-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #10-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
今週は特に書く事もないのでとっとといきます。
<今週の特集>
今週の特集は、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ第10回です。
最後までお楽しみ頂けたら幸いです。
3.プロダクション
本作の本編撮影は、しかしスピルバーグ作品としては極めて異例な方法で撮影されている。 特殊効果が必要ないシーンを先に撮り、特殊効果が必要なシーンを後で撮るというスケジュールが組まれたのだ。
通常、特殊効果を多用する映画というのは、特殊効果が必要なシーンを先に撮り、それ以外のシーンを後で撮るというスケジュールが組まれる。
何故なら、特殊効果の制作にはとても時間がかかるからだ。
スピルバーグ作品を例に挙げると、2005年公開の『宇宙戦争』では、CGIによる実写フィルムの加工が必要なシーンを先に撮り、撮った傍から特殊効果を担当したILM社にフィルムが渡され、本編撮影とほぼ同時進行でフィルムにVFXを施していくという方法が取られている。
CGIは、ワイヤーフレームで作ったモデリングに2Dのテクスチャーを貼り付けて最終的なCGIモデリングになるが、実際の作業中は映画で観られるような高解像度の映像ではなく、処理を軽くするために簡略化されたモデルで作業が行われる。 この簡略化されたモデルを、最終的に映画で観られるほどの高解像度のモデルに出力する過程を“レンダリング”と呼ぶ。
が、このレンダリングが大きな問題となる。
何故なら、この処理をコンピュータにさせると、信じられないほど時間がかかるのだ。 具体的には、1フレーム、すなわち24分の1秒をレンダリングするのに、なんと24時間(!)もかかる。 CGIモデリングによっては、48時間以上かかる事も希ではない。
すなわち、たった1秒の映像をレンダリングするのに、なんと3週間以上の24日間もかかるのだ。
ちなみに、レンダリングに使用されるのは一般的なPCではなく、CGI専用のワークステーションサーバである。 一般的なPCだと、1フレームレンダリングするのに1年以上(!?)かかる事もあるそうだ。
このように、CGIは予算が節約出来る反面、非常に長い時間が必要になるのだ。
そのため、VFXが必要なシーンの撮影は、さっさと終わらせてCGIチームにいち早くフィルム素材を渡せるようにする必要があるのである。
CGIがまだなかった時代の本作でもそれは同じで、ミニチュア撮影には職人による時間と労力が必要なので、当時でも特殊効果の撮影は比較的早い段階で行うのが常であった。
が、スピルバーグは本作で、あえてその定石を破っている。
その最も大きな理由は、特殊効果の撮影においても、自身のイメージ通りのショットにこだわったからであろう。 実際、映画ではスピルバーグは、特殊効果監修としてもクレジットされている。
本編撮影と同時進行では、自分のイメージ通りの映像にならないとの判断からだろう。
近年、スピルバーグがこうしたスケジュールを組まないのは、そんな悠長なコトを言ってられないほど多忙だから、と言うのも理由の一つだろうが、最も大きな理由は、プレ・ヴィスの技術が向上したためだろう。 実際、先の『宇宙戦争』でも、スピルバーグはプリ・プロ段階で入念な打ち合わせを行い、VFXが必要なシーンのプレ・ヴィスを重点的に制作している。
プレ・ヴィスがなかった当時は、ストーリーボードに頼るしかなかったが、ジャンセンの見事なストーリーボードを以ってしても、本作の特殊効果ショットを説明するのは難しい。 トランブルにイメージ通りのショットを撮ってもらうには、スピルバーグ自身が監修する必要があったのだろう。
さて、そんなワケで本編撮影は特殊効果が不要なシーンが先に撮影されたが、それ自体は現在のスピルバーグと同じ手順で撮影されている。
すなわち、“大掛かりなシーンを先に撮る”である。
本作の本編撮影は、デビルズ・タワー周辺でのロケからスタートしているが、映画を観てもらえば分かる通り、デビルズ・タワーを背景にしたシーンは、どれも多数のエキストラが必要な大掛かりなシーンばかりである。
こうしたシーンを先に撮るのにはワケがあって、その後の撮影がラクに思えるからなのだそうだ。
確かにそうだ。
何十人、何百人、時には何千人にも及ぶエキストラを整理するだけでも大変なのに、彼らに演出を施して撮影するとなると、考えただけで気が遠くなりそうな手間がかかる。
だが、こうした苦労を先に経験しておけば、後のスタジオ撮影はなんとラクに思える事だろう!
先の『宇宙戦争』でも、群集シーンは比較的早い段階で撮影されている。
大掛かりなシーンを撮影した後、屋内などの小規模なシーンが撮影されたが、ニアリー家とガイラー家のシーンは、外観も屋内も民家を借りてロケ撮影されたが、映画の後半、ついにイカれたロイは、リビングにデビルズ・タワーの巨大な模型を作るが、これを作ったのはアルヴスである。
あの模型に“圧倒的な迫力”を欲しがったアルヴスは、ブルックリー空軍基地の倉庫の一角でアレを作り、トラックで輸送してあの民家に模型を持ち込んだ。
が、アルヴスはココで重大なミスを犯してしまう。 リビングに入れる事を考えていなかったため、模型がデカ過ぎて窓を全部外しても入らなかったのだ!(笑)
仕方なく、アルヴスはその場で模型を切り刻み、数パーツに分割した模型を改めてリビング内で組み立て直したそうだ。
本作では、多くのUFO事件で報告されている超常現象が多数再現されているが、特殊効果を使用しないライブアクション効果を手がけたのは、スピルバーグ作品では前作『ジョーズ』で巨大ホオジロザメの操作を担当したロイ・アーボガストである。
本作の序盤、停電のため上司に呼び出されたロイは、一人で現場に向かう途中道に迷い、列車の踏み切りの前でクルマを停める。 その時、独りでに郵便受けが揺れ、クルマのエンジンは停止し、懐中電灯も点かなくなり、電車が来ていないのに踏み切りが鳴り、空から眩い光が差したかと思った次の瞬間、地図やゴミが無重力状態になったように車内を飛び交う。
これらは全て、アーボガストの手によって舞台装置が制作され、ライブアクションで撮影された。
特に、ゴミが車内を飛び交うショットは、ドレイファスを乗せたクルマ(注:運転席の部分だけを切り取ったモノ)を回転させ、クルマに固定した固定カメラで撮影されたモノだ。 ドレイファスは、シートに固定されて実際にひっくり返された。
ドレイファスは、「シンプルな方法が一番効果的だった。」と語っている。
また、バリーがアブダクションされる直前に、ガイラー家のキッチンで起こった“大混乱”や、これと前後するショットの眩い光も、アーボガストによるライブアクション効果である。
こうした超常現象は、特殊効果を使うよりも実際にライブアクションで撮った方が、キャストの反応をリアルにする効果がある(注:ジリアン役のディロンは、あの“大混乱”を事前に知らされておらず、「ホントに怖かった。」と後に語っている。 映画を観ても、ジリアンのビビりようはとてもリアルである)ので、技術的、予算的に余裕があるならば、CGIや合成に頼らずライブアクションで撮るべきである。
しかし、時にはライブアクション効果が上手くいかず、特殊効果に切り替えられたショットもある。
ロイとジリアンが初めて出会う重要なシーンであり、映画の中でUFOがハッキリと映し出される最初のショットがある峠道のシーンでは、クレーンを使ってUFOの模型を吊るし、ライブアクションで撮影されるハズだった。
しかし、セットの裏(注:あの峠道は、背景はマット画だが、なんとサウンドステージに組まれたセット!)でクレーンを操作するアーボガストは、道路上で演技する役者たちの姿が見えず、どうしてもタイミングを合わせる事が出来なかった。
そのため、このショットのライブアクション効果は断念され、後にトランブルが撮影した特殊効果のショットが合成された。
さて、本作の見所の一つは、やはり当時最高峰の技術を駆使した特殊効果の数々である。
中でも、クライマックスの“遭遇”のシーンは、実に映画全体の5分の1を占める長いシーンだが、シーン全体に渡って数々の特殊効果が合成された映画最大の見せ場である。
トランブルは、かのスタンリー・キューブリックの“遺産”である『2001年‐宇宙の旅』の特殊効果をキューブリック自身の招集を受けて手がけた人物で、スピルバーグはその卓越した特撮技術に感動し、スタッフのリストを手に入れて彼らに本作の特殊効果を任せようと考えた。
が、実際には特殊効果スタッフの多くはイギリス在住で、アメリカに来てもらう事が出来なかった。 唯一、アメリカ国内在住だったのがトランブルであった。
特殊効果監修を手がけたトランブルとユーリシッチは、後の特殊効果撮影だけでなく、このシーンの撮影にも参加し、映画史上初の試みを行っている。
それが、モーションコントロールカメラによるライブアクション撮影である。
映画の特殊効果に詳しい方なら、「ちょいとお待ちよasamiさん?」と言いたくなるだろうが、まあまあとりあえずアタシの話しをお聴きなさいな。
モーションコントロールカメラとは、パンやズーム、トラックアップ/バックなどのカメラの操作をデジタルテープに記録(注:当時はフロッピーディスクもなかった時代。 デジタルデータは、カセットテープを記録媒体として利用していた)し、全く同じ動作を何度でも繰り返す事が出来る特殊効果装置で、これを使用するコトでバックグラウンドになる実写プレートと、前景になるミニチュアを別々に撮影するクロマキー合成(注:いわゆるブルーバック合成)の精度が格段に向上するという、画期的な特殊効果装置である。
現在は、コンピュータの性能が向上したおかげでさらに完成度の高い合成が可能になったが、やっている事自体は、本作の撮影当時となんら変わりはない。
で、このモーションコントロールをスピルバーグに提案したのは、他ならぬトランブルなのだ(注:スピルバーグは、当時モーションコントロールがどんなモノか知らず、説明を聞いてもホントに出来るか半信半疑だったそうだ)が、システムそのモノを開発したのは、トランブルではなくジョン・ダイクストラである。
ダイクストラは、映画『スターウォーズ』の戦闘シーンのために、映画の総製作費の約半分、実に400万ドル以上(!)をかけて、このシステムを開発した。 当時はパソコンもなく、カメラをコントロールするコンピュータそのモノの開発から始めたそうだ。
苦労の甲斐あって、システムはなんとか完成し、映画『スターウォーズ』のスピード感溢れる特殊効果の数々は、観客を熱狂させた。
この功績が高く評価され、ダイクストラは視覚効果賞と特別業績賞でオスカーを獲得している。
が、このダイクストラの成功の影には、実はトランブルの存在があった。
元々、ダイクストラはトランブルの助手であり、トランブル自身が監督した映画『サイレント・ランニング』(72年)の制作に参加していた人物で、トランブルの一番弟子だった。
そして、トランブルはルーカスから、『スターウォーズ』の特殊効果監修を依頼されたが、ナゼかトランブルはこれを断り、代わりに推薦したのが、一番弟子のダイクストラであった。
トランブルは、ダイクストラが開発したモーションコントロールカメラを借りて、本作の特殊効果を手がけたのである。(注:師匠の頼みならば、いかなダイクストラでも断れなかったのだろう)
しかし、そこはさすが師匠である。 トランブルは、ダイクストラよりも一枚上手だった。
映画『スターウォーズ』では、ライブアクションと特殊効果の撮影は完全に切り離されており、ダイクストラはスタジオにこもって、試行錯誤を繰り返しながらモーションコントロールカメラを使ってミニチュア撮影を行った。 が、映画『スターウォーズ』でモーションコントロールカメラが使われたのは、飽くまでも“ミニチュア撮影に限り”であった。 システムの開発と同時進行だったため、同時に撮影されていたライブアクションには、モーションコントロールを使用する事が出来なかった。
しかし、製作が半年ほど遅くスタートした本作では、本編撮影が始まる頃にはモーションコントロールカメラが完成の域に入っており、後の特殊効果撮影のみならず、それよりも前に行われた本編撮影にも使えた。
こうしてトランブルは、映画史上初めて、モーションコントロールカメラによるライブアクションの撮影を成功させたのである。
で、そのトランブルがユーリシッチと共に手がけた特殊効果の撮影に関してだが、本作の特殊効果撮影では、予算的な問題から普段はあまり行われない試みがなされている。 それが、65ミリフィルムによる撮影である。
通常、映画の撮影に使われるのは、スティルカメラ(注:フィルムを使用する静止画カメラの事)と同じ35ミリフィルムが使用され、本作でも本編撮影は基本的に35ミリのパナビジョン社製アナモフィックレンズカメラが使用されている。
が、特殊効果を入れるショット、及び特殊効果撮影には、その2倍のフィルム幅で4倍の解像度を持つ65ミリフィルムが使用されている。(注:もちろん、カメラも専用のモノ。 デカい上にかなり重い。 元々はMGM社が開発したモノで、58年の超大作歴史劇、『ベン・ハー』では全ての撮影でこの65ミリカメラが使用されている)
当時の特殊効果の主力テクノロジーはクロマキー合成だが、合成する際にフィルムを重ねて複製する(注:これを“デュープケーション”、あるいは略して“デュープ”という)と、画質が劣化するという欠点があった。
特に、フィルムプレートを3つも4つも使う複雑な合成や、いわゆる多重露光(注:一度撮影したフィルムを現像せずに、巻き戻してさらに別の被写体を撮影する特撮技術。 映画黎明期の20世紀初頭には既に発明されていた)によって何重にも重ねて撮影すると、その度に画質は劣化し、“合成跡”として完成した映像に残ってしまう。
これを避けるには、合成回数を減らすか、あるいは最初から高解像度のフィルムを使うしかない。
しかし、後者はカメラやフィルムが高価なため、予算的な問題からあまり使われる事がなかった。
が、本作はフィリップス夫妻の努力が実り、実に2000万ドルという当時としては破格の予算が確保された事で、スピルバーグはトランブルから提案されたこの65ミリフィルムの使用にGOサインを出した。
こうして、本作の特殊効果は全て、高価だがデュープによる画質の劣化が極めて小さい、65ミリフィルムを使用して撮影された。
実際、本作の特殊効果は、合成跡がほとんど見られない、当時としては最高峰の完成度を誇る特殊効果になっている。(注:ただし、前出の通りノミネートはされたが、オスカー受賞は『スターウォーズ』に譲る事になった)
さて、本作の影の主役と言えば、やはり映画の最後の最後に登場し、観客に強烈なインパクトを与えた超巨大UFO、“マザーシップ”の存在を置いて他にはないだろう。
マザーシップの特殊効果撮影は、トランブルがモーションコントロールカメラを使用したライブアクションの実写プレートに合成するミニチュア撮影と平行して、デニス・ミューレンが専任で撮影を行った。
スピルバーグのアイディアを元に、マッカリーが描いたマザーシップのコンセプトアートは、ミニチュア担当のグレゴリー・ジーンの手に渡され、マザーシップのミニチュアが制作された。
ジーンは、初めに手のひらサイズの小さなミニチュアを作り、スピルバーグの承認を得てから撮影に使用するミニチュアを制作した。 が、これが意外にデカかった。
縦横高さ、それぞれ1メートル近い大きさで、しかもモーションコントロール撮影のためにある程度の剛性が必要だったので、アルミなどの金属パーツも多く、加えてあの色とりどりのイルミネーションライトをネオン管で再現しているのだが、ネオン管制作者のラリー・アルブライトによるネオン管は膨大な量になり、ミニチュアのクセに総重量100kg(!)を超えるモノだった。
そのため、ミューレンはミニチュアを動かすのにも一苦労で、撮影を振り返って「何をするにもとにかく重かった。」と当時を語っている。
また、マザーシップの撮影は全て、スモークを使って撮影されている。
これは、空気遠近法を再現するためのモノである。
空気遠近法とは、消失点遠近法(注:画面のある一点に向かって、手前から奥へと線を集中させる遠近法。 イラストやマンガ、絵画などの場合は基本的にこの遠近法を利用して作画する)とは異なり、線画ではなくペイントの段階で利用される遠近法の事で、ダ・ヴィンチが得意としていた遠近法である。
空気中に含まれる水分(注:水蒸気)の関係で、対象が遠くなれば遠くなるほど、青白く霞んだように見える。 これを、色を置く時に再現する技法が、空気遠近法である。
ミニチュア撮影の場合、設定が何であれ、被写体は飽くまでもミニチュアなので、カメラの絞りとピントをどんなに調節しても、この空気による遠近感がフィルムに写ってくれない。 被写体との距離が近過ぎるからだ。
そこで、スタジオ内にスモークを焚き、空気中の水蒸気が濃くなった状態を再現する。 そして、その中で撮影すると、空気による遠近感が実際の被写体の大きさよりも強調され、被写体が設定通りの大きな物体になったかのようにフィルムに写る、というワケだ。
この方法は、現在でもミニチュア撮影では一般的に使われている技法である。
ただ、現在は改善されているが、当時はスモークに使われている薬品に人体に有害な物質が含まれていた事もあり、ミューレンはスタジオの一角にスモークがないエリアを作り、その場所で待機しながら撮影を続けたそうだ。
現在は、映画の撮影で使用されるスモークや爆破用の火薬、血のりなどに人体に有害な物質が含まれないように規制されているが、当時はまだ規制が甘かったそうだ。
ちなみに、このマザーシップにはなんと、『スターウォーズ』のR2-D2が乗っている!
マザーシップの登場するシーンで、ロイとジリアンの背後にマザーシップの巨大な船体が迫るショットがあるが、この時逆さまになってマザーシップの船体からぶら下がっているR2-D2のシルエットが見える。
ほんの一瞬しか映らないが、これはミューレンのアイディアで、本人曰く「面白いかもと思ってやった。」のだそうだ。
これをキッカケに、スピルバーグとルーカスはお互いの作品の中でお互いの映画のキャラクターをカメオ出演させるという“お遊び”を何度かやっている。
言われなければ分からないようなモノもあるが、ぜひ一度探してみて欲しい。(注:代表的なトコロでは、『E.T.』や『インディ・ジョーンズ』シリーズがある。 『E.T.』の方はかなり分かり易いが、『インディ・ジョーンズ』シリーズの方は、ホントに“言われなければ分からない”程度のモノである。 筆者も、説明されるまで分からなかった)
そのマザーシップの登場シーンや、その直前に多数の小型のUFOが出現するシーン、さらにはバリーがアブダクションされるシーンなどで、空がにわかに掻き曇り、暗雲が夜空に立ち込めるショットがあったのを覚えているだろうか?
この、UFOが雲の中から現れるというアイディアはスピルバーグによるモノだったが、トランブルはこれを再現する事が出来ず、頭を抱えていた。
そこへアドバイスしたのが、スコット・スクワイヤーズであった。
スクワイヤーズは、水槽の中に塩水と淡水を入れた。 こうすると、比重の違いによって下部に塩水、上部に淡水の層がそれぞれ出来る。 ココに、淡水に溶いた絵の具をたらすと、絵の具は水槽の底まで沈む事なく、塩水の層の表面を横に向かって広がっていく。 この様子を、真っ黒な暗幕を背景に撮影すると、あの夜空に立ち込める暗雲が出来上がるのである。
トランブルは、何度もリテイクを繰り返し、あの特徴的な暗雲をなんとか撮影した。
この技法は、通称“クラウドタンク”と呼ばれ、以降様々なSF映画に利用された。
ただし、利用されたのは90年代前半までで、大作系の映画では94年の『インディペンデンス・デイ』で利用されたのが最後になった。
デジタル革命により、CGIがその代わりになったからだ。
さて、映画のクライマックスにおいて、ロイは人類を代表してマザーシップに乗り込むが、それを見送るラコーム博士たちの前に、ややユーモラスな宇宙人が現れ、挨拶代わりの5音を手話でやったのが印象に残っている人も多いだろう。
スピルバーグ曰く、あれは“交換留学生”という設定の名残りだった。
ロイの代わりに、あの宇宙人が地球に残り、言わば地球に“留学”するというアイディアがあった。
が、このアイディアは最終的にカットされ、後に『E.T.』にそのアイディアを転用したという。
そのため、あの宇宙人のデザインも、後にE.T.をデザインする事になるカルロ・ランバルディが手がけている。
ランバルディは、あの宇宙人のデザインを「後のE.T.の原型。」と語っている。
ただ、あの宇宙人はパペットを制作して撮影されているが、当初は着ぐるみを着た少女を実写で撮影するハズだった。 ってゆーか、実際に撮影され、そのフィルムが残っている。
が、着ぐるみだとあの手話がどうしても上手くいかず、加えて表情が全くの無表情だったので、後日パペット撮影に差し替えられたのだそうだ。
もう一つ、停電する街の全景ショットなどがあるが、これらは全て、マットペインティングによる合成である。
本作の全てのマット画を手がけたマシュー・ユーリシッチは、本作での手腕が買われてこれ以降多数の映画でマット画を手がけている。
ただし、満天の星空が見えるショットは、マザーシップの音に合わせて点滅するイルミネーションライトを手がけたアニメーション担当のロバート・スウォースによるモノである。
4.ポスト・プロダクション
映画製作における仕上げ作業、すなわちポス・プロで何より重要なのは、やはり編集である。 何故なら映画とは、“編集室で作られるモノ”だからだ。
ロケであれスタジオであれ、ライブであれモーションコントロールであれ、撮影されただけのフィルムというのは、飽くまでも映像素材でしかなく、映画とは言い難い。 撮影されただけの映像は、映像であってもシーンとしての意味が与えられていないからだ。
そこで、これを編集し、ブツ切りだった映像を脚本に相当するように繋ぎ合わせ、シーンとして意味のある映像にするのが、編集という作業である。
すなわちフィルムは、編集という作業過程を経る事で初めて、映画としての意味を与えられるモノなのである。
だから、映画とは“編集室で作られるモノ”なのである。
本作の編集を手がけたマイケル・カーンは、当時を振り返って「とにかく大変だった。」と語る。 撮影されたフィルムが多くて、ラッシュを観るだけでも時間がかかったそうだ。
特に、映画のクライマックスである着陸基地の“遭遇”のシーンは、映画のラスト25分を飾る重要なシーンであるが、撮影された映像素材は実に10万フィート(注:約18時間半分)にも及び、スピルバーグも「あのラスト25分が最も難しい編集だったと断言出来る。」と後に語っている。
しかし、その苦労の甲斐あって、あのクライマックスシーンは後の特別編やファイナル・カット版でもほとんど変更されておらず、主に変更が加えられたのは映画の前半から中盤にかけてのシーンである。 恐らく、ラスト25分の編集に時間を取られ、映画の前半部の編集に時間をかけられなかったのではないかと思われる。
これとは別に、編集によってカット、あるいは差し替えられたシーンが多かったのも、これに拍車をかけたモノと思われる。
実際、本作には脚本やストーリーボードで提示され、実際に撮影されたにも関わらず、最終的に捨てられる事になったシーンやアイディアが多い。 スピルバーグ作品としては珍しい事だ。
例えば、映画のオープニングを飾るメキシコの砂漠地帯のシーンは、実はポス・プロ段階で追加撮影されたモノで、脚本の段階では戦闘機が発見されるのは、完成版とは真逆とも言える南米、アマゾンの密林地帯という設定だった。
しかし、密林地帯での撮影に使える予算がなかったため、このアイディアは断念され、その代わりにロフリンがラコーム博士を空港で出迎えるシーンが撮影された。
が、編集の段階でこのシーンはカットされ、現在観る事が出来る追加撮影されたあの砂漠のシーンに差し替えられたのである。
他にも、ジリアンを演じたディロンの両親や家族をカメオ出演させようというアイディアもあった。 バリーをアブダクションされたジリアンは、傷心を抱えて両親の家に行くという設定で、実際にディロンの両親が住んでいるカンザスシティに撮影隊を派遣し、両親や姉妹に出演してもらおうというモノだった。
ディロンも、このアイディアには賛成だった。
が、実現しなかった。 ロケに使える予算がなかったからだ。
代わりに、アルヴスが僅か3日で作った急ごしらえのセットを使い、モーテルでデビルズ・タワーの事を知るジリアンのシーンが撮影された。
さらに、本作に登場するUFOは全て、トランブル(と、ミューレン)によるミニチュア撮影によって表現されているが、実はこれに先立ち、世界初のCGIによるUFOもプリ・プロ段階で試みられている。
トランブルと同じく『2001年‐宇宙の旅』の特殊効果を手がけ、当時LA在住だったコリン・キャントウェルにもスピルバーグは特殊効果を依頼しており、キャントウェルが提案してきたのが、世界初となるCGIによる特殊効果だった。
しかし、当時はまだPCもなかった時代で、僅か数秒のショットでも莫大な費用がかかり、しかも出来上がった映像は劇場の大スクリーンに耐えられない低解像度のモノでしかなく、技術的にも芸術的にも“時期尚早”と判断するしかなかった。
そのため、キャントウェルによる世界初のCGIショットは幻に終わり、83年公開のディズニー初のSF映画、『トロン』に“世界初”を譲る事になった。
映画のクライマックスを飾る着陸基地の“遭遇”シーンは、ボツアイディアが最も多いシーンである。
当初のスピルバーグの構想では、UFOが登場する前に無人偵察機のような役割りを持つライトキューブ(注:アルヴス曰く、「四角いティンカー・ベルの燐粉」)が登場し、人々の間を縦横無尽に飛び回るというシーンが入るハズだった。
実際、このライトキューブはトランブルの手によりそれっぽいモノが作られ、テスト撮影が行われた。 が、あまり上手くいかず、このアイディアは断念された。(注:ただし、このアイディアはかなり簡略化され、ロイがクルマで追いかける小さな発光体に姿を変えた)
また、マザーシップから降りてくる宇宙人は、パペットや着ぐるみを着た少女たち、あるいは後日撮影されたパペットなど様々(注:スピルバーグ曰く、「人類に様々な人種があるのと同じく、宇宙人にも多くの人種がある」)だが、その中に“オランウータンに着ぐるみを着せた宇宙人”というアイディアもあったそうだ。 スピルバーグは、「宇宙人に類人猿の動きが欲しかった。」と語っている。
実際、調教師とオランウータンがセットに呼ばれ、オランウータンに着ぐるみを着せてテストが行われたが、調教されたオランウータンでも着ぐるみを嫌がり、全く言う事を聞いてくれなかった。
そのため、このアイディアは5分で却下された。(笑)
そのプランBとして、数十体の操り人形を使って、宇宙人の集団を撮影しようというアイディアもあった。
しかし、上から吊るしたワイヤーを消す事が出来ない(注:当時はCGIがなかったため。 ワイヤーを消すには、当時は照明を使って消すしかなかったが、数百本にも及ぶワイヤーを照明で消す事など今でも不可能である)ため、このアイディアも断念された。
さらに代替案として、着ぐるみを着た少女たちをアンダークランクカメラで撮影するというアイディアもあった。
アンダークランクカメラとは、通常は秒間24フレームで撮影されるカメラを改造して、秒間12フレーム程度で撮影出来るようにしたカメラである。 これで撮影し、再生の際に通常のfps24に戻すと、実際よりも早送り(注:いわゆる2倍速)の映像になる。
これを使って、動きの早い宇宙人を見せようというアイディアだったが、その代わりに他の出演者たちはスローモーションで動かなければならず、どうしてもこれが上手くいかなかった。
結果、このアイディアは断念され、現在の特にコレといったアイディアがない、比較的シンプルなシーンになった。
もちろん、ミューレンが撮影したマザーシップや、トランブルが撮影した小型UFO、スウォースによるイルミネーションライトのアニメーションなど、既に十分な特殊効果が多用されているシーンなので、これらは無くても問題なかったと言える。
ちなみに、後に問題になった特別編の追加撮影ショットであるマザーシップの内部のアイディアは、実は元々は脚本にあったモノで、ロイが無重力状態でマザーシップの中に吸い込まれていくショットが実際に撮影されている。
が、スピルバーグの考えが変わり、マザーシップの内部は一切見せない事になり、このショットもカットされた。
このように、映画は編集によって映画としての意味と価値を与えられ、中には泣く泣く捨てられる事になるアイディアも少なくない。
しかし、こうして映画は編集の魔法をかけられ、ウィリアムズによる音楽を付け、映画は1977年の夏頃、一応の完成を見た。
しかし、映画が公開されるまでには、さらに紆余曲折を経る事になった。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)
メイド・イン・ヘヴン!!
※- Mania Episode1
お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
今やイパ~ン人の皆さまにもお馴染みとなったメイドさん。 ミニスカだが、デザインそのモノは至極シンプル。 しかし、足元にワンポイントを加えている点が個性的である。
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #09-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
皆さま、大変お待たせしました。 映画『ブレードランナー』の30周年記念非公式究極解説、『異説「ブレードランナー」論:完全版』、予定通り昨日、アップ、完了しましたッ!!!
長く険しい道のりであった……。
……つかね、OCNのブログ人の限界が分かったね。 直接アップ出来なかったんですよ。 どうやら、アップロードするファイルの容量に上限があるみたいです。 サポートによると、30MBが上限らしいです。
今までの小説は、連載版1回当たり1MB程度で、コンプパックでも最大の『Beyond』で6MB程度だったので全く気にしてなかったんですが、今回のはそれらを遥かに上回る50MBオーバー(!)だったので、ブログ人のサバが耐えられなかったようです。つД`)゜。
仕方がないので、OCNのオンラインストレージを使いました。 有料だけど、1ファイル当たり500MBまでおk! と謳われているので、問題ないかと思われます。
まあいいんですけどね? 前々から、オンラインストレージ使いたかったし。
30MBを超えるモノは、今後はこの方法でアップする予定です。
そのため、これまでとDL方法が異なります。
MFD‐WEBにあるリンクからDL専用ページに移動し、ファイルリストの左側にあるチェックボックスにチェックを入れ、“ダウンロード”のリンクを左クリックしてDLして下さい。
以下に、DLページのサンプル画像張っておきますね。
このように、①、②の順で左クリックしてDLして下さい。
DL後は、これまでと同じく解凍してお楽しみ下さい。
がんばって作りました。 画面左のリンクからMFD‐WEBに移動して頂き、上記の手順でDLして下さいませませ。
ヨロシクね☆
<今週の特集>
今週の特集は、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ第8回です。
最後までお楽しみ頂けたら幸いです。
・マイケル・フィリップス/製作
スピルバーグのヴィジョンを実現するためにスタジオに映画を売り込み、予算をかき集めて本作を製作へと導いた立役者、それが、プロデューサーのマイケル・フィリップスである。
1943年、ニューヨークはブルックリンに生まれたフィリップスは、マウント・ホリヨーク大学で経済学を学んでいた頃、後述のジュリアと知り合う。
大学卒業直後の1965年、ひょんな事から『The Fool Killer』という作品で劇中歌の作詞を手がける。 コレがキッカケとなり、フィリップスは映画界で働くようになり、72年には、『Limbo』という戦争映画に役者として出演している。
しかし、経済を学んでいたから……なのかどうかは分からないが(笑)、映画をビジネスと捉えていたらしく、役者の道には進まずプロデューサーの道へと進み、1973年、『Steelyard Blues』というコメディ映画の製作を手がけ、本格的にキャリアがスタートする。
とは言え、何よりフィリップスの名を世に知らしめたのは、同じく73年公開の『スティング』を置いて他にはないだろう。
ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ロバート・ショウという名優が出演したこの作品で、フィリップスは見事オスカーを獲得。 続く76年には、大ヒット作『タクシードライバー』を製作する。
マーティン・スコセッシが監督し、ロバート・デ・ニーロが主演したこの映画は、オスカーにノミネートされるに止まらず、カンヌで大絶賛されパロムドールを獲得するほど高く評価された。(注:ちなみに、この作品には当時まだ13歳の少女だったジョディ・フォスターが、12歳の娼婦という難役で出演している)
翌77年には、スピルバーグから持ち込まれた企画を気に入り、本作の製作を手がけ、これまた大ヒットに導く。
その後は、コメディを中心に数作を手がけ、自身の映画プロダクション、ライトハウス・プロダクションを設立。 90年代以降は、プロダクションの経営者として製作総指揮のみを手がけ、映画製作に直接携わるプロデューサー業からは事実上に引退した。
ちなみに、97年のSFホラー、『ミミック』もライトハウス・プロの作品で、フィリップスも製作総指揮としてクレジットされている。
つい最近、実に23年振りとなる自身のプロデュース作品、『ラスト・ミムジー』(2008年)と『Brother's War』(2008年)を製作したのを最後に、映画界を完全に引退。 現在は、プロダクションの経営にのみ専念し、製作総指揮としても作品にはクレジットされていない。
・ジュリア・フィリップス/製作
フィリップスと同じく、本作の製作を手がけたのは、フィリップスの妻であるジュリア・フィリップス(旧姓:ミラー)である。
1944年、ニューヨークシティに生まれたジュリアは、マウント・ホリヨーク大学で経済学を学び、最終的に修士号まで取得している。
この頃、一年先輩だったフィリップスと知り合い、1965年に結婚。 後に子宝にも恵まれている。
ニューヨークの出版業界で働くようになったジュリアは、しかしフィリップスが映画界で働くようになった関係から、夫を手伝い自身もプロデューサー業を手がけるようになり、夫婦で『Steelyard Blues』(73年)、『スティング』(73年)、『タクシードライバー』(76年)、『The Big Bus』(76年)、そして本作と立て続けに製作。 オスカーやパロムドールにも輝き、ヒットメーカーとしての地位を築く。
が、フィリップスとの夫婦生活は順調とは言い難く、まだ『ジョーズ』を製作中だったスピルバーグと知り合った頃の1974年に破局。 以降はビジネスパートナーとしてのみの関係になるが、この関係も長くは続かず、本作製作後に二人は袂を分かつ事になる。
1984年、単独で『2010年』(注:1986年製作のスタンリー・キューブリック監督の名作SF映画、『2001年‐宇宙の旅』の正統な続編。 キューブリックと共に同作の脚本を手がけたアーサー・C・クラークが原作で、前作では不明瞭だった“ナゾ”の多くが解明されている。 ピーター・ハイアムズ監督、ロイ・シャイダー、ボブ・バラバン出演)をノンクレジットながら製作。
さらに、88年の『The Beat』を手がけ、同じく88年の『The Boost』ではノンクレジットだが製作総指揮を手がけている。
91年には、フィリップスが製作総指揮を手がけた『Don't Tell Mom the Babysitter's Dead』で製作を手がけ、フィリップスと14年振りのコンビを組む事になったが、ジュリアにとってはこれが映画界での最後の仕事となった。
この映画と前後して、映画界を痛烈に批判した自伝を発表。 アメリカの主要新聞社であるニューヨークタイムズのベストセラーランキングにリストされるほどのセールスを記録したが、これが論争の的になり、ジュリアは映画界から身を引く事になった。
その後の足取りは不明だが、2002年のお正月、ウェストハリウッドの自宅でジュリアは帰らぬ人となった。 享年57歳の早過ぎる死は、癌による闘病生活の後のモノだった。
ちなみに、『スティング』でオスカーを獲得したジュリアは、女性プロデューサーとしては史上初の作品賞受賞者である。
また、彼女の父は、ロスアラモス国立研究所に勤務していた科学者で、第二次大戦中に原爆開発に携わっていた人物なのだそうだ。
……と、いうように、本作を製作したスタッフの多くが、それ以前、あるいはその後、極めて高い評価と名声を得た人物ばかりで、現在も活躍しているヴィルモス・ジグモンドやジョン・ウィリアムズ、デニス・ミューレン、マイケル・カーンなどは、最早ジョン・フォードやスタンリー・キューブリック、ジョン・ウェインやスティーヴ・マックイーンらと肩を並べるハリウッド・レジェンドに加わってもおかしくない人物ばかりである。
一流のスタッフによって製作された本作は、間違いなく映画史に残る傑作の一つと言えるだろう。
・Behind the Scene
それでは、そんな彼らが本作にどのように携わっていたのか?
その疑問に答えるため、ココからは映画製作の舞台裏を掻い摘んで紹介していく事にしよう。
1.映画化までの道のり
スピルバーグが映画『ジョーズ』を製作していた74年頃、スピルバーグは次回作の構想として、地球外知的生命体と地球人とのファンタジックな交流を描いたSFを撮りたいと考えた。 そして、『ジョーズ』の撮影と平行して最初の脚本を執筆する。
当時、既に『スティング』でオスカーを獲得していた映画プロデューサー、フィリップス夫妻と知り合っていたスピルバーグは、二人にこの脚本と映画の企画書を持ち込んだ。(注:未確認情報だが、『ジョーズ』のプロデューサーであるブラウンとザナックは、この企画に乗り気でなかったらしい。 ブラウンとザナックは、『ジョーズ』の続編を制作したかったようだ。 実際、二人は78年に『ジョーズ2』をプロデュースしている。 が、スピルバーグが監督を固辞したため、映画は“続編は低質”の定説通りに失敗してしまう)
フィリップス夫妻は、この企画を一発で気に入り、スタジオ探しと予算確保に奔走した。
最初は『ジョーズ』と同じユニバーサルに企画が持ち込まれたが、ユニバーサルはアッサリ不採用にしてしまう。 その後も、夫妻は複数のスタジオを当たったが、結果は何処も同じだった。
その理由の一つに、予算の問題がある。
当時、SF映画は特殊効果のために膨大な予算が必要なジャンルであるにも関わらず、あまり収益を上げられないコストパフォーマンスの悪いジャンルだった。 実際、『未知との遭遇』と同じ年に公開された『スターウォーズ‐エピソードⅣ:新たなる希望』は、当時社長に就任したばかりの元映画プロデューサー、アラン・ラッド・Jrの鶴の一声で20世紀フォックスが制作しているが、映画の失敗が懸念されたため、スタジオは出資を渋り、僅か840万ドルという、当時としても低予算な資金しか出さなかった。(注:さらにルーカスは、映画の特殊効果のためにILM社を設立し、この映画で初めて使用されたモーションコントロールカメラの開発に予算の約半分をつぎ込んでしまい、映画の予算不足は撮影中に深刻な問題になった)
これと同じで、SFという当時は“売れないジャンル”だったこの企画には、その壮大なスケールに膨大な予算が必要になると予想し、どのスタジオも尻込みしていたのだ。 実際、『スターウォーズ』を制作した20世紀フォックスもこの企画に難色を示し、他のスタジオでは僅か250万ドルという超低予算を提示された事もあったとか。
しかしジュリアとマイケルは、スピルバーグに「予算は任せろ。」と胸を張って言った。
最終的に、コロンビア(注:現ソニー・ピクチャーズ)が制作にゴーサインを出し、フィリップス夫妻の奔走の結果、「任せろ。」の言葉通りに、当時としても大作規模となる2000万ドル(!?)という破格の予算が確保され、映画製作は順調なスタートを切る……かに見えた。
が、ココからが大変だった。
前章で記した通り、キャスティングが難航し、加えてスピルバーグの脚本の改稿も遅れに遅れた。
そこでスピルバーグは、脚本の改稿に際しアドバイスを与えてくれる人物を、映画界以外から招く事にした。 それが、当時UFO現象のリサーチに使用していた関連書籍の著者、J・アラン・ハイネック博士であった。
アメリカ政府が公式に行っていたUFO現象調査計画、“プロジェクト・ブルーブック”の顧問を務めていたハイネック博士は、プロジェクトの閉鎖後、自費で研究室を立ち上げ、独自にUFO現象の調査と研究、並びに著作の執筆を行っていた。
言わば、UFO研究の第一人者であった。
50年代の第一次UFOブームの頃、これに便乗する形で『地球の制止する日』(51年)や『宇宙戦争』(53年)などがヒットしていたが、実際のUFO現象とはかけ離れた描写が多く、いかにもSF然としたモノであった。(注:もちろん、それでも名作である事に変わりはない。 今観ても、どちらも深いテーマを有した素晴らしい作品である)
しかしスピルバーグは、こうした描写を嫌い、実際のUFO現象、そして“本当に宇宙人が地球にやってきたら?”を前提としたリアルな描写にこだわった。 これを脚本化、そして映像化するには、スペシャリストのアドバイスが不可欠だったのだ。
そうして召集されたのが、ハイネック博士である。 ハイネック博士は、映画に特別な意義を見出し、スピルバーグに問われるままに逐一アドバイスし、脚本の改稿に協力した。
結果、脚本は見違えるほど良くなったと言う。
ハイネック博士は、その後もテクニカル・アドバイザーとして撮影に参加し、クライマックスのデビルズ・タワーのシーンでは、1カットだけだがカメオ出演もしている。
ハイネック博士の存在は極めて大きく、スピルバーグは敬意を表し、仮題だった映画のタイトル(注:候補としては、50年代の映画から引用した『The Thing from Another World』や、劇中のセリフとして脚本に書かれ、本書のタイトルにも引用した『Watch the Skies』などがあったらしい)の変更を決断した。 本作のタイトルである『未知との遭遇』(原題:Close Encounters of the Third Kind=“第三種接近遭遇”の意)は、実はハイネック博士の著書に記されていた語をそのまま借用したモノである。
ハイネック博士は、著書の中でUFO現象の分類を試みており、博士は“接近遭遇(Close Encounters)”という造語を定義した。 そして、これは大きく分けて3段階に分類出来るとした。
第一種接近遭遇は、それが何であるかは別にして、“何か”を目撃する事である。
夜空に浮かぶ小さな光、あるいはそれが、現代科学では不可能な飛行をする様子や、地球上の生物とは思えない存在を目撃する現象である。
第二種接近遭遇は、何らかの形で物的証拠が残る現象である。 音や光が記録されたり、停電や電話の不通、焦げ跡や物体の不自然な変形などだ。
そして、第三種接近遭遇とは、それを超える物的証拠、すなわち“彼ら”本人に、直接出会う事である。
スピルバーグは、ハイネック博士に敬意を表し、この語を映画のタイトルとして最終決定する。
しかし、スタジオ側はこれに難色を示した。
当時は、ハイネック博士の著書が出版されて間もない頃で、しかもUFO現象に対する民衆の関心が薄れていた時代だったので、今では一般的になった“第三種接近遭遇”という語は、しかし当時は全く一般に認知されておらず、スタジオの重役陣も「意味が分からない」とタイトルの変更を要求した。
しかし、スピルバーグはこれに折れる事なく、スタジオ側に何度も掛け合って、なんとかこのタイトルを守る事に成功した。
ハイネック博士も、これには喜んでくれた事だろう。
スピルバーグは、「映画を撮るよりもタイトルを守るのが大変だった」と後に語っている。
脚本の改稿が続けられる中、しかしスピルバーグは自身だけでは脚本が完成しないと判断し、複数の脚本家に協力を仰いでいる。
最終的に、彼らの名前は映画のクレジットには入れられなかった(注:入れると組合の関係でギャラを払わなくてはならなくなるため。 脚本家自身が了解すれば、こうしたノンクレジットでの協力は、実は公表されていないだけで結構よくある事だったりする)が、『続・激突!‐カージャック』の脚本を手がけたスピルバーグの旧友で、後にルーカスがビデオゲーム製作のために設立したルーカス・アーツで『インディー・ジョーンズ』や『スターウォーズ』のゲーム化作品の脚本を多数手がける事にハル・バーウッド。
バーウッドと共同で『続・激突!‐カージャック』の脚本を手がけ、後にスピルバーグが製作総指揮を務めたファンタジックSF『ニューヨーク東8番街の奇跡』(87年)では、脚本と共に監督も手がける事になるマシュー・ロビンス。
本作以降、主にTVシリーズで脚本と共に製作も手がけるようになり、スピルバーグとは89年に『オールウェイズ』で再び仕事をする事になるジェリー・ベルソン。
そして、後にTVシリーズの脚本を多数手がけ、しかしスピルバーグとはこれが最初で最後の仕事になったジョン・ヒル。
さらに、監督として多数のTV映画を手がけ、後にプロデューサーとして『エイリアン』シリーズを製作する事になるデイヴィッド・ガイラーもまた、脚本の改稿に協力しているそうだ。
彼らの協力によって、スピルバーグは何度も改稿を繰り返し、ようやく最終決定稿となる脚本を完成させたのである。
ちなみに、撮影台本はベルソンとスピルバーグによる共著。
また、バーウッドとロビンスは、クライマックスのシーンでマザーシップから降りてくる行方不明になっていた空軍パイロットの役で映画にカメオ出演している。
2.プリ・プロダクション
脚本の改稿が続けられていた1975年、映画『ジョーズ』が公開されると同時に、スピルバーグは本作のプリ・プロをスタートさせた。
そして最初に召集されたのが、美術のジョー・アルヴスであった。 アルヴスは、『ジョーズ』の公開初日に、スピルバーグから本作の美術を担当してくれるようオファーを受けたのだと言う。(注:恐らく、初日舞台挨拶の打ち上げの席でではないかと思われる)
スピルバーグのオファーを快諾したアルヴスは、早速脚本を読み、本作に必要なスタジオセットのデザインと、ロケ撮影する場所のロケハンを行った。
特に、既に脚本に書かれていたクライマックスの“遭遇”シーンには、印象的なロケーションが必要だった。 スピルバーグの要求は“山”であったが、アルヴスが真っ先に目を付けたのが、あのデビルズ・タワーである。
デビルズ・タワーは、アメリカはワイオミング州北東部のクルック郡、ヒュレットという町の近く(注:劇中にある通り、座標は北緯44度35分25秒、西経104度42分55秒)に実在する岩山で、マグマが冷えて固まった火成岩で出来ており、長い年月をかけて周囲の土や柔らかい石が風雨で削り取られたために出来たモノである。
高さは386メートル。 頂上の平面は、実に5005平方メートルもある。
本作に登場して一気に知名度が上がり、現在は年間実に40万人が訪れる観光名所になっているが、実は1906年にアメリカのナショナル・モニュメント(注:アメリカの文化遺産保護制度の一つで、遺跡保存法という法律に基づいて大統領が指定する。 デビルズ・タワーの他に、インディオ部族の一つであるナヴァホ族の居留地跡や、18世紀に建設されたマタンザス要塞などがある。 ニューヨークの自由の女神もその一つ)第一号に指定されており、周辺は国定公園に指定されている。
だが、撮影許可はそれほど苦労する事もなく得られたようだ。
ちなみに、デビルズ・タワーの特徴であるあの縦方向に刻まれた無数のスジは、雨の侵食によって長い年月をかけて刻まれたモノだが、地元のインディオ部族であるアラバホ族の伝承によると、グリズリー(注:クマの一種)のツメによって付けられたモノだと言われている。
このデビルズ・タワーに“アタリ”を付けたアルヴスは、早速その写真をスピルバーグに見せた。 すると、スピルバーグも一発でコレを気に入り、クライマックスのロケーションに決まった。 文字通りの即決だった。
しかし、デビルズ・タワーは国定公園で、しかも周囲には着陸基地のセットを組めるような開けた場所がないため、着陸基地は別の場所にセットを組む事が早々に決断された。 が、そのセットを組む場所を探すのが大変だった。
屋外セットでは、雨が降ると撮影出来なくなってしまうため、屋内セットにする必要があったが、主要な映画スタジオが所有する既存のサウンドステージでは、アルヴスとスピルバーグが求めるほどの広さがなく、本来は映画用ではない、広大な敷地を有する倉庫を探す必要があった。
いくつか候補はあったモノの、そのほとんどが内部の真ん中に屋根を支える柱が立っており、広さは申し分なくとも撮影には使えなかった。
柱がない倉庫もあったが、倉庫内の一角を造船会社が借りており、実際に船を建造中だったため使えなかった。
こうして、アルヴスは全米中の倉庫を探し回った結果、ようやく条件に合いそうな倉庫を見つけた。 それが、アラバマ州モービルにあるブルックリー空軍基地の倉庫であった。
この基地は、第二次大戦中の1938年、陸軍航空隊(注:当時、アメリカには空軍がなく、航空機は陸軍に所属していた。 空軍が設立されたのは戦後になってから)の基地として建設されたが、69年に閉鎖され、そのまま放置されていた基地だった。
この基地にあった倉庫は、もちろん航空機を保管しておくためのモノで、広さ自体はそれほど広くなかったが、航空機が出入り出来るように出入り口が建物ギリギリまで広く作ってあり、拡張が可能だった。
そこでアルヴスは、出入り口の外に8階建てのビルに相当する高~い足場を4ヶ月かけて組み、そこに真っ黒な暗幕を張って長さ数百メートルの滑走路に相当する部分を作った。
そして、倉庫内部には倉庫の壁際ギリギリまで使って、あの着陸基地が実物大のセットとして“建設”された。
この着陸基地のデザインは、もちろんアルヴスによるモノだが、スピルバーグもデザインの段階から数多くのアイディアを出したと言う。
さらに、アルヴスは科学者や軍が持ち込んだ機材として、“移動可能なトレーラー”を設定し、これが大量のトラックによって輸送されてあの着陸基地が建設された、という設定を思い付く。 そして、これをデザインに生かし、あの倉庫街のような小さな箱状の建物がいくつも立ち並ぶセットが出来上がった。 アルヴス曰く、「トレーラーの町をイメージした」のだそうだ。(注:アメリカには、いわゆるキャンピングカーが集まって出来た集落がいくつもある。 イメージが沸かない方は、映画『インディペンデンス・デイ』を観られたし)
また、このトレーラーの中に設置された機材は、全てNASAから借りたモノである。
アルヴスは、NASAの局員たちに「実際にUFOが飛来するとしたら、どんな機材を現場に持ち込むか?」と訊ね、彼らのアドバイスを欲した。 NASAの局員たちは、この相談に快く答え、自分たちが普段使っている機材を惜しみなく提供した。
こうして、あの巨大セットは完成した。
この他に、ジリアンとバリーの家は、アラバマ州フェアホープにある民家。 ニアリー家は、アラバマ州モービルにある民家。 UFOを追ってロイのクルマとパトカーが通過する料金所は、カリフォルニア州サンペドロにあるセントトーマス橋の料金所。 ロイとジリアンが再会する駅は、ナッシュビル鉄道の駅。 インドのシーンでは、実際にインドのムンバイ郊外にあるハルという村で、それぞれロケ撮影された。
また、着陸基地以外のセットは、コロンビア社のサウンドステージにセットが組まれて撮影されている。
ちなみに、ブルックリー空軍基地の倉庫での撮影は76年の夏に行われたが、撮影中に南部特有の夏の嵐に襲われ、撮影が中断するほどの被害が出た。 倉庫の屋根の半分が吹っ飛び、セットの一部が破損するほどの大惨事だった。
仕方なく、倉庫の修理が終わるまで夜間撮影に切り替えられたそうだ。
天候に左右されないようにと苦労して探した倉庫なのに、結局は天候に撮影を邪魔される結果になった。(笑)
まあそんなモンです。
本作のプリ・プロは、1年近くかけて入念に行われた。
この長期間のプリ・プロ期間を利用して、スピルバーグとアルヴスは映画に登場するUFOのデザインも始めている。
が、アルヴスが提示したUFOのデザイン案に、スピルバーグはなかなかOKを出さなかった。
困り果てたアルヴスは、同業者のデイル・ヘネシーに相談する。 そこでヘネシーに紹介されたのが、当時まだ駆け出しの新人だったジョージ・ジャンセンだった。
ジャンセンの描くイラストは素晴らしく、スピルバーグは気に入った線画に着色するように頼んだ。 ジャンセンはこれを了解し、カラーのコンセプトアートを描いてスピルバーグに提出した。
それを見たスピルバーグは、そのイラストに強いインスピレーションを感じ、ジャンセンにコンセプトアートだけでなく、映画のストーリーボードまで依頼している。
ジャンセンの描いたカラー画には、常に強烈な“光”が描かれていた。 UFOのデザインに関しても、色とりどりのライトがそこかしこに輝くデザインになっており、スピルバーグはその“光”を気に入り、UFOのデザインではこの“光”にこだわる事になった。
このコンセプトは、実際にUFOの特殊効果を担当したダグラス・トランブルに受け継がれ、トランブルは色とりどりのライトが瞬くUFOを多数製作、映画に登場させた。
だが、映画のクライマックスに登場するマザーシップのデザインだけは、スピルバーグはジャンセンのデザイン画にOKを出さなかった。
時間軸が前後するが、インドのムンバイ郊外でインドのシークエンスを撮影していた頃、スピルバーグは滞在していたホテルと撮影現場を行き来する道沿いにあった石油プラントに強いインスピレーションを感じた。 夜間のライトアップされたプラントの様子に、求めていたマザーシップの“光”との共通項を見出したのだ。
そしてスピルバーグは、当時『スターウォーズ』のコンセプトアートを手がけたばかりだったラルフ・マッカリーを召集し、マザーシップのデザインを依頼した。
スピルバーグがマッカリーに伝えたのは、「石油プラントを逆さまにしたカンジ。」というイメージだった。 そして、底面には「LAの夜景をイメージして。」と。
この抽象的な指示は、しかしマッカリーには十分だったらしく、マッカリーは僅か2日で、マザーシップのコンセプトアートを描き上げる。 それを見たスピルバーグは、一発OKを出した。
この二人以外に、トランブル自身もUFOのデザインを提供している。
さらに時間軸が前後するが、本編撮影終了後、特殊効果の撮影に取り掛かったトランブルは、当初看板や企業ロゴをモティーフにしたUFOをデザインした。 中には、Uの字型のUFO2機が合体して、マクドナルドのロゴになるというアイディア(注:この名残が、本編にあるUFOがマクドナルドの看板を見つめるショットである。 後述の通り、結果的に無意味なショットになってしまったため、このショットは特別編以外のバージョンではカットされている)もあったが、結局のトコロ“光”が重要なのであって形は問題ではないという結論に達し、ジャンセンが提示した“光”を強調し、形状そのモノは比較的シンプルなモノになった。
本作を語る上で欠く事の出来ない要素と言えば、音楽を置いて他にはない。 それほどまでに、本作に置ける音楽の占めるウェイトは、極めて重要なモノがあった。
スピルバーグは、地球人と地球外生命体のコミュニケーション手段として、当初数学を使おうと考えていた。 英語圏は地球上の3割程度に過ぎないが、数字は全宇宙規模だからだ。(注:このアイディアは、後にカール・セーガンによって1985年発表の小説作品に取り入れられ、これを原作とした映画『コンタクト』で忠実に再現された)
しかし、スピルバーグはこれに疑問を感じていた。 宇宙人とのコミュニケーションは、もっとドラマティックでファンタジックなモノにしたいと考えていたからだ。
そこで思いついたのが、光と音である。
何故ならどちらも、数字に置き換える事が出来るからである。
本作のクライマックスに、映画のヴィジュアル的象徴の一つになっている色とりどりのライトボードが出てくるが、光による色、すなわち光の三原色は、数字に置き換える事が出来る。
赤、緑、青の3色の明度を256段階に細分化し、この3色の組み合わせによって、光は色を表す。 すなわち、全ての光の色は、RGB256段階の3乗=1,6777,216色という数字に置き換える事が可能なのである。(注:さらに言えば、色の三原色であるCMYKも、%表記によって数字に置き換える事が出来る)
アルヴスは、このスピルバーグのアイディアに同意し、セットデザインにあのライトボードを取り入れた。(注:ただし、最初は大きなスクリーンヴィジョンでこれを再現する予定だったそうだ。 が、途中で方針が変わり、あのライトボードになったらしい。 配線がスゴくて大変だったそうだ。 配線に敗戦!)
同時に、音も数字に置き換える事が可能である。
音は、そもそも周波数という数字であるし、楽譜に使われている音階は、12音一オクターブという単位で数値化出来る。 コンピュータに音楽を演奏させるMIDIシーケンサーも、この原理を応用して音を出している。
このアイディアに同意し、スピルバーグ作品では本作で初めて(そして恐らく最後になるであろう)プリ・プロからの映画製作参加となったのが、コンポーザーのジョン・ウィリアムズである。
ウィリアムズは、あの有名な5音とクライマックスのシーンで流れる宇宙人との“会話”の楽曲を、映画公開の1年以上前に作曲する事になった。
が、“会話”の曲はともかくとして、あの5音にはウィリアムズはほとほと手を焼かされる事になった。
ウィリアムズとしては、もっと長い7音か8音程度の音を使いたかったが、スピルバーグは5音に固執した。 これは音楽ではなく、ドアベルのようなシンプルな音で、メロディやフレーズではなく、もっと単純な“ハロー”程度の意味の“挨拶”なのだと。
これ以上長くては、オペラのような重々しい挨拶になってしまうというスピルバーグの説明に、ウィリアムズは納得するしかなかった。 そして、ひたすらイメージに合う5音の組み合わせを探して、20世紀フォックスのレコーディングスタジオでカンヅメ状態になってピアノに向かう日々を続けた。
結果、約300通りの組み合わせが出来上がったが、スピルバーグはOKしてくれなかった。 が、これが限界だとウィリアムズはついに泣きが入り、スピルバーグに妥協を求めた。
トコロがスピルバーグは、その場で数学者の知人に電話し、「12音の中から無作為に5音を選び出す組み合わせは何通りあるか?」と訊ねた。
1時間ほどして返ってきた答えは、なんと13万4千通り(!!)であった。
仕方なく、ウィリアムズは音を探し続けた。(笑)
数日後、ついにウィリアムズは、あの5音を探し当てる。 が、その時ウィリアムズは、その組み合わせに印を付けただけで、音探しを止める事はなかったという。
後日、楽譜に付けられた印を見つけたスピルバーグは、実際に演奏された音を聴いた上で、「これだ!」とOKを出した。
ウィリアムズの長い長い音探しの日々は、ようやく終わりを告げた。
この5音は、後に映画の代名詞となり、007シリーズの第11作、『ムーンレイカー』(79年)に、暗証番号式のドアロックの音としても引用された。
そしてウィリアムズは、この5音を出発点に、映画でも一際華やかなあの“会話”の楽曲を書き上げた。 この楽曲は、実際の撮影現場でも流された。
この2つの音楽は、同時に特殊効果担当のスタッフにも渡され、アニメーション担当のロバート・スウォースの手によって、音に反応して光るマザーシップのライトが明滅するデザインに生かされた。 スウォースは、音を色に置き換えて、ライトボードとシンクロするようにライトをデザインしたそうだ。
こうして、入念な下準備が行われた上で、本作は1976年5月16日、デビルズ・タワーのロケから本編撮影がクランクインした。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)
和洋折衷和装。
※- Mania Episode1
お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
和装はよく誤解される事が多いが、これはあまりにも確信犯的誤解。 ってゆーかむしろ曲解。 ……まあ、それが良いんですけどね?(←いいんかい!)
ちなみに、足元はいわゆる“ぽっくり”。 舞妓はんが履いてるヤツですね。
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #08-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
最近、ちょいとお疲れ気味です。
ブログの連載ネタと、MFD‐WEBのPDF版の執筆が忙しくて……。 焦ってるつもりはないんですが、ちょっとコン詰め過ぎかにゃ~?
でも、今年はアニバーサリーイヤー作品が多いので、これを機にやっておかないと次にやれるチャンスがいつになるか分かったモノじゃないんで。
負けるなオレ!
がんばれオレ!
ちなみに、現在連載中の『Watch the Skies』の原稿は既に校了済み。 PDF版の編集も終わってたりします。
未校正なので公開はまだまだ先のハナシ、……ってゆーか、それよりも前に公開する予定のモノを優先しなきゃなので、しばらくは連載版をお楽しみ下さい。
ちなみにちなみに、現在は次の連載ネタの執筆に入ってます。
それとは関係ありませんが、次の総選挙っていつなんですかね? 早く政権交代してほしいです。
<今週の特集>
今週の特集は、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ第8回、今回から新章突入です。
最後までお楽しみ頂けたら幸いです。
第3章:バイオグラフィ:スタッフ
この章では、スピルバーグと共に脚本の映像化に情熱を捧げたスタッフのバイオグラフィを紹介していく。
また、本作の映画化までの道のりや、製作の裏側などのエピソードも合わせてこの章で紹介していこうと思う。
・J・アラン・ハイネック博士/テクニカル・アドバイザー
スピルバーグの要請で本作のテクニカル・アドバイザーを務めたのは、UFO研究の第一人者として多数の著作を遺した天文学者、J・アラン・ハイネック博士(本名:ヨーゼフ・アラン・ハイネック)である。
1910年、チェコから移民してきた両親の間に生まれたハイネック博士は、シカゴで幼少期を過ごした。
1935年、シカゴ大学で天体物理学の博士号を取得した後、ヤーキス天文台に就職し、オハイオ州立大学では物理学と天文学を学んだが、第二次大戦の勃発と同時に民間科学者としてジョンズ・ホプキンス大学の応用物理学研究所でアメリカ海軍の軍事兵器の開発に携わる事になる。
戦後、人工衛星の開発に携わる傍ら、1947年に当時設立されたばかりのアメリカ空軍の要請であるプロジェクトに携わる事になった。 アメリカ政府が史上初めて、公式に立ち上げた未確認飛行物体調査計画、“プロジェクト・サイン”であった。
1947年6月に起きた、いわゆる“ケネス・アーノルド事件”(注:詳細は第5章にて詳述する)をキッカケに続発したUFO目撃事件を調査するという名目で始められたこのプロジェクトは、しかし世間一般がそうであったのと同じく、ハイネック博士自身も極めて懐疑的だった。
調査開始から2年後の1949年、プロジェクト・サインは“プロジェクト・グラッジ”と名前を変え、さらに多岐に渡る調査が続けられたが、UFOや地球外知的生命体の存在を証明する証拠は見つけられなかった。
グラッジ発足から3年後の1952年、プロジェクトは“プロジェクト・ブルーブック”と名前を変え、これは1969年までの実に17年間(!)も続けられた長期プロジェクトになった。
合計20年以上に及ぶこれらプロジェクトで、ハイネック博士は科学顧問を務めたが、膨大な数の目撃、あるいは遭遇情報を調査するも、結局博士はその存在を決定付ける証拠を見つけられなかった。 それどころか、調査したほとんどの情報が、目撃者の狂言である事を立証しただけだった。
しかし、博士はココである重要な発見をする。
調査した情報の中で、ほんの僅かな数(注:とは言っても、件数は数百に及ぶのだが)だが“説明不可能”と結論付けた情報があったのだ。
その存在を証明する証拠ではなかったが、その真相がなんであれ、最新の調査機器と科学理論を以ってしても、“説明不可能”と結論せざるを得ない情報があったのである。(注:飽くまでも“説明不可能”。 博士自身、これらをその存在の証拠と結論付けてはいない)
これに気付いたハイネック博士は、独自にUFO研究を続ける事を決意。 1973年、UFO調査団体“UFO研究センター”(注:通称CUFOS。 シカゴに研究室が開設された)を設立。 さらに膨大な数の現象の調査を開始した。
同時に、その調査を通して得た情報をまとめた本の執筆を開始。 UFO現象の分類なども、これらの著書の中で試みられている。
この複数の著書がスピルバーグの目に留まり、本作のテクニカル・アドバイザーに就任。 脚本の改稿に協力し、設定やセットデザインなどにもスピルバーグに問われるままに細かくアドバイスした。
また本作では、ワンカットだけだがカメオ出演もしている。
本作公開後の1978年、ハイネック博士は国連総会に出席。 トリュフォーが役作りの参考にしたと語ったフランスのUFO研究家、ジャック・ヴァレーらと共同で、国際的なUFO調査機関の設立を提案するスピーチを行った。
このスピーチは、1980年代に本格化する事になるSETI=地球外知的生命体探査計画に拍車をかけるキッカケになったと言える。(注:ちなみに、この探査計画にはスピルバーグも出資した事があるらしい)
多数の著作を記した後、1986年、アリゾナ州のスコッツディールにて脳腫瘍を患い死去。 享年75歳。
UFO研究の第一人者として、博士の研究は今もなお、多くのUFO研究家に影響を与え続けている。
ちなみに、博士の息子のジョエル・ハイネックは、父親の影響からかSFに興味を持ったらしく、なんと映画の視覚効果を手がけるようになり、87年の映画『プレデター』では、プレデターを最も特徴付けた視覚効果であるあの光学迷彩の監修を手がけた他、2002年の『トリプルX』や2004年の『ステルス』などの視覚効果監修を手がけ、現在も活躍中である。
・ジョージ・ジャンセン/コンセプチュアル・アーティスト
本作に登場する様々な形状の小型の宇宙船のデザイン、並びに本作のストーリーボード(注:絵コンテ)を提供したのは、イラストレーターのジョージ・ジャンセンである。
……が、筆者のリサーチではジャンセンに関する詳細なバイオグラフィを見つけられなかった。 出身も生年月日すら分からなかった。 すまぬ……。つД`)゜。
なので、ココではカンタンにフィルモグラフィを記すに止める。 予めご了承頂きたい。
1972年、『Savages』という作品の製作にイラストレーターとして参加しキャリアがスタート。 翌73年から74年にかけて、主にTVシリーズ作品にレイアウト担当のアニメーターとして複数の作品に携わる。 代表作には、実に22エピソードでアニメーション・エフェクトのレイアウトを手がけた『スタートレック』シリーズや、後に実写版やリメイク版、リバイバル版などが多数製作される事になる『名犬ラッシー』の最初のTVアニメ版でも、レイアウト画を提供している。
プロダクション・デザイナーのデイル・ヘネシー(注:兼アート・ディレクター。 プロダクション・デザイナーとしては、テリー・ガーも出演していた『ヤング・フランケンシュタイン』や76年版『キング・コング』、今もなお、多くのファンを魅了している名作ミュージカルの82年の映画化作品、『アニー』などがある。 アート・ディレクターとしては、71年公開の『ダーティー・ハリー』がつとに有名)の紹介で本作にUFOのデザイン画やストーリーボードを提供した後、再びスピルバーグの召集を受けて『1941』(79年)の製作に参加。
その後、84年の『ロマンシング・ストーン』、同じく84年の『デューン/砂の惑星』、91年の『ターミネーター2』、92年の『ホーム・アローン2』などの制作に参加。 デザイン画やストーリボードを多数手がける。
しかし、95年の『Three Wishes』という作品を最後に、映画界から姿を消す。
正直、彼が今ドコで何をしているのか筆者には分からない。
結構良いキャリアを積んでると思うんですけどねぇ?
・ラルフ・マッカリー/コンセプチュアル・アーティスト
本作に登場する多数の宇宙船の中でも最も重要な宇宙船、マザーシップのデザインを手がけたのは、ハリウッド映画界において最早伝説的な存在となった感のあるコンセプチュアル・アーティスト、ラルフ・マッカリーである。
1929年、インディアナ州ゲイリーに生まれたマッカリーは、大学で工業デザインを学んだ後、1960年代に当時のマグダネル・ダグラス社(注:後のボーイング社)に入社。 航空機のコンセプトアートやデザインを手がける。
これがジョージ・ルーカスの目に留まり、1975年、まだ脚本すら出来上がっていなかった『スターウォーズ‐エピソードⅣ:新たなる希望』(77年)の製作に参加。 映画のほとんど全てのメカニックデザインやコンセプトアート、さらには小説版の表紙イラストなどを手がける。
結果、その斬新なデザインは極めて高く評価され、映画を成功へと導いた要因の一つとなった。
ルーカスの信頼を得たマッカリーは、『スターウォーズ』と同じ1977年、スピルバーグの招集を受けて本作の製作に参加。 本作の最重要課題であったマザーシップのデザインを手がけた。
ルーカスとスピルバーグという二人の天才の信頼を得たマッカリーは、これ以降二人の製作する作品に数多く参加。 旧三部作の2作目に当たる『スターウォーズ‐エピソードⅤ:帝国の逆襲』(80年)、ルーカスとスピルバーグが初めて(公式に)タッグを組んだ『レイダース‐失われた聖櫃』(81年)、スピルバーグたっての希望で宇宙船のデザインを手がけた『E.T.』(82年)、旧三部作完結編の『スターウォーズ‐エピソードⅥ:ジェダイの帰還』(83年)と、立て続けにルーカス&スピルバーグ作品に携わり、85年にコンセプトアートを手がけたロン・ハワード監督作品、『コクーン』が極めて高い評価を得て、同年公開の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を抑えてアカデミー賞視覚効果賞を受賞。 名実共に、その手腕が確かなモノである事を証明した。
その後、『スタートレックⅣ:故郷への長い道』(86年)や『ニューヨーク東8番街の奇跡』(87年)などを手がけ、93年には再びスピルバーグの招集を受けて『ジュラシック・パーク』のコンセプトアートを手がける。
が、高齢のためこれが最後の作品となった。
工業デザイナーとして培ったリアリティと、映画ならではの視覚的にディフォルメされた独特のデザインは、今もなお、多くの映画製作者に多大な影響を与え続けている。
ちなみに、91年にはノンクレジットだがユニバーサル・スタジオの人気アトラクション、『バック・トゥ・ザ・フューチャー:ザ・ライド』のコンセプトアートも手がけている。
このアトラクションは、後述のダグラス・トランブルが映像パートを監督した作品でもあり、二人は十数年を経て再び同じ作品に携わった事になる。
・ヴィルモス・ジグモンド/撮影監督
本作においてその卓越した技術が極めて高く評価され、オスカーを獲得する事になったのは、1950年代から実に60年以上のキャリア(!)を持ち、今もなお現役(!!)で活躍する名カメラマン、ヴィルモス・ジグモンドである。
1930年、ハンガリーのセゲドに生を受けたジグモンドは、ハンガリーでは有名なサッカー選手(兼コーチ)を父に持つ。 が、父とは同じ道に進む事なく、10代の頃から絵画に興味を持つようになり、大学は国立映画演劇アカデミーに進学。 ココで、ジグモンドは映画製作を学び、映画撮影の修士号を取得。 カメラマンへの道へ進む事になる。
が、その折も折の1956年、ハンガリー革命(注:ハンガリー動乱、あるいはハンガリー事件とも呼ぶ。 当時、ハンガリーを統治していたソ連政府に対する不満からハンガリー国民が一斉蜂起した事件。 ソビエト軍が出動し、実に数千人ものハンガリー国民が殺害された。 ハンガリー国内では、現在は“1956年革命”と呼ばれている)に巻き込まれ、これを避けるためにアメリカへ亡命。 ハリウッドでカメラマンの職を探した。
しかし、英語が不得意だった事もあり、カメラマンの職は見つからず、不遇の時を耐えるしかなかった。
1960年代に入り、いわゆるB級ホラーなどの低予算映画でカメラマンを務めるようになり、当時の最新技術を使って鮮烈な映像を撮るジグモンドの手腕は、業界内で注目されるようになっていく。
1970年代に入ると、アル・アダムソン監督とのコンビで数作のB級ホラーを手がける傍ら、ピーター・フォンダやウォーレン・ベイティーといった名優が主演した西部劇映画も手がけるようになる。
そして、転機となったのは1972年、当時、まだ駆け出しの新人だったロバート・アルトマン監督の初期の名作、『Images』の製作に参加。 映画はヒットし、ジグモンド自身もイギリスオスカーの撮影賞にノミネートされるほど高く評価された。 アルトマン監督とは、後に『ロング・グッドバイ』(73年)でもコンビを組んでいる。
74年には、スピルバーグとの初コンビ作品となった『続・激突!/カージャック』を手がけ、76年には、ブライアン・デ・パルマ監督の『愛のメモリー』を手がけるなど、70年代のアメリカン・ニューシネマの中心的存在であった映画監督たちのことごとくとコラボレーションしている。
77年に再びスピルバーグの招集を受けて本作の撮影監督を務めたジグモンドは、その卓越した映像が極めて高く評価され、同年のオスカーで撮影賞を受賞。 名実共に、一流カメラマンの仲間入りを果たした。
その後、オスカー受賞作の『ディア・ハンター』(78年)、再びデ・パルマ監督とコンビを組んだ『ミッドナイトクロス』(81年)、若かりしメル・ギブソンが主演した『ザ・リバー』(84年)、ジャック・ニコルソン主演のコメディ・ホラー『イーストウィックの魔女たち』(87年)、ポール・ニューマン主演の歴史劇『Fat Man and Little Boy』(89年)、トム・ハンクスとブルース・ウィリスが共演した『虚栄のかがり火』(90年)、メル・ギブソンとジョディ・フォスターが共演して話題になった西部劇『マーヴェリック』(94年)等々、キリがないのでこれぐらいにしておくが、話題作、ヒット作を立て続けに手がけ、ジグモンドはその地位を確かなモノにした。
これらの実績が高く評価され、2003年にはコンラッド・L・ホールやジョーダン・クローネンウェスらと肩を並べ、国際撮影監督協会が選出した“映画史上最も影響を与えた人物”の一人に選ばれている。
現在までに、80作以上の撮影監督を務め、既に80代の高齢ながら、現在も現役バリバリで活躍中である。
最新作は、2012年公開予定のニック・ノルティ主演作、『At 2:15』という作品。 これからも、その卓越した技術で存分に活躍して頂きたい映画人の一人である。
・ジョー・アルヴス/プロダクション・デザイン
本作のクライマックスを飾ったデビルズ・タワーの基地を始め、本作のセットデザインを手がけたのは、初期のスピルバーグ作品を語る上で欠く事の出来ない重要なスタッフの一人、ジョー・アルヴス(本名:ジョゼフ・マヌエル・アルヴス・Jr)である。
1936年、カリフォルニア州サンリアンドロに生まれたアルヴスは、まだ10代だった50年代に業界入りし、複数の作品で特殊効果のイラストレーターやプロダクション・デザインのアシスタントを務める。
この下積み時代は長く続き、1960年代末まで修行の日々を送る事になった。
1960年代末から70年代初頭にかけて、複数のTVシリーズで1エピソード、あるいは数エピソードで美術監督を務めるようになったアルヴスは、自身のキャリアでも転機となったTVシリーズ、『四次元への招待』の美術監督に抜擢される。
往年の名作TVシリーズ、『トワイライト・ゾーン』の脚本家として知られるロッド・サーリング原案のこのミステリードラマシリーズで、アルヴスは実に40以上のエピソードで美術監督を務め、その手腕が注目された。
そして、このTVシリーズが縁となり、パイロット版、及び1stシーズンの1エピソードを監督したスピルバーグと知り合う。 スピルバーグの信頼を得たアルヴスは、74年のスピルバーグの劇場用初監督作品、『続・激突!/カージャック』のプロダクション・デザインを任される。
二人の関係はその後も良好に続き、75年の『ジョーズ』、そして77年の本作と、3作連続でスピルバーグ作品のプロダクション・デザインを手がけた。
特に、本作のプロダクション・デザインは最も高く評価され、ハリウッドオスカーではノミネート止まりだったモノの、イギリスオスカーでは見事美術賞を受賞。 美術監督としての地位を確かなモノにした。
が、スピルバーグとの関係はココで突然の終焉を迎える。
78年、大ヒットを受けて製作が決定した『ジョーズ2』は、しかしスピルバーグが監督を固辞したためアルヴスのみが参加。 そのまま、二人は再びコンビを組む機会を失い、関係は終わってしまう。
ちなみに、アルヴスは『ジョーズ2』にはかなり乗り気で、プロダクション・デザインと共にアソシエート・プロデューサーを務め、ノンクレジットだがセカンドユニットの監督まで手がけている。
その後、ジョン・カーペンター監督、カート・ラッセル主演のアクション、『エスケープ・フロム・NY』(81年)や、同じくカーペンター監督のジェフ・ブリッジス主演のSF『スターマン』(84年)などでプロダクション・デザイン、あるいは美術監修を手がける傍ら、83年には『ジョーズ3D』で監督にも挑戦している。
90年代には、人気ロックバンドのローリング・ストーンズのヴォーカリスト、ミック・ジャガーが出演した事でも話題になったSFアクション、『フリージャック』(92年)や、スティーヴン・セガールの沈黙シリーズ作品、『沈黙の断崖』(97年)などを手がけるが、高齢のためか作品数は激減し、2000年に製作されたインド産フル3Dアニメ、『Sinbad: Beyond the Veil of Mists』が最後の作品となった。 70代も半ばを迎えた現在は、優雅な隠居生活を送ってるとか。
ちなみに、これまでの実績が高く評価され、2005年にはスペインで開催されているシッチェス‐カタロニア国際映画祭という映画祭(注:日本では全く知られていない映画祭だが、1971年に始まった映画祭で、2011年に40周年を迎えた)で、“タイムマシン名誉賞”という特別賞を受賞している。
・ダグラス・トランブル/特殊効果監修
本作において最も重要な要素である特殊効果の数々を手がけたのは、“あの”『2001年/宇宙の旅』(68年)の特殊効果を手がけ、後に『ブレードランナー』(82年)において、後のSF/サイバーパンク系の作品のヴィジュアル・イメージを決定付けた特殊効果の大家、ダグラス・トランブルである。
が、トランブルに関しては、既に拙著、『異説「ブレードランナー」論』にて詳細に紹介しているので、ココでの詳述は割愛する。
詳しくは同書(注:筆者所属サークルのウェブサイト、MFD‐WEBにて2/25よりPDF版公開予定!)の記述を参照して頂きたい。
・デニス・ミューレン/特殊効果監修
本作のクライマックスに登場し、映画のキーヴィジュアルとして観客に強烈なインパクトを与えた巨大UFO、“マザーシップ”の特殊効果を手がけたのは、後に複数の作品で特殊効果を手がけ、多数のオスカーに輝く事になるデニス・ミューレンである。
1946年、カリフォルニア州グレンデールにエルマーとシャーリーンの息子として生を受けたミューレンは、幼少の頃からSFや映画製作に興味を持ち、独学で特殊効果を学んだ。
パサデナシティのカレッジで経済学を学んでいた頃、6500ドルの資金を集めて『Equinox』というSF短編映画を自主制作。 これが、インディペンデント系プロダクションのトニーリン・プロダクション社の目に留まり、同社は8000ドルの資金を提供してミューレンに追加シーンの撮影を指示。 ジャック・ウッズの編集によって、映画は長編映画として1970年に公開された。(注:ただし、ミューレンは監督としてはクレジットされず、特殊効果と、ナゼか共同製作としてクレジットされた)
これを足がかりに、ミューレンは74年版の『フラッシュ・ゴードン』(注:元々は、1930年代に多数製作された連続活劇映画シリーズのリメイク版。 ただし、この74年版はいわゆるコメディ・スプーフで、しかもエロパロだった)の製作に特殊効果スタッフとして参加。 これらの実績がルーカスの目に留まり、76年に設立されたばかりのILM社に入社。 映画『スターウォーズ‐エピソードⅣ:新たなる希望』(77年)の製作に特殊効果監修のジョン・ダイクストラの部下として参加する。
映画は大ヒットし、ダイクストラと共にオスカーを獲得。 『スターウォーズ』と同じ77年には、ルーカスの推薦で本作のマザーシップの特殊撮影を手がける。
転機となったのは本作製作後の1980年、ダイクストラに代わって特殊効果監修としてクレジットされる事になったシリーズ2作目、『スターウォーズ-エピソードⅤ:帝国の逆襲』である。
この作品で、ミューレンは初めて単独で特殊効果監修を手がけ、同年のオスカーで見事、視覚効果賞を受賞。 単独での受賞は、これが初めてだった。
ルーカスとスピルバーグの信頼を得たミューレンは、これ以降、『E.T.』(82年)、『スターウォーズ‐エピソードⅥ:ジェダイの帰還』(83年)、『インディ・ジョーンズ:魔宮の伝説』(84年)、『ヤング・シャーロック:ピラミッドの謎』(85年)、『インナースペース』(87年)、『太陽の帝国』(87年)、『ウィロー』(88年)、『ジュラシック・パーク』(93年)、『ツイスター』(96年)、『スターウォーズ‐エピソードⅠ:ファントム・メナス』(99年)、『A.I.』(2001年)、『スターウォーズ‐エピソードⅡ:クローンの攻撃』(2002年)、『宇宙戦争』(2005年)、さらにTVシリーズの『スーパー8』(2011年)とまあ、ルーカス&スピルバーグのほとんどの作品、及び二人が何らかの形で関係している作品を数多く手がけている。
またそれと同時に、ILMの特殊/視覚効果監修として、『ドラゴンスレイヤー』(81年)、『ゴーストバスターズ2』(89年)、『アビス』(89年)、『ターミネーター2』(91年)、『キャスパー』(95年)、『ハルク』(2003年)なども、ミューレンの仕事である。
映画以外では、ディズニーのテーマパーク、ディズニーランドのアトラクションである『キャプテンE.O.』(注:故マイケル・ジャクソン主演の3DSF映画。 86年公開)や、『スターツアーズ』(注:本国では87年公開だが、日本では前出の『キャプテンE.O.』と入れ替わりになったアトラクション)の特殊効果も手がけており、特に後者では監督も兼任している。(注:さらに、劇中にはカメオ出演までしている!)
これらの実績は極めて高く評価されており、連名を含めて、これまでに14回もオスカーにノミネートされ、この内、後述のジョン・ウィリアムズよりも多い8回もの受賞を経験している。
この受賞回数は、2011年現在で存命している映画人の中で、個人での受賞者としては最多受賞記録になっている。
現在、既に65歳という高齢の域に達しているミューレンだが、これからもその手腕を如何なく発揮し、多くの作品で活躍してくれる事を願わずにはいられない映画人の一人である。
・ジョン・ウィリアムズ/音楽
本作を語る上で欠く事の出来ない重要な要素である音楽を担当したのは、最早紹介するまでもないかもしれないが、現在までに実に60年近いキャリアの中で多くの映画音楽を手がけ、現代最高の映画音楽コンポーザーとして今もなお活躍を続ける名作曲家、ジョン・ウィリアムズ(本名:ジョン・タウナー・ウィリアムズ)である。
1932年、ニューヨーク州フラッシングに生まれたウィリアムズは、父がジャズバンドのパーカッション奏者だった関係で幼少の頃から音楽に慣れ親しむ。
1948年、ウィリアムズとその家族はLAに転居し、ウィリアムズはノースハリウッド高校に入学。 カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(注:UCLAだが、コッポラやスピルバーグが通ったロングビーチ校とはキャンパスが異なる)に進学し、ココで本格的に音楽を学んだ。
このカレッジで、ウィリアムズは後の人生を決定付けるような人物と出会っている。 それが、作曲家のマリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(注:イタリア系ユダヤ人の作曲家で、戦前はオペラの作曲などで名を馳せるも、1930年代にファジズムの嵐が吹き荒れたイタリアからアメリカに亡命し、UCLAで教鞭を取るようになった。 同時に、映画音楽にも携わるようになり、主にMGM社の作品を中心に、最終的に実に200本もの映画に楽曲を提供した映画音楽の父と呼べる存在。 ジェリー・ゴールドスミスもテデスコ門下生の一人。 1895年~1968年)であった。
テデスコに師事したウィリアムズは、UCLAで音楽漬けの毎日を送る。
しかし1952年、当時アメリカには兵役義務があったため、ウィリアムズはカレッジ卒業と同時に空軍に入隊。 音楽隊に所属し、指揮者を務めた。
退役した1955年、ウィリアムズはニューヨークに舞い戻り、ジュリアード音楽院に入学。 ココで、ロジーナ・レヴィーン(注:本名、ロジーナ・ヤコヴレヴナ・レヴィナ。 ロシア系ユダヤ人で、第一次大戦の頃にアメリカに亡命。 ピアニスト、及びピアノ教師として名を馳せる。 1880年~1976年)の指導を受け、ピアノ演奏を学び、同時にジャズピアニストとして活動するようになる。
音楽院卒業後の1958年、ブレイク・エドワーズが監督したTVシリーズ、『ピーター・ガン』のサウンドトラックを手がけたヘンリー・マンシーニ(注:テデスコの弟子の一人。 ウィリアムズの先輩)の召集を受け、ピアニストとしてレコーディングに参加。 これがキッカケとなり、以降TVを中心に複数の作品に携わるようになる。
転機となったのは1965年、TVシリーズの『宇宙家族ロビンソン』で作曲を手がけ、以降はTVを中心にコンポーザーとして活躍するようになる。
この頃の代表作には、『宇宙家族ロビンソン』の他に『タイムトンネル』(66年)、『おしゃれ泥棒』(66年)などがある。(注:他にももっといっぱいあるのだが、多過ぎてココでは書き切れねーッス)
さらに70年代に入ると、再びウィリアムズに転機が訪れる。 『屋根の上のバイオリン弾き』(71年)である。
名作舞台劇の映画化作品であったこの作品において、ウィリアムズは舞台用の楽曲の映画用アレンジを手がけた。 映画は大ヒットし、音楽も高く評価されたこの作品で、ウィリアムズは自身初のオスカーを獲得した。
ただし、実際には編曲をしただけで自身の作曲というワケではなかったため、ウィリアムズはこの受賞を複雑な思いだったと後に語っている。
しかしその直後、そんなウィリアムズに運命の出会いが待っていた。
映画『ポセイドン・アドベンチャー』(72年)や『タワーリング・インフェルノ』(74年)などを手がけていた1974年。
作品のタイトルは、『続・激突!‐カージャック』。
そして監督の名は、スティーヴン・スピルバーグ。
元々、ウィリアムズが音楽を手がけたTVシリーズのファンだったスピルバーグは、自身初の劇場公開用長編映画のコンポーザーとして、念願だったウィリアムズとのコラボレーションを熱望。 それが実現し、これが二人の初コンビ作品となった。
ウィリアムズにとっても、アメリカン・ニューシネマを代表するスピルバーグとのコンビは刺激的なモノだったらしく、これ以降の全てのスピルバーグ作品で音楽を手がける事になる。
1975年、スピルバーグとのコンビ2作目となった『ジョーズ』で、ウィリアムズは初めて自身の作曲でオスカーを獲得。 さらに、スピルバーグの紹介でルーカスの『スターウォーズ‐エピソードⅣ:新たなる希望』(77年)を手がけ、同年公開の本作と合わせてオスカーにダブルノミネートされるという快挙を達成。 ついでに、『スターウォーズ』で3度目のオスカーを獲得する。
ちなみに、グラミー賞でも同じくダブルノミネートされ、こちらではなんとダブル受賞まで果たしている。
スピルバーグ&ルーカスの作品に携わる傍ら、それ以外の多数の映画にも楽曲を提供しており、代表的なトコロを例に挙げると、『ブラックサンデー』(注:後に、『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』などを発表する事になるトーマス・ハリス原作の作品。 77年公開)、『スーパーマン』(78年)、『ザ・リバー』(84年)、『イーストウィックの魔女たち』(87年)、『7月4日に生まれて』(89年)、『ホームアローン』(90年)、『JFK』(91年)、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(97年)、『ハリー・ポッターと賢者の石』(注:前出の『ホームアローン』のクリス・コロンバス監督作品。 以降、『ハリー・ポッター』にはシリーズ3作目の『~アズカバンの囚人』まで携わる。 2001年公開)等々、とてもじゃないが多過ぎてココでは書き切れないほどの作品に楽曲を提供。 現代最高の映画音楽コンポーザーとしての地位を確固たるモノにしている。
それを裏付けるかのように、現在までにアカデミー賞5回、ゴールデングローブ賞4回、エミー賞3回、イギリスオスカー6回、グラミー賞に至っては、なんと18回(!)も受賞するほどの評価を得ている。
また、アメリカオスカーでは受賞回数こそ前出のミューレンよりも少ない5回に止まっているが、ノミネート回数は実に45回(!?)にも上り、これは2011年現在で生存している映画人の中でも最多ノミネート記録となっている。
ちなみに、歴史上のノミネート回数でも、これは歴代2位の記録で、ウィリアムズの上には59回のノミネート回数を誇るアルフレッド・ニューマン(注:コンポーザー。 約40年間のキャリアの中で、実に200本以上の映画に楽曲を提供した。 1900年~1970年)とウォルト・ディズニーがいるだけである。
ちなみに、ウィリアムズはこれまでにアメリカで行われた3回のオリンピック(注:84年のロサンゼルス、96年のアトランタ、2002年の冬季ソルトレイク)の全てで大会公式テーマ曲を作曲し、ロス五輪のテーマ曲ではグラミー賞を受賞している。
また、息子のジョセフ・ウィリアムズは、ヴォーカリストとして人気ロックバンドのTOTO(注:80年代に活躍したロックバンドで、メンバーが流動的に変動しながらも最近まで活動していたが、2008年に一旦活動休止/正式解散。 2010年に再結成し、現在も活動中)の元メンバーだった経験を持つミュージシャンである。
最新作は、2011年公開の『タンタンの冒険‐ユニコーン号の秘密』と『戦火の馬』(注:共にスピルバーグ作品)で、2012年~13年公開予定の作品まで現在製作中。
TV、映画を通して、現在までになんと140タイトル(!!)もの作品に楽曲を提供し、2012年には80歳を迎える高齢ながら、ウィリアムズは現在もまだまだ現役バリバリ。 個人的にも、『ジュラシック・パーク』(93年)や『シンドラーのリスト』(93年)など、ウィリアムズの楽曲はスキな楽曲が多いので、これからも元気に活躍して頂きたいと思う。
・マイケル・カーン/編集
本作で初めてスピルバーグとコンビを組み、以降ほとんど全てのスピルバーグ作品で編集を手がける事になったのは、ハリウッド・レジェンドの一人に数えられる名編集者、マイケル・カーンである。
1935年、ニューヨーク州はニューヨークシティに生まれたカーンは、60年代にTV業界の編集担当としてそのキャリアをスタートさせた。 64年には、『The Bill Dana Show』というTV番組で編集アシスタントとしてクレジットされている。
転機となったのは1965年、『Hogan's Heroes』というTVシリーズに編集者として参加。 71年まで続いたこの長寿番組で、カーンは実に131エピソード(!)で編集を手がけた。
これと前後して、映画でも編集を手がけるようになり、『野獣戦争』(72年)や『激怒』(72年)、『ブラック・ハンター』(74年)、『黄金の針』(74年)、『サウス・ダコタの戦い』(76年)など、複数の作品を手がけ注目される。
二度目の転機となったのは、77年公開の本作である。 本作において、その卓越した編集が極めて高く評価され、惜しくも受賞は逃したモノの、自身初のオスカーノミネート作品になった。
これをキッカケに、カーンはスピルバーグの信頼を得て、これ以降のほとんど全ての作品で編集を手がけるようになり、81年の『レイダース‐失われた聖櫃』、93年の『シンドラーのリスト』、98年の『プライベート・ライアン』で、それぞれオスカーを獲得している。(注:ノミネート数はこれまでに7回。 しかしこれは、編集賞では歴代最多ノミネート回数である。 ちなみに、受賞数もタイ記録だが歴代最多である)
スピルバーグ作品の編集を手がける傍ら、他の作品も数多く手がけており、代表的なトコロを例に挙げると、『ポルターガイスト』(注:スピルバーグ原案の作品。 公開直後に子役の一人が交際相手に殺されて亡くなった事でも有名。 当時は“映画の呪い”と話題になった。 82年公開)、『グーニーズ』(85年)、『危険な情事』(87年)、『フック』(注:ルーカスが原案で、ロン・ハワードが監督した作品。 91年公開)、『生きてこそ』(93年)、『キャスパー』(95年)、『ツイスター』(96年)、『ホーンティング』(99年)、『トゥームレイダー2』(注:以上3作は、ヤン・デ・ボン監督作品。 2003年)、『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』(2004年)、『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』(2010年)等々、様々な作品で卓越した編集手腕を発揮している。
その手腕は、先に記したハリウッドオスカーのみならず、編集者協会賞やイギリスオスカー、エミー賞、サテライト賞など、これまでに30以上のノミネートを受け、内14回も受賞している受賞経験が、それを裏付けていると言える。
最新作は、2011年から2012年にかけて公開が予定されているスピルバーグ作品。
現在までに、TV、映画を通して40年近いキャリアの中で67作品に携わり、既に70代も後半に入った高齢ながら、カーンは今もなお、現役で活躍中である。
ちなみに、カーンは80年代末には既に広く普及していたデジタル編集機器“Avid”(注:アヴィッド、またはエイヴィッド。 いわゆるデジタル編集機器の総称で、元々はルーカスがILMに開発させたノンリニアビデオ編集ソフトがその始まり。 80年代後半になって登場し、80年代末にはほとんどのスタジオが導入するほど急速に普及した。 詳しくは、拙著『異説「ブレードランナー」論』を参照の事)を使わず、実際にフィルムを切った貼ったするムヴィオラやKEM(注:いずれも、戦前から活躍したフィルム編集機器。 KEMは1930年代にドイツで開発されたモノで比較的新しいが、ムヴィオラは1910年代に最初のシステムが開発されている)を使用して編集する事を好み、つい最近までこれで編集していた。
本人曰く、「スピルバーグもフィルムの匂いや質感が好きで、お互いにこの方法で編集するのを楽しんでいる。」と語っている。
また、直接的なコラボレーションはないモノの、ルーカスはカーンを指して、「Avidを使って編集している誰よりも速く、ムヴィオラで編集する事が出来る人物。」と語っている。
Avidを使ったのは96年の『ツイスター』が初めてで、スピルバーグ作品では2011年公開の『タンタンの冒険:ユニコーン号の秘密』が初Avid編集作品になった。 同作品は、スピルバーグ初のフル3DCGIアニメーションで、映像素材は全てデジタルだったので、KEMを使いたくても使えなかったからだ。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)
大胆的中華那衣羽音麻。
※- Mania Episode1
お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
やはりチャイナは定番だが、このパッツンパッツン感はヤヴァいです。 ってゆーかサイドスリットからチラチラするのがまた……! でも、なんでブーツなんですかね?
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #07-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
突然ですがココで、
緊急告知~ッ!!
来る2月25日(土)、昨年当ブログで好評(?)連載した映画徹底解説シリーズ第1弾、『異説「ブレードランナー」論』のPDF版をMFD‐WEBにて公開します!
ブログ連載版を加筆修正し、180枚を超えるスクリーンショットを追加。 さらに、注釈やハイパーリンクを加えた“完全版”です!
以前から何度か言っていますが、『Beyond』の連載も終了したし、今年は新作の予定もないので、旧作の再公開を含めて隔月でPDF版をアップしていこうと考えています。
「偶数月はMFD‐WEBへGO!」
と、憶えて頂けたら良いかと。
第1弾の今月は、『異説「ブレードランナー」論:完全版』です。 お楽しみにッ!!
<今週の特集>
今週の特集は、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ第7回です。
最後までお楽しみ頂けたら幸いです。
・キャスティング秘話
映画のキャスティングというのは、どんな作品でも多かれ少なかれ“秘話”がある。 それは時として、映画本編よりもドラマティックなモノである事も少なくない。
映画『未知との遭遇』のキャスティングは、まさにそんな“ドラマティックな秘話”が多数秘められている。
ドレイファスが主人公のロイ役に起用されるまでには、かなりの紆余曲折があった。
スピルバーグとドレイファスが前作『ジョーズ』の撮影でサマーズビンヤード島に泊まり込んでいた1974年夏、スピルバーグは次回作となる『未知との遭遇』の準備を既に始めていた。 スピルバーグは脚本の執筆も始めており、タイトルや内容は違っていたが、既にプロデューサーやデザイン関係のスタッフともコンタクトを取り、プロジェクトは水面下で動き始めていたのだ。
この頃、ドレイファスはスピルバーグと歳が近く、価値観や考え方もよく似ていたため、『ジョーズ』の製作中にはよく話しをしたという。(注:ドレイファス曰く、「当時はよく監督と“つるんだ”。」)
その雑談の中で、スピルバーグは次回作となる『未知との遭遇』の企画構想をドレイファスに話した。 この頃から、ドレイファスはこのプロジェクトに強い興味を抱いていたと言う。
苦労の甲斐あって、75年に公開された映画『ジョーズ』は空前の大ヒットを記録し、スピルバーグとドレイファスは一躍時の人となったが、スピルバーグはこれに満足する事なく、既に構想を練っていた『未知との遭遇』の製作に邁進する事になる。
脚本はまだ未完成だったが、その原稿を読んだドレイファスは、この映画の出演を熱望するようになる。 異星人と地球人の間にも友情が芽生え得る事を示したストーリーに強く魅かれ、何よりもスピルバーグともう一度一緒に仕事がしたかった。
しかし、スピルバーグの考えは違っていた。 ドレイファスに対して、『ジョーズ』で演じたフーパーのイメージがどうしても拭い切れず、主人公役の候補から外していた。
スピルバーグが主人公役の第一候補にしていたのは、なんとあのスティーブ・マックイーンであった。
マックイーンと言えば、映画『荒野の七人』(60年)、『大脱走』(63年)、『ブリット』(68年)、『栄光のル・マン』(71年)、『ゲッタウェイ』(72年)、そして『タワーリング・インフェルノ』(74年)など、ハードボイルドアクションの代名詞的存在の俳優であり、当時既に確固たる地位を築いていたビッグスターだ。 スピルバーグは、面識もないのにいきなりマックイーンに電話し、出演をオファーした。
エージェントを通して脚本を読んだマックイーンは、スピルバーグとの面会を希望し、スピルバーグはこれを快諾してマックイーンの自宅近くにあるバーで会う事になった。
当然、スピルバーグはOKをもらえるモノと思い、マックイーンの機嫌を取るために下戸なのにビールを3杯も飲んだそうだ。(注:ちなみに、マックイーンは14杯も飲んだそうだ。 さすがである)
トコロが、マックイーンの返事は“ノー”だった。 脚本には、主人公が泣くシーンがあり、マックイーンは「カメラの前では自分は泣けない」と、断る理由を述べた。
それでもマックイーンに出演して欲しかったスピルバーグは、「泣くシーンをカットする」と食い下がったが、マックイーンはそれでも折れてくれなかった。 そしてマックイーンは、「そのシーンにオレは感動した。 カットすべきではない。 映画のために辞退するんだ」と語った。
さすがマックイーンだ。 断る時もダンディである。
その言葉に心打たれたスピルバーグはようやく納得し、マックイーンの起用を断念した。
第一候補を失ったスピルバーグは、その後ダスティン・ホフマンやアル・パチーノ、ジーン・ハックマンといった名だたる名優にオファーしたが、スケジュールの都合が合わないなどの理由でことごとく断られてしまう。
困り果てたスピルバーグは、ドレイファスに候補者探しを相談する。
が、スピルバーグが候補の俳優の名前を挙げる度に、ドレイファスは何かと難クセを付けてはダメ出しした。
……もうお分かりだろうが、ドレイファスがこんな事をしたのは、自分が出演したかったからだ。
そしてドレイファスは、スピルバーグにあるアドバイスをする。
主人公の設定を変更すべきだと言ったのだ。
当初の脚本では、主人公はブルーカラーの一般市民ではなく、陸軍の兵士という設定だった。(注:だから、スピルバーグの第一候補はマックイーンだったのだ!) しかし、ドレイファスはこれに疑問を感じ、ある時ごくフツーの一般人にすべきだと考えた。
この考えにはスピルバーグも同意し、主人公の設定をブルーカラーの一般人にする事になったが、さらにドレイファスは、「主人公は子供っぽいキャラクターにすべきだ」と提案した。
その瞬間、スピルバーグはようやくドレイファスの胸の内を察し、「ならばキミが演れ」と、その場でオファーした。
こうして、主人公ロイにはドレイファスが起用されたのである。
スピルバーグは、「主人公には、自分と共通する部分が欲しい。 ドレイファスは、自分以上に子供っぽいトコロがあるので、ロイ役には適役だった」と後に語っている。
ロイの妻であるロニー役にガーが起用された経緯も面白い。
先に記したように、当時ガーは複数の映画に出演していたが、TVでの知名度が圧倒的に高く、特にTV‐CMには引っ張りダコの人気女優だった。
この頃、あるコーヒーのCMに出演していたのだが、スピルバーグはこれを見て、一目でガーをロニー役の第一候補にしたという。 当時、スピルバーグはガーの事を知らなかったが、コーヒーをCMするガーの姿に、スピルバーグは「典型的なアメリカ中流階級の主婦像を観た」と後に語っている。
このオファーを受け、ガーは脚本を読んだが、ガーが興味を示したのはロニーのキャラクターではなくジリアンの方だった。
気持ちは分かる。 ジリアンの方が出番も多いし、幼い子供を抱えたシングルマザーという複雑なキャラクターで、役者としてジリアンのキャラクターに魅かれるのは当然の事だろう。
しかし、スピルバーグはガーの申し出を頑なに拒み、ロニー役を頼んだ。
諦め切れないガーは、最後には「なら、両方とも演らせて欲しい」と頼んだほどだった。
結局、ガーのこの嘆願は蹴られてしまうのだが、ココからがガーのスゴいトコロである。
演りたかった役を演らせてもらえず、普通ならばモチベーションが落ちてしまうトコロだが、ガーは逆にやる気を奮い立たせ、役作りに入れ込んだ。
当時、ガーはまだ未婚で、しかも芸能界にいたために世間ズレしていたが、近所の主婦を参考にしたり、ショッピングセンターに行って、普段はやらないような買い物を主婦になりきってするなどして、家事と子育てに追われる主婦という役のため、入念な役作りをしたという。
ガーは、間違いなくプロの役者である。
ガーがその役を熱望したジリアン役には、ディロンが起用される事になったが、彼女が起用された経緯は他の誰よりも劇的である。
ジリアン役の女優探しは難航した。 候補は何人もいたが、やはりスケジュールの都合や、本人が映画や役に興味を示さなかったため全員に断られ、最終的にデビルズ・タワーでのロケ撮影が始まっても、ジリアン役を決まらないままだった。
いよいよジリアンの出番が翌週の月曜に迫ったある日の事。 スピルバーグは、ある人物から突然の連絡を受ける。 その人物とは、映画監督のハル・アシュビー(注:元々は編集者で、マックイーンが主演した65年の作品、『シンシナティ・キッド』の編集も手がけている)だった。
当時、アシュビーは『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(76年)のポス・プロ中だったが、アシュビーは電話で、スピルバーグに「ある女優を観てほしい」と言ってきたのだ。
そして、木曜日にまだ編集中だったラフカットのフィルムがスピルバーグの下に届けられ、スピルバーグは試写室でこれを観た。 そこに映っていたのが、ディロンであった。
スピルバーグはすぐさまディロンにコンタクトを取り、ジリアン役をオファーした。
当初、ディロンはSFと聞いて作品に興味がなかったが、ジリアンが宇宙人の写真を撮るシーンに強く興味を魅かれ、週末を潰して脚本をイッキ読みした。 そして、スピルバーグのオファーを快諾する。
月曜の撮影開始まで、あと僅か2日(!)というギリギリのタイミングだった。
運は、どこに転がっているか分からないモノである。
ガフィーの起用は後述するとして、先にバラバンのオーディションでのこぼれ話を。
バラバンが演じたロフリン役の条件は、“フランス語が流暢に話せる事”だった。
当時、まだトリュフォーの出演は決定していなかったが、その前提でロフリン役の候補探しが進められた。
バラバンを推薦したのは実はドレイファスなのだが、エージェントを通して映画の脚本を読んだバラバンは、しかし実はフランス語が堪能というワケではなかった。 高校の頃にフランス語の授業を専攻していた程度で、通訳ドコロか会話そのモノがままならないほどだった。
が、バラバンはエージェントに、「撮影までに勉強する」と言ってオーディションを受けた。
オーディションの席上でも、話しの中心はやはりフランス語だった。 そこでバラバンは、スピルバーグの「フランス語を話せるか?」という問いに、「何年も話してないが大丈夫」というような意味の、“一夜漬けで覚えた”流暢なフランス語を話してみせた。
これが決めてとなり、バラバンはロフリン役に決まったが、バラバンは直後からフランス語を猛勉強し、撮影が始まる頃には通訳が出来るほどになっていた。
最初は話せなかったという事実を知ったスピルバーグは、「すっかり騙された」と後に語っている。(注:実際、オーディションで出来ない事を“出来る”と答える役者は多い。 役が欲しいのだから当然だ。 もちろん、泳げないのに“泳げる”というような、一歩間違えば命に関わるようなウソはマズいが、バラバンのようなウソは許容範囲内である。 2000年の映画『ザ・セル』では、殺人事件の被害者役の条件に潜水が出来る程度に“泳げる事”が大前提だった。 映画には、被害者が水に沈められるシーンがあったからだ。 しかし、オーディションに来た女優は、泳げないのに“泳げる”と答え、実際に撮影が始まると本当は泳げない事を告白した。 命に関わる重大なウソに激怒した監督のターセムは、当初予定していた彼女のアップショットのほとんどをカットするというペナルティを課したそうだ)
さて、続いてはラコーム博士を演じたトリュフォーである。 トリュフォーの起用を、スピルバーグは“究極の夢”と語る。
先にも記したように、トリュフォーは73年に監督した『アメリカの夜』という作品が同年のハリウッドオスカーで外国語映画賞を受賞し、ハリウッドの映画関係者の間でも極めて高い評価と名声を得ていた。
が、一般の観客にとっては、トリュフォーはあまり知られていない外国の映画監督に過ぎなかった。 当時のフランス映画は、アメリカでは吹き替えの付かない芸術映画がほとんどだったから。
今でもそうだが、アメリカでは海外の映画をヒットさせるのが難しい。 基本的に、アメリカの観客は映画に字幕が付く事を嫌うので、吹き替えする必要があるからだ。
逆に言えば、アメリカの一般の観客は吹き替えのない外国映画は滅多に観ないという事だ。
アメリカにおける映画の吹き替えの歴史は古く、トーキーが普及し始めた1930年代には、ドイツやフランスで製作された映画がアメリカに輸入される際、吹き替え音声で公開されていた。 中には、映画そのモノを海外配給用に当該国のキャストで撮り直す(!?)事も希ではなかった。
そうした吹き替え音声が長く習慣化した事で、現在でもアメリカでは海外の作品を吹き替え音声で公開する例がほとんどで、日本のように翻訳字幕付きで上映する例は希である。
しかし、吹き替え音声で上映するというコトは、当然吹き替え音声を収録しなくてはならない。 そして、吹き替えで声を当てる声優を雇わなくてはならない。 すなわち、吹き替え音声には高いコストがかかるのである。
実際日本でも、吹き替え音声付で劇場公開される作品は増えてはいるが、ディズニー&ピクサーの子供向けの作品が中心で、ほとんどの作品は劇場公開時は字幕版のみで、ソフト版でのみ吹き替え音声が製作されるのが普通である。
吹き替えには、お金と時間がかかるからだ。
アメリカでもこれは同じで、コストの問題から元々観客動員の見込みが少ない、大人向けの芸術映画は、吹き替えを製作しないのが普通だった。
そして、トリュフォーの作品もこれに該当する作品だった。
そのため、大多数の観客はトリュフォーの事を知らなかった。
だが、映画関係者は別である。
1950年代以降の一連のヌーヴェルヴァーグ作品は、若いクリエーターの才能が開花した映画の新しい潮流として、フランス映画の外国での地位を底上げした。 そして、その旗手の一人として、トリュフォーはハリウッド映画界でも極めて特別な存在であった。
スピルバーグにしてもそれは同じで、トリュフォーは監督として、そして同時に役者としても、特別な存在だった。 そしてそれは、いつの日にかトリュフォーに自らの作品に出演してもらう事を、“やりたい事リスト”のトップに掲げるほどだった。(注:似たようなリストは誰でも心の中にメモっているハズである。 筆者自身、“書きたい作品リスト”があり、現在はそのリストの順番に作品を執筆している最中である。 まだリストの1割にも満たない段階だが、いつか全ての作品が書ける日が来るといいなぁ~。 ちなみに、本書の後に書く本で取り上げる作品は既に決まっており、現在平行してリサーチ中である)
もちろん、何よりも必要だったのはラコーム博士というキャラクターが持つ慈悲深い優しさである。 トリュフォー自身が監督、主演した映画『野生の少年』を観たスピルバーグは、トリュフォーが演じたキャラクターにラコーム博士役に必要な慈悲深い優しさを見出した。 そしてスピルバーグは、ダメもとでトリュフォーにこの役をオファーする事を決めた。
トリュフォーは英語がサッパリだったため、トリュフォーの助手に通訳してもらいながら電話でオファーすると、トリュフォーは「脚本を読みたい」と答えた。 トリュフォー自身も映画監督であると同時に脚本家でもあるため、スピルバーグ自身が書いた脚本に興味があったのだろう。
また、それ以前に既に映画『ジョーズ』を観ていたトリュフォーは、その卓越した演出にスピルバーグを高く評価していたというので、それも理由の一つになったと思われる。
ともかく、早速脚本を送ったスピルバーグは、トリュフォーからの返事を待ち続けた。
そして、永遠のように長い3日間が過ぎた日の事、スピルバーグの下に一通の電報が届いた。
差出人の名はトリュフォーだった。
スピルバーグが早速開封してみると、そこには奇妙な一文が書き添えられていた。
“衣装係をよこして下さい。”
トリュフォー流のOKの返事だった。
こうして、ラコーム博士役にはトリュフォーがキャスティングされた。 その結果は、映画を観ての通りである。
ちなみに、トリュフォーはフランスのUFO専門家、ジャック・ヴァレーをモデルに役作りしたそうだ。
最後はガフィーである。
ガフィーがバリー少年役に起用されたのは、全くの偶然からだった。
当時、ガフィーが通っていた幼稚園の同級生に、偶然本作のキャスティング担当だったシェリー・ローズの姪がいたのだ。
ある時、ローズが母親の代わりにその姪を迎えに幼稚園を訪れ、たまたま見かけた同級生のガフィーに目を付けた。 そしてすぐさま、ガフィーの両親に正式にスクリーンテストを受けるようにオファーした。
連絡を受けたガフィーの母親は、心底驚いたそうだ。(←そりゃそうだ)
ガフィーは当時3歳で、子役事務所などに籍を置く事もない全くのシロートだったが、スクリーンテストの映像を観て、スピルバーグはガフィーを気に入った。
バリー役の候補は他にもいて、最終的にガフィーとザックという少年の二人に絞り込まれた。
ザックは子役として既に経験があり、バリー役を欲しがっていた。 が、かなりワガママな性格で、親も手を焼くほどの聞かん坊だった。
対してガフィーは、物静かで大人しい少年(注:現在も当時の面影が残っており、まさにあの少年がそのまま大きくなった好青年である。 役者の道に進まず、アッサリ学生に戻ったのが逆に良かったのかもしれない。 芸能界は厳しい世界だからね。 名子役として名を馳せたマコーレ・カルキンやエドワード・ファーロングも、役者として大成出来ず今では見る影もない)だったが、演技の経験が全く無いシロートだった。
スピルバーグは、二人ともそれぞれに気に入っており、決めるのに苦労したそうだ。
コレといった決め手があったワケではないが、最終的にバリー役を射止めたのはガフィーだった。 スピルバーグは、「最後はケリーに“引き寄せられた”」と後に語っている。
ガフィーは物静かな少年だったとは言え、子役を使う事は大変な大仕事である。
映画界の鉄則は、“子供と動物は使うな”である。 何故ならどちらも、決して言う事を聞いてくれないからだ。
実際、スピルバーグも後に多くの子役を起用するが、当時は子役をほとんど使った事がなかった。 前作の『ジョーズ』で、主人公の子供や被害者の少年を使った程度で、バリー役のような重要な登場人物として子役を使った事がなかったのだ。
しかし、スピルバーグは最初から子役を使うのが上手かった。
例えば、バリーがUFOに連れ去られるシーンで、バリーは家の窓から空を眺め、笑みを浮かべた表情で「おもちゃだ! おもちゃだ!」と言うシーンがある。
このシーンでは、スピルバーグはカメラの後ろでプレゼントの箱をもったいぶって開け、中に入っているおもちゃをガフィーに見せた。 それを見た瞬間、ガフィーは喜んで「おもちゃだ! おもちゃだ!」というアドリブを口にしたのである。
またこれに続くキッチンのシーンでは、事前にキッチンの家具がどうなるかをガフィーに全て説明した。 そうする事で、“UFOがやってきた事に喜ぶバリー”を演出したのだ。
ただ、ジリアン役のディロンには、逆に全く事前説明をしなかった。 キッチンで突然起こった惨状に、ディロンは「ホントに怖かった」と後に語っている。
大人と子供のリアクションの違いを、スピルバーグはこうして演出したのである。
さらに、これよりも前のシーンになるが、冒頭で冷蔵庫の中の食べ物が荒らされているトコロへバリーがやってくるシーンがあるが、このシーンでは、先のシーンのような事前説明を全くしなかった。(注:ガフィー曰く、「事前説明がなかった唯一のシーン。」なのだそうだ) ガフィーには立ち位置だけが指示され、シーンは撮影された。
このシーンで、バリー少年は目の前に現れた“何か”に驚き、しかし次第に表情を緩めて微笑むという名演技を見せているが、これはなんと全くのアドリブである。
撮影現場では、カメラの死角にゴリラの被り物をしたスタッフ(注:メイク担当だそうだ)が隠れており、ガフィーが立ち位置に立ったトコロで姿を現す。→突然現れたゴリラに驚くガフィー。
しかし、スタッフはすぐに被り物を脱ぎネタばらし。→毎朝会っているメイク担当と分かり、微笑むガフィー。
この方法で、スピルバーグはアドリブとは思えないあの名演技をガフィーから引き出したのである。
こうした、子役に対する大胆だが極めて効果的な演出で演技を引き出す上手さから、スピルバーグはやがて“子供の心を持つ映画監督”と呼ばれるようになるのである。
とは言え、こうした演出手法は一回しか使えないので、ガフィーは同じ演技を繰り返す事、すなわち映画の撮影では必須とも言えるリテイクが全く利かなかった。
そのため、ガフィーはスピルバーグより“ワンテイク・ケリー”のニックネームを頂戴する。 撮影終了時には、“ワンテイク・ケリー”とプリントされたTシャツが贈られたそうだ。
ちなみに、ガフィー以外にもアドリブが冴え渡る天才子役がいた。
ニアリー家の末っ子、シルビアを演じたエイドリアン・キャンベルである。
夕食のシーンで、シルビアが「マッシュポテトなんてキラい! 死んだハエが入ってたもん!」というセリフがあるが、これはエイドリアンの完全なアドリブである。
脚本には一切ないセリフだったが、スピルバーグはカットせずにこれをOKテイクにした。
以上のように、映画『未知との遭遇』は様々な紆余曲折の果てにキャスティングされた。 大きな予算が投入された大作映画なので、名優揃いのキャスティングにカネにモノを言わせたとしばしば誤解される事もあるようだが、上記のように決してそんなコトはなく、映画『未知との遭遇』は、キャスティングにはずいぶん苦労させられた作品なのである。
そしてそれは、どんな作品でも同じで、カネにモノを言わせても監督の希望した通りのキャスティングがカンタンに揃う事など決してなく、どんな場合でも映画本編に勝るとも劣らないドラマティックな何かしらのキャスティング秘話が秘められているモノなのである。
・意外なキャスト
数年、あるいは2、30年以内のちょっと古い映画を今観ると、時々面白いキャスティングがあった事に驚かされる。 現在のビッグスターが、まだ無名だった頃にほんの端役で出演している事があるからだ。
映画『未知との遭遇』もそのご他聞に漏れる事なく、後のビッグスターが端役で何人か出演している。 ココでは、二人ほど紹介しよう。
一人目は、ランス・ヘンリクセンである。
ジェームズ・キャメロン監督を一躍トップクリエーターにした大ヒットSFアクション、『ターミネーター』(84年)において、アーノルド・シュワルツェネガーの起用が決定するまで、ターミネーター役に抜擢されるハズだったが、ゴタゴタがあって(注:シュワルツェネガーを一躍トップスターにしたデビュー作『コナン・ザ・グレート』シリーズの2作目の製作が決定したため、出演が決まりかけていた『ターミネーター』に出演できなくなってしまったため。 実際、ヘンリクセンのキャスティングを前提にターミネーターのエンドスケルトンがデザインされ、そのデザイン画が残っている。 結局、シュワルツェネガーのスケジュールが空くまで、製作が延期される事で決着し、ヘンリクセン・ターミネーターは幻に終わった)警官役で出演したり、しかしこれが縁で、同じくキャメロン監督のシリーズ最大のヒット作になった映画『エイリアン2』(86年)では、重要なキャラクターであるアンドロイドのビショップ(注:この設定が引き継がれ、『エイリアン3』でもアンドロイドのモデルになった人物として出演している。 また、この人物の祖先という設定で、『AVP』シリーズの1作目にも出演。 シリーズの主演であるシガーニー・ウィバーと並んで、シリーズには欠く事の出来ないキャラクターとなった)を演じ注目され、90年代にはTVドラマ『X‐ファイル』の生みの親であるクリス・カーター原案のTVシリーズ、『ミレニアム』に主演する事になるヘンリクセンは、映画『未知との遭遇』にも実は出演している。
ラコーム博士の助手の一人、ロベール役である。
セリフこそ少ないモノの、クライマックス近くではアップで抜かれるショットがあるなど、印象的な出演をしている。
しかし、当時ほとんど無名だったヘンリクセンのアップショットを撮ったという事は、スピルバーグは後のヘンリクセンの活躍を予見していたのだろうか?
もうひとりは、カール・ウェザースである。
シルベスタ・スタローンの代表作、『ロッキー』シリーズの2作目で、ロッキーのライバル、アポロ・クリードを演じた役者である。
80年代以降、TVシリーズやTV映画が主な活躍の場になり、コアな映画ファンでもなければこの名前に聞き覚えのある人は少ないかもしれないが、もう一つ有名な作品を挙げれば、シュワルツェネガー主演のジョン・マクティアナン監督のデビュー作、『プレデター』(87年)が挙げられるだろう。 この作品で、シュワルツェネガー演じるダッジの旧友で、黒人のCIAエージェント、ディロンを演じたのが、ウェザースである。
シュワちゃんに勝るとも劣らないムキムキマッチョな肉体を披露したウェザースは、『未知との遭遇』ではロイを火事場泥棒だと思い込む軍警察の役を演じている。
ただし、ウェザースの出演シーンは劇場公開版にあるだけで、後の特別編やファイナル・カット版ではあえなくカットされている。
しかし、ヘンリクセンとウェザース、どちらもシュワちゃんに所縁のある二人が無名時代に同じ作品に出演していたとは……。
こういうコトがあるから、古い映画を今観てみると面白い発見があって止められないのですよ。
スピルバーグは、これ以降も無名の俳優を起用する事が多く、しかしスピルバーグ作品に出演以降ブレイクする事になる役者が多いのは事実である。
93年の『ジュラシックパーク』では、ブレイク直前のサミュエル・L・ジャクソンやジェフ・ゴールドブラム(注:デイヴィッド・クローネンバーグ監督の『ザ・フライ』でブレイクするが、ヒット作に恵まれず90年代初頭当時は一般の観客には忘れられていた)が出演しているし、同じく93年の『シンドラーのリスト』では、これをキッカケにブレイクする事になるリーアム・ニーソンやレイフ・ファインズ(注:これ以前に、全くの無名時代にスピルバーグが原案、製作総指揮を務めた『グーニーズ』にも、役名すらない超端役で出演している)が出演している。
98年のオスカー受賞作、『プライベート・ライアン』では、トム・ハンクスやマット・デイモンばかりが注目されたが、出演者の中に、後に『リディック』や『ワイルド・スピード』、『トリプルX』でブレイクする事になるヴィン・ディーゼルが出演している。
スピルバーグ作品には、後のビッグスターがよく出演しているのだ。
皆さんも、ちょっと古い作品を改めてよ~~く観てみれば、自分のお気に入りの役者が意外な端役で出演しているのを見つけられるかもしれませんよ?
ちなみに、この二人以外にも意外な出演者がいる。
ロイの3人の子供の内の一人で、次男のトビーを演じたのは、ドレイファスの実の甥であるジャスティン・ドレイファスである。
ドレイファス自身がジャスティンの出演をオファーしたのだが、実際の撮影では苦労の連続だったようだ。 ドレイファス自身が、父親なのか叔父なのか分からなくなってしまい、ジャスティンに対してどう接すれば良いのか迷う事が多かったそうだ。
ドレイファス曰く、「撮影が始まってすぐに後悔した。」のだそうだ。(注:映画をよく観てみればわかると思うが、ロイはナゼかトビーとだけは目を合わせず、ほとんど無視している)
映画とは、(実話が基でも)フィクションであり、現実とは明確に区別され、役者は常に“演技”としてキャラクターを演じているに過ぎない。 そのため、肉親などの近親者と共演すると、時としてリアルとアンリアルの区別が付かなくなってしまい、ドレイファスのような失敗をする事があるようだ。
肉親が相手だと、お互いに照れくさくなる事もあるだろうしね。
・In Memory of Truffaut
意外な出演者と言えば、スピルバーグが“究極の夢”と語ったトリュフォーの存在を忘れてはならない。 トリュフォーは本来脚本家兼映画監督であり、俳優業は言わば副業と言える。
もちろん、トリュフォーは自身の監督作品で主演、もしくは比較的大きな役で役者として出演しており、その演技力も高い評価を得ている名優である。 が、ハリウッドの映画業界内では監督としての知名度の方が高く、ヌーヴェルヴァーグの中心的存在としてオスカーを獲得し、且つフランス国内ではヒットメーカーとして知られた映画監督である。
そのトリュフォーを俳優としてキャスティングするというコトは、大胆という他ない。 もしも断られていたら、この作品はいったいどうなっていたコトやら……。
それはともかく、スピルバーグはトリュフォーが出演を了承した事で自信を深めたと言う。 そしてそれは、プロデューサーやスタジオ側も同じで、ドレイファスは「映画の格が上がった気がした。 単なるSFとは違う、崇高な作品に違いないと確信した。」と語っている。
撮影現場でも、トリュフォーの事を知るスタッフやキャストは畏敬の念を持っていたと言う。 それだけ、トリュフォーは特別な存在だった。
しかしトリュフォーは、撮影初日にスピルバーグに向かって意外な事を言った。
「私は俳優として出演するのであって、ココでは映画監督ではない。 スピルバーグ監督の演出に従う。」
トリュフォーは、プロとして役者に徹する事を宣言し、そして実際にそうしたのだそうだ。
現場では、スタッフや他のキャストを観察したり、自分のやり方とは違うスピルバーグの演出方法に思わず笑ったりしていたが、演出に口出しするような事は一切なかったそうだ。
その証拠に、クライマックスの“遭遇”のシーンで、科学者の一人が「アインシュタインは正しい」と言うが、元々の脚本では、このセリフはラコーム博士のセリフだった。
しかし、トリュフォーはこのセリフに疑問を感じ、「ラコーム博士がこんな事を言うとは思えない。」と思っていたと言う。
トコロが、いざそのシーンの撮影になった時、スピルバーグはトリュフォーからアッサリとそのセリフを取り上げ、他のキャラクターのセリフにした。
結果として、トリュフォーの心配は杞憂に終わったが、トリュフォーはスピルバーグに進言する直前だったらしい。(注:とは言え、その後は「なんだかセリフを取られたような気がした。」と語ったとか)
先に記したカンヌ批判事件で傲慢な人物と誤解される事もあるが、実際には決してそんな事はなく、映画の通り気さくで優しい、そしてプロとしての高い意識を持った人物と言えるだろう。
ただ、トリュフォーは英語が全くダメで、撮影前から必死に勉強したが、どうしても上手く発音出来ず、英語のセリフには常に苦労させられたそうだ。
現場でも、英語が話せないのでスタッフや共演者と上手くコミュニケーション出来ず、ドレイファスもどう接していいのか分からなかったそうだ。
しかし、バラバンは違っていた。
先に記した通り、バラバンも本来はフランス語が出来るワケではなかったが、撮影までに猛勉強してなんとか会話が出来る程度にまでフランス語を修得し、役柄上トリュフォーと一緒になる事が多かったため、よく話しをしたそうだ。
そのため、英語が話せないので気難し屋と思われていたトリュフォーと、スタッフや他の共演者たちとの仲を取り持ち、進んで通訳を買って出たと言う。
直接的な共演シーンはないモノの、撮影現場に見学に行ったガーは、撮影の合間にトリュフォーと色々な話しをしたと言う。
ガーは、トリュフォーの事を「夜も寝ないで映画を観ているとしか思えない。」と、後に語っている。
と言うのも、トリュフォーとの雑談の中で、ある時ガーがまだ無名だった頃に端役で出演した映画の話し(注:『レッドライン7000』の事だそうだ。 ガーは、ウェイトレス役でしかもノンクレジットだった)が出た時、トリュフォーは「知ってる」と言い、監督や主演はもちろん、ガーの役まで全て言い当てたそうだ。
スピルバーグも映画好きで、今でもアメリカの国内外を問わず多くの映画を観ている映画監督だが、トリュフォーはそれ以上の映画ファンで、映画をこよなく愛している想いが良く分かる逸話である。
さて、トリュフォーは偉大な映画監督であり、スタッフやキャストには畏れられていたが、そんな彼をモノともせずに気軽に接したキャストがいる。 それが、当時3歳の幼児だったガフィーである。
トリュフォーは子供好きで、ガフィーを始めとした子供たちは、例外なくトリュフォーによくかわいがられたそうだ。
この事を、バラバンは次のように語る。
「大人たちは偉大な人物の前で萎縮しがちだが、子供たちにはその人の本質を見抜く力がある。」
その言葉通り、撮影現場でのトリュフォーは、いつも子供たちに囲まれていたそうだ。
撮影が進むに従って、大人たちも次第にトリュフォーと打ち解け、撮影の合間にはよく話しをするようになった。
プロダクション・デザインを手がけたジョー・アルヴスは、スピルバーグと協議を重ねて完成させたデビルズ・タワーのセットに自信を持っていた。 そして、トリュフォーもきっとこのセットには驚くだろうと思っていたと言う。
実際、予算の少ないフランス映画では、室内のシーンでもお金のかかるセットを組まずに、ホテルや民家を借りるなどしてロケ撮影する事が多い。 大金をかけた巨大セットは、トリュフォーを驚かせるのに十分なインパクトがあるだろうと踏んでいた。
トコロが、世間話をするほどに打ち解けたのに、トリュフォーは一向にセットの事を話題にしなかった。 実際の撮影中も、セットについては全く触れる事がなかったという。
しかし、撮影の終盤になって設定変更があり、ジリアンがデビルズ・タワーの事をTVで知るシーンのために急遽モーテルのセットが必要になり、アルヴスは設計から施工まで僅か3日で、この小さなセットを組み上げた。
急ごしらえのセットではあったが、見学に来たトリュフォーはその見事な出来栄えに、「これぞセットだ!」と感激したそうだ。
そのトリュフォーの様子に、アルヴスはさぞや複雑な想いだった事だろう。(笑)
撮影終了後のポス・プロにおいて、最も重要な作業は何を置いてもやはり編集である。
本作の編集を手がけたマイケル・カーンは、ある時編集室に見学に来たトリュフォーに、「ラッシュを観せて欲しい。」と頼まれた。(注:ラッシュとは、撮影/現像しただけの未編集のフィルムの事。 デイリーとも言う)
そこで、カーンは編集中だったフィルムを差し出したが、そのフィルムリールの多さにトリュフォーは、「私の映画の4本分はある!」と驚いたそうだ。
予算の少ないフランス映画では、予算節約のためリテイクする事が少なく、編集するフィルムはこんなに多くないと言われたとか。
編集の仕事に敬意を払ってくれるトリュフォーに、カーンも「映画の通り人格者だった」と語っている。
こうして本作に出演したトリュフォーは、しかし本作出演後間もなく、突然の病魔に倒れ他界してしまう。 結果的に、トリュフォーのフランス以外での映画出演は、『未知との遭遇』が最初で最後になってしまった。
それはもちろん残念な事に違いないが、本作に携わったスタッフやキャストの心の中では、彼はいつまでも思い出として生き続けるだろうし、我々もまた、逢おうと思えばいつでもトリュフォーに逢える。 そう、映画の中で。
“別れの悲しみは一瞬、されどフィルムは永遠。”
トリュフォー自身の監督作品はもちろん、本作もまた、そんな“永遠”の一つである。
これからも変わる事のない彼に逢いに、筆者は再び、本作のビデオソフトを再生したいと思う。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)
私立メイ大付属女子高等学校。
※- Mania Episode1
お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
Aliceちんも愛用していたブレザー。 ただの服ではなく、ちゃんとARが設定されている“防具”なので実用的だが、3人称視点だとカメラアングルによっては目のやり場に困る事があるので注意。(笑)
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"CLOSE ENCOUNTERS" 35th Anniversary #05-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
いや~降りましたね~。
今回の大雪は全国規模で、特に東北から中部にかけて交通がマヒするなどの被害がありましたが、皆さんの在住地域はいかがでしたでしょうか?
僕の在住地域も一時は“猛吹雪”に見舞われましたが、積雪自体はそれほどでもありませんでした。
が、とにかく気温が急激に低下し、自宅の水道が凍結するほどのこの冬一番の寒さになりました。
風邪やインフルエンザも流行っているようなので、寒さ対策は万全にどうぞ。
そして、サムいと言えば今年度の年度末決算です。
東日本大震災、タイの大洪水、そして超円高などが重なり、今年度の決算は製造業を中心に軒並み大赤字になるとの見通し。
家電メーカー、特にTV業界は昨年7月の地デジ完全移行に伴い直前には“特需”と言って良いほどの利益が出ましたが、移行直後から急激に売り上げが低下(←当たり前だ)し、深刻なダメージを受けたようです。
ヨーロッパの経済的混乱も、これに拍車をかけたようですし。
今年も前途多難な幕開けになりそうです。
さて、それはさて置き、今週から当ブログは連載コーナー無しで特集コーナーのみになります。
まあ、予定通りっちゃ予定通りなんですけどね?
ともかく、特集コーナーをどうぞ。
<今週の特集>
今週の特集は、映画『未知との遭遇』徹底解説シリーズ第5回。 今回から新章です。
最後までお楽しみ頂けたら幸いです。
第2章:バイオグラフィ:キャスト
さて、本来であるなら、ココでスピルバーグが映画『未知との遭遇』の制作に漕ぎ着けるまでの道のりを詳細に記すべきだが、それは後のお楽しみというコトでひとまずコッチに置いといて。(笑) この章では、スクリーンを彩った主なキャストのバイオグラフィを紹介していく。
これを先に知っておいて貰わないと、映画化までの道のりが紹介出来ないので。
・リチャード・ドレイファス/ロイ・ニアリー
本作の主人公で、労働者階級でごく普通の中流階級の家庭を持つ一般人、ロイ・ニアリーを演じたのは、オスカー俳優のリチャード・ドレイファスである。
1947年、ロシア系ユダヤ人の家系に生まれたドレイファスは、ニューヨークはブルックリンで幼少期を過ごす。
9歳の頃、家族と共にカリフォルニア州ロサンゼルスに転居。 高校は、あのビバリーヒルズ高校に進学している。
この頃から演劇に興味を抱いていたドレイファスは、1964年を皮切りにTVシリーズに出演。 年を重ねる毎に出演作は増え、同時にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に進学するも、学業と俳優業の両立が難しく1年足らずで退学。 俳優業に専念するようになる。
しかし、この選択は吉と出て、TVシリーズを中心に舞台にも出演するようになり、期待の若手俳優として注目を集めるようになっていく。
ちなみに、TV俳優時代には往年の名作シリーズ、『ベン・ケーシー』(65年)や『奥さまは魔女』(66)などにも出演している。
転機となったのは1967年。 20歳の若さでスーザン・ヘイワード主演の『哀愁の花びら』や、ダスティン・ホフマンを一躍大スターにした名作『卒業』に出演。 ノンクレジットではあったが、これがキッカケでTVシリーズに出演する傍ら、映画界への転向を熱望するようになる。
二度目の転機となったのは1973年、ルーカスの監督第2作目に当たる映画『アメリカン・グラフィティ』への出演であった。
映画は空前の大ヒットを記録し、監督のルーカスの名前と共にドレイファスも注目され、受賞には至らなかったモノの、その演技はゴールデングローブ賞にノミネートされるほど高く評価された。 1975年には、ルーカスの紹介でスピルバーグ作品の『ジョーズ』に出演。 イギリスオスカーにノミネートされるほど高い評価を受け、同時にスピルバーグとも親しくなり、以降複数の作品でコンビを組む事になる。
77年に『未知との遭遇』に出演する傍ら、マンハッタンを舞台にしたロマンティック・コメディ、『グッバイガール』に出演。 この演技が極めて高く評価され、30歳の若さでハリウッドオスカー主演男優賞を獲得! 名実共に、一流俳優の仲間入りを果たした。(注:この他にも、この作品ではイギリスオスカー、ゴールデングローブ賞、LA映画協会賞などを受賞している。 また映画は、90年代になってからブロードウェイでミュージカル化され、これは日本でも公演された。)
ちなみに、ドレイファスは『未知との遭遇』でも主演男優賞にノミネートされており、同一年複数ノミネートの快挙を達成している。(注:ちなみに、同年のオスカーではジョン・ウィリアムズも『スターウォーズ』と『未知との遭遇』で作曲賞にダブルノミネートされ、最終的に『スターウォーズ』で受賞している)
しかし、1980年代に入って早々、プライベートでゴタゴタがあり、俳優業を一時休業。 3年間の謹慎期間を経て84年になってようやく復帰し、86年にはスティーヴン・キング原作の名作中の名作、『スタンド・バイ・ミー』に出演し、89年には再びスピルバーグとのコンビで『オールウェイズ』に出演している。
90年代に入ると、ベネツィアでグランプリを獲得した傑作『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(90年)や、マイケル・ダグラス、マーティン・シーン、マイケル・J・フォックスといった名だたる名優が出演した『アメリカン・プレジデント』(95年)などに出演しているが、何と言っても95年の『陽のあたる教室』の主演は別格だろう。
音楽を通して、高校生達と心を通わせていく音楽教師を演じたこの作品で、ドレイファスは受賞こそ逃したモノの、ハリウッドオスカーやゴールデングローブ賞にノミネートされ、健在振りを発揮した。
近年は、『ポセイドン』(2006年)や『RED/レッド』(2010年)などに出演している。
俳優業の傍ら、複数のTV映画やドキュメンタリーで製作、あるいは製作総指揮を務めたり、TVの短編ドラマで脚本や監督を務めたりもしている。
また、ストップモーションアニメの『ジャイアント・ピーチ』(96年)では声優にも挑戦している。
現在は、ジェシカ・ラング、サラ・パクストン(注:近年注目されている若手女優。 『タイタニック』や『ツイスター』でお馴染みのビル・パクストンの遠縁にあたるらしい)主演の西部劇映画『The Big Valley』(注:『バークレー牧場』という邦題で日本でもOAされた60年代のTVシリーズのリメイク作品。 ドレイファスは、そのTVシリーズ版にもゲスト出演している)と、セルマ・ブレア主演のラブロマンス、『Different Kind of Love』に出演しており、既に60代ながら精力的に活動を続けている。
・テリー・ガー/ロニー・ニアリー
ロイの妻で3人の子供の母親という、どこにでもいるごくフツーの専業主婦、ロニーを演じたのは、コメディ女優としてのキャリアも持つテリー・ガーである。
1947年、オハイオ州レイクウッドに生を受けたガーは、コメディアンで俳優の父エディー・ガーと、ダンサーでモデルの母フィリス・リンドを両親に持つ。 そのため、幼少の頃から芸能に慣れ親しんでいたが、11歳の時に父が急死。 一家はハリウッドへと転居する。
しかし、ガーは舞台女優を志し、単身ニューヨークへ飛び、アクターズ・スタジオの門戸を叩く。 そこで、俳優で演出家のリー・ストラスバーグに師事した。
1963年、『A Swingin' Affair』という作品で銀幕デビューを果たしたガーは、『キッスン・カズン』、『ラスベガス万歳』(注:共に64年公開)などのエルヴィス・プレスリー主演の映画や、『レッドライン7000』(65年)などにノンクレジットながら多数出演。 同時に、『バットマン』(66年)や『スタートレック』(68年)などのTVシリーズにも、やはりノンクレジットながら多数出演し、長い下積みを続けた。
しかし、60年代末頃からTVシリーズを中心にオンクレジットでの出演が多くなり、同時にTV‐CMに多数露出するようになっていく。
この頃には、映画『メリーポピンズ』(64年)のバート役で有名なディック・ヴァン・ダイクの看板番組、『新・ディック・ヴァン・ダイク・ショー』(73年)にもゲスト出演している。
転機となったのは1974年、映画『カンバセーション...盗聴...』に出演した事である。 名優ジーン・ハックマン主演、名匠フランシス・フォード・コッポラ監督のこのミステリー・スリラーの出演で、ガーは映画界でもその名を知られるようになり、メル・ブルックス監督のコメディ映画『ヤング・フランケンシュタイン』(74年)で存在感をアピール。 複数のTVシリーズに引っ張りだこの人気女優になっていく。
映画『未知との遭遇』出演後も、同様に主にTVを活躍の場にするが、82年に二度目の転機が訪れる。 映画『トッツィー』への出演である。
ダスティン・ホフマン、ジェシカ・ラング主演のこのコメディ映画では脇役ではあったが、ガーの演技は極めて高く評価され、同年のオスカーに助演女優賞でノミネートされたほどだった。(注:同年のイギリスオスカーでもノミネートされている)
この後も、主にTVシリーズでの活躍が目立ち、『ハリウッド・ナイトメア』(91年)や『ER緊急救命室』(99年)などにゲスト出演。 ディズニーの製作による実写版TVシリーズの『不思議の国のアリス』(91年)では、公爵夫人役(笑)で準レギュラーを務め、『フレンズ』(97~98年)でも準レギュラーを務めている。
映画では、群像劇の名手ロバート・アルトマン監督の『ザ・プレイヤー』(92年)や、『マスク』でブレイクしたジム・キャリー主演の『ジム・キャリーはMr.ダマー』(94年)、『ジュマンジ』出演後、『スパイダーマン』出演前のキルスティン・ダンスト主演の『キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ!』(99年)など、コメディ映画に多数出演している。
2007年を最後に、現在は活動休止中のようだが、TV、映画を通して実に145本もの作品(!)に出演したガーのキャリアは、もっと高く評価されるべきである。
ちなみに、ガーは声優としてのキャリアも豊富で、99年~2000年に製作されたTVアニメ『バットマン・ザ・フューチャー』や、2003年版の『スクービー・ドゥー』などに準レギュラー、あるいはゲスト出演している。
・メリンダ・ディロン/ジリアン・ガイラー
ロイと共に接近遭遇を果たし、人生を変える体験をする事になるシングルマザー、ジリアンを演じたのは、幅広い演技で活躍するメリンダ・ディロンである。
1939年、陸軍士官の娘としてアーカンソー州ホープに生まれたディロンは、10代の頃にイリノイ州シカゴに移り、ハイドパーク高校に通い、この頃演劇に興味を持つようになる。
高校卒業後、シカゴの有名な即興劇団、セカンド・シティに在籍し、数多くの舞台に出演。 その関係から、ブロードウェイデビューも果たし、舞台女優として順調にキャリアを重ねていく。
転機となったのは1962年、エドワード・オルビー監督の『バージニア・ウルフなんかこわくない』という映画に出演。 この演技が極めて高く評価され、トニー賞にノミネートされる。
これをキッカケに、ディロンは活躍の場をTVや映画を中心とした映像メディアへと転換し、60年代から70年代にかけて、TVシリーズのゲストやTV映画を中心に活躍するようになる。
1977年に『未知との遭遇』に出演し、助演女優賞でオスカーにノミネートされたディロンは、81年に『スクープ‐悪意の不在』という作品で再びノミネートされ、その演技力の高さを証明した。
また、これと前後してシリアスなドラマ作品だけでなく、コメディ系の作品にも多数露出するようになり、83年のロングランヒットとなった映画『A Christmas Story』でカルト的な人気を得るようになる。
この他にも、『ハリーとヘンダスン一家』(84年)や『Staying Together』(注:後に、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作でサムを演じる事になるショーン・アスティンの主演作。 89年公開)など、80年代はコメディ作品への出演が多い。
90年代以降は、アメコミヒーローモノの『キャプテン・アメリカ』(90年)、『The Prince of Tides』(91年)、ウィノナ・ライダー主演の名作『キルトに綴る愛』(95年)、トム・クルーズ主演の群像劇『マグノリア』(99年)、『再会の街で』(2007年)などに出演。 最新作は、2012年公開予定のキーラ・ナイトレイ主演作、『Seeking a Friend for the End of the World』である。
ちなみに、TVシリーズでは単発ゲストでの出演がほとんどだが、80年代リバイバル版の『トワイライト・ゾーン』にも出演している。
・ケリー・ガフィー/バリー・ガイラー
映画『未知との遭遇』の最重要キャラクターである少年、バリーを演じたのは、この出演が映画デビューとなったケリー・ガフィーである。
1972年、ジョージア州ダグラスヴィルに生まれたガフィーは、しかし両親共にごく普通の一般人で、彼が演劇の道に進む要因は何一つなかった。
が、たまたま偶然が重なり、本作のバリー役に抜擢され、4歳にしてイキナリ大作映画に出演する事になった。(注:詳細は後述)
この演技は観客にも業界内にも注目され、79年には旧西ドイツで製作されたボブ・スペンサー主演のSFコメディ、『The Sheriff and the Satellite Kid』に出演。 なんと宇宙人の子供(笑)を演じた。
翌80年には、その続編である『Everything Happens to Me』に同じ役で出演。 映画自体がB級作品なのでそれほど評価されたワケではないが、子役としての地位を確固たるモノにしたのは確かだろう。
その証拠に、これ以降立て続けに複数の映画に出演するが、共演者がとにかくとんでもない。
83年に出演した『Cross Creek』では、80年の『メルビンとハワード』でオスカーやゴールデングローブ賞で助演女優賞を受賞し、後に『バック・トゥ・ザ・フューチャー・パート3』でドクと恋に落ちる新任教師を演じたメアリー・スティーンバージェンや、スピルバーグの『E.T.』(82年)でエリオット少年とETを監視する政府の役人を演じたピーター・コヨーテらと共演。
同年の『ストローカーエース』というストックカーレースをモティーフにしたアクションコメディ作品では、バート・レイノルズと共演。
同じく同年のTVミニシリーズ、『Chiefs』では、『ベン・ハー』、『猿の惑星』に主演した名優、チャールトン・へストンと共演。
85年に出演したTV映画、『Poison Ivy』では、当時『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で一気にブレイクしたばかりのスター俳優、マイケル・J・フォックスと共演。
……とまあ、いずれ劣らぬビッグスターとばかり共演している何とも幸運な子役なのである。
しかし、85年に1エピソードだけゲスト出演したTVシリーズ、『North and South』を最後に、既に13歳になっていたガフィーは子役として出演出来ない歳になったためアッサリ引退。 役者の道に進む事なく、フツーの学生に戻る事になった。
ニュージャージー州の高校卒業後、アラバマ州のジャクソンビル州立大学でMBA=経営学修士号を取得。 フロリダ州立大学でマーケティングを学び、現在はアラバマ州でフィナンシャル・プランナーの仕事をしているそうだ。
ちなみに、大学で知り合った女性(注:後にニュース記者になった才女だそうな)と後に結婚し、二人の子宝にも恵まれている。
結婚式では、スピルバーグからティファニー社製のクリスタルの花瓶を贈られたそうだ。
・ボブ・バラバン/デイヴィッド・ロフリン
ラコーム博士と行動を共にし、通訳兼助手として働く元地図製作者、ロフリンを演じたのは、俳優としてだけでなく、脚本、製作、製作総指揮、さらには監督業もこなすハリウッド映画界のサラブレッド、ボブ・バラバン(本名:ロバート・エルマー・バラバン)である。
1945年8月16日(注:太平洋戦争終結翌日!)、イリノイ州シカゴで産声を上げたバラバンは、アメリカ中西部の映画界を“牛耳る”と言っても過言ではないほどの影響力を持つ7人のバラバン一族、“バラバン・ボーイズ”の一人、エルマー・バラバンの実子である。
このバラバン・ボーイズがどれぐらいスゴイかと言うと、父のエルマーは、複数の映画館を経営する実業家で、叔父のハリーはエルマーと共同でやはり映画館を経営するH&E・バラバン社を設立。 従兄弟のバートは映画監督で、もう一人の叔父のバーニーは、1936年から実に30年にも渡ってハリウッド6大メジャースタジオの一つ、パラマウント社のCEO(!)を勤めていた。
……とまあ、ハリウッド映画界に知らぬ者無しの映画界の申し子たちなのである。
そんな家系に生まれたバラバンも、当然のように幼少の頃から映画に親しみ、ニューヨーク州のコルゲート大学在学中の1965年、TVシリーズでゲストながらいきなりオンクレジットで出演。 俳優としてのキャリアをスタートさせる。
60年代から70年代前半にかけては、主にTVシリーズに出演するが、映画では69年の『真夜中のカウボーイ』を皮切りに、『いちご白書』(70年)や『Making It』(71年)、ジョージ・C・スコット主演の『Bank Shot』(74年)などに出演。 “親の七光り”とは言わせない演技で好評を得る。
映画『未知との遭遇』出演後、『アルタード・ステーツ』(80年)や、スタンリー・キューブリックの“遺産”、『2001年‐宇宙の旅』の続編である『2010年』(84年)、当時まだ駆け出しの新人だったケヴィン・ベーコンと共演した『End of the Line』(87年)などにコンスタントに出演する。
しかし、この俳優業と平行して、80年代から主にTVシリーズで監督業にも挑戦。 85年には、スピルバーグが製作総指揮した『世にも不思議なアメージングストーリー』で主演と共に1エピソードを監督し、2002年と2003年には、『トワイライトゾーン』のリメイク版で2つのエピソードを監督するなどしている。
さらに、90年代に入ってからはTVシリーズで製作、及び製作総指揮も手がけるようになり、94年のTVシリーズ『The Last Good Time』では、1エピソード監督すると共に製作も手がけ、2005年のTV映画『The Exonerated』や2006年の映画『Bernard and Doris』でも、監督と共に製作総指揮を手がけている。
さらにさらに、作品数こそ少ないが、TVシリーズの1エピソードやTV映画を中心に、数作で脚本も手がけており、2004年のコメディアンやコメディ俳優を追ったTVドキュメンタリー、『The First Amendment Project: No Joking』では、脚本と共に監督と出演もこなし、多彩な才能を見せている。
その後も、俳優、製作、監督としてマルチに活躍を続け、特に90年代から近年にかけてはTVを中心に多数の作品に出演。 最新作は、2012年公開予定のブルース・ウィリス主演、エドワード・ノートン、オーウェン・ウィルソン、ビル・マーレイ、ティルダ・スィントン、ハーベイ・カイテル共演の超豪華キャスト作、『Moonrise Kingdom』と、同じく2012年公開予定のバラバン主演作、『Landlocked』である。
既に66歳を迎えているバラバンだが、現在も精力的に活動を続けている。
・フランソワ・トリュフォー/クロード・ラコーム博士
異性人との第三種接近遭遇計画の最高責任者であるフランス人科学者、ラコーム博士を演じたのは、フランス映画界を代表する映画監督であり、ジャン=リュック・ゴダールやクロード・シャブロルと並んでヌーヴェルヴァーグの旗手の一人と評される名匠、フランソワ・トリュフォーである。
1932年、フランスの首都パリに生まれたトリュフォーは、しかし両親が離婚し孤独な少年時代を送る。
親との衝突も多く、46年には親に反抗して学業を放棄。 心の拠り所だった映画館に入り浸るようになり、仲間たちと映画クラブを結成する。
この頃、映画評論家のアンドレ・バザン(注:後に、51年に創刊された『カイエ・デュ・シネマ』という映画雑誌の初代編集長に就任する事になる人物)と知り合い、バザンが亡くなる58年まで、親子同然の生活を送るようになる。
このバザンとの出会いは、トリュフォー少年に大きな影響を与え、54年にはバザンが編集長に就任した映画雑誌に、当時のフランス映画を痛烈に批判した論文を発表。 「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。
しかし翌55年、トリュフォーはそれにさらに反論するかのように、『ある訪問』という短編映画を自主制作。 上映時間僅か8分という自主制作らしい極めて小規模な作品だったが、これをキッカケにトリュフォーは映画監督への道を歩み始める。 1957年には、18分の短編、『あこがれ』を監督し、翌58年には、後に『勝手にしやがれ』を大ヒットさせる事になるジャン=リュック・ゴダールと共同で『水の話』という短編を監督している。
この自主制作作品と、平行してイタリア人映画監督のロベルト・ロッセリーニ(注:イタリア映画界の重鎮。 40年代から50年代にかけて、ファシズムに抵抗した新しい文化潮流、ネオリアリズモ運動の先駆的な役割りを果たした人物。 1906年~1977年)の助監督としての働きが認められ、57年に自身の映画製作会社を設立し独立。 その最初の仕事となったのが、長編デビュー作となった名作、『大人は判ってくれない』(59年)であった。
映画はフランス国内はもちろん、国外でも絶賛され、同年のカンヌで監督賞を受賞し、前年に『勝手にしやがれ』を監督したゴダールと共に、フランス映画界の新しい潮流、“ヌーヴェルヴァーグ”(注:主に、バザンが編集長を務めていたカイエ誌に批評や論文を書いていた若い作家とその作品を総じてこう呼ぶ。 ゴダールやシャブロルもその一人だった。 “ヌーヴェルヴァーグ”は、フランス語で“新しい波”の意)の旗手の一人と称されるようになる。
その後、『ピアニストを撃て』(60年)や『アントワーヌとコレット/二十歳の恋』(62年)、アメリカの作家、レイ・ブラッドベリ原作の『華氏451』(66年)などヒット作を量産。 高い評価を得る。
また、自身の監督作品のほとんどの脚本を手がけ、脚本家としても高く評価されており、同じく自身の監督作品を中心に、ジャック・リヴェット監督の短編『王手飛車取り』(56年)などにカメオ出演するなど、役者としても多くの作品に携わり、69年に監督、脚本、主演した『野生の少年』(注:フランス中部のアヴェロンという森で捕獲された野生化した少年の実話を基にした作品。 映画字幕の翻訳家として有名な戸田奈津子が初めて字幕翻訳を手がけた作品らしい)は国外でも極めて高い評価を得ており、73年に監督、脚本、出演(注:主演ではない)した『アメリカの夜』という作品では、ハリウッドオスカーで外国語映画賞を受賞し、イギリスオスカーと全米批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞ではそれぞれ監督賞を受賞するほど絶賛され、フランス映画界の中心的な存在になっていく。
しかし、それと前後して68年にカンヌを批判した事がキッカケで、親交の深かったゴダールを初めとしたヌーヴェルヴァーグ系の監督らとも疎遠になり、若い批評家から痛烈に批判される事も少なくなかった。
しかし、それでも77年に『未知との遭遇』に出演した以降も映画を撮り続け、80年には『終電車』という作品でセザール賞(注:フランス国内の権威ある映画賞)で監督賞と脚本賞を獲得するなど、その評価と人気は衰える事を知らなかった。
……が、その直後に突然の悲劇がトリュフォーを襲う。
1983年、映画『日曜日が待ち遠しい!』を監督した直後、病院の検査で脳腫瘍と診断され、病魔と闘うも一年後の84年に他界。 結局、同作品が遺作となった。
享年52歳の早過ぎる死は、映画界に大きな衝撃を与えた。
葬儀には、世界中からトリュフォーを敬愛する映画関係者が多数参列し、実に盛大なモノになったという。
また、トリュフォーが存命中にしたためた未発表の脚本が複数発見され、『La Petite Voleuse』(88年)と『Belle Epoque』(95年。 3話のミニTVシリーズ)がそれぞれ制作されている。
さらに、亡くなった84年には、それまでの功績を讃え、ロサンゼルス批評家協会賞が特別賞を贈っている。
ちなみに、旧友のゴダールは葬儀にも参列せず、追悼文を寄稿する事もなかったが、後に出版されたトリュフォー書簡集に自身を激しく罵倒するトリュフォーの手紙を提供し、しかしその序文として、「フランソワは死んだかもしれない。 わたしは生きているかもしれない。 だが、どんな違いがあるというのだろう?」という一文を添えている。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)
武装夜姫。
※- Mania Episode1
お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
カラスかコウモリのようなデザインの全身装備。 ARもソコソコあるので実用性も高い。 左太もものストッキングのプリントがポイント。
Thanks for youre reading,
See you next week!