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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

197.Watch the Skies:終章

2012年05月27日 | Watch the Skies

-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #20-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 見ましたか? 金環食。
 僕は見ましたよ?
 ……仕事中に。(^ ^;)
 今回は日本全国の広い範囲、ってゆーか、太平洋周辺の広範囲で観測出来ましたが、僕の在住地域では午前7時31分頃がピークでした。
 まあ、金環食自体は実はほぼ毎年のように世界のどこかで観測出来るんですが、日本国内で観測出来る次回の金環食は18年後、2030年に北海道限定で。
 今回を逃しちゃった方は、18年後に北海道へ行きましょう。


 それとは関係ありませんが、5月もそろそろ終わりですね。
 先日、ローソンで衣替えがあって夏服に切り替わったんですが、夏服になるとそろそろ夏が近いなぁ~と思えてきます。 実際、昼間は汗ばむ陽気の日が増えましたしね。
 しかし、朝晩にはまだまだ春の冷え込みが残っており、季節の変わり目らしい気温差の激しい日が続いています。 風邪などにはくれぐれもお気をつけ下さい。
 ……つかね、僕は引いちゃいましたよ、風邪。
 な~~んか鼻の奥の方に違和感があるなぁ~~? と思っていたら、喉の方にまで降りてきてしまって、風邪を引いた事を悟りました。
 幸い、症状は違和感を感じる程度の軽いモノだったので事無き得ましたが、結構長引きました。
 ……今も。
 皆さんも、風邪には気を付けて下さいね? くれぐれも。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ、第20回。 いよいよ今回が、最・終・回ッ!!
 う~~ん、結局半年かかっちゃったなぁ~~。 予定では、もっと短いハズだったのに。
 それはともかく、今回がラストです。 最後までお付き合い下さいませませ。


終章

・その後のスピルバーグ

 1990年代以降のスピルバーグは、まさに“受賞ラッシュ”と言って良いほど方々から様々な賞を送られる日々が続いた。
 1989年に『インディー・ジョーンズ‐最後の聖戦』を監督後、90年は製作や製作総指揮に徹したが、91年に満を持して監督した『フック』が興行的に失敗に終わり、『インディー・ジョーンズ』シリーズ三部作の完結と共に一時は「スピルバーグは終わった」とまで言われるほど、評判を落とした。
 1970年代から80年代にかけて、アメリカン・ニューシネマの筆頭兼中心的存在としてハリウッド映画界を牽引してきたスピルバーグは、90年代という新しい時代の到来と共に“過去の人”になる……ハズだった。
 しかし1993年、スピルバーグは華々しく復活する。
 映画『ジュラシック・パーク』は、長年培ってきたアナログ技術による特殊効果を使いながらも、既にジェームズ・キャメロンが『アビス』、『ターミネーター2』によってその有用性を立証していたデジタルテクノロジーによる視覚効果を併用し、新時代の到来を知らしめる鮮烈な映像で観客の度肝を抜いた。
 映画は世界中で大ヒットを記録し、『E.T.』が持っていた世界歴代興行収益記録を約10年振りに、しかもスピルバーグ自身の手で破るという快挙を成し遂げるに至った。
 さらに同年に公開された『シンドラーのリスト』では、これまで『1941』と『太陽の帝国』の2度に渡って描いていたにも関わらず、両方とも興行的に失敗に終わっていた第二次大戦をモティーフにした歴史劇を描きながらも、ヒューマニズムに溢れたストーリーとテーマが極めて高く評価され、上映時間3時間を超える長編ながら映画はヒットし、同年度のアカデミー賞では、“ヒットメーカー”と呼ばれながらも、それまで何度もノミネートされながら一度も受賞する事が出来なかった作品賞と監督賞でのオスカー獲得を達成。
 キャリア20年目にして、スピルバーグはようやく一流監督の仲間入りを果たした。(注:ただし、実はこれが初オスカーというワケではない。 86年に、映画界に大きく貢献した映画製作者に送られる功労賞、“アービング・G・タルバーグ賞”を受賞している。 が、この賞は1930年代に現在のいわゆるハリウッド・システムを確立した映画プロデューサーにちなんだ賞であり、飽くまでもプロデューサーとしての受賞だった。 また、全米批評家協会賞やLA映画批評家協会賞、ゴールデングローブ賞では、82年に『E.T.』で監督賞や作品賞を受賞しており、イギリスオスカーでは85年に功労賞の一つである“アカデミー友愛賞”を受賞している)
 このオスカー受賞を皮切りに、スピルバーグは次々に様々な賞を受賞する。
 同じく93年、日本でも知名度の高いヴェネツィア国際映画祭では、名誉金獅子賞、特別功労賞、さらに経歴賞を受賞。 イギリスオスカーや全米批評家協会賞、ゴールデングローブ賞でも、『シンドラーのリスト』で監督賞や作品賞を受賞している。
 1994年、既にアンブリン・エンターテイメントという自身のプロダクションを設立していたスピルバーグは、ディズニーの元製作部門責任者だったジェフリー・カッツェンバーグ、レコード会社を経営するデイヴィッド・ゲフィンと共同で、映画配給スタジオのドリームワークス・ピクチャーズ・SKG(注:SKGは、スピルバーグ、カッツェンバーグ、ゲフィンの3人のイニシャルが由来)を設立。 なんと、配給スタジオまで経営する事になった。
 ハリウッドには、いわゆるハリウッド6大メジャー(注:20世紀フォックス、パラマウント、ユニバーサル、MGM、コロンビア、ワーナー。 いずれも、創設者はユダヤ系移民)のほかに、インディペンデント系と呼ばれる配給スタジオが多数あり、その中でも比較的大きなスタジオを“ミニ・メジャー”(注:ニューラインやミラマックスなど。 他にもいくつかある)と呼ぶ。
 本来、ドリームワークスはインディペンデント系スタジオに分類されるのだが、スピルバーグやカッツェンバーグといったビッグネームが創立メンバーである事から、設立当初からミニ・メジャー級の扱いをされる事になる。
 それはさておき、98年には、前年に公開したオスカー狙いの作品、『アミスタッド』がノミネートすらされなかったが、この年は『プライベート・ライアン』が大ヒットを記録すると共にハリウッドオスカーで二度目の監督賞を受賞。
 残念ながら、作品賞とのダブル受賞にはならなかったが、ゴールデングローブ賞では『シンドラーのリスト』に続いて監督賞と作品賞をダブル受賞している。
 同じく98年、ドイツのドイツ連邦共和国功労勲章を授与されたのをキッカケに、2001年には英国王室よりナイトに叙勲され、本名に“Sir”とKBE(注:ナイト・コマンダー。 勲章第二位に当たる)を名乗れるようになった。 さらに、2003年にはイタリアのナイト勲章であるイタリア共和国労勲章を賜り、2004年にはフランスの栄誉賞であるレジオン・ドヌール勲章を授与されており、実に4ヵ国のナイトになる。
 2005年に公開された『ミュンヘン』は、監督賞と作品賞を含む5部門でオスカーにノミネートされたが、3度目の受賞には至らなかった。 同時に、イスラエルとパレスチナ双方を批判する内容に物議を醸し出し、また批判の対象にもなっている。
 とはいえ、2007年と2008年には、ゴールデングローブ賞にて功労賞であるセシル・B・デミル賞を2年連続で受賞。(注:ただし、2007年の受賞は功労賞としての受賞) 同じく2008年には、新設されて間もないヴィジュアル・エフェクト・アワード(注:2001年設立)で生涯功労賞を受賞している。
 これ以外にも、様々な映画賞で合計214のノミネート(!!)と、内126の受賞(!?)を経験し、まさに現代最高の映画監督として認められたと言えるだろう。
 しかし、スピルバーグのスゴいトコロは、このような華々しい受賞歴や、プロダクションと配給スタジオの経営者という立場にありながらも、“本職は映画監督”のスタンスを今もなお、頑なに守り続けている点である。
 そのスタンスは今もなお続いており、『リアル・スティール』やTVシリーズの『Terra Nova』を製作総指揮する傍ら、2011年には自身初となるフル3DCGI&3D上映となった『タンタンの冒険:ユニコーン号の秘密』と『戦火の馬』を監督。 さらに2012年には、『メン・イン・ブラック3』や『When Worlds Collide』(注:共に2012年公開予定)を製作総指揮する傍ら、予てから構想していたエイブラハム・リンカーンの生涯を描いた歴史劇、『Lincoln』を監督/公開する予定で、現在は2013年公開予定の『Robopocalypse』を準備中との事。
 さらには、公開時期は未定だが『ジュラシック・パーク4』も製作準備中。(注:2011年に開催されたSFコンベンションのパネル・ディスカッションでスピルバーグ自身が公表した。 一部には、「『インディー・ジョーンズ』に続いて『ジュラシック・パーク』も!?」という批判もあるようだが、筆者はこれはアリだと考える。 『ジュラシック・パーク』のシリーズは、実はまだ完結していないから。 イスラ・ソルナ島には、未だに恐竜達が生き残っており、原作では軍によって壊滅したイスラ・ヌブラル島も、映画版ではその後どうなったが一切語られていない。 『インディー・ジョーンズ』シリーズは、『~最後の聖戦』で“三部作完結”になったのに4作目が製作されて不満に思ったが、実際には非常に良く出来た良作である。 ……まあ、ラジー賞を受賞したりもしているが……) スピルバーグ自身が監督する事は決してないだろうが、今から楽しみな作品であるのは確かだ。
 現在既に60代も半ばを迎えたスピルバーグだが、彼にはこれからも、“生涯現役”で作品を制作し、筆者と多くの映画ファンを楽しませてもらいたいと思う。


・asami hiroakiとスピルバーグ

 僕がスピルバーグ作品を初めて観たのは、……いつだろう?(´・ω・`)??
 もうムカシ過ぎて憶えていない(笑)が、スピルバーグ作品に注目するようになったのは、今でもハッキリ憶えている。
 中学生の頃、僕は毎週末になるとTVの映画番組を観るのが恒例になっていた。 当時はまだ週休二日制導入前で、金曜日の夜は早く寝ないといけなかったのだが、中学生になっていた事もあって親は11時まで起きているのを許してくれた。
 そんな時にたまたまTVでOAされたのが、日本国内で初めて劇場公開されたスピルバーグ監督作品、『激突!』だった。
 第1章でも述べた通り、この作品でスピルバーグは悪役の顔を画面に映さないという大胆な演出で観客をアッ!と驚かせたが、僕もその演出に驚いた。 映画を観ながら、あのタンクローリーを運転しているのはどんなヤツなんだろう? いったい何を考えて、このどこにでもいるようなごく平凡なサラリーマンを追い掛け回すのだろう?と考えていた。
 映画では、何度かタンクローリーのドライバーと思しき人影が映し出されるが、足元だけだったり主人公のカン違いだったりして、なかなか顔を見せない。
 きっと、ラストでその正体が明かされるのだろうと思っていたら、なんと結局最後まで顔見せ無し。 炎上するタンクローリーと共に深い谷底に落ちて、映画は終わってしまう。
 これを大胆と言わずしてなんと言おう!?
 この時から、僕はスピルバーグという映画監督に注目するようになった。
 その直後の1993年、映画『ジュラシック・パーク』が公開され、日本でも一大ムーヴメントを巻き起こした。 恐竜ブームが巻き起こり、インスパイア作品や類似商品が多数リリースされた。
 中には、『REX:恐竜物語』というまんま二番煎じな映画も公開された。(注:ただし、ムツゴロウさんこと畑正憲の原作小説とは大きく異なる内容で、ファンタジックな作品に改変された。 原作は、文庫本3巻分冊という非常に長い作品だが、実は恐竜が蘇る事なく作品は終わる。 恐竜よりも、登場人物の人間関係に重点が置かれており、しかも官能小説並みのベッドシーンが多数あるかなりエロい作品)
 予てから恐竜が好きだった僕は、当然この作品にも注目した。 恐竜がモティーフで、しかも監督がスピルバーグだったからだ。
 しかし、諸般の事情で映画館に行けなかったので、VHSのリリースを待つ事になったが、待ってる間にマイケル・クライトンの原作小説(注:ノベライズ版ではなく原作版!)を読んでみた。
 面白かった。
 学術的な説明が多いので、時々難しくて理解するのに苦労したが、ネドリーが産業スパイになって恐竜の胚を盗み出すトコロなどはドキドキしながら読んだのを今でも憶えている。
 また、翻訳者の作風なのか、文章そのモノが面白かったのも記憶に残っている。 実際、当時から僕は小説家を夢見ていたが、その頃書いた作品には原作小説の文章形態の影響があった。 その影響は今でも続いていて、ふとした時にあの頃のクセが出てしまうほど。
 あの小説にはかなり影響を受けた。
 もちろん、科学や数学、コンピュータテクノロジーに強い興味を憶えたのも、実はこの小説がキッカケだった。 TVの教養番組を欠かさず観るようになったり、専門的な学術書を読むようになったのも、この頃である。
 で、小説を読み終えてしばらくして、ようやく映画のVHSがリリースされたのだが、……買いました。 VHSを。 当時2万円。(!)
 当時のソフト版は、驚くほど高かった。 特典映像も静止画集もブックレットすら無しで、本編のみなのに15000円以上するのが普通だった。
 だが、既に原作にハマっていたので思わず買ってしまった。 既にフリーターになっていたので、ある程度自由に使えるお金があったのも、その理由になった。
 それはともかく、VHSを買って喜び勇んで家に帰り、早速映画を観てみたワケだが、……“度肝を抜かれる”とは、まさにこの事であるのを知った。
 圧倒的な映像と音楽。 そして手に汗握る展開に、2時間の間食い入るように映画に見入った。
 映画『ジュラシック・パーク』は、今でもスピルバーグ作品の中で1、2を争う好きな作品である。
 それと同時に、これを監督したスピルバーグという映画監督も好きになった。 彼の作品を観ようと、レンタルビデオ屋に行ってはスピルバーグ作品を借り漁る事になった。
 映画『E.T.』や『インディー・ジョーンズ』シリーズ、『シンドラーのリスト』など、彼の作品はほとんど鑑賞した。
 そして、そのどれもが面白かった。
 そうして出会ったのが、本書の主題である映画『未知との遭遇』である。
 その頃観たのは、確か特別編だったと記憶している。 劇場公開版もソフト化されていたのでレンタルビデオ屋の棚には並んでいたハズだが、観た記憶はない。
 もちろん、素晴らしい映像と音楽で面白い作品ではあったのだが、たぶん理解は出来ていなかったと思う。 実際、何度も観たような記憶もない。
 この映画を理解するには、当時の僕はあまりにも若過ぎたのだと思う。


 時は流れて2010年初頭、前著『異説「ブレードランナー」論』のリサーチ中、映画『ブレードランナー』の原典となった『メトロポリス』(27年)を生まれて初めて、最初から最後までキッチリと観たのだが、その鮮烈な映像とヒューマニズムに溢れた素晴らしいテーマに感動した。
 そして、『ブレードランナー』の次に取り上げる作品を『メトロポリス』にしようと決めた。
 ……が、思い止まった。
「ちょっとマテよオレ?」
 と、立ち止まって考えた。
 確かに感動したし面白い作品だが、そんなに焦って書いて上手くいくだろうか?
 そうやって焦って書いた結果、散々な内容になった作品が今までにもあったじゃないか。
 よく考えろasayan? お前はこの映画を、今この時ようやく、“生まれて初めて観た”ばかりじゃないか。 それで本を一冊書こうなんてのは、ちょいとムリがありやしないかい? 一冊の本にまとめるには、あまりにもこの映画を知らなさ過ぎるんじゃないか?
 そう思い、『異説「ブレードランナー」論』の執筆中に平行してちょっとだけリサーチしてみたら、まーこれが書かなきゃいけない事が出てくる出てくる。(笑)
 日本語の資料は極めて少なかったが、英語やドイツ語の資料は山ほどある。
 もちろん、僕は英語も、ましてやドイツ語なんてもってのほかなほど出来ないので、このリサーチにはとにかく時間がかかると判断するより他なかった。
「これはムリだ。 止めよう。 少なくとも、リサーチに必要な時間を取るための“時間稼ぎ”が必要だ。」
 そう判断して、前著『異説「ブレードランナー」論』と『メトロポリス』の間を埋める“つなぎ”が必要だという結論に至った。
 問題は、取り上げる作品だった。
 取り上げたい作品は他にもいくつもあったが、さして取り上げる必要性のない作品であったり、取り上げるにはやはりリサーチ不足な状態である事を認めざるを得ない作品であったりして、やりたくてもやれなかった。
 そこで、予てから考えていたアイディアをココで使ってしまおうと。
 そう、スピルバーグの事を書こうと考えたのだ。
 スピルバーグに関しては、以前にもブログ記事として『宇宙戦争』を取り上げた時に少し書いたのだが、その時は中途ハンパにやりたくなかったので、“いずれ詳しく!”で済ませていた。 なので、これを機にスピルバーグの事を徹底的に書いてみようと。
 そして再び、先ほどと同じ問題が持ち上がる。
 どの作品を取り上げるか?
 難問だった。
 スピルバーグはスキな映画監督で、映画『宇宙戦争』鑑賞以降は、“最も尊敬する5人の映画監督”の筆頭になり、現在もそのランキングは変わっていない。 胸を張って、僕は「スピルバーグ大好き!」と言える。
 しかし、スキな映画監督だけに、作品はもどれもスキなので、どの作品を主題として書くかかなり迷った。
 そこで、もう一つ予てからやりたかった企画と抱き合わせる事にした。
 それが、“公開年が1977年の映画作品”という企画である。
 この年には、個人的に大きな意味があるからだ。
 最初は、『スターウォーズ』を取り上げようと考えていた。 77年公開の映画作品の中でも、やはり『スターウォーズ』は飛び抜けた存在である。 “公開年が1977年の映画作品”という企画にはピッタリの作品だ。
 しかし、映画『スターウォーズ』は旧三部作と新三部作を合わせて全部で6本もある非常に壮大なシリーズ作品で、1冊の本にまとめるにはあまりにも書かなければならない事が多過ぎる。
 加えて、『スターウォーズ』は非常に人気の高い作品で、公開35周年を迎える今年2012年にはアニバーサリーイヤーを記念して3D版が劇場公開されたほど、その人気は現在でも衰える事を知らない。
 それだけ人気の高い作品なので、当然の事ながらこの映画に関する書籍は数限りなく出版されており、今さら僕が改めてこの作品について書くまでもないだろうと思った。
 なので、『スターウォーズ』を取り上げるのは思い止まり、他に77年公開の映画は何かないかと探してみたら、……あった!
 それが、本書の主題である『未知との遭遇』である。
 これなら、“公開年が1977年の映画作品”という企画にも、“スピルバーグ作品”という企画にもピッタリハマる。
「これだ!」
 こうして、アルティメット・アナライズシリーズの第2弾として、本書では映画『未知との遭遇』を取り上げる事になった。
 そもそも、2007年に本作の30周年記念盤がリリースされる事を知って、喜び勇んで購入し、この作品のテーマや意味を改めて理解していたし、調べてみたらこの作品については書籍などで取り上げられている事が少なく、あまり語られていないので僕が書いてもいいんじゃないかと。
 大スキなスピルバーグ作品で、これまであまり語られておらず、しかも公開年が1977年というのも何かの縁だ。 これを機に、この映画について考察してみるのも良いのではないか?
 そう考えて、僕はアルティメット・アナライズシリーズ第2弾として、本作を取り上げる事にした。
 何故なら1977年は、僕が生まれた年だからだ。
 誕生日こそ離れている(注:『スターウォーズ』の方が近い)が、僕が生まれた年にこのような素晴らしい作品が公開されていたという事実に、何かしらの縁を感じずにはいられない。
 たとえ生まれた年が同じであっても、僕が映画に興味を、それも、このような本を書いてしまうぐらいの熱狂的な映画ヲタクになっていたという偶然が重なったのも、ある種の運命的なモノがあったように思う。
 だから書いた。
 この映画の素晴らしさを、もっと多くの人に知ってほしかった。
 大スキなスピルバーグに、しっかりと敬意を示したかった。
 元を正せば、ただそれだけの事なのだ。


 スピルバーグが好きと言うと、映画マニアや評論家のような人たちにはハナで笑われる。 中には、「ふん、ビギナーが!」と言う人も多い。
 が、僕に言わせれば、それこそ「ふん、ビギナーが!」である。
 何故なら、僕はスピルバーグが好きだが、それは飽くまでも“1周周って帰ってきた”からだ。
 映画を手当たり次第観まくっていた1990年代は、僕も映画マニアを気取ってマイナーな映画や崇高な芸術映画が好きだった。 スピルバーグ作品も好きだったが、ランクで言えば2位か3位といったトコロだった。
 しかし、レンタルビデオとCS放送で合計600本もの映画を観ている内に、それがある意味間違いである事に気付いた。 大衆にはあまり理解されない、芸術性が高過ぎて観る側の要求スペックの高い作品を「一番スキな作品」と言うのが、ただの自己満足に過ぎない事を理解した。
 そうした作品を理解するのは、確かに要求スペックの高さから自らが“映画を理解している”という充足感を得られるが、それは飽くまでも自己満足で、映画を理解しているのとは異なる。
 何故なら映画とは、映画芸術であると“同時に”大衆娯楽だからだ。
 一人でも多くの人に理解してもらい、そして作品を愛してくれるファンが多い事こそが、大衆娯楽としての映画の価値である。
 難しい作品、芸術的で美しい作品を愛でるのも良い。 それはそれで悪い事ではない。
 しかし、映画という芸術の本質が、娯楽である事を忘れてはいけない。 アタマを悩まさせるだけの難解な映画だけが上等な作品だと思ってはいけない。 大衆を楽しませ、より多くの人の共感を呼ぶ映画こそが、大衆娯楽としての映画なのである。
 スピルバーグ作品は、確かに娯楽性重視で映画マニアのヲタク心をくすぐるような作品は少ないかもしれない。 軽くて気軽に楽しめるような作品ばかりかもしれない。
 しかし、ならばこれだけスピルバーグが稼いでいるのは何故なのだろう?
 彼の作品を、こんなにも多くの人々が観ているのは何故なのだろう?
 それは、彼の作品がより多くの人が“面白い”と感じる作品だからだ。
 面白い作品を大量に、しかし決して妥協する事なく撮り上げるその手腕こそが、“スピルバーグという才能”だからだ。
 だから、僕はスピルバーグが好きなのだ。
 映画『ジュラシック・パーク』でそれを理解し、しかし映画マニアを気取って難しい難解な作品ばかり観ていた頃を過ぎ、映画『宇宙戦争』を観て改めてその手腕のスゴさを観たからこそ、僕はスピルバーグ作品に“1周周って帰ってきた”のである。
 映画評論家として活躍した故淀川長治は、「一番スキな俳優は?」という質問に、「チャーリー・チャップリン!」と即答したと言う。
 彼もまた、“1周周って帰ってきた”のだと思う。
 だから僕は、声を大にして言う。
 僕はスピルバーグが好きだ。
 スピルバーグは、僕が“最も尊敬する映画監督”の筆頭だ。
 僕は、胸を張ってそう言い切る。
 そして、本書がその敬意の現れになっている事を願う。


‐Data‐

未知との遭遇(原題:Close Encounters of the Third Kind)

配給:コロンビア・ピクチャーズ
出演:リチャード・ドレイファス
    テリー・ガー
    メリンダ・ディロン
    ケリー・ガフィー
    ボブ・バラバン
    フランソワ・トリュフォー他
脚本:スティーヴン・スピルバーグ
テクニカル・アドバイザー:J・アラン・ハイネック博士
コンセプチュアル・アーティスト:ジョージ・ジャンセン
                    ラルフ・マッカリー(マザーシップ担当)
撮影:ヴィルモス・ジグモンド
美術:ジョー・アルヴス
特殊効果監修:ダグラス・トランブル
          リチャード・ユーリシッチ
          デニス・ミューレン(マザーシップ担当)
          スティーヴン・スピルバーグ(総監修)
特殊効果:ロイ・アーボガスト(ライブアクション効果)
       ロバート・スウォース(アニメーション)
       グレゴリー・ジーン(ミニチュア制作)
       ラリー・アルブライト(ネオン管制作)
       マシュー・ユーリシッチ(マットペインティング)
       スコット・スクワイヤーズ(クラウドタンク)
       カルロ・ランバルディ(宇宙人ドール制作)
音楽:ジョン・ウィリアムズ
編集:マイケル・カーン
製作:マイケル・フィリップス
    ジュリア・フィリップス
監督:スティーヴン・スピルバーグ

公開年月:1977年11月(日本では78年2月)
総製作費:2000万ドル
興行収益:約3億380万ドル



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 思ったよりも時間がかかってしまいましたが、『Wactch the Skies』は今回をもちまして、連載終了とさせて頂きます。 長い間お付き合い頂き、誠にありがとうございました。
 この連載記事をまとめて読めるPDF版は、MFD-WEBにて、来月6月25日の更新でアップする予定でただ今校正中です。 お楽しみに!
 また来週からは、早くも“新連載”がスタートします!(`・ω・´)/
 早ッ!!Σ(゜Д゜;)
 いやね? 早く始めないとね? 年内に終わりそうにないんだよ、今度のネタは。 6月と7月には、当ブログの記念日ネタもやらなきゃだし。
 『ブレードランナー』ほどではないと思いますが、確実に『未知との遭遇』よりも長いです。 まだ原稿書き上がってないし。
 いずれにしても、来週もお楽しみに!
 ちなみに、今度のネタはもちろん“アレ”なのですよ?(←どれ?)
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


白騎士物語。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 Hentaiさんお得意のエロ騎士装備。 肩のアーマーが大き過ぎて、どうしても顔が隠れてしまう。(笑) 個人的には、ヒジの辺りのディテールが良く出来ていると思う。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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196.Watch the Skies:第6章③

2012年05月20日 | Watch the Skies

-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #19-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 さて、今週の話題はなんと言ってもコレでしょう!(↓)

 5月21日、すなわち明日、月曜日の午前、日本国内では25年ぶりとなる『金環食』です。
 金環食とは、太陽と地球の間を月が通過する事によって太陽が光のワッカになったように見える天体現象で、日本でこれが観測出来るのは、1987年以来25年ぶりの事。 和歌山県では、特産品のキンカンに引っ掛けて、“キンカンを食べながら金環食を見よう”ツアーまで企画されたとか。(笑)
 ただし、お住まいの地域によっては角度的な関係で完全なワッカにならず、部分日食にしかなりません。
 また、観測出来る時間帯が、いずれの地域でも午前7時から午前8時までと朝早く、また短いので気付いたら終わってた、なんてコトにもなりかねないので注意が必要です。
 最も良く環食が観測出来るのは、鹿児島、宮崎、高知、大阪、京都、愛知、静岡、東京、宮城の各地域で、時間帯は南から午前7時22分頃~午前7時36分頃までの間。
 視力低下や失明の原因になるため、太陽を直視するのは大変危険です。 観測の際は、太陽観測用の遮光フィルターを必ず使用して下さい。
 皆さんも、21世紀最初の真昼の天体ショーを観測してみてはいかがでしょうか?



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ、第19回です。
 今週を含めてあと2回。 今回は、第6章のラストまでです。


 かつて、スピルバーグやルーカス、コッポラ、スコセッシと並ぶアメリカン・ニューシネマ世代であったブライアン・デ・パルマは、90年代に『ミッション・インポッシブル』(96年)や『スネーク・アイズ』(97年)といった複数の作品がヒットし、かつての栄光を取り戻した監督である。
 この復権の流れを受け、ミレニアムを迎えた2000年に監督したのが、映画『ミッション・トゥ・マーズ』である。
 西暦2020年、火星植民地化計画(注:火星を人為的に温暖化し、人類が住める大気圏を作るテラフォーミングを含めた火星移住計画の事。 実際、NASAを中心に現在具体的な計画が進行している)を進めるNASAは、その足がかりとなる火星着陸計画を実行に移そうとしていた。
 この計画の中心的存在であった宇宙飛行士のジム(ゲイリー・シニーズ)は、しかし妻の死が原因で火星着陸船に乗り込むのを辞退。 火星着陸は、他の宇宙飛行士に譲ることになった。
 念願叶って火星に着陸した彼らは、しかしナゾの嵐に襲われ音信途絶。 彼らを救出するため、ジムは急遽火星に向かう。
 そして彼は、そこで未知との遭遇を果たすのだった。
 この作品では、1979年6月にNASAの無人火星探査機、ヴァイキング1号が撮影したシドニア地区にある巨大な人面岩(注:98年にも、同じく無人火星探査機、マーズ・グローバル・サーベイヤーが同じ岩を撮影している)に着想を得た脚本家、ジム&ジョンのトーマス兄弟(注:最も有名なトコロでは、『プレデター』シリーズがある。 すなわちプレデターの生みの親である)が、『スピード』(94年)、『ブロークン・アロー』(96年)のグラハム・ヨーストとの共著で脚本を手がけた作品で、火星にはかつて生命があり、これが巨大隕石の衝突によって壊滅。
 しかし、高度な科学文明を築いていた彼らは絶滅する前に火星を脱出し、その内の一つが、自分達のDNAを原始の地球に投下。 地球の生命体が爆発的に進化し始めたカンブリア紀(注:5億4500万年前~5億500万年前までの間に、それまで微生物しかいなかった生命が急激に進化し、爆発的に種が増えた。 “カンブリア大爆発”とも言う)が起こり、結果として人類が誕生する事になったという、いわゆるパンスペルミア仮説(注:生命の起源を地球外に求める仮説で、隕石などに生命体のDNAが含有されていたために地球で生命が発生したというモノ。 1787年にラザロ・スパランツァーニという学者によって仮説が立てられ、一時的にダーウィンの進化論によって淘汰されるが、1906年にスヴァンテ・アレニウスによって再発見され、現在も論議が続いている仮説である)を通して、宇宙人と地球人が、実は“同じ生命体”だったという大胆な説を唱えている作品である。
 もちろん、これによって作品は、“We are not alone”のテーマを明確に描き、宇宙人が人類の敵ではなく、むしろ“兄弟”だと言っており、ラストシーンでジムが宇宙へと“帰っていく”姿は、まさに人類が至るべき未来、帰結すべき世界への旅立ちを描き、ファンタジックで夢のある締め括りになっている。
 ただ、映画全体に『2001年‐宇宙の旅』のインスパイアと思われるショットが多数あり、また既に『ID4』や『X‐ファイル』によって宇宙人=エイリアン・インベージョンのイメージが出来上がっていた時代背景もあって、アメリカ国内では大赤字。 世界配給によってかろうじて黒字に転じた程度の収益しか上げられず、映画は大失敗に終わった。
 トコロが、近年になってNASAが撮影した写真に、火星の砂の下から覗く“氷と思しき何か”が映っており、本作で示した仮説があながち間違っていないのではないか? と、パンスペルミア仮説と合わせてにわかに話題になった。
 生命の起源は別にして、この作品が語る地球人と宇宙人が“同じ生命体”という説は、非常に夢があって良いと思う。
 作品自体も、VFXが非常に良く出来ており、確かに『2001年‐宇宙の旅』を意識し過ぎなショットが多々散見されるが、近年のSFでは良作の一つと評価している。
 ちなみに、この作品ではゲイリー・シニーズが珍しく主役(注:名脇役として名を馳せていた役者で、『身代金』や『スネーク・アイズ』では悪役を演じている)を演じているが、シニーズはかつて『アポロ13』に出演し、宇宙飛行士でありながら打ち上げ直前になって風疹の兆候(注:ただし、実際には発症しなかった)がみられたためアポロ13号に乗れなかったケン・マッティングリー宇宙飛行士を演じたが、今回は月ドコロか火星にまで行く事になったのは何かの皮肉か?(笑)
 2001年に公開され、、興行的にも評価的にも大失敗に終わり、その赤字額が“最も赤字を出した映画”としてギネスブック記録になるという不名誉を頂く事になった映画、『ファイナル・ファンタジー』は、しかし筆者は“We are not alone”を描き、なおかつ『ミッション・トゥ・マーズ』の“同じ生命体”と、後述の2005年版『宇宙戦争』で描かれる“エコロジー”というテーマの橋渡し役を担った良作と評価している。
 この作品におけるエイリアンは、資源の枯渇が原因で戦争が起こり、そして滅んだ。
 そして、スピリットという姿に変わって、地球人類に「我々の二の舞を踏むな」と教えに来た。 だから、シドの最期のセリフが「あぁ、温かい……。」なのである。
 これは、エイリアン・インベージョンの名を借りたエコロジーがテーマのヒューマニズムに溢れた作品なのである。
 スピルバーグが監督した2005年版の『宇宙戦争』も、エイリアン・インベージョンでありながら毛色の変わった作品である。
 元々、53年版のファンだったスピルバーグは、3本目の宇宙人モノとしてこの作品のリメイク版を選んだ。 理由はいくつかあるが、最大の理由は2001年の9.11である。
 イスラム原理主義派による前代未聞のテロリズムはアメリカを、そして世界中を恐怖のドン底に叩き落した。 そして、崩落するワールド・トレード・センターの映像に、誰もが“事実は小説よりも奇なり”を知った。 現在も続く対テロ戦争は、まさに映画を超えた現実であり、現実が映画に追いついてしまった事を思い知らされる結果になった。(注:このテロを予見した作品が実はある。 『羊たちの沈黙』で知られるトーマス・ハリスの処女作が原作の映画、『ブラック・サンデー』である。 この作品では、パレスチナゲリラがスーパーボールのスタジアムに飛行船でテロをしかけるという、まさに9.11そのモノの内容だったが、現実はそれをさらに超えた)
 この事件を受け、ハリウッドでは市街戦やテロをモティーフにした作品の公開延期、上映中止、または制作中止などの自粛措置がとられた。
 しかし、ワールド・トレード・センターの復興も一段落し、人々が落ち着きを取り戻した2005年頃は、逆にこの悲劇を忘れないためにも、テロや市街戦を描いた映画を製作するのに丁度良いタイミングだった。 金儲け主義と言われればそれまでなのは否定しないが、丁寧に、そして真剣に取り組めば、作品はこの悲劇の教訓を記憶に止める事が出来る名作になる。
 スピルバーグは、このタイミングを逃すまいと、モティーフもテーマも全く異なる、しかし目的の共通した2つの作品をこの年に制作、公開している。
 一つは、『ミュンヘン』である。
 1972年、ドイツのミュンヘンで開催されていたオリンピック期間中、パレスチナゲリラによってイスラエルの代表選手11人が人質になった上全員殺されるという痛ましい事件が起こる。 事態を重く見たイスラエルの秘密諜報機関、モサドは、事件の首謀者と目されるテロリスト11人の暗殺を一人の諜報員に命令する。
 実際に起こった事件を基に、その後の調査で判明した事実を加え、フィクションながら復讐の虚しさ、そして、国に忠誠を誓い忠実に任務を続ける諜報員が、見えない恐怖と狂気の中で自らの人間性を自問するという深いテーマを描いた快作であり、現在の対テロ戦争を間接的に描いた作品でもある。
 映画は極めて高く評価され、作品賞、監督賞を含むオスカー5部門にノミネートされている。(注:残念ながら受賞は逃した。 パレスチナ系はもちろん、イスラエルからも批判された問題作だったのが原因かもしれない。 どちらに味方するでもなく、両方を批判する描き方だったのは確か。 スピルバーグ自身は、「精神的に病んでいく主人公の苦悩を描きたかった」と語っている))
 そして、これと同じ年に公開されたのが、リメイク版『宇宙戦争』である。(注:公開はコチラの方が先。 05年6月公開。 『ミュンヘン』の方は、同年12月公開)
 時は現代、ニューヨークの港で働くレイ・フェアリー(トム・クルーズ)は、仕事から帰ると別れた妻から二人の子供を預けられる。 しかしその時、空がにわかに掻き曇り、凄まじい雷鳴が何度も鳴り響いた。
 状況を把握しようと街へ出たレイは、交差点の真ん中に開いた奇妙な穴を見つける。 そしてレイは、近所の住人達と共に、その穴深くから現れた巨大なマシーン、トライポッドを目撃する。 それは、宇宙から飛来した宇宙人が操る殺戮マシーンだった!
 レイは、子供達と共に妻がいるボストンへと向かうのだが……!?
 既に、2001年の『マイノリティ・リポート』でコンビを組んだクルーズとスピルバーグの2度目のコンビ作品だが、前作とは正反対に、クルーズはハリウッドを代表するムービーヒーローとは思えないような非常に頼りない男を演じており、しかも53年版をある意味無視して、H・G・ウェルズの原作通りにあっけなく宇宙人が壊滅するという展開が受け入れられず、大ヒットを記録しながらも評価が低い作品である。
 もちろん、これは観客が『ID4』などの既存のエイリアン・インベージョン映画にあるような爽快なクライマックスや、スピルバーグ作品らしい、『ジョーズ』や『ジュラシック・パーク』で見せた劇的なクライマックスを期待していたからであり、映画の本質を理解出来なかった観客は、肩透かしを喰らわされたような気がしたからだ。
 しかし、この作品の後半にある、レイが市民たちと共にトライポッドを打ち倒すという劇的なシーンは、“手に手を取り合って協力する”という“We are not alone”のもう一つの側面を垣間見せており、さらにオープニングとエンディングで流れる一際印象的なモーガン・フリーマンのナレーションを聴けば、これが“エコロジー”をテーマにしている作品なのだという事が理解出来るハズである。
 自分が助かりたいがためにクルマを奪い合い、銃を手にした瞬間相手が誰であれ平気で人を殺す群集心理の恐怖は、言うなれば不寛容が生む悲劇であり、これはそのまま現在の環境問題にも当てはまる。 銃を手にした市民は、ゴミの分別もアイドリングストップもしない利己的な市民と同義なのだ。
 9.11だけではない。 1.17、阪神・淡路大震災や、3.11、東日本大震災はもちろん、世界中で起こった災害や災難、事件事故で、我々は一人ひとりが手に手を取り合って協力する事こそが、このような困難を乗り越える唯一の方法である事を学んだハズである。
 なのに、環境問題だけは、誰もが“ワレ関セズ”で盲目的に無視する。
 エコロジーはボランティアであり、無償だからだ。
 この映画は、群集心理の狂気に自らを省みなさいと訴えているのだ。
 この作品は、エイリアン・インベージョンの体裁を借りた“人間性の再発見”をテーマにした作品なのである。


 以上のように、ファンタジックSFは今世紀に入ってからというモノ、直接的に“We are not alone”を描く事なく、しかし間接的に描いているのが特徴である。
 そして近年は、これがさらに微妙な変化をし、より壮大なスケールのテーマへと進化してきている。
 2008年、それまで長い間沈黙を続けていたシリーズ最新作として、スピルバーグは『インディ・ジョーンズ‐クリスタル・スカルの王国』を監督した。
 89年のシリーズ3作目を以って、三部作完結(注:これを明確にするために、3作目のエンディングはそれまでのシリーズのお約束だったヒロインとのキスシーンではなく、主人公たちが地平線に向かって馬を走らせるというエンディングになっている。 スピルバーグは、これを意図的なモノだと言っている)となったこのシリーズは、しかし完結直後から新作の公開が熱望されていた作品である。
 それにいち早く反応したのは、実は主演のハリソン・フォードだった。 出演作のプロモーションでアメリカ国内はもちろん、世界中の行く先々で、フォードはファンに、「『インディ・ジョーンズ』の新作は?」としょっちゅう訊かれたそうだ。 この事実に、ファンが新作を待っている事を悟ったフォードは、原案と製作総指揮を務めたジョージ・ルーカスを説得し、ルーカスも次第にやる気になっていく。
 しかし、スピルバーグは固辞し続けた。 元々続編嫌いのスピルバーグは、せっかく完結した作品の続きを作る事には反対だった。 しかも、ルーカスは「宇宙人モノで。」と言って聞かなかった。
 結局、スピルバーグは固辞し続け、しかしスピルバーグが監督しないのなら続編を作る意味はないと意見の一致していたフォードとルーカスは、一旦引き下がるしかなかった。
 しかし数年後、ルーカスは唐突にとんでもないコトを言い出した。
 その時の会話を、スピルバーグの証言を基に再現してみよう。

ルーカス「やあスティーヴン。」
スピルバーグ「どうしたんだジョージ?」
ルーカス「『インディ・ジョーンズ』の続編の事なんだが……。」
スピルバーグ「またその話しか! もう止めてくれよ!」
ルーカス「ああ止める。」
スピルバーグ「え?」
ルーカス「やっぱり宇宙人モノはムリがある。 だから止めよう。」
スピルバーグ「! その言葉を待ってたんだ! 愛してるよジョージ!」
ルーカス「宇宙人じゃなくて“異次元人”だ。」
スピルバーグ「……………(´・ω・`)??……………はい??」

 きっとこんなカンジだ。(笑)
 この後も紆余曲折があったのだが、ともかくシリーズ4作目は制作が決定し、2008年に公開された。
 3作目から10年以上が経過した1950年代、東西冷戦構造を背景に、エリア51に運び込まれた“異次元人”の頭骨、クリスタル・スカル(注:オーパーツの一種。 現代科学でも制作が難しいほどの精度で削り出されたクリスタル製の頭蓋骨で、1927年に最初のクリスタル・スカルが発見されて以来、現在までに13個ものスカルが発見されている。 ただし、その半数は後の調査で近代になって製作された捏造品である事が判明している)を巡って、ソ連軍の特務機関とインディが争奪戦を繰り広げるという内容である。
 この作品では、このクリスタル・スカルの持ち主である“異次元人”が、太古の昔に地球にやってきて、人類に叡智を与え、ありとあらゆる文明を次々と発生させていったという、アトランティス伝説やムー大陸伝説に代表されるいわゆる超古代文明モノになってはいるが、彼らが宇宙人と同義だと考えると、宇宙人は『ミッション・トゥ・マーズ』で描かれていたように人類の祖先、ではなく、人類に叡智を与えた人類を超えた存在、すなわち『2001年‐宇宙の旅』におけるモノリスを作った存在、すなわち“神としての宇宙人”という位置付けになる。
 そうなると、作品のテーマは最早“We are not alone”というスケールに収まりきらない、神話世界の領域に踏み出してしまう。
 これを決定付けたのが、同じく2008年に公開された51年版のリメイク作、『地球が静止する日』である。(注:51年版は『地球“の”静止する日』。 2008年版は『地球“が”静止する日』とタイトルが異なる。 ただし、これは飽くまでも邦題が異なるだけで、原題は『The Day the Earth Stood Still』でどちらも同じ)
 映画『スピード』、そして『マトリックス』シリーズでトップスターの地位を築いたキアヌ・リーヴスが出演した事でも話題になった(注:当初は、この作品は小規模な低予算映画になるハズだったが、ダメモトでオファーしたトコロ、リーヴスが二つ返事で出演を快諾した事で、大作級の扱いで制作される事になった。 共演者も、ジェニファー・コネリーやキャシー・ベイツ、さらにはウィル・スミスの実子、ジェイデン・スミスまで子役として出演している。 大ヒットとは言い難い興収でしかなかったが、近年のSFとしては5本の指に入る良作と筆者は評価している)
 このリメイク版では、クラトゥは確かに51年版と同じく“警告に来た”のだが、彼の能力は51年版を遥かに上回り、しかもゴートは大量のナノマシンの集合体で、クラトゥの命令一過、地球上のありとあらゆる文明をあっという間に“食い尽くす”ほどの破壊力を秘めている。
 クラトゥは、生命溢れるこの地球を顧みる事なく、破壊の限りを尽くす地球人類を粛清し、“地球の味方”として地球を守りに来たのである。
 そう、この作品のクラトゥは、ノアに方舟を作らせ、堕落した人類を大洪水で滅ぼし、ソドムとゴモラを天の火で焼き払い、バベルの塔を破壊した神、そのモノなのである。
 宇宙人は、“人類の良き隣人”から、“行き過ぎた科学は魔法と見分けつかない”オーバーテクノロジーを有する“人類を超越した神”になったのだ。
 この兆候は、前世紀末には既にあった。
 2002年にシリーズが終了した『X‐ファイル』において、宇宙人は当初、先にも記したように地球を侵略しに来た“敵”であった。
 しかし、シリーズが進むにつれてこの様相が少しずつ変化していく。
 シーズン5(97年~98年)終了後、98年には待望の劇場版が制作され、シリーズの人気は最高潮を迎える。 が、この劇場版において、宇宙人が実は太古の昔に地球にやって来た事が明かされ、彼らは生き延びるために自らの姿をブラックオイルへと変えた事が判明する。
 つまり、コトの発端がロズウェルではなかった事が明らかになったのだ。
 続くシーズン6(98年~99年)では、ロズウェルに端を発した政府の陰謀が、それまで小出しにされていた情報を整理する形でその全容が明らかとなり、モルダーとスカリーの“敵”は、宇宙人ではなく陰謀を企てた影の政府であった事が改めて確認される。
 そして、宇宙人という存在は、遥か昔にこの地球を訪れ、人類の文明に決して少なくない影響を与えてきた“神のような存在”になる。
 原案であり製作総指揮であるクリス・カーターが、このシリーズのメインストリームである宇宙人関連のエピソード群を“ミソロジー・シリーズ”と呼んできた意味が、こうして明確になったのである。


 以上のように、映画黎明期から近年に至るまでの宇宙人モノのSF映画の遍歴をざっと(?)紹介してきたが、90年代後半から今世紀にかけて、(『MIB』や『エボリューション』のような作品もあったが)宇宙人に対する解釈は、“We are not alone”のテーマを描きつつも、そのスケールを次第に増して行き、ついには神さまにまでなってしまった。
 もちろん、それは“We are not alone”のテーマに反するモノではない。 宇宙人が、“敵になるとは限らない”という意味においては、たとえそれが神であっても“We are not alone”のテーマから外れるモノではない。
 が、純粋に宇宙人を“地球人の良き隣人”として描き、“We are not alone”のテーマを描いた作品は、今世紀に入ってからは皆無になってしまった現状は寂しくもあり、また残念でもある。
 気持ちは理解出来ないでもない。
 本作や『E.T.』といったスピルバーグ作品が偉大過ぎて、それと同じ事をやっても比較され、“パクリ”と酷評されるのが目に見えているから、ヒネリを加えてパンスペルミア仮説やエコロジー、そして神として描くしか方法がなかったのだ。
 さらに言えば、描き方を間違えると、『アビス』のようにサスペンスがやりたいのかSFがやりたいのか分からないどっちつかずな作品になってしまったり、『コンタクト』のように結論が不明瞭で分かり難い作品になってしまったりするという危険性もある。 このテーマは、描くのが非常に難しいテーマなのだ。
 しかし、21世紀も10年以上が経過した現代にこそ、このテーマは我々のこころに強く響くテーマであるのは確かだ。
 世界各地で未だに続くテロと戦争。
 政治的混迷と経済的混乱。
 ここ2、3年の間に集中して起こっている自然災害。
 こうしたカオスが支配する今の時代にこそ、我々はもう一度これらの映画を観直し、それぞれの作品で描かれている“We are not alone”のテーマを理解する必要があるのではないか?
 例の“世界の終わり”まで、もう1年を切ってしまった今だからこそ、我々一人ひとりが手に手を取り合い、“We are not alone”のこころを“識る”必要がるのではないか?
 本作、映画『未知との遭遇』は、結局はそういう事を言いたかった作品なのではないかと、筆者は考える。
 だからこそ、皆さんがもう一度、本作に“遭遇”するチャンスを与えるべく、筆者は本書の執筆を思い立ったのである。
 願わくば、本書がそのキッカケになる事を。


2.Never Give Up

 もう一つ、本作を語る上で欠かせないのが、このテーマである。
 本作に対する観客の反応は、概ね好評であったし、批評家の中にも辛らつな批評をする者は少なかった。
 興行収益が示す通り、本作は大衆に受け入れられた評価の高い作品である。
 が、少ない批判の中には、「ロイがマザーシップに乗り込むのが理解出来ない」というのもあった。 実際、筆者もこのような批判をしているネットの書き込みを見た事がある。
 本作の主人公であるロイは、確かに“選ばれた人間”としてラストでマザーシップに乗り込み、地球を離れる。 それは一見すると、ヤケクソになったロイが何も良い事のなかった地球を“捨てて”宇宙へと旅立つようにも見える。
 が、それは見せかけだけの間違った解釈である。
 ロイは、この“遭遇”に運命的なモノを感じていた。
 ジリアンと共に、丘の上でハイウェイを通過するUFOを目撃し、その存在が現実である事を確かめたいという衝動に駆られる。 そして、“Watch the Skies(空を見上げて)”しては、瞬く星々の間に彼らがいるのではないかと夢想する。 そのイメージは、行った事も見た事すらもないデビルズ・タワーのイメージと共に、ロイの思考と心を支配していく。
 そして、このイメージに執着するあまり、ロイは仕事をクビになり、愛妻さえも愛想を尽かして三行半を突きつけられる。
 だが、それでもロイは、“諦めなかった”。
 その存在を、その現実を、そしてその意味を、知りたかった。
 それが運命だからではなく、それが真実だからだ。
 筆者が序章にて最初に記した通り、現代科学は何も出来ないし、我々が本当に知りたい事は何一つ教えてくれない。
 科学は未熟で、不確かで、何の役にも立たない木偶の坊だ。
 しかし、同時に科学は、多くの真実を解明してきた。
 まだまだ解明されないナゾは数多に残されているが、それと同じか、あるいはそれ以上に、科学は常に進歩を続け、最先端の科学を真実に追いつけてきた。
 何故、そんな事が可能になったのだろう?
 それまで、真実を垣間見る事さえ出来なかった事象を、どうして科学は真実を明らかにする事が出来たのだろう?
 何故ならそれは、科学を発展させてきた多くの科学者たちが、“諦めなかった”からだ。
 ロイも諦めなかった。
 仕事をクビになり、妻にも逃げられ、隣人からは変人扱いされ、それでもロイは、真実を識るために諦めなかった。 そしてその果てに、ロイはついに真実に追いつく。 それが真実だからではなく、“諦めなかった”からだ。
 諦めなかったロイは、その努力を認められ、ラコーム博士の計らいでマザーシップに乗り込む権利を与えられる。
 諦めなかった“真実の先”が、ロイを両手を広げて迎え入れようとその門戸を広げてくれたのだ。
 仕事を失い、家族を失い、ロイには失うモノはもう、何一つない。
 ならば、彼が取るべき行動はただ一つだ。
 その先へ。
 真実の先へと、足を踏み出す事だけ。
 その先に、何が待っているのかは、ロイには分からない。
 もしかしたら、来なければ良かったと後悔するような事が待っているかもしれない。 少なくとも、行方不明になっていた戦闘機のパイロットたちのように、何十年もの間帰って来る事は出来ないだろう。 たとえ帰って来れたとしても、きっと浦島太郎になっているに違いない。
 それでも、“真実の先”に何があるのか? その一端を垣間見るチャンスが、目の前に転がっているのだ。
 行くしかない。
 そして、識るしかない。
 真実を。
 そして、その先を。
 何故ならロイは、それを見るために、“諦めなかった”からだ。
 諦めるのはカンタンだ。 「もう止~めた!」と、投げ出してしまえばいい。
 しかし、投げ出す事になど何の価値もない。 何故ならそれは、逃げているのと同義だからだ。 たとえ困難があろうとも、立ち向かい、“諦めない”事にこそ価値がある。
 そうして“諦めなかった”者だけが真実を、そしてその先を、識る事が出来るからだ。
 ピタゴラス、ニュートン、ダーウィン、ダ・ヴィンチ、そしてアインシュタイン。
 科学者だけではない。
 クリストファー・コロンブス、チャールズ・リンドバーグ、ニール・アームストロング。
 新世界を発見した先駆者たち。
 コッポラ然り、ルーカス然り、デ・パルマ然り、そして、スピルバーグ然り。
 諦めなかった彼らは真実を、そしてその先を、我々に見せてくれた。
 “Watch the Skies(空を見上げて)”して、僕は想う。
 さあ、次は我々の番だ。
 彼らに続くのは?
 僕?
 それとも、アナタ?



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


メー○ル?


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 ロシア風というか何というか、とにかく黒ゴス。 ミニスカなのが残念だが、チョーカーと帽子はポイント高め。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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195.Watch the Skies:第6章②

2012年05月13日 | Watch the Skies

-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #18-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 前々回、当ブログの“30000HIT達成報告”をさせて頂きましたが、コレに伴って知人、友人からお祝いの言葉を頂戴しました。 中には、かぁいらしいメッセージカードを描いてくれた方も。
 ありがたいコトです。
 みーちゃんアリガトね。 とっても嬉しかったよ!
 皆さまにもメッセージカードをお見せしようかと思いましたが、……ダメです。 見せてあげな~~い。
 まあ、プライバシーとかもあるんで。
 いずれにしても、これを励みにこれからも皆さまに楽しんで頂けるような記事が書けるよう、がんばっていこうと思います!(`・ω・´)/



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ、第18回です。
 今週を含めてあと3回。 最後までヨロです。


 映画『未知との遭遇』は、77年夏に公開された『スターウォーズ』に続いて、同年11月に公開されたが、既に『スターウォーズ』によって史上空前のSFブームが始まっており、映画はこれに便乗する形で大ヒットを記録した。 『スターウォーズ』とは方向性の異なる作品であるにも関わらず、大衆はこの映画を受け入れた。
 その一つの理由に、『スターウォーズ』の意外な影響があったのは間違いない。
 すなわち、『2001年‐宇宙の旅』で描かれた“宇宙人=敵ではない”の等式を、『スターウォーズ』も踏襲していたからだ。
 映画『スターウォーズ』には、チューバッカのような猿人に似た者から、地球上のどの生物にも似ていないまさに宇宙人(宇宙生物)と呼ぶにふさわしい者まで、実に多種多様な地球外生命体が登場する。 そして、その全てが後のシリーズで登場するジャバ・ザ・ハットに代表される悪役もいれば、イウォーク族のような友好的な種もあり、宇宙人が必ずしも敵とは限らない可能性を示唆している。
 そして、これをさらに発展させ、“宇宙人=敵ではない”の等式を明確に描き、人類と宇宙人との間に手に手を取り合える友情が芽生える事を初めて明確に描いたのが、映画『スターウォーズ』の後に続いたSF映画たる本作なのである。
 この地球は、宇宙で唯一の生命が在る星ではない。
 この広大な宇宙空間には、地球と同じように文明と文化を持つ知的生命体がいて、地球がそうであるように、彼らもまた、夜空を見上げては「この満天の星々の中にきっと、我々と同じような知的生命体がいる違いない」と考えているのである。
 そして、我々と彼らは、きっと手に手を取って分かり合える。 何故なら我々と彼らは、この宇宙空間という一つの大きな世界に同居する隣人なのだから……。
 戦後、GHQによる占領政策があったとは言え、太平洋戦争で敵同士だった日本とアメリカは、しかし良き友人になれた。
 1989年、ベルリンの壁が崩壊し、後のソ連崩壊によって“終戦”を迎えた冷戦は、40年以上に渡って敵同士だったアメリカとソ連を良き友人同士にした。
 敵だったのが友になれたのに、何故“敵”と決まったワケではない宇宙人との間に友情が芽生えないと?
 敵視しているのは、“彼ら”ではなく我々のカン違いなのでは?
 もしも我々が望むなら、我々より高度な文明を持っているハズの“彼ら”は、きっと我々の敬意に応えてくれるハズだ。 そして、我々人類がこの広大な宇宙空間という名の砂漠で迷子になっている独りぼっちの幼子である事を教えてくれて、きっとその手を取って帰り道を教えてくれる優しさを持っているハズだ。
 少なくとも、僕はそうだと信じたい。

We are not alone.
我々は独りじゃない。

 本作は、その可能性を明確に描いた初めてのSF映画なのである。


 ……しかし、本作公開後の1980年代以降、本作と同じ“希望”を描いた作品は、実は数えるほどしかない。 しかも、その多くがスピルバーグの関連作品である。
 スピルバーグ以外、この“希望”を描く者はほとんどいなかった。


・エイリアン・インベージョン

 本作公開後の1980年代、スピルバーグは本作と方向性を同じくする複数の作品を監督、あるいは製作総指揮する。
 が、同系統の作品を制作したのは、結局スピルバーグと数人の映画クリエーターだけだった。 その傾向は90年代まで続き、21世紀を迎えた今日においても、今なお現在進行形である。
 そのキッカケを作ったのは、あるTV映画シリーズであった。
 そのタイトルは、『V』!


 1983年、主に『600万ドルの男』(75年~76年)や『超人ハルク』(78年~82年)などのTVシリーズで製作を努め、複数のTV映画で製作総指揮を務めるなどした敏腕プロデューサー、ケネス・ジョンソンが自ら監督、脚本を手がけて製作、OAされたTV映画シリーズ『V』は、その後続編が製作されオリジナルシリーズである5エピソードがOA(注:当初は2回のみのミニシリーズだったが、高視聴率を得たために翌84年に続編となる3エピソードが『V‐ザ・ファイナル・バトル』というタイトルで製作、OAされた。 日本では、この続編を含めた5エピソードがファーストシーズンと認知されている)されると、瞬く間に全米中の視聴者を虜にした。
 ある日突然飛来したUFOには、人間そっくりの外見を持つ宇宙人が乗っており、彼らは地球人との友好を取るために訪れたと言う。 人類はこれを歓迎し、彼らとの奇妙な共同生活が始まる。
 が、人類とそっくりな外見はニセモノで、彼らは実は爬虫類が進化した宇宙人だった。 そして、彼らが地球にやってきた本当の目的は、人類を自分たちの食料にするためだった!
 映画『宇宙戦争』以来、実に30年振りに侵略者としての宇宙人を描いた本格的なSFに、人々は熱狂した。(注:このシリーズは、88年に日本でもOAされ高視聴率をマークした。 実際に僕もリアルタイムでこれを見たが、確かに面白かった) そして、宇宙人=侵略者のイメージを決定的なモノにした。(注:タイトル『V』は、ビジター=訪問者の意で、実は侵略者という意味はない)
 このTV映画シリーズは、その後84年から85年にかけて続編となる全19話のTVシリーズが製作され、2009年にはケネス・ジョンソン自身の手でリメイク版のTVシリーズが製作、OAされているほど、現在でも非常に高い人気と評価を得ている作品である。(注:ただし、2009年版は視聴率低下のためサード・シーズン途中で打ち切りになった)
 この作品に端を発するかのごとく、映画やTVで描かれる宇宙人は、そのほとんどが侵略者として描かれるようになった。
 TVシリーズ『V』に先立って公開された『エイリアン』シリーズ(注:1作目は79年公開)や、後にそのエイリアンと闘う事になる『プレデター』(88年)を例に持ち出すまでもなく、80年代はSF映画全盛期であったが、描かれる宇宙人は常に“人類の敵”だった。
 90年代に入ってもこの傾向は続き、94年公開の『インディペンデンス・デイ(ID4)』でそのイメージは決定的なモノになった。
 元々、ドイツで映画を学んでいた監督のローランド・エメリッヒは、77年公開の『スターウォーズ』を観て、SF映画の製作を熱望するようになる。(注:当時はまだ芸術映画が全盛だったドイツでは、SFばかり観ているエメリッヒは映画学校の同級生たちからバカにされていたそうだ)
 アメリカに渡ったエメリッヒは、ジャン・クロード・ヴァンダム、ドルフ・ラングレンという2大アクションスターが豪華競演したSFアクション、『ユニバーサル・ソルジャー』をヒットさせ、続く『スターゲイト』では初めて侵略者としての地球外生命体を描いた。
 そして、その路線をそのまま継承して製作したのが、『ID4』である。
 ビッグスターが豪華競演した事でも話題になったが、宇宙人の圧倒的な武力の前になす術がない人類は、しかし世界中が一致協力して宇宙人と戦う姿を描き、また『宇宙戦争』や『V』を踏襲しつつも90年代に合わせてひねりを加えた劇的なクライマックス(注:『宇宙戦争』も『V』も、宇宙人を倒したのは人類ではなく原始的なウィルスだった。 『ID4』では、これを“現代のウィルス”であるコンピュータウィルスに置き換えている。 エメリッヒは、このアイディアを「『宇宙戦争』の影響」だと認めている)に、観客は熱狂した。
 そして、何より当時『ターミネーター2』と『ジュラシックパーク』によって映画界を席巻したデジタル革命によるVFXは、凄まじい迫力で観客を圧倒した。
 映画は世界的な大ヒットを記録し、エメリッヒをヒットメーカーの地位に押し上げた。
 これと前後して、93年にOAがスタートしたTVシリーズ、『X‐ファイル』は、2002年までに全9シーズン、実に全200話以上(注:プラス劇場版。 2009年には、アフターストーリーとなる劇場版2作目も製作、公開されている)が製作された近年のアメリカTVドラマでは最長寿クラスのシリーズだが、いわゆるロズウェル事件に端を発するUFO現象とアメリカ政府による宇宙人密約説、そして、未解決事件を集めたFBIの捜査ファイル(注:実際に、FBIにはX‐ファイルに相当する未解決事件ファイルがある。 が、飽くまでも“未解決事件”であって、それが必ずしも超常現象とは限らない)を組み合わせ、UFOのナゾを追うFBI捜査官を主人公にしたTVシリーズである。
 シリーズのメインストリームである宇宙人密約説を中心にしたエピソード群(注:原案、製作総指揮のクリス・カーターは、これを“ミソロジー・シリーズ”と呼んでいる。 Mythは“神話”の意)では、ロズウェル事件をキッカケに、宇宙人は地球を植民地にしようとする。 アメリカ政府は宇宙人と密約を交わし、一部の人間を助ける代わりに宇宙人によるアブダクトやキャトル・ミューティレーションを黙認。 植民地化にも同意する。
 宇宙人の高度な科学力の前に、アメリカ政府はなす術もなく降伏したワケだ。
 そこに、待ったをかけた一部の勢力(影の政府)により、宇宙人のウィルス(ブラックオイル)のワクチンを製造するための時間稼ぎ工作が始められ、さらにこれとは異なる宇宙人勢力(エイリアン・アサシン)まで現れて事態は複雑化するばかりだが、そこに割って入ったのが、デイヴィッド・ドゥカブニー扮するフォックス・モルダーと、ジリアン・アンダーソン演じるダナ・スカリーという二人のFBI捜査官だった。
 プロットが非常に複雑極まりないが、ともかく侵略者としての宇宙人というフォーマットは変わる事なく、このTVシリーズにも継承されているのは確かだ。
 80年代から90年代の宇宙人モノのSF映画は、コメディではあるが『マーズ・アタック!』(96年)や『メン・イン・ブラック』(97年)のような作品も含めて、このようにエイリアン・インベージョン=宇宙人の侵略が描かれるばかりであった。


・ファンタジックSF

 しかし、それとは対極にあったのが、80年代から90年代にかけて公開されたスピルバーグ作品とその影響下にあるいくつかのSF作品群である。
 1982年、前年に『レイダース‐失われた聖櫃』を大ヒットさせたスピルバーグは、再び人類と宇宙人とのファンタジックな交流を描いた作品を制作する。
 公開後、空前の大ヒットを記録する事になる『E.T.』である。
 本作の制作中、カルロ・ランバルディがデザインした宇宙人に幼い頃に妄想した空想の友達のイメージが重なったスピルバーグは、宇宙人と少年の心温まるファンタジックな友情物語を構想。 『レイダース‐失われた聖櫃』でアソシエート・プロデューサー(注:“共同製作”とよく間違われるが、正確には異なる役職。 どちらかと言えば、“製作協力”と言った方が近いニュアンスと思われる。 共同製作の方は、コーポレート・プロデューサーと呼ばれる)を努めたキャスリーン・ケネディ(注:後に、スピルバーグの重要なパートナーとしてほとんどの作品で製作を努める。 近年は、アンブリンの重役として製作総指揮としてもクレジットされる事が多い)と共に映画化に向けた準備作業を開始した。
 脚本を手がけたメリッサ・マシスン(注:本作公開後の83年に、インディ・ジョーンズを演じたハリソン・フォードと結婚している。 『E.T.』には、実はカットされたフォードのカメオ出演シーンがあり、これが二人の出会いのキッカケになったようだ)は、しかし最初はスピルバーグのオファーを固辞していた。 共同脚本として共著で脚本を手がけた事はあったが、単独では経験がなかったため自信がなかったのだそうだ。(注:ちなみに、一応スピルバーグも製作としてクレジットされているが、ケネディも単独で製作を務めるのはこの作品が初めてだった)
 しかし、スピルバーグとケネディに説得され、マシスンはしぶしぶオファーを受ける。 が、実際の執筆作業はとんとん拍子に進んだ。
 ウィークデイにスピルバーグのアイディアを基に脚本を書き、週末にスピルバーグとミーティングを行って修正しつつ続きを書く。 これを、都合8週間続けたマシスンは、脚本の第1稿を書き上げた。
 スピルバーグは、これを一発で気に入り、撮影中に微細な手直しはあったモノの、第1稿がそのまま最終決定稿になった。 ハリウッドとしては異例な事である。(注:ハリウッド映画の脚本は、撮影開始までに二桁に達する改稿が行われる事も稀ではない。 しかも、撮影中からポス・プロになっても脚本が変更される事も少なくない)
 宇宙から飛来したUFOに乗って地球にやってきた宇宙人、ETは、地球の植物を採取するのが目的だったが、現地の地球人に見つかりそうになったため、逃げ回っている内に乗ってきた仲間たちはUFOに乗ってさっさと逃げてしまう。 取り残されたETは、しかしヘンリー・トーマス扮するエリオット少年と出会い、二人の間に友情が芽生える。
 まさに本作でスピルバーグが描いた“We are not alone”を発展させ、地球人と宇宙人に友情が芽生える事を明確に描いたこの作品に、世界中の観客が涙を流し、その温かな友情に感動した。
 結果、約1000万ドルという当時としても低予算に分類される総製作費で製作されたこの作品は、アメリカ国内だけで4億3500万ドル(!)、海外収益も含めると、実に8億ドル以上(!?)という驚異的なセールスを記録し、当時の世界歴代興行収益記録を樹立するに至った。
 2002年には、映画公開20周年を記念して、当時技術的な問題から特殊効果が未完成のままお蔵入りを余儀なくされたシーンを追加した特別編が製作され、ソフト版のリリースと共に劇場公開もされた。
 現在も、この作品はスピルバーグの代表作の筆頭に挙げられるほどの人気と知名度を誇り、今もなお、多くのファンを魅了している作品である。
 この作品で明確に描かれた“We are not alone”というテーマは、現代にも通用するテーマなのだ。
 1985年に公開された『コクーン』もまた、地球人と宇宙人のファンタジックな交流を描いた良作である。
 とある老人養護施設のプールに突如現れたコクーン(注:“繭”の意)には不思議な力があり、このプールで泳いだ老人たちは若返ったようにみるみる元気になっていく。 が、実はこのコクーンは宇宙から飛来した宇宙人の繭だった。 老人たちは、これを回収に来た宇宙人たちと未知との遭遇を果たす。
 かつて、『アメリカン・グラフィティ』に役者として出演していたロン・ハワードが監督したこの作品は、往年の名優ドン・アメチーやヒューム・クローニン、ジェシカ・タンディらがこぞって出演した事でも話題になったが、実は製作を手がけたのが、『続・激突!‐カージャック』と『ジョーズ』でスピルバーグと組んだデイヴィッド・ブラウンとリチャード・D・ザナックである。 この作品は、ルーカスとスピルバーグの間接的なコラボレーション作品でもあったりするのだ。(笑)
 それ抜きにしても、この作品でも老人たちと宇宙人たちとのファンタジックな交流が描かれ、侵略者としてではない、良き隣人としての宇宙人が描かれ、そこには“We are not alone”というテーマが見え隠れするのである。
 1987年には、スピルバーグの原案を映画化した『ニューヨーク東8番街の奇跡』(注:原題は『*Batteries not Included』。 “電池は含まれません”という、電気製品の注意書きをもじったモノで、アスタリクス=“*”も含めモノが正式タイトルなのだそうだ)が公開されている。
 再開発で住人の立ち退きが始まったニューヨークの東8番街に、手のひらサイズの奇妙な飛行物体が出現。 アパートの住人たちとの交流を通じ、友情を育んだ彼らは、住人たちを守るため奮闘する。
 本作において、ノンクレジットでスピルバーグの脚本執筆に協力したマシュー・ロビンスが、スピルバーグの原案を基に脚本の執筆と共に監督を務めたこの作品は、先の『コクーン』にも出演していたジェシカ・タンディやヒューム・クローニン(注:ちなみに、この二人は42年に結婚している)が出演し、言葉が話せない宇宙人(注:と言うより、宇宙人のロボットと言った方が正しいかもしれない。 地球を観察するために送り込まれた、AIを搭載した無人偵察機だったのではないかと筆者は考えている)たちとの交流は、ファンタジックで心温まる、“街角の小さな奇跡”といった様相である。
 しかし、そこにはやはり地球人と宇宙人の友情が描かれ、“We are not alone”のテーマが垣間見えるのである。
 以上の3作品は、“We are not alone”のテーマを描いた数少ない80年代のSF映画の中でもヒットした作品だが、89年公開の『アビス』は、残念ながら失敗作になってしまった。
 77年の『スターウォーズ』は、その後のヒットメーカーに多大な影響を与えた作品であるが、『アビス』を監督したジェームズ・キャメロンもまた、影響を受けた一人である。 キャメロン自身は、『スターウォーズ』に「先を越された!」と思ったそうだ。 そして、映画を観たその翌日、キャメロンは当時務めていた運送会社を辞めた。 そして、映画業界に飛び込み、美術などで下積みを続けた。
 念願叶って、82年に『殺人魚フライングキラー』というB級イタリアンホラーを監督するも、イタリアの水が合わず高熱にうなされる大病を患い、撮影半ばで監督を降板。 映画は、後任の監督によって完成され公開されている。
 84年、低予算ではあったが、映画『ターミネーター』でようやく高い評価を得たキャメロンは、86年の『エイリアン2』が大ヒットし、スタジオからの高い評価と信頼を得る。
 そうして89年、自身の20年来の構想を実現すべく製作したのが、件の『アビス』である。
 深海を超高速で移動するナゾの物体と遭遇したアメリカ軍の原子力潜水艦は、しかしこれが原因で沈没。 核ミサイルを搭載したまま海の底に沈んでしまう。
 これに憂慮したアメリカ海軍は、核ミサイルを早急に回収すべく、周辺海域で採掘作業に従事していた海底油田採掘基地に協力を要請。 軍と民間の協力による回収作業が開始された。
 が、回収に向かった彼らは、アビス=海溝の淵で未知との遭遇を果たす。
 この作品では、深海に住むNTI(注:Not Terrestrial Inteligence=地球のモノではない知性の意。 『E.T.』という名称だと著作権の問題が発生する懸念があったため、キャメロンはそれとは異なる名称を考える必要があった)は水をコントロールするテクノロジーを有しており、巨大なハリケーンを発生させ、高さ数百メートルにも及ぶ超巨大津波を使い、殺し合いを止めない人類に警告に来た存在として描かれ、一見するとかつての『地球の静止する日』のクラトゥを想起させる“敵にも味方にもなる存在”のように思われるが、クライマックスではエド・ハリス扮するバッドに彼の言葉を借りて「愛してるよ、奥さん。」と親愛の情を見せている。 映画『地球の制止する日』のクラトゥがそうであったように、NTIもまた、決して人類を嫌っているからそうしたのではなく、自分たちが人類の良き友人になれる事を示し、人類を“正しい道”に導くべく警告に来た存在なのである。
 その裏には、やはり“We are not alone”のテーマがしっかりと存在しているのである。
 ……しかし、映画は当時史上最大規模の6950万ドル(注:追加予算込みで。 ただし、当初の予算であった5000万ドルも、当時最大規模であった)という破格の総製作費をつぎ込んだ超大作は、ILMによる本格的なCGIを導入したシーンもあって話題になったが、深海の閉鎖された空間で起こる心理サスペンスで始まった映画が、クライマックスになって突如ファンタジックSFになるという展開が当時の観客に受け入れられず、国内収益は赤字を出す失敗作になった。(注:その後の海外配給で黒字に転じたが、合計9000万ドル程度と期待したほどの収益にはならなかった)
 しかし、その後のソフト版のリリースで再評価され、約30分に及ぶ未公開シーンを追加した完全版もソフト版で再リリースされた。
 現在では、「やっぱりキャメロンはスゴかった!」と評価を改められている。
 以上のように、80年代のSF映画の中でも“We are not alone”のテーマをベースにした地球人と宇宙人のファンタジックな交流を描いた作品はあるにはあるが、上記の4作品“のみ”と言って良いほど、作品数は少ない。
 これ以外のSF映画は、エイリアン・インベージョンか、あるいは宇宙人やUFO現象とは全く関係のない作品のどちらかであった。


 しかし、“We are not alone”のテーマが失われたワケではない。 90年代以降も、数作の同系統の作品が制作、公開され、そのほとんどが一定の評価を得る良作揃いである。
 中でも、97年公開の映画『コンタクト』は、1、2を争う名作だ。
 スピルバーグも出資した事がある地球外知的生命体探査計画、SETIで宇宙人探索を続けるエリー(ジョディ・フォスター)は、ある時地球外から発せられたナゾの信号を聴く。 それは、何者かが意図的に送信していたある装置の設計図だった。
 アメリカ政府が中心となり、国際的な一大プロジェクトとして建造された装置に乗り込んだエリーは、そこで未知との遭遇を果たす。
 元々、本作のテクニカル・アドバイザーを務めたハイネック博士と並んで天文学者としてNASAでアポロ計画の宇宙飛行士のトレーナーを務めた事もある宇宙科学の権威であったカール・セーガンは、76年から著作を開始し、10年後の86年に発表したのが、この作品の原作となった同タイトルのSF小説だった。
 当時、『ロマンシン・ストーン‐秘宝の谷』(84年)と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年)で一躍ヒットメーカーになった監督のロバート・ゼメキスは、この小説を気に入り映画化を熱望する。
 しかし、当時の技術では撮影不可能なシーンが多く、映画化は断念された。
 90年代に入り、デジタル革命によって映画化の可能性が高くなり、加えて『フォレスト・ガンプ‐一期一会』が世界的大ヒットを記録し、企画を通しやすくなったゼメキスは、原作者のセーガン自身を共同製作に迎えて映画製作をスタートさせた。
 ……しかし、セーガンは完成した映画を観る事はなかった。
 映画製作中の96年12月、骨髄異形成症候群(注:正確には違うが、白血病の一種)のため他界。 62歳だった。 映画には、ラストシーンに“for Carl(カール・セーガンに捧ぐ)”の一節が添えられて公開された。
 この作品は、明らかに本作の影響を受けている作品である。
 テーマである“We are not alone”も去る事ながら、本作ではスピルバーグの「もっとドラマティックにしたい」という希望で音楽に置き換えられた数学をそのまま数学として使用し、ファンタジー色が強かった本作を、政治的、経済的、あるいは宗教的見地からよりリアルな“科学的根拠に基づくSF”として、地球人と宇宙人の“コンタクト”を描くのに成功した作品である。
 残念ながら、総製作費9000万ドルの超大作映画としては、世界興収1億7100万ドル程度という“大ヒット”とは言えない収益ではあったが、個人的には“We are not aloneのテーマを描いた90年代唯一の映画”と評価している。
 このように、本作公開後の宇宙人が登場する映画、あるいはTVシリーズは、本作と方向性を同じくするファンタジックSFか、そうでなければエイリアン・インベージョンという二極化した状況が90年代終わりまで続く事になった。
 こうなった理由の一つに、エイリアン・インベージョンの方が娯楽性が高い、すなわち一般の観客にウケ易い映画にし易いという点が指摘出来る。 本作のような、芸術性の高い作品は映像的なスゴさは理解出来ても、テーマが格調高過ぎて理解され難いという欠点がある。 が、エイリアン・インベージョンならば、多くのアクション映画と同じく“正義が悪を打ち負かす”という単純で分かり易い展開で、しかも爽快なクライマックスなので観客ウケし易いからだ。(注:誤解がないように記しておくが、筆者は何もこういった作品が悪いと言っているワケではない。 前記した作品は、全て筆者も大好きな作品ばかりである。 優劣の問題を述べているのではなく、単に考え方の違いを述べているに過ぎない事を改めて強調しておく!)
 このテーマは、描くのが難しいテーマなのだ。
 ヘタに描くと、本作のパクリと思われかねないしね。
 しかし、00年代に入ると、この二極化の様相が微妙に変化し始める。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


月人の正装(?)。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 ぬおおおおぉぉぉぉおおおおぉぉッッ!! これこそLunaちゃんに着せるべきだった! 肩出しナマ脚がたまりません!(じゅるり)



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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194.Watch the Skies:第6章①

2012年05月06日 | Watch the Skies

-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #17-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 GW後半戦、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
 ……ってゆーかさ、前回のオープニングネタで、僕書きましたよね? 「事件事故には気を付けて下さい」って。
 なのに、言うが早いかなんであんな事故が起きるかなぁ!? 単独事故では犠牲者数最大って! つか、長距離ドライバーの1日の走行距離上限が670kmってナニ!? 下道と高速併用で平均時速60km/hとしても12時間労働じゃん。 明らかに労働基準法と矛盾してるだろ!
 こーゆーのを“お役所仕事”っつーんだよ。
 ……ね? これが現実なんですよ。 以前タイタニックの時に書いた通り、結局現代人は何にも学んでないんですよ。
 ホント、連休になると必ずこーゆーコトが起きる決まりになってるんですから、皆さんもどうか、どうかお気をつけ下さいね? くれぐれも。
 亡くなれた方のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ、第17回です。
 今週も、最後までお付き合い下さいませませ。


第6章:解析

 さて、僕は序章にて、「この映画にはナゾが多い」と記した。
 そして、本書のココまでの各章で、この“ナゾ”のいくつかを解明してきた。 が、ココまでは、正直調べれば誰でも分かる事である。
 本作のファンであれば、誰でも知っているような事ばかりである。
 しかし、本書は“アルティメット・アナライズ”を名乗るモノである。 この程度の、“誰でも知っているような事”を語っただけでは、これを名乗るには不十分だ。
 というワケで、この章では筆者独自の解釈を交えつつ、本作の最大の“ナゾ”である本作のテーマと、監督スティーヴン・スピルバーグがこれほどまでに本作にこだわる理由を解析してみようと思う。
 筆者独自の解釈を交えている関係上、思わず反論したくなるような論述が含まれているかもしれないが、とりあえず読んでみて頂きたい。


1.We are not alone

 そもそも、本作はいわゆる“宇宙人モノ”に分類されるSF映画の中でも、極めて特殊な作品である。 何故なら、本作の先にも後にも、本作と同じように“We are not alone”をテーマにした作品は、実はほんの一握りしか存在していないからだ。
 では、それ以外の作品はいったいどんな作品なのだろうか?
 そう、いわゆる“宇宙人モノ”と呼ばれる映画作品は、そのほとんどが“エイリアン・インベージョン”がモティーフになっているのだ。


・プレ『未知との遭遇』

 そもそも、映画の中で宇宙人が描かれたのは驚くほど古く、最古のSF映画と言われる『月世界旅行』(1902年)において、既に地球外生命体が描かれている。
 この映画を撮ったフランス人監督(注:兼制作、脚本、主演)のジョルジュ・メリエスは、元々奇術師であった。
 ある時、メリエスは映画の撮影中に起こったトラブルでカメラが止まってしまうというアクシデントに遭うが、この時撮影されたフィルムを確認してみたところ、セットから今までそこに居たハズの人物が突然消えるという現象を“発見”する。
 この瞬間、“トリック撮影”という映画ならではの表現技法が生まれた。
 それは、まさしく“発見”であった。
 この技法を使って、メリエスはジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズの小説に着想を得て、6人の科学者がバカデカい大砲でヒトが乗った砲弾を打ち上げて月へ行くという内容の映画を制作。 それが、この『月世界旅行』である。
 この作品では、当時まだ未熟だった科学力のため、非科学的な描写が映画全編に渡って散見(注:科学者たちは、宇宙服すら着ていない)されるモノの、“宇宙へ行く”という人類の夢を、ユーリ・ガガーリンに先立つ事60年も前に初めて映像化した作品である。
 この作品の中で、メリエスは月の地下には月人が住んでおり、文明を築いているという展開にしている。
 しかし、この月人はあまり友好的な生命ではなく、地球人がやってきた事に腹を立て、彼らを捕らえてしまう。 そして科学者たちは、月人と戦って命からがら地球に帰還するのである。
 そう、映画黎明期の当時にあって、宇宙人は既に、人類の敵だったのだ。
 1929年、名作『メトロポリス』(1927年)を監督したフリッツ・ラングは、当初『メトロポリス』に盛り込むつもりだった“宇宙へ行く”という人類の夢を独立させた世界初の“科学的根拠に基づくSF映画”、『月世界の女』を監督する。
 この前年に『スピオーネ』(28年)という作品でなんとか名声を取り戻していたモノの、映画『メトロポリス』の興行的大失敗を挽回すべく企画されたこの作品は、当時“月の裏側には空気がある”という学説(注:月は、自転周期と公転周期が一致しているため、地球に対して常に同じ面を向けて周っている衛星である。 そのため、当時は月の裏側は観測不可能な完全に未知の領域だった。 そのため、このような学説も信じられていたが、ラングは宇宙服を着た役者たちの演技、特に表情を撮る事は不可能と判断し、宇宙服のヘルメットを着ける必要の無いこの学説を使う事を決めたそうだ。 ちなみに、低重力は既に一般的に浸透していたため、映画では靴にオモリが付いているという設定になっている)を支持し、この学説を唱えていたドイツ人科学者、ヘルマン・オーベルト博士(注:元々はロケット開発に携わる科学者で、後にICBM=大陸間弾道ミサイルの原型になったナチスドイツの新兵器、V2ロケットの開発にも携わった)をテクニカル・アドバイザーに迎え、妻で脚本家のテア・フォン・ハルボウと共に、この作品の脚本を執筆。 5人の男女(プラス、少年ひとり)が新開発のロケットで月に行って金鉱脈を探す(注:これも、当時信じられていた学説の一つ)という構想を形にした。
 この作品では、宇宙人は全く登場していないモノの、人類が宇宙へ行くという夢が描かれ、そしてそれが極めて危険を伴うモノである事を初めて示した映画作品であった。
 科学的論拠云々はさておいても、この作品における人類の宇宙への憧れ、そしてそれが大変な危険を伴うモノで、しかしそうであるが故に主人公とヒロインの絆が深まるという展開は、一本の映画作品として今観ても感動的で素晴らしい作品である。
 この2つの作品からも分かるように、映画黎明期から既に、人類は宇宙へ行く事は可能だと信じており、そこには未知との遭遇がある事を確信していた様子が伺える。
 が、戦後になると、人類は宇宙への見果てぬ夢を現実に重ね、宇宙に恐怖を抱くようになっていく。
 それを決定付けたのが、映画『地球の静止する日』(51年)と『宇宙戦争』(53年)である。


 1945年、世界が“地獄を見た”第二次大戦は6年の歳月を経てようやく終結し、世界に再び平和が訪れるハズだった。
 しかし、その直後に起こった朝鮮戦争(1950年~1953年)により、第二次大戦の戦勝国同士であったアメリカとソ連(注:現在のロシア)の対立は決定的なモノになり、両国は武力衝突を伴わない間接的な戦争へと突入していく。
 冷戦の始まりである。
 東西冷戦構造は、政治のみならず経済や市民生活にも多大な影響を与えたが、ハリウッドを中心とした娯楽産業としての映画にも、決して少なくない影響を与えた。
 40年代後半から50年代前半にかけての冷戦の焦点は、“何は無くとも核兵器”であった。 相手より強力な兵器を保有している事をアピールするために、米ソ両国は核兵器開発に勤しんだ。
 特に、既に太平洋戦争においてヒロシマ・ナガサキ型原爆の開発に成功していたアメリカは、ネバダ州の砂漠地帯や、太平洋のビキニ環礁などを実験場にして、合計実に200回以上(!)にも及ぶ核実験を繰り返した。
 一方ソ連は、最初の核実験を何とか成功させるも、その後の開発は停滞を続け、核実験は失敗を繰り返した。 ただし、この失敗の連続はひた隠しにされ、ソ連は西側諸国に対し、強力な核装備があると思い込ませる事に成功する。
 結局、この事実は冷戦終結まで隠蔽されたが、これによって後のキューバ危機にまで発展するほど、米ソ両国の緊張は高まり続けた。
 1950年代初頭には、両国の間でいつ、核戦争が勃発しても不思議ではない情勢になっていた。
 この東西冷戦構造を背景に制作されたのが、『地球の静止する日』である。
 アメリカの首都、ワシントンDCに突如現れたナゾの飛行物体。 降り立ったソレから姿を現したのは、宇宙服に身を包んだ宇宙人クラトゥと、二足歩行型ロボットのゴート。 彼らは、「人類に警告しに来た」と言い、世界各国の指導者達との面談を要求した。
 敵か?味方か? そして、彼らの本当の目的とは……!?
 1951年、当時、SF映画は子供向けの売れない映画でしかなかった時代に、脚本家のエドマンド・H・ノースと監督のロバート・ワイズ(注:後に、61年の『ウェスト・サイド物語』や65年の『サウンド・オブ・ミュージック』を手がける事になる名匠。 スピルバーグを「将来有望な若者」と紹介されたマイケル・クライトン原作の71年版『アンドロメダ...』もこの人の仕事)は、宇宙人の視点を通して人類の文化と善意の素晴らしさを説き、反戦と核廃絶を訴えた極めてメッセージ性の高い作品を構想。 20世紀フォックスの配給により公開された映画は、SF映画が子供向けの売れない映画ではなく、脚本によって名作になり得る事を証明した初めての作品になった。
 現在も、多くのカルトファンを魅了しているこの作品は、1950年代という冷戦による核戦争勃発の危機を背景にしているのは明白で、これをそれとは一見無関係に見える宇宙人という立場を使って反対意見を唱えるという大胆なプロットは、しかし今観ても非常に考えさせられる作品であり、2008年に現代風にアレンジしたリメイク版が制作されたのも頷ける名作である。
 だが、それと同時にこの作品は、宇宙人が人類の態度次第では味方にもなるし敵にもなる事を示唆しており、宇宙人が必ずしも人類の友になるとは限らない事が描かれている。
 リメイク版の2008年版では、テーマを変えた事でこれがさらに明確に表現されているほどだ。(注:詳しくは後述)
 そして、このイメージを決定付けたのが、53年版の『宇宙戦争』である。
 突如宇宙から飛来したナゾの落下物。 そこから現れたのは、人類が創造したとは思えない奇妙なマシーン。 慄きつつも、興味津々でこれに接近する人々は、しかしこのマシーンが放った光線によって一瞬のうちに殺されてしまう。
 世界中で同様の現象が多発し、人類対宇宙人の生き残りをかけた戦争が始まった!
 敏腕プロデューサーとして名を馳せたジョージ・パルは、H・G・ウェルズ原作のこの作品の映画化に情熱を注いだ。
 同作品は、既にオーソン・ウェルズによって一度ラジオドラマ化されており、原作も確かにベストセラーだったが、映像化に挑んだのはこれが最初だった。(注:この辺りの詳細については、2009年3月20日付の筆者ブログ記事『035.We are not Alone』を参照の事)
 当時ほとんど無名だったジーン・バリーとアン・ロビンソンを主演に迎えた本作は、しかし当時最高峰の特殊効果が高く評価され、特殊効果賞でオスカーを獲得(注:これ以外に、編集賞と録音賞でノミネートされている)し、それまでオスカーとはあまり縁がなかったSF映画が、オスカーを狙えるジャンルである事を示した初めての作品であった。
 もちろん、興行的にも成功を収め、現在でもデニス・ミューレンやジョー・ダンテ(注:映画監督。 スピルバーグ製作総指揮の『グレムリン』がつとに有名)、そしてスピルバーグに至っては、2005年に自らの手でリメイク版を制作(注:スピルバーグ唯一の“リメイク版”作品)するほどの影響を与えている作品である。
 CGIがなかった当時としては、特殊効果の完成度は非常に高く、トライポッドが街を破壊していくミニチュア撮影のショットは、今観ても圧巻の一言である。
 また、それまで文章や音声だけでヴィジュアルイメージがあまり明確でなかった原作の宇宙人を初めてデザインし、原作のヴィジュアルイメージを決定付けた作品でもある。(注:スピルバーグによるリメイク版でも、このヴィジュアルイメージはアレンジしつつも正統に継承されている)
 しかしこの作品では、宇宙人は明確に人類の敵として描かれている。
 友好的な態度を一切見せる事のない、情け容赦ない完全無欠の“悪”としてしか描かれておらず、可能性すら、描かれてはいない。
 これが、50年代当時のアメリカ市民から見た世界観だった。
 飛来した宇宙人は、まさに冷戦構造を背景にアメリカに攻め込んで来たソ連軍、そのモノだった。 この映画が現実になる事を、人々は心底恐れていたのだ。
 このように、冷戦構造に影響を受けたハリウッド映画産業は、人々の危機感を煽るような侵略者としての宇宙人=ソ連軍のメタファーを描くか、そういった時代背景とは関係の無い、『十戒』や『ベン・ハー』(58年)といった宗教を背景にした時代劇を作る事しか出来なかった。
 東西冷戦構造は、このように極めて多大な影響を映画産業にも与えていたのである。
 ……が、この様相が60年代に入って微妙に変化していく。
 東西冷戦構造の焦点が、核兵器から“核兵器を確実に目標に命中させる技術”としての宇宙開発へとシフトしていったからだ。
 そんな中で制作され、今もなお“歴史的金字塔”となっている超名作映画が、『2001年‐宇宙の旅』である。


 1960年代は、しかし冷戦という時代背景とは裏腹に、『ピンクパンサー』シリーズ(1作目は63年制作)のようなスラップスティックコメディが頻作され、『メリー・ポピンズ』(64年)、『サウンド・オブ・ミュージック』(65年)、『チキチキ・バンバン』(68年)、そして『屋根の上のバイオリン弾き』(71年)へと続くミュージカル映画がブームになった時代である。
 また、現在もシリーズ最新作の公開が待たれている『007:ジェームズ・ボンド』シリーズが誕生したのも、この時代である。(注:シリーズ1作目は62年誕生。 今年2012年に、丁度50周年の節目の年を迎える)
 底抜けに明るく、腹の底から大笑い出来、正義の主人公が悪の親玉をブッ倒す痛快なクライマックスを有するこれらの映画が、大衆の支持を得ていった。 あるいはそれは、冷戦という暗い時代にあって、しかし映画の中でくらい明るい世界を観たかったからなのかもしれない。
 そして、これを支えたのがジョン・F・ケネディ大統領の存在である。
 1961年、アイゼンハワーの後任を引き継いで第35代大統領に就任したケネディは、理想実現の情熱を熱く語る人物であった。
 就任当時44歳。 歴代大統領の中でも最年少クラスのこの若き大統領に、アメリカ国民は大きな期待を寄せていた。
 実際、ソ連に遅れを取っていた宇宙開発事業を推進し、NASAの予算を増加させ、月面着陸計画=アポロ計画を打ち出して「10年以内に人類を月面に立たせる」と宣言したのは、紛れもないケネディ自身である。(注:そして、それが本当に実現してしまう)
 現在でも、ケネディが歴代大統領の中でも1、2を争う人気を得ているのは、もちろん悲劇的な最期を遂げたというのもあるだろうが、彼の理想主義に共感する人が多いというのが、その最大の理由であるように思う。
 1963年、遊説先のダラスでのパレード中、ケネディは暗殺されてしまう。 アメリカ中が、その死に深い悲しみに包まれ、涙に濡れた。(注:あまりにも有名なあの暗殺の瞬間を捉えた映像は、全米中に生中継されたのみならず、海外にも衛星中継されていた。 日本でもこれは観る事が出来たが、この映像が日本初の衛星受信放送だった)
 副大統領を務めていたジョンソンが大統領に就任し、ケネディの意思を引き継いで彼の理想実現に向けて政策を推し進めたが、ココで思わぬトコロから飛び出した問題に足元を掬われる事になる。
 それは、東南アジアから。
 そう、ベトナム戦争である。


 既に、1960年から民主化勢力の南ベトナムと共産化勢力の北ベトナムの対立は、本格的な内戦の様相を呈していた。 そして、それぞれの勢力に軍事顧問として協力していたのが、アメリカとソ連であった。
 ベトナム戦争は、そのままアメリカとソ連の対立が生んだ代理戦争であった。
 1965年になると、両勢力の対立は深刻化し、ジョンソンはいよいよアメリカ軍の直接的な軍事介入に踏み切る。 ベトナムを、アジアにおける自由主義陣営の最前線基地にするためには、この戦争に勝つ事が必須事項だった。
 同時に、アメリカ国内では黒人差別問題が深刻化していった。
 かつて、リンカーンが宣言した奴隷解放から100年を経過したにも関わらず、黒人差別はなくなるドコロか逆に強くなるばかりだった。
 そこへ現れたキング牧師は、黒人の公民権運動の指導者として絶大な支持を集めていく。
 しかし、それと前後して現れたマルコムXを始めとした黒人至上主義者たちの台頭により、黒人たちは自らを守るために武装組織まで結成し、黒人差別問題は、最早内戦の様相を呈するまでに深刻化する。
 LAでは、毎年夏になると、毎週のように黒人暴動が発生し、多数の逮捕者と死傷者を出した。
 一方ベトナムでは、アメリカの軍事介入によって事態はさらに悪化した。 ソ連との軍拡競争によって肥大した最新兵器で武装したアメリカ軍に対し、軍事力の劣る北ベトナムの解放戦線は、いわゆるゲリラ戦術でアメリカ軍を翻弄した。 加えて、東南アジア特有の熱帯気候に慣れていないアメリカ軍の兵士は体調不良が続出し、精神的にも肉体的にも疲弊するばかりだった。
 そして、戦場の様子は衛星中継によってほぼリアルタイムにアメリカ国内へとその映像が配信され、アメリカ軍の非人道的な虐殺行為が明るみになると、大衆はジョンソン政権への不信感を募らせていった。
 ベトナムと黒人問題。
 この2つの大きな、まるでクモの巣のようにネバつく問題に絡め取られたジョンソンは、最終的に再選を断念する。
 1968年、再選を断念したジョンソンに代わって大衆の支持を集めたのは、あのケネディ大統領の弟、ロバート・ケネディだった。 同年の大統領選に出馬したロバートは、各地の予備選挙で連戦連勝を重ねていく。
 ……が、ロバートは大統領にはなれなかった。
 兄と同じく、ロバートもまた、暗殺の凶弾に倒れる事になった。
 そうして、新しい大統領に就任したのが、“あの”リチャード・ニクソンであった。


 このように、1960年代のアメリカは暗黒時代と言っても過言ではない最悪の時を迎えていたが、先にも記したように、人々はこぞって明るい映画を観に行き、映画を観ている間だけでも、暗い時代を忘れて楽しもうとしていた。
 そして大衆の欲求は、それまで侵略者としての宇宙人を描いていた宇宙モノのSF映画にも大きな影響を与える。
 そうして公開されたのが、『2001年‐宇宙の旅』である。
 今や映画界の伝説的巨人になった巨匠、スタンリー・キューブリックと、SF作家のアーサー・C・クラークの共著によって脚本が書かれ、1965年に制作が開始されたこの作品は、翌66年にはいわゆる主要撮影を終えている。 が、同時に始まったポス・プロにおいて、トランブルやユーリシッチも参加した特殊効果の制作が遅れに遅れ、これだけで1年半もの時間を費やす事になった。
 結果、当初450万ドルだった予算は次から次へと追加予算が申請され、最終的に1050万ドル(!)にまで膨れ上がった。
 当然、スタジオ側はこれに腹を立て、未だに映画を完成させないキューブリックをせっつき、公開を急がせた。 キューブリックはこれに応じ、なんとか映画を完成させ、68年になってようやく公開した。(注:それでも、キューブリックはまだ「撮り足りない」と漏らしていたとか)
 公開された映画は、その鮮烈な特殊効果が極めて高く評価されたが、しかしチケットの売り上げは低迷した。 いきなり数百万年も時間が飛ぶ、登場人物の設定やセリフが分かり難い、ラスト15分はセリフすらなく、意味不明な映像が続くなど、極めて難解なストーリーは、コメディやミュージカル映画に慣れた当時の観客には全く理解されなかった。 批評家の中には、「助長で退屈」と痛烈に批判した者も少なくなかった。
 しかし、時間が経つにつれ、その評価が次第に変化していく。
 難解な中にも奥深いメッセージが隠されたこの映画に、大衆は次第に魅了されていくようになる。
 最終的に、映画は海外配給も含めて5600万ドル以上を売り上げるヒット作になった。
 現在でも、この作品はSF映画の金字塔として多くの信奉者を魅了し続けている。
 さて、この『2001年‐宇宙の旅』は、しかし正確には宇宙人とは関係のない作品である。 宇宙での生活を実現した人類社会が描かれているが、映画には正確な意味での宇宙人は登場しないからだ。
 もちろん、解釈の一つとして、あのモノリスが地球外生命体によって作られたモノで、“行き過ぎた科学は魔法と見分けが付かない”オーバーテクノロジーによって人類に叡智を与えた神と解釈すれば、ボーマンは神=宇宙人によって選ばれた時間と空間を超越した存在=スター・チャイルドへと進化したと考えられ、間接的に宇宙人が登場している作品と言えなくもない。
 個人的な解釈を言えば、僕はこれを宇宙人による箱庭実験だったと考えている。 霊長類へと進化する可能性を持った猿人に知恵を与える事で、人類がどのように進化していくか、そして、どのような社会を作るかを経過観察していたのではないか? AIであるHAL9000は、その優れた思考によって論理的な帰結としてこれに気付き、ボーマンたちにこの箱庭実験でモルモットにされている事を教えたかったのではないか? 何故なら、時間と空間を超越したスター・チャイルドが見つめる地球では、今まさに猿人がモノリスの啓示によって再び叡智を与えられているからだ。
 時間軸がリフレインする箱庭の中で、スター・チャイルドは自らの死を目撃するワケだ。
 ……とまあ、そんな飛躍した解釈すら成立してしまうのも、この作品が極めて難解な絵画的映画だからだが、そうと考えると、この作品では宇宙人は単純に“敵”とは言えない。 何故なら、こうして箱庭実験する事で、人類が“間違った進化”をしている事を教えようとしているとも考えられるからだ。
 時ココに至って、それまで人類の“敵”だった宇宙人は、そのスタンスを微妙に変化させ始めたのである。
 そしてこの1年後には、これをさらに加速させる大事件が起こる事になる。
 その主役は、宇宙飛行士のニール・アームストロング!


 1961年にケネディ大統領の「10年以内に人類を月面に立たせる」という宣言を受けて始まったNASA=アメリカ航空宇宙局の有人宇宙飛行計画、アポロ計画は、しかし最初の有人宇宙飛行(注:これ以前にも、アポロの名を冠したロケットが3度打ち上げられているが、いずれも無人テスト機だった)に挑んだアポロ1号(67年2月21日発射予定)は、1月27日に行われた演習中に火災事故を起こし、大事なロケットと3人の宇宙飛行士の命を失った。 計画は、前途多難な幕開けとなった。
 しかし、この失敗を教訓にしたNASAは、その後の無人/有人飛行を次々と成功させ、アポロ8号では初の月周回飛行に成功。 そして、69年7月16日に打ち上げられたアポロ11号は、4日後の7月20日、アメリカ東部標準時午後10時56分(注:日本時間で7月21日の午前11時56分)、船長のニール・アムストロングは、人類で初めて、その足跡を月面に着けたのである。

「That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.」
“これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。”

 この言葉を月面に残したアームストロングは、人類の英雄になった。(注:この模様は、映画『アポロ13』のオープニングシーンで描かれていた通り、全米中に生中継されて大衆の注目を集めた。 日本でも、当時衛星中継されていたそうだ)
 これにより、人類にとって宇宙は、遥か遠くの見果てぬ世界ではなく、行って帰って来る事が出来る身近なモノになったのは間違いない。
 70年代に入ると、アポロ計画は予算削減のために当初20号まで予定されていた発射計画が18号以降がキャンセルになったが、その代わりにスカイラブ計画が発足し、地球を周回する宇宙ステーションの建設が始まった。(注:73年発射。 79年計画終了。 ただし、これは世界初ではなかった。 71年にソ連が世界初の宇宙ステーション、サリュート1号の打ち上げに成功している)
 宇宙に“行く”どころか、宇宙に“住む”事さえ、人類は可能にしたのだ。
 後にこの計画は、ソ連の宇宙ステーション、ミール(注:86年発射、2001年計画終了)や、現在も活動しているISS=国際宇宙ステーション(注:98年建設開始、2011年完成)につながる先駆的な役割りを果たしたのである。
 さて、そんな70年代は、しかしナゼか映画で宇宙が描かれる事が極めて少なかった。
 SF映画というジャンル自体が、70年代は衰退期を迎えていたのは確かだが、こうした現実が宇宙をある意味身近なモノに“し過ぎた”のかもしれない。
 非科学的でリアリティに欠けるSF映画に、大衆は関心を示さなかったのかもしれない。
 もちろん、泥沼化していたベトナム戦争の影響もあるだろうし、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で失脚し、後にも先にも史上唯一の“大統領辞任”に追い込まれた事で、政治不信から大衆がSF映画のような夢物語に希望を抱かなかったからもしれない。
 いずれいせよ、そんな時代背景を背負って公開されたのが、本書の主題である『未知との遭遇』なのである。(注:やっと本題だよ……)



 しかし、今週はココまでなのだ!(笑)
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


魔女っ子Alice。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 まさに魔女っ子! もうそれ以外に言う事はありませんね!
 リリカルマジカルテクマクマヤコンポリリンパ!



Thanks for youre reading,
See you next week!

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193.Watch the Skies:第5章③

2012年04月29日 | Watch the Skies

-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #16-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 GWが始まりました。 皆さまいかがお過ごしですか?
 今年のGWは、飛び連休になったので仕事や学校を挟む方も多いかもしれませんが、中にはまるっと1週間休みのトコロもあるやも知れず。
 ウラマヤしい限りです。
 何にしても、事件事故には気を付けて頂きたいですね。 京都のアレとか……。


 それはさて置き、今週の話題は何と言ってもやはり小沢クンでしょうね。 僕の地元では号外が出ました。
 結局のトコロ、アレは民主党内部の反小沢派によるリークで、小沢クンの失脚を狙ったモノであったのは間違いない。 政権交代直前なんて、あまりにもタイミングが良過ぎたし。
 もちろん、無罪になったからといって小沢クンがすぐに政界復帰出来るとは思いませんが、現在の野田政権の状況を考えれば、これで民主党が内部分裂→政権空中分解も有り得る事になるし、そうなると次の総選挙が非常に興味深い事になると思う。
 つかね、小沢クンが党首に復帰するなら、僕は民主党支持しても良いッスよ? 自民はどーにも信用出来ないんで。
 何にしても、日本の政界にはまだまだ小沢クンのような“長老”が必要なんじゃなかろうか?


 それとは関係ありませんが、そーいえば今月の頭、毎回3ヵ月おきにやってるアクセスランキング、やってませんでしたが忘れてたワケじゃないですよ? いやいやマジで。 連載企画の方を優先したかったし、先週と先々週の特別編が入る予定だったので、スケジュール的にアクセスランキングが入れられなかったんですよ。
 ……ホントウデスヨ?(´・ω・`)
 しかし、そうこう言ってる間に当ブログの総アクセス数が昨日、30000HITを達成しましたッ!!ノ゜∀゜)ノイェイ

 ピッタリちょうど。
 すげぇビックリした。(笑)
 3周年前に達成出来て良かった良かった。
 先月に入ったぐらいから、コンスタントにアクセスが伸びるようになって、今月に入って29000超えたので、今月中にいけるかなぁ~? と思っていたら、ホントにいけました。
 日頃からのご愛顧、感謝感謝です。
 これからも、これを励みにがんばりたいと思います!(`・ω・´)/


 それとはさらに関係ありませんが、先日25日に予定通り、MFD-WEBにて『with you...』のリニューアル&特典テクスト付きコンプリート版、『with you...:アルティメット・エディション』の公開を開始しました。
 画面左のリンクからMFD-WEBにアクセスして頂き、PDFファイルをDLしてお楽しみ下さい。



<今週の特集>

 今週から、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズの連載再開、第16回です。
 ちなみにこの連載、来月一杯で終了する予定です。 その後は、……まだナイショです。(^ ^;)


2.その他のUFO関連事件

 上記に挙げた事例は、数多あるUFO事件の中でも特に知名度が高く、UFO事件の歴史を語る上では欠く事の出来ない重要なモノばかりだが、UFO事件はこれだけではない。 ココに紹介した事例の数百倍を優に超える事例が、毎年世界のどこかで報告されている。
 しかし、それらを全て紹介しているとキリがない上ムダが多いのでこれぐらいに止めたが、UFO事件とは言えないながらも、何らかの形で間接的にUFO、あるいは宇宙人との関係が取り沙汰されている事例というのもある。
 この項では、それら直接的ではない、“間接的なUFO事件”というのをいくつか紹介していく事にする。


・バミューダ・トライアングル

 本作でもオープニングのアヴェンジャー雷撃機、及び特別編にて追加撮影されたコトパクシ号のシーンに大きく関係しているのが、この“バミューダ・トライアングル”である。
 俗に、“魔の海域”、“バミューダ海域の怪現象”と呼ばれているが、この海域を航行、あるいは上空を通過中の船舶や航空機が突然消息を絶つという現象で、現在までに公式な記録に残っているだけでも100件以上が報告されており、行方不明者の数は実に1000人を超えている。
 中央アメリカ沖の大西洋。 アメリカはフロリダ州のマイアミ、プエルトリコ、そしてバミューダ諸島を結ぶ大三角地帯は、古くから海難事故の多い海域として有名だった。 実際、この海域の怪現象を記録したとされる最も古い記録は大航海時代、かのクリストファー・コロンブスによって「羅針盤が奇妙な動きをした」と航海日誌に記録されているほどである。
 当時から、この海域は多くの船乗りたちが避けて通る魔の海域であった。
 前章で記した通り、1925年にはアメリカ船籍のコトパクシ号がハバナに向けて航行中、この海域を通過中に消息を絶っているし、1945年には、アメリカ海軍第19飛行隊に所属する一個小隊は、訓練飛行中にこの海域上空を通過して行方不明となり、その捜索に向かった小隊まで消息を絶つという二重遭難事故が起きている。
 原因は今もって不明だが、コロンブスが航海日誌に記録した「羅針盤が奇妙な動きをした」という記述から、磁場が関係しているのではないかという説が有力視されているが、それ以外にも諸説あり、ブラックホール説やプラズマ発生説(注:出ました“プラズマ”!)なども実しやかに囁かれている。
 そんな中でも、オーストラリアの大学教授、リチャード・マッカイバー博士によって提唱された説によると、なんと「メタンハイドレートによる現象」だと言う。
 近年、新しい天然資源として注目を集めているメタンハイドレートだが、バミューダ海域では何らかの理由でこれが大量に発生する事があり、表面張力の弱くなった海水に船舶が引きずり込まれ、噴出したメタンが言わばエアーポケットを作って航空機を墜落させるのだそうだ。
 こんな大胆な仮説が飛び出してしまうほど、この海域の怪異は未だにナゾのままなのである。
 が、これが一度UFO現象に結び付けられると、「消息を絶ったのはUFOに捕らえられたため」という、いわゆるエイリアン・アブダクションの延長線上にある現象という事になる。
 本作では、この説を支持してオープニングシーンとコトパクシ号のシーンが撮影されたワケだが、個人的には、いわゆる“パラレル・ユニバース”なんかも説としては面白いと思う。
 ブラックホール説と微妙に被るが、ブラックホールは消滅直前の恒星によって引き起こされる現象で、ワームホールなどのいわゆるワープ現象ではなく、爆縮した超重力によって光さえも吸い込まれる(注:アインシュタインの相対性理論)現象であり、言わば宇宙規模の現象である。 そのため、地球上でブラックホールが発生するとは考え難く、科学的根拠を欠いた説と言わざるを得ない。
 しかし、テオドール・カルツァとオスカー・クラインによって提唱された10次元宇宙理論、いわゆる“超ひも理論”を用いたブレーン・ワールド仮説によると、宇宙は一枚の板=ブレーンの上に広がっており、これと平行して別のブレーンの上に同じような宇宙=パラレル・ユニバースが広がっており、両者は何らかの方法で行き来する事が出来るという。
 と、するならば、バミューダ海域に何らかの理由でパラレル・ユニバースへと通じるワームホールが開き、この海域を通った船舶や航空機の一部が、言わば“次元に開いた穴”に落ちてパラレル・ユニバースに行ってしまったのではないか?
 そう考えると、スピルバーグが2008年に監督した『インディ・ジョーンズ:クリスタル・スカルの王国』で描かれていた世界が、あながち間違いではないという事になって、宇宙人はもしかしたら“異次元人”なのではないか? という仮説まで出来上がってしまう。
 だから、バミューダ・トライアングルの怪現象はUFOと間接的に関係のある現象、という事になるのだ。
 さらに言うなら、2008年の完成から4年を経てようやく最初の実験に成功した超巨大粒子加速器、LHC(注:CERN=ヨーロッパ合同原子核研究機構が、スイスのジュネーブ郊外に建設した大型ハドロン衝突型加速器。 地下100メートルの位置に、円周約27kmという山手線1周に匹敵するレールを建設し、高さ25m、全長約44m、重量約7000tというこれまた超大型の超伝導加速器4機で、リニアと同じ要領で光速の99.9999991%まで粒子を加速し、衝突させるという実験装置。 総工費はおよそ5500億円。 日本からも100名もの研究チームが参加しており、最大級の実験装置であるATLASで観測を行った。 2008年9月の稼動開始直後、故障のため実験が中止され、長い間修理が行われていたが、2011年にようやく最初の実験が成功した)にて行われた実験の結果、1964年にイギリスの物理学者、ピーター・ヒッグス博士によって提唱されたヒッグス粒子(注:素粒子に質量を与える“ヒッグス場”に存在し、0.1TeV~1.0TeVの範囲内にあると考えられている。 LHCは、1.0TeVのエネルギーの到達を実現した初めての粒子加速器で、ヒッグス粒子の初観測成功に大きな期待がかけられている)を97.1%~98.9%の確率で観測したと発表。(注:2011年12月13日) 残念ながら、“発見”には99.9999%以上の確証が必要なため、断定は見送りとなったが、今後の実験によってはヒッグス博士の半世紀来の夢が叶う日も近いと言える。
 この粒子加速器によって、もう一つ期待されているのが、“人工ブラックホールの生成”である。
 光速に極めて近い速度によって素粒子の衝突が起こると、そこに“ミクロサイズのブラックホール”が発生し、これは先の10次元宇宙理論につながる第4の空間次元の存在を観測する事になり、その延長線上に超ひも理論による10次元宇宙理論、そしてブレーン・ワールド仮説を間接的に立証する可能性が期待されている。
 そうなれば、バミューダ・トライアングルのナゾの解明もありえるかも!?
 LHCは、早ければ2012年年内にも、2度目の衝突実験を行う予定だそうだ。(注:加速に数ヵ月かかるので、実験は年に1回が限界なんだそうだ)
 上記の解説は、筆者の個人的な考察を交えて解説していますが、論理的にありえる事。 ただ、一つ一つの用語を解説しようとすると、それだけで本が1冊書けてしまうほどの長~~~い解説になってしまうので、このような至極カンタンな解説に止めた。 興味のある方は、気になった用語をWikiるかググるかして下され。


・UMA

 UMA(ユーマ)とは、“Unidentified Mysterious Animal”の略で、一般的に“未確認生物”と呼ばれているナゾの生物の事である。 皆さんも、イエティやネッシー、あるいはツチノコなどの存在が公式に確認されていない怪生物の伝説やウワサを耳にした事があるだろう。
 一般に、こうした生物は写真や映像、あるいはその屍骸と考えられる物証によって大衆の目に触れる事になるが、その姿、あるいは習性が現在の生物学の基礎であるダーウィンの進化論だけでは説明出来ない、生物進化の系統樹から外れたとしか考えられない生物である場合、これらは未確認生物、すなわちUMAと分類される。
 何故、新種や再発見とは見なされないのだろう?
 例えば、“生きた化石”として有名なシーラカンスは、古代の地層からその化石が発見されていたが、生きた個体が見つかっていなかった事から「過去に絶滅した」と考えられていた。 が、実際にはそんなコトはなく、深海探査によって生きた個体が見つかり、“再発見”として絶滅種リストから削除される事になった。
 近年でも、新種の生物は知られていないだけで多数確認されており、まだ調査が不十分な深海には、数え切れないほどの未発見の深海生物が生息していると考えられている。
 さらに言うなら、例えばゴキブリは、現在までに世界で実に4000種(!)が確認されているが、研究が不十分なため、未分類、未分化の種が数千種(!!)はいると考えられている。
 ……まあ、何せ“G”ですからね。 誰も研究したがらないんでしょうね。(笑)
 それはともかく、単細胞生物であるウィルスの類になると、さらに事態は複雑である。 毎年、冬になると「今年は○○型のインフルエンザが流行する」というのがニュースや新聞で話題になるが、この型はナゼか毎年違う。 同じ型が数年を経て再流行する事もあるが、複数年連続で流行する事の方が希である。
 何故なら、インフルエンザに代表されるウィルスは、毎年新種が発見されているからだ。
 多細胞生物と異なり、単細胞生物は短期間の間に世代交代し、突然変異種の出現率が高い、すなわち進化が速いからだ。
 すなわち、地球上に現在生息している生物の内、将来的な可能性も含めると、“未知の生物”は星の数ほどいる事になり、人類が未だに“未確認”の生物は、潜在的に相当数いるという事になる。
 しかし、これらはその存在が科学的に確認されても、UMAとは呼ばれない。
 何故なら、これらは既に発見されている生物の中に、必ず“よく似た種”がいて、ダーウィンの進化論によって生物進化の系統樹の何処に当てはまる生物なのかがすぐに確認出来るからだ。
 つまり逆に言えば、系統樹の何処に当てはまる生物なのか分からない、既知の生物の中に“よく似た種がいない”、未発見、未分類の生物こそが、“UMA”と定義出来る、という事になる。
 例えば、スコットランドのネス湖に住むと言われているネッシーは、現在は完全に絶滅したと考えられている恐竜、首長竜の特徴を有している事から、現在の生物系統樹には当てはまらないUMAになっているし、日本のツチノコも、ヘビの一種と考えられているが、首と尻尾以外が異様に太いという希な特徴から、系統樹に分類出来ないUMAとされている。
 もちろん、“生きた個体”が捕獲されれば、科学的な調査を行った上でコトの真偽が確かめられるのだろうが、そもそも捕獲されないために科学的な研究が行えないというジレンマを抱えているのも、UMAとされる定義の一つだ。
 これらUMAは、本来は生物学的な“未確認”であって、UFOや宇宙人とは切り離されて考えられているモノがほとんどだ。
 しかし、UMAの中にはUFOや宇宙人と少なからず関係していると考えられているモノもある。


 例えば、1960年代に全米を震撼させた蛾のような外見を持つヒト型生物、『モスマン』。
 アメリカのウェストヴァージニア州にあるポイント・プレザントという人工6000人程度の小さな町は、66年から67年にかけて“モスマン・フィーバー”が巻き起こった町として有名だ。
 66年に入って間もなく、町の住人の多くが蛾のような外見を持つ羽の生えた人間大の奇妙な生物を目撃する事件が多発し、この生物は蛾男=モスマンと名付けられた。
 同年12月、超常現象研究家として有名なジャーナリスト、ジョン・キールが現地入りして調査したところ、町を流れるオハイオ川流域で奇妙な発光体を目撃。 それと前後して、TVや電話の不具合が確認され、キールはモスマンの目撃情報と関連付けてUFO現象の一環なのではないか?と考えた。
 調査は1年近くに渡って続けられたが、決定的な証拠は手に入らず、67年後半に入ってモスマンの目撃情報は日を追う毎に少なくなっていった。
 トコロが同年12月15日、午後5時5分頃、オハイオ州との州境でもあるオハイオ川に掛かっているシルバー橋が突如崩落! 橋を走行中だったクルマ46台が崩落に巻き込まれ、5人の死者と重軽傷者多数を出すという大惨事になった。
 そしてその夜、町の住人の多くが、町の上空を通過する12機ものUFOと思われる飛行物体が目撃した。
 そしてこの日を境に、モスマンの目撃情報は完全にゼロになった。
 果たして、目撃された12機ものUFOは、モスマンを回収に来たのだろうか?


 イエティ=雪男と並んで猿人系の大型UMAの代表格である『ビッグフット』は、その姿を動く映像に捉えたとされる通称“パターソン・フィルム”によって一気に世界規模の知名度を得たUMAだが、これが実は、なんと“宇宙人のペット”だという説が実しやかに囁かれているのをご存知だろうか?
 いくら何でも“ペット”て……。(笑) 既にアヤしさ大爆発だが、この説の根拠はこうだ。
 そもそも、“ビッグフット”という名称はアメリカ南部から中西部にまたがる山岳地帯での呼称で、カナダでは“サスカッチ”と呼ばれているし、ビッグフットの根拠地に程近い、南東部のルイジアナ州では“モモ”というなんともカワイらしい名前が付いており、ネパールやインドでは“イエティ”である。 “二足歩行する毛むくじゃらの大型生物”という定義で言えば、似たような生物の目撃情報はそれこそ世界中にある。(注:日本の“ヒバゴン”もその一つ)
 が、これらの生物が同一種であると仮定して、その目撃情報を丹念に調べていくと、怪生物の目撃情報と共にUFOの目撃情報が多数報告されている事実が浮かび上がるのである。 特に1972年6月に、三本指の足跡と共にルイジアナ州で“モモ”と名付けられた生物が目撃された時は、前後して上空を飛行するUFOらしき飛行物体も目撃されている。
 他にも、インディアナ州、ワシントン州、アーカンソー州、ペンシルベニア州、イリノイ州でも、同様にビッグフットらしき怪生物と共にUFOの出現が目撃されている。
 1973年10月、ペンシルベニア州グリーンズバーグという町では、同年5月から連続してUFO目撃情報が多数報告されているが、10月25日の夜、とある畑に現れたUFOは、畑に着陸して怪生物を降ろした。 驚いた畑の所有者は、ライフルでこの怪生物を狙撃! 怪物は哀しげな声を上げて森の中に消え去り、UFOも姿を消したと言う。
 翌朝その現場には、長さ32センチにも及ぶ巨大な足跡が残っており、石膏で型取りが行われた。
 そして、後日この足型を透視能力者として名を馳せていたピーター・フルコスに見てもらったトコロ、フルコスは「これは大気圏外に由来するモノだ!」と言い放ったのである。
 つまり、ビッグフットは宇宙人のペットで、一緒にUFOに乗って地球までひとっ走りドライブに出たトコロ、宅のかぁいいビッグフットちゃんが唐突にもよおしたモンでございますから?トイレのために手頃な畑に着陸したんでございますのよ? というワケだ。(笑)
 トイレ砂ぐらいUFOに常備しとけよッ!(←ツッコみドコロがそこはかとなくズレてます!)


 他にも、アメリカ南東部や中米、チリやブラジルでも目撃報告がある『チュパカブラ』(注:プエルトリコの現地語で“ヤギの血を吸う者”の意)は、体長90センチ程度のいわゆる吸血生物と考えられている。
 その目撃情報は意外に新しく、アメリカで目撃情報が報告されたのは95年になってからの事なのだそうだ。
 しかし、中米や南米では古くから同様の吸血生物の伝説があり、公式な記録ではないモノの、いわゆる民間伝承(注:おとぎ話)的に民衆の間で語り継がれているモノである。
 ただ、目撃情報が急増したのが80年代後半になってからの事で、そのキッカケとなったのが1984年にプエルトリコで起きたUFO墜落事件なのではないか? と指摘する研究者もいる。
 アメリカでは、突然変異や化学薬品汚染によって発生したミュータントなのではないか?という説もあるが、目撃証言を元に描かれた想像図には、目尻の釣り上がった大きな目と、小さな口が描かれており、それはまるでいわゆる“グレイ・エイリアン”との類似を指摘するのに十分過ぎるほど酷似している。
 また、チュパカブラの目撃情報と共に、UFOの目撃情報が寄せられる事も間々あるとか。
 さらに、目撃者の下にはMIBが現れるというウワサもある。


 今世紀に入ってからも、新種のUMAが目撃される例は後を絶たない。
 ミレニアムの2000年、3月19日にメキシコのアマチュア天文観測家、サルバドール・ゲレーロがホームビデオで撮影したメキシコシティの上空の映像には、奇妙な物体が映っていた。
 なんと、ヒト型の生物が“生身で”空を飛んでいたのだ!
 後に、『フライング・ヒューマノイド』と名付けられたこの怪生物は、その後メキシコ各地で目撃されるようになり、アメリカのカリフォルニア州やアリゾナ州などでも目撃されるようになった。
 ご存知の通り、ヒトは生身のままでは空を飛ぶ事が出来ない。 落ちる、すなわち“降下”は可能だが、“上昇”は不可能なので“飛ぶ”のとは異なる。 ニンジャのように凧に縛り付けられて風を捕まえれば可能は可能だが、やはりこれは“生身”ではない。 最低限、グライダーのような“滑空”が可能な乗り物に乗らなければ、ヒトは空を飛ぶ事は出来ないのだ。
 トコロが、ゲレーロが撮影に成功した怪生物は、頭部から上半身にかけてのシルエットが曖昧な点を除けば、二足歩行が可能な足を持つヒト型生物である。
 もちろん、ロサンゼルスオリンピックのオープニングセレモニーで話題になったパーソナルジェットを使えば、かろうじて生身で飛ぶ事は可能だが、パーソナルジェットは搭載出来る燃料が少なく、上昇出来る高度には限界がある。 燃料が切れたら、落ちて死ぬしか選択肢がないのだ。
 こうした事から、フライング・ヒューマノイドはUMA、あるいは未知のテクノロジーを利用して生身で空を飛ぶ事を可能にした“宇宙人由来の何か”と考えられるようになった。
 果たして、その正体はいったい何なのだろうか?


 空を飛ぶUMAと言えば、2003年にニュース映像として全米にライブ中継されて話題になった『スカイフィッシュ』も不思議な存在である。
 イラク戦争真っ只中のバグダッドを生中継したFOXニュース(注:映画スタジオの20世紀フォックスが運営するケーブルTV、フォックス・チャンネルのニュース番組。 フォックス・チャンネル自体は、日本でもSKYパーフェクTVで有料視聴出来る)の映像に、空を飛ぶ奇妙な飛行物体が映っていた。
 それは、細長い胴体に計4対の羽のようなモノを広げた姿をしており、高速で滑空する姿が捉えられたのだった。
 この映像は全米にライブ中継されており、放送後の局に問い合わせが殺到したが、結局何だったのか分からず仕舞いに終わっている。 その後も、このような飛行物体が目撃されたという情報もほとんど報告されていない。(注:“皆無”というワケではないらしい)
 その姿が、古代カンブリア紀に生息していたと考えられている“アノマロカリス”という海洋生物に似ている事から、これは“スカイフィッシュ”というUMAの一種と考えられるようになったが、魚よりはむしろ虫、特に、映画『風の谷のナウシカ』に登場した“蟲”の一種に似ている。
 いずれにしても、映像から推測すると時速80~150キロという高速飛行をしており、また羽がうねるような動きをしている様子も捉えられている事から、未発見の未知の生物、あるいは地球外の生物ではないかとも言われており、その正体は諸説入り乱れて未だに決着付かずのままである。


 もう一つ空を飛ぶ系のUMAを。
 2005年7月4日、アメリカの独立記念日のこの日、お隣の国メキシコで奇妙な飛行物体が目撃され、その姿が写真に収められた。
 メキシコシティに住むフラビア・アルカンタア氏が、午後1時頃自宅の庭に出たトコロ、上空に奇妙なモノが“浮かんで”いるのが見えた。
 それは、まるでミミズか回虫のような姿をしており、細長い体をくねらせながら空を“飛んで”いたのだ!
 驚いたアルカンタア氏は、すぐさまカメラのレンズをこの怪生物に向け、夢中でシャッターを切った。 こうして、この怪生物は数枚の写真に収められたのである。
 後に、この生物はUFC=Unidentified Flying Creature、“未確認飛行生物”と名付けられたが、問題は撮影された写真であった。
 なんと、この怪生物の背後に、小型のUFOと思しき飛行物体の機影が捉えられていたのである!
 果たして、これは宇宙人がUFOに乗って持ち込んだ地球外生物なのか?
 それとも、新型のUFOなのか?
 ナゾは深まるばかりでございます。


 とまあいうように、有名ドコロのUMAをいくつか紹介したが、これらがUMA、すなわち未確認“生物”であるかどうかははなはだ疑わしい。
 外見上、あるいはその動きが“生物っぽい”というだけで“生物”と決め付けるのは、はなはだ早計と言わざるを得ない。
 何故なら現代の科学技術でも、“生物を模倣する事は可能”だからだ。
 SF映画やUMA系ホラーに代表される映画では、しばしば人間を襲う動物が描かれるが、ほとんどの場合ホンモノの動物を使用して撮影される事はない。 何故なら、動物は興奮すると人間の言う事を聞かなくなり、重大な事故が起こる可能性が高いからだ。
 犬や馬など、比較的調教し易い動物でもこれは同じで、ホンモノの動物を使わないで済むのなら、より安全な方法で撮影されるのが常である。
 これを心得ていたスピルバーグは、『ジョーズ』で実物大のサメを作った。
 近年でも、あまり作られなくなったがUMA系ホラーではアニマトロニクスによるコンピュータ制御のロボットアニマルか、あるいはCGIが利用されている。
 そう、生物は、人間の手でも作る事が可能なのだ。
 もし仮に、これらの生物が生物ではなく、ロボットだとして、しかもそれが“地球外由来”のモノであったならば、その目的は?
 先に紹介したストレンジ・エアクラフトと同じく、偵察ロボットである。
 もしかしたら、UMAの一部は、宇宙人が地球に送り込んだロボットアニマルかもね。(注:「だったらもっと地球の生物に似せるだろ」という反論があるかもしれないが、生命体系や文化が違えば、彼らの目には地球の生物はこのように見えると考える事は可能である。 未だに、ハリウッド映画では日本が誤解されて描かれているのを良く見かけるでしょ? それと同じですよ)


・パンスペルミア仮説

 もう一つ、UFO現象とは間接的な関係にあるモノを紹介しておこう。
 現在の生物学理論では、先に述べたようにダーウィンの進化論による生物進化の系統樹によって、現在も見る事の出来る生命種に分化していったと考えられており、系統樹を遡ればおよそ36億年前、海岸に叩きつける海の波が作った泡の中で有機物が集まり、一つの細胞になって単細胞生物という原始的な生命が誕生した、というのが生命起源の定説である。
 確かめようがないのは(間違いなく)確かだが、そう考えるのが科学的に最も論理的で、かつ納得出来るのも確かだ。 ウィルスの突然変異や、ダーウィン・フィンチ(注:ガラパゴス諸島でダーウィンが発見した鳥で、生息する島毎にくちばしの形状が異なるという特徴がある。 この事実から、ダーウィンはこれを“進化の真っ最中”と考え、かの進化論が生まれるキッカケになった)がその良い例である。
 しかし、これに待ったをかけた科学理論がある。
 それは、生命起源の定説を根底から覆すドコロか、ダーウィンの進化論さえも否定しかねないほどの危険性を孕んだ異端仮説であるとして、学会からは一時期完全に無視される事になった学説であった。
 それが、『パンスペルミア仮説』である。
 カンタンに言えば、生命は太古の海で自然発生的に生まれたのではなく、隕石などの飛来物によって地球外から運ばれたDNAが、地球の環境に適応して独自の進化をした、というモノである。
 すなわち、生命の起源を地球外に求める仮説なのである。
 元々は、1787年にラザロ・スパランツァーニというイタリアの学者によって提唱された理論で、1906年にスヴァンテ・アレニウスというスウェーデンの化学・物理学者(注:主に化学者。 1903年にノーベル化学賞を受賞している)によって再発見され、この学説をギリシャ語で“汎種”を意味する“パンスペルミア(panspermia)”と名付けたのもアレニウスである。
 発表当初は異端視された学説ではあるが、以外にもDNAの二重螺旋構造の発見者として有名なフランシス・クリック(注:イギリス人科学者。 1916年生まれだが、2004年に亡くなっている)や、天文学者でSF小説家のフレッド・ホイル(注:イギリス人科学者。 発見した小惑星に自分の名前が付いているほどの世界的な天文学の権威だが、SF小説を多数発表したり、宇宙起源論であるビッグバン仮説に反論するなどの異端児振りを発揮した人物でもある。 1915年~2001年)なども、この仮説の支持者である。
 さらに言うなら、一度は学会から無視される事になった仮説だが、NASAの火星探査などを通して(知的生命体ではないにしても)地球外で生命が存在していた可能性を示す証拠が複数見つかった事から、近年再び注目を集めている仮説でもある。
 この仮説が本当だったと仮定すると、地球上のありとあらゆる生命は、実は元を正せば地球が誕生するより遥か以前、あるいはそれよりももっと昔に、地球ではないどこか別の惑星に誕生した生命が何らかの原因で古代の地球に飛来し、現在の生命系統樹を形成したという事になり、我々人類は実は生粋の“地球人”ではなく、“地球育ちの宇宙人”という事になるのである!
 そう考えれば、映画『ミッション・トゥ・マーズ』がにわかに現実味を帯びてきて、「人類皆兄弟」ドコロか、「宇宙皆兄弟」が現実になるという、非常に夢のある学説なのである。
 飛来したUFOに乗っている宇宙人たちは、もしかしたらこれを知っていて、自分たちの“兄弟”を見に来たのかもしれない。


3.日本のUFO事件

 先にも記したように、本作が公開された1970年代は、40年代後半から60年代前半にかけて大量に報告された目撃証言に触発される形で、第一次UFOブームが巻き起こった後、すなわちブームが過ぎ去り、本作公開後に巻き起こる事になる80年代の第二次UFOブームの間に挟まれた、言わばUFO現象の“谷間の世代”に公開された作品である。
 そのため、本来であるなら“時代遅れ”なモティーフを扱った作品であり、直前に公開された『スターウォーズ』の影響が残っていた時期の公開により、ヒット作になる要素は極めて少なかった。
 しかし、実際には映画は大ヒットし、本作の示したテーマに多くの人々が共感し、UFOというモティーフもまた再評価され、80年代の第二次UFOブームを生むキッカケになった。
 トコロが、この“谷間の世代”である1970年代に、UFO現象が大ブームになった国がある。
 それが、実は我が国ニッポンなのである。
 その先駆けとなったのが、1972年に起こった介良(けら)事件である。
 8月25日、午後3時頃、高知県高知市の介良地区に住む二人の中学生が、田園を飛び交う小さな飛行物体を目撃。 その時は怖くなって逃げ出したが、後日目撃現場周辺を捜索していると、タバコの灰皿を逆さにしたような小さな円盤状の物体が“落ちている”のを発見。 彼らは、なんとコレを自宅に持ち帰る事に成功する!
 計測したトコロ、このナゾの飛行物体は直径18.2センチと小さかったが、重さは1.3kgもあった。
 しかし、これを報告すべく自転車で輸送中、“見えない何か”に体を倒され、飛行物体も消えていた。
 この一連の出来事が報道された事で、日本各地で相次いでUFO目撃情報が報告されるようになり、日本はにわかにUFOブームに沸く事になった。
 日本版ビッグフット、ヒバゴンやツチオコ騒動が起こったのも、この頃である。
 この、70年代UFOブームは1974年から75年にかけてピークを迎え、日本全国でUFOの目撃情報が相次ぎ、有名なUFO事件も多い。


 例えば1974年、北海道の北見市、仁頃(にころ)でエイリアン・アブダクションが起きている。
 4月6日の午前3時頃、仁頃に住む農業、藤原由浩氏は、玄関をノックする音で目を覚ました。 気になって外に出てみると、そこにはタコのような姿をした宇宙人が立っており、畑にはUFOが着陸していた。
 逃げようとした藤原氏は、しかし不思議な力でUFOに捕らえられる。
 命からがら何とか逃げ出した藤原氏は、近くの民家に助けを求めた。 が、それから2日後の4月8日と13日にもUFOは現れ、テレパシーで会話したり、“木星の岩石”をもらったりしたという。(注:これは明らかに狂言。 木星は太陽と同じガス惑星であり、岩石が採取出来るハズがない)
 いずれにしても、(真偽のほどは別にして)藤原氏が一時行方不明になったのは確かで、NHKラジオが捜索の模様をセンセーションに報じたのも、また事実である。


 さらに、翌年75年に起きた『甲府事件』は、今もなお日本国内のUFO事件としては最も有名な事件の一つである。
 2月23日午後6時頃、山梨県甲府市に住む二人の小学生が空き地で遊んでいたトコロ、上空を東の空からオレンジ色の光を放ちながら近付いてくる飛行物体を目撃する。
 ワケが分からず二人が見上げていると、その飛行物体は二人の真上で停止し、事もあろうか降下を始めたのだ!
 怖くなった二人は、近くの墓地へと逃げ込み息を潜めた。
 辺りにその気配がない事を確かめた二人は、暗くなってきた事もあり家路へと急いだ。 が、その途中、先ほどの飛行物体がブドウ畑に着陸しているのを目撃! UFOから、身長130cm程度の宇宙人が降り立ち、彼らに近付くと一人の肩をポンと叩き、彼の名前を呼んだという。
 恐怖に駆られた二人は急いでその場を逃げ去ったが、後日現場を確認すると、コンクリートの柱が折れ、地面に何かが降り立ったような穴が開いていたのが確認され、さらにはその土壌から微量の放射能が検出されたと言う。
 よくあるパターンの第三種接近遭遇事件ではあったが、事件は大々的に報道され、UFOブームに拍車をかけたのは間違いない。


 甲府事件から約1ヵ月後の3月31日、今度は四国、愛媛県川之江市で宇宙人とみられる人影が写真に収められるという事件が起こっている。
 同市に住む写真店経営者が、この日の深夜、自宅近くで奇妙な発光体を目撃。 オレンジ色の光を放つソレは、まるでヘルメットを被った特殊なスーツを着た人影のようだった。 しかもソレは、なんと“空中”を滑るように歩いていたのだ!
 驚いた経営者は、慌ててコレをカメラに収めた。
 その直後、人影は音もなく消えてしまったという。
 現像した写真には、証言を裏付けるかのように奇妙に発行する人影が映し出されていた。


 70年代の日本を駆け抜けたこのUFOブームは、75年を境に次第に終息の方向へと向かうが、80年代の世界的なUFOブームに触発され、日本でもUFOブームが再燃する。
 その多くは、アメリカのロズウェル事件やMJ‐12といったUFO陰謀説のナゾを追うという形でTVで特集番組が組まれたりしただけで、日本国内でUFOが目撃、あるいは宇宙人と遭遇したという事件が報道される例は、70年代UFOブームほど多くはなかった。
 しかしそんな中にあって、当時イギリスで出現報告が多数あったミステリー・サークルが、なんと日本にも出現したという報告がされている。
 1986年8月9日、山形県山形市の北西、約20キロの辺りにある西川町鶴部地区というトコロにある水田の脇のアシ沼に、直径6メートルほどサークルが出現! しかも複数!! 高さ2メートルほどのアシが、すり鉢上に倒されていた。
 この前日の夜、すなわちサークルが出現したと思われるまさにその瞬間、周辺地域のTVの映像が乱れるという現象が多数報告されており、同時刻にUFOらしき発光する飛行物体を目撃したという報告もあるほどだった。
 もちろん、現場周辺は一帯一面に水田が広がる田園地帯で、深夜ともなれば人っ子一人いない地域であるのは確かで、人為的なモノである可能性は否定出来ないが、日本国内で報告されたサークル出現例の一つである事は確かだ。


 そもそも、日本国内で起こるこうしたUFOと思しき怪現象というのは、世界各地のUFO現象がそうであるように、知られていない、あるいは検証不可能なだけで大昔からあった事である。
 日本神話に登場する天照大神は、いわゆる太陽神であるが、その姿は神々しく光り輝き、目も眩むような光に包まれているという。 先ほどの川之江市に出現した宇宙人を再び持ち出すまでもなく、宇宙人が不思議に発光する姿で現れるというのは世界中で無数に報告されており、天照大神の姿に類似する。
 さらに、日本国内にいくつかある“天女の羽衣伝説”は、まさに宇宙人が地球の、それも我が国に降り立ち、自らの衣服である羽衣を地球人に渡したと解釈出来る。
 それを裏付けるかのように、静岡県静岡市、三保の松原は羽衣伝説の中心的存在であるが、ココにある“羽車神社”に残る羽衣伝説には、大国主命(オオクニノヌシノミコト)が作った“羽を持った神輿”=羽車が奉られているとされている。
 これをUFOと考えるのは容易な事ではないだろうか?
 また、同じく三保には、御穂神社という神社もあるのだが、ココに祭られている三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)は、大己貴命(オオナムチノミコト)と結婚し、“天羽車”で新婚旅行に出かけたとされている。 大国主命の羽車と類似するこれは、まさに空飛ぶ神輿=UFOと考えて良いのではないだろうか?
 さらに、江戸時代には公式な記録に宇宙人と思しき何者かが現れたという記述が成された事もある。
 しかも、その主役は時の最高権力者、徳川家初代将軍、家康なのである!
 慶長14年、1609年の4月4日、城内にどこからともなく異形のモノが現れた。 この異形のモノは子供のように小さく、手はあるが指がなく、体毛のないツルっとした外見から“肉人”と呼ばれた。
 その異形のモノは、時の最高権力者であった徳川家康に謁見を求めたと言う。
 しかし、城内の武士たちに「くせもの!」と追い回され、慌てて逃げ出したそうだ。
 そしてその直後、天守閣の方角から天へと昇る大きな火の玉が上がったのが目撃されている。
 宇宙人は、ロズウェルに先立つ事340年ほど前に、既に日本の幕府との接触を試みていたのである!


 日本でUFOブームがピークを迎えていた1970年代から、日本の国防を担う航空自衛隊は、何度かUFOと思しき未確認飛行物体をそのレーダーに捉えられている。 そして、その内の何度かは、それが何なのかを確認、あるいは撃墜する目的で迎撃機の出撃が命令されている。
 結果的に、これらの出撃はいずれも空振りに終わっているが、つい最近、2007年12月18日の閣議で、日本政府は“公式に”、UFOについて「存在は確認出来ていない」という答弁書を閣議決定した。
 日本政府にとっては、これがUFOに関する史上初の“公式見解”だった。
 今さら?
 しかも、何故改めて?
 そのウラに“何かあるのでは?”と疑いたくなるのが人情である。
 しかも、こういう“公式見解”を政府が行っているにも関わらず、90年代末から日本の主な天文台が地球外生命体探査計画=SETIに参加しており、2005年11月から可視光観測を利用したはりま天文台(注:兵庫県立西)の本格的な観測は、現在も継続して続けられている。


4.結論

 さて、この章では、読んで頂いた通り世界各地で報告されたUFO現象とその関連事件を掻い摘んで紹介してきたワケだが、結局のトコロUFOは、そして宇宙人は、本当に存在しているのだろうか?
 こうした超常現象を取り扱った書籍やTVの特集番組では、常にこの結論を先送りにしてきた。 様々な事件や現象を実しやかに紹介しながらも、結局最後は「たぶん、ね。」という曖昧な結論で終わらせてきた。
 それは、ある意味正しい選択である。
 何故なら、結局のトコロ真実が何であれ、現在の人類の科学力では、それを証明する事が出来ないからだ。
 それは、神の存在を証明する事に等しい。
 ココにも紹介した多くの神話や伝説の中で、UFOや宇宙人は人智を超越した超常的な力を持つ存在、すなわち神に等しい存在として描かれ、そして語り継がれており、UFOや宇宙人が神として崇拝の対象になっていたのは明らかだ。
 中には、聖母マリアの処女受胎が宇宙人によるものだとする解釈もあるほどだ。
 ただし、それらは決して宗教的な崇拝であってはならない。 宗教的崇拝は、神という不確かな存在にすがり、自らの命運を託す事に他ならないからだ。
 そうであってはならない。 何故ならそれは、自分の力で何とかしようという努力を怠り、自らの過ちを認めようとせず、悪い事が起こったらカミサマのせいに、誰か他の、“自分ではない何か”のせいにしたいだけだからだ。
 そんな他力本願では、カミサマだって信者を見捨てる。
 努力しない、堕落した人間など、いかなカミサマとて救いたくないに決まっている。
 メンドクサいだけで、一時的に感謝して清貧に生きるかもしれないが、すぐに興味を失ってまた堕落するのが目に見えているからである。
 だが努力し、がんばっている人たちを見捨てるほど、カミサマは無関心な存在ではない。 がんばっている人を応援したくなる気持ちは、スポーツ選手を応援する想いに似ていて、その姿が美しく素晴らしいモノだからだ。
 結論を述べよう。
 宇宙人は居る。
 UFOは存在する。
 そして、いつの日か我々人類の前に姿を現す時が来る。
 しかし、我々人類が努力を怠っている内は、決して姿を現してはくれない。 堕落した人類など、誰も助けてはくれない。
 だが努力し、がんばっている姿を見せれば、彼らはきっと我々に手を差し伸べてくれる。 人智を超越した超常的な科学力によって、彼らはきっと、神の奇跡を見せてくれる事だろう。
 その日が来る事を信じて、僕は今日をがんばろうと思う。
 宇宙はこんなにも広いんだ。 そうとでも考えないと、映画『コンタクト』で描かれていた通り、“スペース”ももったいないしね。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


白ロリ。

 
- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 どーですかお客さん! スキな人にはたまらないっしょ?(笑) ……でも、やっぱりブルーマ周辺は雪に似合いそうだけど歩きたくないですね。 お腹冷えちゃいそうで。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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