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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

207.『メトロポリス』伝説:第4章①

2012年08月05日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #08-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 8月です! 書中お見舞い申し上げます。
 ちょっと遅い?
 しかし、僕の在住地域ではセミの羽化が最盛期を迎えたらしく、連日朝も早よから大合唱ですよ。
 夏ですねぇ~~。
 それはともかく、ロンドンオリンピック、皆さん観てますか?
 いや~今回ものっけから連日の熱戦! 寝不足の人も多いのではないでしょうか?
 僕は深夜の生中継は観れませんが、昼間の録画放送とネット動画は観れるので毎日熱戦を観戦……ゴメンなさい。 ウソです。 ホントは観てません。 ってゆーか観れません。
 いや待った待った待った! 言い訳させて下さい!
 え~~、実はね、今ね、“次の連載ネタ”のリサーチ中なんですよ。
 今やってる『「メトロポリス」伝説』、実はブログ連載用の原稿は6月の『Wacth the Skies』のPDF版のアップよりも前に終わっていて、年内にアップ予定のPDF版も、実は7月の中頃に終わった……ってゆーか終わらせたんですよ。 オリンピック観戦のために。
 しかし、オリンピックの開幕まで中途ハンパに時間が開いてしまったので、オリンピック閉幕後にリサーチを含めた準備作業を始める予定だった“次の連載”で取り上げる作品を観直しておこうと思って、観てみたんですね?
 そしたら、ま~~これが面白くなっちゃいまして。 久々に観たから、ってゆーのもあるんだろうけど、急激に熱が上がってしまい、こりゃあもうやるしかねぇだらぁー!
 ってコトで、ただ今リサーチ作業中なんですよ。
 オリンピックは、まあ一応ビデオには撮ってるし、ネット動画はしばらくの間公開されてるだろうし。
 あ、でも、開会式はちゃんと観ましたよ? ライブで。
 オープニングがいきなりケネス・ブラナー! シェークスピアの『テンペスト』の朗読でスタート。
 J・K・ローリングが出てきたのはビックリでしたが、メリー・ポピンズが良かった! アリスがフィーチャーされてなかったのがやや不満でしたが、メリー・ポピンズには思わずテンション上がりましたね。
 ダニエル・クレイグのボンドは当然でしょう。 今年は『007:ジェームズ・ボンド』50周年のアニバーサリー・イヤーだし、英国といえばやっぱボンドですよ。
 が、ローワン・アトキンソンが出てきた時はどうしようかと思いましたね。(笑) 素直に笑って良いのかどうか一瞬迷いましたよ。
 でもまあ、ユーモアは英国紳士の嗜みですから。 アリと言えばアリかな?
 そして締めがポール・マッカートニー。 やっぱ英国と言えばまだまだビートルズなんでしょうなぁ~。
 しかし、開会式観てて思ったのが、英国は文学の文化が突出してますが、絵画や音楽の(ビートルズは別として)印象があまりないような気がした。
 言われてみれば、確かに英国には絵画や音楽のイメージがないんですよね。 映画もフランスやドイツほどではないし。
 あ、あと、聖火点火はもうひとヒネリ、サプライズが欲しかったですね。
 まあ、北京の時の演出がハデ過ぎたというのもあるかもしれませんが。
 いずれにしても、オープニングセレモニーはオリンピックの見所の一つですからね。 今回も楽しませて頂きました。
 てなワケで、競技に関しては全く書けないですが、日程もいよいよ折り返し地点。 後半戦は陸上も始まるし、最後まで目が離せません。
 オレは観てないケドな!
 とりあえず、ガンバレニッポン!
 と、言っておきましょう。
 ちなみに、“次の連載”は来年、新年早々にスタートする予定です。
 ……まだまだ先のハナシですね。(^ ^;)



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第8回です。
 ココまではトントン拍子に進みましたが、今回の第4章からは、……長いです。 なかなか終わりが見えません。
 気長にお付き合い下さいますようよろしくお願い致します。


第4章:メイキング・オブ・『メトロポリス』

 1924年7月―。
 ラングが監督した国民的超大作映画、『ニーベルンゲン』2部作が大成功を収めたウーファ社は、自社刊行の映画雑誌『ウーファ・マガジン』と、ドイツ国内の主要な映画雑誌各誌に今後の新作映画の制作、公開スケジュールを明記した記事を掲載した。 その中でも大きく取り上げられたのが、ラングの最新作である『メトロポリス』であった。
 公開時期は明記されなかったモノの、脚本は既に完成しており、同年秋には撮影を開始すると明記されていた。
 これを裏付けるかのように、ドイツ国内の映画雑誌、『リヒトビルト=ビューネ』誌が、この発表と前後してラングとフォン・ハルボウのバカンスの様子を特集した記事を掲載し、その記事の中で二人が「新作映画『メトロポリス』の脚本を書き上げた」と、タイトルまで明かして明記している。
 ラングの新作は、早ければ1925年にも公開されるかもしれないと、多くのファンが期待した。
 ……トコロが、これらの記事が掲載されてから実に1年近くもの間、新作映画に関する情報は全くと言っていいほど公表されなかった。 それどころか、1925年の4月に刊行された『ウーファ・マガジン』に、「新作映画は5月から撮影開始」という記事が掲載されたのだ。
 しかも、この発表からさらに1年以上を経過してもなお、新作映画の公開時期は発表されないままだった。
 最終的に、映画『メトロポリス』はファンを待たせに待たせ、1927年の1月にようやく公開される事になるのだが、ウーファ社が最初に“製作開始”の発表を行ってから、実に2年半もの歳月が流れた事になる。
 この、『メトロポリス』が製作中だったハズの空白の2年半にいったい何があったのか? 続いての旅は、映画制作の舞台裏を覗き見る旅である。


1.プリ・プロダクション

 さて、まずは少しだけ時計を戻す事にしよう。
 1925年4月。
 満を持して公開された『ニーベルンゲン』2部作の後編、『クリームヒルトの復讐』は、劇場が連日大盛況となる大ヒットとなったが、これと前後してラングとフォン・ハルボウは、本作の草稿を書き上げている。 後にケッテルフントが語るトコロによると、ケッテルフントはこの年の5月にこの草稿を読んでいるそうなので、ラングとフォン・ハルボウは少なくとも1924年5月には新作映画の構想を固めていたと見て良いだろう。
 そして、ラングとフォン・ハルボウは、映画『ニーベルゲン』の成功を見届けた後、休暇を取って5月から6月にかけての1ヵ月ほどの間、ラングの生まれ故郷であるオーストリアのウィーンとザルツブルグを旅する夫婦水入らずの休暇旅行に出かけている。
 この休暇旅行の最中、二人は新作映画『メトロポリス』の脚本の第1稿を書き上げている。
 ただし、ドイツのベルリン・キネマティーク財団に現在収蔵されている本作の第1稿脚本のコピー(注:ラングが撮影に使用したモノではなく、ポマーかウーファ社に提出されたモノと思われる。 ラングが撮影に使用した監督脚本は、後にラング自身が紛失してしまった事を明言している)の表紙には、日付が入っておらず、これは前記した『リヒトビルト=ビューネ』誌の記事によるモノで、ホントのトコロは定かではない。
 もちろん、この直後にウーファ社は新作映画の製作開始時期を公式に発表しているので、ラングとフォン・ハルボウが「休暇旅行中に第1稿を書き上げた」というのは、間違いないと考えて良いと筆者は考える。
 また、この第1稿の冒頭には、ポマーの献身に対するラングとフォン・ハルボウの謝辞がつづられている事から、ポマーもこの新作映画に関してはこの時既にある程度以上の事を二人から聞いており、予算確保やスケジュール調整など、制作に向けた行動を起こしていたと考えられる。
 いずれにしても、1924年の段階で映画の脚本は完成しており、同年秋の製作開始は決定していたのである。
 しかし、製作開始直前の1924年10月、ウーファ社はラングとポマーに“営業活動”を指示する。 「アメリカへ行け」と言ったのである。


・アメリカ旅行

 1924年10月。
 ラングとポマー、そしてその妻であるゲルトルートは、ウーファ社の重役数人と共にアメリカへと旅立った。(注:フォン・ハルボウはドイツでお留守番)
 このアメリカ旅行の目的は、アメリカでの公開が決まった『ニーベルンゲン』2部作のプロモーションと、ハリウッド映画界の視察が主な目的であった。(注:ただし、ウーファ社の重役陣とポマーにとっては別の重要な目的もあった。 詳細は後述)
 このアメリカ旅行には、建築家のエーリッヒ・メンデルゾーンが同行している。
 メンデルゾーンは、1887年にユダヤ系の家系に生まれたドイツ出身の建築家で、1907年にミュンヘン大学の経済学部に入学するも、僅か1年で自主退学し、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学でミュンヘンで活躍していた建築家、テオドール・フィッシャーに師事して建築を学んだ後、1912年に自身の設計事務所を設立。 1921年には、ポツダムに“アインシュタイン塔”というアインシュタインの相対性理論を実測検証する実験施設を建設。 そのデザインが極めて近未来的かつ芸術的であると高く評価され、多数の斬新な建築物の設計を手がけ、表現主義建築家として名を馳せた人物である。
 後に、メンデルゾーンはナチス政権の迫害から逃れるためにアメリカに亡命する事になるのだが、メンデルゾーンにとっても、この旅行は初めてのアメリカ体験であった。
 そのメンデルゾーンは、ラングとは全く面識がなかったのだが、この時初めて逢ったラングを指して、「片眼鏡が上流風で嫌味だが、実は思慮深くかつ大胆で行動的」と語っている。 メンデルゾーンは、既にラングの鋭い洞察力を見抜いていたようだ。
 それはともかく、このアメリカ旅行はメンデルゾーンにとっても非常に刺激的なモノだったらしく、この旅を“視覚と脳の探求の旅”と呼び、大西洋を渡って入港したニューヨークの港と摩天楼に感激した。
 1920年代当時、アメリカはヨーロッパから大西洋を隔てたとても遠い国だった。 船で移動すると、1週間から10日もかかる。
 チャールズ・リンドバーグが大西洋横断単独無着陸飛行に成功するのは、本作が公開された1927年の事で、しかも実に33時間以上、すなわち1日半もかかっている。
 20年代までは、ヨーロッパとアメリカはとても遠い国だったのだ。
 そのため、ラングらも当然船で移動したワケだが、メンデルゾーンは入港した時の感激を「空間の闘争、勝利の陶酔」と表現した。 そしてそれは、ラングにとっても同じだった。
 ラングは、生まれて初めて見た摩天楼の様子を、「ビルがカーテンのように揺らめき、空をバックにした舞台背景画に見える。 目を眩ませる催眠術のよう」と、圧倒された感情を表現している。
 ニューヨークに降り立った一行は、早速摩天楼を観光した。 そして、活気に満ち溢れた街の様子、とりわけ夜の摩天楼を煌々と照らし出すネオンサインに、ラングは強いインスピレーションを感じたようだ。
 ネオン管は、1912年にフランスの技術者、ジョルジョ・クロードによって考案され、同年のパリ万博に出品され大変な話題を呼んだ。 1915年になると、クロードは“クロードネオン社”というネオンサインの制作、販売を行う企業を興し、夜間広告としての有用性が注目されたネオンサインは瞬く間に普及していく。 そして、これに真っ先に飛びついたのが、ニューヨークのマンハッタンである。
 当時のカメラはレンズの質が悪く、“夜間撮影は不可能”と言われるほど、とても暗かった。 映画の撮影では、過剰なまでの照明を使っても、役者の顔に白粉を塗らないと表情が分からなくなってしまうほどだった。
 しかし、マンハッタンだけは違っていた。 街全体にネオンサインが煌き、カンタンに夜間撮影出来るほどだった。 それだけ、当時のマンハッタンの夜は明るかったのだ。
 同時にこれは、その膨大な電力消費量がそのまま、当時のアメリカの国力を示すモノであり、第1次世界大戦の戦勝国の力を見せ付けるモノであった。
 ちなみにネオンサインは、日本ではラングらのアメリカ旅行の翌年、1925年に大阪の白木屋大阪店が国内初のネオンサインを点灯している。
 このネオンサインと超高層ビルが立ち並ぶマンハッタンに強いインスピレーションを感じたメンデルゾーンは、昼夜を問わず街の風景を写真に撮りまくった。 そして帰国後、撮り溜めた写真を収めた前衛的な写真集、『アメリカ‐建築家の写真集』(26年初版)を出版する。 掲載された写真の内の1枚、“夜のブロードウェイ”は、ラングが撮影したモノであった。
 このネオンサインと超高層ビル群に強烈な印象を受けたラングは、帰国後本作の制作に影響を及ぼす重要な決定を下す。
 脚本の改稿と、映画のヴィジュアル面の改定を決めたのである。


・制作延期のナゾ

 ラングの決定は、しかし同時に制作の延期を決定する極めて重要な決断であったのは間違いない。 既に進められていたセットデザインのやり直しが指示された事になるからだ。
 しかし、この“制作延期”がいつ決定したのか?というのは、実ははなはだ定かではない。
 大方の見方では、ラングがマンハッタンのネオンサインと超高層ビル群に強いインスピレーションを感じ、製作開始直前だった本作のヴィジュアルにこれを取り入れるため、脚本の改稿とデザイン面の見直しを指示したため、というのが一般的だが、これに反論する記録も実は残っている。
 先にも記したように、本作は1924年7月の時点で、ウーファ社によって公式に「今年の秋から製作開始」と発表されている。 が、この“秋”というのが、実は9月だったという記録が残っているのだ。
 つまり、ラングらがアメリカに旅立った1924年10月には、映画は(本来であるなら)既に撮影に入っていた事になる。
 しかし、実際には撮影は始まっておらず、ラングらはアメリカに旅立っている。
 映画の制作延期が決定したから旅立ったのか、それとも旅立つ事が決まったから制作延期になったのか?
 今となっては、既に当事者や記録も残っていないので、永遠のナゾである。
 筆者の個人的な考えで、根拠は何もないが、もしかしたら予算の問題があったのかもしれない。
 後ほど詳細に記す事にするが、本作の総製作費については実は諸説あって、これまた定かではない。 最終的に費やした製作費ももちろんだが、制作開始当初の予算についても、150万マルクという説がある一方で、80万マルクだったという説もある。
 これらを総合して考察すると、1924年7月の製作発表当初の予算は150万マルクだったが、ウーファは80万マルク程度しか確保出来なかったために制作延期を決定。 製作費を稼ぐ目的もあって『ニーベルンゲン』2部作のアメリカ公開を計画し、これを成功させるためにラングらに“営業活動”としてのプロモーション旅行をさせた……?
 ……ホント、全くの想像デスケドネ?
 ともかく、制作発表があった1924年7月から、ラングらがアメリカに旅立つ1924年10月までの3ヵ月間に、なんらかの紆余曲折があって制作延期が決定した事だけは確かだ。
 そして、帰国後のラングが脚本の改稿とヴィジュアル・デザインの見直しを指示したのも確かなので、1924年9月の撮影開始が延期された理由は定かではないが、1925年5月まで撮影開始がズレ込んだのは、明らかにラングの指示によるモノだと考えて良いと思う。


・ハリウッド訪問

 ニューヨーク観光と平行して、ラングは地元紙であるニューヨーク・テレグラフやニューヨーク・タイムズ、及び映画雑誌のフィルム・クリアー誌などのインタビューに応えている。 そしてこのインタビューの中で、マンハッタンのネオンサインや超高層ビル群に強いインスピレーションを受けた事や、これに伴って大都市の都市構造の研究をしていると答えている。
 ラングの眼に映ったマンハッタンの街並みは、相当強烈な印象だったようだ。
 そしてラングらは、当時ニューヨークに設立されたばかりのウーファ社のニューヨーク支社長、フレデリク・ウィン・ジョーンズと、後に本作製作中に会長職を退く事になるウーファ社の会長、フェリクス・カルマンに連れられて、東海岸のニューヨークからシカゴを経由して西海岸のハリウッドへと移動する。 ハリウッドの最新の映画撮影技術を見学するためだ。
 まず最初に訪れたのは、俳優で監督のダグラス・フェアバンクスが主催する自身の映画スタジオであった。 ココでラングらは、フェアバンクスが監督、主演した『バグダッドの盗賊』(24年)のセットを見学している。
 この映画は、1924年3月に公開されたハリウッド映画だったが、ラングらが訪問した時まで一部のセットが撤去されずに残っていたのだ。
 しかも、このセットにはラングの監督作品である『死滅の谷』のセットデザインの影響がハッキリと見られ、ラングらはドイツ映画が既にハリウッドにも影響を及ぼしている事を確認出来た事だろう。(注:映画『死滅の谷』の公式なアメリカ公開はニューヨークで実現してるが、それは実は1924年7月の事である。 フェアバンクスは、それ以前に何らかの形でこの映画を観ていたと考えられる。 ちなみに、日本での公開はアメリカよりも早く、1923年3月の事)
 また、サミュエル・ゴールドウィン、ジョゼフ・シェンク、マーカス・ロウなどの大物プロデューサーや、フランスから移民してきた映画監督、モーリス・トゥルヌールや、既に名声を得ていたビッグスター、チャーリー・チャップリンとも面会している。
 さらに、ワーナーのスタジオを訪問した時には、ラングは懐かしい友人と再会する事になった。 ラングやムルナウ、A・E・デュポン、ルートヴィヒ・ベルガーらよりも一足先にハリウッド進出を果たしていた元舞台演出家の映画監督、エルンスト・ルービッチュである。
 ルービッチュはラングらを大歓迎し、当時撮影中だった『ロスト・ワールド』(注:サイレント時代を代表するコナン・ドイル原作のSFアドベンチャー大作。 ストップモーション撮影による恐竜が話題を呼び、現在でも古典的名作とされている。 1925年公開)の撮影現場を案内した。
 ココで、ラングらはハリウッドの最新の特殊撮影技術を見学し、この技術は後に本作の特殊撮影にも取り入れている。
 続いて訪れたのはユニバーサルのスタジオで、ココではやはり当時撮影中だった25年版の『オペラ座の怪人』(注:これ以降、何度となく映画化される事になるガストン・ルルー原作の戯曲版の最初の映画化作品。 25年公開)の撮影を見学しているが、重要だったのはミッチェル・カメラ社を訪問した事だろう。
 ミッチェル・カメラ社は、1919年にジョージ・A・ミッチェルがヘンリー・ボガーと共に創立した映画撮影専用のカメラを製造、販売する会社である。 1920年代から戦前にかけて、信頼性の高い製品をハリウッド映画界に提供しており、日本でも1928年に松竹の蒲田撮影所が国内初のミッチェル・カメラを導入しており、1970年代まで日本国内の多くの映画スタジオが使用していた。
 今でこそ、映画用の撮影カメラはアメリカのパナヴィジョン社(注:1953年創立)が最大手で、現在は日本でも同社のカメラが多用されているが、当時はミッチェルが最大手だった。
 ラングは、ココで当時の最新式カメラを2台購入し、本作の本編撮影に使用している。
 この2台のカメラが、ドイツ国内で使用された初めてのミッチェル・カメラだった。
 ちなみに、ミッチェル・カメラ社は1985年、急速に成長したリー・インターナショナルに買収、吸収合併され、ミッチェルのブランドは消滅した。(注:同社はイギリスの大手照明機器メーカーで、80年代に次から次へと映像メディアの大企業を買収し、87年にはパナヴィジョン社も傘下に吸収されている)
 それはともかく、ハリウッド中を見学して回ったラングらは、西海岸を離れて帰国の途に着くため東海岸へと戻った。
 その途中、ニュージャージー州のモンクレールを訪れ、映画の父、D・W・グリフィスと面会している。 その席上で、ラングは完成したばかりのグリフィスの監督最新作、『素晴らしき哉人生』(24年)を試写している。
 実はこの作品、第1次世界大戦直後のドイツが物語りの舞台になっているのだが、……ラングはどう観たのかしらん?
 ともあれ、約1ヵ月半に及ぶラングのアメリカ滞在は、大変意義のある旅になった事は確かだ。
 帰国直前、ニューヨーク・タイムズのインタビューに答えたラングは、見学したワーナーのファースト・ナショナル・スタジオを指して、「ドイツのいかなる撮影所よりも優れている」と感想を述べている。
 帰国後、ラングはフィルム・クリアー誌やフィルムラント誌といった映画雑誌に、この時の旅行記を数回に渡って連載している。
 1924年11月末。
 ラングとウーファ社の会長フェリクス・カルマンの二人(注:ポマーの妻ゲルトルートとメンデルゾーンは、ニューヨークを観光しただけで先に帰ったらしい)は、蒸気船に揺られてニューヨーク港から岐路の船旅に着いた。
 ……が、ポマーだけはアメリカに残った。
 何故?
 それは、ポマーにはもう一つ、重要な“任務”があったからだ。


・ウーファ社のアメリカ進出計画

 ウーファ社のアメリカ市場進出を計画したのは、どうやら会長のカルマンではなくポマーだったようだ。
 この頃、ポマーはウーファ社の映画製作部門の総責任者という地位にあり、ウーファ社の作品を本格的にアメリカへ輸出しようと画策していた。
 第1章で述べた通り、第1次世界大戦の敗戦国であったドイツは、巨額の賠償金を課せられ、インフレと超マルク安に苦しめられていた。 ……が、それも1924年までのハナシで、映画『ニーベルンゲン』2部作の公開と前後して、為替市場がようやく安定化し始め、インフレも次第に落ち着き始めた。 ドイツ国内の経済状態は、ようやく戦前の状態に戻り始めたのだ。
 そのため、年間600作という映画頻作時代は終わりを告げ、大量に輸出されていたドイツ映画は、為替市場の安定化のため輸出し難くなり、代わりにハリウッドを中心とした外国映画の輸入が多くなった。 活性化していたドイツ映画市場にビジネスチャンスを見出したハリウッドが参入し始めたのである。
 そしてこれは、次第にドイツの観客の心を掴んでいく。 ドイツやフランス、ロシアなどの芸術映画とは異なるハリウッド式の娯楽映画が、大衆に受け入れられていったのである。
 この、“映画の流行”の転換に敏感に反応したのが、ポマーである。
 ポマーは、ドイツ大衆にウケの良いハリウッド式娯楽映画を輸入する代わりに、ハリウッドではあまり作られないヨーロッパ式の芸術映画(注:アメリカでは、これらは“アートシネマ”と呼ばれた)を輸出しようと考えたのである。
 ハリウッドにはない芸術性の高い映画が、アメリカ大衆の眼には新鮮に映るだろうと考えたのである。
 また、もう一つの理由として、映画の製作費回収の問題があった。
 映画『ドクトル・マブゼ』以降、ポマーは頻作の潮流から外れて大作主義を採るようになるが、大作系映画の製作費は雪ダルマ式に増大するばかりで、製作費の回収には常にアタマを悩まされていた。 それは、大ヒットした『ニーベルンゲン』2部作でも同じだった。 どんなにヒットしても、ドイツ国内だけの収益では製作費の回収は不可能だったのである。
 そこで、映画を海外に輸出し、海外配給による利益を上乗せする事で、大作系映画の製作費を回収しようと考えたのである。
 このポマーの考えは、現在の映画界では至極当たり前の常識になっている事である。 実際、現在のハリウッド式超大作系映画は、1億~2億ドル、日本円にして100億円以上(注:為替レートによる)という、1920年代当時の『ニーベルンゲン』や本作に匹敵する総製作費が費やされた作品がほとんどで、これはアメリカ国内配給の利益だけでは回収不可能な金額である。
 このビッグ・バジェット(注:“バジェット”は予算の意)を回収するために、現在の超大作系映画は海外配給が最早“必須”になっている。
 そしてそれは、ウーファ社の大作系映画でも同じだったのだ。
 そのため、ウーファ社は1924年にニューヨーク支社を設立し、『死滅の谷』を含む数作のアメリカ配給を実現していたが、どうやらあまり上手くいっていなかったようだ。 なにせ、映画を上映出来る直営劇場がニューヨークにしかなかったからだ。 実際、アメリカでの公開予定があった『ニーベルンゲン』2部作も、実は1925年まで公開が延期になっている。
 そこで、ウーファ社は一計を案じ、ハリウッドのスタジオと“業務提携”をしようと画策した。 そして、その交渉役として選ばれたのが、アメリカ進出の発案者であったポマーなのである。
 ラングらとのアメリカ旅行の本当の目的は、実はポマーがハリウッドのスタジオと業務提携するための交渉を行う事だったのである。
 少し時間が飛ぶが、1925年初頭、ウーファ社は絶頂期にあった。 複数のインディペンデント系のスタジオや現像所を吸収合併し、2月にはドイツの主要な大都市に新たに13もの直営劇場を建設。 同社の株価は、見事な上昇カーブを描き続けていた。
 しかしこれと時を同じくして、筆頭株主であったドイツ銀行によって1921年から会長職に就任していたカルマンが突然辞職。 これ以降、ウーファ社の会長の椅子は、なんと10ヵ月もの間空席になってしまう。
 さらに時間が飛ぶが、ポマーの粘り強い交渉の結果、後のハリウッド6大メジャーの一つになる、ユニバーサル(注:ユダヤ系移民のカール・レムリによって1912年に創立。 今年2012年は、ユニバーサルの記念すべき創立100周年のアニバーサリー・イヤーである。 ちなみに、後述するパラマウントも、2012年が創立100周年のアニバーサリー・イヤー)との契約が成立し、1925年11月にウーファ=ユニバーサル協定が締結された。
 この協定は、ユニバーサルがウーファ社に対して27万5千ドル(注:約120万マルク)の融資を行い、お互いの映画作品50本ずつを相互に配給するというモノであった。
 が、これと前後して、ウーファ社の経営不振が巷で囁かれるようになり始めた。 会長職の椅子が、既に9ヵ月もの間空席になっている事に対する不信感からの反応であった。
 これを裏付けるかのように、株価指数は3分の2にまで落ち、筆頭株主であったドイツ銀行への負債総額は、実に2800万マルクにまで達しているという情報まで流れた。
 ウーファ=ユニバーサル協定は、このマイナスイメージを払拭するためのモノでもあったが、残念ながらこれだけでは不十分だった。
 そのため、協定締結直後にドイツ銀行の指名で新たにウーファ社の会長職に就任したフェルディナント・バウスバックは、ユニバーサルとの契約をなんと破棄(!?)し、それまで水面下で進めていたこれまた後のハリウッド6大メジャースタジオ、パラマウントとMGMとの3社協定、“パルファメット協定”の締結に成功する。
 この協定は、パラマウントとMGMの2社が共同で、ウーファ社に対し400万ドル、実に約1700万マルクもの融資(!!)を行い、2社の映画作品20作ずつをウーファ社を通してドイツに輸出。 ウーファ社は、2社を通して年間総製作作品数の10%(注:予定では、計算上年間20作程度)をアメリカに輸出するという内容だった。
 1925年12月、こうしてパルファメット協定は締結された。
 そして、この膨大な額の融資金を使って製作された最初の映画が、実は本作なのである。
 実際、協定締結時には本作の制作は既にスタートしていたが、映画の冒頭には“この映画はウーファ社の発注により製作され、パルファメットにより配給されている”という一文が添えられている。
 また、ポマーはこの協定の責任者として一時的にウーファ社を退社。 MGM作品のドイツ国内配給の責任者に就任している。(注:そのため、本作のプロデューサーはウーファ社の文化映画製作部門の責任者だったアレクサンダー・グラウという人物がポマーの後任を引き継いでいる。 ウーファ社に対して、ポマーが本作のプロダクションのためにムチャクチャな額の予算を申請し、ポマーとウーファ社の間に亀裂が生じていたため、言わば“左遷”されたという記録もあるようだが、予算の問題はハリウッドからの融資によって解消されたハズなので、筆者はこれを信じていない。 ちなみに、グラウはノンクレジット扱いになり、彼の名は映画のクレジットに含まれていない)
 ……しかし、この協定もあまり上手く行かなかったようだ。
 最終的に、この協定は1927年3月に新たにウーファ社の会長に就任したアルフレッド・フーゲンベルグによって1928年2月に50本のハリウッド映画の輸入と20本のドイツ映画の輸出という内容で再契約が交わされるが、1933年のナチス政権の樹立によって、この契約は中途破棄される結果に終わってしまう。
 最初の契約中でも、ハリウッド映画のドイツ国内配給も、ドイツ映画のアメリカ国内配給も、あまり期待したほどの利益は上げられなかったようだ。
 そのため、ウーファ社は本作の大失敗もあって経営危機に立たされ、1933年にナチス政権によって再度国有化され、戦後になって再度民営化されるも、ソ連の共産化政策によって分割され、DEFA=ドイツ・フィルム・AG社として再編。 事実上、ウーファ社は消滅する事になる。
 本作のソフト版の解説ブックレットで、映画歴史家の小松弘が指摘している通り、本作はウーファ社の絶頂期に企画され、混乱迷走期に製作され、衰退期に公開された作品なのである。


 いずれにしても、こうしたウーファ社の“お家騒動”も、本作の製作延期に拍車をかける結果になった事は間違いないと思われる。
 しかし、それでもラングとフォン・ハルボウは、本作の製作に固執した。 二人は、この作品を完成させる事に大きな重要性を見出していたのである。
 そして、本作の製作が実現する事を信じ、脚本の改稿とヴィジュアルデザインの設計、セットの建設やスタッフの招集、キャスティングなどの作業を進めた。
 このプリ・プロ作業は、最終的に映画の撮影が開始される1925年5月まで続く事になった。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


天使の甲冑。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 目の醒めるような真っ白な防具。 シンプルながら、胸元や肩のテクスチャーが非常に手が込んでいる。 終盤に入手出来る装備の一つ。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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206.『メトロポリス』伝説:第3章②

2012年07月29日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #07-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 梅雨明けからこっち、毎日毎日暑いッスねぇ~~! ホント茹りそうですよ。
 気象庁が発表した3ヵ月予報によると、8月は太平洋高気圧が活発になり、もっと暑くなるとの事。 昨年が冷夏だっただけに、今年は余計に堪える猛暑になりそうです。
 ……まあ、6月にイキナリ台風が上陸したりしましたしね。 震災の時の大津波による海流も落ち着いただろうし、これが本来の暑さっちゃ暑さなんだろうけどさ。
 何より心配なのは熱中症と電力不足。
 皆さまもお気をつけ下さい。
 そして、この暑い夏をさらに暑くするロンドンオリンピックがいよいよ開幕! 連日の熱戦に気温もテンションもアップアップアップ! 今回もアツいですな~!
 ……ゴメンなさい、ウソです。
 これ書いてる時点で、まだ開幕してません。
 って、このネタ北京オリンピックの時にも使いましたか? デ・ジャ・ヴュ? ってゆーかむしろテンドン?(笑)
 それはともかく、今回は地球の裏側イギリスはロンドンが開催地という事で、前回の北京とは比較にならないほど時差が激しく、中継は基本深夜になってしまうのがかなり残念。
 まあ、ネット動画で観る分には日本時間の何時であっても関係ナッシングですがね。
 でも、今回のロンドンで9時間でしょ? 次回のリオデジャネイロは12時間。 完全に昼夜逆転だしっ!!
 その次ってドコだっけ? まだ決まってないっけ? また日本でやってくんないかね? 前回が北京だったから、東アジア圏はしばらくないかなぁ~?
 まあいいんだけどさ。 結局メインはネットになるだろうし。
 今回ももらさず全部観るぞぉ~!?
 ちなみに、今回のオリンピックは1912年のストックホルム大会で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三が日本人として初のオリンピック出場選手になってから、丁度100年目の大会になるそうです。(注:詳しくは当ブログ記事『005.マラソン必勝法』を参照の事)
 う~~ん、ホント今年は色々とアニバーサリーイヤーが重なるなぁ~~。



<今週の特集>

 さて、オリンピックムードもどこ吹く風、当ブログは相も変わらず映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第6回です。
 今週も最後までヨロシクね☆


・エーリッヒ・ケッテルフント/美術・特殊効果監修

 本作の美術チームの中でも最年少で、しかしセットデザインのみならず、ミニチュア撮影やオープニングアニメーションなども手がけたのは、そのキャリアの中で100タイトル近い作品に携わる事になったエーリッヒ・ケッテルフントである。
 1893年、ベルリンに生まれたケッテルフントは、美術を学んだ後アーヘンやメトロポリタン・オペラの劇場で舞台セットのデザイナーの見習いになる。
 1919年、マイ・カンパニーに入社したケッテルフントは、フンテ、フォルブレヒトらと共に『Die Herrin der Welt』8部作や『インドの霊廟』のセットデザインを手がける。 そして、やはりこれが縁となり、ラングの監督作品である『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』、そして本作に携わった。
 特に本作では、プリ・プロ段階から大きく関わり、映画のヴィジュアルを決定するコンセプト・アートを多数手がけ、本編撮影用のフルスケールセットのデザインのみならず、ミニチュア撮影用のセットやミニチュアのデザイン、さらにはオープニングや終盤に挿入されるネオンサイン煌く街の夜景などのアニメーションを担当。 デザイナーとしてだけでなく、アニメーターとしても活躍した。
 本作の製作終了後は、残念ながらラングと離れる事になってしまったが、『アスファルト』や『狂乱のモンテカルロ』、『F・P1号応答なし』といったポマーのプロデュース作品でセットを手がけた。
 ナチス政権樹立後の1933年以降もドイツに止まったケッテルフントは、『Gluckskinder』(36年)、『Kora Terry』(40年)、『Frauen sind doch bessere Diplomaten』(41年)、『Die Frau meiner Traume』(44年)などの作品でセットを手がける。
 これらと平行して、ケッテルフントは若手の育成にも努めるようになり、1938年にナチスの宣伝省相ゲッベルスの指示でウーファ社が出資して設立された映画学校、バーベルスベルグ・ドイツ映画アカデミーの講師に就任。 映画美術の教鞭を取る。
 終戦後は、『Pension Scholler』(52年)や製作も務めた『Das Madchen Marion』(56年)、『Haie und kleine Fische』(57年)、『U47-Kapitanleutnant Prien』(58年)などでセットを手がけているが、なんと言っても欠く事が出来ないのは1960年のリメイク版『怪人マブゼ博士』だろう。
 この作品は、アメリカから帰国したラングの最後の監督作品であり、それはケッテルフントにとっても同じであった。
 この作品を最期に、ケッテルフントは41年のキャリアに幕を閉じた。
 引退後は、TVのドキュメンタリー番組などで自身のキャリアについて語ったりしているが、1979年にハンブルグにて永遠の眠りについた。 享年85歳。
 1968年には、それまでの功績が讃えられ、ドイツ・フィルム・アワードでブリギッテ・ヘルムと共に栄誉賞を受賞している。


・オイゲン・シュフタン/特殊効果監修(シュフタン技法)

 本作にて本格的に導入された特殊効果、“シュフタン技法”(注:あるいはシュフタン・プロセス)の考案者であり、本作の特殊効果を手がけたのは、画家で彫刻家で建築家。 さらには特殊効果監修やカメラマン、映画監督と多彩な才能を発揮し、映画における現在の視覚効果の先駆者として名を馳せたオイゲン・シュフタンである。
 1893年、ドイツのブレスラウに生まれたシュフタンは、大学で美術を学んだ後、絵画、彫刻、デザイン、そして建築の分野で活躍するようになり、1920年代に入る頃には表現主義系の芸術家として名を知られるようになる。
 これと前後して、シュフタンはカメラにもその興味を注ぐようになり、映像分野、特にトリック撮影の研究に没頭するようになる。
 1923年、経緯は不明だが、シュフタンはラングと知り合い、当時製作中だった『ニーベルンゲン』2部作の制作に特殊効果監修として参加。 ミニチュア撮影などを手がけた。
 この関係から、シュフタンは本作の製作にも参加し、鏡を使ってミニチュアとライブアクションを合成するシュフタン技法を考案。 映画の多数のシーンに導入され、本作の圧倒的なヴィジュアルを決定付けた。
 この技法は、シュフタンが制作に参加し、本作の制作とほぼ同時進行で制作されていた『ワルツの夢』(25年)にも導入されている。
 本作と平行して、シュフタンは特殊効果監修として『ヴァリエテ』(25年)、『嫉妬』(25年)、『Dagfin』(26年)、そしてアベル・ガンス監督のフランス映画『ナポレオン』(27年)等の制作にも参加し、その地位を確固たるモノにする。
 が、1930年代に入ると、シュフタンは監修としてではなく直接カメラのファインダーを覗くようになり、『日曜日の人々』(30年)、『Dann schon lieber Lebertran』(31年)、『Meine Frau, die Hochstaplerin』(31年)、『Die Herrin von Atlantis』などの作品でカメラを任されるようになる。 また、『Ins Blaue hinein』(29年)、『Das Ekel』(31年)、『Die Wasserteufel von Hieflau』(32年)という3作品では、監督も務めている。
 しかし、シュフタンがドイツで映画に携わったのは1933年までであった。
 ラングがそうであったのと同じく、シュフタンもユダヤ系だったためナチス勢力から逃れるようにフランスへ亡命。 ドイツを脱出した。
 ちなみに、ドイツでの最後の仕事は、ブリギッテ・ヘルムが主演した『The Mistress of Atlantis』(32年)という作品だった。
 1933年から1940年までの7年間、フランス映画界でカメラマンとして活躍したシュフタンは、26作の制作に参加。 その後、第2次世界大戦の戦場になったフランスを逃れ、アメリカに移住する。
 1943年、ハリウッドに渡ったシュフタンの最初の仕事は、『Hitler's Madman』という反ナチズムを扱ったプロパガンダ映画であった。 シュフタンは、反ナチス派だったようだ。
 これ以降、シュフタンはノンクレジットを含めた多数の作品を手がけ、ハリウッドを活動の中心にフランスでもカメラを手がけている。
 1950年代後半以降には、TVシリーズやフランス映画が中心になるが、1961年の『ハスラー』が極めて高い評価を受け、撮影賞で念願のハリウッドオスカーを獲得。 名実共に、名カメラマンの称号を手に入れた。 またこの作品では、ローレル賞でも撮影賞を受賞している。
 その後、64年のウォーレン・ベイティー主演作『Lilith』や65年の『マンハッタンの哀愁』など、話題作、ヒット作を数作手がけるが、1966年の『Chappaqua』を最後に映画界を引退。 静かな余生を送った後、1977年にニューヨークにて永遠の眠りについた。 享年84歳。
 特殊効果監修として映画界に入り、多彩な才能を発揮して90作以上の作品に携わり、映画における映像表現の可能性を広げたシュフタンは、その功績が讃えられ、引退直前の64年には、ドイツ・フィルム・アワードで栄誉賞を。 引退後の1975年には、ビリー・ビッツァー賞で生涯功労賞を受賞している。


・エンネ・ヴィルコム/衣装

 本作において、冒頭の永遠の園の女性たちやニセマリアが扇情的なダンスを披露するシーンで印象的だった彼女たちのセクシーなドレスを含めた衣装を手がけたのは、デザイナーのエンネ・ヴィルコムである。
 ……が、ヴィルコムに関する情報は全く入手出来なかった。
 ので、以下に分かった事だけ記す事にする。
 1902年に中国の上海で生まれたヴィルコムは、経緯は不明だが1924年にラングの『ニーベルンゲン』2部作の衣装を担当。
 以降、『Mein Leopold』(24年)、『Der Katzensteg』(27年)、本作、『Schwester Veronica』(27年)でそれぞれ衣装を担当しているが、これ以降の足取りは不明。
 1979年、ドイツのハンブルグで亡くなる。 享年77歳。 誕生日の僅か3日後の事だった。


・ヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフ/彫刻

 本作の最も重要なキー・ヴィジュアルである人造人間のデザインと彫刻や、フレーダーの悪夢に登場する7つの大罪と死神の彫像の頭部の彫刻を手がけたのは、彫刻家としてキャリアをスタートさせ、後に衣装デザイナーとして多数の映画を手がける事になるヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフである。
 1893年、ベルリンに生を受けたシュルツ=ミッテンドルフは、14歳の時に彫刻家のオットー・ロジウスに弟子入りして彫刻を学ぶ。 4年間の修業の後、ベルリン芸術アカデミーに入学し、さらに専門的な教育を受ける。
 1915年、兵役制度によって軍隊に入隊したシュルツ=ミッテンドルフは、1918年までの3年間、兵士として第1次世界大戦に出征。 塹壕の泥の中を這いずり回った。
 しかし、幸運にも大きな負傷もなく終戦を迎えたシュルツ=ミッテンドルフは、帰国後映画の美術を手がけていたロベルト・ヘリスに誘いを受け、へリスの助手として映画界に足を踏み入れる。 そうして制作に参加したのが、ラングの『死滅の谷』であった。 ラングに気に入られたシュルツ=ミッテンドルフは、ノンクレジットながら『ドクトル・マブゼ』2部作や『ニーベルンゲン』2部作の制作にも参加している。
 オンクレジットでの映画製作の参加は、1922年の『Peter der Grose』が最初であったが、それよりもシュルツ=ミッテンドルフが手腕を発揮したのが、本作である。
 本作における最も重要なキー・ヴィジュアルであるあの人造人間や、7つの大罪と死神の造形が極めて高く評価され、シュルツ=ミッテンドルフの名は映画界でも有名になっていく。
 本作公開後、シュルツ=ミッテンドルフは一旦芸術の世界に戻るが、1933年に再びラングの召集を受け、『怪人マブゼ博士』の制作に参加。 映画終盤に登場するマブゼ博士の亡霊の彫像を手がけた。
 ラング亡命後の1935年からは、シュルツ=ミッテンドルフはドイツに止まり、衣装デザイナーとして多数の映画製作に参加した。
 例を挙げると、『Amphitryon』(35年)や、ゲオルゲやロースが出演した『Andreas Schluter』(42年)、『Die Feuerzangenbowle』(44年)などがある。
 終戦後は、分断された東ドイツで数作を手がけるも、あの悪名高きベルリンの壁が建設される直前に西ベルリンに移り、多数の作品を手がける。
 1960年代に入ってからは、主にTVでの仕事が中心になり、映画は数作程度に止まっている。
 最終的に、1968年OAのTV映画、『Der Eismann kommt』で50年のキャリアに終止符を打った。 シュルツ=ミッテンドルフが手がけた作品は、彫刻家として3作。 衣装デザイナーとして、TVを含めて59作を数える。
 シュルツ=ミッテンドルフは、1976年にベルリンで亡くなった。 享年83歳。
 彼は終生ベルリンを愛し、戦後東西に分断されてもなお、ベルリンを出る事はなかった。


・ゴットフリート・フッペルツ/音楽

 本作のオリジナル版のプレミア公開において、集まった招待客らを音楽で圧倒したのは、舞台俳優やオペラ歌手としてのキャリアも持つ名コンポーザー、ゴットフリート・フッペルツである。
 1887年、ケルンに生を受けたフッペルツは、幼少の頃クライン=ロッゲと知り合いよく遊んだそうだが、クライン=ロッゲが父親の命令で軍学校に進学したため疎遠になってしまう。
 フッペルツの方は、音楽に才能を発揮し始め、1905年に“Rankende Rosen”というタイトルで初めて作曲を行っているが、地元ケルンの音楽院で音楽を学んだ後、1910年にコーベルグの劇場でオペラ歌手、及び舞台俳優としてデビューする。 第1次世界大戦中は、この劇場を中心に舞台で活躍した。
 1920年、フッペルツはオペラ歌手としてベルリンのノレンドルフプラッツ劇場(注:ウーファ社の直営映画館ではない)に招かれ、ココで、当時舞台俳優として活躍していたクライン=ロッゲと再会。 その妻フォン・ハルボウにも出会う。
 これが縁になり、21年にラングの監督作品、『Die Vier um die Frau』に出演し、ノンクレジットだが『ドクトル・マブゼ』の第2部でもホテルの支配人役で出演している。
 そうして1922年、ラングに招集されて役者としてではなくコンポーザーとして初めて映画製作に携わったのが、あの国民的超大作、『ニーベルンゲン』2部作であった。
 この音楽は極めて高く評価され、以降のフッペルツのキャリアの足がかりとなった重要な作品でもあった。
 本作製作中の1925年、アーサー・ヴォン・ゲルラッハ監督のフォン・ハルボウの原作小説の映画化作品、『Zur Chronik von Grieshuus』を手がけ、1927年には再びラングの招集を受けて本作の音楽を手がけた。
 本作後は、フリッツ・ラスプが主演した『Der Judas von Tirol』(33年)やフォン・ハルボウが監督した『Elisabeth und der Narr』(34年)、『Hanneles Himmelfahrt』(34年)、ハルベルト・セルフィン監督の『Der grune Domino』(35年)、フランス映画の『Le domino vert』(35年)、カール・マイが脚本を手がけた『Durch die Wuste』(36年)で音楽を手がけ、名コンポーザーとしての地位を確立していく。
 ……が、フッペルツのキャリアはココで突然の終焉を迎える。
 1937年、突然の病に倒れ他界。 享年50歳のあまりに早過ぎるフッペルツの死は、映画界と音楽界に極めて大きな衝撃を与えた。
 結局、フッペルツがコンポーザーとして携わった映画は僅か10作。 しかし、その楽曲は今もなお鮮烈さを失う事なく、2011年にアメリカのサターン賞において、この年にソフト版がリリースされた本作の完全復元版で音楽賞にノミネートされている。


・エーリッヒ・ポマー/製作

 ラングの才能を見出し、本作を史上最大規模の超大作として世に送り出した最大の功労者で、本作の製作を手がけたのはドイツ映画界を代表する敏腕プロデューサー、エーリッヒ・ポマーである。
 1889年、ヒルデスハイムでリネン商を営んでいたグスタフ・ポマーとアンナ夫妻の子として生まれたポマーは、1896年に父親の仕事の関係でゲッティンゲンに移り住み、1905年にはベルリンへと転居した。
 1907年、18歳になったポマーは、フランス最大手の映画スタジオ、ゴーモン社(注:現在も存続している老舗スタジオ。 1997年公開のリュック・ベッソン監督作品、『フィフス・エレメント』の制作スタジオである)のベルリン支社に入社。 1909年から14年までは、パリで働いている。 またこれと前後して、1913年には最愛の妻ゲルトルート・レヴィと結婚している。(注:ラストネームから分かる通り、ユダヤ人である)
 しかし、第1次世界大戦の勃発と同時にポマーはドイツに帰国。 兵役のため兵士として出征するも、間もなく負傷して戦線を離れる。
 帰国したポマーは1915年、ゴーモン社で培った経験を生かし、自身の映画制作スタジオ、デクラ社を設立。 ラングやカール・マイヤーなどの若い才能を育て、『Berlin im Kriegsjahr』(15年)という短編ドキュメンタリーを皮切りに、自身はプロデューサーとして映画制作に携わるようになる。
 ラングとフォン・ハルボウのコンビ作を中心に、1910年代だけで数十作(!)をプロデュースする傍ら、ポマーは1923年、会社を大きくするために一計を案じ、同じインディペンデント系のスタジオであったビオスコープ社との合併に漕ぎ着け、さらに同じ年に民営化して間もないメジャースタジオ、ウーファ社と合併。 ポマーもウーファ社のプロデューサーとして手腕を発揮し、ラングとのコンビで『ニーベルンゲン』2部作や本作などの超大作映画を多数手がけ、その地位を確固たるモノにする。
 これと前後して、ポマーはドイツ映画産業組合、SPIOの初代会長に就任し、1923年から26年までの任期を務めている。
 本作の興行的失敗の責任を取らされたのはラングだったが、ポマーは本作制作中の1926年、実はウーファ社を退社している。
 が、これはウーファ社がハリウッドの映画スタジオ、パラマウントとMGM(注:当時のMG社)と提携して結ばれた相互協定、パルファメット協定の一環で、ポマーがMGMの海外配給担当、すなわちハリウッド映画をドイツに輸入する役割りを担ったからであり、ウーファ社とポマーの間で何らかの確執があったというワケではないらしい。
 その証拠に、ポマーは1930年代に入ってウーファ社に戻り、以前と同様に多数の映画を手がけている。
 しかし1933年、ナチス政権樹立と同時に、ポマーはユダヤ人を妻に持っていたため、ナチスからの迫害を恐れてラングと共にフランスへ亡命。 マックス・オフュルス監督の『On a vole un homme』(34年)や、ラングの『リリオム』(34年)を手がけた後、やはりラングと共に渡米。 活動拠点をハリウッドに移す。
 残念ながら、ハリウッドではラングと再びコンビを組む事は叶わなかったが、20世紀フォックスを中心に『Fire Over England』(36年)や『Jamaica Inn』(39年)などを手がけ、ハリウッドでもその名を轟かせる。
 しかし、1940年の『They Knew What They Wanted』という作品を最後に映画界を一時引退する。(注:と言うより、第2次世界大戦の激化で敵国人だったために迫害されたのかもしれない。 妻と共に磁器工場で働いていたという記録もある)
 戦後、ポマーは戦争のために衰退したドイツ映画界を救おうとドイツに帰国し、数作を手がける。 が、既に60代を迎えており、加えて体調不良に悩まされるようになっていたポマーは潮時を悟り、1955年の『Kinder, Mutter und ein General』という作品を最後に映画界を完全に引退する。
 この最後の作品は、アメリカのゴールデングローブ賞で外国語映画賞を受賞し、ポマーの引退に花を添えた。
 最終的に、ポマーが製作を手がけた作品は、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカで合計、なんと驚愕の202作品(!?)にも及ぶ。
 引退後は、既に国籍を取得していたアメリカに戻り、静かな余生を送った後に1966年、LAでこの世を去った。 享年76歳であった。
 ちなみに、あまり知られていないが、ポマーは渡米後の1938年、『Sidewalks of London』という作品で脚本を手がけており、『Vessel of Wrath』という作品では監督を務めていたりする。(注:ちなみにどちらもイギリス映画)


 といった面々が、本作の主要なスタッフであるが、実は上記の主要スタッフ以外にも、ノンクレジットで多数の有名スタッフが製作に携わっている。

 例えば、ヴァルター・ルットマン
 あの“絶対映画”、『光の遊戯』4部作の監督としても知られているが、ラングとは『ニーベルンゲン』2部作のアニメーション担当として一緒に仕事をしており、本作でもミニチュアやアニメーションのカメラを担当している。

 エドガー・G・ウルマー
 映画『ゴーレム』の美術を手がけた事でも知られているウルマーは、やはり『ニーベルンゲン』の制作に携わっており、本作でも一部の美術を手がけている。

 コンスタンティン・チェトヴェリコフ
 本作のミニチュア撮影などの特殊効果でカメラを担当しているチェトヴェリコフは、本作後にカメラマンに転向し、実に100作近い作品を手がける事になる。

 ヒューゴー・O・シュルツ
 リッタウの助手として多重露光撮影を手がけたシュルツは、本作後にカメラマンとして独り立ちし、多数の作品を手がける。 また、2作だけだが監督も務めている。

 エルンスト・クンストマン
 シュフタンの助手としてシュフタン技法の特殊撮影を手がけたクンストマンは、本作後に特殊効果監修として独り立ちし、33年の『怪人マブゼ博士』を含む70作以上の作品で特殊効果を手がけた。

 ホルスト・フォン・ハルボウ
 フォン・ハルボウの兄弟のホルストは、スティルカメラマンとして本作のプロダクション・フォトを撮影。 その後も、実に50作近い作品でスティルカメラのファインダーを覗き続けた。


 とまあ、キリがないのでこれぐらいにしておくが、とにかく当時としても超一流のスタッフがこぞって制作に参加した本作は、ドイツ映画界の総力を結集して制作した超大作だったのである。
 彼らスタッフのバイオグラフィを見て頂ければ、それが納得出来るハズである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


和装シリーズ・その3


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 前回の和装の袴無しバージョン。 ブーツとはこれまた意外な組み合わせ。 ってか、だからなんで帯が前結びなんだよ! 思わず「よいではないかよいではないか」ってやりたくなるじゃん!(←ソコかい!)



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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205.『メトロポリス』伝説:第3章①

2012年07月22日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #06-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週は特に書く事もないのでとっとと特集コーナーにいきます。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第6回です。
 今週も最後までヨロシクね☆


第3章:スタッフ

 続いてこの章では、本作の仕掛け人たる主要な製作スタッフを紹介していく。
 キャストと同様、こちらも情報源が限られていたため詳細が分からなかったスタッフが何人かおり、フィルモグラフィで代用した。 予めご了承頂きたい。
 また、同じく翻訳表記がドイツ語表記と英語表記の長崎ちゃんぽんになっている可能性があるので、コチラも予めご了承頂きたく候。


・テア・フォン・ハルボウ/脚本

 ラングと共に本作の脚本を手がけたのは、脚本家としてだけでなく小説家、そして舞台女優としてのキャリアも持つドイツ映画界を代表する女流作家、テア・フォン・ハルボウ(本名:テア・ガブリエリ・フォン・ハルボウ)である。
 1888年、バイエルン州のタウパーリッツ・バイ・ホーフの営林署の署長を務めていた貴族のハルボウ家(注:ただし、事業に失敗して当時の生活は苦しかったらしい)の第5子として生まれたハルボウは、幼い頃から文学少女で、カール・マイの冒険小説を愛読していたという。
 1898年頃、フォン・ハルボウは貴族令嬢ばかりを預かるドレスデンの名門寄宿学校、ルイーゼンシュティフト校に入学。 ココで文学を学び、詩作などで文才を発揮し始める。 後に、映画の脚本執筆に多大な影響を与える事になる東洋思想に傾倒していったのも、この頃ではないかと思われる。
 ……が、卒業後フォン・ハルボウは、何を思ったのか劇団に所属し、演劇を学び始める。 筆者の想像だが、この時からフォン・ハルボウは演劇、もしくは映画の脚本家を目指していて、台詞回しやシーン構成などを学ぶために舞台女優になったのではないかと考える。
 ともかくフォン・ハルボウは、アーヘンの地方劇団を皮切りに、ケムニッツ、デュッセルドルフ、そしてミュンヘンなどの劇場で舞台女優として活躍。 いずれも地方劇団ばかりだが、『ファウスト』、『ロミオとジュリエット』、『ニーベルンゲン』などの有名な作品で主演、あるいは準主演の役ばかりを演じるほど、その演技は高く評価されている。
 また、この舞台女優の仕事を通して同じく舞台俳優として活躍していたルドルフ・クライン=ロッゲと知り合い、1914年に結婚。 これと前後して、フォン・ハルボウは舞台女優をアッサリ引退し作家に転身。 短編を中心に複数の小説作品を発表するようになる。
 中でも、1914年に発表した短編集、『戦争と女たち』が当時勃発したばかりの第1次世界大戦という世相に後押しされる形でベストセラーになり、フォン・ハルボウは女流作家としての地位を築く。
 また、1917年に発表した『インドの霊廟』は、後にジョー・マイによって映画化される事になるが、オリエンタルムード漂うエキゾチックな作風が高く評価され、長期化する戦争に疲れた新しい読者層を開拓する事になる。
 こうした実績が買われ、1920年にジョー・マイ・カンパニーが映画化権を取得した自身の短編小説『聖ジンプリチアの伝説』の映画化作品でマイと共に脚本を手がける。 これがキッカケとなり、以降フォン・ハルボウは映画の脚本を多数手がけるようになる。
 これと前後して、1921年にクライン=ロッゲと破局。 しかし、同じく脚本家としてマイの下で働いていたラングと知り合い、翌1922年に結婚。 二人は、脚本家として複数の作品でコンビを組むのみならず、プライベートでもパートナーになった。
 21年公開の『死滅の谷』を皮切りに、ラングとは監督と脚本家という関係でコンビを組み、1922年公開の『ドクトル・マブゼ』2部作が大ヒット。 24年公開の『ニーベルンゲン』2部作、本作、『スピオーネ』(28年)、『月世界の女』(29年)、『M』(31年)、『怪人マブゼ博士』(33年)と立て続けにヒット作(注:本作を除く)を手がけ、ドイツ映画界でも重要な脚本家の一人に数えられるようになる。
 しかし、1933年にヒトラーがナチス党による一党独裁体制で政権を握ると、ラングはフランスからアメリカへと亡命し、しかしナチス支持派だったフォン・ハルボウはドイツに止まり、二人の関係は終わりを告げる。(注:ただし、これには諸説あり、ラングが『スピオーネ』、『月世界の女』の主演女優であるゲルダ・マウルスと“イイ仲”なってしまったため、フォン・ハルボウと離婚したという説もある。 実際、ラングとマウルスは結婚こそしていないモノの、ラングの亡命後も時々連絡を取っていたそうだ。 また、フォン・ハルボウの“ナチス支持派”というのも諸説あり、実際にフォン・ハルボウはナチス党員だったという記録がある傍ら、ユダヤ人を秘書として雇っていたり、インド人の留学生を通してインド独立運動家に資金援助をしていたという記録もある。 筆者は、多くのドイツ人映画関係者がそうであったように、フォン・ハルボウもまた、映画界で生き残るために仕方なくナチス支持派を名乗っていたのではないかと考える)
 1933年、フォン・ハルボウはドイツ映画台本作家連盟(注:いわゆる脚本家組合)の会長に就任。 同団体は、ナチス統制下でドイツ・トーキー映画作家連盟と名を変えたが、フォン・ハルボウは引き続き会長職を務めており、同団体はナチスに重用され、フォン・ハルボウもナチスからの憶えが良くなる。(注:これが、フォン・ハルボウの“ナチス支持派説”の直接的な要因になった)
 これと前後して、フォン・ハルボウは1934年に『Elisabeth und der Narr』、『Hanneles Himmelfahrt』という2つの作品で、脚本と共に監督も務めている。(注:両作品には、クライン=ロッゲとテオドア・ロースも出演している) が、どちらもあまりヒットしなかったらしく、これ以降は連盟の会長職と脚本家、そして小説家に徹するようになる。
 45年に戦争が終わると、ナチス党員だったフォン・ハルボウはイギリス軍行政府によって収監される事になるが、「ナチス党の集会には一度も参加した事がない」という弁明が受け入れられ間もなく釈放。 映画界に戻り、再び映画の脚本を手がけるようになる。
 ……が、1950年代に入って間もなく、突然の悲劇が彼女を襲う。
 1954年、ベルリンで交通事故に遭い他界。 享年66歳。
 彼女の死後、未発表の小説や脚本、プロットなどを元に複数の映画が製作されているが、直接手がけた作品としては1953年公開の『Dein Herz ist meine Heimat』が遺作となった。
 最終的に、77本の映画に脚本、あるいは原作として携わり、内2作は自ら監督まで務めたフォン・ハルボウは、自立した女性として当時のドイツ人女性の憧れであり、ドイツ映画界を代表する重要な脚本家の一人として、現在もその著作は高い人気と評価を得ている。


・カール・フロイント/撮影

 本作では、主に本編撮影の第1カメラ(注:現在でいうトコロの1stユニット)を任されたのは、後に監督業も務める事になる名カメラマン、カール・フロイントである。
 1890年、グレイザー・ジュリアス・フロイントとマリーの間に生まれたフロイントは、幼少期をボヘミアのケーニヒンホフ(注:現在のチェコ)で過ごす。
 1901年、両親と共にベルリンに移住したフロイントは、10代の頃からゴム印の製造会社で働くようになるが、1905年(注:1906年という説も有る)からベルリン・フィルム社で映写技師の助手として働くようになった。 ココで、フロイントは撮影技術を驚異的なスピードで修得し、僅か2年で『Der Hauptmann von Kopenick』という短編映画のカメラマンをノンクレジットながら務めるようになる。
 そして、これがキッカケとなり、フロイントは以降カメラマンとして映画界で働くようになる。
 最初の数年間は、主にニュースフィルムのカメラマンとして活躍したが、転機となったのは1911年、ウアバン・ギャズ監督、アスタ・ニールセン主演のデンマーク映画『Heises Blut』(注:独題『Nachrfalter』)の撮影を任され、これが業界内で高く評価される事になる。 1913年には、同じくギャズ監督の『Engelein - Mimisches Lustspiel』、『Die Suffragette』、『Die Filmprimadonna』、など、数作でコンビを組む。
 また、マックス・ラインハルトの『ヴェニスの一夜』(13年)や、F・W・ムルナウの『サタン』(19年)など、後の名監督たちの初期の作品でもカメラマンを務めている。
 1919年、フロイントは自身の映画製作スタジオであるカール・フロイント・フィルム社を設立している。 が、これは映画製作と言うよりは、フィルムの合成や特殊撮影技術を研究、開発する研究所のようなモノで、実質的な映画製作は行っていなかったらしい。
 この研究所は、1926年までフロイントによって運営される事になる。
 カール・フロイント・フィルム社設立の翌年、フロイントはあの『ゴーレム』(20年)の撮影も手がける事になるが、当時監督デビューを果たしたばかりのラングと知り合い、『蜘蛛』2部作(20年)の撮影を任される。 これが縁となり、フロイントは後に本作の撮影を任される事になるのだが、本作は製作延期が相次いだため、ヒマをもてあました(からなのかどうかは定かではないが……)フロイントは、本作の製作開始までにE・A・デュポンの『ヴァリエテ』や、ムルナウの『タルチェフ』の撮影を手がける。(注:しかし、ラングがフロイントにカメラを任せる事にこだわったため、これらの作品の撮影が終わってフロイントの手が空くまで、さらに本作の撮影が延期になった)
 本作の撮影終了後は、ヴァルター・ルットマンの『伯林・大都会交響楽』(27年)でカメラを務める傍ら、同作品では共同制作と共同脚本も手がけている。
 これ以降も、フロイントは多数の映画でカメラマンを務めるが、1929年にドイツを後にし、フロイントはハリウッドに渡る。(注:リサーチしても分からなかったので理由は定かではないが、ナチス台頭前なので亡命とは考え難い) 以降、フロイントは活躍の場をハリウッドに移し、『西部戦線異状なし』(30年)や『魔人ドラキュラ』(31年)、『椿姫』(36年)などで撮影を手がける。
 またこれと平行して、30年代のフロイントは複数の作品で監督を務めているが、実は21年と23年にドイツで2作を監督している。 これを含め、フロイントは合計11作を監督している。
 1940年代に入ると、自身で監督する事はなくなるが、年間数作のペースでコンスタントに撮影監督を手がけ、ハリウッド映画界でも名声を得る。
 戦後、特に1950年代は、当時一般家庭にも普及するようになった新しいメディア、TVを活躍の場にし、往年の名作TVシリーズ、『Our Miss Brooks』(52年~56年)や『Willy』(54年~55年)で多数のエピソードで撮影を手がける。 特に、51年から始まったコメディ、『アイ・ラブ・ルーシー』はシリーズが終了する56年までに149エピソード(!)を手がけ、53年にはその映画版でも撮影を手がけている。(注:『Our Miss Brooks』でも、126エピソードを手がけている)
 しかし、これらのTVシリーズが1956年に終了すると同時に、フロイントのキャリアも終わりを告げる。 最終的に、フロイントが撮影を手がけた作品は、TVシリーズを含めて149タイトル(!!)にも及んだ。
 晩年は静かに余生を送り、1969年にカリフォルニア州サンタ・モニカにあるセント・ジョンズ病院で息を引き取った。 享年79歳。
 ちなみに、ハリウッド時代には38年と42年に撮影賞でオスカーにノミネートされており、内38年は受賞に至っている。 また、55年には特別賞として技術賞を送られている。
 さらに、引退後の1965年には、それまでの功績が讃えられドイツ・フィルム・アワードで栄誉賞を送られている。


・ギュンター・リッタウ/撮影

 本作で本編撮影の第2カメラ、及びミニチュア撮影や多重露光撮影などのいわゆる2ndユニットのカメラマンを務めたのは、後に監督や脚本家としても活躍する事になる名カメラマン、ギュンター・リッタウである。
 1893年、ケーニヒスヒュッテ(注:現ポーランド領)に生まれたリッタウは、学校で自然科学を学んだ後、経緯は不明だが1919年、ポマーが設立した映画スタジオ、デクラ社に入社。 ドキュメンタリー部門に配属され、ココでカメラと撮影技術を学ぶ。
 転機となったのは1921年、『Der Eisenbahnkonig』という2部作の撮影を任された事で、これが評価された事でリッタウはカメラマンとして認められるようになった。 1924年には、先輩のカール・ホフマンの紹介でラングと知り合い、あの国民的超大作映画、『ニーベルンゲン』2部作のカメラをホフマンと共に務める。
 またこれと前後して、ヴァルター・ルットマンと共に特殊効果の研究にも携わっている。
 これらの実績が買われ、27年には本作の第2カメラ、及びミニチュア撮影や特殊撮影を担当した2ndユニットのカメラを任される。
 本作の製作後は、主にジョー・マイとコンビを組み、『Heimkehr』(28年)や『アスファルト』(29年)などを手がけ、トーキー時代を迎えた1930年代には、ヨゼフ・フォン・ステンベルグ監督のミュージカル、『嘆きの天使』(30年)や、ハンス・シュワルツ監督の『狂乱のモンテカルロ』(31年)、ポール・マルティン監督の『ブロンドの夢』(32年)、カール・ハルティル監督の『F・P1号応答なし』(32年)など(注:いずれもポマーのプロデュース作品)の話題作、ヒット作を手がけ、その地位を確固たるモノにする。
 しかし、1939年に第2次世界大戦が勃発すると、リッタウはナチス政権の宣伝省の命令でプロパガンダ映画を作らされる事になったウーファ社で、ナチス指揮の下、『Brand im Ozeam』(39年)という作品を皮切りに、監督として複数のプロパガンダ映画を手がける事になる。 特に、41年の『Uボート西へ!』は、数あるナチスプロパガンダ映画の中でも傑作の一つに数えられるほど高い評価を受け、他にも自ら脚本や小説版を手がけた作品もあったが、リッタウがナチス党員であったかどうかは、記録が見つけられなかったので定かではない。
 ともかく、ナチスお抱えのプロパガンダ映画の監督になったリッタウは、終戦後の1948年までに9作を監督しているが、1950年代に入ると一時的に映画界を去ってしまう。 理由は定かではないが、1955年公開の『Der Fischer vom Heiligensee』という作品で映画界に復帰し、撮影監督として数作を手がけた後、1957年に映画界を引退。 結局、同年公開の『Die fidelen Detektive』が最後の作品となった。
 最終的に、カメラマン、あるいは監督として77本の映画に携わり、1971年にミュンヘンでこの世を去る。 享年77歳。
 また亡くなる直前の1967年には、それまでの功績を讃えられてドイツ・フィルム・アワードにて栄誉賞を受賞している。


・オットー・フンテ/美術

 本作のフルスケールセットのデザイン(注:現在の美術監督)を手がけたのは、衣装デザインの経験も持つプロダクション・デザイナー、オットー・フンテ(本名:オットー・ヨアヒム・ゴットリーブ・フンテ)である。
 1881年、ハンブルグに生まれたフンテは、美術を学んだ後ミュンヘンで芸術家グループに参加し、実験的な芸術を模索する画家として活躍する。
 1919年、その活動がジョー・マイの目に留まり、プロダクション・デザイナーとしてジョー・マイ・カンパニーに入社。 同年公開のマイ監督作品、『Die Herrin der Welt』8部作(!)で、エーリッヒ・ケッテルフントやカール・フォルブレヒトらと共同でセットを手がける。
 この作品では、ラングが脚本家チーム(注:マイを含めた5人)に参加していた関係からラングと知り合い、これが縁で同じく19年公開のラング監督作品、『蜘蛛』2部作のセット、並びに衣装デザインを手がけ、高い評価を得る。
 その後、ラングに気に入られたフンテは、『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』、本作、『スピオーネ』、『月世界の女』、『怪人マブゼ博士』と、立て続けにラング作品を手がける事になる。 特に本作では、美術デザインチームの主任を任されるほど、ラングから高い信頼と評価を得ていた。
 しかし、1930年代に入ってラングがドイツを去ると、フンテとの縁故も終わりを告げた。 フンテはドイツに残り、ポマーのプロデュース作品やフォン・ハルボウの脚本作品を数多く手がける事になった。
 しかし、第2次大戦が始まった1939年以降、携わる作品数は激減。 1940年には、反ユダヤ主義を扱ったナチスの数あるプロパガンダ映画の中でも最も悪名高き一作として有名な『Jud Sus』のセットも手がけているが、筆者はフンテをナチス支持者だとは考えていない。 恐らく、生活のため仕方なく、だったのではないだろうか?
 その証拠に、終戦後の1946年には、反ナチズム映画として高い評価を得ているヴォルフガング・シュタウテ監督の『Die Morder sind unter uns』のセットデザインも手がけている。
 しかし1948年、既に67歳を迎えていたフンテだが、旧友のリッタウが監督を務め、本作の主役を演じたフレーリヒが主演した3人の同窓会的作品、『Eine alltagliche Geschichte』を最後に映画界を引退。 静かな余生を送った後、1960年にポツダムで最期の時を迎えた。 享年79歳。
 最終的に、プロダクション・デザイン、あるいは美術監督として、60作品以上に携わったフンテのセットデザインは、現在も多くの映画人に多大な影響を与えている。


・カール・フォルブレヒト/美術

 フンテ、ケッテルフントらと共同でセットデザインを手がけた美術チームの一人、カール・フォルブレヒトは、1886年にポーランドで生を受けた。
 建築を学んだ後、大工として3年半働いたフォルブレヒトは、1919年にマイ・カンパニーに入社。 フンテ、ケッテルフントらと共に、『Die Herrin der Welt』8部作の美術を手がける。 21年には、フォン・ハルボウとラングが共同で脚本を手がけたフォン・ハルボウ原作のマイ監督作品、『インドの霊廟』でもノンクレジットだがセットを手がけている。
 これが縁になり、フォルブレヒトはラングの信頼を得て『ドクトル・マブゼ』2部作以降の全てのラング監督作品に携わる事になった。
 しかし1933年、ラングがドイツを去ったため、フォルブレヒトはドイツに残り、クルト・ヴェルナール監督の『炭鉱』(33年)などを手がける傍ら、フンテやケッテルフントらと共に、ポマーのプロデュース作品でセットを手がけるようになる。 戦時中には、ナチスのプロパガンダ映画の制作にも多数携わり、フンテと共同で『Jud Sus』も手がけている。(注:理由はフンテと同じと考えられる)
 戦後になってようやく娯楽映画に復帰するも、既に60代を迎えていたフォルブレヒトは、高齢のため作品数は減り、丁度70歳を迎えた1956年の『Max und Moritz』というミュージカル映画を最期に映画界を引退。 最終的に、フンテがセットデザインに携わった作品数は40タイトル以上であった。
 静かな余生を送った後、1973年にドイツ北中部のヴォルフェンビュッテル群の田舎町で亡くなる。 享年86歳。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


和装シリーズ・その2


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 なぁ~んかドコかで見たコトあるよぉ~な巫女さん風装備。 しかし、それより何よりナゼ帯が前結びなのかと。(笑)



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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204.『メトロポリス』伝説:第2章

2012年07月15日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #05-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週も色々なニュースがありましたね。 イジメ問題のアレとか、九州の豪雨被害とか。
 どちらも毎年のように問題になりますが、後者はアレ(?)としても前者はなかなかなくなりませんね。
 まあ、被害者にしても教師にしても、難しい問題である事は認めますがね。
 そして、豪雨被害で亡くなった方々には、心よりのお悔やみを申し上げます。
 トコロで小沢クン? 新党の党名はもう少し熟考してくれ。 憶え易くて分かり易いのはいいけど、長い上にダサい!
 もうちょっとカッコイイ党名にして頂くようよろしくどうぞ。



<今週の特集>

 さて、今週から『「メトロポリス」伝説』の連載再開です。
 張り切っていってみよー!


第2章:キャスト

 さて、例によって映画のメイキングは後のお楽しみという事にしておいて(笑)、この章ではスクリーンを彩ったキャストのバイオグラフィを記していく。
 ただ、なにぶん80年以上前の映画なので、出演者の記録も古くなってしまい、詳細がリサーチし切れなかったキャストも多い。
 その場合は、フィルモグラフィを記す事で対処したが、予めご了承頂きたい。
 また、個人名は英語表記とドイツ語表記がごっちゃになっている可能性がある。 こちらも予めご了承頂きたい。


・グスタフ・フレーリヒ/フレーダー・フレーダーセン

 本作の主人公、フレーダーを演じたのは、後に監督や脚本家としても活躍する事になるグスタフ・フレーリヒ(本名:フレデリック・グスタフ・フレーリヒ)である。
 1902年(注:20世紀生まれ!)、ドイツのハノーヴァーに生まれたフレーリヒは、映画監督のカール・フレーリヒを父に持つ。 そのため、幼少の頃から映画に親しみ、次第に俳優を志すようになるが、17歳の時に新聞社に入社し、編集の仕事に就く。
 しかし、演劇への興味が尽きず地方劇団に所属し、ヘッセン州フリードバーグのシュヴァーベン劇場の舞台に立つようになる。
 ココで経験を積んだフレーリヒは、1921年に首都ベルリンに移り、舞台演出家のポール・ヘンケルの劇団に入団し、国立劇場の舞台で活躍するようになる。
 これと前後して、フレーリヒは1922年、端役ながらテオ・フレンケル監督のオランダ映画『Ein neues Leben』に出演。 これが、フレーリヒの銀幕デビューとなった。 これ以降、舞台と平行してハインツ・ゴールドバーグ監督の『Paganini』(23年)や、最初のオンクレジット出演になったフレッド・ザウアー監督の『Friesenblut』、『Schiff in Not』(共に25年)などに出演。 映画俳優としても精力的に活動するようになる。
 転機となったのは1925年、ベンヤミン・クリステンセン監督の『Die Frau mit dem schlechten Ruf』で主役に抜擢された事だ。 これが高く評価され、期待の若手俳優として注目されるようになる。
 そして、この出演がラングの目に留まり、フレーリヒは本作の主人公、フレーダー役に抜擢される。
 この出演は、しかし映画の興行的失敗をものともせず、フレーリヒにとってブレイクするキッカケとなる重要な出演になった。
 これ以降、フレーリヒはマックス・ライヒマン、リヒャルト・オスヴァルト、ルートヴィヒ・ベルガーなどの監督作品に多数出演し、29年までの3年間でなんと20本以上(!)の作品に出演する。(注:ドイツ映画の頻作時代だったのも大きな理由)
 1930年代からは、ラングよりも先にトーキー作品にも出演するようになるが、二度目の転機となったのは1933年。 『Rakoczy-Marsch』という作品で、主演と共にメガホンも取った事(注:ただし、ステファン・セーケイと共同)である。 以降、1955年までにコンスタントに監督も務めるようになり、『Leb' wohl, Christina』(45年)、『Der Bagnostrafling』(49年)、『Die Luge』(50年)、『Seine Tochter ist der Peter』(55年)では、それぞれ監督と共に脚本も手がけている。
 高齢になった1950年代後半以降は、数年置きに映画やTVシリーズ、あるいはTV映画数本に出演する程度に止まり、1980年に『Schicht in Weis』というTVシリーズにゲスト出演したのを最後に引退。
 静かな余生を送った後、1987年12月にスイスのルガノで亡くなった。 享年85歳だった。
 映画、TVを通して、実に111作品(!!)に出演し、8作を監督。 俳優として、また映画監督として、ドイツ映画の栄光の時代を生きたフレーリヒは、今もなお、多くのファンを魅了している。
 ちなみに、長年の功績が高く評価され、1973年にドイツ・フィルム・アワードで栄誉賞を受賞している。


・ブリギッテ・ヘルム/マリア

 主要キャストの中でも紅一点であり、本作の最重要キャラクターであるメインヒロイン、マリアを演じたのは、これがなんと映画初出演になったブリギッテ・ヘルム(本名:ブリギッテ・エーファ・ギゼラ・シッテンヘルム)である。
 1906年(注:20世紀生まれ! 本作の主要キャストの内、20世紀生まれは主演したヘルムとフレーリヒだけである)、ベルリンにて旧プロイセン王国(注:18世紀にドイツ、オランダ、オーストリアにまたがる地域を支配した王国。 後にドイツ帝国に併合される)の将校だったエドヴィン・アレクザンダー・ヨハネス・シッテンヘルムの娘として生まれる。
 しかし、4歳の時(注:7歳の時という説もある)に父が急死。 寂しい幼少期を過ごす。
 これが理由かどうかは定かではないが、10歳になったヘルムは寄宿学校に入学。 18歳になる1924年までをこの学校で過ごす。
 この頃から演劇に興味があったヘルムは、学校の演劇会の舞台に立ち、シェークスピアの『真夏の世の夢』で主役を演じた事もあった。 しかし、職業にする事は全く考えていなかったという。 ヘルムは学業の面白さに目覚め、天文学か薬学を学ぶか、あるいは子供好きだったので小児科医になりたいと考えていた。 しかし14歳の時には、姉のハイディが端役で出演する予定だった映画(注:この映画のタイトルなどは不明)に、姉の代わりに出演した経験があり、これが映画出演初体験になったそうだ。
 俳優業に興味がなかったヘルムだったが、しかし母親は違っていた。 学校の演劇会に出演した娘の姿を見て、演技の才能があると見込んだ母親は、当時撮影予定だった映画『ニーベルンゲン』の主演女優を探しているというラングの新聞記事を読み、ヘルムに無断で写真を送った。(注:今でもよく聞くハナシだ)
 写真を受け取ったのはラングではなくフォン・ハルボウだったが、オーディションを受けるようにという返事が届き、母親は無理やりヘルムを連れてオーディションを受けさせた。 その席上、ラングの「女優になりたいか?」という問いに、ヘルムは「とんでもない!」と答えて母親を青ざめさせたとか。(笑)
 結局、『ニーベルンゲン』の主演女優はマルガレーテ・シェーンに譲る事になったが、ヘルムを気に入ったラングは、「次の作品で起用する」とヘルムに約束した。 また、“ブリギッテ・ヘルム”という芸名を付けたのもラングなのだそうだ。
 このオーディションのウワサはあっという間に学校中の話題になり、学長の耳にまで入る事になった。 そのため、ヘルムは「芸能活動に学力は必要ない」という理不尽な理由(注:そんなコトはない。 役者ほど博識が求められる職業はない。 物知りであればあるほど、演技の幅が広がるから。 ルックスだけで名優になれる役者などいない)で退学させられてしまう。
 1925年、学校を退学させられて失意の内にラングの下を再び訪れたヘルムは、ラングだけでなくポマーにも気に入られ、月500マルクの給料でウーファー社と契約。 女優業の道を歩み始める。
 撮影まで間があったので、ヘルムはダンスや乗馬を始めとした演技の勉強に没頭した。 そして、ラングは約束通りヘルムを“次の作品”の主演女優に起用した。 それが、本作だった。
 しかしヘルムは、この撮影を通してマリア、ニセマリア、人造人間(の中の人)、死神(の中の人)、色欲の像(の中の人)という一人5役を演じるというハードワークを強いられ、何とか撮影を終わらせる事が出来たモノの、後にこの撮影を「最悪の経験」と語り、ラングとは二度と一緒に仕事をしたくないと言ったとか。(注:事実、これ以降ヘルムはラングとは全くの疎遠になる)
 しかし、この経験を通して女優として独り立ちしたヘルムは、映画の興行的大失敗をモノともせず観客の人気を集め、ウーファー社と改めて10年契約を交わす。
 本作出演後、ヘルムは人気女優として多数の映画に出演。 G・W・パープストやリヒャルト・オスヴァルト、ハンス・シュヴァルツなどの監督作品に出演し、トーキー普及後の1931年の『グロリア』では、本作でフレーダーを演じたグスタフ・フレーリヒと再び共演し、フランス語版にも出演している。(注:ヘルムは語学が堪能で、フランス語と英語はパーフェクト・バイリンガルだったそうだ)
 またこれと前後して、ルドルフ・ヴァイスバッハなる人物(注:ウーファー社で知り合ったらしいが、詳細は分からなかった。 恐らく俳優だと思う)と結婚している。 ただし、この結婚は失敗だったらしく、間もなく離婚する事になる。
 トーキー全盛期となった1930年代は、パープストやヨハネス・マイヤーの作品に多数出演。 フランス語版にも吹き替え無しで多数出演している。
 彼女の人気は衰える事を知らず、ウーファー社から支給されていた月給は、最終的に月額9000マルク(!?)まで昇給し続けた。
 が、1935年にウーファーとの10年契約が満了すると、ウーファー側の契約延長の申し出もアッサリ断り、10年間の女優業に終止符を打った。
 1935年の引退後、社交会で知り合った実業家で哲学者のフーゴ・フォン・クーンハイム男爵と結婚。 なんと男爵夫人という玉の輿に乗る!
 この二度目の結婚は成功だったらしく、4人の子宝にも恵まれ、第2次大戦直前にスイスのアスコナへ移住。 42年にはイタリアのフィレンツェに移り、戦後になってようやくドイツに戻る。
 晩年をスイスのアスコナで過ごした後、1996年に静かに息を引き取った。 享年90歳の大往生だった。
 活動期間こそ短かったモノの、僅か10年間で37作もの映画に出演し、その美貌と豊かな感情表現で多くのファンを魅了したヘルムは、その功績が高く評価され、1968年にドイツ・フィルム・アワードで栄誉賞を受賞している。


・アルフレート・アーベル/ジョー・フレーダーセン

 映画の舞台となる巨大都市、メトロポリスの支配者でフレーダーの父親、フレーダーセンを演じたのは、第1次大戦後のドイツ映画黄金期を代表する名優、アルフレート・アーベル(本名:アルフレート・ペーター・アーベル)である。
 1879年、セールスマンの父ルイと、その妻アンナの間に生まれたアーベルは、ドイツのライプツィヒで生まれ育つ。
 父親の影響からか、学校でビジネスを学ぶも卒業後は庭師や林業、金融業などの仕事を転々とした。
 しかし、この時演劇に目覚め、地方劇団の舞台に立つようになる。 そしてやがて、他の仕事よりも舞台に立つ時間の方が多くなっていく。
 地元ライプツィヒの美術アカデミーで美術デザインを学びながら数多くの舞台に出演。 1904年になると、地元を出てベルリンに移り、かのマックス・ラインハルト(注:舞台演出家。 20世紀初頭のドイツ演劇界を代表する重要な人物で、当時のドイツ演劇界では“皇帝”とまで称されたほどの人物。 1873年~1943年)の舞台にも立つようになる。
 長年舞台俳優として活躍してきたアーベルだが、転機となったのは1914年。 そのラインハルト自身が監督した映画『ヴェニスの一夜』の主演に抜擢された事である。(注:この前年に、実は『Sodoms Ende』という作品に出演しているらしいが、詳細は分からなかった。 恐らく、ノンクレジット出演と思われる)
 これがキッカケとなり、アーベルは活躍の場を舞台から映画に移行し、マックス・マークやリヒャルト・オスヴァルト、エルンスト・ルービッチュなどの監督作品に多数出演している。 特にオスヴァルトとは相性が良かったらしく、数作に主演している。
 二度目の転機となったのは1922年。 この年に公開されたフリッツ・ラングの『ドクトル・マブゼ』と、F・W・ムルナウの『ファントム』に出演。 映画はどちらも高く評価され、アーベルもスター俳優としての地位を確固たるモノにする。
 これと前後して、1921年には『Der Streik der Diebe』という作品に主演し、実は初監督にも挑戦している。
 映画は残念ながら失敗に終わったが、本作出演後の1929年には、『Narkose』という作品で監督、出演、さらには製作まで手がける。
 トーキー時代を迎えた1930年代に入っても、人気俳優として多数の映画に出演し、1931年には、かのアルフレッド・ヒッチコックの初期の作品、『殺人!』のドイツ語版(注:ドイツ語版のタイトルは『Mary』)にも主演している。
 その傍ら、複数の作品で監督を務め、最終的にサイレント、トーキーを通して実に138本(!!)もの映画に出演し、5作を監督したが、第2次大戦直前の1937年、ベルリンにて帰らぬ人となった。 享年58歳の早過ぎる死は、ドイツ映画界に多大な衝撃を与えた事だろう。
 結局、亡くなる直前に撮影され、1938年に公開された『Frau Sylvelin』という作品が遺作となった。
 ちなみに、1916年には“Mecklenburg-Strelitz”(注:邦訳不明。 アドルフ・フリードリヒ5世の発案で1909年から始まったが、1916年が最後の授与になっている)という芸術科学勲章を授与されている。


・ルドルフ・クライン=ロッゲ/C・A・ロートヴァング

 かつてフレーダーセンと一人の女性を奪い合い、人造人間の開発に没頭するマッド・サイエンティスト、ロートヴァングを“怪演”したのは、アーベルと同じく20年代のドイツ映画黄金時代を語る上で欠く事の出来ない名優、ルドルフ・クライン=ロッゲ(本名:フリードリヒ・ルドフル・クライン=ロッゲ)である。
 1885年(注:88年という説も有り)、ドイツのケルンに生まれたクライン=ロッゲは、軍の将校で軍法会議協議会に務める父を持ち、厳格な家庭で育った。
 そのため、父親の命令で海軍の軍学校に入学させられるが、在学中にその父が急死。 クライン=ロッゲはすぐに軍学校を中退し、高校に入学し直す。
 高校卒業後、ベルリンの大学で美術史と文学を学び、空いた時間を使って演劇学校で演技を学んだ。 どうやら、最初から演劇に興味があったようだ。
 大学卒業後、ウィーンの劇場で舞台に出演していたクライン=ロッゲは、ハンス・ジーベルト(注:詳細不明。 恐らく舞台演出家と思われる)に才能を見出され、ジーベルトの下で演劇を学ぶ。
 1909年、ハルバーシュタットの劇場で舞台に立ったのを皮切りに、アーヘン、キール、デュッセルドルフなどの地方劇場で数多くの舞台に出演。 ニュールンベルグの市立劇場で舞台に立った時の演技が高く評価され、舞台俳優としての地位を確固たるモノにする。
 これと前後して、1913年に『Der Film von der Konigin Luise』という2部作の短編映画に出演。 これがキッカケとなり、舞台俳優として成功を収めた1919年以降、映画俳優に転向する。
 1919年、『Morphium』という短編映画に出演したクライン=ロッゲは、しかし舞台とは異なりあまり目立たない出演が続いた。
 しかし1921年、当時の妻だったフォン・ハルボウの紹介でラングと知り合い、ラングの出世作である『死滅の谷』に出演。 これ以降、ラングの監督作品に立て続けに出演し、映画のヒットと共にクライン=ロッゲの映画俳優としての地位も固まっていく。
 特に、1922年の『ドクトル・マブゼ』では、マブゼ博士の七変化を自ら演じ、マブゼのキャラクターイメージを決定付けたのみならず、その演技力の幅広さを証明した。
 本作を含むラングの監督作品に出演する傍ら、ヨハネス・グンターやアーサー・ロビソン、ザップ・スペイヤーなどの監督作品に多数出演。 トーキー時代を迎えた1933年には、ラングとの最後のコンビ作品になった『ドクトル・マブゼ』のシリーズ2作目、『怪人マブゼ博士』にも前作同様マブゼ博士役で出演している。 役柄としては小さかったが、マブゼ博士の圧倒的な存在感を示した演技が高く評価された。(注:この作品はフランス語版も製作されているが、クライン=ロッゲはこちらにも同じ役で出演している)
 ナチスの台頭によってラングがドイツを離れた後も、クライン=ロッゲはドイツに止まり多数の映画に出演。 多くの作品で存在感のある演技を見せている。
 しかし、第2次大戦が激化した1940年代に入り、ドイツ国内の映画産業が衰退したため仕事が激減。 1942年の『Hochzeit auf Barenhof』という作品に出演したのを最後に、一時映画界を去る事になってしまう。
 第2次大戦終結後の1949年、『Hexen』という作品に出演しているが、高齢のためこれが最後の映画出演になってしまった。
 生涯を通して俳優に徹し、88作品に出演したクライン=ロッゲは1955年、オーストリアのグラーツで帰らぬ人となった。 享年70歳。
 ちなみに、ラングの妻であったフォン・ハルボウとは、アーヘンの舞台に立っていた1914年頃に当時女優として同じ舞台に立っていた彼女と知り合い結婚している、というのは有名なハナシだが、これ以前に、実はマルガレーテ・ネフという女優と結婚/離婚しており、後にスウェーデン女優のマリー・ジョンソンと結婚している。
 フォン・ハルボウとの結婚は、クライン=ロッゲにとって2回目の結婚だった。(注:ただし、1921年頃の彼女との離婚は円満離婚だったようだ。 そうでなければ、いくら仕事とは言えこれほど何回もラングとフォン・ハルボウのコンビ作に出演したりはしないだろう)
 また、本作の主人公であるフレーダーの名前はラングのニックネームで、ヒロインのマリアはフォン・ハルボウのニックネーム。 そして、ロートヴァングはクライン=ロッゲ自身の名前を文字ったモノだとか。


・テオドア・ロース/ヨザファード

 フレーダーとマリアに手を貸す重要なキャラクター、忠臣ヨザファードを演じたのは、ベテラン俳優テオドア・ロース(本名:テオドア・オーガスト・コンラート・ロース)である。
 1883年(注:意外にもクライン=ロッゲよりも年上!)、ドイツ北西部の田舎町、ツヴィンゲンベルクに生まれたロースの父は、時計と楽器の職人だった。 その関係から、ロースは高校を中退し、ベルリンでアートディーラーを営んでいた叔父を手伝う事になり、ライプツィヒで楽器輸出業に携わる。
 ココで働いている最中、ロースは俳優を志すようになり、3年後に退職。 ライプツィヒの劇団に入って演技を学ぶ。
 その後、1912年から舞台に立つようになったロースは、グダニクスやフランクフルト、そしてベルリンの劇場で活躍。 この舞台俳優としてのキャリアは、映画と平行して1940年代まで続く事になる。
 その映画での初仕事になったのは、1913年の『Das goldene Bett』という作品であった。
 既に現存していない作品なので詳細は不明だが、これをキッカケにロースは映画作品にも多数出演するようになる。
 転機となったのは1916年。 『ホムンクルス』という全6部作(!)の長編シリーズに出演した事である。 オットー・リッペルト監督のこの作品で、ロースは第1部から第5部までレギュラー出演し、脇役ではあったが印象的な出演になった。 これを含めて、16年だけで実に12本(!)もの作品に出演している。
 これ以降、ロースは名脇役として多くの映画に引っ張りダコになる。
 2度目の転機となったのは、やはり1924年の『ニーベルンゲン』2部作だろう。
 ラングとの出会いという意味でももちろんだが、映画の主要なキャラクターであるギュンター王を演じ、ベテランらしい円熟した演技でラングの信頼を得る。
 これをキッカケに、以降『メトロポリス』(27年)、『M』(31年)、『怪人マブゼ博士』(33年)など、ラング作品に数多く出演。 いずれも名脇役ぶりを観せている。
 しかし、ラングがナチスに追われる形でドイツを去ると、ロースはクライン=ロッゲと同じくドイツに止まり、多数の映画に出演。 その合間を縫って、舞台でも活躍する。
 また、ロースはナチス支持派だったらしく、ゲッベルスの召集を受けてプロパガンダ映画にも多数出演。 最終的に、“プロパガンダ映画に不可欠な俳優リスト”にリストアップされるようになる。
 実際、戦時中だけで数十本の映画に出演しているが、その多くがナチスによるプロパガンダ映画である。(注:ちなみにこの頃には、43年版の『タイタニック』にもノンクレジットだが出演している)
 戦後、ロースの活躍の場は舞台が中心になり、数作に出演しただけで映画とは距離を置くようになる。 主にシュトゥットガルトの州立劇場に出演し、時にはラジオのアナウンサーを務めたり、当時出来たばかりの新しいメディアであるTVでディレクターを務めたりもした。
 しかし1954年、シュトゥットガルトにて帰らぬ人となった。 享年71歳。
 その死の直前、フレーダー役のグスタフ・フレーリヒと再び共演し、亡くなった1954年に公開された作品、『Rosen aus dem Suden』が遺作となった。
 名脇役として名を馳せたロースは、最終的になんと驚きの198本(!?)もの映画に出演。 舞台に立った回数は数知れず。
 この功績が讃えられ、亡くなった54年にはドイツ連邦共和国功労勲章の大功労十字章(勲等第6位。 ナイト勲章のコマンダーに相当)を送られている。


・ハインリッヒ・ゲオルゲ/グロート

 労働者たちの代表として、映画の中盤から終盤にかけて重要なキャラクターとなる心臓機械の監督、グロートを演じたのは、舞台俳優としても有名なハインリッヒ・ゲオルゲ(本名:ゲオルグ・オーガスト・フリードリヒ・ヘルマン・シュルツ)である。
 1893年、当時ドイツ領だったシュテッティン(注:現在はポーランド領)に生まれたゲオルゲは、高校卒業後、市役所で働くも、役場のお堅い空気に馴染めなかったのか短期間で退職。 音楽好きだったゲオルゲは、コンサートのチケット代を稼ぐために地元の劇団に所属し、小さな役で舞台に立つようになる。
 これが転機となり、ゲオルゲは本格的に演技を学ぶと、1912年にコルベルグの劇場で舞台に立つようになる。
 しかし、第1次大戦の勃発と共にゲオルゲは出征兵に志願し、塹壕の泥沼の中を這いずり回る事になった。 が、幸か不幸かこれが原因で1915年、ヒドい凍傷を患い戦線を離脱。 帰国し、長い療養生活を送る事になる。
 1917年、俳優業に復帰したゲオルゲは、ドレスデンのアルバート劇場や、フランクフルトのアム・マイン劇場で多数の舞台に出演。 これが、かのマックス・ラインハルトの目に留まり、既にアーベルも出演していたベルリンの舞台に立つようになり、舞台俳優として確固たる地位を築く。
 映画への出演は意外と遅く、1921年にルートヴィヒ・ベルガー監督の『Der Roman der Christine von Herre』に出演したのが最初だった。
 しかし、これを皮切りに舞台と平行して映画にも多数出演するようになる。
 が、ゲオルゲにとっては、どうやら“本職は舞台俳優”だったらしく、俳優仲間のエリザベス・ベルグナーやアレクザンダー・グラナヒらと共に独立劇団を設立し、舞台俳優として活躍するようになる。
 本作出演後もその傾向は続き、映画に出演する傍ら舞台中心の活動が続いた。(注:それもあってか、ラング作品に出演したのは本作が最初で最後になった)
 しかし、1930年代にヒトラーがナチス独裁政権を樹立すると、ゲオルゲは俳優として生き残るためにナチスと折り合いを付け、ラジオ番組のパーソナリティーを務めたり、ウーファ社が製作するナチスのプロパガンダ映画に出演するようになる。(注:前出のロースと同じく、当時の俳優や映画関係者はそうするしか生き残る道がなかった。 それが出来ない者は、アメリカやイギリスに亡命するしかなかった。 ラングはその最たる例) 時には、ヒトラーの青年時代を描いた『Hitlerjunge Quex』(33年)という作品でヒトラーの父親役を演じた事もあった。
 ナチス政権下の30年代から40年代にかけて、ゲオルゲは多数のプロパガンダ映画に出演するも、ゲオルゲの魂は常に舞台の上にあった。
 1937年、ベルリンのシラー劇場の支配人に就任し、若い芸術家や俳優の育成に努めるようになる。 時には、ユダヤ人や共産主義支持派と目されていた芸術家にも協力していたとか。
 そんな人道主義的側面を持つゲオルゲだが、終戦直後の1945年6月、ナゼかソ連の秘密警察に逮捕され、ザクセンハウゼンにある強制収容キャンプに抑留されてしまう。(注:ナチスのプロパガンダ映画に出演していたため、ナチス支持者と見なされたのかもしれない) そして1年後の1946年9月、収容キャンプから運び出されたやせ細った長身の男の遺体が、ゲオルゲであった事が証明された。(注:正確にゲオルゲの遺体である事が証明されたのは、1994年に遺骨から採取したDNAを息子のDNAと比較鑑定してからの事。 遺体が発見された当時は、遺族でも見分けられないほどの全くの別人のような姿だったそうだ)
 享年52歳。 死因は餓死だった。
 終生舞台を愛し、81本の映画に出演したゲオルゲは、逮捕直前に出演した『Kolberg』という作品が遺作となった。
 今彼は、ベルリンにあるツェーレンドルフ共同墓地で永遠の眠りについている。
 ちなみに、ゲオルゲは1932年にベルタ・ドレウスという女優と結婚し、同年に長男のヤン、1938年に次男のゲッツが生まれている。
 二人とも、父の意思を継いで俳優になり、特に次男のゲッツは現在、ドイツ国内で最も有名な人気俳優になっている。
 また1993年には、ドイツ国内でゲオルゲの功績を讃える記念切手が発行されている。


・フリッツ・ラスプ/影なき男

 本作の再編集版において、長い間“失われた場面”になっていた“影なき男”のシーンで、その影なき男を演じたのは、後に名悪役として名を馳せる事になるフリッツ・ラスプ(本名:フリッツ・ハインリッヒ・ラスプ)である。
 1891年、ドイツ北東部のバイロイトに生まれたラスプは、高校卒業後の1908年、ミュンヘンの演劇学校に進学。 演劇を学ぶ。 しかし、方言の矯正には随分と苦労させられたようだ。
 1909年、何とか方言の矯正に成功し、ラスプは舞台俳優デビューを果たす。 地方劇場と契約し、舞台俳優として複数の劇場で舞台に立つ。
 これらの舞台での活躍がまたもやマックス・ラインハルトの目に留まり、1914年にラインハルトと5年契約を結び、ベルリンで舞台に立つようになる。 また、これが転機となって1916年、エルンスト・ルービッチュ監督の『Schuhpalast Pinkus』に端役で出演。 役名すらなかったが、ラスプにとってはこれが銀幕デビューとなった。
 もっとも、1910年代のラスプは舞台が中心で、映画には1917年の『Hans Trutz im Schlaraffenland』を含めて2作品にしか出演していない。 本格的に映画中心の出演が多くなるのは、ラインハルトとの契約が満了した1920年代に入ってからの事である。
 1922年、ロースも出演していた『Jugend』を始め、クライン=ロッゲも出演していた『Schatten - Eine nachtliche Halluzination』(23年)などに出演し、映画界でも名前が売れ始めた。
 が、その名が“名悪役”の代名詞になるキッカケになったのは、実は27年公開の本作であった。 フレーダーセンのスパイとして、フレーダーの監視と裏工作を請け負う文字通りの“影なき男”(注:彼自身が“影”だから)という悪役を演じ、映画の興行的失敗にも関わらず、ラスプの悪役のイメージが形作られる。
 これを補強するかのように、同じくラングの監督作品である『スピオーネ』(28年)と『月世界の女』(29年)でもやはり悪役を演じ、ラスプ=悪役のイメージは決定的なモノになる。
 以降、ラスプは悪役での映画出演が多くなり、ロースやクライン=ロッゲと再び共演した『Der Judas von Tirol』では珍しく主役を演じているが、この傾向は長い間続いたようだ。
 第2次大戦中は、ナチスのプロパガンダ映画に出演するのを嫌ったのか映画界とは距離を置くようになり、主に舞台で活躍する。
 戦後になって映画界に復帰するも、あまり注目されない出演が続いたためか、1950年代後半になって広く普及したTV業界に活躍の場を求め、以降TV映画を活動の場の中心にする。 TV映画では、主にコメディ系の作品に多数出演した。 どうやら、悪役のイメージは既になかったようだ。
 このTV映画中心の活躍は長い間続き、なんと1970年代まで様々な作品に出演し続ける。
 しかし1976年、ドイツ南部のグレーフェルフィングにて死去。 享年85歳。 その前年の1975年に撮影され、亡くなった76年にOAされたTV映画『Dorothea Merz』が遺作となった。
 映画、TVを通して115本もの作品に出演し、死の直前まで67年もの間芸能活動を続けたラスプは今、亡くなったグレーフェルフィングの墓地で永遠の眠りについている。
 ちなみに、この長年の功績が讃えられ、1963年にドイツ・フィルム・アワードで栄誉賞を受賞している。


・エルヴィン・ビスヴァンガー/ゲオルギ(労働者11811号)

 フレーダーに救われながらも、堕落してナイトクラブ・ヨシワラで遊び呆ける不義を犯し、しかし過ちに気付いて身を挺してフレーダーの命を守るという恩返しをする事になった労働者11811号ことゲオルギを演じたのは、期待の若手俳優エルヴィン・ビスヴァンガーである。
 ……が、ビスヴァンガーに関する情報はほとんど入手出来なかった。 仕方がないので、ココではカンタンにフィルモグラフィーを記す事にする。
 1896年11月26日生まれのビスヴァンガーは、経緯は不明だが1919年、クライン=ロッゲも出演していた『Morphium』に比較的大きな役で出演。 これが銀幕デビューとなり、『Uriel Acosta』(20年)、再びクライン=ロッゲと共演した『Wildes Blut』(20年)、『Unter Raubern und Bestien』(21年)、ゲオルゲと共演した『Erdgeist』(23年)、『Der Menschenfeind』(23年)などに出演。
 これらの出演がラングの目に留まり、『ニーベルンゲン』2部作にギーセルヘア役で出演。 同じく24年の『Op hoop van zegen』、26年の『In Treue stark』にも、比較的大きな役で出演している。
 27年には本作に出演するも、映画出演は実はこれが最後になった。 これ以降は、なんと脚本家に転身し、『In letzter Minute』(39年)、『Tip auf Amalia』(40年)、『Die grose Nummer』(43年)、『Gesprengte Gitter』(53年)でそれぞれ脚本を手がけている。
 しかし、53年以降の足取りは不明。 筆者はリサーチし切れなかった。
 1970年のお正月に、73歳で亡くなっている。


 以上が、主要キャストのバイオグラフィである。
 どのキャストもそうだが、さすが1920年代のドイツ映画頻作時代を経験しているだけに、どのキャストもとにかく出演作が多い。 フィルモグラフィが長過ぎて、代表作を書き出すだけでも一苦労である。
 つか、日本語の資料少な過ぎ。 ヘルム以外は全滅。
 なので、仕方なくドイツ語や英語の資料を参照して執筆したが、所々翻訳間違いがあるやも知れず。 正直自信ないです。(←オイオイ)
 翻訳間違いを見つけた方は、やんわりとご指摘頂くか、生温かくスルーして頂けると筆者的には何かと助かりますですハイ。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


和装シリーズ・その1


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 やけに上半身が涼しげなマイクロミニ和装。 てか既に“和装”じゃなくなってるが、タニマやナマアシがたまりません! ちなみに帯がまたかぁいい。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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202.『メトロポリス』伝説:第1章③

2012年07月01日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #04-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 7月になりました。 ロンドン五輪まで、あとひと月切りましたね! 楽しみです。
 何でも、今回のオリンピックは近代オリンピック史上初の、全競技で男女両方の試合が行われる初めての大会になるんだそうな。
 そりゃそうだ。
 前回の北京オリンピックの時に書きましたが、マラソンは元々男子のみで女子レースが行われていなかったし、野球やソフトボールなどのチーム競技は、競技によって男子か女子のどちらかしか行われていなかった。 女子サッカーが行われるようになったのは、つい最近の事だ。
 しかし、北京オリンピックを以って男子のみの野球と女子のみのソフトボールが正式種目から外された事で、今回の全競技男女開催となったワケだ。
 とても良い事だと思います。 今後も続けてほしいですね。
 いずれにしても、ロンドンオリンピックは間もなく開催。 今回も、バッチリフォローしたいと思います!(`・ω・´)/
 ……でも、-9時間の時差が……。
 イカンともし難いです。つД`)゜。


 それとは関係ありませんが、先月25日、MFD‐WEBにて予定通り『Watch the Skies』のPDF版をアップしました。 左のリンクからMFD‐WEBに移動出来るので、良かったら読んでやって下さいませませ。 貴重な画像も満載だよ!
 そして、小沢クンには「がんばれ!」とエールを送っておきます。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の85周年記念アルティメット・アナライズ、連載第4回です。
 今週も、最後までヨロシクね☆


3.監督:フリッツ・ラング

 映画『死滅の谷』を監督したフリッツ・ラングは、1920年代のドイツ映画黄金時代を語る上で筆頭として語られるべき最も重要な映画監督だが、その生い立ちはどんなモノだったのだろうか?
 まずは彼の出生から、順を追って見ていく事にしよう。


・生い立ち

 本名(洗礼名)、フリードリヒ・クリスティアン・アントン・ラング。
 1890年、建築家の父とユダヤ人(注:後にカトリックに改宗する)の母との間で、ラングはオーストリア(注:当時のオーストリア=ハンガリー帝国)のウィーンに生まれ育つ。
 地元の国民学校(注:フォルクスシューレ。 現在の小学校と中学校に相当)から実科学校(レアールシューレ。 現在の高校に相当)に進学したラング少年は、読書好きな少年だった。 当時子供たちの間で人気を得ていたカール・マイの冒険小説を中心に、シェークスピアやニーチェ、ショーペンハウアーといった哲学書まで読み漁るほどだった。 また、演劇好きの両親に連れられ、多数の舞台を観劇するようになる。
 同時に、この頃出会ったのが映画であった。
 1903年、ラングはエドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』を観ており、“動く写真”に強い興味を憶えたという。
 実科学校を卒業すると、ラングは父と同じ建築家を志し、工科大学へ進学した。 が、デザインの授業を通して絵画に出会ったラングは、絵の方が面白くなってしまいアッサリと大学を中退。 両親の反対もあったのか、ラングは家出をしてドイツやベルギーで絵葉書を売りながら美術館巡りをしていた。
 20代になって間もなく、ラングはドイツに渡り、ミュンヘンで美術工芸学校に入学。 ユリウス・ディーツに師事し、絵画を学ぶ。
 が、1910年頃にラングは再び放浪の旅に出る。
 絵を売ったり、新聞社からの依頼で挿絵を描くなどして生計を立てながら、小アジアや北アフリカ、中国、日本、果てはバリ島にまで足を伸ばしている。 この時見たアジアのオリエンタルな情景は、その後のラングに多大な影響を与える事になる。
 また、行く先々で美術品を買い漁り、コレクションするようになる。
 ヨーロッパに戻ったラングは、ドイツやオーストリアではなくフランスのパリに向かった。 そして、モンマルトル墓地の近くに居を構え、絵画学校に通って絵の勉強を続けた。
 このように、ラングは本気で画家を志していたのだが、この時の経験は、後の映画監督としてのキャリアに重要な影響を与えている。 特に、1920年代の表現主義映画全盛期の作品には、その影響がハッキリと見て取れる。(注:詳細は後述)
 さて、この頃にラングは、自身の作品や蒐集したコレクションを展示する個展を開こうと思い立つが、この企画は実現しなかった。
 時に1914年夏。 第1次世界大戦が勃発してしまったからだった。
 仕方なく、生まれ故郷であるウィーンに戻ったラングは軍隊に入隊。 ロシアやバルカン半島、イタリアの前線へと送られる。
 この頃、ラングは既に視力が低下し始めており、トレードマークである片眼鏡が手放せなかったが、負傷しながらも着実に手柄を立て、最終的に中尉にまで昇格する事になる。
 しかし1916年、度重なる負傷のため後方に送られたラングは、ウィーンの療養所で治療に専念する事になる。
 この療養期間中に、ラングは有り余る時間を使って『鞭』という映画の脚本を執筆している。 ラングにとって、恐らく初となる映画脚本だった。(注:この脚本は、終戦後にドイツでアドルフ・ゲルトナー監督により映画化されている)
 また、これと時を同じくして出会ったのが、映画監督(兼プロデューサー)のジョー・マイであった。


・脚本家時代

 既にジョー・マイ・カンパニーという映画会社を設立していたマイは、ラングの脚本を気に入り複数の脚本を映画化する。
 が、マイとラングはあまり馬が合わず、二人の関係には常に確執が伴った。
 それもあってか、ラングは1917年、たまたま知り合ったペーター・オスターマイヤーという舞台演出家に誘われるままに、『Der Hias』という舞台に役者として出演。 この舞台をやはりたまたま観劇したのが、後にラングの重要なパートナーとなる映画プロデューサー、エーリッヒ・ポマーであった。
 既にデクラ社という映画スタジオを設立していたポマーは、しかしラングには最初あまり良い印象を持っていなかったと言う。 が、実際に合って話してみると、その才能と映画に対する情熱に共感し、意気投合して朝まで語り合ったという。
 この時、ラングは既に映画監督になる事を希望(注:実際、マイに自分の脚本を自分で監督したいと申し出ている。 が、この申請はマイにアッサリと蹴られてしまう)しており、ポマーにもその旨を伝えた。 が、ポマーは脚本こそが映画の要と考えていたため、文芸顧問(注:脚本家兼編集者)としてマイ・カンパニーからヘッドハンティングする事を約束し、「まずは脚本家としての腕を磨きなさい」と助言。 ラングはこれに納得し、映画監督としての将来のために脚本技術を磨いた。
 1918年、終戦直前の9月になると、ポマーは約束通りラングをマイ・カンパニーから引き抜き、ラングはデクラ社のお膝元であるベルリンへと転居。 ココで、ラングは18年から19年にかけての1年ほどの間に、実に7本(!)もの映画の脚本を執筆する。
 これらの作品は比較的評価が高く、映画はヒットしデクラ社はポマーがラングに期待した通りの利益を上げたが、ラングは不満だった。 映画の出来に、満足していなかったのだ。 しかし、映画の製作現場に立会い、ラングは映画製作や演出技法を学んだ。
 そして、新しく書いた脚本を手にポマーの下を訪れ、「これを自分で演出したい」と申し出た。 デクラ社ではまだ1年ほどしか働いていないラングのこの申し出にポマーは困惑したが、既に実績があるラングの申し出だったため断り切れず、これを了承する。
 そうして製作されたのが、ラングの初監督作品、『混血』(注:または『半分の血』。 1919年公開)である。 さらにラングは、『愛の主人』(1919年)というラブストーリーも監督。 映画は両方ともヒットし、ラングの才能に驚かされたポマーは、ラングこそが近い将来、ドイツ映画界の重要な映画監督になると確信した。
 この直後から、ラングは商業的な理由からマイ・カンパニーでも脚本や助監督として何度か仕事をしているが、マイとの確執はついに解消出来ず、この翌年の1920年を最後に完全にマイと決別する事になる。
 しかし、ポマーとの関係は極めて良好で、2部構成の冒険活劇、『蜘蛛』(1919年~20年)と、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(注:初演は1904年)に着想を得た日本が舞台の悲恋モノ、『ハラキリ』(1919年)を監督。 前者はヒットし、後者は映画祭用の短編だったが、民俗学者のハインリッヒ・ウムラウフにより設計された日本の街並みや家屋を再現したセットは極めて正確な描写になっており、エキゾチックな雰囲気が絶賛された。
 ちなみに、この3作(注:『蜘蛛』2部作と『ハラキリ』)は、現存するラングの監督作品では最も古い作品である。(注:それ以前の作品は現存していない)
 1920年、確執が続いていたマイの下で脚本を執筆してたラングは、しかしココでポマーと同じくラングの重要なパートナーになる人物と出会う。
 女流脚本家のテア・フォン・ハルボウである。
 フォン・ハルボウとラングは、共同で複数の作品の脚本を執筆。 同時に、ラングはマイに演出を申し出るが、マイはまたもやアッサリとこれを却下。 これが決定打となり、ラングはマイと決別する。
 1921年、ポマーの下に戻ったラングは、フォン・ハルボウの脚本(注:一説には、マイに自尊心を傷付けられたラングを慰めるためにフォン・ハルボウが自発的に執筆したと言われている。 そして、これがキッカケになったらしく、ラングとフォン・ハルボウはこの直後に結婚する)によるラング初の表現主義映画、『死滅の谷』を監督した。(注:原題を『Der mude Tod』といい、直訳すると“疲れた死神”となるのだが、邦題は『死滅の谷』とされ、後に『死神の谷』と改題され、現在のソフト版は『死神の谷』で統一されている。 が、本書では『死滅の谷』で統一する事にした。 ちなみに、フランスでは『三つの光』というタイトルだった)
 ドイツ国内では、一部で批判的な評価もあったが、お隣の国フランスでは、これと前後して公開された『カリガリ博士』や『ノスフェラトウ』と共に驚異的な大ヒットを記録し、フランスの観客に大絶賛された。
 既に『ハラキリ』で一緒に仕事をしていたリル・ダゴファーと、名優ベルンハルト・ゲーツケを主演に迎えたこの作品は、儚くも哀しいラブストーリーをベースに、表現主義絵画に影響を受けたセットを背景に描き出し、なおかつラングが放浪中に見たオリエンタル・ムード漂う神秘的な世界観を描いた快作である。
 フランスでの大ヒットを知ったドイツのメディアは、「これまでのどの映画よりもドイツの精神性を反映させている」、「映画においては決して成功し得なかった絵画的雰囲気を醸し出している」と再評価。 ドイツ国内でもラングの名前は有名になり、同時代の映画監督にも影響を与える事になった。
 この作品の成功は、ラングのその後の活躍を予見させるモノであり、後のキャリアの足がかりとなる重要な作品になった事は間違いないだろう。


・時代の象徴

 この『死滅の谷』の大ヒットと前後して、ポマーはデクラ社の再編を画策する。
 独立系プロダクション、ビオスコープ社との合併である。 映画『死滅の谷』は、デクラ社とビオスコープ社が合併して出来た新会社、デクラ=ビオスコープ社(←そのまんまか!)の最初の配給作品であった。
 さらにこれと前後して、国営映画スタジオであったウーファ社が民営化。 ウーファ社もまた、これに伴って再編を画策し、複数の独立系プロダクションを吸収合併する。
 そして、合併したばかりのデクラ=ビオスコープ社をも吸収合併してしまう。(注:当初は対等合併だったようで、社名はウーファ・デクラ=ビオスコープ社になったが、後に吸収合併に切り替えられたらしく、デクラ=ビオスコープ社の名は失われる事になる)
 映画『死滅の谷』の公開日、翌日の事であった。
 こうして、ウーファ社はドイツ最大のメジャースタジオになったが、これはある意味ポマーの思惑通りだったようだ。 この巨大スタジオの潤沢な資金を背景に、ポマーは超大作映画の製作を次々と企画する。
 その第1弾となったのが、『ドクトル・マブゼ』2部作(1922年)である。
 脚本はテア・フォン・ハルボウ。
 監督は、もちろんフリッツ・ラングである。
 ドイツ国内が空前絶後のインフレに苦しめられていた当時の世相を背景にしたこの犯罪映画は、後のラング作品のベーシックとなった重要な作品である。
 元々、この作品はドイツ最大の出版社であったウルシュタイン社の週刊誌、『ベルリーナ・イルストリールテ・ツァイトゥング』に連載されたノーベルト・ジャックの小説が原作で、ウルシュタイン社から映画化の企画が持ち込まれた。
 まだウーファ社と合併していなかったデクラ=ビオスコープ社のポマーは、出版社との提携を画策しており、この持ち込み企画に飛び付き、2社の共同出資で新会社を設立する事で合意。 ウーコ・フィルムという新会社を設立し、ポマーは『ドクトル・マブゼ』の映画化企画をスタートさせた。
 そして、ポマーがこの企画を任せたのが、ラングとフォン・ハルボウであった。
 当時ラングとフォン・ハルボウは、『海賊』というオリジナルの脚本による3部作からなる連続活劇の企画を立てていたが、諸般の事情からこの企画は実現せず、二人はポマーの提案を受け入れ、監督と脚本を引き受けた。
 こうして製作された『ドクトル・マブゼ』2部作は、国内情勢の悪化を背景にあの手この手で財を築き、裏社会を牛耳ろうと企む精神科医、マブゼ博士と、彼を追うフォン・ヴェング検事の息をも吐かせぬ知力合戦を描き、当時の混乱したドイツの国内情勢をストレートに描いた作品である。
 ラング自身は、「時代のドキュメントとして映画を使った」と語っている。
 映画としても、この作品の持つサスペンスの手法は、それまでの映画にはなかった手法であり、後の犯罪映画に多大な影響を与えた事は間違いないし、第2部のクライマックスである銃撃戦は、西部劇映画を思わせながらも後のギャング映画、すなわちフィルム・ノワールの原点とも言うべき名シーンである。
 しかし、それと同時にこの映画ではマブゼ博士は精神科医であると同時に、怪僧ラスプーチン(注:ロシア帝国時代にロマノフ家に出入りを許され、暗躍の限りを尽くして権力を欲しいままにしたと言われる怪人物)のような存在でもあり、超常的な能力を使って人々を惑わせる。 それは、後のヒトラーを髣髴とさせる独裁者的な存在だが、ラングとフォン・ハルボウはこのマブゼ博士というキャラクターに自分たちが持っていた東洋思想の知識を導入し、エキゾチックなオリエンタル・ムード漂うイメージを重ねている。
 過去と現在が奇妙に交錯するこの作品は、一部で「芸術的で文化的な映画の高い水準を満たしていない」と痛烈に批判されたりもしたが、1922年4月に第1部が公開されると、既に単行本化されていた原作小説がベストセラーになっていた事もあり、映画館には観客が殺到し、映画は記録的な大ヒットとなった。
 それから1ヵ月後の第2部の公開も、やはり同様に大ヒットとなり、映画館の前には観客が列を作るほどだった。
 当時の映画としては異例とも言えるほどの大ヒットを記録し、ラングの名はドイツ国内で知らぬ者無しと言って良いほど有名になった。
 そして、マブゼ博士は犯罪映画の代名詞的な存在になり、原作者のノーベルト・ジャックとのイザコザ(注:脚本を手がけたフォン・ハルボウが、ジャックに対して続編の執筆中止を要求し、半ば強引に権利を買い取ってしまった。 そのため、映画版『マブゼ』シリーズの利益は、ジャックには1マルクの利益ももたらさなかった)があったりもしたが、これ以降複数のシリーズ作品が立て続けに製作される事になる。
 ちなみに、ウーコ・フィルムは『ドクトル・マブゼ』を中心に数作を製作しただけで解散し、実質2年とかからず閉鎖されてしまう。 儲かってなかったワケではないハズなので、恐らく共同出資のウルシュタイン社とデクラ=ビオスコープ社の間で何かあったのだろう。
 それはともかく、この『ドクトル・マブゼ』2部作の大ヒットを受け、デクラ=ビオスコープ社を吸収して間もないウーファ社は、ラングを重用するようになる。
 これにより、ラングは『ドクトル・マブゼ』2部作をも遥かに上回る“国民的超大作”の監督を任される事になった。
 その映画のタイトルは、『ニーベルンゲン』!


・国民的超大作映画

 映画『ニーベルンゲン』は、『ニーベルンゲンの歌』という叙事詩がその原作である。
 ドナウ川流域を支配していたブルグント族が12世紀に滅亡した伝承を基に、13世紀初頭に成立した(と考えられている)この一大叙事詩は、全39歌章(!)、2379節(!?)にも及ぶ壮大なモノで、ブリュンヒルト伝説を基にした前編(1~19歌章)と、ブルグント伝説を基にした後編(20~39歌章)に大きく分けられる。
 成立直後に流行的に普及したが、13世紀後半以降に衰退し、16世紀にはほとんど忘れ去られてしまう。 が、18世紀後半になって13世紀末頃のオリジナルに最も近い(と考えられる)写本が発見され、1862年にはフリードリッヒ・ヘッベルによって3部構成に構成し直された戯曲が発表され、これと前後してワーグナーの作曲によって4夜構成、総演奏時間15時間(!!)という歌劇、『ニーベルングの指環』が発表され、この叙事詩は再評価され、“ドイツ固有の神話”と考えられるようになり、20世紀初頭にはドイツ国民の魂の根源と言われるほどになっていた。
 当時から、この映画の原作は非常に人気の高いモノだったのだ。
 脚本を手がけたフォン・ハルボウは、元々この叙事詩がスキで、舞台女優だった頃にはヘッベルの戯曲版の舞台に立ち、クリームヒルトを演じた事もあった。 彼女自身、この叙事詩には思い入れがあったのだろう。
 その証拠に、先に記したボツ企画の『海賊』三部作と共に、1921年頃に『ニーベルンゲン』三部作の企画も立てている。
 当時はまだ『ドクトル・マブゼ』の公開前だった事もあり、この企画は実現しなかったが、『ドクトル・マブゼ』の大ヒットで企画を通し易くなった1922年、フォン・ハルボウは再びこの企画をウーファ社に持ち込む。
 しかし、ポマーはいくらウーファの資本が後ろ盾になっているとは言っても、三部作はさすがにムリと判断。 フォン・ハルボウに二部構成にするように指示した。
 この指示にはフォン・ハルボウも理解を示し、ヘッベルの戯曲版ではなく、原作に立ち返る形でジークフリートの活躍とその死までを描いた第1部と、夫を亡くしたジークフリートの妻、クリームヒルトの復讐を描いた第2部に構成し直し、脚本を執筆した。
 これと前後して、ラングはオーストリア国籍からドイツに帰化しているのだが、ウィーン出身のラングにとっては、この一大叙事詩はしかしあまり馴染みのないモノだったハズである。
 しかし、脚本を手がけたフォン・ハルボウは語る。
「重要なのは忠誠ではなく、陰謀、背信、死、復讐のドラマであり、罪と罰の絡み合いである。」
 その通り、この作品はギュンター王と忠臣のハーゲン・トロニエの忠義の物語ではなく、陰謀、策略、疑心と裏切りが渦巻く死と復讐に彩られた物語であり、最終的に主要な登場人物はアッチラ王以外全員死ぬという徹底した悲劇である。
 そもそも、英雄譚に謳われるジークフリート自身、第1部のラストで死んでしまう。 物語りの主人公が、物語りの途中でいなくなってしまうのだ。
 さらに、ヒロインであるクリームヒルトは亡き夫の無念を晴らすために兄であるギュンター王を始め、一族全員を罠に嵌め、そして自らの復讐のために殺してしまう。
 やり過ぎなぐらいの悲劇である。
 しかしフォン・ハルボウは、何よりこの悲劇にこの一大叙事詩の本質を求め、この点に魅力を感じたようだ。
 そしてそれは、ラングも同じだったようだ。
 実際、ラングも脚本を手がけた前作の『ドクトル・マブゼ』も、主要な登場人物は次から次へと死んでいき、最後にはマブゼ博士自身も自らの罪の深さに押し潰され、発狂してしまうという悲劇的なラストシーンである。
 現在でも、映画やドラマでは悲劇は一定の人気があり、様々な作品で悲劇が描かれ、観客の涙を誘っている。
 シェークスピアを例に持ち出すまでもなく、悲劇には常にドラマがあるのだ。
 そしてそれは、とても映画向きの主題なのだ。
 フォン・ハルボウがこの叙事詩の映画化にこだわったのも、悲劇が本質的に持っているドラマ性が映画という新しい芸術に向いていると考えていたのだと、筆者は考える。
 その意味においては、この作品は当時としては非常に前衛的で、現在においてはとても現代的な作品と言え、フォン・ハルボウは先見の明があったのだと筆者は考える。
 同時に、ラングの手腕もこの作品では遺憾なく発揮された。
 先ほど書き忘れたが、前作『ドクトル・マブゼ』では、ストーリーやテーマ的な面は別にして、ヴィジュアル的な面では当時の流行であった表現主義的側面はあまり感じられない作品であった。
 飽くまでも当時のドイツ暗黒時代を背景にした現代劇で、『死滅の谷』に見られたような表現主義の影響を受けたセットデザインなどはあまり見られなかった。(注:ただし、室内のシーンに限り、装飾品などにその片鱗を垣間見る事は出来る)
 が、この『ニーベルンゲン』では、“時代劇”という前提もあり、衣装やメイク、セットや小道具など、様々な面で表現主義の影響を垣間見る事が出来る。
 例えば、第1部の重厚な城の装飾品とブルンヒルトの王国、第2部のフン族の土着的な建物の外観などに表現主義建築の影響を観る事が出来るし、特に兵士たちが持っている盾に施されたペイント(注:日本でいうトコロの家紋の役割りがあり、中世の頃までは実際に様々なペイントが施された盾が使われていた。 意外なトコロでは、アイルランドの民族衣装であるキルトのタータンチェックも同様で、家毎にチェックのパターンが異なっていたのだそうだ)は、決して史実に忠実というワケではないようだが、実際にありそうながらも表現主義絵画の印象が見え隠れする。
 そして、その最たる例が、第1部の後半に出てくるクリームヒルトの夢のシークエンスである。
 このシーンでは、クリームヒルトの見た夢を、この映画の制作と前後して公開されたルットマンの『光の遊戯』に着想を得たアニメーションで表現し、時代劇の中で(当時の)現代の表現主義が奇妙にクロスオーバーするシーンになっている。(注:このアニメーションシーンは、ルットマン自身が手がけている)
 これを“表現主義映画”と呼ばずして何と呼ぼう!?
 この映画は、ドイツの過去と現在の融合を目指した前衛芸術なのである。


 1924年2月14日、映画『ニーベルンゲン』の第1部『ジークフリート』が、ベルリンにあるウーファ社の直営大劇場、ウーファ・パラスト・アム・ツォーで封切られた。 プレミア試写会には、政財界の大物のみならず、時の首相まで招待され、実に盛大なモノになった。
 ……が、実はこのプレミア試写会の時、映画はまだ未完成で、上映が始まっても編集が終わっていなかった。 劇場には、編集が終わったフィルムリールを1巻ずつ搬送したという。
 エドガー・G・ウルマーの回想によるモノなので、どこまでがホントのハナシなのか分からないが、制作に2年近くかけたにも関わらず、ギリギリまで映画の完成が遅れたのは確かなようだ。
 しかし、プレミア試写会翌日、ドイツ国内の主要なメディアはこの映画の公開を大きく取り上げ、絶賛する批評を掲載した。 中でも、試写会に参列した時の外務大臣、シュトレーゼマンは、「国民をつなぐ輪として、また文化と文化の架け橋としての映画」とコメントし、この映画を絶賛した。
 こうした好評が物語るように、映画は連日多くの観客の足を映画館へと向かわせ、『ドクトル・マブゼ』以上の大ヒットを記録した。
 それから2ヵ月後の1924年4月には、第2部の『クリームヒルトの復讐』が封切られ、第1部ほどではなかったが、これまた大ヒットになった。
 ドイツ国民の魂の根源とも言うべき一大叙事詩、『ニーベルンゲンの歌』の初映画化作品である『ニーベルンゲン』2部作は、この大ヒットにより“国民的超大作映画”と呼ばれる事になった。
 そしてこの映画は、海外にも輸出される事になり、監督フリッツ・ラングの名はドイツやヨーロッパのみならず、世界的なモノになっていく。
 ポマーが見込んだ通り、ラングはドイツ映画界でも最も重要な監督の一人になっていったのである。
 ちなみに、『ニーベルンゲン』は2004年には同じくドイツでリメイク版が制作されている。 このリメイク版は、実はYouTubeに映画全編(注:日本語字幕無し)がアップされているので、興味にある方はご覧になってみてはいかがだろうか?


・次回作の構想

 このようにして、立て続けにヒット作を世に送り出したラングは、ドイツ映画界のみならず、海外にもその名を轟かせる事になった。
 この実績に、ウーファ社はラングを優遇するようになったワケだが、問題は“次の作品”だった。
 ラングとフォン・ハルボウ、そしてポマーの三人が、いつ頃から“次の作品”の構想を練っていたかは、今となっては定かではない。 が、後にその“次の作品”で美術を手がける事になるエーリッヒ・ケッテルフントが語るトコロによると、彼は『ニーベルンゲン』の第2部が公開中だった1924年の5月に、ラングとフォン・ハルボウによる“次の作品”の脚本の草稿を目にしているという。
 少なくとも、ラングとフォン・ハルボウにとっては、『ニーベルンゲン』2部作の公開と前後して、既に構想は固まっていたようだ。
 これと時を同じくして、ドイツ国内の情勢にも変化が現れる。
 最大30%を超える失業率(!?)は相変わらずだったが、為替市場が安定し、マルク通貨のインフレがようやく収まり始めたのだ。
 これに伴い、ドイツ映画界の年間600作という頻作の時代は終わりを告げ、インディペンテント系の小さなスタジオの統廃合が進み、ウーファ社を筆頭にしたメジャースタジオ躍進の時代を迎える事になった。
 小規模なインディペンデント系の作品は少なくなり、メジャースタジオによる大資本にモノを言わせた大作映画の時代が到来したのだ。
 この時代の流れに乗り、ウーファ社は一計を案じる。
 ハリウッドとの業務提携である。
 第1次大戦の終戦と同時に、ドイツにはハリウッド映画の輸入が始まっていたが、作品数は少なかった。 年間600作という頻作時代が到来したため、輸入コストの高いハリウッド映画を配給するより、国産の映画を配給した方が儲かったからだ。
 しかし、外為市場の安定化とインフレの終焉により、映画市場が活性化していたドイツはハリウッドにとっても重要な輸出市場になったため、ハリウッド映画界がドイツに作品を輸出しようと画策し始めたのだ。
 これに真っ先に飛び付いたのが、海外進出を目論んでいたウーファ社であった。
 ウーファ社は、ハリウッドのパラマウント、メトロ=ゴールドウィン(注:メトロ社とゴールドウィン社が合併して出来たスタジオ。 直後にメイヤー社と合併し、現在のMGMになる)の両スタジオと提携し、ハリウッド映画の輸入とドイツ映画のアメリカへの輸出を同時に行う相互協定、パルファメット協定を結ぶ。 これにより、ウーファ社はアメリカという巨大市場に自社の映画を流通させられるルートを確保。 ドイツ映画の輸出が始まる。
 そして、このパルファメット協定によって最初に輸出された映画が、協定締結と前後してドイツ国内での公開が始まった『ニーベルンゲン』2部作であり、パルファメット協定によってアメリカやイギリスでの公開を前提に制作される事になった作品が、ラングとフォン・ハルボウの構想していた“次の作品”だった。
 それこそが、本書の主題である伝説的名作、『メトロポリス』なのである!



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 さて来週は、当ブログの4周年記念ネタをお送りする予定です。 お楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


闇騎士現る。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 珍しく露出度低め、……ってゆーか露出なしの重装系装備。 それっぽい兜があるともっと良かったかも。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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