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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

212.『メトロポリス』伝説:第5章①

2012年09月09日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #13-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週はシフトの交代があるのでとっとといきます。
 でわいざ!



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第13回です。
 今回から新章突入ですが、この章も長いんだ。


第5章:伝説の再生

 前章で述べた通り、本作は600万マルクという他に類を見ない膨大な予算がつぎ込まれ、2年半という気の遠くなるような時間が費やされ、エキストラを含めて延べ数万人に及ぶ人手を注いだにも関わらず、ドイツ国内の興行収益は、その総製作費の僅か2%足らずにしかならない史上希に見る大赤字を出す大失敗作になった。
 そして、この興行収益がその評価にも次第に影響を与えるようになり、いつしか“駄作”の烙印を捺されやがて、人々の記憶から失われていく事になった。
 しかし本作は、その初公開から80年以上を経た今日、“ドイツ表現主義映画の最大の成果”と評され、“SF映画の原点にして頂点”とまで言われるほど、極めて高い評価と人気を得ている。
 かつての駄作が、今日の傑作になっているのは何故か?
 続いての旅は、本作が駄作から傑作へと復活し、失われてから蘇るまでにたどった数奇な運命を追走する旅である。


1.失敗の原因

 そもそも、本作は何故失敗に終わってしまったのか?
 この大失敗により、ウーファ社は経営危機に陥る事になるのだが、本作は方々から大変な注目を集めたラングの監督最新作であったにも関わらず、総製作費の回収もままならないドコロか、逆に経営難に瀕していたウーファ社の負債額を増やしただけだった。
 まずは、そもそもの問題の大元を検証する必要がある。
 その“問題の大元”とは、本作の総製作費の問題である。


・総製作費の問題

 前章でも少しだけ記した通り、そもそも本作の総製作費に関しては諸説あり、正確な金額がハッキリしていない。
 企画当初の予算は80万マルク、もしくは150万マルクと言われているが、最終的に本作に費やされた製作費となるとさらに諸説入り乱れ、350万、500万、600万、あるいは1300万マルク(!?)という途方も無い大金が費やされたとする記録もあり、どれが本当なのかは正直定かではない。
 ウーファ社の公式発表にしても、500万マルクという説が有力だが、600万マルクだったという記録も残っており、やはりハッキリしていない。
 1926年1月、ウーファ社の命令でパルファメット協定に基づくハリウッド映画のドイツ国内配給のため、本作の製作を離れる事になったポマーは、その直前に映画雑誌のインタビューに答えて、「製作費はまもなく100万マルクに達するだろう。」と語っているので、もしかしたら当初の予算は80万マルクというのが正しいのかもしれない。
 後に、ラングは本作の興行的失敗を責められ、膨大な赤字額の責任を問われたが、ラングはこれに反論して、「600万マルクの内の400万マルク程度は、映画に対するスタジオ側の要求を呑んだ結果。」と語っている。
 いずれにしても、とにかく膨大な製作費が投入された作品である事だけは確かである。
 しかし問題は、この膨大な製作費をいかにして回収するか?である。
 前章でも述べた通り、現在の映画市場、特に、ハリウッドの大作系映画作品は、その膨大な製作費を回収するために、海外配給が最早“必須”になっている。 国内配給だけで製作費を回収出来る作品は、極限られたほんの一握りの作品に過ぎないのが現状だ。
 しかし、当時の映画は海外配給自体は珍しいモノではなかったが、決して“当たり前”のモノではなかった。
 加えて、国内配給では現在のようないわゆる“全国公開”が行われる例は極めて希で、大作系映画であっても、スタジオの直営劇場で単館上映(注:主に首都圏の映画館。 地方都市での公開は、首都圏の映画館での公開が終了した後、巡業的に順次行われるのが通例だった。 フィルムの複製技術が未熟で、上映用フィルムを短期間に大量生産出来なかったため)がフツーだった。
 本作でもそれは同じで、パラスト劇場でのプレミア上映の後、ノレンドルフプラッツ劇場で単館上映されている。
 ……が、ウーファ社が何を考えてノレンドルフプラッツ劇場での単館上映にしたのか、筆者には理解出来ない。 何故なら、何をどう考えても、製作費の回収など不可能だからだ。
 ちょっと計算してみよう。
 27年1月からスタートした本作のノレンドルフプラッツ劇場での上映では、1万5000人の観客を動員し、7万5000マルクを売り上げたという記録が残っているので、単純計算で観客一人当たりの入場料は5マルクだったと分かる。(注:当時の為替レートの記録を探したが、筆者の方では確認出来なかったので正確な数字ではないかもしれないが、当時のパン1個が1マルク程度だったようなので、現在の貨幣価値で考えると、500円~1000円程度の入場料だったのではないかと思われる。 ……資料がないので、飽くまでも憶測ですけどね?)
 ノレンドルフプラッツ劇場は、客席数600席だったので、満席になったとして1回の上映での売り上げは、3000マルクとなる。
 現在の映画館は、オールナイト上映などで24時間営業しているトコロもあるが、当時の映画館は夜間は営業しないのが普通だったので、営業時間を1日12時間と仮定する。
 本作のオリジナル版は、4189mのフィルムをfps16で再生し、上映時間は3時間48分もあり、インターミッションを挟んで上映されたというので、上映前後の観客の入れ替えや清掃作業、インターミッションの休憩時間を加味すると、1日の上映回数はどう考えても2回が限界である。
 つまり、客席が常に満席になったとしても、1日の売り上げはたったの6000マルクにしかならない。
 本作の総製作費を600万マルクと仮定すると、毎日休み無く、しかも連日満席になったとしても、600万マルクの総製作費を回収するには実に1000日、すなわち2年と9ヵ月(!!)もかかるという計算になってしまうではないか!
 どんなにロングラン公開されたとしても、3年近くもの間連日満員になる映画など存在しない。 観客の興味が、そんなに持続するとはトーテー考えられない。
 明らかに、ウーファ社の見込み違いである。
 このように、本作の製作費回収は、国内収益だけでは不可能だったのである。
 そのため、ウーファ社はパルファメット協定によって海外での興行収益に期待したワケだが、その目論見さえもモノの見事にハズれ、本作は膨大な赤字を出し、ウーファ社を経営危機に陥らせる事になってしまう。
 しかし、本作は『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』で高い評価と人気を得て、ドイツ映画界を代表する巨匠になっていたラングの監督最新作であり、制作中から既に、多方面から注目されていた作品であった事は、多くのメディアがこぞって本作を取り上げていた事実、それ自体が裏付けている。
 実際、本作のプレミア上映直後のメディアは、本作に対して好意的な批評を掲載していた。
 それなのに、嗚呼それなのにそれなのに、何故にこのような結果になってしまったのか?
 それには、映画公開当時の決して無視出来ない、様々な要因があったのではないかと、筆者は考える。
 以下に挙げる本作の“失敗の原因”は、飽くまでも筆者の考察に基づくモノであり、確かな裏付けがあるワケではないが、あながち間違いとは言い切れないモノばかりだと、筆者は確信している。
 そのつもり(←どのつもり?)で、以下をお読み頂きたい。


・異例な手法

 そもそも、本作は当時の映画作品としては極めて異例な手法がいくつか導入されている。
 例えば、前章の編集の項でも記した“三部構成”。
 同項で記した通り、当時の娯楽では映画のみならず、小説や演劇、音楽などでも、二部構成か長期シリーズが一般的で、“三部作で完結”という構成は一般的ではなかった。
 実際、ラングの監督作品でも三部作の映画が企画された事はあったが、実際には企画が通らず制作されていないし、本作の前作に当たる『ニーベルンゲン』では、元々フォン・ハルボウの初期構想では三部作として構想されていたが、予算や製作期間などの問題から、ポマーが大作映画を3作も作る事に難色を示し、フォン・ハルボウに二部構成に構成し直すように指示している。
 ただし、『ニーベルンゲン』の原作である『ニーベルンゲンの歌』は、元々大きく二部に分ける事が出来る構成だったので、フォン・ハルボウは原作に立ち返る形でこの指示に同意している。
 さらに遡れば、『ドクトル・マブゼ』や『蜘蛛』も、やはりどちらも二部構成の作品である。
 同時代の他の映画作品でもこれは同じで、前後半二部構成か、もしくは長期シリーズ化されて6部構成とか8部構成の作品になる事がほとんどで、“三部作で完結”という三部構成は異例なモノであった。
 本作は、映画そのモノは1本の作品だが、この1本の作品を『Auftakt(前奏)』、『Zwischenspiel(間奏)』、『Furioso(フリオーソ)』という3つのパートに分け、三部構成で編集されている。
 それぞれのパートに“前奏”、“間奏”といった音楽的なサブタイトルが付けられているが、交響曲などでは4楽章構成が一般的で、やはり“三部構成”というのは極めて希である。
 このように、本作の構成は、当時の一般的な作品の構成スタイルから外れた特異な構成になっているのである。
 また、音楽の問題もあったのではないかと筆者は考える。
 本作のプレミア上映が行われたパラスト劇場は、本来はオペラやバレエ、オーケストラのコンサートに使用される大劇場で、オーケストラピット(注:舞台と客席の間にある、オーケストラが入るためのスペース。 客席よりも低い位置にあるため“ピット”と呼ばれる。 “ピット”は“穴”の意)があるが、一般公開が行われたノレンドルフプラッツ劇場は映画館であり、パラスト劇場のようなオーケストラピットがないワケではないが、一般公開では音楽無しで上映された。
 前章で記した通り、本作の音楽はフッペルツによってミュージカルアレンジが施され、楽譜の1000ヵ所以上に指揮者への指示が書き込まれ、映像と音楽を完璧にシンクロさせる事を前提にした、当時としては画期的な手法で作曲された音楽である。
 当然、プレミア上映では映像を補い、効果的に盛り上げる要素としての音楽が観客の興奮を高め、それが映画の高評価につながったのは間違いない。 現在の映画を観れば、音楽がいかに映画にとって大切な要素であるかは説明しなくても皆さん周知の通りだからだ。
 しかし、一般公開ではこの“映画を盛り上げる大切な要素”であるトコロの音楽がなく、観客は奇妙な静寂の中、実に4時間近くもの間、映画を観ていなければならない。
 当時の映画は、上映時間30分にも満たない短編がほとんどで、長編は1時間から90分程度がほとんどだった。
 しかし、本作はその倍以上の上映時間があり、しかも音楽は無し。
 辛いなんてモノじゃない。
 実際、本作のソフト版をミュートして鑑賞してもらえば、これがいかに辛いモノか理解出来るハズである。
 さらに、作品のジャンルも当時としては異例なモノがある。
 今でこそ、SFはメディアを問わず多くの作品で用いられているジャンルだが、当時は作品数が少なく、あまり一般的ではなかった。 せいぜい、小説の世界でジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズの作品がベストセラーになっていたぐらいだ。
 しかし、ヴェルヌやウェルズの作品は、小説というメディアだったからこそ売れたのは間違いない。 何故なら、当時の映画の映像化技術では、技術不足のためこれらの小説作品を原作に忠実に映像化する事が出来なかったからだ。(注:それでも、『月世界旅行』を始めとした複数の作品が果敢に映像化に挑戦してはいた)
 当時の映画、特にドイツ映画では、サスペンスやスリラー、あるいは時代劇が人気を集めており、SF以外のジャンルの映画が主に制作、公開され、人気を得ていた時代である。
 実際、ラングも本作の前に撮っていたのは、サスペンス・スリラーの『ドクトル・マブゼ』と時代劇の『ニーベルンゲン』である。
 加えて、本作ではファンタジーやラブストーリーなど、複数のジャンルが混在する描写がそこかしこにあり、純粋なSFとは言い難い。
 さらに、テーマ的な面で言えば、本作は何もSFでなくても構わない。 それこそ、映画に登場する“バベルの塔の伝説”をディテールアップして、長編の歴史時代劇として描いても、本作のテーマを語る事は可能である。 またそうする事で、ジャンルの混在を減らす事が出来、観客にも理解し易い作品に出来る。
 こうした、当時の映画作品としては革新的過ぎる特異な手法の導入が、本作を(当時の観客にとって)難解な作品にしてしまったのは疑いようもなく、また観客が求めていた“ラングの監督最新作”、すなわち『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』のような作品を求めていたファンを失望させた可能性は、十分に考えられると思う。
 結局のトコロ、本作で導入されたこれらの異例な手法の数々が、当時の観客の理解を得られず、本作の失敗の原因になったのは間違いないだろう。
 観客の望む映画と、芸術家の意図は必ずしも同義ではなく、当時の観客にとっては、本作が芸術家のゴタクを並べたラングの独り善がり的な作品に見えた可能性は、決して否定出来ないと筆者は考える。


・表現主義の衰退

 それと同時に、当時の芸術界の流行の転換もまた、失敗の原因になった可能性がある。
 映画史家の小松弘が、本作のソフト版の解説ブックレットで述べている通り、本作は第1次大戦直後の王族支配的な古い価値観からの脱却を目指したドイツ表現主義の絶頂期に企画されたが、製作期間が2年半という長期に渡るモノになってしまったため、完成した頃には表現主義の流行は廃れており、本作で提示された表現主義的映像表現の数々が、新しい流行から見て古く見えてしまった可能性は確かに考えられる。
 新即物主義の台頭である。
 第1次大戦直後に勃興したドイツ表現主義は、画一的で非人間的な王族支配からの脱却を目指し、こころの内面的探求を通して感情をストレートに表現する、言わば主観的な芸術である。
 対して新即物主義とは、大衆社会に内在する個人の無名性や匿名性を通して、人々を冷淡に見つめるかのごとく極めて客観的に表現する芸術である。
 そのため、この芸術運動は絵画や建築の分野から始まり、ミース・ファン・デル・ローエ(注:ドイツ人建築家。 後にアメリカでも活躍し、ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライトと並んで近代建築の三大巨匠と呼ばれ、後のモダニズム文化に多大な影響を与えた。 1886年~1969年)やエルンスト・マイ、ハンス・ペルツィヒなどの近代建築に多大な影響を与える事になる建築家を多数輩出し、ハンガリー出身のモホリ=ナジ・ラースローに代表されるバウハウスの実験的な前衛芸術へと集約されていく事になるが、絵画や建築よりもこの新即物主義が多大な影響を与えた芸術がある。 それが、実は写真である。
 特に、アルベルト・レンガー=パッチュやアウグスト・ザンダー、フランス人写真家のジェルメーヌ・クルルといった写真家により、工場や工事現場の無機質な機械群を捉えた写真(注:現在の巨大建築物や廃墟、ワンダースポットとは異なり、何処にでもあるようなモノを文字通り即物的に写した写真が多い。 造形美よりは、むしろ無機物特有の“冷たさ”を表現している)や、客観的で冷淡な構図の人物写真によって、カメラという視点、レンズというフィルターを通した、写真特有の無感情な芸術へと発展していく。
 これは、マジックレアリズム(注:“冷静に現実を表現することによって現れる魔術的な非現実”の事で、日常が非日常と融合する芸術表現。 ただし、心理学的解釈や幻覚的モティーフを用いないため、シュールレアリズムと混同してはならない)や、第2次大戦後にモダニズム文化へと進化していく事になるのだが、この新即物主義が台頭したのが、実は本作の公開と前後しての事なのである。
 1925年、ドイツにあるマンハイム美術館という美術館で、『ノイエザッハリヒカイト』と題された芸術作品の展覧会が開催された。 この展覧会に出品された作品群が、後の前衛芸術の始まりであり、この作品群がこの展覧会の題名である“ノイエザッハリヒカイト”、=“新即物主義”と呼ばれたのがその始まりである。
 この芸術運動は瞬く間にドイツ芸術界を席巻し、絵画や建築、そして特に写真芸術の分野で熱狂的に受け入れられる事になった。
 本作のソフト版(注:2001年版の方)の特典映像の解説では、本作のオープニングアニメーションからミニチュアによるドキュメンタリー的映像へと転換するシーンを指して、「表現主義から新即物主義への転換」と解説されているが、筆者にはそうは観えない。 何故なら、新即物主義的映像に観える工業機械のドキュメンタリー的なミニチュアショットでは、カメラが近影で捉えた機械が激しく“運動”し、熱を帯びた主観的映像になっているからだ。
 新即物主義の極意は、飽くまでも“無機物的な冷淡さ”である。 それは、工業機械を写した作品のみならず、裸婦を写した人物写真でも同じである。
 筆者はジェルメーヌ・クルルの撮影した裸婦写真を見た事があるが、正直全くエロくなかった。 二人の女性が、素っ裸で絡み合うような百合モノだったが、カメラは定位置に据えられ、飽くまでも冷静に、流れ作業的に淡々とシャッターを切っただけ、といった印象の写真だった。
 そこには、絡み合う二人の女性の情熱や愛情は一切感じられず、見たままを写しただけのように思えた。(注:お見せして差し上げたい! でもダメです。 直リンも自重。 ヘアヌードの上、中にはモザイク無しの丸見えショットもあるので。 見たい方は、クルルの名でWikiって頂き、ページ内のリンクから海外サイトに飛んで下さい)
 しかし、これが新即物主義という芸術の極意なのである。
 主観的になるコト無く、飽くまでも客観的に、冷淡に、事象や物体をあるがままに写すのが、新即物主義という芸術なのである。
 従って、本作に用いられているオープニングのミニチュアショットは、カメラがエンジンの内部構造にまで入り込むという主観的な視点であり、回転やピストンといった“運動”によって熱を帯びた映像であるため、“内面的探求を通して感情をストレートに表現する”という表現主義の定義を満たしており、新即物主義アートとは呼べない。
 だからこそ、本作は後に“ドイツ表現主義映画最大の成果”と評されるまでになるのだが、公開当時に爆発的に流行し始めた新即物主義とは真っ向から対立しており、当時の“新しい芸術”を求めていた大衆には古い芸術のように感じられ、受け入れられなかったのではないだろうか?
 1920年代は、とにかく“新しいモノ”が求められていた時代である。 それまでにない、とにかく“新しさ”がもてはやされた時代なのだ。 そんな時代に、一昔前の第1次大戦直後を髣髴とさせるような映画には、大衆は最早“新しさ”を見出せなかったのである。


・巨大映画の失敗

 直接的な原因とは言えないかもしれないが、間接的な原因として当時の映画界の“ジンクス”もまた、本作の失敗を招いた遠因になったと言える。
 大作映画の失敗の前例である。
 そもそも、本作は総製作費600万マルクという破格の製作費が費やされた作品であるが、何も本作がいわゆる大作系映画の“最初の失敗例”というワケではない。
 当時の映画界には、“大作映画は失敗する”というジンクスがあるほど、複数の大作系映画の興行的失敗が前例としてあった。
 その筆頭兼最初の例としてタイトルを挙げなければならないのは、やはり『イントレランス』をおいて他にはないだろう。
 1916年に公開されたこの映画は、ハリウッドで製作された映画作品の中では、極初期の大作映画であった。
 第1章でも記した通り、当時のハリウッドは第1次大戦の勃発によってヨーロッパ映画が衰退したため、大戦参戦前だったアメリカの好景気を背景に急激に発展していった時代であった。
 この流れに乗って、ハリウッド本来の低予算娯楽映画ではなく、大金を注ぎ込んだ芸術映画を作ろうとするのは、ある意味必然的な事だった。
 映画のタイトル通り“不寛容”をテーマに、無実の罪で青年が死刑宣告を受ける当時のアメリカ、キリストの受難、ペルシャに滅ぼされるバビロン、そして16世紀のフランスで実際にあったサン・バルテルミの虐殺という4つの完全なオムニバスエピソードをモンタージュ的に同時進行させるという構成の作品で、バビロンの街並みをビル10階分にも相当するほどの壮大なフルスケールセットで再現し、延べ数万人にも及ぶエキストラを動員。 現在でも再現不可能なスケールで描かれたこの作品は、当時の貨幣価値で38万5千ドルもの総製作費(注:資料に数年の誤差があるので、単純な比較は出来ないが、当時の為替レート換算でおよそ1億3860万円。 当時の日本の国家予算がおよそ6億円だったと言われているので、その約5分の1程度の費用が投入された事になる)が投入された、文字通り桁違いの超大作であった。
 そして、この映画を監督したのが、映画の父、D・W・グリフィス。 主演はもちろん、グリフィスの重要なパートナーであった名女優、リリアン・ギッシュである。
 グリフィスとギッシュの最新作であり、当時としては破格の予算が投入されたハリウッド産の超大作映画として、『イントレランス』は史上希に見る大ヒットを記録……出来なかった。/(^0^)\ナンテコッタイ
 テーマが共通しているとは言っても、4つの完全に独立したオムニバスエピソードが同時進行するという構成が当時の観客に受け入れられず、加えてスター女優のギッシュはストーリーテラー的な出演でしかなかったため、難解なテーマもあって映画は低評に終わり、モノの見事に失敗してしまう。
 スタジオに建設されたバビロンの街並みの巨大セットは、その解体費用すら回収出来なかったため、数年間放置され朽ちるままにされたとか。
 ただし、この映画は後に再評価され、現在はグリフィスの代表作の一つとしてデジタルリマスター版がソフト化されている。 現代的な感覚で言えば、テーマも同時進行の構成も極めて現代的で、巨大セットの圧倒的な迫力が素晴らしい名作である。 が、ハリウッド本来の娯楽映画に慣れた当時の観客には、この映画の持つ先見性が理解出来なかったのだ。
 ちなみに、この作品は1919年に日本でも公開されているが、当時としては桁外れの10円という高額な入場料(注:現在の貨幣価値に換算すると、だいたい10万円ぐらい。 ……高!Σ(゜Д゜;))を取って公開された。 また、映画を再編集し、同時進行構成をやめて4話のオムニバスとして再構成。 これが功を奏したのか、映画は大ヒットし、この映画を配給した小林喜三郎は、この興行収益を使って“国際活映”という映画スタジオを設立。 年間60作程度を製作、配給する。
 しかし、スター俳優や人気監督が次から次へと他社に移籍し、あっという間に衰退。 1925年に倒産している。
 ちなみにちなみに、小林はコレ以前にも映画スタジオを設立しているが、これも倒産に終わっていた。


 話しが逸れたので戻そう。
 1924年に公開されたハリウッド映画、『グリード』もまた、『イントレランス』とは違った意味での“超大作”で、しかし『イントレランス』と同じく大失敗に終わった作品である。
 とある歯科医が偶然宝くじに当選。 しかし突然お金持ちになってしまったため、その妻が元恋人と結託して歯科医からお金を奪い取ろうとする。
 お金に目が眩み、強欲=greedに身を任せた人々が破滅していく様を描いた作品である。
 この映画を監督したエーリッヒ・フォン・シュトロハイムは、オーストリア出身のユダヤ系ドイツ人で、第1次大戦前に渡米し役者として映画界に足を踏み入れる。 前出の『イントレランス』にも出演し、実は助監督も勤めている。
 また、第1次大戦末期の1918年には、参戦を決定したアメリカ国内の戦意高揚のためにアメリカ政府の反ドイツ政策のプロパガンダ目的で製作された映画、『人間の心』(1918年。 監督はグリフィス)に出演。 無慈悲な侵略としてのドイツ軍将校を熱演した。(注:本人は、反ドイツ派だったらしく喜んで出演したらしい)
 これらの演技が高く評価され、シュトロハイムは性格俳優としての地位を築く。
 終戦後の1919年、『アルプスの嵐』という作品で監督デビュー。 この作品では、監督と共に脚本を手がけ、主演も自身でこなしている。
 これが高く評価され、これ以降俳優業の傍ら監督業も精力的にこなすようになる。
 そんな中監督したのが、件の『グリード』である。
 この映画は、当時のメトロ・ゴールドウィン社(注:後のMGM)で製作された作品だが、予算的には先の『イントレランス』すらも遥かに上回る54万7千ドル(!)が費やされたが、それより何よりこの映画を“巨大映画”たらしめているのは、その上映時間である。
 この映画のオリジナル完全版の上映時間は、驚く事なかれ、なんと600分=10時間(!?)もあるのだ。
 当然、スタジオ側はシュトロハイムの意図を理解出来ず、あまりに長過ぎるため映画の短縮を要求。 最終的に、140分まで短縮されて、映画は公開された。
 しかし、600分のモノを140分にまで(ムリヤリ)短縮したために、当然のごとく映画の物語りは飛び飛びな構成になってしまい、非常に流れの悪いモノでしかなかった。
 当然、観客も良く理解出来ない作品のため、映画は批判され、モノの見事に失敗してしまう。
 また、この興行的失敗のために、カットされたフィルム素材はそのほとんどが保存される事なく破棄されてしまい、10時間完全版は永遠に失われてしまう。
 戦後になって再評価され、この映画はシュトロハイムの代表作の一つになるが、完全版の復元はならず、現在ソフト化されているデジタルリマスター版は、失われたシーンを残されていたスティルから再現された239分(=3時間59分)のバージョンになっている。


 本作の公開直後の1927年4月に公開されたアベル・ガンス監督のフランス映画、『ナポレオン』もまた、公開当時大失敗に終わった超大作映画である。
 タイトル通り、フランスの英雄ナポレオンを描いた作品で、実はウーファ社がパルファメット協定の関係でMGMを通して出資し、ポマーが制作に携わっている作品なのだが、これまた『グリード』と同じく上映時間がとんでもない。 オリジナル完全版は、なんと9時間22分(!!)もある。
 当然、その分予算も莫大な費用が費やされているのだが、いかんせんあまりにも長過ぎるため、スタジオ側はやはり短縮を要求。 最終的に、4時間10分のバージョンが劇場公開される事になった。
 パリのオペラ座で華々しくプレミア上映が行われているが、本作や他の巨大映画と同様、やはり興行的大失敗は免れず、アメリカでの公開の際は2時間にまで短縮されたバージョンのみが公開される事になった。 当然、カットされたシーンのフィルムはそのほとんどが破棄された。
 ただ、やはりこの作品も後に再評価され、2000年には5時間30分のバージョンが。 2004年には、5時間32分のバージョンがそれぞれ修復され、デジタルリマスター済みでソフト化されている。


 このように、本作の公開と前後して製作され、スタジオや監督が自信を持って世に送り出したこれら巨大映画は、しかし難解な構成や観客の需要を無視した芸術家のエゴが当時の観客に理解されず、興行的失敗を招く事になった。
 当時の大作系映画では、成功した例は実はほんの一握り(注:ハリウッド映画では、1926年公開のサイレント版『ベン・ハー』が“唯一”と言って良い成功例)で、上記のように失敗した例の方が多いぐらいなのだ。
 しかし、それでも本作が総製作費600万マルクという、当時史上最大規模のビッグバジェットが投入された巨大映画として製作されたのは何故か?
 そう、この直前に、その“数少ない成功例”があったからだ。
 すなわち『ドクトル・マブゼ』と『ニーベルンゲン』である。
 この両作の大成功により、ハリウッドでは失敗していた巨大映画が、しかしドイツでは成功する事が立証されてしまった。 この成功に、製作者やスタジオが自信を深めたのは必然的な事である。 だから、もっとお金をかけてもっと大きな作品を作ろうと考えるのは、至極当然の成り行きである。
 しかし、この成り行きの過程で、芸術家たちは先に記した異例な手法の導入や、当時の芸術界の流行の転換を見通せず、観客の需要に沿わない芸術家のゴタクを並べただけの映画を作ってしまう。
 そして、これら芸術家のエゴが、当時の観客に理解されず、“巨大映画は失敗する”というジンクスに漏れる事なく、興行的失敗を招いてしまったのである。
 結局のトコロ、『ドクトル・マブゼ』は時代の象徴として。 『ニーベルンゲン』は一定以上の人気があった原作によって、観客の需要に上手く合致して成功したのであって、大作系映画だから売れたのではなかったのである。
 本作の興行的失敗は、これを裏付けていると言えるのではないだろうか?


 以上のように、本作の興行的失敗のウラには、直接/間接を問わず、様々な要素があったのだと筆者は考える。
 しかし、そうした“犯人探し”をしなくても、本作が興行的失敗に至ったのは紛れも無い事実であり、スタジオの期待を大きく裏切る作品になってしまったのは確かだ。
 しかし、それでも作ってしまった以上、スタジオとしてはこの失敗作に少しでも多く稼いでもらわなくてはならない。
 1マルクでも多く、出資した費用を回収しなければならない。
 そこでウーファ社は、本作の海外配給に際して、少しでも多くの収益を上げられるように一計を案じる。
 映画の再編集を決定したのである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


白梨花(?)。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 この方が神殿のマスター、桔梗さん。 この方に話しかけると、指定されたダンジョンを順次攻略していくクエストがスタートする。 ダンジョンの位置はマーカーで示されるので、前作のように「ダンジョンドコだよ!?」というコトは一切無い。 本連載でも、ダンジョンの場所や内部構造などは(ネタバレにもなるので)割愛する。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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211.『メトロポリス』伝説:第4章⑤

2012年09月02日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #12-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 突然ですが、

カミナリうるせぇぇぇぇええぇぇぇえぇぇッッ!!!!(゜Д゜)

 先日在住地域に大雨&カミナリが大量投入(注:3日連続!!)されたんですが、すっげーうるさい!
 僕は夜勤仕事の関係上、昼過ぎ頃から寝るんですが、そろそろ寝ようかなぁ~?と思った矢先に風が強くなり始め、明らかに夕立の前兆の様相を呈し始めたのです。
 これは来るなぁ~と直感しましたが、寝ないと仕事に差し支えるので気にせず就寝。
 トコロが、寝入った直後に大雨&カミナリ来襲。 しかも、カミナリがウチの真上で鳴ってるっぽい。
 おかげで叩き起こされ、そのまま雨雲が過ぎ去るまでの1時間ほど全く眠れず。
 もちろん、その日の仕事では寝不足状態。 ってゆーか危うくチコクするトコロだったよ。
 別にね、大雨もカミナリの光も構わんのですよ。 これでも僕は男の子なので、それぐらいは平気なんです。
 しかし、カミナリの音だけはダメ。 とにかくやかましいので全く眠れん。
 しかも、僕は寝ている時は特に音に敏感……ってゆーかむしろ過敏と言って良い状態になる(注:じゃないと目覚ましの音で起きられない)ので、遠くでゴロゴロ鳴ってるだけで目が覚めてしまう事もしばしば。
 カミナリだとPCや家電も心配になるし、何より寝不足で仕事に支障が出るのが敵わんです。
 マジでウザいのでさっさとどっか行ってくれ。
 そしてウザいと言えば野田のヤロー。 ホントいい加減にしてほしいです。 キミはもう負けたんだよ。 いい加減自覚しなさい。 領土問題もキミには任せたくないよ。
 さっさと表舞台から降りなさいこの低能!



<今週の特集>

 さて、何事もなかったかのように今週の特集コーナーです。
 映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第12回。
 メイキングはようやく今回がラストです。


・音楽

 当然の事ながら、サイレント時代の映画にとって音楽は、それほど重要なモノではなかった。 何故なら、劇場の大観衆に聞こえる十分な音量で音声を再生する技術がなかったからだ。
 蓄音機とレコードは、既に19世紀に誕生しており、本作が公開された20世紀初頭は、一般家庭にも普及していった時代である。 これと時を同じくして、真空管が発明された事によりラジオが発明され、1920年にはアメリカのピッツバーグで世界初のラジオ放送がスタートしている。(注:この年に行われた大統領選の開票速報に合わせて開局されたそうだ)
 ラジオは当時の大衆に新しい娯楽として受け入れられ、ラジオからは毎日ニュースと音楽が流れ、ジャズエイジと呼ばれる狂乱の1920年代のアメリカ大衆文化の中心的存在になっていった。
 しかし、当時のスピーカーは極めて質が悪く、ちょっとでも音量を上げ過ぎるとすぐに音割れしてしまい、キレイな音で聴くためには、ある程度以下まで音量を下げる必要があった。 これは、レコードを再生する蓄音機でも、同じだった。
 録音技術はあっても、これを劇場に集まった観衆に聞こえる音量で再生する技術がまだ未熟だったため、映画に音楽や音声を合わせる事が出来なかったのだ。
 加えて、音声を映像と同期させる技術もなかった。
 例えば、レコードに音声を録音し、映画と一緒に再生させたとしても、タイミングを間違えると映像との同期がズレてしまい、音声の意味が失われてしまう。
 しかも、レコードは片面で最大30分~40分程度しか録音出来ないため、本作のように上映時間が2時間を超えるような映画では、最低2台の蓄音機と4枚のレコードを用意し、映像に合わせて蓄音機を切り替えたりレコードを入れ替えたりしなければならない。
 コストなどの問題もあり、映画に音が付くようになるには、20年代末まで待たなければならなかった。
 こうした実状もあり、当時の映画では音声はもちろん、音楽も重要視されていなかったのだが、当時の映画館では、しばしばバンドによる生演奏という形で、音楽付きで映画が上映される事も少なくなかった。
 もちろん、これも人件費の問題や、やはり長時間映画の場合は演奏者が疲れてしまって1日に何度も上映出来ないため、こうした生演奏付きで上映される映画作品は、数が限られていた。(注:短編の場合は、ピアニストによるピアノソロの“伴奏”が利用される事が多かった。 コストと採算性の最大の妥協点が、このピアノソロだった)
 しかし、この状況を一変させた映画が公開された。
 ラングの24年公開の作品、『ニーベルンゲン』二部作である。
 この作品では、“プレミア上映に限り”ではあったが、フルオーケストラによる生演奏付きで上映され、観客は映像とシンクロする音楽の迫力に圧倒された。 映画にとって、音楽がいかに重要であるかを知らしめたのは、間違いなく『ニーベルンゲン』二部作のプレミア上映である。
 そして、この壮大な叙事詩に見合う壮大なスケールのフルオーケストラスコアを手がけたのが、本作の音楽も手がける事になるゴットフリート・フッペルツである。
 フッペルツは、『ニーベルンゲン』二部作という高い実績によってラングの信頼を得て、本作でもスコアを任される事になった。
 フッペルツがいつ頃から本作の制作に携わっていたのかは、やはり資料がないので定かではない。 が、決してポス・プロだけの参加、というワケではなかったようだ。
 現在の映画制作では、音楽を手がけるコンポーザーは、映画がクランクアップした後、すなわちポス・プロが始まってからようやく監督やプロデューサーと合流する事が多い。 実際の映像がないと、盛り上げるところや登場人物の感情などが掴み難いため、作曲したくても出来ないからだ。
 もちろん、現在でも早い時にはプリ・プロ段階から制作に参加するコンポーザーがいないワケではないが、フッペルツの場合は、少なくとも本編撮影中には本作の音楽を手がける事が決まっており、撮影現場にも何度か足を運んでいたようだ。
 実際、プロダクション・フォトの中には、撮影を見学するフッペルツの姿を写した写真が何枚か残っている。
 またこれを裏付けるように、フッペルツは本編撮影中に既に、作曲に入っていたという記録も残っている。 恐らく、既に撮影/編集済みのシーンを観て、シーン単位での作曲を始めていたのだろう。
 実際、本作に採用された楽曲は、大きく分けて以下の17曲に分ける事が出来る。

01:メインタイトル
 オープニング/バベルの塔の伝説
02:労働者のテーマ
 シフトチェンジ/フレーダーセンの社長室
03:ワルツ
 永遠の園
04:愛のテーマ
 マリアの登場シーン
05:マリアのテーマ
 マリアの登場シーン
06:フレーダーのテーマ
 マリアの登場シーン
07:機械
 M機械
08:モロクのテーマ
 人喰いモロク
09:フレーダーセンのテーマ
 フレーダーセンの登場シーン
10:ロートヴァングのテーマ
 ロートヴァングの登場シーン
11:人造人間のテーマ
 人造人間の登場シーン
12:バベルの塔のテーマ
 バベルの塔の伝説
13:フォックストロット
 ヨシワラ
(注:フォックストロットは社交ダンスの一種。 クイックステップ、クイックリズムダンス、ツーステップなど、時と場合により呼び方が変わる事がある)
14:怒りの日
 七つの大罪/女神バベル/フレーダーの悪夢
(注:引用。 原題は“Dies irae”。 元々は、黙示録などのキリスト教における終末思想の一つで、13世紀に修道士だったセラノのトーマスによって作詞、作曲されたミサ歌曲。 モーツァルトやヴェルディ作曲によるモノもあるが、本作のそれはセラノのトーマスによるモノが原曲)
15:ラ・マルセイエーズ
 暴動前の地下労働者街の群集シーン
(注:これも引用。 1792年のフランス革命の最中、工兵大尉だったルージュ・ド・リールが出征する兵士を鼓舞するために一晩で作曲したと言われている。 フランス革命を象徴する革命歌)
16:暴動のテーマ
 暴動シーン
17:格言のテーマ
 エンディング

 フッペルツは、これらの楽曲をシーン単位で作曲し、実際に曲を合わせるシーンのカット割りやシーン構成に合わせてアレンジ、すなわち現在でいうトコロの“ミュージカル・アレンジ”をしている。
 現在でも、同様の手法は極一般的に行われている手法で、メインテーマを最初に作り、シーンに合わせて、例えばアクションシーンなら激しく、ラブシーンなら繊細に、泣けるシーンなら物悲しく、笑えるシーンなら陽気に、シーンのイメージに合わせてアレンジし、BGMにする手法である。
 2010年版リリース後の2011年には、本作のサウンドトラックがCD化されており、これには合計で32曲が収録されているが、いずれの楽曲も上記の17曲の内のいずれかのアレンジバージョンである。


 また、フッペルツの書いた総譜(注:オーケストラ演奏用の楽譜で、全ての楽器のパートが全部記された楽譜の事。 指揮者が使うのがコレ。 ちなみに、本作の総譜の表紙には“METROPOLIS Op.29”と記されており、フッペルツの作品ナンバー29番である事が分かる。 フッペルツは、作曲した全てのスコアに通番を付けていた。 総譜の原本は現在、ベルリンのシネマティーク財団が所蔵している)には、実際に演奏を指揮する指揮者のために、ちょっとした工夫がされていた。
 楽譜の所々に、指揮者への指示が書き込まれていたのだ。
 クラシックなどの楽譜にも、こうした作曲者の注意書きや指示が書き込まれている事は珍しい事ではないが、フッペルツのスコアには、実に1029箇所(!?)にこの指示が書き込まれていた。
 これは、実はシーンの頭や中間字幕の位置を示すモノで、映像と音楽をシンクロさせるためのモノであった。 フッペルツは、映像と音楽を完全に同期させる作曲を行っていたのである。
 またこの指示が、後の復元版の編集にとって大きな意味を持つ事になるのだが、詳細は次章にて後述とさせて頂く。
 ともかく、フッペルツの壮大なオーケストラによって、本作の映像がより迫力を増したのは確かだ。 それは、実際にフッペルツのスコアが採用された復元版を観れば、明らかである。
 フッペルツの音楽は音声として、効果音として、そしてもちろんBGMとして、本作の映像を上手く補っていると言え、映画における音楽の重要性を示した重要な存在であったと言えるだろう。


 こうして、編集と音入れが行われた本作は、1926年10月末に完成した。 後は、劇場公開の日を待つだけであった。


4.ロードショウ

 1926年11月13日、ベルリンの映画検閲局にて、本作は検閲を通過した。 映画の公開に、正式にゴーサインが出されたのだ。
 これを受け、ウーファ社は本作の劇場公開日を年明け早々の1月11日に決定。 そしてその前日の1月10日には、ベルリンにあるウーファ社の直営大劇場、ウーファ・パラスト・アム・ツォー(注:本来は映画館ではなく、演劇やオペラを上演する劇場)にて、プレミア上映を行うと発表した。
 このプレミア上映には、映画界のみならず、政財界、各国大使、作家、芸術家など、ドイツ国内の当時の有名人ばかりが実に2500人(!!)も招待され、ラングやフォン・ハルボウを始めとした主要スタッフ、主要キャストが舞台挨拶を行い、フッペルツ自身がタクトを振るフルオーケストラの生演奏付きで映画を上映するという、大変豪華なモノであった。
 ちなみにこのプレミア上映の会場では、絹張りの特別仕様の装丁が施され、ラングとフォン・ハルボウの直筆サインが入れられたシリアルナンバー入りの小説版『メトロポリス』が100部限定で発行され、招待客に配られたそうだ。
 それはともかく、着飾った2500人もの紳士淑女を前に、映画『メトロポリス』のプレミア上映はいよいよ始まりの時を迎えた。


・プレミア上映

 1927年1月10日のプレミア上映で上映された本作のフィルムは、全9巻、合計4189mのオリジナル版である。
 記録によると、これを当時の一般的なフレームレートであったfps16で再生し、上映時間は実に228分、すなわち3時間48分(!?)もあったそうだ。(注:Wikipedia日本語版などのウェブサイトによると、オリジナル版が“210分”になっている事があるが、これは誤り。 fps17ぐらいで再生するとそれぐらいになるが、当時はfps16、20、24が一般的で、fps17という中途ハンパなフレームレートで上映したとは考え難い。 また、現在の基準フレームレートであるfps24で再生すると、オリジナル版の上映時間は152分となる)
 そのため、プレミア上映では2部構成で上映(注:恐らくZwischenspielの終わり、フィルムリール6巻まででインターミッションを挟んだのではないかと思われる。 映画全体の半分を過ぎるのが、丁度この辺りなので)されたらしい。
 インターミッションになると、会場に集まった観客からは拍手喝采が起こり、ラングら主要スタッフとキャストは、早くもステージに上がって観客の拍手に応えたという。
 後半の上映でも、観客の反応は上々で、上映終了後のスタンディングオベーションは、数分の間止む事がなかった。
 プレミア上映は、このように大成功の内に幕を閉じた。
 その翌日、一般公開の公開初日には、新聞各社はこの映画の批評を朝刊に掲載したが、その多くがこの映画を絶賛するモノだった。
 この日、ドイツ国内のメディアだけでも、実に30社近くがこの映画の公開初日を取り上げている。
 これに興味を魅かれたのか、それとも以前からアナウンスのあったラングの監督最新作を心待ちにしていたのか、一般公開初日を迎えた劇場には、人々が長蛇の列を成して詰め掛けた。
 本作の一般公開は、プレミア上映が行われたパラスト劇場ではなく、ウーファ社の直営小劇場、ウーファ・パビリオン・アム・ノレンドルフプラッツで単館上映された。
 客席数600席の小さな劇場ではあったが、映画館の正面には、映画に登場する地下労働者街のゴングのレプリカが掲げられ、映画館の入り口には、ヘルムの顔がデザインされた大判のポスター(注:完全復元版のソフト版のジャケットに使用されているイラスト。 サイズは211×96cmという特大サイズだった。 イラストを手がけたのは、ハインツ・シュルツ=ノイダムという有名なイラストレーター。 多数の映画ポスターを手がけ、後にアメリカに渡ってハリウッドでも活躍する。 1935年版の『アンナ・カレーニナ』もこの人の仕事。 1899年~1969年。 ちなみにこのポスター、95年の日本未公開のマイナーなコンピュータ・ハッカーをモティーフにした映画『ザ・サイバーネット』という作品で、当時まだ無名の新人だったアンジェリーナ・ジョリーが演じたヒロイン、ケイトの寝室の装飾として何度かスクリーンに映し出される。 作品の内容的には舞台がニューヨークという点ぐらいにしか本作との接点は見出せないが、何かしらのリスペクトではないかと思う)が貼られ、劇場を訪れた観客を出迎えた。
 ……が、このポスターが出迎えた観客は、日を追う毎に減り続けていく事になった。


・一般公開

 本作の一般公開は、しかしプレミア上映の大成功がウソのように、惨憺たる結果だった。
 日を追う毎に観客の数は減り続け、ノレンドルフプラッツ劇場の600席の客席には、空席ばかりが目立つ日が続いた。
 27年2月、アメリカやイギリスに先立って、本作の最初の海外配給先であったオーストリアのウィーンでの一般公開が開始されるも、状況は大差なかった。
 このオーストリア配給では、ドイツ以外では唯一オリジナル版が上映されたが、ラングの生まれ故郷での記念すべき凱旋公開であったにも関わらず、映画館の観客動員数は低迷を続けた。
 このオーストリア配給と前後して、ノレンドルフプラッツ劇場での本作の公開は、観客動員数の低迷を理由に打ち切りになった。
 結局、ノレンドルフプラッツ劇場に足を運んだ観客は、延べ1万5000人。 興行収益は、たったの7万5000マルクしかなかった。
 27年3月には、アメリカのニューヨークとイギリスのロンドン、そしてフィンランドで。 4月に入って、フランスのパリとギリシャ、スウェーデンでも公開されているが、結果はやはりどこの国でも似たり寄ったりだった。
 各国のメディアは、比較的好評の批評を掲載していたが、それが興行収益に直結する事はなかった。
 郵便パイロットだったアメリカ人、チャールズ・リンドバーグがおよそ3日をかけて史上初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功した前後の5月に開催されたウーファ社の総会では、本作が槍玉に挙げられ、本作の膨大な製作費がウーファ社の財政危機を招いたと追求された。
 さらにこれと前後して、比較的映画に好意的だったメディアも、本作に対する批判を始めるようになる。
 最も有名な批判は、もちろん本作の海外配給版を手がけたチャニング・ポロック(注:詳細は後述)によるモノだが、中には世界的な超有名人も、本作を辛らつに批判している。
 その人物とは、ジュール・ヴェルヌと並ぶSFの父と評されるイギリス人作家、H・G・ウェルズ。
 ウェルズは、27年4月17日付けのニューヨークタイムス誌に本作の批評を掲載し、その中で本作を、「思いつく限りで最も下らない映画」と、極めて辛らつに酷評している。
 27年8月、本作はドイツ国内で再リリースされている。 1月から4月までの最初のリリースでの興行収益低迷を挽回しようとしたモノだったが、やはり客足は映画館から遠のいたままだった。
 これ以降、アルゼンチン(27年11月)、スペイン(28年1月)、オーストラリア(28年4月)、ポルトガル(28年4月)でもそれぞれ配給されているが、元々当時は映画興行があまり盛んではなかった国ばかりだったためか、期待したほどの収益は上げられなかった。
 最終的に、1929年4月の日本配給を以って、本作の海外配給は打ち切りになった。
 ちなみに、当時の日本には映画産業が無かったワケではないが、洋画の配給では中間字幕の差し替えがあまり一般的ではなかったらしく、映画上映では中間字幕の翻訳や場面説明を行う口上師が舞台袖にいて、観客はこの口上師の説明を聴きながら映画を観たのだそうだ。
 それはともかく、海外配給分を含む本作の最終的な興行収益は、残念ながら資料が残っていないので定かではない。
 しかし、総製作費600万マルクという、史上最大規模の製作費を費やした本作の興行収益としては、あまりに微々たるモノであった事だけは確かだ。
 フリッツ・ラング監督最新作、映画『メトロポリス』は、完全な失敗作に終わったのである。
 この失敗の責任を取らされる形で、ラングは長年苦楽を共にしたウーファ社を退社、独立し、自身の映画製作スタジオであるフリッツ・ラング・フィルムを設立する事になった。(注:ただし、同社は映画の製作のみを手がけ、配給に関してはラングはウーファ社に任せ、実は製作費の提供も受けている。 そのため、ラングの退社も飽くまでもウーファ社の株主を納得させるための形式上だけのモノだったのではないかと思われる)
 そして、映画『メトロポリス』は、ドイツの国内外を問わず、ハリウッドを中心にした娯楽性を重視した多くの映画の中に埋もれ、大衆の興味を失いやがて、忘れられていくのであった。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


天空に浮かぶ巫女御殿。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 居並ぶ巫女さんたちに出迎えられ、この神殿にいるマスターさんにお話を伺うと、順次ダンジョンを攻略していくクエストがスタートする。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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210.『メトロポリス』伝説:第4章④

2012年08月26日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #11-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週はシフトの交代があって時間が無いので、とっとといきます。
 ……あ、『Refrain』のアルティメット版は、予定通り昨日アップしました。 ぜひ一度ご覧下され~♪



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第11回です。
 メイキングがなかなか終わりませんが、今週分でもやっぱり終わりません。 まだまだ続くわよん♪


・アニメーション手法

 本作のオープニングは、巨大都市メトロポリスが夜明けを迎えるアニメーションを使ったメインタイトルで幕を開ける。
 オープニングクレジット(注:当時は、映画のオープニングで主要キャストと主要スタッフの名前を記したクレジットを入れるのが一般的で、現在のように長々とエンドクレジットを観せる事もなく、“THE END”で終わるのがフツーだった。 現在のように、長々とエンドクレジットを観せるようになったのは戦後。 それも、1970年代以降の事)がスクロールし始めるのと同時に、フッペルツの音楽がスゥーっとフェードイン。
 そして、画面に交錯する光が幾何学模様を描いたかと思った次の瞬間、光の中にメインタイトルが浮かび上がる!

“METROPOLIS”!!

 このオープニングだけで、筆者は一発でノックアウトされてしまい、本作にドップリとハマってしまったワケだが、このオープニングは、ラングが訪米した時にハリウッドのスタジオで学んだ技法を利用して撮影されたのだそうだ。
 カンタンに言えば、現在のいわゆるセル・アニメーションではなく、一枚絵を複数描いて、これを多重露光して撮影したらしい。
 絵画はケッテルフントによるモノで、カメラはリッタウが手がけたが、多重露光の同期を合わせるためにモーター駆動に改造したカメラが使用された。
 バベルの塔の伝説のシーンに使われているタイポグラフは、定かではないが、恐らくこのオープニングと同じ技法で撮影されたと思われる。 当時は、セル・アニメーションという技法自体があまり一般的に知られていなかった時代なので。
 ウォルト・ディズニーがミッキーマウスのアニメを作ったのは、本作公開後の1928年の事である。


 映画の前半部に登場する、フレーダーセンの社長室から見える街の風景は、全て静止画を撮影しただけのモノで、アニメーション技法は使われていない。
 絵画は全て、ケッテルフントによるモノ。
 カメラが定かではないが、本作のアニメーションとミニチュア撮影、多重露光などの特殊効果の撮影は、ほとんどをリッタウが手がけているので、これも恐らくリッタウだろう。
 映画の後半に映し出されるフレーダーの悪夢のシーンは、ほとんどが多重露光によるモノだが、画面を波打つような線が縦方向に流れるショットは、ルットマンによる『光の遊戯』を応用したアニメーションである。 手がけたのも、恐らくルットマン本人だろう。
 資料がないので、この辺りは正直自信ないです。


 しかし、明確に資料が残っているアニメーションショットもある。
 それが、映画の後半に映し出される夜のバベルの新塔である。
 ミニチュア撮影されたネオンサイン煌くメトロポリスの夜景は、多重露光によってネオンサインが再現されているが、バベルの新塔が映し出されるショットは、ケッテルフントによる完全なアニメーションである。
 ケッテルフントは、まず60×40cmの紙に普通にこのショットの絵を描き、これと全く同じ絵をもう一枚用意した。 そして、1枚を明るい色調で描き、もう一枚を暗い色調で彩色。 そして、ライトが当たって明るくなる部分には明るい色調の方を使い、暗くなる部分を塗りつぶす。
 反対に、光が消えている部分には暗い色調の方を使い、ネオンサインで明るくなる部分を明るく塗る。
 これをフレーム単位で繰り返し、あのアニメーションショットを撮ったのだそうだ。
 約10秒のショットで、フレームレートはfps25。 単純計算で、25×10×2の500回も、ケッテルフントは絵を塗っては撮り、撮っては塗りを繰り返した事になる。
 しかも、よく観ると高架を車や列車が走っている。 これはさすがに手描きではなく、描いたモノを切り抜いて貼り付けたか、あるいは多重露光したのだろうが、いずれにしても気の遠くなるような作業を繰り返したのは確かである。


 本作のアニメーション技法は、後のセル・アニメーションの登場によって“古い技術”になってしまうが、それによって完成された映像は今観ても鮮烈で、手間隙のかかった職人芸が生きている映像と言える。
 復元された現在のデジタルリマスター版によって、その鮮烈さは損なわれることなく、逆に一層の輝きを放っているようにも観えるほどだ。
 現在の日本のアニメも、コスト削減ばかりしていないで、本作のような“職人魂”を観せてほしいモノである。


・シュフタン・プロセス

 本作の特殊効果の中でも最も特別な手法を用いた特殊効果と言えば、このシュフタン・プロセスをおいて他にはない。
 1925年4月、本作のクランクインに先立って、ウーファ社は映画の撮影技法に関する特許を取得している。 それは、本作の特殊効果監修を手がけたオイゲン・シュフタンが考案し、ミニチュアとライブアクションを鏡を使って合成するという画期的な撮影技法であった。
 この技法は、考案者の名前を取って“シュフタン・プロセス”(注:もしくは“シュフタン・システム”、あるいは“シュフタン技法”)と命名されたが、考案者のシュフタン本人曰く、「静止画の遠近法的な配置を鏡を使って再現する技法。」である。
 この技法の手順はこうだ。
 まず、カメラを定位置に固定し、カメラの前にナナメ45度の角度に合わせた鏡を垂直に立てる。 当然、カメラのレンズに映るのは、この鏡である。
 次に、この鏡に大写しになる位置に、ミニチュアのセットを置く。 すなわち、カメラは鏡越しにミニチュアのセットを撮っているワケだ。
 しかし、この鏡には細工がされており、鏡の一部の裏面が削り取られ、ただのガラスになっている。 この部分には、ミニチュアのセットが映る事なく、透過されて鏡の向こう側が見えている状態になる。
 で、この透過されている部分に入り込むように、鏡の裏側で遠近法を使って、ライブアクションで演技するキャスト、あるいはエキストラを配置する。
 こうすると、画面上はあたかもミニチュアのセットの上でキャストが演技しているように見えるのである。
 この技法は、フルスケールセットを建てるコストを削減するだけでなく、たとえフルスケールセットを建てる事が出来ても、スケールが大き過ぎて撮影が難しい、あるいは非現実的な映像を作り出すのにも役立ち、ラングはただ単にコスト削減のためだけでなく、芸術的な観点から、本作ではこの技法を多用した。
 映画公開後のウーファ社の公式発表によると、シュフタンは助手のエルンスト・クンストマンと共にこの技法を使って、

1:地下労働者街
 上層階の部分がミニチュアセットで作られ、合成されている。
2:御曹司クラブの競技場
 壁の上の部分。 高さ10mまではフルスケールセットが組まれたが、それより上はミニチュアセットで、壁の上に立っている彫刻は全高14mという設定だが、実際には僅か20cmのミニチュア。
3:大聖堂の内部
 内装の上の方がミニチュア。
4:ヨシワラの内部
 資料がないため詳細は不明。 天井の辺りかな?
5:M機械と人喰いモロク
 フレーダーが、M機械から人喰いモロクを連想するショット。 モロクが姿を現したショットで、番人と階段、それを上る労働者以外はミニチュア。
6:機械室
 画面上の方でクルクル回っているのがミニチュア。 ただし、ミニチュアといってもほとんどフルスケールのかなり巨大なモノ。
7:バベルの塔の伝説
 資料がないので詳細不明。 これも間違いではないかと思われる。 塔の考案者が、光臨の中にバベルの塔の幻影を見るショットかとも思ったが、あれは多重露光で間違いない。 これ以外は、オールミニチュアセット、多重露光、あるいはフルスケールセット。 奴隷たちが運んでいる巨大な石材もフルスケールセットだが、実は木のパネルを組み合わせたハリボテ。
8:ニュース・スタンド(注:影なき男が新聞を読みながら張り込みしているシーン)
 資料がないため詳細不明。 これも、たぶん間違いだと思う。 全てフルスケールセットのハズ。
9:ロートヴァングの家
 資料がないため詳細不明。 これも間違いの可能性有り。 遠景は書き割りのハズ。
10:ヘルの記念碑
 台座の部分はフルスケールセットだが、その上の頭像はミニチュア。 台座は、切り替えしの俯瞰ショットの足場として“流用”された。
11:街の内部
 フレーダーがバベルの新塔へ向かうシーンと、労働者たちがマリアを追って駆け抜けるロングショット。 労働者たち以外は全てミニチュア。

 などのショットを撮影した。
 これらの合成ショットは非常に完成度が高く、筆者は初めて観た時、どうやって撮影されたのか全く分からなかったほどだ。
 説明されれば、「なるほどな」と納得出来るが、一回観ただけではきっと分からないと思う。 それほど、この技法の完成度は極めて高いレベルにあった。
 もちろん、カメラを一切動かす事が出来ないというデメリット(注:動かすと、画面に映っているのが鏡である事がバレてしまうため)もあるが、建築設計士であったシュフタンと画家としての経歴を持つラングらしい技法と言える。
 本作の公開後、カール・グルーネが自身で監督した作品、『嫉妬』(25年)の中で、シュフタン・プロセスと同様の技法を既に使っており、自分のプライオリティー(注:“優先権”の意)を主張したが、シュフタンは本作の公開に先立ち、特許取得前に制作に参加したルートヴィヒ・ベルガー監督作品の『ワルツの夢』(25年)で既に試験的にこの技法を導入しており、グルーネの主張は退けられたそうだ。
 後に、クロマキー合成(注:いわゆるブルーバック撮影の事)が登場し、この技法は姿を消す事になるが、映画を観れば、これがいかに当時としては画期的な技法だったのかがお分かり頂けると思う。


・多重露光

 さて、映画の特殊効果としてはかなり最近、1980年代まで特殊効果の主力として多用されてきた技法が、1920年代制作の本作でも使われている。 それが、この多重露光である。
 映画黎明期のいわゆるトリック撮影とは、映画における編集を応用した特殊効果技術であり、映像を合成しているワケではない。
 例えば、人物が画面から消えるようなショットの場合、人物が映っている映像と映っていない映像を、“フィルムを切って繋げる”という編集技術を使って繋ぎ、あたかも画面から人物が消えたように見せる技法である。
 また、既に撮影したフィルムに別のフィルムを重ねて複製する事で、ライブアクションにミニチュアを合成したり、薬品でフィルムを変色させて画面をフェードアウト(あるいはフェードイン)させたりする技術も当時既にあったが、多重露光はこれらとも異なり、一つのフィルムに二重三重に被写体を重ねる特殊効果技法である。
 先ほどのライブアクションとミニチュアを合成するショットで説明すると、手順はこうだ。
 まず、ライブアクションを普通に撮影する。 当然、フィルムにはライブアクションのセットやキャストが感光される。
 次に、このフィルムを“現像せずに”、巻き戻す。
 そして、改めてミニチュアだけを撮影する。
 こうする事で、フィルムにはライブアクションの映像に重ねてミニチュアの映像が感光される。
 これを繰り返す事で、ライブアクションでは撮影不可能な被写体を映像に合成出来るというワケだ。
 ただし、この技法には大きなデメリットがある。
 基本的に、やり直しが効かない点である。
 例えば、ライブアクションの撮影が成功しても、ミニチュアを撮影する際に何かミスがあると、そのフィルムは使えなくなってしまうので、ライブアクションの撮影からやり直さなければならない。
 しかも、たとえミニチュアの撮影が上手くいっても、狙った通りに合成出来ているかどうかは、フィルムを現像するまで分からない。 何重にも重ねる多重露光の場合、全てを撮り終え、フィルムを現像し、試写してみるまで、“成功”かどうかすら、分からないのである。
 試写の結果、もしも何かしらのミスが見つかったら、また最初からやり直しになってしまうのだ。
 もうひとつのデメリットとして、露光を重ねると画質が落ちてぼんやりとした映像になってしまうというデメリットもある。
 こうしたデメリットから、多重露光は現在のクロマキー合成やCGIに取って代わられた技法だが、CGIが登場する1980年代までは、映画の特殊効果の主力テクニックとして様々な映画で多用された。
 本作でもそれは同じで、特にCGIどころかクロマキー合成すらなかった20年代当時は、映画の特殊効果の中でも“最主力”の技法であった。
 本作では、主にバベルの塔の伝説のシーン(注:何千人もの奴隷たちが列を成して歩くショットに利用。 数百人から1000人程度のエキストラを、カメラアングルを変えて何度も撮影して多重露光させた)や、フレーダーの悪夢に出てくる無数の眼のショット(注:サイコアートのようなアレ。 人物や構図を変えて多重露光させた)などで使われているが、この技法が最も活躍したのは、何と言っても人造人間がニセ・マリアに“変身”するショットだろう。
 手順はこうだ。
 まず、ヘルムが人造人間の装具を身に付けてイスに座り、これをフツーに撮影する。
 次に、このイスに座っている人造人間のシルエットの紙型(注:いわゆるマスク処理)を作り、この周りに羊皮紙で作った輪っかを、エレベーターの要領で上下させるミニチュアショットを撮影する。
 この時、カメラの前には脂を塗ったガラスを置き、ワザと映像がぼんやりするようにしておく。 こうする事で、羊皮紙が光を放つ輪のように見えるのだ。
 そして、このガラスを外し、今度は電気スパークを撮影する。
 最後に、椅子に座っているヘルム=ニセ・マリアを撮影すると、映画でも一際印象的なあの“変身”シーンが完成する。
 カメラを手がけたリッタウは、助手のヒューゴー・O・シュルツと共に、このショットを実に30回(!)も多重露光させて完成させた。
 ラングは、引退後の1960年代、TVのインタビューに答えて、「リッタウこそ、この映画最大の功労者。 非常に良く出来ていたため、今でも撮影方法を聞かれる。」と語っている。
 実際、筆者も初めて観た時は、“1927年公開”を疑ったほど極めて完成度の高いシーンだと思った。 本作よりも後年の1960年代から70年代にかけて制作されたハリウッド映画でも、多重露光でこのレベルを達成している作品は数えるぐらいしかないと思われる。
 ラングがこう言いたくなるのももっともである。


 本作では、当時の最新技術を駆使したこれらの特殊効果が多数用いられ、リッタウが語った通り、映画に“躍動感”を与えているのは疑いようもない。
 しかしそのウラには、リッタウやシュフタン、ケッテルフントらの天才的なひらめきによるアイディアがあり、スタッフの血のにじむような努力と、根気と、忍耐と、手間隙が費やされているのである。


・編集作業

 現在の映画制作では、編集作業は専任の編集担当が行うのが普通である。
 しかしこれは、技術的、及び知識的な問題ではなく、もっぱら映画制作における時間的制約のためである。
 何故なら、映画の編集作業にはとても時間がかかるからだ。
 映画の編集作業というのは、本編撮影が終了した後のポス・プロ作業だと思われがちだが、実はそうではない。
 ポス・プロ作業である事に変わりはないし、撮影終了後にも編集作業は行われるが、編集の仕事が始まるのはクランクインの翌日、すなわち本編撮影の2日目からである。
 前日に撮影されたフィルムは、夜中の内に現像作業が行われ、翌朝デイリー(注:撮影/現像しただけの未編集のフィルムの事。 “ラッシュ”ともいう)で試写を行い、監督やプロデューサーが、編集担当に編集方針を指示する。
 監督やプロデューサーは、そのままその日の撮影現場に向かい、編集担当は指示された方針に従って編集室で編集作業。
 その日の夜、監督やプロデューサーは編集室に立ち寄り、その日の編集成果を試写し、OK/NGを指示する。
 というのが、現在の映画制作における編集作業の基本的な流れである。
 すなわち、映画の編集とは、撮影が終わって全ての映像素材が集まってから始められるのではなく、本編撮影中も毎日行われるモノなのである。
 しかし、この“編集”という役職が映画の制作スタッフに加えられたのは、実は1930年代になってからの事である。
 理由は定かではないが、編集を専任のスタッフが手がけるようになったのは、トーキーが一般的になってからの事なのだ。
 では、それより以前の映画制作では、編集は誰が行っていたのだろうか?
 実は、監督やカメラマンである。
 1920年代までは、編集は監督やカメラマンが兼任するのが一般的で、専任のスタッフを置く事の方が希であった。(注:全くなかったワケではないらしい)
 これはラングにしても同じで、ラングは自身の監督作品では常に自分で編集作業を行っており、編集作業を他人に任せるようになったのは、自身初のトーキー作品となった『M』(31年)でパウル・ファルケンベルクに編集を任せたのが初であった。
 先にも記したように、本作はパルファメット協定によって製作中から海外配給が決まっており、海外配給用にネガの量を増やす必要があり、2台同時カメラや大量のリテイクを行い、実に62万mものネガ・フィルムと、ネガからコピーされた130万mものポジ・フィルムがあり、これらは編集作業によって切り刻まれ、最終的に176枚の中間字幕を含めた4189mのオリジナル版(注:撮影された62万mのネガ・フィルムの148分の1に相当する長さ。 約0.7%分)が編集された。
 この時、編集によって捨てられた残りのネガ・フィルムやポジ・フィルムは、海外配給用に使用されたのだが、それについてはひとまずコッチに置いといて……。
 ココでは、ドイツ国内で公開されたオリジナル版の編集について解説していく。


・三部構成

 本作の編集において、ラングは当時としてはあまり一般的ではなかった構成で編集している。 それが、“三部構成”である。
 映画『スターウォーズ』シリーズや『インディ・ジョーンズ』シリーズ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズや『トランスフォーマー』シリーズを例に持ち出すまでもなく、現在の映画では三部作、あるいは三部構成という考え方は至極一般的で、上記のように様々な映画作品で採用されている構成手法である。
 しかし、この構成が一般的になったのは近代になってから。 それも、実は第2次世界大戦後の事である。 それまでは、映画に限らず小説や舞台、音楽でも、三部構成という考え方はあまり一般的ではなく、そのため本作における三部構成もまた、極めて珍しいモノであった。
 そもそも、作品の“続編”という考え方、それ自体が、一般的になったのが実は20世紀に入ってからの事である。
 16世紀後半から17世紀初頭にかけて活躍し、今もなおその著作を基にした舞台が極めて高い人気と評価を得ている英文学の代名詞的劇作家、ウィリアム・シェークスピア。
 数十作を数えるシェークスピア劇は、歴史劇である『ヘンリー』シリーズ(注:リチャードⅡ、Ⅲ、ジョン王を含むイングランド王家の歴史を描いた時代劇。 全10作)を除き、その全てが1話完結の作品で、人気の高い『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』などには続編がない。 シェークスピア自身にも、続編の構想はなかったハズである。(注:悲劇だしね。 主要な登場人物がみんな死んでしまうので続けようがない)
 19世紀になって、イギリス文学を中心にコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズや、モーリス・ルブランの『アルセーヌ・ルパン』シリーズ、さらにはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』シリーズのように、シリーズ化されて“続編”が多数執筆される例が増えるが、それにしたって“2部作”がほとんどで、そうでなければ7作とか10作といった長期シリーズ化される事になり、“三部作で完結”する事はまずなかった。
 映画が大衆娯楽になった20世紀に入ると、映画でもシリーズ化された“続編”が作られる例が出てくるが、やはり“三部作で完結”という例はほとんどない。 ラングが監督した『蜘蛛』や『ドクトル・マブゼ』、『ニーベルンゲン』はいずれも2部作だし、テオドア・ロースが出演したオットー・リッベルト監督作品の『ホムンクルス』は、全6部作という長期シリーズである。
 三部構成という考え方、それ自体が、当時はあまり一般的ではなかったのだ。
 しかし、戦後になってこの状況が一変する作品が世に登場する。
 それが、J・R・R・トールキンの不朽の名作、映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の原作である『指輪物語』である。
 1954年から1955年にかけて出版されたこの小説作品は、『旅の仲間』、『二つの塔』、『王の帰還』という3巻分冊で出版され、その壮大なスケールの世界観とストーリーに多くの読者が魅了され、世界中で翻訳版が出版された結果、その発行部数は全世界で“聖書に次ぐ”とまで言われるほどの高い人気と評価を得、今もなお、多くのファンを魅了している作品である。
 この超ベストセラー小説の登場により、“三部構成”という考え方が一般にも浸透し、先に記したような“三部作映画”が多数制作、公開されるようになったのである。
 しかし、この『指輪物語』三部作のウラには、実は50年代当時の止むを得ない事情があった。
 小説『指輪物語』は、第2次世界大戦勃発直前の1937年から、大戦終結後の1949年にかけて執筆されたとされているが、実は最初から三部構成だったワケではない。
 出版された三部作も、実際には各巻で2部構成になっており、全体では6部構成で、『追補編』という短編集を含めると、全7部構成という体裁になる。
 しかも、トールキン自身は当初、3巻分冊での出版には反対していた。 トールキン自身は、この作品を全体で一つの大きな作品だと考えており、全章を収録した1冊の超分厚い本で出版する事を望んでいた。
 しかし、50年代当時は終戦直後で紙が不足していたため、出版社は1000頁を超えるような分厚い本を出版する事に難色を示し、妥協案として3巻分冊、すなわち三部構成にするようにトールキンに提案したという。
 トールキンは、しぶしぶこれに同意し、現在の三部作を構成している『旅の仲間』、『二つの塔』、『王の帰還』というサブタイトルを付けたのだそうだ。(注:ただし、第3部の『王の帰還』だけは、トールキンは物語りの結末が分かり過ぎるという理由で反対していたそうだ。 しかし、他に良いモノがなかったので、仕方なくコレで妥協したとか)
 現在でも、『指輪物語』は3巻分冊で出版されている版が一般的だが、海外ではトールキンの意図を汲み取り、『追補編』を含めた7巻分冊、あるいはオールインワンの1巻完結で出版されている版も少なくない。
 いずれにしても、小説『指輪物語』が三部作、三部構成という手法を一般的にしたのは確かで、またこれに倣って三部作映画が多数制作、公開されるようになったのも、また確かである。
 しかし、この考え方が一般的になったのは、何度も記している通り飽くまでも戦後になってから、『指輪物語』の初版が出版された“後”の事である。
 では、それより以前に制作された本作において、ラングが『Auftakt(前奏)』、『Zwischenspiel(間奏)』、『Furioso(フリオーソ)』という三部構成に編集したのはナゼか?
 これは筆者の個人的な考察だが、キリスト教における“父と子と精霊”、すなわち“三位一体”のメタファーなのではないかと考える。 実際、本作のメインテーマである“格言”も、“頭脳と手と仲介者”という三位一体を窺わせるモノであるし、フレーダーセンとロートヴァング、そして二人が愛した女性ヘルという三角関係などにも、この三位一体のモティーフが見え隠れする。(注:詳しくは第7章にて詳述)
 これを、編集上の構成として取り入れる事は、むしろ必然的な事である。
 ラングは、明らかにその意図を以って本作を三部構成に編集したモノと思われる。


 ラング作品の編集の特徴として、カット数が異常に多いという点が挙げられると、筆者は考える。
 ラング作品でも“プレ『メトロポリス』作品”である『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』はもちろん、“アフター『メトロポリス』作品”である『スピオーネ』、『月世界の女』、『M』、さらにはアメリカ亡命後のハリウッド作品でも、細かなカット割りのテンポの速い映像にラング作品の特徴があるように思う。
 映画黎明期の19世紀末から1910年頃までの映画は、そもそも“カット割り”という技法自体がなかった。 カメラは定位置に据えられ、映画はあたかも舞台演劇を客席から観ているかのような映像をスクリーンに映し出す。 これは、トリック撮影を多用した作品でも同じで、映画における編集は、飽くまでもシーンを繋ぐためだけのモノだった。
 しかし、この状況を一変させたのが、第1章でも記した映画の父、D・W・グリフィスである。 グリフィスによる“クロースアップ”や“ラストミニッツ・レスキュー”といった編集技法が発明された事で、映画はより劇的に、よりダイレクトに、役者の演技や物語りをダイナミックに描く事に成功し、演劇とは異なる“映画”という独立した芸術へと進化する。
 ラングが映画監督として名声を集めるようになった1920年代は、しかしこうした編集技法を用いながらも、カット割り自体はそれほど細かくなく、時には数分にも渡るいわゆる“長回し”を多用する作品も多かった。 同時代の映画作品、例えば『カリガリ博士』や『ノスフェラトウ』、初期のチャップリン作品などを観れば、本作がいかにカット割りの細かい、当時としては珍しい作品だったかが分かると思う。
 この傾向は戦後、1960年代まで続き、ラングのように数秒程度の細かいカットを繋ぐような編集が一般的になるのは、実は1990年代に入ってからの事である。 実際、同じ2時間の作品でも、60年代の作品と現在の作品を観較べてみると、現在の作品の方がカット数が倍近くになっている作品も少なくない。 1カットを短くし、カット数を増やした方が、映画のテンポが速くなったように感じられ、観客を飽きさせないようにする事が出来るからだ。
 本作では、ラングはまさにこの論法に従って、短いカットをテンポ良く繋ぎ、疾走感のある編集を施している。 特に、後半の暴動シーンはこれが顕著で、同時進行している複数の登場人物の行動を、細かいカット割りでテンポ良く繋いだ編集が見事で、上映時間2時間半という、現在でも長い作品ながら飽きる事なく観ていられる。
 本作のカット数は、“中間字幕を除いて”、合計で実に1200カット以上(!)にもなる。


 また、本作の中間字幕にはオリジナルデザインのフォントが使用された。
 このフォントを誰が手がけたのかは、資料がなかったので不明だが、非常に味のあるフォントだと思う。
 中間字幕のフォントは、サイレント時代の映画にとって非常に重要なモノだった。 シンプルなフォントを利用する作品もあったが、多くの作品が独自のフォント、及び中間字幕専用のテンプレート(注:字幕が表示されるカットに書き込まれた額縁のような枠)を使うなど、どの作品も中間字幕に個性を出そうとしているのが窺える。
 ラング作品では、オリジナルの中間字幕フォントが使用される事が多かったが、『ドクトル・マブゼ』では、フィルムに字幕を合成してマブゼ博士の催眠術を表現したり、『ニーベルンゲン』では最初の文字に剣や馬といったイラスト(注:こういうのを“ナントカ”っていう呼び方があったハズなのだが……ワスレタ。 すまぬ……。つД`)゜。)を使って“視覚的な文章”を試みている。
 こうした“視覚的な文章”、あるいは“文章の視覚化”というのは、文章を音声で表現出来なかったサイレント映画時代には、とても重要な事だったのである。
 本作では、これをさらに発展させて、中間字幕をスクロールさせたり、長文をピラミッド状に配列するといった“視覚的な文章”が試みられている。
 また、フレーダーがM機械を見て人喰いモロクを連想するシーンでは、図形化した線が四方八方から飛び出してきて、“MOLOCH!”という中間字幕になるという、“文字による感情の表現”、すなわち現在のマンガ技法でいうトコロの“描き文字”が試みられている。
 本作の中間字幕は、合計176枚+オープニングクレジットが作成され、編集で適宜挿入された。
 なお、海外配給版では、公開される各国語に翻訳された中間字幕に差し替えられているが、フォントもシンプルなモノに変わっている。
 ちなみに、中間字幕のフリーフォントがないかなぁ~と思って検索してみたのだが、……無かった。つД`)゜。
 ポスターに使用されたフォント(注:DVDやBDのソフト版のパッケージに使われているフォント)や、有料のシェア版(注:日本円でなんと奥さまビックリ価格の8000円! 高過ぎッ!!)はあったが、中間字幕の“フリーフォント”は見つけられなかった。
 う~~ん、残念無念の高校二年。(←古!)


 このようにして、ラングは同時代の作品とは一線を画する編集を本作に施し、合計で4189mのオリジナル版を編集し、全9巻のフィルムリールにまとめた。
 9巻のフィルムリールの内訳は、以下の通りである。

1:538m/中間字幕1~13
 オープニングからフレーダーがバベルの新塔に向かうシーンまで
2:515m/中間字幕14~41
 フレーダーセンの社長室のシーンから、労働者11811号が影なき男に捕らえられるシーンまで
3:540m/中間字幕42~58
 ロートヴァングの登場から、フレーダーの労働交代まで
4:293m/中間字幕59~82
 フレーダーがカタコンベの聖堂に向かうシーンから、マリアがロートヴァングに捕らえられるシーンまで(注:Auftaktsの終わりまで)
5:363m/中間字幕83~96
 Zwischenspielの始まりから、ヨザファートが影なき男に打ち負かされるシーンまで。
6:450m/中間字幕97~108
 マリアとロートヴァングが格闘するシーンから、フレーダーの悪夢のシーンまで(注:Zwischenspielの終わりまで)
7:417m/中間字幕109~145
 Furiosoの始まりから、労働者たちがゲートを破壊してなだれ込むシーンまで
8:485m/中間字幕146~156
 心臓機械のシーンから、フレーダーたちが子供たちを地下労働者街から救出するまで
9:388m/中間字幕157~176
 崩壊したM機械の前で踊る労働者たちのシーンから、エンディングまで



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


戦いへの入り口。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 今回はクエストMOD化されているので、手順通りに攻略していく必要がある。 まずは、ブラヴィル近くに立っているこの巫女さんの背後にあるポータルから、“ある場所”へと移動しよう。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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209.『メトロポリス』伝説:第4章③

2012年08月19日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #10-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 ロンドンオリンピック、ようやく観始めました。(笑) まだ3日目までしか観てませんが、体操がなかなかアツい! 男子はヒヤヒヤさせられる場面もありましたが、男女共に若手ががんばってるのが印象的でした。
 アーチェリーの女子団体は、逆転のメダル獲得だったんですね。 終盤で焦りが出たのか、ロシアがやや不安定になってましたが、日本は終始安定したシュート。 メンタル面の強さが勝敗の決め手だったのではないかと。
 競泳は……まあ、ある意味予想通りかなと。 競泳は選手生命の短い競技ですからね。 連覇自体が極めて稀な事。 4年に一度しかないオリンピックにコンディションを合わせる事自体が極めて難しく、バイオリズムが合わなければ代表から漏れて実力がありながらオリンピックに出られない、なんてコトも実によくある事。 シビアなスポーツなんですよ、競泳ってのは。
 何にしても、スポーツ観戦はやっぱり楽しいです。 これからしばらくの間、堪能したいと思います。


 それとは関係ありませんが、今月25日はMFD‐WEBの更新日。 今回は、『Refrain』のアルティメット版です。
 2種類の異なるテキストコメンタリーを収録した本編に加え、『ひぐらしのなく頃に』誕生10周年を記念した究極解説、アルティメット・アナライズ特別編『再考:ひぐらしのなく頃に』をバンドル!
 トータル862頁! 50MBオーバーの大容量!
 今度こそ、アナタは“本当の『ひぐらしのなく頃に』”を識る……。
 お楽しみにっ!!



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第10回です。
 今週も最後までヨロシクね☆


・ラングの演出

 ラングは元々ちょっと変わった演出を行う事で有名ではあったが、本作ではさらに特殊な事をいくつかやっている。
 例えば、撮影に使用するカメラの数。
 先にも記した通り、ラングは24年10月のアメリカ旅行の際、現地でミッチェル・カメラ社を訪ね、ミッチェル社製の最新の映画撮影用カメラを2台も購入し、ドイツに持ち帰っている。
 そして、本作の撮影でそれを使用し、ドイツ国内で使用された初めてのミッチェル・カメラになった。
 が、その使い方が変わっている。
 なんと、2台のカメラを横に平行して並べ、2台同時に回して撮影したのである。
 現在でも、一度の撮影に複数のカメラを同時に回す事はよくある事で、それ自体は特別なコトではない。
 これは、通称“マルチ・カム”と言って、例えば二人の登場人物が会話しているシーンを例に挙げると、二人を同時に捉えたショット、人物Aのアップ、人物Bのアップ、人物Aの肩越し、人物Bの肩越し、といったように、ワンテイクで複数のアングルを同時に撮影して、編集でこれを適切な順番で繋ぐ、というような手法を用いる時に行われる方法である。
 こうする事で、ショット毎にカメラ位置を変更する手間を省き、少ないテイクで集中して撮る事が出来、なおかつ役者の演技にバラつきや不整合が起こるのを防ぐ事が出来るというメリットがある。
 もちろん、撮影が短時間で終わるので、役者やスタッフの集中力を維持出来るのも大きなメリットである。
 ただし、複数のカメラを同時に設置しなければならないため、カメラ同士がお互いのフレームに入ってしまわないようにするために設置場所にある程度の制限がある、同時に複数のカメラを用意しなければならないのでコストがかかる、撮影されたフィルムがOKテイクであっても、不要な部分は使われずに捨てられるため結果的にムダが多くなる、などのデメリットもある。
 そのため、現在の映画撮影では、マルチ・カムは爆破やカーチェイスなどの大掛かりでリテイクの効かない撮影に限り使われる例がほとんどで、リテイクの効く人物の会話シーンなどは、シングル・カムか、あるいはせいぜい2カメ、3カメ程度で撮影される事がほとんどである。
 しかし本作におけるマルチ・カムは、現在のような目的で用いられたワケではない。
 別アングルやアップショットを撮るのが目的ではなく、ただ単に同じシーンの同アングルを2台のカメラで撮っているのである。
 それはナゼか?
 一番の大きな理由は、当時のフィルムの複製技術にあったのではないか?と、筆者は考える。
 フィルムというのは、撮影されるとフィルムに感光されるのは、像の明るい部分と暗い部分が実際とは反転した状態で、すなわち“ネガティブ・フィルム”になる。 コレを複製する際には、このネガ・フィルムを投影し、像の明るい部分と暗い部分が実際と同じ状態になるフィルムに複製する。 これを“ポジティブ・フィルム”という。
 で、このポジ・フィルムを再び投影すると、明暗が反転して再びネガ・フィルムに戻す事が出来る。
 今でも、フィルムの複製には基本的に同様の技術が用いられているが、当時はこの複製技術が未熟で、複製を繰り返すと像が劣化してしまうというデメリットがあった。
 そこで、この劣化を未然に防ぐには、最初から撮影ネガの量を増やしておけば良い、すなわち複数台のカメラで同時に同じショットを撮れば良い、というワケだ。
 しかも、ラングはネガの量を増やすために、難しいシーンでは最低3つのOKテイクを確保した。 つまり、通常よりもより多くのテイクを重ね、ネガを増やしておいたのである。
 こうして撮影されたフィルムは、しかし同じショットとはいっても2台のミッチェル・カメラが完全に同じ場所にあるワケではないので、実際には右側のカメラと左側のカメラで微妙にアングルが異なる映像になっていた。
 が、ラングはこれらをそのまま編集し、出来の良い方をドイツ国内版(注:オリジナル完全版)に使用し、同一テイクのもう一方のカメラのネガを、イギリス版やアメリカ版に使用した。
 実際、現在残っているフィルムの中にはアングルが微妙に異なるモノや、さらには役者の演技が明らかに異なる別テイクのモノまであり、映像の劣化を嫌ったラングのコダワリが窺えると言える。
 このようにして、2台のミッチェル・カメラで撮影されたネガは、実に62万m(注:約382時間分)にもなり、ココから複製されたポジ・フィルムは、実に130万m(注:約800時間分)にもなったというから驚きである。
 もちろん、フィルムはタダではない。 これだけ大量のフィルムが消費されたというだけで、その金額はとんでもない金額になったに違いない。
 最終的に、本作の製作費が文字通りの“ケタ違い”になったのは、この大量のフィルムの浪費がその原因の一つになったのは間違いないだろう。


 シングル・カムが当たり前だった当時に、ネガの量を増やすためにマルチ・カムを用いたラングの演出は確かに特別なモノだったが、それよりももっと特別なカメラの使い方をラングは行っている。
 当時としては画期的な、いわゆる“カメラ・アクション”を用いたのである。
 第1章でも述べた通り、1920年代当時は、映画の父と呼ばれたアメリカの映画監督、D・W・グリフィスによって、クロースアップやカメラアングルという画期的な映像が既に世に出ていたが、ラングは本作において、これをさらに発展させるに至った。 なんと、撮影中にカメラそのモノを移動させたのである。
 それまでの映画では、クロースアップであってもカメラの位置が変わる事はなかった。 カメラの性能がまだ未熟で、カメラを動かすとピントや絞りがカンタンにズレてしまうため、カメラは三脚によって定位置に固定された状態で撮影するのが当たり前だった。
 しかし、ラングのカメラはじっとしていない。 役者と共にカメラも動く。
 最も顕著な例は、ロートヴァングの家の地下で、フレーダーがマリアの落としたスカーフを手に取るショットである。 このショットで、カメラはフレーダーの手がマリアの落としたスカーフを掴み取ろうとするのと同時に、カメラそのモノがスカーフに向かって接近する。
 いわゆるトラックアップである。
 この撮影では、カメラは手製のドリー(注:移動貨車)の上に乗せられ、フレーダー役のフレーリヒがカメラの脇から手を伸ばし、カメラと共にドリーによってスカーフに接近するという方法で撮影された。
 恐らく、世界でも最初期のトラックアップショットである。
 このショットをよく観ると、カメラが寄るのと同時に画面の端の方が微妙にピンボケしていくのが分かると思う。 たったあれだけのトラックアップでも、当時のカメラではあれだけピントがズレてしまうのである。 だから、やりたくても誰もやれなかったのだが、それをやってしまうラングは、メンデルゾーンが察した通り“大胆で行動的”という他ない。
 他にも、カタコンベでマリアとフレーダーがお互いに惹かれ合うシーンでは、跪くフレーダーにゆっくりとカメラがトラックアップしているショットがあるし、地下労働者街の洪水のシーンでは、崩壊する地下労働者街から非常階段を駆け上がって逃げるフレーダーとマリアに向かって、カメラが激しく揺れながらトラックアップするショットがあるが、このショットでは、ドイツのシュタホウ社(注:映画黎明期のカメラメーカー。 後に、映写機の製造が主力になったようだ)製の小型カメラをブランコのようにスイングさせるという、今でもやらないような事をやって撮影している。
 きっと、カメラのフレームから人物が外れず、なおかつカメラが激しく揺れるイイカンジの映像が撮れるまで、何度もリテイクを繰り返したに違いない。
 こうした動的なカメラ・アクションは、今でこそカメラが軽くなり、オートフォーカスやステディ・カムなどの画期的な技術が確立されたからこそ、様々な映画で至極当たり前のように用いられている技法だが、本作のそれは、当時としては極めて画期的な映像だったが、この撮影のためにリテイクを繰り返す事になったであろう事は、想像に難しくない。


 リテイクと言えば、どうやらラングは相当な“リテイクの鬼”だったようだ。
 映画の撮影には、リテイクが不可欠である。 どんな作品であれ、多かれ少なかれリテイクは付き物だ。 何故なら、映画を撮影しているのも撮影されているのも人間で、絶対に、完全に、100%ミスしない人間など、この世には存在していないからだ。 映画を作っているのが人間である以上、機材のトラブルやロケ地の天候、セリフや演技の間違いといったNGに至るまで、程度の差こそあれ何らかのミスが現場で発生し、リテイクを余儀なくされるのは仕方のない事なのである。
 が、中にはそうした“仕方のないリテイク”とは別に、必要とは思えないようなリテイクを何度も何度も要求する映画監督が少なくない。
 現代の監督では、『セブン』(94年)や『ファイトクラブ』(99年)、『ソーシャル・ネットワーク』(10年)のデイヴィッド・フィンチャーや、『未来世紀ブラジル』(85年)、『12モンキーズ』(95年)のテリー・ギリアム、『マトリックス』三部作のウォッシャウスキー兄弟などが“リテイクの鬼”として有名な映画監督で、時には3桁(!?)にも及ぶリテイクを要求する事もあるという。
 ラングも同じく、本作の撮影ではOKテイクを3つ以上確保するために、同じシーンを何度も何度も撮影し、リテイクを繰り返したという。
 特に、この被害を被ったのはマリアを演じたブリギッテ・ヘルムだった。
 ヘルムは、マリア以外にもニセ・マリア、人造人間(の中の人)、死神の彫像(の中の人)、肉欲の彫像(の中の人)という、一人5役を演じなければならなかった上、ヘルムは本作が女優デビュー作であり、全くの素人に近い経験しかなかった。
 そのため、ラングはヘルムに対しては常に厳しく、3つのOKテイクが撮れるまで同じ演技を何度も何度も繰り返させた。
 例えば、フレーダーに助けられてロートヴァングの家から逃げるシーンでは、不自然な体勢で担がれるショットを12回も繰り返し、最後には気を失ったという。
 また、地下労働者街が水浸しになるシーンでは、ヘルムは実に6週間もの間、毎日水に腰まで浸かったまま演技しなければならなかった。
 さらに、ラングはスタントを使う事なく、ヘルムに人造人間の装具を身に付ける事を要求した。 この装具、木材で出来ているので軽いだろうと思うかもしれないが、実はこれが結構な重量で、しかも通気性が全くなく、加えて撮影スタジオは強力な照明の熱で非常に暑く、椅子から立ち上がって数歩歩き、フレーダーセンに挨拶するという単純なショットのために9日間もの間、ヘルムは歩くのも大変な動き難い装具を身に付けていたという。
 さらには、ニセ・マリアが群集によって火あぶりの刑に処せられるシーンでは、ヘルムは実際にガレキの山の上に縛り付けられ、消防車が待機している状態で本当に火を点けられた。 もちろん、安全には十分気を遣っただろうが、一歩間違えば大惨事になってもおかしくない撮影だったとか。
 これらの大変な苦労を伴った撮影が連続し、ヘルムはやがて“ノイバーベルスベルクの乙女”という愛称を頂戴する事になった。
 撮影終了後、ヘルムは撮影を振り返って、
「最悪の経験。 ラング監督は、もう二度と一緒に仕事をしたくない。」
 と、映画雑誌のインタビューに答えている。
 しかしこの経験により、全くの素人だったヘルムは着実に演技力を身に付け、その美貌と確かな演技力で人気女優へと急成長する。
 恐らく、これ以降の出演作の撮影は、他のキャストが根を上げそうなどんなに大変な撮影でも、「『メトロポリス』よりはラクね。」と言って、撮影を乗り切れた事だろう。
 ヘルムと同じく、主要キャストの中でも年少だったフレーダー役のグスタフ・フレーリヒも、「ラングの演出は甘くなかった。」と撮影を振り返っている。
 主人公であるため、フレーリヒは走ったり格闘したりとアクションシーンが多い役だったが、感情を爆発させる必要のあるシーンも多く、肉体的に精神的にも辛い撮影が連続したハズである。
 しかしフレーリヒは、ラングに関して意外な事も言っている。
「限りない忍耐力で、彼は人々を説得し、無理強いもする。 皆を催眠にかけ、最大の力を出させるのだ。 しかし、全ては落ち着いて揺ぎ無く、怒号もなく、粘り強い。」
 影では、一部のスタッフやキャストから“サディスト”と陰口を叩かれる事も少なくなかったラングだが、撮影中は常に落ち着いていて、『エクソシスト』(73年)を監督したウィリアム・フリードキンのように、大声で怒鳴ったりスタッフやキャストを殴るような事は一切なかったそうだ。(注:フリードキンは、怒鳴り散らす監督として有名で、撮影現場にショットガンを持ち込んでいるというウワサがあったほど)
 ラングのように“リテイクの鬼”である映画監督の多くは、利己的で自らのイメージにこだわり過ぎな人物と思われがちだが、逆に言えば、その優れた洞察力のために、ほんの僅かな、言われなければ誰も気付かないような極めて小さなミスにも気付いてしまい、それが気になってリテイクを繰り返させる事になるとも言える。
 ラングはあるいは、その最たる例なのかもしれない。


・お客様各位ご案内

 さて、撮影の裏話はこれぐらいにして、ココではちょっとした撮影中のこぼれ話を。
 本作は、実は公開前から極めて高い期待が寄せられていた作品で、その注目度はドイツ国内に止まる事なく、ヨーロッパ各国やアメリカでも大きな話題になっており、多大な期待を以って公開が待たれていた作品だった。
 そのため、撮影中からノイバーベルスベルクのスタジオには多くの“お客様”がお見えになり、撮影をご見学されたそうだ。
 ココでは、本作の撮影現場を訪れた“お客様”を何人かご紹介しよう。
 まずは、チャールズ・ロシャーである。
 1885年にロンドンに生まれたロシャーは、ニュース映画のカメラマンとして働いた後、ハリウッドに渡って映画のカメラマンになり名声を集めた人物である。
 特に、本作の公開と前後して制作されたF・W・ムルナウの監督作品、『サンライズ』(27年)では、カール・シュトラウスと共にカメラを手がけ、同作品がアメリカで公開された1929年には、シュトラウスと共に撮影賞でオスカーを獲得している。
 これを含めて、撮影賞で合計6回のノミネートと2回の受賞を経験している名カメラマンである。
 ロシャーは、本作の撮影を見学した後、本作のカメラを手がけたリッタウとフロイトと共に記念撮影もしている。
 もしかしたら、本作の見学でドイツを訪れたのがキッカケで、ムルナウと一緒に仕事をする事になったのかもしれない。
 映画関係者のお客様の中でも一際有名なのが、セルゲイ・エイゼンシュテインである。
 1898年に当時のロシア帝国領だったラトビアのリガに生まれたエイゼンシュテインは、ドイツ系とスウェーデン系のユダヤ人の子として生を受け、父親が建築家だった関係でペトログラードの専門学校で建築を学ぶ。
 しかし、軍に入隊したのと前後してアマチュア演劇に携わったのをキッカケに演劇に目覚め、舞台美術を手がけるようになった。
 そして、その流れから映画にも興味を持つようになり、1924年にソ連政府の肝いりで『ストライキ』(24年)という映画を監督。 監督デビューを果たす。
 翌25年には、モンタージュ技法を確立したとされるロシア映画の古典的名作、『戦艦ポチョムキン』(25年)を監督し、世界中で大絶賛された。
 これと前後して、エイゼンシュテインは本作の撮影現場を訪れたワケだが、当時ソ連になったばかりのロシアでも、本作は毎週のように映画雑誌に映画の制作状況が記事になっていたほど大変な注目を集めていたという。 その関係から、エイゼンシュテインも本作の見学に訪れたのだろうが、まだ『戦艦ポチョムキン』を観ていなかったラングは、
「私のように撮ればいい。」
 と、偉そうなアドバイスをしたとか。(笑)
 だから、というワケではないだろうが、エイゼンシュテインは本作に学ぶ事なく、『十月』(29年)や『イワン雷帝』(44年)などで独自の演出を行っている。
 ちなみに、エイゼンシュテインは若い頃に日本語を学んだ事があり、本作公開後の1928年には、史上初の海外公演が実現した歌舞伎のロシア公演を観劇し、これに影響を受けて『イワン雷帝』(44年)の中で役者に見得を切らせるという演出をしている。
 しかし、46年に公開した『イワン雷帝』の第2部において、当時のソ連で起こった大粛清を髣髴とさせるシーンに時の権力者であったスターリンが激怒。 映画は公開禁止になり、既に撮影が始まっていた第3部の撮影が中止にまで追いやられる事態に発展した。
 そのため、エイゼンシュテインは事実上の引退にまで追いやられてしまう事になる。
 この二人の他に、映画関係者では若かりし頃のアルフレッド・ヒッチコックもまた、25年頃に本作の撮影現場に見学に訪れている。
 当時26歳。 イギリスで映画のタイトルデザイン担当として下積みを続けた後、監督デビュー作である『快楽の園』(25年)を撮った前後の事である。
 本作の撮影現場に見学に訪れたのは、もちろん映画関係者が多かったが、時には映画とは関係のない“大物”が現場を訪れる事もあった。
 その中でも特に意外な人物と言えば、プロボクサーのジャック・デンプシーをおいて他にはないだろう。
 1895年、コロラド州の片田舎に生まれたデンプシーは、夢を抱いて大都会ニューヨークに上京。 ココで、ジャック・カーンズの指導を受けプロボクサーになると、1919年7月から1926年9月までの約7年間の間、“デンプシー・ロール”と呼ばれる腕を大きく振り回す独特のファイティングスタイルで勝ち続け、通称“リングの殺し屋”と呼ばれた負け知らずの世界ヘビー級王者に君臨し続けた。
 この頃、同じくニューヨークのプロ野球球団、ヤンキースに所属して不動の4番バッターとしてホームラン王に君臨したベーブ・ルースと並んで、1920年代のアメリカを代表するスポーツ・ヒーローとして、その名を世界中に轟かせた人物である。
 また、1923年9月にフィラデルフィアで行われた試合では、実に8万5千人もの観客を集め、その興行収益が史上初めて100万ドルに達したスポーツ選手でもある。
 デンプシーは、本作がクランクインした直後の1925年5月末にノイバーベルスベルクのスタジオを訪れ、ポマーやフォン・ハルボウ、ラングらと記念写真を撮っている。
 このように、本作は撮影中から各界の有名人が見学に訪れるほど、世界中から注目されていた作品なのである。
 ……しかし、彼らがいくら待てど暮らせど、映画は一向に完成せず、映画の公開予定はいつまで経っても決まらなかった。
 それは、クランクインしてから1年を経過した1926年5月になっても、変わる事はなかった。


3.ポスト・プロダクション

 本作のクランクインは、先にも記した通り1925年5月22日である。 これは、複数の記録が同じ年月日になっており、疑いようのない事実となっている。
 が、クランクインがハッキリしているワリにクランクアップ、すなわち本編撮影の終了については、実は諸説あって定かではない。
 ウーファ社の公式発表によると、本作の制作終了は1926年の10月とされているが、これは飽くまでも編集などのポス・プロ作業を含めた“制作終了”なので、=クランクアップというワケではない。
 記録によると、撮影日数は310日間(!!)、プラス夜間撮影60日間(!?)となっているので、1926年5月の末には終わっている計算になるが、これが休みを含めてなのか除いてなのかは定かではない。
 加えて、1926年8月には、ラングが映画雑誌のインタビューに答え、「今は映画の仕上げにかかっているトコロだ。」と言っており、少なくともこの時には、映画の撮影は終了し、編集などのポス・プロ作業に専念していたと考えられる。
 そのため、現在では1926年の6月辺りにクランクアップしたのではないか?と考えられているが、それを裏付ける根拠は何もない。
 元々、当時の映画制作は現在ほどプリ・プロ、プロダクション、ポス・プロに明確な区別があったワケではないし、実は“編集”という専門職もなく、映画の編集は監督やカメラマンが行うのが普通だったので、正確な意味でのクランクアップというのも明確ではなかった。
 ちなみに、“クランクイン/アップ”という言葉自体は、当時から既にあったハズである。 これは、手回し式カメラが一般的だった当時、カメラを回すクランクをカメラ本体にセットする(=クランクイン)のと、これを外す(=クランクアップ)のが語源だからだ。
 それはともかく、いずれにしても本作のクランクアップが明確でないため、ポス・プロ作業もいつから始められたのか一切不明だが、ココでは現在の映画制作において、ポス・プロ作業と位置付けされる映画の特殊効果、編集、並びに音楽について記していく事にする。


・TV電話の画期的な技術

 本編撮影中、フレーダーセンの社長室のセット撮影と合わせて撮影されたのが、映画の近未来的世界観を表現する効果的なプロップ(注:“小道具”の意)として使われているTV電話である。
 今でこそ、ケータイでも利用出来るこのコミュニケーションデバイスは、しかし当時としては極めて画期的なモノであり、その撮影にも画期的な手法が用いられた。
 経験した事がある方は少ないかもしれないが、通常TVモニターや映写スクリーンをそのまま撮影すると、画面上を高速で移動する横縞が映り込んでしまう。 これは、フィルムでもビデオでも同じで、どちらも静止画を連続して画面に表示する原理を利用して動画を再生しているためで、フィルムの場合は画がないフィルムの枠。 ビデオの場合は、TVモニターの構造であるリフレッシュレートが、その画面を撮影しているカメラのフレームレートと微妙にズレてしまうからである。
 しかし、本作に登場するTV電話には、それが一切ない。
 TV電話のモニターには、グロートの顔がくっきりとした像で映し出されている。
 それはナゼか?
 これこそが、このシーンで用いられた当時の最新技術なのである。
 手順はこうだ。
 まず、モニターに映し出されるグロートの映像を予め撮影しておく。 これは、特別な技術を用いずにフツーに撮影されたモノである。
 次に、撮影した映像を映写するモニターのセットを組む。 このセットの裏側には映写機がセットされており、撮影した映像を映写出来るようにされた。 いわゆる“リア・プロジェクション”である。(注:スクリーンの裏側から映像を映写する方式の事。 今ほど液晶モニターの生産コストが安くなかった1990年代には、50インチを超える大型モニターとして、同様の原理を利用した“プロジェクションTV”というモノが実際に商品化されていた。 ちなみに、映画館と同じくスクリーンの前面に映像を映写する方式は、“フロント・プロジェクション”と呼ぶ)
 で、これをセット側からスクリーンの前で演技しているアルフレッド・アーベルと共に撮影するワケだが、フツーに撮影したのではフレームレートが僅か100分の5秒ズレただけでもフィルム枠が写り込んでしまう。
 そこでこの撮影では、リア・プロジェクションの映写機と撮影用のカメラを電波を使って完全に同期させ、フレームレートを合わせたのである。
 第1次大戦末期には、アメリカ軍が新開発した無線電話(注:すなわち無線機)を既に戦場に持ち込んでおり、1920年にはアメリカでラジオ放送が始まっているので、電波技術そのモノは既にあった。 が、それをカメラのフレームレートの同期に利用した点が、この撮影を画期的なモノにしている。
 もちろん、手回し式だったカメラもモーターで駆動するように改造されていたそうだ。
 今から考えれば、……いや、たとえ当時であったとしても、この技術がいかに画期的であったかは説明されないと(あるいは説明されても)一般の観客にはその凄さが分からないかもしれないが、筆者的にはモノスゴい画期的な技術に感じられた。 しかも、それをさりげなく、ある意味何でもないシーンでサラっと使っている点に、この映画とラングの特殊効果に対するスタンスが窺える。
 このような特別な技術は、もっと「どうだ! スゴイだろ!?」的なシーンで利用し、観客を驚かせるのが常だからだ。
 現在でも、CGIに頼り過ぎなぐらい頼って、特殊効果を「どうだ! スゴイだろ!?」的に使っている映画をよく見かけるが、それは特殊効果の使い方としては間違っている。 特殊効果は、“特殊効果と分からせない”事が重要なのであって、いわば“観客の眼を騙す”ように使ってこそ意味がある。 何故なら特殊効果は、観客を映画の世界に引き込むために使われるモノであって、映画の物語りを補うためのモノであり、特殊効果が主役になってしまってはいけないからだ。
 その意味では、このTV電話のシーンの特殊効果は、極めて効果的に映画の物語りを補っていると言えるだろう。


・ミニチュア撮影(ストップモーション)

 本編撮影のクランクインとほぼ同時に始まった特殊効果撮影が、このミニチュア撮影である。
 ミニチュア撮影とは、文字通りミニチュアを作ってそれを撮影する特殊効果だが、本作のために制作されたミニチュアは、実は映画を観た事があるほとんどの人が想像するよりも遥かに膨大である。
 なんと、この映画のために作成されたミニチュアのビルは、実に600棟(!)にもなる。
 最もミニチュアらしさが出ているのは、やはりバベルの新塔を含めた巨大都市の中景ショットや、バベルの塔の伝説のシーンに登場したバベルの塔(の完成予想模型)だが、これ以外にも意外なトコロで意外なモノがミニチュアで表現されている。
 詳しくは後述の“シュフタン・プロセス”の項で解説するが、ココではミニチュアを使った特殊撮影の中でも、特に“根気”を要求された“ストップモーション撮影”について解説していく。
 ストップモーション撮影とは、例えばココにクルマのミニチュア、すなわちミニカーがあったとしよう。 これを、映画用のムービー・カメラではなく写真用のスティル・カメラで撮影する。
 そして、カメラの位置を変えずに、ミニカーを数ミリ前に動かして再び撮影。
 動かしては撮影し、撮影しては動かす。
 これを数百回(!)繰り返し、撮影した写真をパラパラマンガの要領でパラパラすると、あたかもミニカーが独りでに走っているかのようなアニメーション映像を作る事が出来る。
 これが、ストップモーション撮影の基本的な原理である。 要するに、セル・アニメーションで絵を描く代わりに、ミニチュアの写真を撮っているワケだ。
 この技法がいつ頃生まれたのかというと、どうやらJ・S・ブラックトンというアメリカの映画監督が1897年に制作した短編映画、『The Humpty Dumpty Circus』がその起源らしい。
 後に、『月世界旅行』のメリエスも同様の技法でアニメーションを制作しており、本作の制作にも参加しているルットマンの『光の遊戯』は、まさにこの技法を応用したアニメーションである。
 本作の制作と前後して、1925年にはルービッチュによって『ロスト・ワールド』といういわゆるクレイアニメ(注:粘土で出来たミニチュアを動かして撮影するストップモーション技法)を撮っているし、現在ではCGIに取って代われた感があるが、インターネットの動画ストリーミングサイトであるYouTubeやニコニコ動画には、素人が作ったストップモーションアニメ作品が多数アップされており、現在でも一定以上の人気がある映画作品(注:ハリー・ハウゼン監督作品や、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』など)も少なくない。
 本作では、この技法を使って主に2つのシーンが撮影され、後述のシュフタン・プロセスと併用したショットもあるが、まずは比較的小規模な永遠の園のシーンから見ていこう。


 映画の冒頭に登場する永遠の園のシーンでは、カメラが永遠の園の森を左方向にパンするパノラマショットがあるが、これが実はミニチュアによるストップモーション撮影である。
 ……とは言っても、正確にはほとんど絵である。
 このショットは、ケッテルフントによる森の絵をカメラの前に置き、スライドさせる事でアニメーションさせているのだが、画面の手前に切り抜いた樹の絵、すなわち現在のアニメ技法でいうトコロの“ブック”を置き、カメラではなく絵の方を動かして撮影された。
 現在のアニメ技法でいうトコロの、“マルチ”と呼ばれる技法である。
 背景とセル、あるいは切り抜いたブックを距離を置いて重ね、撮影するアニメ技法である。
 こうすると、手前にあるブックのピントがズレて、画面全体に立体感を出す事が出来るのである。
 さらに、背景とブックを動かす距離を変えて撮影すると、手前のブックが速く、背景が遅く移動している(ように見える)“多重スクロール”を表現出来る。
 あの森のパノラマショットは、これと全く同じ事をやって撮影された。
 しかも、カメラはドイツのデブリー社(注:資料がなかったので詳細分からず。 映画黎明期のカメラメーカーだと思われるが、恐らくその後淘汰されたのだと思う)製の小型カメラを使ってリッタウが撮影したが、ミニチュアの動きとカメラのフレームレートを同期させるために、モーター駆動に改造したカメラが使用された。
 現在の“モーションコントロールカメラ”に通じる技術が用いられたワケだ。
 ミニチュアのサイズはかなり小さく、縦50cm程度。 横1m程度だったと思われる。


 本作で撮影されたストップモーション撮影のショットの中でも、最大規模になっているのは、やはりバベルの新塔が最初に映し出される街の中景ショットである。
 映画の前半部、バベルの新塔に向かうフレーダーの乗ったクルマは、街の中を縦横無尽に走る高架道路をひた走る。 これを追って、カメラは街の中を大きく映し出すが、これらは全てミニチュアで、そのほとんどがストップモーションで撮影された。(注:ライブアクションで撮影されたショットもある。 詳細は後述の“シュフタン・プロセス”の項を参照されたし)
 このミニチュア、実はミニチュアと言ってもかなり巨大なモノで、そのほとんどが人の背丈を遥かに上回る高さ。
 手前に立っているビル群は、実寸の16分の1のスケールで制作され、高さは2m以上あった。
 加えて、画面の奥に見えるバベルの新塔は、実寸の100分の1スケールで描かれた絵(注:いわゆる“書き割り”)なのだが、その高さはなんと3.5m(!)。 これを、画面の奥の方が小さくなるように作られたミニチュアと組み合わせて、高さ350mの超高層建築に見えるようにしたミニチュアセット(注:いわゆる強制遠近法。 手前のモノを大きく、奥のモノを小さく作る事で、実際よりも距離が長く、また大きく見せる技法)なのである。
 そして、この手前にあるミニチュアの高架道路上には、この映画のために実に300台ものミニカー(!)が制作され、並べられた。
 これを、数人のスタッフが数ミリずつ動かしては撮影、動かしては撮影を繰り返し、映画でも一際印象的なあの街の中景ショットがストップモーションで撮影されたのである。
 僅か10秒のショットを作るのに、実に8日間もかかったという。
 これと同様のショットが、カメラアングルを変えて数ショットあるのだから、その手間隙と苦労たるや、想像に難しくないと思う。
 カメラを手がけたリッタウは、この撮影の苦労を「映画に躍動感を与えた。」と語っている。
 ちなみに、カメラは主にリッタウが手がけているが、本編撮影と同時進行で行われていた撮影だったので、リッタウがカメラを回せない時はコンスタンティン・チェトヴェリコフがカメラを回したそうだ。


 現在では、ミニチュア撮影はCGIに取って代わられたと考えている向きも多いかと思うが、実際にはそんなコトはなく、CGIと組み合わせる事によって映像の完成度は上がったが、ミニチュア撮影そのモノが失われた技術になったワケではない。 近年でも、結構頻繁に用いられている技術である。
 何故なら、CGIよりもミニチュアの方が、フルスケールセットに近い映像になるからだ。
 最近の観客は眼が肥えてきているので、CGIだけだといかにもCGIクサい映像になってしまい、観客にすぐにバレてしまう。 そこで、ミニチュアを組み合わせる事で、CGIとも実写ともつかない不思議な映像を作り出し、観客の眼を騙す手法がよく用いられている。
 近年では、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(2001年~2003年)でミニチュア撮影が多用されたのが記憶に新しい。
 ミニチュア撮影は、映像にリアリティを与える、リッタウが言うトコロの“躍動感”を与える特殊効果なのである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


新たなる戦いへ。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 ただし、前作がアイテム集めがメインだったのに対し、今回は飽くまでもダンジョン攻略がメインで、このMODで追加されるオリジナルクリーチャーを倒すのが主な目的。 追加装備もあるにはあるが、数はかなり少なめ。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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208.『メトロポリス』伝説:第4章②

2012年08月12日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #09-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 ホンッッッットに野田のヤロウは男らしくないッスね。 この期に及んでウダウダウダウダ。 女々しいったらありゃしないッ! 期限切れ! スパっと解散する日決めてみろ! “漢”見せてみろ! そしたらちょっとは見直してやるよ。 民主と自民には投票しないけどな!
 それはともかく、これを書いてる時点ではまだですが、ロンドンオリンピックが終わりました。 今回も様々な展開がありましたが、……あっしはまだ観てねーッス。つД`)゜。
 連載企画のリサーチが終わりません。 ってゆーかむしろ終わりが見えません。 いつになったら終わるんだ?コレ。
 まあ、閉幕すればある程度は時間が空くハズなので、これから少しずつ観たいと思います。
 年内に観終わるかなぁ~?
 何にしても、選手、審判、コーチ陣、並びにボランティアの皆さま、本当にお疲れさまでした。 皆さんのがんばりに、多くの人々が勇気と元気を与えられた事でしょう。
 次回は2016年、南米はブラジル、リオデジャネイロでまた逢いましょう!


<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第9回です。
 今週も最後までヨロシクね☆


2.プロダクション

 1925年4月―。
 ウーファ社は、自社の季刊誌『ウーファ・マガジン』とドイツ国内の主要な映画雑誌の誌上にて公式発表を行った。 1924年7月の発表から、多くのファンに期待されながらも製作の進行状況が全く明かされないまま実に1年近くもの間沈黙を守っていた本作の正式な撮影開始時期の発表であった。
 それによると、映画は1ヵ月以内、25年の5月中旬には撮影に入るという事だった。
「……え? 撮影中じゃなかったの?」
 恐らく、当時の映画ファンの困惑は相当なモノだったに違いない。
 先にも記した通り、この製作延期はウーファ社内部のお家事情(あるいは台所事情)と、ラングのヴィジュアルコンセプトの方針転換が原因だが、この25年4月の発表からも、映画の撮影は少しだけ遅れて5月下旬になってようやくクランクインを迎える。
 この、ほんの僅かな延期のウラには、ラングが全幅の信頼を置く1stカメラのカメラマン、カール・フロイントがF.W.ムルナウの『タルチェフ』でカメラを任されており、この撮影が多少延びたためだった。
 本作の撮影は、ムルナウの撮影終了を待ってからのクランクインになったのだ。
 ともかく、こうして1925年5月22日、映画『メトロポリス』は本編撮影を開始した。


・巨大セット

 本作は、ウーファ社が所有し、ドイツ国内でも最大の広大な敷地面積を有するノイバーベルスベルクのスタジオと、ベルリン郊外にある飛行船の格納庫を利用して、なんと全編セット撮影されている。
 通常、映画というのはどんな作品であっても、基本的にロケ撮影を優先する。 何故ならロケ撮影が可能であれば、セットを建てる時間と手間と人手とお金が節約出来るからだ。
 例えば、前著『Watch the Skies』で取り上げたスピルバーグ監督作品、『未知との遭遇』(77年)では、映画のクライマックスとなるデビルズ・タワーの着陸基地は、プロダクション・デザイナーのジョー・アルヴスによって放置されていた空軍基地の倉庫にフルスケールセットが組まれて撮影されたが、主人公やヒロインの家は、実際に人が住んでいる民家を借りてロケ撮影が行われている。 着陸基地の巨大セットを組む予算を捻出するために、それ以外のシーンで予算を節約する必要があったからだ。
 前々著である『異説「ブレードランナー」論』で取り上げた映画『ブレードランナー』(82年)では、映画はほぼ全編がセット撮影されているが、実は全くのゼロからセットを建てたというワケではない。
 この作品の配給元であるワーナーの敷地には、“オールド・ニューヨーク”という1930年代頃のニューヨークを再現した屋外セットが常設してあり、『ブレードランナー』ではこのオールド・ニューヨークをガラクタで装飾して2019年のLAに作りかえる、という方法でセットが組まれている。
 これも、予算節約のための一つの方法である。
 また、ロケ撮影するにも、近年のハリウッド式超大作映画ではアメリカ国内でロケ撮影するよりも海外でロケ撮影を行った方が物価が安い関係で結局安上がりになるため、オーストラリアやスペイン、オーストリアなどの海外でロケ撮影を行う作品が多い。 1999年公開の映画『マトリックス』は、その最たる例と言える。(注:ただし、リーマンショックやその後の為替相場の下落によって、今は事情が変化しているかもしれない)
 もう一つ見過ごせない問題として、撮影が終了した後のセットの“リサイクル”の問題がある。
 通常、特にSF系の作品では、セットは映画の世界観やヴィジュアルデザインに影響するため、その作品のためだけに組まれるモノである。 つまり、撮影が終了したセットというのは、基本的に(著作権の問題もあるため)他の作品に転用出来ない。 これはすなわち、映画のセットが“リサイクル”出来ない事を意味する。
 映画制作は、実に“資源のムダ使い”の多い創作活動なのだ。
 1970年代までなら、撮影の終了したセットを取り壊して廃材として廃棄する事も出来たが、80年代以降問題になり始め、現在では極めて深刻な問題として無視出来なくなった環境問題に配慮して、映画の“セットのリサイクル”がハリウッドを中心に積極的に行われている。
 映画『地球が静止する日』(2008年)では、装飾品は別にして、壁や床などをパネル化して、撮影終了後もバラして他の作品に流用出来るようにしたセットがデザインされたそうだ。
 また、これに伴ってスタッフやキャストの食事に使用する食器類も、全てリサイクル可能な紙やプラスチックが使用されたという。
 これらの問題から、近年でも小規模なインディペンデント系の作品からビッグ・バジェットと呼ばれる大作系映画に至るまで、ほとんど全ての作品で様々な意味での“節約”を目的としたロケ撮影が常識的に行われている。
 が、本作に関しては、それが一切ない。
 本作は、全て時間と手間と人手とお金が必要以上にかかってかかってしょうがないセット撮影になっている。(注:ウーファ社の公式発表によれば、セットの建材にかかった費用は40万マルクとなっているが、筆者はちょっと安いように思う。 この倍以上ぐらいかかっていても不思議ではないと思う)
 それはナゼか?
 一番の大きな理由は、やはりラングが旅したNYの風景に触発されて変更を指示した映画のヴィジュアル・デザインであろう。


 本作のセットデザインは、オットー・フンテ、カール・フォルブレヒト、そしてエーリッヒ・ケッテルフントの3人が主に手がけているが、最初からこの3人が手がける事が決まっていたワケではない。 最初にラングが召集したのは、ケッテルフントだけだった。
 ケッテルフントがいつ頃から本作の製作に携わっていたのかは、記録がないので定かではない。 が、筆者は少なくともラングがアメリカに旅立つよりも前から携わっていたと考える。
 というのも、ケッテルフントが描いた本作のコンセプトアートが、記録に残っているだけでも実に3回もデッサンされているからだ。
 最初に描かれたコンセプトアートは、確かに高層ビルが立ち並ぶ夢の未来都市、未来世界の超巨大都市が描かれているが、映画のクライマックスに登場するゴシック建築風の大聖堂が都市の中心にあり、しかもこれがかなりデカい。 ややもすると、周囲のビルの方が小さく見えるほどである。
 そこには、ネオンサイン煌く1920年代のNYの摩天楼の面影を見る事は出来ない。 すなわちこのコンセプトアートは、ラングがNYに降り立つ以前に描かれたモノだと想像出来るのである。
 ただし、高層ビルのデザインそのモノは、実は映画の完成版よりも未来的なデザインになっており、1920年代のNYよりは、むしろ現在の上海都市部のような印象を受ける。
 このデザインは、1922年にベルリンで開催された高層ビルのデザインコンテストに出品された近未来的な表現主義建築のデザインが引用されたモノで、ケッテルフントもこのコンテストの作品を参考にしたそうだ。
 また、同時代のフランスを代表する建築家、ル・コルビュジエ(注:本名、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ。 スイスに生まれ、ドイツ人建築家のオーギュスト・ペレに師事した後、フランスで活躍した建築家。 フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと並んで“近代建築の三大巨匠”とまで称されるほどの人物。 1887年~1965年)のデザインしたパリの都市計画は、パリの中心部を大幅に区画整理し、18棟の十字型の超高層ビルに各5万人分=合計90万人分の住居を碁盤の目のように配置するという大胆な都市構想であったが、1960年代のモダニズム文化を予感させるモノであったと言える。
 もちろん、この都市計画は計画のみのペーパープランに終わったのは言うまでもないが、コルビュジエ自身は、「都市計画が残虐なのは、人生が残虐だからだ。 生とは、死を抑圧する行為であり、死の策略を潰すのだ。」と語っている。
 この計画が目指したのは、死に向かっている都市にメスを入れ、死を抑圧する生を与えるというモノであった。
 と、するならば、この対極にあるのが1920年代のNYである。
 当時NYは、第1次大戦の軍需景気と戦争終結にアメリカ国民のボルテージが上がり、建設ラッシュを迎えて次から次へと高層建築が乱立していった時代だった。
 面白い逸話がある。
 ある作家がNYの不動産事務所を訪ねた時、事務所の壁に1枚の地図が貼られていた。 それは、マンハッタンの地図だった。
 しかし、その作家はその地図を見て思わず首を傾げた。 何故ならその地図には、“空き”というマークが入った土地が無数にあったからだ。
「こんなトコロに空き地なんかあったっけ?」
 いぶかしがった作家は、不動産屋に訊ねてみた。
 すると不動産屋は、
「4階以下の建物は空き地も同然。 それを取り壊して、もっと高いビルを建てれば儲かる。」
 と、笑いながら答えたという。
 マンハッタンは、当時既に都市計画によって現在の碁盤の目のような正確な道路網が整備されていたが、そこに建てられるビルは無計画そのモノで、高さもデザインも一貫性のない、多種多様なビルが建設された。
 結果、マンハッタンは現在見る事の出来る古い建物と新しい建物が隣り合って同居する混沌とした街並みになった。
 しかしラングは、そこにコルビュジエの“都市計画の生と死”を見出す。
 そしてラングは、アメリカ旅行を終えて帰国した後、初期原案のコンセプトアートを廃案にした。 NYの摩天楼に影響を受けたラングは、脚本の改稿と同時にヴィジュアル・デザインの改変を指示し、ケッテルフントにコンセプトアートのリテイクを要求したのだ。
 そうして描き直された第2案のコンセプトアートは、最初のコンセプトアートから飛躍し、映画の完成版に近付く。
 この第2案では、平面的だった都市構造が列車や高速道路の高架が街を縦横無尽に走る多層構造都市になり、僅かだがネオンサインも追加された。 そして何より、街の中心に据えられていたゴシック建築風の大聖堂は見る影もなくなり、周囲の高層ビルを遥かに上回る超高層建築、バベルの新塔が出現した。
 最終的な完成版のデザインとは大きく異なるモノの、このバベルの新塔のコンセプトは完成版まで受け継がれる事になる。
 ただ、最初のコンセプトアートにあった近未来的な表現主義建築が多少弱められ、より現実的な高層ビルに改められている。 これは、やはりNYの摩天楼の風景にそのコンセプトを求めたからだろう。 そしてそれは、ラングがアメリカ旅行から帰国した後で改定された脚本によって示されたモノと思われる。
 ケッテルフントは、「映画の全ての建築や景観は、脚本に細かく描写されていた。 その特徴は、誤解なく伝わった。」と後に語っているので、この第2案は脚本の改稿後にデッサンされたものと思われる。
 これと平行して、ケッテルフントは非現実的な建築物のデザインも試みている。
 完成版では、フレーダーとフレーダーセンがバベルの新塔の最上階の窓から見下ろす街の風景でそれを観る事が出来るが、このシーンに登場する建築物は、まさに1922年の高層ビルコンテストに出品された近未来的な表現主義建築のデザインに通じるモノがあり、多様化し過ぎた立体性のない、実際に建設しようという意図のない空想建築であるのは確かだが、独創的なデザインは表現主義建築の流れを汲んでいると言える。
 ちなみに、少数だがフンテもいくつかコンセプトアートを描いており、ケッテルフント以上の超過密な多層構造都市を描いている。
 実際には映画に採用されなかったが、コンセプトは十分受け継がれていると言える。


 このように、ケッテルフントが描いたコンセプトアートを出発点に、フンテとフォルブレヒトを加えた本作の美術チームは、本作の撮影に必要な数十に及ぶ膨大な数の、そして、そのどれもがそれまでの常識を超えた巨大なセットを次々にデザインしていった。
 地下労働者街、M機械、心臓機械、大聖堂の門、街の高架道路の一部、永遠の園と競技場、ヨシワラ、ロートヴァングの家と研究室。 いずれも、その高さが3~4階建てのビルに匹敵するような、セットとは思えないような巨大なモノばかりである。
 さらに、バベルの新塔の社長室、カタコンベと地下道等々、屋外、屋内を問わず多くのセットが組まれたウーファ社のノイバーベルスベルク・スタジオの広大な敷地は、本作の撮影に必要な巨大なフルスケールセットで埋め尽くされ、さながら一つの街がそっくりそのまま建設されたような光景になった。
 またウーファ社の公式発表によると、労働者11811号がヨシワラの駐車場で影なき男に捕らえられるシーンや、暴動シーンなどに使用するために、この映画のためにオリジナルデザインのクルマが50台も用意された。(注:本作のソフト版にバンドルされている映画史家の小松弘によるブックレットでは“自動車500台”となっているが、これは明確に誤記か校正ミス。 筆者が入手した本作公開当時のウーファ・マガジンの記事のコピーには、“自動車50台”と記されている。 コチラの方が正しいと断言出来る)
 ちなみに、実際にはそれでもセットが足りず、フレーダーとヨザファートが地下労働者街に向かうシーンに使われた下水道のセットなどは、ベルリン郊外にある飛行船の格納庫を借りてセットが組まれた。
 また、これらのフルスケールセットとは別に、屋内スタジオには最大で高さ3.5メートルにも及ぶ巨大なミニチュア((´・ω・`)??)のセットが組まれて、中景のイスタブリッシング・ショットのミニチュア撮影が行われている。
 映画監督のルイス・ブニュエル(注:スペイン出身。 メキシコに渡って映画監督となり、脚本や俳優も兼任した。 メキシコだけでなく、フランスやスペイン、アメリカでも多種多様な作品を撮っている。 1900年~1983年)は、後に本作の美術を指して、「映画は大胆な夢を建築で正確に再現する。」と評している。


・『メトロポリス』の衣装

 ケッテルフントらがセットを建設している傍ら、エンネ・ヴィルコムにより本作のキャストやエキストラの衣装のデザイン、及び制作も進められた。
 ケッテルフントらと同じく、ヴィルコムに関しても、いつ頃から映画制作に携わっていたのかは定かではない。 が、少なくともヴィルコムは、プリ・プロのかなり早い段階から参加していたハズである。 何故なら、用意された衣装の数がとにかくトンデモない数だからだ。
 その数、ナンと実に20万着(!?)にも及ぶという。
 単純に、洋服を20万着生産するだけでも相当な時間が必要であるし、加えて本作では、2000もの靴と、75個ものカツラまで合わせて用意されたが、これも衣装担当であるヴィルコムの仕事である。
 加えて、永遠の園やヨシワラのシーンで登場する女性たちのセクシーな衣装の数々は、明らかに既製服ではなく本作のためのオリジナルデザインである。 これらは、ヴィルコムによって新たにデザインされたモノで、実際にそのデザイン画の一部が残されている。
 特に、ヨシワラでニセ・マリアが扇情的なダンスを披露するシーンでヘルムが着ていた、深いサイドスリットが特徴的な黒いタイトドレスは、頭部全体を覆う装飾やブレスレット、指輪、ネックレスのようにも見えるイヤリングなどの細かな装飾までデザインされ、本作のために新たに作ったモノである。
 この衣装や、ニセ・マリアの扇情的なダンスは、20年代当時、ドイツのお隣の国フランスを沸かせていたアメリカ人黒人ダンサー、ジョセフィン・ベイカー(1906年~1975年)の影響が少なからずあると思われる。
 ジョセフィン・ベイカーは、アメリカはセントルイス出身のジャズシンガーだが、黒人だったため人種差別を経験し、1925年にフランスへ渡り、パリのシャンゼリゼ劇場のステージに立つようになると、その褐色の裸体を惜しげもなく披露する扇情的なダンスが注目され、爆発的に人気を得るようになり、“黒いヴィーナス”とまで称されるようになり、マリリン・モンローやマドンナに先立って、アメリカの最初のセックスシンボルとなった人物である。
 1926年には、ドイツのベルリンでもステージに立っているので、ラングはあるいはこの公演を観劇し、影響を受けたのかもしれない。(注:観劇で感激!)
 実際、ニセ・マリアがキワドい衣装(注:胸元に注目! ビキニやブラジャーではなく、現在のいわゆるヌーブラに相当するモノを着けている! そりゃあ、ヨシワラに集まった紳士たちとてムラムラきちゃいますよ)で腰を振るダンスは、ベイカーのダンスに良く似ている。
 ただ、映画を観ていて面白いのは、労働者たちの衣装は別にして、地上で暮らす富豪たちの衣装である。
 先ほど延べたように、女性たちの衣装はヴィルコムによって新たにデザイン、制作されたモノで、エロティシズムが見え隠れする前衛芸術的な衣装ばかりであるが、面白いのは男性の衣装である。 今見ると、やはり古さを感じずにはいられない。
 フレーダーが着ているニッカポッカのようなパンツや、フレーダーセンが着ている地味なジャケット、そして、ヨシワラに集まった男たちが着ているタキシードなど、1920年代当時の流行であったデザインそのままで、本作の設定年代を迎えた現在では、全く見られないモノばかりであるが、基本的なファッションジャンルのフォーマットがそれほど大きな差が見られない。 スーツ、タキシードというフォーマット自体は、ほとんど変化していないのだ。
 後年、日本のマンガ、アニメの祖として“神”とまで呼ばれている偉大な作家、手塚治虫は、自身の“ライフワーク”であった著書『火の鳥』シリーズの中の1篇、『未来編』で、今から1000年以上も後の超未来を描いているが、やはり女性のファッションは変化しているのに対し、男性のファッションはあまり変化していないという描写をしている。
 実際にはそんな事はないのだが、スーツやタキシードなどは、確かに基本的なデザインは19世紀末から100年以上を経過した今もなお、あまり大きな変化はない。
 その意味では、本作の衣装デザインはある意味先見性があった??
 それはともかく、さらにワンシーンだけで数千人規模。 映画全体では、実に延べ3万6千人(!!)が動員された群集シーンでは、エキストラが画一的な作業服を着ている。 もちろん、これも用意しなくてはならないし、ヨシワラに集まった男たちのタキシードや、バベルの塔の伝説のシーンに登場する奴隷たちの衣装など、既製服でまかなえそうなモノから、既製服にはないモノまで全て揃えなくてはならないのだ。
 さらに、本作の撮影では群集シーンなどで火を使うなどの危険な撮影もあるため、衣装の破損を考慮して予備も用意しておかなくてはならない。
 そう考えると、“20万着の衣装”というのもあながちウソとは思えなくなってくる。
 多少の誇張はあるにせよ、この数字はかなり実際に近いモノだと筆者は考える。
 記録によれば、衣装にかかった費用は実に200万マルク(!?)にもなったとか。(注:ただし、ウーファ社の公式発表では衣装の費用は“20万マルク”になっており、正確なトコロは定かではない。 が、“20万着”という数字を信用するならば、“200万マルク”という数字はあながち間違いではないのではないか? と、筆者は考える)
 ちなみに、エキストラに支払った報酬は、総額160万マルクだったらしい。
 それはともかく、実際問題、近年でも映画の衣装は時にとんでもなく予算を喰うモノになる事がある。
 映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(2001年~2003年)では、歴史劇なので当然既製服が使えず、しかもアクションシーンが多いため、主要なキャストの衣装は、予備を含めて一人につき10着が用意された。
 そして、アクションシーンを演じるスタントマンのために、サイズを合わせた同じ衣装を10着。 さらに、ホビットやドワーフといった小人種族を再現するために選出された代役用にオーバーサイズと縮小サイズの衣装がさらに10着ずつ用意され、合計で一役につき40着もの衣装が用意された。
 これが、主要キャストだけでも数十人分。
 戦闘シーンのエキストラ用の衣装は数万にも及び、合計では本作を上回る数の衣装が用意されている。
 もちろん、全て映画用のオリジナルで、衣装担当がゼロから作ったモノばかりである。 スタジオの一角に設けられた衣裳部屋は、さながら衣類専門の巨大なショッピングモールのようになった。
 本作の衣裳部屋も、きっと同じような状態だった事だろう。
 ちなみに、バベルの塔の伝説のシーンでは、奴隷役のために多くのエキストラが集められたが、その全員が頭を丸坊主にされた。
 その数、実に1100人(!)にも及ぶとか。
 これに関して、ある逸話がある。
 映画公開後の第2次大戦中、強制収容所に入れられた多くのユダヤ人が、男女を問わず髪を刈られたり入浴を強制されたりするなどの虐待を受けていたのは、皆さんもご存知の事だと思う。
 ある収容所に収監された男が、居並ぶ丸坊主頭の囚人たちを見て、
「……『メトロポリス』か?」
 と言ったとか。


 ヴィルコムが衣装をデザイン、制作するのと平行して、ヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフにはヴィルコムがデザイン、制作出来ない特殊な衣装のデザインと制作が指示された。
 7つの大罪の像、そして、本作の重要なキーヴィジュアルであり、後にルーカスがC‐3POのモデルにしたと言われるニセ・マリアの原型、ロートヴァングが開発した人造人間である。
 シュルツ=ミッテンドルフもまた、いつ頃から本作の制作に参加したのかは不明だが、既にノンクレジットながら『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』などのラング作品の制作に参加していた関係から、比較的早い段階で制作に携わっていると思われる。
 シュルツ=ミッテンドルフに課せられた仕事は、本作に登場する特殊な衣装をデザイン、制作する事だった。
 大聖堂の一角に飾られている等身大の死神と7つの大罪の像は、中に人が入っており、特殊な素材の衣装とマスクで再現された。
 衣装の方は、厚手の黄麻(注:コウマ。 麻の一種で、“オウマ”とも読む)の布で衣装を作り、中に針金を入れて彫刻のような形状に固定されている。
 頭部はもちろん黄麻ではなく、彫刻である。
 当時発明されたばかりの柔軟性木材を使用し、これを削り出して作成された。 柔らかく加工し易いため、当時はこのような用途に重宝されたのだそうだ。
 また、死神や肉欲の像(注:どちらも中の人はブリギッテ・ヘルム)の胸元にも、同じ素材を利用した彫刻が使用されている。
 この柔軟性木材を使用したもう一つの彫刻が、ニセ・マリアの素体である人造人間である。
 これも、死神と7つの大罪の像と同じく中に人=ブリギッテ・ヘルムが入っているのだが、シュルツ=ミッテンドルフは最初にヘルムの体の石膏型を取り、この石膏型の体型に合わせて人造人間の外見をデザイン。 そして、石膏型に合わせて柔軟性木材を削り出し、パーツ単位でこの人造人間スーツを作成したのだそうだ。
 またこの作成方法は、中世の甲冑の作成方法を参考にしたらしい。
 トコロで、この人造人間のデザインは、後にルーカスが『スターウォーズ』に登場する通訳ロボット、C-3POのデザインの参考にした事でも有名なのは序章や先に記した通りだが、実はシュルツ=ミッテンドルフの完全なオリジナルデザインというワケではない。
 この人造人間のデザインには、実は原典がある。
 例えば、ルドルフ・ベリング(注:ベルリン出身の彫刻家。 “トライアード”、“花のモティーフ”などの作品で知られる。 1886年~1972年)の1923年発表の作品、“彫刻23”は、抽象画をそのまま立体化したような真鍮製の頭部像で、本作のポスターにデザインされたヘルム(注:BD、もしくはDVDの完全復元版のパッケージを参照の事)にソックリであるし、オスカー・シュレンマー(注:彫刻作品も多数あるが、本業は画家。 後に、ワイマールに新設された美術学校、バウハウスの講師に就任する。 1888年~1943年)が1921年から23年にかけて制作した銅像は、やはり抽象画をそのまま立体化したような作品だが、曲面と平面の組み合わせが人造人間のデザインに似ている。
 また、創作バレエの“トリアディック・バレエ”(注:初演は1922年)にシュレンマーが提供した衣装デザインは、立方体や円錐、球体が組み合わされた独特の衣装で、ロボットのようなマスク(注:一部には、このデザインが日本の特撮ヒーロー、『ウルトラマン』の原典だと指摘する声もあるらしい)を着けたダンサーが現在のロボットダンスのようなカクカクした振り付けが特徴のバレエである。
 ちなみに、“トリアディック”は“三つ組み”の意で、いわゆるトリミティブ、三位一体の事である。 舞台は3部構成で、3人のダンサーが12通りの振り付けを18種類の衣装を着けて踊るという、“3”にこだわった内容なのだそうだ。
 それはともかく、こうした当時の最先端アート、前衛芸術の数々が、本作の人造人間のデザインに大きな影響を与えたのは疑うまでもなく確かだ。
 シュルツ=ミッテンドルフは、ラングの指示(注:…か、どうかは正直定かではないが…)により、これらの前衛芸術を参考に人造人間をデザインしたのである。


・撮影開始!

 先にも記した通り、本作は1925年5月22日に本編撮影がクランクインを迎えている。 が、映画の撮影順は、資料がないので正直不明である。
 しかし、2010年の完全復元版のリリースに合わせて出版された“Fritz Lang's METROPOLIS”という書籍(注:日本amazonなどから購入可能だが、ドイツ語版のみ。 邦訳版なんかありゃしない!)によると、現在の映画制作と同じく映画のストーリー進行とは順不同で撮影されたようだ。
 同書の記載順に従うならば、オープニングのアニメーションや映画前半部のモンタージュ(注:ケッテルフントによる絵画トリック)、ミニチュアショットなどの特殊効果撮影と平行して、

01:労働者の作業服姿で街中を歩くフレーダー
02:ヨシワラに向かう労働者11811号と、影なき男が彼を捕らえる場面
03:ヨシワラの前で張り込みしている影なき男
04:ニセ・マリアに先導されてヨシワラから出てくる紳士たちの群集
05:ヨシワラでニセ・マリアを巡って、紳士たちが争う場面
06:一連のヨザファートの自宅のシーン
07:自宅で寝込んでいるフレーダー
08:地下道でマリアがロートヴァングにさらわれるシーン
09:フレーダーセンがロートヴァングの案内で地下道を歩くシーン
10:カタコンベの集会と、フレーダーとマリアのツーショット
12:ニセ・マリアがカタコンベで労働者たちを煽るシーン
13:バベルの塔の伝説の群集シーンとミニチュアショット
14:労働交代と、ニセ・マリアに先導された労働者たちがゲートを壊すシーン
15:地下労働者街のエレベーター
16:地下労働者街の広場に集まる労働者たちと、浸水する地下労働者街
17:地下道を進むフレーダーとヨザファート
18:一連の非常階段のシーン
19:機械ホール
20:M機械と人食いモロク
21:祈りの機械で労働者11811号とフレーダーが入れ替わる場面
22:心臓機械
23:ロートヴァングの自宅で展開する全てのシーン
24:ニセ・マリアのダンス
25:御曹司クラブの競技場
26:永遠の園
27:フレーダーとマリアが、子供たちを御曹司クラブへ入れるシーン
28:フレーダーセンの社長室で展開するシーン全部
29:大聖堂前のラストシーン
30:死神と7つの大罪の像
31:一連の暴動シーンと、フレーダーとロートヴァングの決闘

 という順番で撮影された。
 翻訳ミスかもしれないので、必ずしもこの順番で撮影されたと断言は出来ないが、たぶん間違いないと思う。
 先にも記した通り、映画の撮影順というのは必ずしも映画の進行と同じ順番で撮影されるワケではない。 何故なら、セットであれロケであれ、撮影場所を移動する時間がもったいないからだ。
 例えば、学校が舞台で、1週間に渡って物語りが展開する作品があったとしよう。 そして、映画は主人公が自宅のベッドで目覚めるトコロから始まる。
 ベッドから起き、着替えや洗顔を済ませ、朝食を摂る主人公。 待ち合わせ場所でクラスメイトと合流し、学校に向かう。
 授業を受け、昼食を摂り、午後の授業を受けて放課後。 部活で汗を流し、その足で塾に向かい帰宅。 夕食を摂ったり風呂に入ったりした後、自室で就寝。
 これを、都合7回繰り返す。 すなわち、自宅、通学路、学校、塾というロケーションを行ったり来たりするワケだ。
 これを、物語りの進行と同じ順番で撮影していたら、ロケーション間を移動する回数がとにかく多く、その分の時間がムダになる。
 そこで、物語りの進行に関係なく、自宅なら自宅。 学校なら学校がロケーションになる場面を全て一気に撮ってしまう。 そして、最終的にポス・プロでの編集の際に、それぞれのショットを物語りの進行順に従って編集するのである。
 これならば、移動する手間が省けるので、結果的に撮影が早く済むのである。
 この、映画制作における“不順撮り”がいつ頃から一般的になったのかは、筆者は勉強不足なので分からないが、現在でも、映画の撮影ではこの“不順撮り”が一般的に行われている。
 映画ではないが、NHKの大河ドラマなどでは、この手法のために“第3話のシーン13”を撮った直後に、同じロケーションで“最終話のラストシーン”が撮影される、なんてコトも少なくないのだそうだ。
 これとは逆に、物語りの進行と同順で撮影するのを“順撮り”と呼ぶが、先ほど記した通り、ロケーションの移動の手間が増えるので、現在でもあまり一般的な方法ではない。
 が、現代の日本映画界を代表する巨匠、北野武の監督作品は、全てこの順撮りで撮影されているのだそうだ。 そのため、役者やスタッフは毎回かなり苦労させられているとかいないとか。
 それはともかく、本作でもそれは同じで、例えば23:のロートヴァングの自宅のシーンはかなり多いが、物語りの進行に合わせて適宜挿入されるシーンばかりで、全てのシーンに連続性があるワケではない。 一つ一つのシーンは全てバラバラで、一連のシークエンスとして構成されているワケではないのだ。 28:のフレーダーセンの社長室もそうだ。
 また、12:と13:のカタコンベのシーンは、物語りの前半部と後半部にそれぞれ挿入されるシーンだが、シーンの持つ意味合いは大きく異なり、正反対と言ってもいいほどであるし、14:のゲート前のシーンもやはり同様である。
 このように、映画の撮影は物語りの進行と撮影順が一致せず、演技によってキャラクターの感情を表現する役者にとっては、撮影順とキャラクターの感情の変化が一致しないため、演技に苦労する事が多いようだ。
 さらに言うなら、ラングの演出方法もこれに拍車をかける事になった。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


重装ドレス。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 ラストダンジョン最深部で入手出来る“ラスボス”の装備。 ご覧の通りかなり凝ったデザインの重装装備だが、ARはたったの10。 ……もうちょっと強力なモノにしてほしかった。
 紹介した防具意外にも、HM‐Ep1にはオリジナルデザインの武器も多数あり、同一デザインのチート気味なエンチャント装備もある。 アイテムコレクターなプレーヤーならば、コレクター心をくすぐられる事間違いなしのオススメMODである。
 てなワケで、HM‐Ep1は今回で(ようやく)終了です。 次回からは新たなシリーズを紹介する予定です。 お楽しみにッ!!



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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