、自分が兄弟の母親だと名乗り出た。 そして母親は、沈没事故から1ヵ月以上を経てようやく、愛する我が子との再会を果たした。
 その後、兄弟は母親の下ですくすくと育ち、兄は哲学者、弟は建築家として働くようになった。
 が、弟エドモンドは、第2次大戦に出征した時ドイツ軍に捕らえられ、捕虜になってしまう。 辛くも逃亡に成功するも、捕虜生活による体調不良が原因で1953年、43歳の若さでこの世を去る事になった。
 兄ミシェルは、フランスのモンペリエ大学の教壇に長年立った後、1996年にタイタニック号沈没の地を訪れている。 既に多くの生還者たちが他界し、ミシェルは男性では最後の生存者になっていた。
 そしてその帰路の途中、カナダのヌバスコシアにある父の墓を初めて訪ねた。 ミシェルは、救命ボートに自分たちを乗せた父親の最後の言葉を生涯忘れる事はなかったという。
「母親に“愛してる”と伝えてくれ!」
 ミシェルは、父を恨んでいたワケではなかったし、嫌っていたワケでもない。 むしろ愛していたからこそ、80年以上もの間父の墓参りに行く事を拒んでいたのだろう。
 2001年1月30日、タイタニック号最後の男性生存者ミシェルは、フランスはモンペリエの地で92年の生涯を閉じた。


3.奇跡の再起‐リチャード・ノリス・ウィリアムスⅡ世

 1912年4月18日、ニューヨーク港に到着したカルパチア号から18艘の救命ボートが降ろされたのに続いて、710人の生還者たちが次々と降りてきた。
 皆一様に憔悴した様子で、事故の様子を語ろうとする者などいなかった。
 しかし語らずとも、事故の悲惨さを雄弁に物語る生還者が一人いた。 その青年は、二人の船員に両肩を抱えられ、両足には何重にも巻かれた痛々しい包帯があった。
 その青年の名は、リチャード・ノリス・ウィリアムスⅡ世。
 アメリカへのテニス留学のためにタイタニック号に乗り込んだスイス人である。
 1891年、ジュネーヴに生まれたウィリアムスは、大学でテニスプレーヤーとして活躍するようになり、この実績が認められ、21歳の時にアメリカのハーバード大学留学が決定した。
 しかし渡米直前、ウィリアムスは高熱にうなされる病に倒れ、渡米延期を余儀なくされる。 そして、病が完治してようやくアメリカに行けるようになった時、ウィリアムスはよりにもよってタイタニック号に乗る事になってしまう。
 事故当夜、ウィリアムスは最愛の父と共にボートデッキに上がろうとしたが、階段の入り口は鍵がかけられ、これを壊そうとしていた他の乗客たちが力尽きていた状態だった。
 そこでウィリアムスは、この扉を叩き壊し、何とかボートデッキにたどり着く事が出来たという。
 ちなみに、この時扉を壊したウィリアムスに向かって、近くにいた船員が「弁償させるぞ!」と言ったそうだ。 このエピソードは、後に1997年公開の映画『タイタニック』にも巧みに取り入れられている。
 それはともかく、ウィリアムスはボートデッキに上がった。 が、既に救命ボートはなかった。 ウィリアムスは救命胴衣を着けると、父と共に冷たい海にその身を躍らせた。
 氷点下の海水に晒されたウィリアムスは、そこで信じられないような光景を目の当たりにする。 近くにいた父の頭上に突然、タイタニック号の巨大な煙突が倒れてきたのだ!
 最愛の父は、煙突の下敷きになり帰らぬ人となった。
 ウィリアムスは、父を失った悲しみに暮れるヒマさえ与えられず、救命ボートの一つにしがみつき、辛くも惨劇の夜を生き延びる。
 しかし、彼の本当の試練は、ココからだった。
 明け方になり、ようやく救助に訪れたカルパチア号に救出された時、ウィリアムスの体は氷点下の海水に晒され凍死寸前だった。 特に足のダメージは深刻で、既に凍傷にかかっていた。
 ウィリアムスを診察したカルパチア号の船医は、ウィリアムスに両足がヒドイ凍傷に冒されている事を告げた上で、こう言った。
「一刻も早く、両足を切断すべきだ。」
 この言葉に、ウィリアムスはひどく動揺したという。
 船医は、船に切断手術が可能な設備が備わっている事をウィリアムスに告げ、何度となく彼を説得した。
 しかし、ウィリアムスは頑なにこれを拒んだ。
「お願いだ! 切らないでくれ! もう一度テニスが出来るなら何でもやるから!」
 母は既に他界しており、父もつい数時間前に目の前で死んだ。 彼の希望は、もうテニスしか残っていなかった。 両足を切断されては、それすらもなくなってしまう。 彼がこれからを生きるためには、どうしてもテニスという“希望”が必要だった。
 こうして、ウィリアムスは両足切断を拒み、痛々しい姿でカルパチア号から下船したのである。
 しかしウィリアムスの決意は、ホンモノだった。
 生還したウィリアムスは、とにかく歩く事に専念した。 それはきっと、我々が想像するよりも遥かに困難なリハビリの日々だった事だろう。
 しかしウィリアムスは、「もう一度テニスがやりたい」という一心で、リハビリに励んだ。
 そして、半年後―。
 ウィリアムスは、たった6ヵ月でテニス界復帰を果たしたのである!
 復帰戦でイキナリ準々決勝まで進出するという成績を修めたのを皮切りに、1912年の全米選手権に出場。 なんと、この大会でウィリアムスは優勝する!
 その後、ウィリアムスは予定されていたハーバード大学留学を無事果たし、同校を卒業。 さらに1913年からの13年間もの間、アメリカ代表としてデビスカップに連続出場する事になる。
 これと平行して、1916年に再び全米選手権を制し、1920年にはウィンブルドンでダブルスを制する。 また、24年にはパリオリンピックの混成ダブルスに出場し金メダルを獲得。 気付いた時には、20年代を代表するトッププレーヤーになっていた。 その実績は、11年に渡って世界ランキング入り(注:最高4位)を果たした偉業が如実に物語っている。
 またウィリアムスは、社交的で親しみ易い性格から多くの人々に愛され、テニスを通して国際色豊かな友人、知人と交流を深めた。
 後に、ウィリアムスは自身が獲得した162個ものトロフィーを溶かして記念トレイを作っているが、ウィリアムスはこのトレイに親交のあったテニス選手にサインを入れてもらっている。 その中には、熊谷一弥(注:日本テニス界の第一人者。 1920年のアントワープオリンピックに出場し、シングル、ダブルスの両方で銀メダルを獲得している。 ウィリアムスとは、1921年のデビスカップのダブルス第3試合で対戦するも敗れている)を始めとした5人の日本人選手の名も刻まれている。
 最終的に、ウィリアムスは1935年に引退する事になるが、シングルスで42勝、ダブルスで51勝、混成ダブルスで13勝という輝かしい成績を収め、1957年にはテニスの殿堂(注:1954年創設)入りを果たした。
 これと前後して、ウィリアムスは自身の体験を記した手記を出版しているが、この手記が出版されるまで、妻はウィリアムスがあの惨劇の夜の生還者であった事を知らなかったそうだ。
 ウィリアムス自身、あの夜の事を話すにはそれだけの時間が必要だったのだろう。
 母を亡くし、父を亡くし、惨劇の夜を生還しながらも両足切断の危機に晒され、しかし不屈の精神でテニスを諦めなかったウィリアムスは、1968年6月2日、ペンシルベニア州ブリンモアで77年の生涯に幕を閉じた。


 1912年4月18日に、カルパチア号に乗ってニューヨーク港に奇跡の生還を果たした710人の生還者たち。 彼ら一人ひとりに、こうしたエピソードが隠されている。
 2009年、事故当時生後9週間。 タイタニック号の乗員、乗客の中でも最年少だったミルヴィナ・ディーンがこの世を去り、タイタニック号の生還者たちは全員が他界した。
 彼らの魂が、永遠の安らぎの中で眠る事を祈る。


第3章:伝説の再生

 1912年の沈没事故後、タイタニック号の名は悲劇の代名詞になり、北大西洋を航行する船の多くが、事故現場となった海域を避けて通るようになった。
 しかしタイタニック号は、同時に人々の興味を惹き付けて止まない存在でもあった。 当時の最新技術を惜しみなく導入し、しかしたった一夜にして海中に没する事になったその悲劇に、大衆の興味が尽きる事はなかったのである。
 そのため、この沈没事故は後の世の人々に大きな影響を与え、様々な形であの惨劇の夜の再現が試みられた。


・映画化作品

 最も影響を受けたのは、やはり事故当時から新しい娯楽として大衆の人気を集めるようになっていた映画である。
 タイタニック号の悲劇を扱った映画作品は、実は既に20作近くが製作、公開されており、インスパイアや作品の一要素としてタイタニック号が登場するモノも含めれば、その数は100作を超えるのではないかと言われているほどである。
 それほどまでに、この悲劇の豪華客船は人々を魅了しているのだ。
 タイタニック号の悲劇を描いた最初の作品は、アメリカで製作された『Saved From The Titanic』である。 タイタニック号に実際に乗船し生還したアメリカ人女優、ドロシー・ギブソンが自身の体験を基に脚本を執筆。 映画には彼女自身が主演したが、この映画の公開日はなんと1912年5月14日。 そう、沈没事故から僅か1ヵ月後に公開されたのである。
 上映時間10分の短編ではあったが、これが史上初のタイタニック号の悲劇の映画化作品になった。(注:ただし、1914年に製作スタジオで火災が起き、フィルムが焼失したため現存していない。 また、当時はまだ貴重だったカラーフィルムが一部に使用されており、現存していれば世界最古のカラーシーンになるハズだった)
 同年7月には、ドイツでも映画化されている。 『夜と氷の中で(原題:In Nacht und Eis)』というタイトルで公開されたこの作品は、上映時間35分の短編ではあったが、生存者の証言を元に構成された作品で、フィルムが現存する映画化作品の中では最古のモノである。
 その後、1915年にはイタリアで。 1927年にはアメリカでそれぞれ映画化されているが、これらはいずれもサイレント映画であった。
 が、20年代末になってトーキー時代が始まると、タイタニックの物語りも早速トーキー仕様で映画化される。
 イギリス映画、『アトランティック』(29年)である。
 タイタニック号沈没事故を基に、アトランティック号という豪華客船が氷山に接触して沈没するという内容で、ミニチュアの船が沈没していくシーンは、今観ても圧巻の名シーンである。
 これ以降も、タイタニック号の悲劇は何度となく映画化され、37年の『歴史は夜作られる』や、43年版(注:当時のナチス・ドイツがプロパガンダ目的で製作した作品)、53年版、58年版など、5~10年ほどの間隔を置いて繰り返し繰り返し映画に描かれた。
 その作品の多くは、しかし実際の事故とはかけ離れた描写も多く、いわば“間違い”が多々散見される作品ばかりだった。
 こうなってしまった最大の原因は、沈没したタイタニック号そのモノを調査する事が出来なかったからだ。
 そもそも、事故当時に打電されたSOS信号によって報告された座標が実際の位置からズレており、実際の事故現場は事故直後から不明のままだった。
 しかも、周囲に目印になるようなモノは何もなく、加えて海底3773mもの深海を調査する技術がまだなく、タイタニック号は沈没直後から、深海に眠る伝説になっていたのだ。
 そのため、生存者の証言を基に事故当時の様子を想像するしかなかったのだが、矛盾する証言や記憶違いなどもあり、タイタニック号の真実は時間の経過と共に不鮮明になっていくばかりだった。
 それもあって、こうした映画化作品での間違った描写や、「船体に90mの大穴が開いた」、「船はそのままの姿で沈んだ」という誤った事実が長い間信じられる事になった。
 1960年代に入ると、衝突事故そのモノよりも人物描写に主眼を置いたモノや、パロディとしての作品、あるいは完全なフィクション作品が多くなり、タイタニック号の悲劇は現実ではなく、映画やTVの中だけのおとぎ話になってしまう。
 しかし、1980年代後半に入り、この状況が一変する。
 深海調査が可能な技術が実現し、海底に眠る実際のタイタニック号を調査出来るようになったからだ。
 こうした調査や乗船記録などのリサーチを通して浮かび上がった新事実を基に、90年代に入って再びタイタニック号の悲劇が映画に描かれるようになる。 中でも筆頭に挙げなければならないのは、今年2012年に公開15周年を迎え、タイタニック号沈没事故100周年を記念して3D版が現在公開中の1997年公開の世界的大ヒット作、『タイタニック』を置いて他にはないだろう。
 この作品を監督したジェームズ・キャメロン監督は、ロシアの深海探査船をチャーターし、ロシア、アメリカの合同調査という名目で深海3773mに眠る実際のタイタニック号をフィルムに収める事に成功。
 当時の最新のデジタル技術を駆使したCGIと、この映画のためにメキシコに建設した巨大プール(注:このプールは、後に『007:トゥモロー・ネバー・ダイ』にも使用された)で、3分の1スケールの巨大なミニ(?)チュアが製作され、実際に沈められた。
 その沈没シーンは、今もなお映画史に残る屈指の名シーンとして高く評価されている。
 結果、この映画は監督賞、作品賞を含む史上2度目のオスカー11部門制覇(注:史上初は53年公開の『ベン・ハー』で、3度目は2003年公開の『ロード・オブ・ザ・リング‐王の帰還』。 4度目は未だになく、12部門以上の制覇を達成した映画は今のトコロ皆無である)を達成する。 加えて、当時93年公開の『ジュラシック・パーク』が保有していた世界歴代興行収益記録を更新(注:約18億4千万ドル)するほどの大ヒットを記録した。
 このキャメロン版『タイタニック』により、タイタニック号の悲劇は最も正確な描写で映画化され、我々にあの惨劇の夜の恐怖をまざまざと見せ付けたのである。
 それは、あるいは伝説が現実になった瞬間だったのではないだろうか?


・伝説の再生

 この97年版の成功のウラには、タイタニック号の悲劇に魅了された人々の決して少なくない努力と献身があった。
 先にも記したように、事故直後から1980年代までは、沈没したタイタニック号の正確な位置を把握する事が出来ず、加えて深海探査を行える技術もなかったため、タイタニック号の悲劇は多くの人々にとっては本当に伝説のようなモノであった。
 しかし、この伝説に科学のメスを入れ、タイタニック号の伝説を再生しようと試みる人物が現れた。 地質学者で海洋探検家のロバート・バラード博士である。
 バラード博士は、アメリカ最大の民間科学研究所、ウッズホール海洋学研究所に勤務していたが、ある時からタイタニック号の位置探査を研究所に申請していた。
 しかし、研究所はこれを却下。 タイタニック号の位置探査という、費用ばかりがかさみ、しかも成功確率の極めて低い調査に難色を示し、研究所サイドはなかなかゴーサインを出してはくれなかった。
 しかし1985年になって、プロジェクトが急に動き始める。
 フランスの海洋学者、ジャン・ルイ・ミシェルが合同調査を申し出た事でようやくゴーサインが出て、フランスとアメリカによるタイタニック号探索調査が始まったのである。
 1985年7月、バラードとミシェルの合同調査隊は一路、北大西洋に向かった。 しかし、ココからが本当の苦難の始まりだった。
 様々な記録や証言を検証し、ある程度の位置にアタリをつけていた調査隊だったが、その場所にはタイタニック号はなかった。 そんなハズはないと周辺海域を捜索してみるも、海底に眠るタイタニック号の船影は残骸の一部すら見つける事が出来なかった。
 無人探査艇のカメラが映し出すのは、不毛な砂漠地帯のような堆積物ばかりの海底と、動きの緩慢な深海生物、そして、誰が捨てたのか分からないビール瓶といった程度のモノばかりだった。
 やはり、タイタニック号捜索は不可能なのか?
 調査隊の誰もが諦めかけたその時、探査艇のカメラが“自然物ではない何か”を映し出した!
 モニターを食い入るように見つめるバラード。 そして、注意深く探査艇を進めると、
「ボイラーだ! タイタニック号のボイラーだ!」
 それは、沈没時に船外に投げ出された29基の石炭ボイラーの内の一つだった!
 さらに周辺海域を探してみると、写真や設計図でしか見た事がなかったタイタニック号の部品が次から次へと見つかった。 そしてついに、探査艇は海底3773mにその巨体を横たえているタイタニック号をカメラに捉えたのだった!
 時に、1985年9月1日、午前1時の事。 捜索開始から、実に56日目に達成された快挙であった。
 こうして、バラードはニューファンドランド島の南東約600km。 北緯41度43分55秒、西経49度56分45秒の位置に、タイタニック号を発見したのである。
 タイタニック号発見のビッグニュースは世界中を駆け巡り、バラードは一躍時の人となった。(注:ただし、本人は逆に惨劇の夜を想って心を痛め、4ヵ月もの間タイタニック号の話しをしなかったとか)
 1年後の1986年、バラードは再びタイタニック号に挑んだ。
 今回の調査の目的は、タイタニック号の現在の状態を観察し、映像と写真による記録と詳細な海底地図の作成が目的であった。
 タイタニック号は、沈没する際船内の空気が水圧によって圧縮され、水深100m付近で水圧に耐え切れなくなった空気が空気爆発を起こしていたため、船首部分と船尾部分は500mもの距離を隔てた海底に着床し、爆発によって遺留品が半径600mもの広範囲に渡って散乱してしまっていた。
 バラードは、これを可能な限り正確に記録しようと考えたのである。
 アメリカ海軍の協力を得て、有人型の深海探査艇アルヴィン号と、リモートコントロールが可能な超小型無人探査艇ジェイソン・Jr(注:元々は海軍用に開発したモノだったそうだ)を使用し、船外からだけでなく、船内にまでカメラを入れようという史上初の試みだった。
 この調査は9日間に渡って行われ、この模様はアメリカの科学雑誌最大手、ナショナル・ジオグラフィックス社によって映像に記録され、アメリカ国内のケーブルTVでOAされた他、92年には『タイタニック‐真実の姿』というタイトルでIMAXシアター用のドキュメンタリー映画として公開された。
 このバラードの調査により、タイタニック号は最早映画や小説でしか描かれなかったおとぎ話や伝説ではなく、現実に存在した真実の物語である事が証明され、タイタニック号は数十年の時を経て再び大衆に注目されるようになった。
 バラードの調査の翌年、1987年にタイタニック号の史実調査と遺品の整理、管理、保存を目的とした財団法人、RMSタイタニック財団が設立され、以降タイタニック号の遺留品の引き上げは同財団が独占して行う事になった。(注:ただし、調査のみであれば財団以外でも行えたため、財団に無断で遺留品を回収しては営利目的で販売した調査団体も少なくない。 法律的な事を言えば、遺留品は拾得物に当たり、既に所有者不在、もしくは所有権が失われていたため。 2004年になってようやく、バラードの発案で“タイタニック号国際保護条約”が締結され、遺留品の不法回収が全面禁止になった)
 同財団は、1998年までに、重さ20トンを超える船体の一部の引き上げに成功した他、実に5000点にも上る遺留品の数々を回収している。
 これらの遺留品は現在、財団が運営するアメリカのテネシー州にあるタイタニック博物館に常設展示されている。
 1995年、ジェームズ・キャメロンは、97年公開予定の映画『タイタニック』の中で、深海に眠る実際のタイタニック号の映像を挿入する事を望んだ。 そして、ロシアとの合同調査という形で、この撮影を実現させる。
 ドキュメンタリー以外で実際のタイタニック号の映像が使われたのは、この映画が史上初である。
 この映画は、約2億ドル。 当時の為替レートで240億円(!?)という、現在でも史上最高額の総製作費が投入された超ビッグプロジェクトだったが、実はそれでも予算が足りず、深海撮影はたったの1回。 撮影期間、僅か20時間の一発撮りであった。
 映画では効果的に使われていたが、キャメロンは満足出来なかったようだ。 そのため6年後、キャメロンは再びタイタニック号の悲劇を描く。 IMAX3D用のドキュメンタリー映画、『タイタニックの秘密』(2003年)である。
 この映画では、97年版の合同調査で知り合ったロシアの海底探査チームや、タイタニック研究家のケン・マーシャル、海洋探検家のルイス・アバナシー(注:97年版にも、ビル・パクストンと共に出演している。 キャメロン自身が彼をモデルに脚本を書いていたため、「素のままで出演してくれ」と頼んだとか)らと共に、深海に眠るタイタニック号のありのままを撮影、記録するというプロジェクトだった。
 この調査では、キャメロンの弟、マイク・キャメロンがこの調査のために新しく開発した超小型無人探査艇、ROVと、同じくこの調査のために開発された深海用照明装置、メデューサを使用し、海底の広範囲を照らして幻想的な映像の数々を12回の潜水に分けて撮影した。
 しかし、調査中の2001年9月11日、あのアメリカ同時多発テロが発生し、調査は予定期日よりも前に中断。 映画の公開もテロの影響で延期され、2003年になってようやく公開された。
 翌2004年には、IMAX3D版ではカットされた30分の未公開シーンを含む90分の2D版ロングバージョンがDVDでリリースされている。


to be continued...

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191.Truth in TITANIC(前編)

2012年04月15日 | サイエンスマニアックス

-Science Maniax #05:Special Edition-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先週は国内外で色々な事が集中してありましたね。 年末のアメリカ大統領選挙の候補者選び、インドネシアの地震(注:またスマトラ島か!)、そしてキタ!
 も~、あの国はなんでそんなにも戦争したいのかね~? 報道陣に公開された、ミサイルの管制センター見ました? どう見てもン十年前の設備。 戦争になったら、あんな旧式のショボイ設備でどうやって戦うつもりなんでしょう? 権力を継承した若い後継者が、親の七光りだけのバカ王子でない事を祈るばかりです。 そうでないと、ホントに僕が小説『with you...』で書いた事がそのまま現実になっちゃうよ。
 そうそう、『with you...』と言えば、今月25日のMFD‐WEBの更新では、その『with you...』の特典テクスト付き“究極版”のアップを予定しています。
 世界観設定資料や解説、未公開シーン集などを含む、総計1700頁オーバー(!?)の“究極版”です。 お楽しみにッ!!
 今年のMFD‐WEBは隔月更新!
 “偶数月はMFD‐WEBへGO!”
 と、憶えて頂けたら幸いです。



<今週の特集>

 さて、今週の特集コーナーは、先週告知した通り“特別編”です。
 カテゴリーを何にするかで迷いましたが、『サイエンスマニアックス』の特別編として公開する事にしました。
 最後までヨロシクね☆


序章

 北大西洋―。
 カナダ、ニューファンドランド島沖合いの南東、約600km。
 北緯41度43分55秒、西経49度56分45秒。
 全視界360度、どこを見回しても陸地の影すら見えない蒼い海原が続く海の砂漠。
 しかしその海中、3773mの海底で、“それ”は今も、安らかな眠りの中にある。 1514名の、帰らぬ命と共に……。
 1912年4月15日、午前2時20分。 すなわち、今から丁度100年前の今日、その船は、この地で海の藻屑と消えた。
 今もなお、史上最大の海難事故として世界にその名を知られる悲劇の主人公。
 その船の名は、“タイタニック”!
 今回は、2週に渡ってお送りするサイエンスマニアックス:特別編、『真実のタイタニック号』をお送りします。
 最後までお付き合い頂けたら幸いです。


第1章:その時何が起こったのか?

 ではまず、その時何が起こってタイタニック号が沈没してしまったのかを検証するため、当時の記録や証言、そして後の調査で判明した事実などを交えて、事故当時を時系列に沿って再現していく事にしよう。


・建造

 そもそも、タイタニック号とはどんな船だったのか?
 20世紀初頭、世界の中心はヨーロッパだった。 ロシア帝国を含めたいわゆるヨーロッパ列強各国は、当時地球の5分の4を植民地支配(!)しており、世界中の富をほしいままにしていた。
 特に、最も多くの植民地を支配していたのは大英帝国、イギリスであった。
 イギリスは、植民地から搾取した膨大な富を有し、国内は好景気に恵まれ、まさに世界の中心になっていた。 そして、北アイルランドのベルファストに本拠地を置くハーランド&ウルフ造船所は、この好景気に支えられた世界でも有数の造船会社だった。
 この造船所の会長、ウィリアム・ビリーは、ある時イギリス―ニューヨーク間の定期航路を運営していたホワイト・スター・ライン社の社長、ジェームズ・ブルース・イズメイとの夕食会の席上、こんな事を言った。

「なあジェームズ、世界一の豪華客船を造らないか?」

 当時、大西洋航路は“ブルーリボン賞”と呼ばれるスピード競争が激化しており、ホワイト・スター社はライバル企業であるキューナード社(注:後に、クイーンエリザベスⅡ号を就航させる事になる会社。 現在も健在)に対抗するため、速いだけではない船を必要としていた。 そのため、イズメイはビリーのこの提案に二つ返事で乗る。 そして、ハーランド&ウルフ造船所の主任設計士、トーマス・アンドリュースが設計(注:最初の主任設計士はアレキサンダー・カーライルという人物で、アンドリュースはホワイト・スター社と折り合いの悪かったカーライルの後任だった)したのは、文字通りの(当時)“世界一”の船だった。
 全長268m、全幅28.19m、総排水量66000t、最高速度は23ノット(42.6km/h)。
 29基の石炭ボイラーと3段膨張4気筒のレシプロ蒸気機関2基を搭載し、乗員、乗客合わせて2200人を乗せ、イギリス―アメリカ間を1週間で航行するという、定期船としては史上最大。 蒸気船としては、現在においても世界最大の船だった。(注:現在の船は、ディーゼルエンジンか原子力を動力としているため。 蒸気船は、観光用の小さな船しか建造されていない。 ちなみに、タイタニック号の全長は、新宿にある都庁の高さを上回る)
 しかも、この船はただ単にデカいだけでなく、内装が極めて豪華だという点が最も重要だった。 トレーニングルームやトルコ式蒸し風呂、さらには外洋船では初となるプールまでも完備され、専門の職人による豪華な装飾は、1等船室の一部屋一部屋に丁寧に施されており、当時考えられる贅の限りを尽くし、その豪華さから“宮殿”に喩えられたほどの、まさに夢の豪華客船だった。
 ちなみに、建造期間はおよそ3年。(注:1908年竣工、1911年進水) 延べ3000人もの工員が建造に携わり、総工費は当時の貨幣価値でおよそ750万ドル。 当時の為替レート換算で、約27億円。 これは、当時の日本の国家予算のなんと4.5倍に相当(!?)する。
 文字通り、ケタ違いの豪華客船だったのだ。
 しかもホワイト・スター社は、この世界一の船をなんと3隻も建造(!!)している!
 これらは“オリンピック級”と呼ばれ、最初に建造されたオリンピック号は、タイタニック号よりも1年先行して建造が始まり、1911年に進水。 第1次大戦中は輸送船として運航されたが、戦後になって客船に復帰し、1935年まで運航される事になる。
 2隻目はタイタニック号だが、3隻目のブリタニック号は1911年に建造が開始されるも、翌1912年のタイタニック号沈没事故で設計の見直しが図られ、完成したのは1914年になってからの事だった。
 トコロが、運行開始直前に第1次世界大戦が勃発してしまい、イギリス海軍に徴用されて病院船にされてしまう。 しかも、戦時中の1916年11月21日、ドイツ海軍が仕掛けた機雷に接触してあえなく沈没。 客船としては一度も運用されないまま、海の藻屑と消えてしまう不幸な船であった。
 ちなみに、タイタニック号の名前の由来になっている英雄タイタンは、ギリシャ神話に登場する神に戦いを挑んだ巨人で、しかし戦いに敗れ地獄に落とされる。
 それはまさに、旧約聖書で描かれたヒトの愚行の具現たるバベルの塔の挿話を想起させ、タイタニック号は神に戦いを挑んで敗れたタイタンであり、大西洋の大海原に忽然と現れたバベルの塔だったのかもしれない。
 ともかく、そんな豪華客船を3隻も建造したホワイト・スター社は、この船を誇らしげに世界に宣伝した。 “世界一の船”という謳い文句は、建造中から世界中の注目の的で、ホワイト・スター社には世界中の貴族や富豪から乗船予約が殺到したという。
 1911年(明治44年)5月31日、ベルファストの港に進水したタイタニック号は、僅か8時間で試験航海を終え、イズメイはこの船を“不沈船”と呼んだ。
 実際、タイタニック号は当時の船としては画期的な技術がいくつか導入されている。 船底の鋼板を二重にするいわゆる“二重船底”が採用され、船全体を16の水密区画に分割する15の“防水隔壁”が設置されていた。 今ではどんな船でも当たり前のように採用されている技術だが、当時としては極めて画期的なモノで、イズメイが“不沈船”と呼ぶのも当然の事であった。
 こうして、タイタニック号は完成した。 後は、出航の時を待つばかりであった。


・出港

 1912年4月10日―。
 まさにタイタニック号の運命の船出の地となったイギリスはリヴァプールにあるサウサンプトン港は、早くもお祭り騒ぎの様相を呈していた。
 既に運行を開始していたオリンピック号の同型船とはいえ、タイタニック号は1等船室の数がオリンピック号よりも多く、加えてオリンピック号にはないスイートルームが2つもあるため、豪華さという意味ではまさに“世界一”だったからだ。
 この船の処女航海を任されたのは、この道30年のベテラン、エドワード・J・スミス船長であった。
 スミスはホワイト・スター社の重役でもあり、英国海軍の予備役大尉の肩書きも持つ有名人で、上流階級の人々の人気も高い人物であった。 世界一の豪華客船の処女航海には、うってつけの人物であった。
 しかしこのスミス船長、実は意外にも“事故船長”でもあった。
 火災事故3回。 座礁事故3回。 接触事故が2回もあり、この内1回はオリンピック号の船長を務めていた時のモノで、しかも相手は英国海軍の巡洋艦であった。(注:この事故修理のため、建造中だったタイタニック号に使うパーツを使用し、結果タイタニック号の完成が遅れた)
 さらに、タイタニック号は出港前から第10石炭庫でなんと火災が起きており、この火災は出港後も燃え続け、沈下したのは氷山と接触する前日の4月13日の夕刻になってからの事であった。
 しかも間の悪い事に、火災が起きたのは第5防水隔壁の右舷側、すなわち氷山との接触による損傷が最も大きかった場所であった。
 この火災が、船体を傷つけ損傷を大きくしたと分析する研究者も決して少なくない。
 ……ただし、当時の石炭の保管技術はまだ未熟で、密閉した室内で石炭が自然発火する事は、実に良くある事だった。 そのため、航行中の蒸気船で石炭火災が発生する事も、極めて良くある事だった。
 だからこの火災事故も、懸案事項ではあったが、スミスにとっては“良くある事”で済まされる程度のモノだった可能性は否定出来ない。
 ハナシを戻そう。
 このタイタニック号の処女航海を任された主な船員は、船長のスミス以外では、1等航海士のウィリアム・M・マードック、2等航海士のチャールズ・H・ライトラー、5等航海士のハロルド・G・ロウ、6等航海士のジェームズ・P・ムーディ、無線通信士のジャック・フィリップス、無線技師のハロルド・ブライド、見張り員のフレデリック・フリートとレジナルド・リーなどがいる。(注:いずれも重要な人物。 詳細は順次後述)
 また、乗客も当時の貴族階級、それも、世界的な超有名人ばかりが集まった。
 例えば、ジョン・ジェイコブ・アスターⅣ世。 当時マンハッタンのほとんどの土地を所有していた大実業家で、29歳も年下の新妻(!?)とのハネムーンから帰国するために乗船。
 イジドアとアイダのシュトラウス夫妻。 アメリカの実業家で、有名百貨店メイシーズのオーナー。
 ベンジャミン・グッゲンハイム。 やはりアメリカの大実業家で、鉱山王と呼ばれた人物。
 マーガレット(モーリー)・ブラウン。 コロラド州で一山当てた成金実業家の妻。
 ウォレス・ハートリー。 音楽家。 ディナーパーティーで音楽を演奏する5人編成のバンドのバンドマスターで、乗客として乗船。
 トーマス・アンドリュース。 タイタニック号の主任設計士。
 J・ブルース・イズメイ。 タイタニック号のオーナー、ホワイト・スター社の社長。
 等々、当時の貴族階級の有名人が大勢乗っていたのだ。
 またタイタニック号には、たった一人だけだが実は日本人が乗っていた!
 当時の鉄道院副参事(注:現在の国土交通省大臣官房技術参事官に相当)であった細野正文である。 YMOのメンバーで、“ハリー細野”の名で有名なアーティスト、細野晴臣の祖父に当たる人物である。
 細野は運良く生還するが、長い間「他人を押しのけて救命ボートに乗った卑怯な日本人」と非難されていた。 が、これは後の調査で誤解であった事が証明されている。(注:タイタニック号の事故を報道した当時の日本のメディアによる誤記が原因であったそうだ。 当時の海外メディアには、細野が生還した記述はあったが、“押しのけた”というような記述は一切なく、そういう行為をした中国人と間違えられたらしい)
 ちなみに、1等船室の乗船チケット代は870ポンド。 当時の為替レート換算で、なんと575万円(!)という奥さまビックリ価格であった。
 そりゃあ、超お金持ちしか乗れなかったワケだよ。
 ちなみにちなみに、主に移民が乗っていた3等船室は、たったの2~4万円。 もちろん、それでも当時としては結構な額だったが、部屋は相部屋で、一人当たり畳1帖分のベッドが与えられている程度の待遇だった。
 ともかく、こうした人々で構成された乗員乗客、合わせて2224人が乗り込み、タイタニック号は多くの人の波でごった返すサウサンプトン港から、多くの見物人に見送られて華々しく出港……出来なかった。(←オイオイ)
 実はタイタニック号は、出港の際、隣のドックに停泊していた貨物船、ニューヨーク号とあわや接触というニアミス事故(!?)を起こしている。 この事故は、しかし船員の迅速な判断とタグボートの懸命な努力によって接触を回避した。 ニューヨーク号との最接近時の距離は、僅か1.2mだった。
 今から考えれば、これが後の沈没事故の予兆だったのかもしれない。(注:石炭庫では火災も発生中だったしね)
 このニアミスにより、乗客は出港が1時間遅れた事に憤慨したというが、タイタニック号の栄えある処女航海は、間違いなく前途多難な幕開けであった。


・接触

 1912年4月10日、夕刻。
 タイタニック号は、最初の寄港地であった北フランスのシェルブール港に到着。 予定より多少遅れたモノの、航海そのモノは順調だった。
 翌4月11日、最後の寄港地であるアイルランドのクイーンズタウンに到着。 ココで、最後の乗船客が乗り込んだのだが、ココで下船する者も何人かいた。 フランシス・ブラウン神父は、その内の一人であった。
 バカンスでタイタニック号に乗船したブラウン神父は、船上の様子をカメラに収めていた。 この時撮られた写真は、在りし日のタイタニック号とその乗客たちの様子をつぶさに捉え、図らずも雄弁な歴史の証言者となった。
 クイーンズタウンを出港したタイタニック号は、これ以降寄港地はなく、目的地であるニューヨークに向けて一路、進路を西に取った。
 大西洋に出てからは、特にこれといった事もなく、航海は順調に進んでいた。 このままなら、予定通り4月17日にはニューヨークに到着するだろう。
 乗員も乗客たちも、誰もが世界一の豪華客船による船旅を楽しんでいた。
 しかし運命の歯車は、この時既に狂い始めていた。
 運命の1912年4月14日―。
 前日まで燃え続けていた石炭庫の火災もようやく鎮火し、この日は朝から天候にも恵まれ、タイタニック号は凪いだ海原を順調に航海していた。
 通常、4月の北大西洋は荒れる事が多く、波が高いのが常であった。
 しかし、この日は朝から風もなく、4月の北大西洋としては珍しい、凪いだ穏やかな表情を見せていた。
「天候さえもタイタニック号の処女航海を祝福している。」
 スミス船長は、あるいはそんな事を思っていたのかもしれない。
 だが、そんなスミスの余裕に不安の影を落とす情報がもたらされる。
 午前9時(氷山との接触14時間40分前)、近海を航行中のキャロニア号から無線連絡が入り、タイタニック号の進路上に浮氷原があるという、注意喚起の連絡だった。 同日午後1時42分(接触10時間前)には、同じく付近を航行中だったバルティック号からも、同じような無線連絡が入った。
 これらを含めて、タイタニック号はこの日、少なくとも7回もの氷山警戒の無線連絡を受けている。
 ……が、スミスはこれらをことごとく無視した。
 何故?
 それは、乗客として乗り込んでいたホワイト・スター社の社長、J・ブルース・イズメイの命令があったからだった。
 イズメイは、大西洋横断航路のスピード記録、ブルーリボン賞を狙っていたのだ。
 タイタニック号の建造当初、イズメイはブルーリボン賞には興味がなかった。 そのため、ホワイト・スター社は他の船会社がスピードを“ウリ”にしていたのに対し、タイタニック号にはゆったりとした船旅を提供するために豪華さを求めた。 実際、タイタニック号のゴージャスな内装は、建造中から大きく宣伝されていた。
 が、それは1911年までのハナシだ。
 タイタニック号の処女航海の1年前に就航したタイタニック号の同型船、オリンピック号が、最高速度22.75ノットの新記録を樹立。 これは大きく宣伝され、豪華なだけではない、“速い船”というイメージは強力な宣伝材料になった。 そして、同型船でオリンピック号よりも出力の大きなエンジンを搭載していたタイタニック号に新記録の期待が寄せられたのは、むしろ必然的な事だった。 タイタニック号の華々しい出港を見送った群衆は、あるいは新記録に対する期待の表れだったのかもしれない。(注:20世紀初頭という当時の時代背景から考えても、これは納得出来る事である。 産業革命以降の著しい技術の進歩が、“スピードと正確さ”というキーワードを背景に生き馬の目を抜く勢いで発達していった時代である。 自動車が普及し始め、モータースポーツが盛んになっていったのもこの頃である。 当時の大衆は、“スピード”に飢えていたのだ)
 そのため、イズメイもタイタニック号に“速い船”のイメージを欲しがった。 オリンピック号の新記録樹立は運が良かったから(注:オリンピック号のカタログスペックでは、最高速度は21ノットになっている)だが、タイタニック号が予定期日よりも早く着けば、それは決定的なモノになり、良い宣伝材料になるからだ。
 イズメイは、メディアが報じる新聞の一面が、“タイタニック号新記録樹立!”のヘッドラインで埋め尽くされる事を期待していたのだ。
 処女航海。
 2年連続の新記録樹立。
 史上初の快挙!
 イズメイでなくとも胸躍る瞬間が、目の前にあったのだ。
 だからイズメイは、スミスに指示した。
「もっと速く。 もっと速く!」
 所詮は企業の一員でしかないスミスは、あるいはこれに従うしかなかったのかもしれない。
 実際、タイタニック号はこの日の午後、最高速度22.5ノットを記録しており、翌日には最高速度に挑戦する予定だったと言う。
 だからタイタニック号は、ひた走る。 行く手に待ち受ける、破滅への航路を……。


 午後9時20分(接触2時間20分前)。
 海は穏やかだった。
 エンジンも極めて快調で、航海は全く問題なかった。
 そのためスミスは、「何かあったら報せてくれ。」と言って、ブリッジを後にした。 この言葉を聞いた2等航海士チャールズ・H・ライトラーは、「“何か”が氷山の事を指しているのだと直感した。」と、後に語っている。
 午後10時30分(接触1時間10分前)、付近を航行していた船舶から、最後の氷山警戒の無線連絡が入る。
 しかし、1等航海士のウィリアム・M・マードックはこれを無視した。 スミスから、船を停めないように指示を受けていたからだ。
 午後10時55分(接触45分前)、タイタニック号の北方37km付近を同じくニューヨークに向かって航行していたカリフォルニアン号より入電。
「氷山に囲まれて身動き出来ない。」
 カリフォルニアン号は、夜が明けるまで停船する事を決定し、エンジンを停止した。
 それでもタイタニック号は、止まる事も回避する事もしなかった。 それが、オーナー企業であるホワイト・スター社の指示だったから……。
 午後11時40分。
 船首に設置された船首マストの見張り台には、この日フレデリック・フリートとレジナルド・リーがいた。 彼らは身を切るような寒さに震えながら、その夜の見張り番を務めていた。
 しかし当日、彼らの手には双眼鏡がなかった。 一説によると、ブリッジの双眼鏡が壊れてしまい、彼らの手にあるハズの双眼鏡が代わりに使われていたかららしい。
 それをネタに、冗談を言い合っていたフリートとリー。 しかしその笑いは、前方に注視した時に次第に掻き消えていった。
 まさかと思い、同時にもしやと疑い、しかし月明かりにぼんやりと浮かぶ青白い“ソレ”が何なのかを悟った次の瞬間、フリートは電話機の受話器をひったくっていた。
 同瞬、ブリッジの電話機がけたたましく鳴り響く。
 6等航海士のジェームズ・P・ムーディが受話器を手に取ると、フリートは受話器に向かって叫んだ。
「氷山だ! 目の前にッ!!」
 タイタニック号の目の前に、その全高とほぼ同じ高さの巨大な氷山が、悠々とその巨体を海面に浮かべていたのだッ!
 この時期にしては珍しく、海は穏やかだった。 凪いだ波が、氷山を叩きつけるような事もなかった。 フリートとリーの氷山発見が遅れたのも、無理のないハナシであった。
「ありがとう。」
 そう言ってムーディは受話器を戻すと、すぐさまマードックに報告した。
 マードックは、前方に浮かぶ巨大な氷山を目視で確認すると、
「取り舵(左旋回)一杯! 全速後進!」
 力いっぱい叫んだ!
 にわかに慌しくなるブリッジ。 蛇輪は左に一杯まで回され、テレグラフ(注:機関伝令機)は全速後進(注:この場合は“急停止”の意。 車と違い、船はそう簡単に止まる事が出来ない。 タイタニック号の制動距離は1200mだったと言われているが、この時の氷山との距離は400m程度しかなかったと言われている)の位置へ。
 左に旋回し始める船首。 マードックは、船が氷山の左側ギリギリをすり抜ける事を祈った。
 しかし、氷山発見から37秒後、船の右舷側、すなわち氷山に面する方向からニブい、それでいて金属質の、イヤぁ~な音が、聞こえた。
 この時の様子を、後に生還した人々の多くが「特に何も感じなかった。」と証言している。 実際、後の調査で判明した氷山との接触による船体の損傷は、なんとたったの6ヵ所。 全部合わせても、その総面積は僅か1平方メートルあるかないかといった小さな、とても小さなモノでしかなかった。(注:事故発生当時は、“90mの大穴が開いた”と考えられており、これが1980年代まで信じられていた。 89年公開の大ヒット映画『ゴーストバスターズ2』にも、幽霊になったタイタニック号が登場しているが、船体にはやはり大穴が開いている描写がある)
 しかし、全長268m、総排水量66000tの超大型豪華客船を沈めるには、これで十分だった。
 先にも記したように、タイタニック号は16の水密区画を持つ船体構造をしているが、連続する4つの水密区画に浸水しても、船が沈む事はない。 そこまでは、主任設計士のトーマス・アンドリュースも想定していたのだ。
 トコロが、現実は予想を上回った。
 タイタニック号の船体のキズはたったの6ヵ所だったが、問題はそのキズがついた場所であった。 アンドリュースが船内を見回って確認したトコロ、第1水密区画から第6水密区画までという、極めて広範囲に渡って損傷していたのだ。
 すなわち、セーフティラインである“連続する4つの水密区画”を上回る、6つもの水密区画が浸水していたのである。
 また、これも後の調査によって判明した事であるが、タイタニック号の鋼板に使用されていた鉄は、硫化マンガンを多く含む粗悪な鉄で、低温では特に脆くなる事が判明した。
 当時の未熟な製鉄技術と、氷点下にまで達すると言われる初春の北大西洋の冷たい海水が不幸にも重なり、この事態を引き起こしたのだと考えられている。
 また、最も大きな損傷があった第5防水隔壁の右舷側で、前日まで火災が起きていた事実も見逃す事は出来ない。
 ありとあらゆる出来事が、イズメイの指示した“スピード記録更新”によって、不幸にも“氷山接触”という最悪の現実に結実したのである。
 誰が悪かったのだと、今さら犯人探しをする気は筆者にはない。 ブリッジの操縦ミス、保険金目当ての陰謀説など、様々な事故原因がこれまで何度となく検証されてきたが、今となっては、その意味はもうない。 ただ一言、この言葉で片付けるしかないのだ。
「運が悪かった。」
 と……。


 自室からブリッジに戻ったスミスは、マードックに氷山と接触したという報告を受けた。 マードックは優秀だった。 迅速に、防水隔壁の閉鎖を独断で指示していた。 これにより、タイタニック号は接触から2時間以上もの間、その姿を海上に止める事になった。
 スミスは、これに続いてエンジンの停止を指示。 同時にアンドリュースは、船体の損傷を確認した。
 日が明けて4月15日の午前0時3分(接触から23分後)、スミスは損傷確認から戻ったアンドリュースに、沈没を宣告された。 その言葉に、スミスは耳を疑った事だろう。
 しかし、船を知り尽くした主任設計士の言葉だ。 疑う余地などあるハズがない。 だからスミスは、船員たちに指示した。
「眠っている乗客を起こして、救命胴衣を着けさせろ。」
 それが何を意味しているのか、船員たちはすぐに悟った。
 そして、彼らはパニックを起こさないように注意しながら、客室のドアを一つ一つ叩いて回った。
 スミスもまた、客室のドアを叩いて回った。 貴族や富豪に人気のあったスミスは、自らの言葉で1等船室の乗客たちに事故を報告したのだった。
 突然叩き起こされ、ワケの分からないままに救命胴衣を着せられた乗客たちは、寒空の下甲板へと出た。 すると、そこで彼らの目にしたモノは、毎夜食堂やバーで弦楽を奏でていたウォレス・ハートリー率いる5人編成のバンドによる生演奏と、船員たちが慌しく用意している救命ボートの数々だった。
 タイタニック号に装備されていた救命ボートは、全部で20艘。 最大定員数は、1艘当たり60人。 そう、総定員数は、乗員乗客の総数2224人のおよそ半分、1200人分しかなかったのだ。
 タイタニック号の設計当初は、実は64艘の救命ボート(注:3840人分)が装備される予定だった。 が、「デッキが見苦しくなる」、「景観を損ねる」という意見が相次ぎ、建造時には半分の32艘(注:1920人分。 この時点で既に定員オーバー)にまで減らされ、最終的に20艘になったのだそうだ。
 しかし、当時のイギリス商務省規定では、なんとこれでも合法(!?)だった。
 規定では、なんとたったの962人分(!!)の救命ボートが装備されていれば、法律上は問題なかったのである!!
 これを法律不備と言わずして何と言おう!?
 事故原因はともかく、死者数は間違いなく当時の法律不備が原因だッ!
 また、船員たちの認識不足も、これに拍車をかける事になった。
 救命ボートは、アンドリュースが設計した新開発の係留装置、“ダビッド”によって固定されていたが、人の重みでコレが壊れる事を恐れた船員たちは、ガラガラの状態で救命ボートを下ろしていたのだ。
 最終的に、船を脱出した救命ボートは18艘。 空席の数は、500席以上もあったという。


 午前0時14分(接触34分後)、船長のスミスの姿は無線室にあった。 時ここに至ってようやく、スミスは無線通信士のジャック・フィリップスに救難信号の発信を指示した。
 フィリップスは当初、当時一般的に使用されていた救難信号である“CQD”を何度か打電しているが、途中から国際法によって定められた新しい救難信号、“SOS”に切り替えている。
 一時期、この時打電されたのが“史上初のSOS信号”と言われていたが、その後の研究で1909年にSOS信号が打電されていた記録が発見され、“世界初”というワケではなかった事が立証されている。(注:ただし、“世界一有名なSOS信号”である事に変わりはない)
 フィリップスが不慣れな救難信号を打電する傍らでは、無線技師のハロルド・ブライドが電圧調整パネルとにらめっこしていた。 不安定な船上の電圧を一定に保つには、無線技師による電圧の調整を随時必要とした。
 二人はこの後、2時間近くの間に数十回に及ぶSOS信号を打電し続ける事になった。
 しかし、二人の救難信号に応えた船は、たったの2隻しかなかった。
 タイタニック号の最も近くにいたのは、その北方37km付近にいたカリフォルニアン号だが、同船は浮氷原の入り口で立ち往生したまま全機能を停止。 エンジンまで止めてしまっていたため、どんなに急いでも到着まで数時間かかるのは目に見えていた。(注:エンジンが3~4階建てのビルに匹敵するほどデカいので、始動だけで30分から1時間以上かかる事も希ではない。 現在でも、タンカーのエンジン始動には30分以上かかる)
 その次に近いのがカルパチア号という定期船で、こちらはまだ航行中だったが、その距離はなんと4時間以上。 これまた間に合わないのは目に見えていた。
 一応、カルパチア号は救助に向かうと返答したが、間に合わないのは分かっていた。 それは、無線連絡を受けたフィリップスとブライドにも分かっていた事だった。 自分たちが助からない事を悟ったのは、あるいはフィリップスとブライドが最初だったのかもしれない。
 午前1時15分(接触1時間35分後)、船首が目に見えて分かるほど傾き始めた。
 こうなると、もう誰にも止める事は出来ない。 海抜の高さが防水隔壁の高さを超えるため、浸水した水は防水隔壁を越えて隣の防水区画へと流れ込み始めるからだ。
 船が沈むのは、最早時間の問題でしかなかった。
 しかし、デッキではまだそれほど大きな混乱はなかった。
 船員たちは乗客を誘導し、女性や子供を優先して救命ボートに乗せていった。 しかも、ハートリーたちのバンドは乗客たちを落ち着けようと、沈み行くデッキの上で演奏を続けていた。
 この後、ハートリーたちは船と運命を共にしたが、最後の最後まで演奏を続けた彼らは伝説となり、英雄として歴史にその名を刻む事になる。
 ハートリーたちの演奏が続く中、整然と避難は続いた。
 ……しかしそれは、1等船客のためだけの避難活動であった。
 2等船客はともかく、悲惨なのは移民が中心の3等船客たちであった。
 この時、3等船室へと続く階段のドアや鉄格子には鍵がかけられ、彼らは逃げたくてもデッキに上がる事さえ出来なかったのだ。 彼らの多くが、船と運命を共にする事になる。
 午前2時10分(接触2時間30分後)、スミスは再び無線室を訪れた。 そして、SOSを打電し続けていたフィリップスとブライドに、救難信号の打電中止を命令した。
「キミたちも逃げたまえ。」
 スミスのこの一言で、二人は最後の救命ボートに滑り込み、奇跡の生還を果たす。(注:ただし、フィリップスは極度の疲労と寒さのため救命ボート上で死亡。 ブライドは、すし詰めの救命ボートの中で、救助されるまでずっと立ったままだったそうだ)
 しかしその一方で、一等船客であっても死を選んだ者は決して少なくない。
 乗船客の中でも最大の大富豪、ジョン・J・アスターは、身重の妻を救命ボートに乗せたが、自らは乗る事を拒否され、泣き叫ぶ妻をなだめて船に残った。 そしてそのまま、彼が再び妻と再会する事はなかった。
 シュトラウス夫妻は、老齢だった事もあり早い段階で救命ボートに乗れたが、乗れたのは妻のアイダだけで、女性と子供優先だったため夫のイジドアは拒否された。 しかし妻は、夫を一人残しては行けないと救命ボートを降り、助かるよりも愛する夫と共にいる事を望んだ。 生還者の証言によると、二人はその後部屋に戻り、夫婦水入らずで最期の時を過ごしたという。
 他の誰よりも貴族である事を望んだのは、ベンジャミン・グッゲンハイムであった。 彼は救命胴衣を着ける事もなく、それどころかなんとタキシードに着替え、ボートデッキではなくお気に入りだった大階段の袂、タイタニック号の象徴になっていた真鍮製のケルビム像の前に腰を据えると、ブランデーのグラスを傾け始めた。 その姿が、彼を見た最後の姿だった。
 ライトラーは生還するが、マードックは最後まで勇敢に乗客の避難を指揮した。(注:後に、97年版の映画『タイタニック』では、マードックが拳銃自殺するシーンがあるが、“事実と異なる”と抗議が殺到したため、配給元の20世紀フォックスはマードックの遺族に公式に謝罪し、マードックの母校に多額の寄付を行ったそうだ)
 ムーディは、一度救命ボートに乗って指揮(注:各ボートには、一人の船員が乗船してそのボートを指揮するよう命令された)するように命令されるも、なんとこれを拒否。 最後まで乗客の誘導に全力を注ぎ、船を運命を共にする。
 主任設計士のアンドリュースは、彼が一番気に入っていたという談話室に一人で残っている姿を目撃されているが、生存者リストに彼の名前はない。 恐らく、自らの予測の甘さを後悔しながら、最期の時を迎えた事だろう。
 現実は、常に予想を上回るモノなのだ。
 “事実は小説よりも奇なり”は、決してあり得ない事ではないのだ。
 アンドリュースは、最後の最後にこれを学んで死んでいった事だろう。
 船長のスミスについては諸説ある。 デッキにいたという証言もあれば、ブリッジ、あるいは自室に戻ったという説もある。 また最後の言葉も、「英国人らしく振舞え。」あるいは、「皆、我が身だけが大事なのだ。」と諸説ある。
 いずれにしても、船長は船と運命を共にするのが慣わしである。 スミスもその例に漏れる事なく、この地で果てた。
 既に62歳になっていたスミスは、実はこの航海を最後に引退する事になっていたそうだ。 恐らく、イズメイの指示に従った事を後悔しながらの最期だったに違いない。
 そのイズメイだが、実は彼は生還している。
 船員の目を盗んで救命ボートに乗り込み、救助されている。
 しかし、船と運命を共にしなかったその行為が非難の的になり、事故責任を問われた上に卑怯者の烙印を捺されてその後没落。 晩年落ちぶれ、人知れず死んでいったとか。
 故人に鞭打つようだが、正直良い気味だ。


 船首のデッキ上まで海水に浸かり始めた頃、逃げ惑う人々の頭上に花火が舞い上がった。 救難信号の照明弾であった。 立て続けに数発。 しかし照明弾は、漆黒の暗闇を数十秒間照らしただけで、意味もなく海面に落ちた。
 ……とその時、人々の目に信じられないモノが飛び込んできた。
 船首が突如、急激に沈んだと思った矢先、なんと船尾が、海面から持ち上がり始めたのだ!
 浸水で重くなった船首が沈んだため、まだ浸水していない軽いままの船尾がシーソーの要領で持ち上がったのである。 その高さは、なんと60mにまで達したという。
 そして、船体がほぼ垂直になりかけた、その時!
 バキバキバキ!
 凄まじい轟音と共に、船体のほぼ中央に大きな亀裂が走った。
 そして船体は、船首と船尾を分けるように真っ二つに折れたのである。
 折れたのはエンジンがある第三煙突付近だったが、ココには換気用のダクトが走っており、構造的に脆い部分であった。 そのため、船尾が持ち上がった時にその重量に耐えられず折れてしまったのである。
 折れた船尾部分は、海面に叩きつけられた。 この時の衝撃で、絶命した者も少なくなったという。 また、倒れた煙突の下敷きになって死んだ者もいた。
 しかし、多くの犠牲者を苦しめたのは、氷点下の冷たい海水であった。
 海に投げ出された人々は、モノの数分で凍死に至ったという。
 折れた船尾部分は、沈み行く船首部分に引っ張られる形で再び沈み始め、まるで逆さまにしたガラスコップのように海面に垂直に立ち上がった。
 しかし、自重に耐えられずそのまま沈んでいき、氷山との接触から2時間40分後、とうとうその船体は、海面から完全に姿を消した。
 1912年4月15日、午前2時20分、タイタニック号は、北大西洋の海原で、沈没した……。


 救命ボートに乗っていた人々は、海に投げ出された人々を救うべく戻るべきだという意見と、数百人がボートにしがみついたらボートそのモノが沈んでしまうという意見の真っ二つに分かれ、助けに行くべきか否かで議論になったという。
 新興成金であった庶民出身のマーガレット・ブラウンは、女子供ばかりで指揮するハズの船員のいない救命ボートに乗っていた。 ブラウンは、疲労と寒さで身を小さくしている同乗者の女性達を励まし、オールを手に取らせて勇敢にボートを指揮した。
 この後、ブラウンは“不沈のモーリー・ブラウン”と呼ばれ、名を馳せる事になった。
 14号ボートに乗った5等航海士、ハロルド・G・ロウは、近くにいたガラガラのボートを呼び寄せると、自分のボートに乗っていた避難者にそのボートに移るよう指示した。 そして、空っぽになったボートを他の船員と共に漕ぎ出し、生存者を救うため現場に戻ったのだった。
 ……しかし、時既に遅し。
 ロウが目にしたのは、救命胴衣を身に着けたまま、凪いだ海面を漂う凍死した遺体の山、山、山……。
 結局、彼が助ける事が出来たのは、たった2人だけだった。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週は今回の続き、『Truth in TITANIC』の後編をお送りする予定です。 お楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


和風洋服。(?)


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 和のテイストが感じられるビスチェとミニスカを組み合わせたワンピ。 帯が前結びになっているトコロがポイント。 履物は、出来ればゲタか突っ掛けにしてほしかったかも。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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055.Area of God

2009年08月16日 | サイエンスマニアックス

-Science Maniax #04-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 毎日暑い日が続いておりますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
 そういえばお盆ですね!
 今年はお盆が週末と重なった事もあり、前後で長い連休になった人も多いのではないでしょうか?
 ご存知のように、お盆は仏教における先祖供養の日であり、元々は旧暦の7月15日(注:新暦=グレゴリオ暦の8月15日)に行われるモノで、古神道などの風習がごっちゃになったモノらしいです。
 また、8月15日が終戦の日になっている事から、全国各地で慰霊式典が開催されるなど、様々な形で先祖供養が行われます。
 企業や官庁などは、この前後に1週間程度の連休を設けて長期休暇としており、それに合わせて行楽で国内外に旅行に行く人も多いワケですが、本来お盆というのは、お正月やゴールデンウィークとは異なり、いわゆる国民の休日ではありません。 カレンダー上は、休みではないのです。
 そのため、「休みなんかねーよ」という人も多く、暑い中仕事に明け暮れている人も多いかと思います。
 しかし、僕が思うに、お盆とは昔の人々の“生活の知恵”だったのではないかと想像します。
 つまり、お盆で先祖の霊が帰ってくる~(来る、きっと来る~)みたいな事を想像して、背筋に冷たい汗でもかいてクソ暑い夏を乗り切ろう! みたいな。(笑)
 ホラ、アレだ。 土用の丑の日にウナギを食べるのは、特に何かしらの科学的根拠や宗教的意味合いがあるものではなく、江戸時代に平賀源内が夏場に売り上げが落ち込むウナギ屋に相談を受けて土用丑をでっち上げたのと同じで、仏教における盂蘭盆(うらぼん)が時期的に丁度良いし、宗教的な大儀も立ってイイカンジじゃん? てな理由で成立しているのではないかと想像します。
 もちろん、先祖供養自体は大切な事だし、お墓参りぐらいはやっておくべきですね。
 僕も、今年はちゃんとお墓参りしたいです。(←毎年行けよ)
 ちなみに、9月には土曜日を含めて5連休(!)があるそうです。
 シルバー、……いや、プラチナウィーク?(笑)



 それはさて置き、今週は久々の『サイエンスマニアックス』のコーナー。
 今回は、お盆を過ぎるといよいよ本格化してくる夏の風物詩、そう、『台風』の科学解説をお送りします。
 実を言うと、このネタは去年の今頃にやりたかったネタだったんですが、昨年の夏は北京オリンピックネタを3連発もやってしまったために時期を外してしまい、結局やれなかったネタでした。
 今年は時期的にも丁度良いので、シッカリやりたいと思います。
 今週も、最後までよろしくね☆


・台風襲来

 2008年5月2日、東南アジア、ミャンマー。
 この日、ミャンマーは未曾有の悲劇に襲われた。
 4月28日にインド洋で発生したサイクロン、『ナルギス』は、勢力を強めながらインド洋を北上。 例年のこの時期に発生するサイクロンと同じく、このまま北上してバングラディシュに上陸するモノと思われた。
 しかし、ナルギスは5月1日になって突如進路を変更。例年にない東進を始め、翌5月2日の昼には、ついにミャンマー上陸を果たす。
 中心付近の最大風速は、秒速45メートル以上。
 上陸が満潮の時間帯に重なった影響で、強風による3メートルもの高潮が発生し、海岸線から実に100kmの内陸地までが浸水。 これは、東京湾から栃木県宇都宮市までの距離に等しいエリアが水浸しになったのと同じである。
 これにより、被災者は推計で120~190万人にも昇り、ミャンマー史上最大の被害をもたらしたサイクロンとして、『ナルギス』は気象史に名を刻む事になった。


 2005年8月23日、北米中部標準時13時、アメリカ海洋大気局(NOAA)は、大西洋上にハリケーンの“種”が発生した事を確認した。 観測した局員は、「よくある事」と楽観してたに違いない。
 確かに、大西洋上でハリケーンが発生する事自体は、それほど珍しい事ではない。 だから、この時点でそれが「よくある事」ではない事に気付かなくても、何ら不思議ではない。
 だが、彼らは知らなかった。 これが、後に“世界最強”と呼ばれる事になるハリケーン、『カトリーナ』誕生の瞬間であった事を……。
 8月26日、勢力を強めながら西進を続けたカトリーナは、フロリダ半島に上陸した。 強い風と降雨により、常夏の楽園のフロリダを蹂躙したカトリーナはそのままメキシコ湾へと抜けた。
 通常、ハリケーンは上陸すると勢力が弱まる。 何故なら、ハリケーンのエネルギーの源である水蒸気による上昇気流(注:詳細は後述)が得られないからだ。
 しかし、ある程度勢力を弱めたものの、温かく水蒸気を含んだ上昇気流が発生し易い夏のメキシコ湾に抜けた事で、弱っていたカトリーナは息を吹き返した。
 それどころか、さらに勢力を強めながら進路を北に取り、8月28日、カトリーナはルイジアナ州のジャズの街、ニューオーリンズに再上陸を果たす。
 この時、カトリーナの最大風速は秒速78メートル(!?)を記録。 この強い風に巻き上げられた海水が雨となって降り注ぎ、1時間当たりの降水量は50ミリを超えた。 文字通りの“滝のような雨”だった。
 ニューオーリンズの街は、その約8割が浸水し、水深は最大で6メートル(!!)にも達した。
 世界最強、史上最大のハリケーン、カトリーナは、約100万人もの人々の家屋を奪い、被災者は、その後数年もの間仮設住宅で暮らす事になった。


 2007年7月には、昨年ミャンマーを襲った前出のナルギスをも凌ぐ台風が日本を襲っている。 台風4号、『マンニィ』である。(注:日本では、毎年その年に発生した順番に通番で番号を付けるのが通例だが、2000年からは『海峡名』という名前が付けられている。日本や中国、韓国、フィリピンなど、アジア圏14ヵ国から候補となる140個の海峡名リストが用意され、その中から順番に付けられる。『マンニィ』は、香港から提案された名前だった)
 7月9日、太平洋、フィリピン沖で発生した熱帯低気圧は、この日風速17.2メートルを超え、『台風』に成長。 進路を北西に取り、ほぼ一直線に沖縄へと向かった。
 勢力を強めながら接近する台風4号は、7月13日に沖縄に上陸。そこで進路を北に取り、翌14日には九州を直撃。 そして、今度は進路を北西へと変え、四国、近畿、中部、関東にまで及ぶ広い範囲をかすめながら太平洋へと抜け、16日になってようやく温帯低気圧に衰退した。
 最大風速は秒速50メートル。 瞬間最大風速に至っては、ナルギスどころかカトリーナにも匹敵する秒速70メートルを記録。
 加えて、1時間当たりの降水量は、カトリーナをも遥かに上回り、なんと63ミリという凄まじい降水量を記録した。 徳島県の那賀町では、1日の降水量が533ミリにも達した。
 この凄まじいまでの風と雨により、各地で家屋の倒壊や床下、床上浸水、土砂災害が多数発生し、2名の死者、行方不明者まで出したほどだった。


 このように、サイクロン、ハリケーン、そして台風は、世界各地で毎年甚大な被害をもたらす。
 中でも台風は、日本を初めとして中国、台湾、韓国はもちろん、フィリピンやシンガポールなどの東南アジアに至るまで、毎年多くの被害が報告されている。
 特に日本は、“台風大国”と呼ばれるほどの被害に遭っており、後に『伊勢湾台風』と呼ばれる事になる観測史上最大最強の台風である1959年の台風15号は、カトリーナに匹敵する最大風速70メートルを記録した台風で、日本に上陸した台風としては、史上最強である。
 また、台風は発生個数も多く、毎年26~27個の台風が発生している。
 しかし、発生個数こそ26~27と多いが、その内日本に上陸する台風というのは、実は1951年以降の観測記録の平均値で、たったの2.6個しかない。 日本に上陸する台風は、発生個数の“わずか”1割程度なのだ。
 しかし、この“わずか”1割がこれほどの被害をもたらすのだから、台風そのモノがどれほど強大なエネルギーを持っているかがお分かり頂けるだろう。
 だが、観測記録を丹念に調べていくと、まさに文字通りの“当たり年”になった年があった事に気付く。 それが、2004年である。
 この年に発生した台風は、平年を僅かに上回る程度の29個だったが、この内、平年を遥かに上回る10個(!!)もの台風が日本に上陸した。 平年の3倍以上の数である。
 1990年と1993年には、既に上陸数6個という記録があったが、この年はそれを遥かに上回り、二ケタの大台に乗る台風が日本に上陸したのだ。
 しかもその内の7個が、ナルギス並みの最大風速44メートル以上の勢力にまで成長し、モノによってはカトリーナ並みの300ミリクラスの降水量を記録した台風も少なくない。
 中でも10月13日に発生した台風23号は、1週間後の10月20日に最大風速45m/sの風を伴って九州、四国、関西、近畿、中部地方を襲った。
 この台風による降水量は、高知県の芸西市で1時間当たり87ミリ。 徳島県の上勝市で1日当たり470ミリという凄まじい降水量を記録。 各地で1日当たりの最大降水量記録を更新し、床上浸水の被害は、全国で16,474棟にも上った。


 このように、台風は昔から言われる“怖いモノ四天王”、すなわち『地震カミナリ火事オヤジ』に含まれていないにも関わらず、大自然の驚異をまざまざと見せ付けるような多大な被害をもたらしている。
 では、そもそも台風とは、いったい何者なのだろうか?


・台風の正体

 台風、ハリケーン、サイクロン、そして台風の語源となったタイフーン。 これらは全て同じ自然現象であり、その正体は『熱帯性低気圧』である。
 低気圧とは、周囲よりも何らかの理由で“相対的に”気圧が低い大気の事で、1気圧は1013hPa(ヘクトパスカル)と定められているが、飽くまでも相対的な気圧の高低よって低気圧と高気圧が分けられているため、“何hPa以下”のような、数値的な低気圧の定義はない。
 この低気圧が発生する原因はいくつかあるが、ココでは熱帯性低気圧のみに絞って説明する。
 熱帯性低気圧とは、熱帯性気候で発生する低気圧、という意味ではなく、水蒸気によって発生する高温多湿の低気圧の事である。
 赤道付近などで海水温度が27度を超えると、海水が蒸発して水蒸気なる。
 水蒸気とは、温められた水分子の集合体であるが、液体の水とは異なり分子が拡散するため質量が軽くなる。 そして、気体は軽くなると上昇していく。 いわゆる『上昇気流』である。
 上昇気流が発生すると、膨張して一単位当たりの空気の密度(すなわち気圧)が低くなり、その周辺の大気との間に気圧差が生じ、水蒸気は固まったままさらに上昇を続ける。
 この時、海上ではさらに海水が蒸発を続け、絶え間なく水蒸気が上空へと吸い上げられていく。
 しかし、大気は高度が高くなればなるほど温度が低くなる。 温かい水蒸気が冷たい空気に触れると、結露して雲になる。 俗に言う“入道雲”、『積乱雲』の誕生である。 上昇気流によって急速に成長する積乱雲は、時には高度1万メートルの高さにまでなる。 そして、この積乱雲こそが、後に台風へと成長していく熱帯性低気圧であり、言わば台風の卵である。
 発生した積乱雲は、高高度の冷たい空気で冷やされているとは言っても、相対的には温かい。 そのため、積乱雲は周囲の空気を温め、周囲に新たな上昇気流を発生させ、水蒸気を巻き上げて何本もの積乱雲の柱を作っていく。
 こうして、次々と発生した積乱雲は、やがて地球の自転の影響で渦を巻き始め(注:これを、『コリオリの力』と呼ぶ。19世紀の科学者、ガスパール・コリオリが発見した原理だが、図解しないととてもじゃないけど説明出来ないので詳細は割愛する。ちなみに、北半球では反時計回り。南半球では時計回りに回転する。また、赤道上、及びその周辺の緯度プラスマイナス10度の範囲内では、このコリオリの力が発生しないため、熱帯性低気圧が発生しても台風にはならない)、一つにまとまっていく。
 こうなると、低気圧はやがて、回転する遠心力で中心部分に雲のない空間が出来る。 いわゆる『台風の目』である。
 そして、上昇気流によって水蒸気が巻き上げ続けられ、低気圧全体はどんどん大きくなっていき、回転による風速が17.2m/sを超えると、熱帯性低気圧は“台風”と名前を変えるのである。
 ちなみに、台風、ハリケーン、サイクロンの違いは、言語的な問題ではなく発生場所による違いであり、ちゃんとした定義がある。
 南シナ海、東シナ海、及び北西太平洋(注:“日付変更線より日本側の太平洋”と憶えましょう)上で発生するモノを『台風』と呼び、インド洋、もしくは南西太平洋(注:主にインド洋)で発生するモノを『サイクロン』。 北東太平洋、南東太平洋、及び大西洋(注:“南北アメリカ大陸を挟む海上”と憶えましょう)で発生するモノを『ハリケーン』と呼ぶ。
 風速の計測方法や表記方法が国によって異なるが、発生の原理や現象としては、全て同じモノである。
 また、熱帯性低気圧は、海面温度が27度を超えると発生するが、陸地で地面の温度が27度を超えても熱帯性低気圧にはならない。 何故なら、蒸発する水蒸気の量が、海上の方が桁違いに多いためで、台風が海上で“のみ”発生するのはこのためだ。
 陸地で発生する低気圧は、乾燥した『温帯低気圧』と呼ばれる。


 さて、こうして発生した台風は、太平洋高気圧(注:時計回りにゆっくりと回転している高気圧。季節によって中心位置が東西に移動する)と貿易風(注:太平洋上を東から西、すなわち南米側から東南アジア側へと吹く風)によって、太平洋からユーラシア大陸方向へと移動していく。
 この時、太平洋高気圧が西寄りの位置にあると、その外周を沿うように、台風は東南アジアや中国大陸へと向かう。 6月~7月に発生する台風が、中国や香港、台湾に上陸する傾向が強いのはこのためだ。
 太平洋高気圧が東寄りの位置に移動すると、台風はこれに沿って移動し、沖縄付近でユーラシア大陸から日本海に向けて吹く偏西風の影響を受けて急激に進路を北に向け、日本列島直撃コースを取る。 8月~9月に発生する台風のコースがこれである。
 しかし、10月になると、太平洋高気圧がさらに東に移動するため、台風が発生しても日本に上陸する事なくそのまま北西太平洋に抜けていく。
 やがて、海面温度が27度を下回るため、台風は発生しなくなる。 台風シーズンの終了である。
 ちなみに、上昇気流によって発生する熱帯性気圧は、下降気流によって形成されている太平洋高気圧に影響を与える。 熱帯性低気圧の温かい空気が、太平洋高気圧に流入するためだ。
 そのため、強力な熱帯性低気圧である台風の発生によって太平洋高気圧が活性化し、台風が発生すればするほど、日本の夏は暑くなる。
 いわゆる『台風一過』があんなに暑いのも、このためではないかと思われる。


 ところで、先ほど“風速が17.2m/sを超えると台風と名前を変える”と記したが、これは正確には台風とサイクロンの定義である。 カトリーナのようなハリケーンは、32.7m/s以上と定義が異なる。
 日本では、天気予報などで台風の規模を表す語として、“強い”、“非常に強い”などの表現が用いられるが、これにもちゃんとした定義がある。
 主に風速によって定められており、以下のような定義で定められている。

風速(秒速)        表現
17.2~33m/s   台風(並みの勢力)
33~44m/s     強い
44~54m/s     非常に強い
54m/s以上      猛烈な

 すなわち、風速32.7m/s以上と定義されているハリケーンは、日本では“強い台風”レベルに匹敵すると言える。
 先に紹介した昨年5月のミャンマーを襲ったナルギスは、風速40m/sだったので“強い台風”レベル。
 2007年に日本を襲った台風4号は、風速50m/sだったので“非常に強い台風”レベル。
 そして、2005年にニューオーリンズを水没させたカトリーナは、風速78m/sだったので、“猛烈な台風”レベル、ってゆーか、それよりもさらに上の定義が必要なほどの極めて凄まじい風を伴ったハリケーンと言えるだろう。
 ちなみに、風速78m/sは、時速に直すと実に280.8km/h(78×60×60÷1000)にもなり、屋外では新幹線にしがみついているのと同じような状態で、立っていられないどころか風で文字通り吹き飛ばされるほどの風である。
 また、伊勢湾台風もこれとほぼ同レベルだった。


 台風による災害で最も恐ろしいのは、風よりも雨である。
 蒸発した海水によって形成される積乱雲は、大量の雨を降らせる。
 雨が怖いのは、いわゆる床下、床上浸水によって町中が水浸しになり、都市機能が完全に麻痺してしまうためで、しかも台風が去った後も、数日から数週間もの長い間水が引かない事もしばしばである。
 鉄道や一般道などのなどの交通は完全に遮断され、浸水によって上下水道も機能しなくなり、電力供給も遮断される。
 こんな状態が数日から数週間も続くのだから、これだけでとんでもない被害になるのは想像に難しくない。
 さらに、雨によって地盤が緩み、土砂崩れや土石流といった二次的な災害も起こり易くなる。
 台風ではないが、昨年には中部で。今年には中国地方で、それぞれ大雨による土砂災害が多数発生し、死傷者が出るほどの被害があったのは記憶に新しいところだ。
 また、台風による降雨災害は、台風が直撃しなくても発生してしまう事がある。
 梅雨前線や秋雨前線など、降雨を伴う停滞前線が日本列島付近にあると、台風の回転する渦によってこれが引き寄せられ、活性化して大雨になる事がある。
 台風による雨は、台風が上陸しなくても多大な被害をもたらすのだ。
 まさに“風が吹けば桶屋が儲かる”的な、迷惑この上ないハナシである。


 こうして発生し、上陸し、多大な被害をもたらして去っていく台風。 しかし、台風はやがて勢力を衰えさせ、北海道に到達する頃には衰退して温帯低気圧へと姿を変える。
 では、何故勢力が衰退するのだろうか?
 その理由は、台風の発生メカニズムと関係がある。
 先ほど記したように、台風の勢力を決定し、台風にエネルギーを供給しているのは、水蒸気によって発生する上昇気流である。
 しかし、これは海面温度が27度を超えないと発生しない。
 日本海、及び太平洋北西部は、海流の関係で海面温度が27度を超えない。 そのため、台風がこの付近に到達すると、水蒸気による上昇気流というエネルギー源を失うため、降雨によって中心付近の積乱雲は衰退していく。
 加えて、平面な海上とは異なり、山岳や建造物で起伏に富んだ陸地を通過する事で、起伏が障害物となり回転する風の勢いが弱まる。
 エネルギー源の喪失と障害物。 この二つの要素によって、積乱雲というエネルギー貯蔵庫に蓄積されたエネルギーを使い果たした台風は、湿った熱帯性低気圧ではなく、乾いた温帯制定気圧になって安定する。
 これが、台風の“寿命”である。
 ただし、エネルギー源が供給され続ける限り、台風は勢力を衰えさせる事なく、逆に勢力を強めるため、短くても1週間。 長ければ2週間以上もの間、生き続ける。
 寿命を迎える事なく生き続ける台風は、まるで言う事を聞かない駄々っ子のように、列島を蹂躙して暴れまくった後、ようやく暴れ疲れて寿命を迎えるのである。


・地球温暖化の影響

 何度も記したように、台風の発生、及びその勢力の源となっているのは、水蒸気による上昇気流である。 そして、水蒸気は海面温度が27度を超える事によって発生する。
 では、大気や海水温度の上昇が予測されている地球温暖化は、台風の発生や巨大化に影響しないのだろうか?
 結論から述べれば、“ある”という事になる。 何故なら、実際既に、海面温度は上昇しているからだ。
 2007年に発表された『IPCC=気候変動に関する政府間パネル』の第4次報告書によれば、1901年から2000年までの100年間で、大気の平均気温は約0.74度上昇し、海面温度は約0.5度上昇しているという統計結果が示された。
 「“たった”0.5度じゃん?」と思うかもしれないが、これをヒトの体温に置き換えて考えてみて頂きたい。
 ヒトの平均体温は36.5度なので、0.5度上昇すると37度。 気温の上昇では、37.24度。 間違いなく、“熱っぽい”と表現される体温である。
 そう、地球はすでに、“風邪のひき始め”にあるのだ。
 このまま地球温暖化が進み、海面温度が上昇を続けると、水蒸気の発生条件の境界線である27度を上回り易くなる。 すなわち、台風が発生し易くなるのである。
 加えて、海面温度が高ければ高いほど、水蒸気の発生量も増え、積乱雲が巨大化し易くなるため、台風の勢力は強大化する。 すなわち、ナルギスや台風4号、あるいはそれ以上のカトリーナや伊勢湾台風クラスの超巨大台風が発生し易くなるのである。
 ある試算では、海面温度が2度上昇すると、台風は最大風速で10%。降雨量は30%も増大すると考えられている。
 トコロが、これがさらに温暖化が進むと、今度は逆に台風が発生し難くなるという不可思議現象が起こる。
 これは、水蒸気の温度と高高度の大気との温度差が小さくなり、水蒸気が結露し難くなって積乱雲を形成し難くなるためだ。
 ……地球温暖化も悪い事ばかりではない?(←コラコラ)
 ただし、そうなるほど地球温暖化が進むと、確実に南極や北極の氷が融け、海面の高さが上昇し、東京や名古屋、大阪などの海抜の低い地方は海の底に沈む事になる。
 ……やはりどちらでも地獄だ。


 いずれにせよ、台風のような自然災害は、“自然”という人知の及ぶべくもない領域である。 自然災害は、何をどうがんばっても防ぐ事は出来ない『神の領域』なのだ。
 ならばヒトは、自然に勝つ事も、あるいはコントロールする事も不可能で、ヒトというちっぽけな存在は、自然という名の神の前では、風前の灯火の如く、文字通り吹き飛ばされてしまう存在なのだろうか?
 いや、そうではない。
 確かに、台風を防ぐ事は不可能である。
 だが、たとえ台風に襲われても、予めそれに備え、被害を最小限に止める事は可能である。
 すなわち、台風災害とは、防ぐ事よりも起こってしまった後の迅速な対応と効果的な対策によって、“生き延びる事”が重要なのである。
 何故なら、ヒトも台風と同じく、“自然”という神の領域の一部なのだから……。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


ヤーヴァイ、コレヤーヴァイ!└(゜Д゜)┘

Th3056 Thanks for youre reading,
See you next week!



-参考資料-
※今回の記事は、以下の雑誌記事を参考資料として適宜参照しました。

・月刊ニュートン2008年10月号/ニュートンプレス社
※毎度お馴染みのニュートン、昨年の10月号です。この号で台風が特集されたのですが、昨年の夏はオリンピック関連の記事に終始したため、今回ようやく取り上げる事が出来ました。 ニュートン編集部の皆さま、遅くなってゴメンなさい。つД`)゜。
 バックナンバーのため、現在は入手困難です。 また、リンクはニュートンプレス社の公式HPへのリンクです。

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033.そうだ、宇宙行こう…。

2009年03月06日 | サイエンスマニアックス

-Science Maniax #03-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先日の事―。
 このブログに、OCNの『Myアフェリエイトスカウト事務局』というトコロからアフェリエイトパートナーへの参加依頼がきました。
 これは、ブログやウェブサイトのページにスポンサー企業のバナーリンクを掲載する事で広告料としていくばくかの収入を得られるというモノです。
 …まあ、お察しの通りほぼ間違いなく、フィッシングメールなんですが…。
 ブログに限らず、インターネットのウェブサイトは情報媒体であり、方式が違うだけでTVやラジオ、雑誌や新聞と同じ、不特定多数の人に向けて情報を発信するメディアです。
 そのため、ネットは他のメディアと同じく広告媒体としての利用価値も高く、スポンサー企業にとってはCMを打てる重要なチャンスと考えられています。
 事実、ウェブサイトのページを広告スペースとして売り出したあるウェブサイトには、複数の企業から申し込みを受け、その広告収入だけで数百万から数千万の収入を得ているウェブサイト管理者もいるほど。(注:ちなみに、日本のある有名タレントは、この事業を興して大失敗した。二番煎じどころか三番煎じ、四番煎じだったため)
 実際、僕が利用しているOCNのブログ人サービスでは、無料プラン(注:ただし、無料になるのはOCNプロバイダ加入者のみ。未加入者は有料)だとスポンサー企業のウェブサイトリンクが自動的に貼り付けられる仕様(注:「タダで使わせてやるからちょっとぐらい広告入れさせろ」ってコト)になっており、ある程度記事と関連した企業のリンクではありますが、ウェブサイト管理者(この場合はすなわち僕)の意志を無視した企業広告が掲載される事が多く、ユーザーの皆さまに不快な印象を与えないかと心配で心配で仕方なかったんです。
 事実、TESⅣやCS:S関連の記事をうpった時、記事の本文で「ダメ! ゼッタイ! チートカッコ悪い!」と書いていたにも関わらず、チート行為を助長するチートプログラムのオンライン販売サイトのリンクが貼られていて、モノスゴく不愉快な思いをした事がありました。
 そういった事もあって、このようなサイト管理者の意向を無視した広告を張らないようにするためにも、有料プランにアップデート(注:「金払うから勝手に広告入れるな!」ってコト)したんですが、今度はアフェリエイトからお誘いが……。(注:「お金あげるから広告入れさせて?」ってコト)
 もちろん、このアフェリエイトというシステムとサービス自体には何の不満もないし、広告入れるだけでお金がもらえるなら、僕だって喜んで参加したいです。
 しかし、問題はその広告の内容です。
 今回依頼があったのは、PSPのアクションRPGとPCの学園アクションMMORPGだったんですが、……なぜ当ブログに依頼が来たのか、未だに理由が分かりません。
 前者はコンシューマ、後者はMMORPG。どちらも、このブログでは基本的に取り扱っていないカテゴリー。しかも、両者とも国産ゲー。
 洋ゲーの、それもPCのFPS系ゲームをメインで取り扱っている当ブログには、全く以って似つかわしくないタイトルばかりだったので、今回は両方ともスルーさせて頂く事にしました。
 恐らく、何らかのキーワード検索でサーチヒットしたサイトに手当たり次第に依頼した結果だとは思いますが、スカウト事務局の担当者がゲーム大好きヲタでもない限り、ゲームをあんまりやらないイパ~ン人の皆さまにはこの“違い”が理解出来ないのかもしれませんが、つい先頃、セガやカプコンに続いてSteamに参入したスクウェア・エニックス(注:説明するまでもありませんね。参入第一弾は、コンシューマでリリースされた『ラスト・レムナント』のPC移植版。エミュ無しでコンシューマゲームがPCでプレイ可! もちろん日本語対応。4/9リリース予定。)とかならまだしも、コンシューマとMMORPGって……。
 スカウト事務局の担当者さま、当ブログの『ヘタレゲーマークロニクル』のコーナーの記事を全部読んで、もうちょっとゲームってモノを勉強して下さい。
 当ブログのイメージに合う企業広告ならば、僕も喜んでアフェリエイトに参加させて頂きます!(`・ω・´)/
 ちなみに、件の依頼はブログのコメントに投稿されたので、もしかしたら目にした方もいらっしゃるやも知れませぬが、目障りなので即日削除させて頂きました。



 それはともかく、今年はISS=国際宇宙ステーションの完成、初の日本人宇宙飛行士の長期宇宙滞在、そしてスペースシャトルの引退と、宇宙開発関連のスケジュールが目白押しの一年です。
 加えて、NASAの月基地建設計画や、火星有人探査計画のスタートなど、10年後、20年後の宇宙開発において起点となるであろう重要な年になりそうな予感。
 とゆーコトで、今回は今注目の“宇宙”を科学する半年以上振り(!)のサイエンスマニアックスのコーナーをお届けしたいと思います。
 皆さんを、目くるめく宇宙の世界へ、一足お先にお連れしましょう。


・キミはMitakaを見たか?

 トコロで皆さんは、『Mitaka』というフリーソフトをご存知でしょうか? 科学雑誌はもちろん、PC雑誌でも紹介された事があるソフトなので、ご存知の方も多いかと思いますが、今回はこのソフトを使って、家庭で出来るお手軽宇宙旅行に、皆さんをお連れしたいと思います。
Blog0215  『Mitaka』は、日本の国立天文台の研究チーム、4次元デジタル宇宙プロジェクト(通称4D2U)の開発したPCソフトウェアです。(左の画像は起動画面)
 国立天文台が独自に観測、あるいは世界中の天文台や研究者が観測した観測データや理論モデルをまとめ、科学的根拠に基く論理的な正確性のある宇宙構造モデルをコンピュータ上に構築し、その中を手軽に、自由に鑑賞できるデジタルヴューワーとして、2001年に開発がスタート。2003年には、国立天文台の敷地内にある立体ドームシアター(注:いわゆるプラネタリウム)で鑑賞可能なソフトウェアが完成し、一般公開されました。
 2004年頃からは、コレと同等の機能を有するシステムを、一般的なPCでも動作可能にする軽量版の開発プロジェクトがスタートし、2007年にVer.1.0がリリース。公式ウェブサイトやフリーソフトのDLサイトで公開され、無料DLが開始されました。
 現在は、2008年5月に公開されたVer.1.2が、同様に無料DL出来ます。
 また、同時にこのソフトはオープンソース化され、サードパティーによる複数の派生版が開発、公開されています。(注:それぞれの派生版のDLサイトには、4D2Uの公式サイトからアクセス出来ます)
 推奨作動環境は、Pentium4の1.8GHz以上、メインメモリ512MB以上、GeForce3以上と、現在ではモバイルPC環境でも動作する程度。また、インストーラーはなく、DLしたzipファイルを解凍すればすぐに使えるので、ぜひDLしてみて頂きたいです。(いつものように、下の方にリンク張っておきます)
 ちなみに、ソフトの名前になっている『Mitaka』は、国立天文台がある東京都三鷹市に由来するらしいです。


・『Mitaka』で宇宙旅行-太陽系

 さて、それではココからは、4D2U『Mitaka』を使って、皆さんを宇宙の旅にお連れする事にしましょう。

Blog0216  まずは地上から。
 この画像は、国立天文台がある東京都三鷹市から、この記事がうpられる2009年3月6日の午後8時ごろの南の空を見上げた時の星空です。
 天気が良く、周囲に明かりの少ない環境であれば、これだけの星座が一望出来ます。
 定番のオリオン座やシリウスはもちろん、黄道12星座のしし座やかに座、ふたご座なども見て取れます。
 ……つか、本来の星空はこんなにも賑やかだったんですね。(笑) 文字通り星が掴めそうです。
 『Mitaka』では、マウスを操作して360度フリールックで、画面いっぱいの星空のパノラマを堪能出来ます。
 
 
 では次に、地球から“離陸”して、宇宙空間へと飛び出してみましょう。


Blog0217  太陽系の中心にある太陽です。
 赤道半径は69万6000km。質量は、地球の約33万倍と考えられています。
 惑星のほとんどが水素やヘリウムなどのガスで構成されており、絶えず核融合反応を続けている恒星です。
 太陽系の惑星の中では最も大きく、その巨大な重力によって大量の惑星がその周囲を公転し、太陽系という衛星群を形成しています。
 この画像では、全体的に白っぽく見えますが、太陽は本来はこういう色です。
 ヒトの視覚が認識出来る色は、可視光線という電磁波の一種で、物質が光を反射した時、最も反射し易い可視光線の波長が視覚に捉えられ、“色”として認識されます。
 可視光線は、紫→青→緑→黄色→オレンジ→赤の順で波長が長くなっていき、赤は最も波長が長く、視覚に強く捉えられ易い色です。
 そのため、太陽の光は一般的に赤っぽく捉えられる事多く、子供が描く絵の中の太陽は、赤い事が多いのです。
 夕焼けに太陽の赤が強くなるのは、太陽の角度の変化により、可視光線が地球の大気によって偏光され、赤の可視光線がより強くなるため。
 宇宙空間では、大気による偏光がないため、全ての可視光線が均等に視覚に捉えられるため、光の三原色を全て均等に混ぜた色(RGBでオール255)、すなわち白に見えるワケです。
 ちなみに、黒っぽくなっているのは黒点です。
 黒点の事は、実はまだよく分かっていないそうですが、この大きさや数によって地球の気候に影響を与えていると考えられています。


Blog0218  太陽のすぐ近くを公転している惑星、水星です。
 赤道半径は2440km。質量は、地球の約6%程度と、太陽系の中では最も小さく、月よりちょっと大きい程度の惑星です。
 この画像では赤っぽく見えますが、これは太陽とは異なり、恒星ではなく惑星だからです。
 惑星は、自分で光る事がなく、近くの恒星の光を反射しているだけなので、地表の構成物による違いで様々な色に見えます。水星の場合は、赤の可視光線を反射し易い物質が地表に多いため、赤っぽく見えているのです。
 しかし、地表はご覧の通りクレーターだらけで、他の太陽系の惑星よりは月に近い印象です。
 公転軌道が楕円軌道を描いているため、太陽との距離は最短で4600万km。最長でも7000万km“しか”ないため、太陽の熱で水は一瞬にして蒸発してしまい、大気を形成出来ない無生命の星です。(注:そもそも、小さ過ぎて大気を形成出来るほどの重力もない)
 この星は、公転周期は88日間ですが、自転周期が異常に遅く、1回自転するのに59日もかかります。
 そのため、水星は2回の公転(すなわち2年)の間にたった3回の自転(すなわち3日)しかしないため、水星の1日は、実に176日間もの昼間が続く事になります。白夜どころの騒ぎではありませんね。(笑)


Blog0219  地球のすぐ内側を廻っている金星です。
 太陽系の惑星の中では、地球から最も近い位置にあり、赤道半径は6052km。質量は地球の82%程度と、地球より一回りほど小さいだけで、地球によく似た星です。
 地球から最も近く、太陽の光もよく反射するため、明け方や夕暮れ時には『明けの明星』、『宵の明星』として一番最初に光り始め、一番最後まで光り続けている星として知られており、光の強さは、最大でマイナス4.7等星(注:マイナスは1等星より明るい事を示す)程度にまでなると言われています。
 また、その輝きは光沢のある赤に見えるため、古くから最も美しい星とされ、ギリシャ神話の美の女神、『ヴィーナス』の名前が与えられました。
 しかし、それは偽りの姿でしかありません。
 金星は、地球と同じように大気があります。しかし、その大気を構成しているのは二酸化炭素がほとんどで、過剰な温室効果により、地表の温度は470度にまで達し、気圧は実に90気圧にまで達します。
 金星は、その美しさとは裏腹に、大気があるにも関わらず、とても生命が住む事が出来ない死の星なのです。
 ……キレイなバラにはトゲがあるってコトですかね?(笑)


Blog0220  太陽系、第三惑星、地球。
 僕たちの住んでいる地球です。
 赤道半径は6378km。質量は5.974×10の24乗kg。太陽からの平均距離は、約1億5000km。
 太陽系のどの惑星にもない、水と生命に溢れるこの星は、1961年、アメリカに先んじて人類初の有人宇宙飛行に成功した旧ソ連の宇宙飛行士、ユーリ・ガガーリンが言ったように、青く輝く美しい星です。
 この画像では、地球の地表形状データ(Mitaka本体とは別データなので、別途DLする必要がある)を適用しており、ズームすればビクトリア湖やエベレストなども見れます。
 ただし、北極や南極は、データが多少古いため、現在よりも氷の面積が大きくなっています。現在は、温暖化により北極も南極も氷が少なくなっており、この画像よりも小さくなっています。
 ちなみに、街明かりをオンにして視点を移動させて夜の側を見ると、都市部のキレイな夜景を見る事が出来ます。
 ……てか、日本明る過ぎ。(笑)


Blog0221  本来は太陽の衛星ではありませんが、月です。
 月は、地球の衛星であり、太陽系の惑星ですが、太陽の衛星ではありません。
 月は、公転周期と自転周期が27.3日で一致しているため、地球に対し、常に同じ面を向けて廻っています。そのため、人類が月に降り立つまで、月の裏側は観測不可能なナゾとされてきました。
 『Mitaka』では、影を非表示にする事も出来るので、普段は決して見る事の出来ない月の裏側も余すトコロなく見る事が出来ます。
 とは言え、月の表面は無数のクレーターに覆われており、荒涼とした風景が見れるだけですが。(笑)
 現在、NASA=アメリカ航空宇宙局では、アポロ計画以来となる有人月探査計画を進めており、ゆくゆくは月基地建設計画を進めていく予定だそうです。
 これは、その後の火星有人探査計画の重要な中継基地になるモノで、将来的な火星植民地計画の足がかりとなる重要なプロジェクトになると考えられています。


Blog0222  地球のすぐ外側を廻っている惑星、火星です。
 この画像では、地球と同じく火星の地形形状データ(同じく別データ。要別途DL)を適用してあります。
 赤道半径は3396kmで、質量は地球の約11%程度。大きさ的には、地球の半分ぐらいの小さな星です。
 大気の大半が二酸化炭素で占められていますが、金星と違って太陽から遠く、加えて気圧も地球の100分の1程度しかないので、温暖化する事なく、赤道付近でも平均気温がマイナス50度以下という極寒の星です。
 一般的に、火星はこの画像のように赤いと思われていますが、これは先に説明した可視光線の関係でこう見えているのではなく、実際に赤い星だからです。
 これは、火星の地表を覆っている砂や岩石に酸化鉄(すなわち赤サビ)が大量に含まれているからで、これは逆に、かつてこの星に酸素や水(注:鉄は水に触れると水の中に含まれる酸素と結合して酸化し易くなる)があった事を示す証拠と考えられており、現在NASAが中心となって、“火星の水探し”が無人探査機によって活発に行われています。
 また、これだけ大量の酸化鉄を還元すれば、豊富な鉄資源を得られると考えられます。
 こういった可能性、あるいはメリットもあって、火星は現在、“第二の地球”の筆頭候補になっていますが、地球から火星までは約8000万kmと非常に遠いため、その移動手段を開発するトコロから始めなければならず、一朝一夕では出来ないのが現状です。
 ちなみに、画像にも写っている『オリンポス山』は、標高2万4000km(!)という途方もなく高い山で、太陽系最高峰と考えられています。


Blog0223  木星です。
 赤道半径は7万1492km。質量は地球の約318倍。太陽を除けば、文句無しに太陽系最大の星です。
 木星は、その構成物のほとんどが、太陽と同じ水素やヘリウムなどのガスですが、核融合反応が起きていないため恒星ではなく惑星です。
 この濃密なガスのカタマリの中では、常に嵐が吹き荒れており、この嵐や大気のうねりが、木星独特の奇妙な縞模様を形作っています。(注:画像のほぼ中央、下側に見て取れる目玉のような丸い模様が、言わば台風の目。巨大な嵐の中心部です。このような巨大な嵐が絶えず発生しており、発生すると300年以上続くと言われています)
 また、木星はその強大な重力により、かつてガリレオが発見したガリレオ衛星(注:イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストの4つを総称してこう呼ぶ)を含めて、2007年までに63個の衛星を持っている事が確認されています。これは、間違いなく太陽系の惑星の中では最多です。
 ところで、木星は太陽と同じガス惑星ですが、太陽のように恒星にならなかったのは何故なのでしょうか?
 それは、木星が“小さかったから”です。
 先にも記したように、太陽は木星の約11倍の大きさと、1000倍以上の質量を持っています。恒星になるには、それほど大きな質量が必要なのです。
 ちなみに、宇宙全体で言えば、太陽も恒星としては小さい部類に入ります。銀河系の中心には、太陽の数千倍(!!)という巨大な恒星(あるいはブラックホール)があると考えられています。


Blog0224  土星です。
 木星よりも一回り小さな土星は、赤道半径が6万268km。質量は地球の約95倍。太陽系の惑星の中では、木星に次いで大きな惑星です。
 この星も、太陽や木星と同じガス惑星ですが、質量、特に比重が極めて小さい(0.7)ため、恒星になる事なくガス惑星になったようです。
 自転周期が非常に早く(10.4時間)、その遠心力のため、赤道付近が膨らんで微妙に楕円球状に見えるという変わった特徴(画像でも、他の惑星と比べて上下がやや潰れたカンジに見えている)があります。
 しかし、それより何よりこの星を特徴付けているのが、星の赤道付近に広がっている巨大な輪です。
 これは、岩石や氷の塊といった、言わば宇宙のゴミ(注:これもスペースデブリの一種か?)で構成されていますが、これは、かつて土星に近付き過ぎて壊れてしまった衛星のカケラだと考えられています。
 こういったゴミが無数に集まり、1000以上もの輪を形成し、厚さや物質の色によって美しいグラデーションを見せる輪を形作っています。
 しかし、この輪は一番外側で直径25万kmにも及びますが、その厚さは僅か数百メートルしかありません。
 そのため、真横からだとほとんど観測出来ないと言われています。
 今年は、土星の自転軸の角度の関係で、地球からだと土星がほぼ真横から見る事になるため、輪のない土星(注:実際には見えないだけ)が観測出来る珍しい年だったりします。
 あ、ついでなのでコレも。(↓)


Blog0232  1997年にNASAが打ち上げた土星探査機、『カッシーニ』です。
 カッシーニは、金星や地球、木星を中継して2004年に木星に到着。6個もの新しい衛星を発見し、土星の衛星タイタンにホイヘンス探査機を発射、着陸させた実績を持つ探査機です。
 2008年4月に、探査計画の2年間の延長が決定され、現在も土星の軌道を廻りながら様々な観測データを送信し続けています。
 Mitakaには、この他にもボイジャー1号やパイオニア10号といった、複数の有名な探査機が収録されています。
 
 
 さて、太陽系の惑星には、この他に天王星と海王星があり、準惑星(太陽系外縁天体)として、冥王星(注:元々は太陽系第9惑星だったが、公転軌道が他の惑星より大きく傾いていたため、2006年8月に国際天文学連合総会にて準惑星に定められた)、エリス、セレスがありますが、あまり書く事がない(ってゆーか、遠過ぎるためまだよく分かっていない)ので省略します。


 そして、これが太陽系の全体像です。(↓)

Blog0228  Mitakaには、メニューから表示する範囲のスケールを指定出来る機能がありますが、太陽系の全体像は、太陽をターゲットに指定してスケールを100天文単位(注:1天文単位は、地球から太陽まで平均距離、約1億5000万km)にしてようやく見れるほどの大きさです。
 この画像では、惑星の公転軌道も表示(青色の輪。非表示にも出来る)していますが、先ほど記した冥王星やエリスの公転軌道の傾き具合がよく分かりますね。
 また逆に、海王星までの公転軌道がキレイにほぼ平面上に並んでいる様子も見て取れます。何だか地球ゴマみたいで面白いですね。


・外宇宙-極大へ

 それでは、さらにスケールを大きくして、外宇宙からの眺めをご覧頂きましょう。

Blog0229  銀河系です。
 僕らが住んでいる地球が所属している太陽系(画像の中ほど、1万光年のスケールのほぼ中央にある小さな光の“点”がソレ。)は、この銀河系に所属しています。
 銀河系は、正式には『天の川銀河』と言います。 そうです。星空に見える川のような光の帯の天の川です。 天の川は、実は銀河の外縁だったのです。(注:フラフープを内側から見ているようなカンジ)
 この天の川銀河は、約2000億個の星が集まって出来ており、円盤状の渦巻き構造を持つ銀河の中でも、『棒渦巻銀河』に分類される銀河です。
 天の川銀河の直径は、約10万光年と言われており、その中心部には、『バジル』と呼ばれる膨らんだ部分があります。
 このバジルには、比較的古い星が集まっており、これを中心にして比較的若い星やガスが公転して、円盤状の銀河を形成していると考えられています。
 太陽系は、この若い星やガスの集まりの一つで、バジルを中心に約2億4000万年をかけて銀河系の中を一周しています。
 宇宙には、このような銀河が無数に存在しており、宇宙の全体像を形成していると考えられています。
 Mitakaでは、天の川銀河から最も近い(注:太陽系から230万光年)銀河である『アンドロメダ銀河』も見る事が出来ます。


 では今度は、さらに極大の視点から宇宙を眺めてみましょう。

Blog0230  スケール、約100億光年以上。
 現在の観測技術の限界と言われている、137億光年のスケールから見た宇宙です。
 これが、現在人類が知る既知宇宙の全体像です。
 Mitakaには、現在の技術では観測されていない、あるいは観測出来ない部分は収録されていないため、観測出来た、あるいは観測可能な範囲にある扇状の星の分布がよく分かります。
 中心部の明るい部分は、天の川銀河周辺なので、よく観測されているため星の数が多く、非常に明るく見えます。
 逆に、扇の端の部分は、天の川銀河から遠いため観測が不十分で、星の数が疎らで暗いですね。
 しかし、これが現在の人類の限界なのです。
 観測されていない、あるいは出来ない暗い部分や、137億光年より先の空間は、現在の人類の最新の科学力を以ってしても窺い知ることの出来ない、全くの未知の領域なのです。
 逆に言えば、人類はまだ、宇宙の全体像を知らないのです。
 ならば、観測されていない、あるいは出来ない領域は、いったいどうなっているのでしょう?
 あるいはその領域には、いったい何があると言うのでしょう?
 もしかしたら、僕や皆さんが生きている間にそれが解明される可能性は、極めてゼロに近いのかもしれません。
 いや、もしかしたら、人類には永久に分からないのかもしれません。
 しかし、分からないからこそ知りたくなる。
 分からないからこそ、夢がある。
 太陽と同じような恒星があるかもしれない。
 地球と同じような惑星があるかもしれない。
 そして、人類と同じような生命がいるかもしれない。
 宇宙は、知れば知るほど面白いです。
 知れば知るほど、分からないからです。
 でも、解らないからこそ識りたくなります。
 解らないからこそ、希望があります。
 皆さんも、このMitakaを使って、そんな“解らない面白さ”を体験してみてはいかがでしょうか?



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



きょーのはちゅねさん♪


オワタ\(^0^)/

Th3034 Thanks for youre reading,
See you next week!



-オススメフリーソフト-

※今回の記事で紹介したフリーソフトは、以下のウェブサイトから無料でDL出来ます。ぜひ一度、ご利用下さいませませ。

4D2U『Mitaka』公式ウェブサイト
※作動環境、及びインストール方法は、このサイト内の説明を参照して下さい。また、今回の記事で使用した画像の一部は、同じくこのサイトからDL出来るプラグインデータを導入したモノを使用しています。導入方法は、同じくこのサイト内の説明を参照して下さい。


-関連書籍-
※今回の記事で紹介したフリーソフトの関連書籍です。今回の記事の参考資料としても適宜参照させて頂きました。こちらもぜひご一読下さい。

パソコンで巡る137億光年の旅 宇宙旅行シミュレーション
/インプレスジャパン
※Mitakaの魅力を余すトコロなく紹介している唯一にして決定版的な一冊。操作マニュアルが分かりにくい同ソフトウェアのマニュアルとしての役割りも十分に果たしています。
 また、この本にはCD-ROMがバンドルされており、地球と火星の地表形状データ適用済みのMitaka本体(Ver.1.0)が収録されています。
 ちなみに、Mitakaは標準でゲームコントローラーによる操作もサポートしていますが、正直かなり使い難いのでフツーにキーボードとマウスでやった方がいいです。


-参考資料-
※今回の記事では、以下のメディア記事を参考資料として適宜参照しました。

・月刊ニュートン 2009年4月号/ニュートンプレス
※当ブログでは何度も紹介していますが、この号の特集は今回の記事の資料にピッタリな『新太陽系』だったので、参考資料として参照しました。リンクは、ニュートンプレス社の公式サイトへのリンクです。

コメント (1)
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