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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

201.『メトロポリス』伝説:第1章②

2012年06月24日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #03-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 通刊201号!
 300号目指して心機一転がんばりたいと思います!(`・ω・´)/
 それはともかく、皆さんのお住まいの地域はどうでしたか? 台風。 今回は、日本列島ほぼ全域を縦断したため、愛知県で13万人以上に避難指示が出るなど、かなり広範囲で影響があったかと思われますが、風がそれほど強くなかったのがせめてもの救いでしょうか?
 以前、当ブログでも台風ネタを取り上げた時(注:『055.Area of God』2009/08/16うp)に書きましたが、通常この時期は、大陸から張り出した梅雨前線が日本列島に重なり、これに押される形で台風は列島の東、すなわち太平洋上に逸れる、もしくは中国大陸方向へ行くんですが、今回は太平洋高気圧が列島付近まで張り出し、梅雨前線と太平洋高気圧に列島が挟まれる形になったために、台風が直撃コースを通ったようです。
 この時期の台風の本州上陸は、数年振りとの事。(注:確か、2007年以来5年振りだったと思う。 違ってたらすみません。)
 しかし、それよりも注意したいのが、今回の台風が“4号”だという点。
 昨年は、このぐらいの時期にようやく1号が発生したのに対し、今年は既に4つ目。 しかも5号も既に発生した。
 今年は台風の当たり年になりそうな予感です。
 また、そうなると台風によって太平洋高気圧が活性化するので、今年の夏は一昨年のような酷暑になるやも知れず。
 日中の外出時には、くれぐれも熱中症にご注意を!


 それとは関係ありませんが、映画『未知との遭遇』35周年アルティメット・アナライズのPDF版、『Watch the Skies:Special Edition』は、予定通り明日、25日にMFD‐WEBにてアップ予定です。 お楽しみにっ!



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の85周年記念アルティメット・アナライズ、連載第3回です。
 今週から連載再開ですが、実は再来週には再びお休みする予定です。 4周年記念ネタをやるので。
 今年はホント色々とアニバーサリーネタが続くなぁ~。


2.ドイツと映画

 そもそも、ドイツ映画の歴史は驚くほど古い。
 1895年、ドイツのお隣の国、フランス―。
 世紀末を迎えた花の都パリは、モンマルトルの丘から吹き降ろすボヘミアン革命という名の風が吹き始めていた。
 若い作家や芸術家たちが、新しい芸術を模索し始めていたこの頃、それとは異なる“革命”が起きようとしていた。


・映画の夜明け

 同年12月28日―。
 舞台は、パリ市内にあるサロン・ナンディアンというカフェ。
 そしてこの“革命”の主役は、兄オーギュストと弟ルイの二人の兄弟、リュミエール兄弟。
 写真家の二人は、ココで自分たちが新しく開発したシネマトグラフというカメラを使って、ある“ショー”を行おうとしていた。
 広告に釣られて会場を訪れた人々は、1人1フランの入場料を払ってカフェへと入っていく。 収益は33フランだったというので、33人の観客がこの“ショー”に立ち会った事になる。
 会場は薄暗く、椅子が真っ白な壁に向かって並べてあるだけ。
 何が始まるのかと観客がざわつき始めたその時、目の前の真っ白な壁に、驚くべき光景が映し出された!
 とある工場の出口を映した一枚の写真。 それがなんと、動き出したのである!
 この“ショー”は、世界初の映画、『工場の出口』(1895年)の上映会だったのである。
 当時のカメラはとても性能が悪く、レンズの質も悪かった。 そのため、写真は撮影出来ても動画を撮る事は不可能だった。 撮ったとしても、とても暗くて何が映っているのか分からなかった。
 そこでリュミエール兄弟は、真夏の強烈な太陽光線を利用して、この映画を撮影したのである。
 上映時間、僅か46秒。
 しかし、鮮明に映し出された“動く写真”に、集まった観客たちは驚愕した。
 続けて、『ラ・シオタ駅への列車の到着』という、上映時間50秒の作品も上映された。
 史上初の映画上映は、同時に史上初の2本立て上映でもあった。
 この映画では、画面の奥から現れた列車が画面から飛び出してくるのではないかと思い、観客たちは上映途中で逃げ出してしまったという。
 このように、世界初の映画は大成功を収めたのである。
 このリュミエール兄弟の映画初上映をキッカケに、フランスで新しい娯楽としての映画が、大衆の人気を得るようになっていった。
 ……が、実はリュミエール兄弟に先立つ事およそ1ヵ月半前の同年11月1日、実はもう一つの“史上初”の映画上映会が開催されていた国があった! それが、ドイツなのである!
 ドイツの首都、ベルリン。
 この地に住むこちらもまた二人の兄弟、兄のマックスと弟のエミールのスクラダノウスキー兄弟が、ビオスコープという自作の映写機を使って映画の上映会を行った。
 記録が残っていないのか、それとも筆者のリサーチ方法が悪かったのか、詳細が判然としなかったが、スクラダノウスキー兄弟がカメラの前で踊っているおよそ7分(!)の作品、『Wintergartenprogramm』が上映されたそうだ。 また、これも翻訳上の問題から定かではないが、2500マルクの収益を上げているらしい。(注:ドイツ語の資料によるモノのため、翻訳ミスの可能性アリ。 “開発に2500マルクかかった”が正しいのかも。 ドイツ語なんてワカンネーから自信ないです)
 というコトはつまり、映画生誕の地はフランスではなくドイツという事になる。
 が、動く写真、すなわち“活動写真”という意味では、これに先立つ事さらに数年前の1880年代、アメリカの発明王トーマス・アルバート・エジソンが、ウェストオレンジ研究所に勤務していた頃に“キネトグラフ”という動画撮影機を既に発明しており、1891年にはのぞき眼鏡式の映写機、キネトスコープを発明し、どちらも特許を取得している。
 そのため、「誰が“世界初”か?」という議論が後に沸騰し、実は現在でも議論の対象になっているのだが、問題なのは“映画”の定義である。
 現在の映画“興行”の定義は、“観客からお金を取ってスクリーンに映した映像を観せる事”とされている。
 エジソンが発明したキネトグラフとキネトスコープは、確かに動画を撮影して観客に上映する事が出来、実際に商業用として遊園地などに設置されていたが、現在の映画のように“スクリーンに映像を映す”ワケではなく、のぞき眼鏡式だったので映画を観れるのは一度に1人までだった。 “複数の観客に同時に映像を観せる”事は、不可能だったのだ。
 そのため、これは“スクリーンに映像を映す”という映画の定義から外れていると言わざるを得ない。
 また、エジソン自身はカメラと映写機を発明しただけで、映画そのモノは撮っていない。(注:コレ重要! ……だと思う)
 スクラダノウスキー兄弟の上映会は、ビオスコープという映写機によって“スクリーンに映像を映す”という定義に当てはまっているが、“観客からお金を取る”という映画“興行”の定義が満たされていない可能性がある(注:飽くまでも筆者の考えです。 ドイツ語の資料が正確に翻訳出来なかったので)ので、やはり定義から外れている。
 そのため、現在ではリュミエール兄弟のシネマトグラフが、“観客からお金を取ってスクリーンに映した映像を観せる”という映画“興行”の定義を満たした世界初の上映会だと言われている。
 ハイ、ココ次のテストに出ますよ~? 名前の違いも大事だからマーカーでもってピ~~~って線引っ張っちゃって下さい?
 エジソンが、キネトグラフとキネトスコープ。
 スクラダノウスキー兄弟が、ビオスコープ。
 リュミエール兄弟が、シネマトグラフ。
 映画とは、“観客からお金を取ってスクリーンに映した映像を観せる事”。
 憶えておきましょうね?


 ハナシが逸れてきたので戻そう。
 ともかく、このようにして19世紀末にはドイツ映画の歴史は既に始まっていた。
 ……が、あまり発展しなかった。
 スクラダノウスキー兄弟は、この後も複数の作品を制作、上映しているが、当時は上流階級向けの娯楽で、大衆娯楽ではなかった。 しかも、その上流階級の人々にもすぐに飽きられ、一般大衆向けに遊園地などにも常設の映画館が作られたが、あまり見向きされなかった。
 トコロが、フランスでは事情が違っていた。
 リュミエール兄弟の発明(注:まさに“発明”!)は、一般大衆の心を掴み、様々な映像が撮影され、そして上映されていった。
 1900年には、パリで19世紀最後の万国博覧会が開催されているが、この万博でもリュミエール兄弟の映画は大変な注目を集めた。
 リュミエール兄弟は、万博の目玉として、エッフェル塔の下に巨大なスクリーンを吊るし、自分たちの映画を上映しようという企画まで立てている。
 ただし、この企画は強風によってスクリーンが落ちたりしたら大変危険だという理由で、万博主催者の許可が下りず、企画倒れに終わっている。
 ちなみに、この時の万博には、若かりし頃の夏目漱石(注:当時33歳)が会場を訪れている。 留学のためイギリスに向かう途中、漱石はパリに数日滞在し、開催中だった万博を見物したそうだ。 この時の事を漱石は、「大仕掛けでもう何がなにやら、方角さえ分からない。」と、家族に宛てた手紙に記している。
 それはともかく、このようにフランスでは映画が大衆の注目を集めるようになり、カメラマンたちはカメラを片手に世界中へと撮影旅行に出かけた。
 この時撮影された映像が、当時の人々に“世界”というモノをリアルに伝える事になった。
 そして、“大衆娯楽としての映画”を決定付けた作品が、やはりフランスで公開された。
 監督の名は、ジョルジュ・メリエス。
 世界初のSF映画、『月世界旅行』(1902年)である。
 元々奇術師だったメリエスは、劇場経営も手がける実業家でもあったが、実はリュミエール兄弟が1895年に行った世界初の映画“興行”の観客の一人だった。 その“動く写真”に魅せられたメリエスは、カメラを手に入れて映画製作に没頭するようになっていく。
 ある時、メリエスは撮影中にカメラのトラブルに見舞われる。 突然、カメラが止まってしまったのだ。
 しかし、この時撮影したフィルムを現像してみると、カメラが止まったトコロで画面から突然人物が消えるという奇妙な映像になっていた事を発見(注:まさに“発見”!)する。 メリエスはこれに強いインスピレーションを感じ、これを“意図的に”やってみる事にした。
 トリック撮影の誕生である。
 この撮影技法が誕生した事で、演劇には不可能な、映画ならではの“映像表現”が映画に与えられ、映画はいよいよ“映画”という独立した芸術への道を歩み始める。
 そうして制作されたのが、件の『月世界旅行』である。
 ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズの小説に着想を得て、科学者がバカデカい大砲を使って月へ行くという内容で、その高いストーリー性と豊かな創造性に満ちたヴィジュアル、そして何よりトリック撮影を駆使した鮮烈な映像に、観客は熱狂した。
 この映画は、これ以降の映画に多大な影響を与え、同じくトリック撮影を多用した『不思議の国のアリス』(注:アメリカ、1903年公開。 セシル・M・ヘプワースとバーシー・ストウによる共同監督作品。 上映時間僅か8分ながら、アリスの初の映画化作品)や、『オズの魔法使い』(注:アメリカ、1910年公開。 こちらも初映画化作品で、原作者のライマン・フランク・バウム自身が制作に参加した唯一の映画版。 上映時間13分)など、様々なトリック撮影映画が製作、公開されるようになっていく。


 映画黎明期と言えば、この人を忘れてはいけない。
 映画の父と呼ばれる映画監督、D・W・グリフィスである。
 それまでの映画は、舞台演劇を客席から撮影しているかのごとく、カメラは舞台を遠巻きに見ているだけだった。 それは、先にタイトルを挙げたトリック撮影が導入された作品、『月世界旅行』や『不思議の国のアリス』、『オズの魔法使い』などでも、同じだった。
 しかし、この映像スタイルを一変させたのが、グリフィスなのである。
 元々旅役者だったグリフィスは、役者として映画の世界に足を踏み入れ、カメラマンのG・W・ビリ・ビッツァと共に映画を撮るようになり、1908年から実に400本(!?)もの短編映画を手がける。
 この頃出会ったのが、名女優、リリアン・ギッシュ(注:1893年生まれ。 芸能生活75年という、“生涯現役”を通した名女優。 1993年に、100歳の誕生日を迎える直前で亡くなる)である。 グリフィスとギッシュは、1912年の『An Unseen Enemy』で初コンビを組んだのを皮切りに、多くの作品でコンビを組む事になるのだが、これは、グリフィスがギッシュのあまりの可憐さに惚れ込んだからであった。
 グリフィスは、その想いに突き動かされる形で、彼女をスクリーンいっぱいに大写しにしたいという衝動に駆られる。
 そしてグリフィスは、その衝動に身を任せ、大胆にもカメラを彼女に接近させたのだった。
 クロースアップ発明(注:まさに“発明”!)の瞬間であった。
 これにより、映画はキャストの細かな表情の変化、そしてそれに伴う感情の変化、すなわち情動という表現を手に入れた。 演劇では表現の難しい細かな演技も、映画ならば観客に分かり易く伝える事が出来るようになったのだ。
 さらにグリフィスは、映画における編集の重要性を世に知らしめた事でも有名である。
 フィルムを切って再び繋げるという、今では至極当たり前に行われている“編集”という作業過程は、トリック撮影の技法にも応用されている事からも分かる通り、それ以前からあるにはあった。 が、それは飽くまでもトリック撮影と、せいぜいシーンを繋ぎ合わせるためだけのモノで、それ以上の利用はされていなかった。
 この状況を一変させたのも、グリフィスである。
 グリフィスが多用した編集技法に、“ラスト・ミニッツ・レスキュー”というモノがある。
 これは、例えば崖から落ちそうなヒロインと、それを助けようと走る主人公を別々に撮影し、編集によって交互にスクリーンに映し出すという技法である。 これにより、ヒロインのピンチと主人公のヒーロー性が明確になり、シーンがよりドラマティックになるというメリットがある。
 観客に、息をもつかせぬハラハラドキドキ感を与える事が出来るのだ。
 今では至極当たり前に使われている編集技法だが、これを初めてやったのがグリフィスなのだ。 この革命(注:まさに“革命”!)により、映画は演劇とは異なる完全に独立した娯楽へと進化した。
 グリフィスは、これらの技法を駆使し、リリアン・ギッシュを主演に迎えた『國民の創生』(15年)や『イントレランス』(16年)、『散り行く花』(19年)など、映画黎明期の名作を次々と世に送り出し、後に“映画の父”と呼ばれるようになる。


 このように、フランスとアメリカを中心に映画は新しい大衆娯楽として受け入れられていったが、肝心のドイツではどうだったのだろうか?
 1910年代に入った頃から、ドイツでもようやく映画が大衆娯楽として受け入れられるようになり、街には映画館が立ち並ぶようになり始めた。
 しかし、ドイツ国内で映画が制作される事は少なく、特にストーリー性の高い芸術映画は、せいぜいパウル・ヴェグナーとシュテラン・ライの共同監督による『プラークの大学生』(注:エドガー・アラン・ポーの原作小説の映画化作品。 1913年公開)があったぐらいで、作品数は極めて少なかった。
 というのも、映画はもっぱら輸入に頼っていたからだ。
 当時の映画は、もちろんサイレント映画だったが、音声がないので中間字幕を翻訳したモノに差し替えるだけでよかったので、外国映画を輸入した方が安上がりだったからだ。 そのため、フランスやイタリア、デンマークなどの外国映画を輸入し、公開するのが当時のドイツ国内の映画館の主な仕事だったのだ。
 大衆もこの傾向を受け入れ、主にイタリアとデンマークの映画がドイツ大衆の人気を得るようになっていった。 映画館の数も増え続け、1916年までにドイツ国内の映画館は実に2000軒(!)を超える事になった。
 しかし、この状況が一変する大事件がドイツを襲った。
 先に記した、第1次世界大戦の勃発である。
 1914年に戦争が始まると、ドイツの敵国となった諸外国からの映画の輸入は途端に止まった。 そのため、2000軒以上も乱立していた映画館は上映する映画そのモノがなくなってしまい、途方に暮れる事になった。
 事態を重く見た時のドイツ政府は、この窮状を救済すべく国営の映画製作スタジオを設立する。 それが、ユニバーサル・フィルム・AG社。 後に、本書の主題である『メトロポリス』を製作、配給する事になるウーファ社であった。
 1917年、ウーファ社は創業を開始した。 しかし戦時だった事もあり、娯楽映画ではなくもっぱらニュース映画とプロパガンダ映画の制作が専門だった。 国内の映画館には、ウーファ社の映画が大量に供給されるようになった。
 大衆も、戦時である事は理解しており、他に観るモノもないのでこれらの映画を観るようになった。 その利益は莫大なモノになっていき、戦時で他の国の映画産業が衰退した事もあり、ドイツの映画産業はヨーロッパ最大規模にまでなっていく。
 それはまさに、後のナチス政権化でプロパガンダ映画が頻作されたドイツ映画界を予見させる光景だった。


・ドイツ映画の復興

 1918年―。
 長かった戦争がようやく終わりを告げ、世界に平和が戻ってきた。
 しかし、ドイツ国内は空前絶後のインフレに苦しめられ、国内情勢は悪化する一方だった。 物価は乱れ、失業率は増加する一方。 敗戦国ドイツの国民は、絶望のどん底を這いずり回るような生活を強いられるようになっていく。
 ……が、この事が、ドイツ映画を“復興”へと導く。
 戦争によってニュース映画とプロパガンダ映画一色になっていたドイツ映画界が、にわかに活気付き始めた。
 その理由の一つが、最大1兆倍という空前絶後のインフレだった。
 どういう事かと言うと、1ドル=5000万マルクという阿鼻叫喚の超マルク安のため、ドイツ映画は底値で輸出され、映画スタジオは利益を出すためにはとにかく大量に作りまくって輸出し続けるしか生き残る方法がなかった。(注:通常は、通貨の価値が下がると輸出は儲かるのだが、この時のドイツでは国内で最大1兆倍という空前絶後のインフレが起こっていたため、数字の桁が違うだけでむしろマルク高のような状態だったため) 1920年代に入る頃には、なんと年間600本(!)という、“映画のインフレ”が起こったのだ。
 これに、戦前は大衆に見向きもされなかった芸術映画の映画作家たちがチャンスを見出す。 映画を頻作しなければならなかった映画スタジオは、実験的な映画にも出資するようになったのだ。
 これが拍車をかける形で、ドイツ映画界は一気に加熱し、戦前は僅かしかなかった映画スタジオは、一気に230社以上(!?)にまで増加する。
 映画を作り易くなった映画作家たちは、こぞって実験的な芸術映画を作るようになっていった。


 この“映画のインフレ”と同時に、ドイツ映画界を襲ったある潮流の存在も忘れてはならない。
 表現主義の台頭である。
 表現主義(注:正確には、ドイツ表現主義、あるいはドイツ表現派と表記するのが正しい)とは、1910年代後半から1920年代前半にかけてドイツで起こった芸術運動で、伝統的な様式からの脱却を目指し、感情を表現する事を主体にした芸術の事である。
 最も直接的な源流はヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品とされているが、ドイツでは“青騎士”や“ブリュッケ”、“北ドイツ派”などいくつかの流派に分化した。
 後に、抽象画やシュールレアリスムに多大な影響を与えたこの芸術運動の根底にあったのが、先に記した第1次大戦の終結である。
 1918年11月、敗戦濃厚になったドイツで、時のドイツ皇帝であったウィルヘルム二世の退位を要求する革命が起き、ウィルヘルムは皇帝の地位から引き摺り下ろされ、ドイツは王族支配の時代を終えた。
 それまでの伝統を作ってきた王制が廃止された事で、旧来の伝統的様式を“古い価値観”と見なし、人々は新しい価値観を求めた。
 この欲求に真っ先に反応したのが、若い芸術家たちであった。
 マリアンネ・フォン・ヴェレフキン、ワシリー・カンディンスキー、ハインリッヒ・カンペンドンク、エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーなど、絵画や彫刻の分野で抑圧的な王族支配下の伝統的様式からの脱却を目指し、感情をストレートに表現した新しい芸術の模索が始まった。
 こうして生まれたのが、件の表現主義である。
 それはまさに、画一的で非人間的な様式美からの脱却、すなわち“人間性の再発見”を目指したかつてのイタリア、ルネッサンス芸術の再来を思わせる。
 絵画や彫刻の分野で始まったこの新しい芸術表現に、音楽や文学、建築の分野が追従し、最終的に演劇や映画の分野にまで波及する事になった。
 こうして、表現主義は芸術としての表現主義映画を生む地盤を形作ったのである。
 この、表現主義の台頭と映画の頻作というベーシックにより、戦後ドイツの混乱期にあってなお、ドイツ映画界はにわかに活気付き、大量の映画が制作、公開、そして輸出されるようになった。
 そんな中で制作されたある一本のドイツ映画が、ドイツ映画黄金時代の到来を高らかに宣言した。
 映画『カリガリ博士』(1920年)である。


 精神科医が夢遊病患者を使って殺人を繰り返させるというショッキングな内容のこの映画は、しかし絵画の中から抜け出したかのようなディフォルメされたセットデザインによるヴィジュアルが極めて高い評価を得て、ドイツ本国はもちろん諸外国でも絶賛され、まさに表現主義映画第1号になった。
 その映像表現は、後にかのアルフレッド・ヒッチコックにも影響を与えたと言われている。
 主演は、カリガリ博士役にヴェルナー・クラウス。 夢遊病患者のチェザーレ役にコンラート・ファイト。
 脚本は、劇作家のハンス・ヤノヴィッツとカール・マイヤーによる共著。
 美術を手がけたのは、画家のアフレート・クビーンやヘルマン・ヴァルムなど。
 監督は、ローベル・ヴィーネ。
 エーリッヒ・ポマーが製作を務め、デクラ社の配給により製作されたが、この作品のヒットにより、ドイツ映画界は表現主義映画が頻作されるようになっていく。
 映画『カリガリ博士』と同じ1920年に公開された『朝から夜中まで』は、ゲオルグ・カイザーの戯曲を映画化した作品だが、ドイツ映画史上初の全編モノクロ映画だった。
 当時のドイツ映画は、モノクロフィルムに着色して公開するのが常であったが、この映画ではその常識を打ち破り、全編モノクロのままでの公開に踏み切った画期的な作品であった。
 これ以降、ドイツ映画は全編モノクロが主流になっていく。
 またそのヴィジュアルそのモノも、モノクロフィルムに映えるコントラストを強調したセットや衣装デザインに表現主義の影響が見られ、まさに表現主義絵画をそのまま実写で再現したようなヴィジュアルが高い評価を得た作品である。
 表現主義映画を語る上で欠かせない作品である映画『巨人ゴーレム』もまた、1920年に公開された作品だが、この作品で美術を担当したハンス・ペルツィクは、主に貧民街のセットデザインを手がけたが、建物の屋根の方が道路に向かって傾斜しているというディフォルメしたデザインを行い、ある種の閉塞的な空間を表現した。
 実際に映画を観てみると、まるで建物が道行く人々に向かって迫ってくるような威圧感がある。
 ちなみに、ストーリー的にはメアリー・シェリーの不朽の名作、『フランケンシュタインの怪物』に良く似ている。 ……ってゆーかほぼそのモノだ。(笑)
 これら表現主義映画の先進的な映像表現が、王政支配からの脱却を求めた当時のドイツの大衆の欲求に応え、ドイツ国内における大衆娯楽としての映画の地位を底上げし、言わば大衆のストレス解消の役割りを果たしていたのは間違いない。
 こうした需要に応える形で、ドイツ映画界は表現主義映画を中心に大量の作品を供給し続ける事になった。
 中には、ヴァルター・ルットマンがアニメーション技法によって製作した『光の遊戯』(注:全4篇の短編だが、4篇全部合わせても僅か6分50秒しかない超ミニマム映画。 幾何学模様が踊るようにアニメーションするという、今から思えば何がしたいのか全く分からない作品だが、当時はまだウォルト・ディズニーのミッキー・マウスがいなかった時代で、“動く絵”に観客は度肝を抜かれた。 当時、“絶対映画”と呼ばれるほど極めて高い評価を得た作品。 1921年~1925年)のような実験的な作品もあった。(注:このアニメーションは、後にフリッツ・ラングも映画『ニーベルンゲン』の中で真似するほど影響を与えた)
 そして、その中でも飛び抜けた存在になったのが映画『ノスフェラトウ』(1922年)であり、これを監督したのが、このドイツ映画黄金時代の代名詞的存在であるフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウである。
 コナン・ドイルやモーリス・ルブランと並んで、19世紀のイギリス文学を代表する作家、ブラム・ストーカーの代表作、『ドラキュラ』を原作としたこの作品は、トリック撮影と特殊メイク、そして忍び寄る影によって美女の生き血を啜る吸血鬼の恐怖を大胆に描き、『ドラキュラ』の初映画化作品として現在も極めて高く評価されている作品である。(注:ただし、ストーカー自身は既に他界していたが、著作権を保有していたその妻、ストーカー夫人に無許諾で製作されたため、後に著作権問題でもめる事になった)
 ただ、個人的な事を言わせてもらえば、筆者はこの作品はあまり高く評価していない。 当時の技術的、予算的、製作期間的制約に圧迫される形で、ストーカーの原作にあった要素はことごとくカット(注:ヴァン・ヘルシング卿すら登場しないほど)され、原作との相違点ばかりが目立つ作品になっているからだ。
 ちなみに、タイトルは『ノスフェラトウ』だが、作品中では吸血鬼の事をハッキリ“ドラキュラ”と呼んでいる。
 ……そりゃあストーカー婦人も怒りますよ。
 それはともかく、とにかくこの作品は大ヒットを記録し、ドイツ国内はもちろん、お隣の国フランスでも極めて高い評価とセールスを上げ、特にパリでは大絶賛された。
 ドイツ映画黄金時代は、まさにピークを迎えようとしていた。
 この『ノスフェラトウ』の大ヒットと前後してパリの街を沸かせていたのが、1921年公開の映画、『死滅の谷』である。
 そして、この映画を監督した人物こそが、後に本書の主題である『メトロポリス』を監督する事になる映画監督、フリッツ・ラングその人なのである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


セイバ-じゃないけどリリィ。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 ミニスカワンピ&シースルー。 背中のリボンがフリフリ揺れるのがポイント。
 プリ系のクラスに似合うのではないかと思う。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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199.『メトロポリス』伝説:第1章①

2012年06月10日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #02-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 ……はぁぁぁああああぁぁぁああぁぁ……。(←タメ息)
 ホント、自民党は信用ならんね。 野田クンももういいよ。 これ以上曝しようがないぐらい恥曝したんだから、いい加減早く辞めな? ってゆーか死んでいいよ? イヤイヤマジで。
 死んでほしいヤツがのうのうと生きてて、死んでほしくない人がいつの間にかいなくなる。
 世の中ホントにままならない。
 寛仁さま、20年以上に及ぶ闘病、本当にお疲れ様でした。 ごゆっくりお休み下さい。


 それはそれとして、今週の特集コーナーをどうぞ。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の85周年記念アルティメット・アナライズ、連載第2回です。
 最後までヨロシクね☆


第1章:『メトロポリス』の時代‐1920年代:ドイツ

 映画『メトロポリス』は、1920年代のドイツ映画黄金時代を象徴する作品として1927年に公開された。
 本作を始め、ドイツの1920年代は後の世界の映画界に多大な影響を与える事になる名作、傑作の数々が多数生み出された時代であった。
 映画『メトロポリス』を探求する旅のハジマリは、このドイツ映画黄金時代となった1920年代という時代がいったいどういう時代だったのかを知るために、まずはこの時代の歴史を紐解く事から始めるとしよう。


1.時代背景

 20世紀初頭―。
 ヨーロッパの中央部を支配していたのは、今は亡きオーストリア=ハンガリー帝国であった。
 当時のヨーロッパは、このオーストリア=ハンガリー帝国を始め、大英帝国(イギリス)、ドイツ帝国、そしてロシア帝国がヨーロッパを、そして世界を支配していた。
 いわゆる“ヨーロッパ列強”の時代である。
 ヨーロッパ列強各国は、19世紀から20世紀初頭にかけてアジアや南米、アフリカに入植し、合計で実に地球全土の5分の4(!?)を植民地にしていた。
 しかし、ヨーロッパ列強各国は、決して平和的に共存共栄していたワケではない。 それぞれがお互いに、領土拡大と新たなる植民地獲得に向けて、その機会を虎視眈々と狙っていた、言わば見せかけだけの平和、“冷戦”の時代であった。
 オーストリア=ハンガリー帝国は、現在のオーストリア、ハンガリーを中心に、隣接するチェコ、スロバキア、バルカン半島など、当時のロシア帝国と隣接する東ヨーロッパのほぼ全域を支配する巨大な国家であり、多くの民族を抱える多民族国家であった。
 このオーストリア=ハンガリー帝国を支配していたのが、ハプスブルグ家。 この皇室で起こったある事件が、後に世界中を巻き込む事になる第1次世界大戦の引き金になったのである。
 当時、皇帝の地位にあったのはフランツ・ヨゼフ一世。 既に80代も半ばを迎えた老翁である。
 そのため、諸外国から注目されていたのは皇帝のヨゼフではなく、皇位継承権第1位であった皇太子、フランツ・フェルディナンドであった。
 ドイツ統一を果たしたばかりのドイツ帝国皇帝、カイザー・ウィルヘルム二世は、大英帝国と並ぶヨーロッパ列強の筆頭であったオーストリア=ハンガリー帝国と同盟を結び、領土拡大と植民地獲得の機会を虎視眈々と窺っていた野心的な皇帝であった。
 しかし、ヨゼフは比較的ドイツに好意的だったが、皇太子のフェルディナンドは反ドイツ派で、皇位継承の際に同盟を絶たれるのではないかという不安があった。 そのため、ウィルヘルムはコトある毎にフェルディナンドに接触し、フェルディナンドの関心を買おうとしていた。
 だが、当のオーストリア=ハンガリー帝国にとっては、そんなコトはどーでも良かった。 当時の帝国の最大の関心事は、バルカン半島にあった。
 当時のバルカン半島は、(今でもあまり状況は変わらないが)複数の国家が乱立し、民族紛争の耐えない地域だった。 帝国は、この紛争を鎮圧、併合する事によって、領土拡大を画策していたのである。
 併合して間もないボスニア=ヘルツェゴビナは、しかし帝国からの独立を叫ぶ独立運動組織が多数あり、いくつもの暗殺者集団が潜伏する危険な地域だった。
 しかし帝国は、かの地に皇太子夫妻を向かわせた。
 帝国支配を誇示するためのデモンストレーションの意味があったが、これが悲劇の始まりになるとは、誰も考えていなかった。
 1914年6月28日。
 ボスニア=ヘルツェゴビナの首都、サラエヴォに到着したフェルディナンド皇太子夫妻を乗せた真っ赤なメルセデス・ベンツのセダン車は、市庁舎訪問後、昼食会に向かうため市内をパレードした。
 しかしその時、帝国からの独立を叫ぶ暗殺団、“黒い手”のメンバーであったセルビア人青年の捨て身のテロに遭い、夫妻は凶弾に倒れた。(注:この時夫妻が乗っていた車は、事件の後多くの人々の手を渡り歩く事になるが、この車を所有した20人近い人々が全員不可解な死を遂げる事になった。 最後の所有者となった人物は、厄払いにこの車の真っ赤なボディを青色に塗り替えるが、4人を巻き込んで事故死した。 後に、この車はウィーンの軍事博物館に寄贈され、現在も同博物館に展示されているが、暗殺事件の時に出来た弾痕は、最後まで修理される事なく、現在も当時の生々しい記憶を止めている。 ……この弾痕が“呪い”の原因なのでは?)
 これを理由に、帝国はセルビアに宣戦布告。 帝国と同盟を結んでいたドイツも、実に450万人を動員して帝国の後に続いた。
 しかしココで、思わぬ“伏兵”が現れる。
 ロシア帝国である。
 ロシアは、セルビアを助ける形でドイツに宣戦布告。
 さらにイギリス、フランスがこれに呼応し、ドイツに宣戦布告する。
 こうして、1914年7月28日、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第1次世界大戦が勃発した。


・第1次世界大戦

 開戦当初、ヨーロッパ全土で実に合計1000万人もの兵士が動員されたが、彼らは誰も、この戦争が“世界大戦”になるとは思っていなかった。 出征した兵士たちは皆、戦争は数週間で終わり、クリスマスまでには帰れると信じて疑わなかった。
 しかし、この状況を一変させたのが、戦場に投入された新兵器、“機関銃”の存在であった。
 イギリスのヴィッカース社(注:第1次大戦から第2次大戦まで隆盛を極めた兵器会社)や、フランスのホッチキス社(注:“あの”ホッチキスです。 文房具のアレ。 元々は、機関銃の弾を送り込む仕組みを応用したモノ)など、当時新開発されたばかりの機関銃は、馬と徒歩、そして大砲と騎兵による突撃という、ナポレオン以降続いていた伝統的なヨーロッパの戦争スタイルを一変させた。 ドイツ軍の進攻は足止めされ、塹壕戦が始まった。
 地面に溝を掘り、突撃を防止する鉄条網を張り巡らし、辛抱強く放火を浴びせて敵を疲弊させる。 いわゆる消耗戦が、20世紀の新しい戦争スタイルを形作っていった。
 この塹壕は、お互いに敵の裏側に回り込もうとどんどんどんどん長くなり、僅か数週間で北海にまで達し、総延長700km(!)というとてつもなく長い戦線が築かれる事になった。
 ちなみに、この塹壕戦を通じて正確な時間にタイミングを合わせて行動する必要から兵士に支給されたのが、腕時計である。 それまでの懐中時計ではなく、腕時計が普及したのはこの第1次大戦からである。
 また、最大の敵は機関銃ではなく、雨だった。 水はけの悪い塹壕は冷たい泥で満たされ、そこに立っている兵士達の足は、ヒドい水虫と凍傷に悩まされる事になった。 いわゆる“塹壕足”と呼ばれるこの症状は、第1次大戦特有のモノであった。
 それはさて置き、これと時を同じくして、ドイツは“空の魔王”と呼ばれた飛行船、ツェッペリン号に爆弾を積み込み、ドーバー海峡を渡ってイギリス本土上空に飛来。 ロンドンを爆撃した。 空襲の始まりである。
 この飛行船による空襲は、実に139日間、毎日繰り返される事になった。
 帰れるハズのクリスマスを過ぎ、年が明けて1915年になると、ドイツ軍は毒ガス開発を急速に進めるようになる。 同時に、ガスマスクも開発されたが、この時開発された毒ガスは、実に3000種(!)にも上った。
 そして、この年の4月22日、ドイツ軍は120トンもの塩素ガスを戦場に散布。 イギリス軍の兵士5000人が死傷した。 これが、実戦で毒ガスが使用された初めての事例であった。
 こうした戦争の長期化に伴い、物資と共に人的資源も不足。 列強各国は、東南アジアやアフリカ、南米などの植民地から志願兵を募り、実に合計300万人もの植民地兵が召集された。
 当時最も多くの植民地を有していたイギリスの軍隊は、実に4人に1人が植民地兵という有様だった。
 また、人手不足を補うため、戦地に向かった夫たちの代わりに、女性たちが働くようになったのもこの頃で、イギリスでは女性兵士まで採用され、物資の輸送や通信兵として活躍した。 この事が、戦後の女性参政権獲得へとつながっていく事になる。(注:当時の女性には参政権、すなわち選挙の投票権がなかった。 この頃のイギリスを舞台にした64年公開の映画『メリーポピンズ』でも、女性の参政権運動の様子が描かれている)


 この頃、世界の他の地域でも戦争が起こっていた。
 中東を支配する巨大な国家であったオスマン・トルコ帝国は、しかし民族紛争が絶えず、いつ分裂してもおかしくない状況だった。
 この混乱に乗じ、アラブ独立を目指したファイサル一世に協力したのが、イギリスの諜報員、いわゆる“アラビアのロレンス”である。 ロレンスは、ドイツ支持派のトルコを打倒し、親イギリス派のアラブを中東のリーダーにするためにイギリスが送り込んだスパイであった。 ロレンスは、ロールスロイス社製の装甲車を駆り、トルコ軍をかく乱する任務に従事した。
 一方極東アジアでは、既に中国大陸進出を果たしていた日本が、大戦勃発と同時に当時の同盟国であったイギリスを助ける、という名目で、ドイツの植民地だったチンタオに出兵。 中国での利権拡大が目的だった。
 また、同じくイギリスの求めに応じ、地中海に日本海軍艦隊を派遣している。
 戦争反対で中立を保っていたアメリカは、この頃軍需景気に沸き、貿易額は一気に4倍にまで跳ね上がり、兵器や弾薬はもちろん、カンズメの輸出が最盛期を迎え、国内はかつてない好景気に恵まれた。 最終的な貿易利益は、当時世界第1位だった。(注:これに続いたのが、実は我が国日本である。 日本の輸出産業の主力だった生糸の生産高は4倍にまで膨れ上がり、アメリカに次ぐ世界第2位の貿易利益を上げる。 この好景気に支えられ、日本は急激に経済発展し、“成金”という言葉が流行語になった)
 また、映画の都ハリウッドが急速に発展するのも、この頃である。
 戦争によってヨーロッパ映画が衰退したため、ハリウッド式の娯楽映画が大量に頻作され、海外に輸出された。
 イギリスから移民してきたチャップリンが、ハリウッドで名声を得るようになったのもこの頃である。 映画会社と交わした契約金は、67万5千ドル。 これは、当時のアメリカ大統領の年収のおよそ7倍(!!)という、文字通り桁外れの金額であった。


 1916年に入ると、塹壕戦で膠着状態が続く戦線に、これを打開する決定的な新兵器が投入された。
 イギリス製のマークⅠ。
 そう、戦車である。
 これを提案したのが、当時のイギリス海軍大臣であったウィンストン・チャーチル。 後にイギリス首相になり、第二次大戦でナチスドイツと戦う事になる人物である。
 チャーチルは、当時発明されたばかりの農業用トラクターに着想を得て、“防弾鋼板を貼った動くシェルター”を考案。 塹壕や鉄条網を強行突破する新兵器として実戦配備され、絶大な効果を挙げた。
 従軍していたドイツ人作家、レマルクは、後に著書『西部戦線異状なし』の中で、戦場に現れたこの新兵器を「戦争の恐ろしさそのモノ」と記している。
 これがキッカケとなり、フランスのスナイダー、ドイツのA7Vなど、各国は総力を挙げて戦車の開発に勤しむようになる。
 また、飛行船による空爆はより機動力の高い飛行機に代わった。 爆弾の投下装置が考案され、さらにこれを迎撃するために機関銃が取り付けられ、空中戦が始まる。
 大砲は、もちろん元々あったが、戦争も3年目に入ろうかという頃になると、天井知らずに巨大化していった。
 最大のモノは、なんと重さ1トン。 人間大の砲弾を、列車2両分に相当する巨大な大砲で発射するようになった。
 第1次大戦で消費された砲弾は、推計でおよそ13億発。(!?) これは、日中戦争全体で使用された砲弾の、実に500倍(!!)に相当する。
 また、この絶え間ない砲弾の雨に晒され、塹壕の中の兵士たちは恐怖のためにヒドい神経症に冒されるようになった。
 後に、これは“シェルショック”と呼ばれるようになり、イギリスだけでも12万人ものシェルショック患者を出す事になった。
 こうした新兵器投入の中でも、イギリスやフランスを恐怖させたのが、ドイツの海の新兵器、Uボートであった。
 1916年5月31日、デンマークのユトランド沖で展開した海戦は、第1次大戦最大の海戦であったが、この海戦でドイツ海軍はイギリス海軍に敗北。 起死回生を図って実戦投入したのが、潜水艦Uボートであった。
 Uボートは、イギリスやフランスに物資を運ぶアメリカの民間船を攻撃。 ライフラインを絶つ事で、いわゆる兵糧攻めを行ったのである。
 が、この民間船に対する言わば無差別攻撃は、後にアメリカ参戦の理由の一つになった。
 また、ユトランド沖海戦に敗北したドイツも、海路を絶たれて物資が不足。 “欲しがりません、勝つまでは!”という標語が、ドイツ国民の合言葉になった。


 しかし、ドイツよりも悲惨だったのが、ロシアだった。
 工業生産力の低かった当時のロシアは、開戦後僅か1ヵ月で武器弾薬の不足が深刻な問題になり、1917年に入ると、実に100万人もの兵士が戦線放棄するほど、物資の不足は深刻な状況になっていった。
 それは、戦場になっていない市街地でも同じで、戦線に物資を輸送する事を優先したために、一般市民への供給が不足し、配給所には配給待ちの市民の列が絶える事なく続いた。
 1917年2月23日、ペドログラートでパンの配給待ちをしていた市民たちの怒りが、ついに爆発する。
 ロシア2月革命である。
 この革命により、ニコライ二世を筆頭にロシア帝国を支配していたロマノフ家は全員が拘束され、シベリアに強制送還された後銃殺刑に処せられた。
 世界屈指の富を誇ったロマノフ王朝は、300年の歴史に幕を下ろした。
 さらに同年10月24日、今度は戦争中止を要求するデモ隊が軍と衝突。 10月革命である。(注:この革命の様子は、後にエイゼンシュテインによって映画化され、古典的名作『十月』に描かれる事になる。 革命軍役を演じたのは、実際に革命に参加した人々だった)
 この革命により、レーニンが史上初の社会主義政権を樹立。 ロシア帝国はソビエト社会主義共和国連邦となり、大戦からの離脱を宣言。 ドイツ軍と戦っていた東部戦線の兵士は、全員が引き上げられた。(注:この混乱に乗じ、各国がシベリアに進駐した。 特に日本は、7万人もの兵士を投入したが、大戦終結後もシベリアに止まったため、国際非難の的になった)
 この戦争を“世界大戦”にしたのはロシアだったが、この戦争を終わらせる事になったのもやはり、ロシアだった。
 ロシアが戦線離脱した事で、ドイツは東部戦線から兵を引き上げ、全戦力をフランス、イギリス連合軍と対峙する西部戦線に投入。 戦線のパワーバランスは一気に崩れ、連合軍はジリジリと後退を余儀なくされる。
 が、これに待ったをかけたのが、アメリカだった。
 アメリカは反ドイツを掲げ、プロパガンダ映画『人間の心』(注:エーリッヒ・フォン・シュトロハイム出演作)や、「ジョニーよ銃をとれ」の歌詞で有名な戦意高揚のための楽曲、『オーバー・ゼアー』を作るなどして、アメリカ国民に“民主主義のための参戦”を呼びかけた。
 チャップリンは、戦争資金調達のためのプロパガンダ映画『公債』を制作。 街頭演説にも借り出された。
 しかし、実際の参戦理由は別にあった。 もしも連合軍が負けると、イギリスやフランスに輸出した物資の代金、すなわち貸付金がコゲ付く恐れがあったため、というのが本音だった。
 ともかく、こうしたプロパガンダが功を奏し、選抜徴兵制によって実に400万人もの兵員が動員され、1917年5月に出兵。 塹壕を掘るための最新式の掘削機や、新たに開発された無線機やガス弾銃、火炎放射器などを実戦投入し、軍需景気によって蓄えた豊富な物資を伴って、アメリカはドイツ軍を圧倒し始める。
 1918年に入ると、ドイツ軍は最後の望みを賭けて総攻撃に出た。
 が、イギリス、フランス、アメリカの連合軍の反撃の前にあえなく敗退。 壊滅的な打撃を受け、戦争の勝敗は最早明らかだった。
 そのため、同年11月にドイツ国内で革命が起き、皇帝のウィルヘルム二世が退位。 同時に、連合軍との間に休戦が成立。 4年間に及んだ世界大戦は、終結した。
 これと前後して、チェコスロバキアとハンガリーがオーストリアから独立。 オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、ドイツは敗戦国となってその責任を問われる事になった。
 後のナチスドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、一兵士として戦闘に参加したが、負傷したため戦争終結を療養中の病院のベッドの上で知った。 その時の事を、ヒトラーは著書『我が闘争』の中で、「全てはムダだった」と嘆いている。 そして、これがキッカケとなり、ヒトラーは政治家になる事を決意したという。
 後にイギリス首相になり、そのヒトラーと戦う事になるチャーチルは、大量破壊兵器の登場により後の戦争システムが確立されたこの戦争を、「戦争から、煌きと魔術的な美が奪い取られた」と回想している。
 ……お前が言うな。(注:チャーチルは戦車の考案者)
 1918年11月11日、第1次世界大戦終結。
 死者、900万人。
 負傷者、2000万人。
 ハプスブルグ家、ロマノフ家、ウィルヘルム家という、王族支配によるヨーロッパ列強の時代は終わりを告げ、人々は焼け野原からの復興を始めた。


・戦後混乱期

 1919年1月、戦後処理を決定する講和会議が、フランスはパリのベルサイユ宮殿で開催された。
 このベルサイユ会議には、第1次大戦に参戦した27ヵ国もの国の主導者が集結したが、主役はイギリス、フランス、そしてアメリカであった。
 この会議に出席した時のアメリカ大統領、ウッドロウ・ウィルソンは、世界の新秩序となる国際連盟の構想を引っさげて会議に望んだ。 厳格な理想主義者であったウィルソンは、ヨーロッパでは人気のある政治家だった。
 しかし、アメリカ議会はウィルソンを支持せず、国際連盟にも参加しない決議を可決。 軍需景気に沸き、好景気に恵まれていたアメリカは、国内での戦闘が皆無だった事もありヨーロッパからの移民が急増。 国内の事だけで手一杯で、海外の事まで気にしている余裕はなかったのだ。
 この会議において、ドイツは国土の一部を割譲、または国際連盟の管理下に置かれる事になり、軍備の制限などのペナルティが課せられた。
 が、それより何よりドイツにとって最大のペナルティになったのが、巨額の賠償金であった。
 賠償金の総額は、なんと1320億マルク。 毎年20億マルクと、輸出額の26%を向こう30年間支払うというモノで、当然この金額はドイツの支払い能力を超えるモノだった。
 しかし、ベルサイユ会議直後に発足したワイマール政権は、この条約に強制的に調印させられ、賠償金の支払いにも応じさせられた。
 これにより、ドイツマルクの価値は下がり続け、為替レートは1ドル=5000万マルク(!?)というとんでもないマルク安になり、ドイツ国内は最大1兆倍(!?)という空前絶後のインフレに苦しめられる事になる。
 工業生産力は低下し、失業率は上がる一方。 ただでさえ、戦争直後で物資が不足していたドイツは、疲弊するばかりだった。
 臨時的に発足したワイマール政権の政策は効果が上がらず、時間の経過と共に国内情勢は悪化する一方だった。
 しかしそれは、戦勝国でも同じだった。
 社会主義政権が発足したばかりのソ連では、1921年に記録的な干ばつがソ連全土を襲い、実に300万人もの餓死者を出すほどだった。
 これを受けて、ソ連は諸外国に援助を要請する。 これに真っ先に応えたのが、アメリカだった。 ただし、この援助はソ連に捕らえられているアメリカ人の釈放が条件だった。
 そのアメリカは、好景気に沸き若者文化が花開くが、その実態は、低賃金の移民労働者だった。 大量に流入したヨーロッパからの移民は、驚くほどの低賃金で働かされ、アメリカの好景気を支えていたのだ。
 この不満から、アメリカではストライキが頻発。 これと前後して、クー・クルックス・クラン、いわゆるKKKによる黒人差別が激化し、さらに間の悪い事に禁酒法がアメリカ全国で施行され、もぐり酒場や密造酒によって莫大な利益を上げたアル・カポネを筆頭にしたシチリア系マフィアの台頭へとつながり、マフィア同士の抗争が激化。 国内情勢は、悪化する一方だった。
 ちなみに、ラジオ放送が始まったのはこの頃(注:1920年秋、ピッツバーグにて)で、ラジオ人気と共にニューヨークのブロードウェイがミュージカルのメッカになっていたのも、この頃である。
 また、1921年5月7日には、日本皇室の皇太子、裕仁親王(注:後の昭和天皇)が、イギリスを訪れている。 ヨーロッパ5ヵ国訪問の旅の一環で、日本を世界にアピールする目的があった。
 日本皇室の海外訪問は、これが史上初だった。
 当時20歳だった裕仁親王は、この時の旅を「カゴの鳥だった私にとって、初めて自由な生活というモノを体験した旅だった。」と、後に語っている。
 それはともかく、世界各国が戦後復興に勤しむ中、ドイツは滅亡したオーストリア=ハンガリー帝国の分までも肩代わりする形で戦争責任を問われ、極めて厳しいペナルティを課せられ、激しいインフレに苦しむ事になった。
 が、幸か不幸か、これがキッカケでにわかに活気付いたモノがある。
 それが、実はドイツ映画界なのである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 さて来週は、連載を一時お休みして、当ブログのアニバーサリーネタをお送りする予定です。 お楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


被服面積最小。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 エロ装備その1。 クイコミがヤバ過ぎ。 後ろもかなりキてるます。
 ちなみに、マフラーもセット。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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198.『メトロポリス』伝説:序章

2012年06月03日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #01-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 6月になりましたが、今週は特に書く事もないのでとっとといきます。
 ……あ、もう既に皆さんお気付きかと思いますが、再来週は当ブログのアニバーサリーネタです。
 お楽しみにっ!(注:……ってほどのネタを用意してるワケじゃないですが。(^ ^;))



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、早くもスタートの新連載第1回!
 昨年の1年間で僕がハマりハマった映画、フリッツ・ラング監督作品の『メトロポリス』を徹底解説!
 最初に言っておきますが、長いです。
 気長にお付き合い頂けたら幸いです。


序章

 1977年5月25日―。
 この日公開された1本のハリウッド映画が、世界の映画の歴史を変えた。
 その映画は、『スターウォーズ』!
 総製作費は僅か840万ドル。
 3人の主演俳優は全員新人。
 当時は、製作費がかかるだけでコストパフォーマンスの悪いジャンルでしかなかったSF映画。
 しかも、監督はまだ1作当てただけの一発屋。
 しかしその物語りが、音楽が、特殊効果が、全てが映画の常識を超えた。
 そして観衆は、誰もがこの壮大なサーガに酔いしれた。
 この映画を監督したジョージ・ルーカスは、この大成功によって名声を勝ち得たが、本来であるならもっと早い時期にこの栄光の時を迎えるハズだった。
 カリフォルニア州のモデストに生まれ育ったルーカスは、幼い頃から『フラッシュ・ゴードン』や『バック・ロジャース』といった連続活劇を観て育ったが、映画の道を本格的に目指すようになったのは、モデストを離れて映画学科が充実している名門校、南カリフォルニア大学(USC)に入学してからだった。
 しかしココで、ルーカスはその類希なる映像センスを発揮する。 そして監督したのが、短編映画『電子的迷宮:THX‐1138 4EB』(67年)であった。
 本来は、上映時間5分という課題を与えられて制作した短編だったが、ルーカスはこれを無視して15分の作品を撮る。 そして、その鮮烈な映像が認められ、ルーカスはこの作品で同年の全米学生映画祭でグランプリを獲得。 同級生の中でも飛び抜けた存在になった。
 USCを卒業したルーカスは、この実績を引っさげてワーナーの若手育成プログラムに参加する。
 当時のワーナーは、経営不振のため映画製作ドコロではなく、ルーカスにも仕事は与えられなかったが、ルーカスはココで既に映画監督デビューを果たしていたフランシス・フォード・コッポラと知り合う。
 この出会いがキッカケとなり、ルーカスはコッポラの独立プロダクション、アメリカン・ゾエトロープ社の創設に参加。 同社最初のプロダクション作品が、ルーカスの短編版『電子的迷宮:THX‐1138 4EB』の劇場用リメイク作、『THX‐1138』(71年)であった。
 しかし、完成した映画の前衛的で難解な作風が配給スタジオであるワーナーの重役陣の理解を得られず、誤ったプロモーション戦略の犠牲になり、映画はモノの見事に失敗してしまう。
 この責任を取らされる形で、ゾエトロープ社が製作を前提に用意していた7本分の脚本も不採用になり、ゾエトロープ社は“一時休業”にまで追いやられてしまう。(注:ただし、その後再建され、現在はコッポラのプロダクションスタジオとして多数の映画を製作している)
 大事な大事なデビュー作で屈辱を味わったルーカスは、プロダクションが倒産した事もあり、仕方なく独立を決意。 自身のプロダクションスタジオであるルーカス・フィルム・LTDを設立。 同社最初の仕事になったのが、映画『アメリカン・グラフィティ』(73年)であった。
 ルーカスの生まれ故郷であるモデストの思い出を基に、60年代中頃の若者たちのある夏の夜の出来事を描いたこの作品は、総製作費僅か80万ドル。 たった4週間で撮影された超ミニマム映画であった。
 トコロが、公開されるや否や、この映画は瞬く間にヒットチャートを駆け上がり、最終的に海外配給分も含めてなんと1億ドル(!?)を稼ぎ出す大ヒットになった。(注:同年の年間興行収益ランキングでも、3位に入るほどだった)
 これと前後して、ルーカスが構想したのが、宇宙を舞台にした壮大なスペースオペラであった。
 ルーカスは、『オデュセイア』や『ベオウルフ』、『アーサー王伝説』といった神話をベースに、幼い頃によく観ていた連続活劇映画のような、アクションとアドベンチャーが満載の映画を撮りたいと考えていた。
 ルーカスは、神話のリサーチに使用していた本の著者である神話学者のジョゼフ・キャンベル(注:比較神話学、比較宗教学の権威だが、元々は天文学者だった。 著作多数。 1904年~1987年)を訪ね、世界中にある神話や伝説の共通項について教授を受け、映画の準備稿の執筆を開始した。(注:この時のルーカスの事を、キャンベルは「最高の生徒だった。」と後に語っている)
 73年夏、僅か14頁の準備稿を書き上げたルーカスは、映画を配給してくれるスタジオを探した。 が、どこへ行っても門前払いだった。
 70年代当時、SF映画は特殊効果のため製作費ばかりかかってあまり収益が上げられない、コストパフォーマンスの悪い映画ジャンルでしかなかった。
 68年のヒット作、『2001年‐宇宙の旅』でも、1000万ドル以上の製作費に対して興行収益は2400万ドル程度。 その前年に公開された『猿の惑星』(67年)にしても、1600万ドル程度の収益しか上げていない。 そのため、ユニバーサルやUAなど、主要な配給スタジオはSFと聞いただけでマトモに取りあってもくれなかった。
 が、20世紀フォックスだけは違っていた。
 当時フォックスは、元映画プロデューサーのアラン・ラッド・Jrが新社長に就任したばかりで、しかしまだ公開前だった『アメリカン・グラフィティ』を既に試写で観ていたラッドは、ルーカスの才能を見抜いており、ラッドの鶴の一声で映画の製作が仮契約として決定する。
 当初提示された予算は、当時としても低予算に分類される825万ドル(注:ただし、直後に『アメリカン・グラフィティ』が大ヒットを記録し、ルーカスのエージェントの説得もあって製作、脚本、監督料として15万ドルが上乗せされた)だったが、ルーカスは映画を撮れる事に喜び、脚本の執筆に熱中した。
 ……が、がんばり過ぎた。(笑)
 1年かけて書き上がった脚本は、なんと200頁を超えていた。(注:ハリウッドでは、映画の脚本は1頁=上映時間1分として執筆されるのが普通。 200頁の脚本は、上映時間3時間20分に相当する)
 さすがに長過ぎると感じたルーカスは、脚本を三部構成に構成し直し、今回作るのはその内の第1部のみにしようと決めた。
 こうして、1974年に脚本を書き上げたルーカスは、フォックスと本契約を交わし、映画のプリ・プロダクションを開始する。
 1975年には、特殊効果制作のためにILM=インダストリアル・ライト・アンド・マジック社を設立し、『2001年‐宇宙の旅』や『サイレント・ランニング』(72年)を手がけたダグラス・トランブルの一番弟子だったジョン・ダイクストラや、後にルーカスやスピルバーグの作品を数多く手がける事になるデニス・ミューレン、さらには、後に映画監督に転向し、『ジュマンジ』(95年)や『ジュラシック・パークⅢ』(2001年)を手がける事になるジョー・ジョンストンらを筆頭に、建築模型やCM制作に携わっていた若いスタッフを集めて映画の特殊効果の制作を開始。
 同時に、実に7ヶ月かけてキャスティング作業が進められ、当時まだ無名だったマーク・ハミルやキャリー・フィッシャー、『アメリカン・グラフィティ』に出演していたハリソン・フォードなどがメイン・キャストにキャスティングされた。
 76年3月、チュニジアの砂漠地帯でのロケから撮影が開始されたが、天候不順や人手不足などに悩まされ、撮影開始早々にスケジュールに遅れが出始める。
 ロケ撮影終了後、イギリスはロンドンにある当時世界最大の撮影スタジオ、エルストリー・スタジオに移ってスタジオ撮影が開始されたが、イギリスの映画組合の規則に縛られ、撮影は思ったように進まず、スケジュールの遅れは深刻な問題になった。
 仕方なく、フォックスは追加予算を捻出し、セカンド・ユニットを作れとルーカスに指示。 最終的にサード・ユニットまで作られ、撮影は急ピッチで進められた。
 撮影と同時進行していたILMの特殊効果制作は、さらに深刻な状況だった。 製作開始から既に1年が経過していたが、特殊効果監修のジョン・ダイクストラが考案したモーション・コントロール・カメラは、予算の半分近くをつぎ込んだにも関わらず上手く動いてくれない日が続き、撮影出来たショットは僅か数ショットしかなかった。
 本編撮影が終了したルーカスが陣頭指揮を執った事で、この遅れは何とか挽回する事が出来たが、ルーカスにとってはアタマの痛い日が続き、ついには過労で倒れてしまうほどだった。
 とは言え、77年に入って編集と音入れが行われた映画はようやく完成し、5月の公開に間に合わせる事が出来た。
 映画が完成した事で、ようやく肩の荷が下りたルーカスは、これを期に休暇を取り、親友のスティーヴン・スピルバーグと共にハワイでバカンスを楽しもうとした。
 しかし、滞在先のホテルでも、ルーカスは終始落ち着かなかった。 この時、フォックスの担当者から入るハズの、映画のファーストウィークセールスの連絡を待っていたからだ。
 トコロが、ようやく入った連絡は、「凄まじい大ヒット」というモノだった。
 全米37館で公開された映画『スターウォーズ』には観客が大挙して押しかけ、連日長蛇の列を作るほどだった。
 その連絡に、ルーカスはようやく安堵し、休暇を楽しんだという。
 映画はその後も連日大盛況となり、史上希に見る大ヒットを記録。 最終的に、その後の海外配給分も含めて7億7500万ドル以上(!!)という空前の興行収益を記録した。
 同年度のハリウッドアカデミー賞では、作品賞、監督賞を含む10部門にノミネート。 内、編集賞や美術賞、音楽賞、視覚効果賞など6部門で受賞という快挙を達成。 SF映画としては、異例中の異例とも言える極めて高い評価を得る事になった。
 世界中に偏在する神話や伝説の共通項である英雄譚と、アクションとアドベンチャーが満載のスペースオペラに、観客は誰もが酔いしれた。 そして、当時極めて画期的な発明(注:まさに“発明”!)であったモーション・コントロール・カメラを使用した極めて完成度の高い特殊効果の数々に、観客は誰もが驚愕した。
 映画『スターウォーズ』は、その後多くの映画に極めて多大な影響を与え、まさしく“映画を変えた映画”になった。
 この映画の成功で名声を得たルーカスは、その後ヒットメーカーとして数多くの映画の製作や製作総指揮を手がけ、1999年にはプリクエルとなる新三部作の製作を開始。 完成した全6部作の壮大なスペース・サーガは、今もなお、多くのファンを魅了しており、公開から35周年を迎える今年2012年には、新たに3D版が劇場公開される事になった。


 さて、本書は決してルーカスの本ではないので、いい加減ハナシを本題に移そう。
 ルーカスが映画『スターウォーズ』の脚本を執筆中だった1974年頃、この映画のコンセプチュアル・アーティストとして一人のイラストレーターが制作に参加している。
 それが、当時マグダネル・ダグラス社(注:現在のボーイング社)を退社したばかりの工業デザイナー、ラルフ・マッカリーである。
 マッカリーは、ルーカスがスタジオに映画を説明する手助けになるように脚本を基にしたコンセプト・アートを数枚描いた。 ルーカスからは、「撮影出来るかどうかは無視して、とにかくスクリーンにどういう風に映るのかを描いてほしい。」と言われたそうだ。
 その言葉通り、マッカリーはダース・ベイダーやストーム・トルーパーなどの比較的撮影可能なモノから、ミレニアム・ファルコン号や砂漠の風景などの撮影が難しいモノまで幅広く描き、ルーカスはこれを脚本に添えてスタジオの重役陣に映画の説明を行ったそうだ。
 マッカリーは、その後も映画の製作に携わり、映画のほとんど全てのコンセプト・アートを手がけ、映画のヴィジュアルを決定付けていった。 また、映画公開直前に出版されたルーカス直筆の小説版の表紙絵や挿絵を手がけたのもマッカリーである。
 そんなマッカリーが描いたコンセプト・アートの中には、映画でも一際印象的なキャラクターである2体のドロイド、R2-D2とC-3POのコンセプトアートも含まれている。
 この2体のアンドロイドは、着ぐるみ化されて中にヒトが入って映画に出演するコトが決まっていたが、R2-D2に入ったのは、当時ステージコメディアンとして活躍していた身長1m4cmのケニー・ベイカーであった。 ベイカーは、総重量30kgにも及ぶR2-D2の中に入って、首を回したり胴体を揺さぶる仕草をしたりした。(注:ただ、スタッフは中にヒトが入っている事が忘れらてしまい、時々スタジオに置き去りにされたとか)
 そして、もう1体のC-3POに入ったのは、俳優のアンソニー・ダニエルズであった。
 ダニエルズは、摂氏38度の猛暑の中、あの装具を身に付けてチュニジアの砂漠地帯を歩き回ったが、ダニエルズはこの役を選出するオーディションの時に、ある種の運命的なモノを感じたと言う。
 C-3POの“中のヒト”のオーディションは、手早く行われた。 顔がスクリーンに出ない役で、当初は声もアフレコする予定(注:後に、これは取り止めになり、ダニエルズ自身がアフレコを行っている)だったため、ルックスや声質などはどうでもよかったのだ。
 持ち時間は一人につき僅か5分。 オーディションにやってきたダニエルズは、ようやく周ってきた自分の番に、他の候補者たちの後に続いてルーカスたちがいる部屋に入っていった。
 そこで、ダニエルズの目は一点に釘付けになった。
 ルーカスではない。
 目が釘付けになったのは、彼の後ろの壁に貼られてあった、一枚の絵だった。
 それこそが、マッカリーが描いたC-3POのコンセプトアートだった。
 砂漠の荒野で、R2-D2と共にたたずむ金色のボディのアンドロイド。 その絵を見た瞬間、ダニエルズはそのアンドロイドと“目が合った”という。 そしてその絵が、“おいで、おいで”と話しかけてきたそうだ。
 ダニエルズは、「その弱々しい姿に彼を助けてあげたいと思った。」と後に語っている。(注:ただし、それがキャスティングの決め手になったワケではない。 決め手になったのは、ダニエルズが装具を身に付けられる細身の体で、当時パントマイムを勉強中だった事である)
 重くて動き難い装具を着ての撮影は大変だったが、C-3POは映画の重要なキャラクターになり、映画公開後にチャイニーズ・シアターの前でダース・ベイダーやR2-D2と共に足型を取るほど有名になった。
 後年、ダニエルズはその絵を描いたマッカリーと逢った時、「アナタの絵のせいだ!」と言ったとか。(笑)
 しかし当のマッカリーも、ルーカスの希望に従っただけで、あのデザインはマッカリーの完全なオリジナルというワケではなかった。
 しかし、ルーカスのオリジナルというワケでもなかった。
 C-3POのデザインには、実は原典があったのだ!
 映画『スターウォーズ』の公開から遡る事丁度半世紀前の1927年に公開されたあるドイツ映画が、『スターウォーズ』の重要なキャラクターである通訳ロボット、C-3POの原典だったのである!
 そう! その映画こそが、今回の主題であるこの映画!
『メトロポリス』!!


 それは、今や映画界の伝説的SF映画である。

 時は西暦2000年―。
 ミレニアムを迎えたドイツの超巨大都市、メトロポリス。
 最先端の機械文明によって光り輝くこの都市は、政治家ではなく大企業によって支配されていた。 企業家や貴族、富豪たちは、その恩恵を受け、毎日を面白おかしく暮らしていた。
 一方、この都市の地下には、地上の生活を支えるために多くの労働者たちが奴隷のように過酷な労働に従事させられていた。
 富豪たちの夢は、労働者たちの現実によって支えられていたのだ。
 都市を支配する超巨大企業の社長、ジョー・フレーダーセンの息子、フレーダーは、ある時地上にやってきた労働者階級の娘、マリアを見初める。
 彼女を追って地下に降りたフレーダーは、労働者たちの過酷な現実と、マリアが説く友愛に感銘を受け、惹かれていき、やがて、ふたりは愛し合うようになっていく。
 しかし、この事を知ったフレーダーの父、フレーダーセンは、その昔一人の女性を共に愛したかつてのライバル、発明家ロートヴァングに、彼が発明した人造人間とマリアをすり替えるように頼む。 それは、労働者たちを服従させるためだったのだが……!?

 ……というのが、映画の主な内容である。
 1927年に公開されたこの作品は、後にハリウッドに渡って多数の映画を監督し、40年代から50年代にかけて頻作された暗黒都市犯罪映画、フィルムノワール・ムーヴメントの基礎を築いた映画監督、フリッツ・ラングの代表作にして最高傑作である。
 配給は、当時ドイツ映画界最大のメジャースタジオであったウーファ社。
 出演は、これがデビュー作になったブリギット・ヘルム、期待の若手俳優グスタフ・フレーリヒ、ラング映画の常連キャスト、アルフレート・アーベル、ルドルフ・クライン=ロッゲ、テオドア・ロース、フリッツ・ラスプ、そしてハインリッヒ・ゲオルゲ他。
 音楽は、ラングとはこれが二度目のコンビになったゴットフリート・フッペルツ。
 特殊効果監修は、シュフタン技法の考案者、オイゲン・シュフタン。
 美術は、オットー・フンテ、エーリッヒ・ケッテルフント他。
 撮影は、カール・フロイント、ギュンター・リッタウ。
 脚本は、ラングとその妻、テア・フォン・ハルボウの共著。
 そして監督は、フリッツ・ラング。
 総製作費600万マルク。(!)
 出演したエキストラ、実に延べ3万6000人以上。(!!)
 撮影されたフィルムは、合計約130万メートル。(!?)
 3年の歳月をかけて制作され、『ドクトル・マブゼ』(22年)や『ニーベルンゲン』(24年)を大ヒットさせた実績を持つラングの監督最新作として、『カリガリ博士』、『巨人ゴーレム』、『死滅の谷』、『ノスフェラトウ』等と並んで、当時黄金時代を迎えていたドイツ映画の頂点に君臨する歴史的超大作になる……ハズだった。
 公開直後から、映画館には連日空席が目立ち、公開から僅か1ヵ月余りで公開打ち切り。 その後の海外配給や地方公演、再リリースでも思ったように集客出来ず、映画は記録的な大赤字となり、配給元のウーファ社は、これが原因で経営危機に陥ってしまう。
 映画は駄作の烙印を捺され、その後の第二次大戦勃発による混乱もあって、フィルムはドイツ国内から完全に失われてしまう。
 トコロがこの映画は、前出の『スターウォーズ』を筆頭に、『ブレードランナー』、『バットマン』、『ディック・トレーシー』、『バンカー・パレス・ホテル』、そして『マトリックス』や『アイ,ロボット』に至るまで、80年代から90年代にかけての多数の映画作品に決して少なくない影響を与える事になり、映画作品としては史上初のユネスコ世界遺産に指定される事になった。
 公開時には駄作と言われたこの映画が、今になってこのような高い評価を得る事になったのは何故なのだろう?
 この映画の何が、後の世の人々をココまで夢中させるのだろう?
 この映画の何処が、現在の映画ファンを魅了しているのだろう?
 筆者自身、この映画には自分でも信じられないぐらハマった。 前々著である『異説「ブレードランナー」論』において、映画『ブレードランナー』を語るために、言わば“仕方なく観た”作品であるにも関わらず、この映画はこれまでに数え切れないぐらい何度も観たし、様々な書籍やビデオソフトを買い漁ったりもした。 そしてついには、このような本を書くまでになってしまった。
 この映画の何が、筆者を、そして多くの映画ファンを惹き付けて止まないのか?
 そして何故、この映画は最初の公開時に駄作の烙印を捺されてしまったのか?
 これらのナゾ、そしてこの映画の魅力。 本書は、この疑問に筆者自身が答えを探すための旅の過程を記すモノである。
 さあ、『「メトロポリス」伝説‐85周年記念アルティメット・アナライズ』で、伝説の映画を探求する旅に出かけよう。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!(代理:Alice)


お気に入り。


- Mania Episode1

 お隣の国、韓国在住のクリエーターによる装備追加MOD。
 既存のダンジョン、及び新規のダンジョンに配置されるNPCの形で大量の装備が追加されるが、クエストMODの体裁を取っていないので、ダンジョンを探すトコロから始めなくてはならないのが難点。 いわゆる“萌え系装備”が多いのが特徴。
 AiCのメインクエスト編でAliceちんが着ていた装備。 胸元とニーソ、裾の広がったシルエットがとても良い。 超お気に入り!



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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