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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

217.『メトロポリス』伝説:第6章①

2012年10月14日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #18-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週はシフトの交代があるのでとっとといきます。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第18回。 今週から新章突入です。
 最後までヨロシクね☆


第6章:解析‐人間性の再発見

 さて、続いての旅は、アルティメット・アナライズ恒例のテーマ解説である。
 何度も記している通り、本作のテーマは“人間性の再発見”である。 それは、映画本編においてオープニングクレジットに続いて中間字幕でスクリーンに表示される“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”の格言によって提示され、フレーダーが仲介者となってフレーダーセンとグロートが固い握手を交わすという映画のラストシーンによって明確に表現されており、パタラス版以降の修復版によってこれが再生された事により、本作のテーマはラングとフォン・ハルボウが本来意図したモノに戻され、本作を観る観客がこれを誤解する事は無くなった。
 実際、本作の2001年版や2010年版で初めて本作を鑑賞した(筆者を含めた)観客の中で、このテーマを誤って理解している観客は皆無だろうと思う。
 本作は、第1次世界大戦の終結と共にドイツで勃興した感情表現を主体とした主観的芸術たるドイツ表現主義の台頭によってそのベーシックが形作られた当時の芸術運動の潮流によって製作された作品である。 そのため、本作は映画ジャンルの枠を超えた人類共通の普遍的なこのテーマを語る事に成功し、その先見性と現代性が今日の再評価によって正確に観客に伝わるようになった。 もちろん、前章で記した本作の長い長い修復の歴史が、それをさらに強固なモノにしていったのは言うまでもないと思う。
 しかし、この普遍的かつ崇高なテーマは、何もドイツ表現主義以降失われていたワケではない。 それは、様々な形に変えて脈々と受け継がれていたのである。


1.表現主義と新即物主義

 前章で既に述べたように、本作は1925年に始まったドイツ芸術界の新しい潮流、新即物主義によってドイツ表現主義が衰退したため、観客に“古い芸術”と見なされて公開当時の興行的大失敗を招いたが、ドイツ表現主義が感情表現を主体とした主観的な芸術であったのに対し、新即物主義は無感情で客観的な芸術であった。 そこに“新しさ”が見出され、20年代後半から30年代初頭にかけて写真芸術を中心に絵画や建築の分野で流行した。
 主観から客観にシフトする事によって、事象から感情を排除し、その形状やディテールをある種の冷淡さを以って表現するという芸術は、確かに“物事の多角的な視点による分析”と言え、それ自体は哲学的思索が意図された面白さを有しているので、筆者もキライではない。 むしろ、無機物に見られる造形美的な面白さは、ある意味主観的な視点では表現出来ず、また理解も出来ない。 が、これが客観的視点にシフトする事によって、その形状やディテールに芸術的価値と面白さが見出されるのである。
 しかし芸術というのは、筆者は主観的であるべきだと考える。 客観的であるのは、むしろ芸術よりはジャーナリズムに近いからであり、報道メディアには客観性が必要不可欠だからだ。
 実際、新即物主義は後の報道写真、すなわちジャーナリズムに多大な影響を与えたと言われており、感情的になる事なく、起った事象を客観的かつ冷静に報道するニュース映像は、芸術というある種の幻想ではなく、極めて身近なリアリティをダイレクトに観客に伝える、娯楽映画とはまた別の“映像的迫力”を有している。
 これは、事件や事故、災害などのニュース映像を観れば明らかである。
 湾岸戦争の夜間戦闘の映像を観て、「このゲーム面白そう」と思った事はないだろうか?
 9.11の崩落するワールド・トレード・センターの映像に、「この映画観たい」と思った事はないだろうか?
 3.11の押し寄せる津波の映像に、現実と映画がクロスオーバーする錯覚を覚えなかっただろうか?
 事象を客観的に見つめる映像によって、ヒトは“リアルなリアリティ”を疑似体験するのである。
 結局のトコロ、新即物主義とは“アンリアルなリアリティ”としての映画や芸術を嫌った結果、現実と虚構が奇妙にクロスオーバーする、すなわち“冷静に現実を表現することによって現れる魔術的な非現実”であるトコロのマジックレアリズムそのモノであり、これは客観的視点によってのみ表現されるモノなのである。
 と、するならば、新即物主義はまさしく“リアルなリアリティ”であり、紛れもない現実としてのジャーナリズムに近い表現手法と言え、本来芸術が表現すべき幻想や理想、“夢”とは対極にある芸術、という事になるのではないだろうか?
 そこにあるのは、事象を客観的に見つめる監視カメラのような視点であり、無感情で無感動な“リアルなリアリティ”だけなのである。
 本作では、この対極を地でいく映像が連続する。
 例えば、マリアのスカーフを掴み取るフレーダーの主観映像。
 カタコンベで跪くフレーダーを見つめるマリアの主観映像。
 無数の眼に見つめられるフレーダーの悪夢。
 等々、例を挙げればキリがないが、こうした主観的な映像が立て続けにスクリーンに映し出される事によって、本作は芸術が本来目指したヒトの内面的感情を表現している。
 これこそが、ドイツ表現主義が目指した感情的主観性であり、だからこそ本作は“ドイツ表現主義映画最大の成果”と評されているのである。
 面白いのは、そうした感情表現がカメラという視点によって客観的に描かれている点である。 カメラというフィルターを通す事によって、映画における感情表現は、必然的に客観的視点をも内包するのである。
 主観的な客観的視点。
 これが“映画”という、カメラというフィルターを通した芸術の本質なのではないだろうか?
 映画以外の他の芸術、例えば音楽や文学、演劇であっても、感情の表現は極めて重要なテーマである。 怒りや悲しみ、憎しみや嫉妬、そして愛情。 表現手法やメディアの違いはあれど、芸術とは総じてそうした感情を表現する事に終始する行為である。
 ヒトの内面的感情を表現する事によって、人間性を探求する事こそが、芸術の本来あるべき姿だからだ。
 本作は、それを映像表現として取り入れただけに止まらず、“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”という格言によって、ストーリーの上でもこれを表現した、“表現主義映画”なのである。


・精神世界の具現化

 少しハナシが飛ぶが、ヒトの内面的感情表現としての芸術を語る上で欠く事の出来ない事例があるので、ココで紹介しておこう。
 二人の“装飾狂”の存在である。
 二人ともフランス人なのだが、フランス人は兎角装飾好き。 建物を飾り付ける事にかけては、世界でも右に出る国はないと言っても過言ではない。
 花の都パリの街を歩けば、交差点や大工道具の専門店の壁面など、そんなどーでも良いトコロにもレリーフやら彫像やらが所狭しと貼り付けられ、複雑かつ凝りに凝った装飾で飾られている。 しかも、そのどれもが非常に精巧で芸術的なのでタチが悪いコトこの上ない。(笑)
 しかし、そんな装飾大スキのフランス人でも思わず引いてしまうような、“建物を装飾する”のではなく、“装飾で建物を建てる”という逆転ホームランがドーム球場の天井を突き抜けてしまったような、狂気の装飾建築を建ててしまったのが、以下に紹介する二人の“装飾狂”である。


 まず一人目は、ロベール・タタンである。
 フランス北西部、ロワール地方のマイエンヌ県にある村、ル・コセ・ル・ヴィヴィアン。 農耕と牧畜が主な産業ののどかで小さなこの村に、フランスでは有名な観光名所がある。 その名も『タタンの館』。 元大工のタタンが、たった一人で作り上げた彼の理想宮である。
 1902年、同じくマイエンヌ県のラヴェルという街に生まれたタタンは、長い間大工や陶芸で生計を立てていたが、1962年に定年退職するとル・コセ・ル・ヴィヴィアンに移り住み、かの地で弾かれたように創作活動に没頭し始めた。
 絵画に始まり、彫刻や陶芸など、手当たり次第に作品を作り続けたタタンは、いつしか村の一角に神殿風の奇怪な建物を建て始めた。
 そして、完成したこの建物は、人々の度肝を抜く装飾で溢れていた。
 19体の石像が立ち並ぶ街道を抜けると、幻想的なレリーフが一面に施された壁に囲まれた建物が姿を現す。 そして、正面ゲートで訪れた人々を出迎えるのは、その大きな口で人間のエゴを食い尽くすというドラゴン。
 さらに小さな門を抜けて中に入ると、中央に十字形の池がある中庭に出る。 この中庭も、周囲は異形の彫刻でビッシリと装飾されており、東側には高さ5mを超える“太陽の門”と呼ばれる凱旋門のような門があり、これを支える柱は、アダムとイヴを表す装飾が施されている。 そして、池を挟んだ反対側、西の方角にもこれまた奇怪な装飾が施された門。 そして、池の周りには月を表す12体の異形の者たち。
 さらに、建物の中は美術館になっており、ちゃんと“営業”している。 全てタタンが描いた絵画作品が常設展示され、そのいずれもが抽象画ともシュールレアリズムとも異なり、では表現主義かと言えばそうとも言えず、ましてや新即物主義とは全く異なる、タタン独自の美意識によって描かれた作品ばかりである。
 1983年、タタンはこの地で亡くなっているが、最後まで創作活動を続けていたそうだ。
 この異形の建物群を創作したタタン。 彼を創作に駆り立てたのは、いったい何だったのだろうか?
 タタンの最後の妻(注:5人目だそうだ)であり、館の館長を務めているリーズ・タタンは、その創作の動機について次のように語る。

「彼にとって創作とは、自己の内面を表出する事でした。 彼には必要な事だったのです。」

 その通り、この理想宮と絵画は、タタンの精神世界の具現化であり、彼の目に映った世界、そのモノなのである。
 この館は、まさにタタンの自己表現としての芸術作品なのである。


 もう一人は、フェルディナン・シュヴァル。 フランス装飾界を語る上では、欠く事の出来ない最重要人物である。
 リヨンの南、約2時間のトコロにあるドローム県のこれまた田舎の村、オートリーヴ。 この村に忽然とその姿を現すのが、『シュヴァルの理想宮』である。
 1836年、オートリーヴの隣村、シャルム=シュル=エルバスに生まれたシュヴァルは、リヨンでパン職人として働いた後、1864年に郵便配達夫の職に就く。
 1878年、オートリーヴに転勤になったシュヴァルは、しかしこの地で“運命の出会い”を果たす事になった。
 1879年、郵便配達の仕事中、シュヴァル石につまづいて転んでしまう。 が、つまづいた石を振り返ると、そこには今まで見た事もないような奇妙キテレツな形状の石が転がっていた。
 この石の形状に強いインスピレーションを感じたシュヴァルは、この石を持ち帰り、部屋に飾った。 そして、シュヴァルは石集めが趣味になった。
 ある程度石を蒐集したシュヴァルは、今度はそれを使って奇妙なオブジェを作り始めた。 石を積み上げてはセメントで固めるという作業を繰り返し、シュヴァルは郵便配達の仕事を続けながらこれに熱中していく。
 オブジェは次第に大きくなり始め、それはいつしか建物の形を取るようになっていた。
 が、その奇怪な形状に驚いた人々は、シュヴァルをパラノイア呼ばわりしてバカにした。 理解不可能な装飾で飾られた建物郡に驚いたシュヴァルの上司も、彼に作業の中止を要求している。
 しかし、シュヴァルは一向に作業を止める事なく、それどころかバカにされる度にその情熱をさらに燃やし、創作に没頭した。
 そしてついに、シュヴァルはこの理想宮を完成させた。
 時に、1912年。 奇妙な石につまづいた日から、既に33年もの歳月(!)が流れていた。
 この建物は、建物全体に所狭しと装飾が施されているが、見ようによってはボロブドゥールやアンコール・ワットのような東洋系の宗教神殿にも見えるが、聖書的なイメージや西洋系の神話イメージなども垣間見られ、決して統一されたイメージによるモノではなく、シュヴァルの文字通りの“理想”を具現化した作品である事は明白である。
 その証拠に、シュヴァルはこの理想宮を自らの墓にしたいと考えていた。 が、村の規則があってこれは実現せず、シュヴァルは仕方なく、人生最後の8年間をかけて村の共同墓地に『終りなき沈黙と休息の墓』と名付けた小さな理想宮を作った。 そして、シュヴァルは1924年に亡くなると、彼の望み通りこの墓に安置された。
 シュヴァルの死後、彼の理想宮は瞬く間にフランス中に知れ渡り、中には20世紀最高のアーティスト、パブロ・ピカソも見学に訪れるほど有名になり、村の観光名所になった。
 1969年には、フランス政府によって文化財登録され、美術館として整備されて一般公開されており、現在の観光客は実に年間14万人(!?)にも上るという。
 この理想宮もまた、作者であるシュヴァルの内面の表現であり、タタンと同じく自己表現のための創作であった。
 その証拠に、この理想宮の一角にはシュヴァル自身が装飾の中にはめ込んだプレートに、こんな一文を刻んでいる。

“ここには、私の思い出が刻みつけられている。”

 この理想宮は、あるいはシュヴァル自身の精神世界の投影だったのかもしれない。


 これら具現化された精神世界は、確かに凡人には理解不可能な表現手法が用いられており、そこに作者がどんな意図を込めたのかは、正直作者自身にしか分からないだろう。
 しかし、それが本来の芸術のあるべき姿である。
 名画とされているピカソの抽象画にしても、正直筆者には理解出来ない。 文字通り抽象的過ぎて、何を表現せんとしているのかが、そもそも理解出来ないからだ。
 だが、見る人が見れば、それは正しく評価されるモノであり、一般的に言われている通りの“名画”なのだろう。 筆者には、ピカソに近しい感性が備わっていないだけで、ピカソと同じ、あるいは近しい感性があれば、それは間違いなく“名画”になるのである。
 何故なら芸術とは、作者の自己探求と内面世界の表出の結果であり、精神世界の具現化、すなわち感情という根本的に抽象的かつ概念的な動機によって創造されるモノだからである。


2.フィルムノワールの光と影

 ……ちょっとハナシが逸れてるか?
 とりあえずちょっと戻ろう。
 結果として、本作は新即物主義の台頭によってドイツ表現主義は“古い価値観”と見なされ、表現主義映画たる本作の興行的大失敗を招く事になったが、本作の持つヒトの内面的感情表現、すなわち“人間性の再発見”を発見したのは、皮肉にも1930年代に台頭したナチス政権であった。
 前章でも記した通り、ヒトラーは本作を気に入っており、ラングの映画監督としての手腕を買っていたと言われている。 実際、ヒトラーの演説には、節々に本作の影響が垣間見えるので、これは事実と考えてほぼ間違いないだろう。
 さらに言及するなら、ヒトラーは2度も受験に失敗したとはいっても、芸大を受験していたり、第1次世界大戦直前には、ラングと同じく独学で描いた絵葉書を売って生計を立てたりしていたし、無類の美術収集家で、第2次世界大戦中は占領したヨーロッパ各国の美術品を戦利品としてドイツに持ち帰り、自らのコレクションに加えていた。 そして、政権獲得直後にはドイツ民族の優位性を主張し、ドイツ国民の士気向上を狙ったプロパガンダの一環として、焚書(注:ユダヤ人の著作やドイツ的でないと見なされた著作を燃やした。 1934年)みたいな事もしているが、文化大祭(注:ドイツの伝統的文化を再評価し、民族衣装を着た行列が街をパレードしたりした)のような行事も積極的に行っている。
 しかし、ナチスが掲げた帝国主義独裁政権の打倒を髣髴とさせる描写がある本作を容認する事は出来ず、上映禁止にする必要があった。
 が、これとは矛盾する事もナチスは行っている。
 当時大衆の間で新しい芸術として急速に人気を集めていた新即物主義のボイコットである。
 そのため、新即物主義は僅か数年で急速に衰退する事になるが、これによって主観的芸術が再び注目されるようになった。
 実際、第2次世界大戦中に頻作されたナチスのプロパガンダ映画は、“感情表現”としてではないが、極めて主観的な描写がされた作品がほとんどである。 もちろん、プロパガンダが目的なのだからそうなるのが当たり前と言えば当たり前ではあるのだが……。
 しかし、こうした傾向は当時のニュース映画にも見られ、ニュースの本来あるべき新即物主義的な客観的視点はなく、ドイツとナチスの優位性を誇示するような主観的な描写が多いのは事実である。
 この傾向は日本にも波及しており、日本帝国軍が製作したニュース映画、いわゆる“大本営発表”は、日本軍の敗退をひた隠しにし、時には偶然手に入ったアメリカ側のニュース映画のフィルムを編集し、あたかも日本軍の大勝利に見えるようなニュース映画に“でっち上げる”事もザラだった。
 主観的/客観的という点だけに絞って言えば、これらは紛れもなく主観的表現である。
 ……拡大解釈し過ぎか?(笑)
 しかし、こうしたプロパガンダ映画、ニュース映画が頻作された第2次世界大戦当時、これとはちと様相の異なるハリウッド映画が、アメリカの大衆の人気を集め始めた。
 それが、フィルムノワールである。
 一般に、フィルムノワールはマフィアや暗黒街といった、大都会の光に寄り添う影の部分に焦点を当てた犯罪映画としての映画ジャンルと思われているが、実は“フィルムノワール”という映画ジャンルは存在しない。 そもそも定義がないので、“何を以ってフィルムノワールとするか?”がハッキリしないからだ。
 日本の映画評論家、加藤幹郎も著書『「ブレードランナー」論序説』の中でこれに言及しており、そもそも定義がない事を認めている。
 よく言われる、“モノローグ演出の有無”に関しても、実際にはフィルムノワールに分類される作品の中にはこれが無い作品の方が多いぐらいで、定義と呼ぶにははなはだ疑問である。
 さらに言えば、本作を監督したラングは、ハリウッドに渡って高い評価と人気を得て、後に“フィルムノワールの祖”と呼ばれるようになるが、ラングの監督作品にはモノローグ演出が無い。
 モノローグ演出は、決してフィルムノワールの定義ではないのだ。
 では、何が“フィルムノワール”の定義なのか?
 一言で言えば、“映像スタイル”である。
 二言で言えば、“光と影のコントラスト”だ。
 映画はよく、“光と影の芸術”と言われるが、それを地で行くのが、フィルムノワールという映像スタイルなのではないかと筆者は考える。
 実際、ラングの監督作品を含めたフィルムノワール作品を観てみると、夜の街に切り込む鋭い光の筋や、窓から差し込む月明かりに人物の影が浮かぶような映像を頻繁に見かける。 ラングの戦前最後のドイツ映画となった『M』でも、後のフィルムノワールを髣髴とさせる人物の影を効果的に使った演出が光るシーンがある。
 これに影響を受けたかのアルフレッド・ヒッチコックは、後に“ヒッチコック・シャドウ”と呼ばれる効果的な“影の演出”を生み出した。
 映画『マトリックス』(99年)で一躍時の人となったウォッシャウスキー兄弟は、映画の公開と前後してTVのインタビュー(注:1作目の頃までは、ウォッシャウスキー兄弟はTVや雑誌に頻繁に露出し、インタビューに答えていた。 が、シリーズ2作目、3作目以降は、観客に考えてもらうために映画の解釈を直接語る事を嫌い、メディアに直接露出する事が少なくなった。 評価的にも興行的にも大失敗した『スピードレーサー』では、メイキング・ドキュメンタリーにも一切露出していない。 ……何かあったんですかね?)に答え、こんな事を言っている。

「僕たちは昔のモノクロ映画を目指した。 フリッツ・ラングとか、オーソン・ウェルズとか。 光と影のコントラストが、映像のイメージを強くするんだ。 だから、『マトリックス』も黒くしたんだ。」

 実際、映画『マトリックス』は「いっその事モノクロで撮れ!」と言いたくなるほど、多くのシーンで画面は黒く塗りつぶされている。
 しかし、それこそがフィルムノワールの極意である。
 何故なら“ノワール”は、フランス語で“黒”を意味する単語(注:noir)だからだ。
 フィルムノワールとは、光と影のコントラストを強調した映像スタイルであり、映画ジャンルの一種とは一概に言い切れないのである。
 さて、そんなフィルムノワールだが、筆者にはドイツ表現主義と新即物主義の融合が垣間見えるように思えてならない。 光と影を誇張した映像は、日常であるにも関わらず非日常的なイメージがあり、これは新即物主義的表現手法とも受け取れるが、映画の物語りは登場人物の主観的かつ感情的な表現が要であり、これに共感を持たせる事が観客を映画に引き込む秘訣である。(注:モノローグ演出はその“極み”) そこには、新即物主義的な客観性ではなく、ドイツ表現主義的な主観性が存在する。
 と、するならば、フィルムノワールは第2次世界大戦という混乱した世相を背景に、“死にたくない、でも戦わなければ”というアンビバレンツ的感情の間で揺れ動く大衆心理を代弁して花開いた、主観と客観のせめぎ合い、すなわち“光と影のコントラスト”と言え、表現主義と新即物主義が見事に融合した芸術と言えなくはないだろうか?
 と、するならば、フィルムノワールムーヴメントが戦後、1960年代を待たずして『黒い罠』(注:オーソン・ウェルズ監督作品。 58年公開)を最後に終わりを告げた(と、言われている)のは、大衆にとって第2次世界大戦という時代が終わり、新たな時代へと転換すべき時が来た事を理解したからではないか?
 それを裏付けるかのように、1960年代になると、新しい芸術が急速に拡大した。
 モダニズムの台頭である。


・モダニズムはモダンなのか?

 モダニズム、モダンとは“近代”を意味する単語だが、モダニズム自体は、60年代になってイキナリ出てきたモノというワケではない。
 前章、及び前々章でも述べたが、本作の製作、公開と前後して、主に建築の分野で表現主義や新即物主義とは別にモダニズム建築が注目を集めていた。
 先に述べたタタンやシュヴァルのように、装飾過剰で非現実的な表現主義建築よりも装飾の少ない、シンプルで機能性に優れた、それでいて斬新でかつ生産コストの安い、現実的な建築としてのモダニズム建築が急速に普及していったのが、実は1920年代である。
 ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてフランク・ロイド・ライト。 後の近代建築に多大な影響を与えた建築家が活躍し始めたのも、この頃である。 それを裏付けるかのように、ニューヨークでは古い小さなビルが次々と買収、取り壊され、現在も見る事の出来る超高層建築が無計画なまでに乱立した時代であった。
 1920年代末には、ベルリン郊外にドイツ初の鉄骨建築が建設された。 設計したのは、ルッカーとアルフォンソのアンカー兄弟。 個人用家屋としては、初の近代建築であった。
 1929年、ラングとフォン・ハルボウ夫妻が購入、入居した新居が、実はこの家である。 本作の監督と脚本家が、映画の世界を再現したようなモダニズム建築の家に入居したのである。
 もちろん、ラングはナチス政権の台頭によって1933年にドイツを離れる事になるので、この家で寝起きしたのは僅か4年足らずの間でしかなったが……。
 それはともかく、こうしたモダニズム建築が現在の大都市圏の超高層ビル群の基盤を形成していったのは確かで、これはドイツ表現主義とも新即物主義とも異なる、芸術という偏光フィルターを通さない、現実的で合理的な独立した潮流と言える。
 何故ならこれは、資本主義の拡大によってもたらされたモノだからだ。
 あるイギリスの作家は、建設ラッシュを迎えたニューヨークの摩天楼群を指して、「どんな犠牲を払ってでも成長する資本主義の強欲さの象徴。」と記している。
 その通り、モダニズム建築は資本主義における合理化と利益追求を象徴し、1920年代に文字通り“乱立”した。
 短い髪とミニスカート。 パーマネントの発明、美顔術など、女性の間で“モダン・ガール”と呼ばれる新しいファッションが流行し、ジャズとラジオによってチャールストン・ダンスが流行したのもこの頃である。
 1920年代は、とにかく“新しさ”が求められた時代であり、それはそのまま、1920年代のモダニズム文化を形成していった。
 1930年代に入り、世界恐慌とファシズム勢力の拡大によって資本主義社会が壊滅的な打撃を受け、明日のパンにも事欠く有様になたため、モダニズムは急速に意気消沈し、さらに40年代の第2次世界大戦、及び戦後の混乱期によって低迷状態が続くが、戦後の混乱期が落ち着き始めた1950年代から再び注目され、60年代に入って一気に再評価される事になった。
 先にも記したように、モダニズムの極意は、ムダを極限までそぎ落とし、低コストで機能性に優れた利益追求型のデザインである。 これは、言い換えれば“シンプル・イズ・ベスト”と同義と言える。
 1920年代は建築、それも超高層建築に限った潮流でしかなかったが、60年代のそれはファッションや絵画などにも影響を与え、もちろん映画にも影響するほど流行的にその勢力を拡大していった。
 60年代も末を迎える頃には、映画のスタジオロゴがモダニズム・デザインでデザインし直されるほどの影響を及ぼし、それまでの装飾過剰なデザインを“ムダ”と断じ、シンプルで機能性に優れた、低コストで高利益をもたらすデザインがもてはやされた。
 しかし、このシンプル・イズ・ベストと言い換えられる“モダン”は、果たして本当に“モダン”なのだろうか?
 確かに、現代でもシンプル・イズ・ベストはあらゆる分野で見る事が出来る。 極限までムダを削ぎ落とし、その本質を究めたシンプル・イズ・ベストは、機能的で低コストで、結局最も使い易いモノになる。
 TVやビデオなどの家電が、その良い例である。
 実際、現在のデジタル地上波への以降によってデジタルTVが急速に普及したが、ご家庭のTVに備わっている機能を全て使い切っている家庭は、一体どれだけあるというのだろう? 結局のトコロ、“ムダ機能”に終わってしまっている使われない機能がある家庭の方が遥かに多く、こうしたムダ機能にかけられたコストが文字通りムダになってしまっている例は、探すまでもなくどこの家庭でも見られるハズである。
 デジタルTVと言っても、一般家庭ではTVが観られればそれで良いワケで、こうしたムダ機能は“シンプル・イズ・ベスト”に反し、結局「ムカシの方が良かった。」という評価になってしまう。
 そう、シンプル・イズ・ベストとは、言い換えればムダがなかった過去への回帰とも言えるのである。
 と、するならば、“モダン”と言われるモダニズムは、果たして本当の意味で“モダン”と言えるのだろうか? 逆にこれは、ムダがなかった頃への回帰とは言えないのだろうか?
 タタンやシュヴァルのようなゴテゴテとした装飾を嫌い、極限までムダを排除し、機能的で低コストな利益追求型の“シンプル・イズ・ベスト”が、果たして本当に“近代的”と言えるのだろうか? 逆にこれは、何もなかった過去への回帰とは言い換えられないのだろうか?
 そう、60年代のモダニズム・ムーヴメントは、何もなかった1920年代への回帰であり、20年代のモダニズム・ムーヴメントへの退行と言え、同時代に花開いた無感情な客観的芸術としての新即物主義の再評価と言っても過言ではないのである。
 大衆がこれに気付き始めた1970年代、ある建築家が、乱立するモダニズム建築を批判し、真っ向から対立する説を唱えた。
 その建築家の名は、ロバート・ベンチュリー。
 そう、“ポスト・モダン”の出現である。


・装飾狂の夢、再び

 1966年、ベンチュリーが発表した著書、『建築の多様性と対立性』において、ベンチュリーは機能性がない無意味な装飾や多様化した様式が不調和的に同居する建築を指して、「まあ、そーゆーのもアリなんじゃね?」と言い出した。
 さらにベンチュリーは、72年に『ラスヴェガスに学べ』という著書を発表。 この中で、ベンチュリーは当時ラスヴェガスに乱立し始めたカジノホテルの過剰なまでのネオンや装飾を指して、一般大衆に訴求する“遊び心”を評価。 ココに、モダニズム建築にはない“楽しさ”を見出した。
 さらにベンチュリーは、モダニズム建築における機能性を優先した無駄のないデザインを、「禁欲的な階級主義的エリート社会を喜ばせるだけ。」と厳しく批判。 これは、当時の富裕層や保守派層から厳しく追及され、大論争になったそうだ。
 しかし、この論争が落ち着いた1977年になって、ベンチュリーの主張を支持する人物が現れた。 イギリスの建築評論家、チャールズ・ジェンクスである。
 ジェンクスは、その著書『ポスト・モダニズムの建築言語』において、ベンチュリーの主張した“遊び心”のある建築を“ポスト・モダニズム建築”と呼び、ゴテゴテとした一貫性のない、多様化し過ぎた様式が混在する建築に“新しさ”を見出した。
 この潮流は、次第に大衆の間にも浸透していき、それまでの画一的なモダニズム建築に飽きた人々によって、ルネッサンス期やゴシック建築を思わせる装飾過剰な建築がもてはやされるようになり、1980年代に入って一大“ポスト・モダン”ムーヴメントが巻き起こった。
 ……この流行の転換、何かに似ていないだろうか?
 そう、1920年代のドイツ表現主義の台頭とソックリなのだ。
 1918年の第1次世界大戦の終結と前後して勃興したドイツ表現主義は、それまでの絶対王政支配からの脱却を目指し、感情をストレートに表現する主観的芸術として1920年代に開花した。 それは、画一的で非人間的な様式美からの脱却であり、機能性だけではない多様性を求めた芸術運動であった。
 それと同じく、1980年代のポスト・モダン・ムーヴメントも、やはりモダニズム文化による画一的で非人間的な様式美に、ある種の“息苦しさ”を感じていた大衆が、ガラス張りの画一的な長方形を積み上げただけのビルから飛び出し、まるで遊園地のような遊び心いっぱいのラスヴェガスでカジノに興じる開放感を求めたからであり、それは感情をストレートに表現する主観的芸術として花開いたドイツ表現主義と根源を同じくするモノである。
 すなわち、ポスト・モダンとは新即物主義の再評価たるモダニズムから、ドイツ表現主義への回帰を目指したモノであり、言わばドイツ表現主義の再評価と言えるのである。
 かつて、タタンやシュヴァルが人々にバカにされながらも自らの感性を信じ、長い年月をかけてたった一人で完成させた装飾狂の夢が、ポスト・モダンという形で再び注目され始めたのである。
 さらに、この傾向を加速させたのが、映画の存在である。
 序章にて既に述べたように、本作は1977年に公開された映画『スターウォーズ』に対して多大な影響を与えた作品だが、映画『スターウォーズ』に登場する帝国軍の兵士、ストームトルーパーの画一的なユニフォームと、デススターの清潔な設備の描写は、まさに非人間的な“冷たさ”を客観的に表現する事を極意とした新即物主義の再評価たるモダニズムそのモノであり、ある種の息苦しさを感じるほどである。
 しかし、その対比として登場する共和国軍の多様化した宇宙船や、ハン・ソロが駆るミレニアム・ファルコン号の古臭くてゴテゴテとした装飾でいっぱいの“汚さ”は、しかしある種の“遊び心”が見え隠れする魅力があり、まさに感情をストレートに表現する主観的芸術としてのドイツ表現主義の再評価たるポスト・モダン、そのモノである。
 さらに、同じく1977年に公開され、前著『Wacth the Skies』で取り上げた映画『未知との遭遇』に登場するUFOも、それまでのUFOのメインイメージである“空飛ぶ円盤”のモティーフを嫌い、ゴテゴテと装飾され、ネオンの光がきらびやかに瞬くサマは、まさにポスト・モダン的な表現と言える。 映画のラストに登場するマザー・シップはその最たる例で、デザインしたのが『スターウォーズ』のコンセプチュアル・アーティストであるラルフ・マッカリーである事も、決して偶然ではない。
 映画の世界では、ベンチュリーの提唱を支持したジェンクスの主張と前後して、既にポスト・モダンが台頭を始めていたのである。
 そして、これを決定付けた作品が、1982年になっていよいよ公開された。
 筆者の前々著で取り上げた映画、『ブレードランナー』である。
 はぁ~~、やっと映画のハナシに移れる……。
 がしかぁし! 今週はココまでなのだ!



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


魔法男子。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 ウォーロックは、ソーサラーやウィザードなどと並ぶ男性魔法使いを指す語。 前回のソーサレスと同じく、攻撃魔法をガンガン撃ってくる。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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216.『メトロポリス』伝説:第5章⑤

2012年10月07日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #17-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 暑ぃぃぃぃぃいいぃぃぃいいぃいぃぃ……。(´Д`)
 先日の台風で暑さも吹っ飛んだかと思いきや、逆に夏がカムバック。 地方によっては真夏日も記録だって?
 今何月だっけ? 10月? ウソでしょ? 8月でもいけるよこの暑さ。
 そう言えば、僕の勤め先のまん前にある銀杏並木、未だに青々としてます。 例年は、そろそろ紅葉し始める時期のハズなのに。
 夏が終わらない……。
 朝晩が涼しいだけに、気温差が激しく体調を崩しやすいので、風邪などにはご注意下さい。
 つか、どうやら秋の花粉がだいぶ飛散しているようです。 そちらもご注意を。


 それとは関係ありませんが、ロンドンオリンピック観戦は馬術競技がようやく終わりました。
 イギリス勢の見事な3冠達成! 障害団体のでイギリスの金メダル獲得は、今回が史上初なんだそうな。 地元パワーですねぇ~~。 超アツかったです。
 馬術競技はルールがよく分からなかった事もあって、しっかり観たのは今回が実は初めてだったんですが、こんなにもアツい競技だったとは……!
 しかし、ルールが分かれば(注:Wikiや日本馬術競技連盟のHPで調べた。)、かなり面白い競技です。
 さ、次は自転車競技に行こうかな?



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第17回です。
 最後までヨロシクね☆


・パブリック・ドメインについて

 2001年版の公開以降、本作はユネスコの世界文化遺産に認定された事もあり、にわかに世界中の映画関係者の注目を集める事になった。
 また、別の意味で本作が注目された理由として、本作の著作権保護期間失効期限、いわゆる“パブリック・ドメイン化”の問題があった事が挙げられる。
 パブリック・ドメイン(注:日本語では“公有”と訳されているが、正直全く以って一般的な単語になっていないので、本書では“パブリック・ドメイン”で統一表記する)とは、著作物、及び特許取得技術の独占排他権を保障する“知的財産の法的保護期間が失効する事、及びその対象になった知的財産物”の事で、小説やマンガ、書籍類などの本、音楽などの著作物や、特許取得技術などがその対象となり、映画ももちろんこれに含まれる。
 国によって規定が微妙に異なるが、特許取得技術の場合は、特許の申請、あるいは特許の取得から20年。(注:国によっては、申請から取得までに10年以上かかる事もあるため、ある日突然特許侵害の通知が届く事もある。 高度経済成長期、日本でも既に一般的に利用されていた工業製品の生産ラインに使われているベルトコンベアが、アメリカで特許の申請はされていたが、この頃になってようやく正式に取得され、特許取得者から特許侵害の通知が届いて日本の企業を慌てさせた、なんてコトも起り得る) 著作物の場合は、著作権者の死後50年、あるいは70年と規定している国が多い。(注:統一はされていない。 中には、“死後99年”と規定するコートジボワールや、“死後100年”と規定するメキシコのような国もある)
 また、映画に限って言えば、映画は基本的に映画を製作した製作スタジオの著作物であり、100年経ってもスタジオそのモノは存続可能なため、“著作権者の死後”という規定が適用出来ない。 そのため、団体、あるいは法人名義の著作物に対しては、発表(初公開)から50年、あるいは70年と規定している国が多い。
 ヨーロッパでは、ドイツの基準に準拠する形でEU加盟国で統一されており、1993年以降は“死後70年(公開後50年)”となっている。
 日本の場合は、“死後50年(公開後50年)”で統一されているが、映画に限り、“公開後70年”になっている。
 そのため、日本では90年代後半から今世紀初頭にかけて、戦前までに初公開された映画がパブリック・ドメイン化したと判断され、商品単価500円程度の超格安DVDが大量に出回った。
 が、先にも述べたようにこれは飽くまでも“日本国内”だけの基準であって、海外ではこの基準が適用されない場合がほとんどである。
 特に、映画の場合は日本でも“公開後70年”になっているので、実際には90年代後半の時点でも、戦前の映画作品は1920年代前半までの作品までしかその対象にはなっていない。
 加えて映画大国アメリカでは、1977年以前までに公開された作品に対し、それまでの“公開後75年”から、保護期間を“公開後95年”に延長する著作権延長法、通称“ソニー・ボノ法”(注:この法案成立に尽力した政治家にちなんだ名称)が1998年に制定され、格安DVDをリリースしていた日本のメーカーが多数警告を受けた。
 この法案は、“公開後75年”の規定上、2003年にパブリック・ドメイン化するハズだったミッキー・マウス(注:最初の作品は1928年公開)の著作権保護期限が迫っていたため、ディズニーの圧力があって急ピッチで制定されたと言われており、同法は“ミッキー・マウス保護法”とも俗称されている。
 ちなみに、この保護はミッキー・マウスが登場する映画作品に対してのみで、“ミッキー・マウスというキャラクターそのモノ”は、既にディズニーが商標登録しており、商標は多くの国で“保護期間無期限”になっているので、ミッキー自体がパブリック・ドメイン化する事はない。
 それはともかく、こうした基準で言うと、本作は1927年公開の作品なので、ドイツ国内では1977年(公開後50年)に既にパブリック・ドメイン化しており、日本でも1997年(公開後70年)にパブリック・ドメイン化している事になる。
 そのため、2001年版のソフト版がリリースされた2003年以降、インターネットの動画ストリーミングサイト、YouTubeを中心に本作の動画ファイルが多数アップされた。
 ……が、YouTubeにアップされていた動画は2011年から今年2012年にかけて、そのほとんどが削除されている。
 これは、YouTubeは現在のアメリカの規定である“公開後95年”が適用されているからだ。 YouTubeの運営元はアメリカ国籍なので、アップしたユーザーやサーバーがどこの国であれ、アメリカ国内の規定に従う必要があるからだ。
 また、ソフト版に関しては、ムルナウ財団によって2001年版、及び2010年版(注:後述)がそれぞれ、デジタルリマスター化を理由に新たに著作権保護が発生しているので、少なくともリマスター化された版に関しては、最長で2105年(注:アメリカ基準)まで著作権保護期間が発生している事になる。
 そのため、本作のソフト版からリッピングした動画をYouTubeにアップするのは危険なので、やめておいた方が良いですよ?
 実を言うと、筆者が本書の企画を構想した2011年当初、リサーチの一環としてYouTubeにアップされている本作、並びに同時代の多数の作品を検索してみたトコロ、ま~これが飽きれるほど出てくる出てくる。(笑)
 ラングの過去作である『ニーベルンゲン』や『ドクトル・マブゼ』、『死滅の谷』はもちろん、『蜘蛛』や『ハラキリ』などの超希少作や、『ノスフェラトゥ』、『ゴーレム』などのドイツ映画黄金期の作品、エイゼンシュテイン作品、グリフィスの『イントレランス』、シュトロハイムの『グリード』などのリマスター版、さらには、本作のポロック版、モロダー版、パタラス版、2001年版、2010年版といった主要な復元版のほとんどに至るまで、大量にアップされていた。
 中には、英語版ではあったが2010年版のフルHD解像度の高画質版まであった。
 実際、2011年のリサーチ当初までは、本作の著作権保護は失効しているとされていた。(注:2012年現在も、Wikipedia日本語版にはそのように記されている。 もちろん誤り)
 個人的な事を言わせて頂ければ、パブリック・ドメインはいい加減国際法として完全統一する必要があると思う。 インターネットの登場により、デジタルデータにしてしまえば国境なんてあって無きが如しなので、これは早急に対処すべき問題だと思う。
 それでなくとも、著作権は“本当の意味での保護”が難しい問題だしね。


・世紀の大発見

 さて、そんな法的ゴタゴタもあった今世紀初頭、2001年版の公開によって注目された本作は、それまで以上に世界中から“フィルム発見”の情報がムルナウ財団とケルバーの下に寄せられるようになった。
 東西ドイツ統一、ソ連崩壊、冷戦終結から既に10年以上が経過し、またインターネットの普及によって情報を共有し易くなった事もあり、こうした芸術作品に対する国際協力がやり易い時代になったのも、その理由の一つだろう。
 ……が、本作の修復作業は、2001年版以降一向に進展しなかった。
 ケルバーは、“フィルム発見”のニュースを聞く度に、そのフィルムを取り寄せ、時には現地に飛ぶなどしてフィルムの確認に奔走した。 しかし、ケルバーはその全てに落胆させられる事になった。 発見されたフィルムは、その全てが既存のフィルムのコピー、あるいは別アングル別テイクの同じシーン、もしくは発見者のカン違いなど、既に2001年版でリマスター作業を行った素材と変わらないモノばかりだった。
 そうした状況が数年続き、恐らくケルバー自身も疲れてしまっていたのだろう。 2008年に入った“フィルム発見”のニュースにも、ケルバーは全く関心を示さなかった。
 しかしケルバーは、この時はまだ知らなかった。 この連絡が、“世紀の大発見”であった事を!


 ココで、本作の修復の歴史の最後に名を連ねる事になった二人の重要な人物を紹介しなくてはならない。 映画史家のフェルディナンド・マルティン・ペナと、プラドシネ・フィルム・アーカイヴ(Museo del Cine)の館長、パウラ・フェリックス=ディデイエ女史である。
 南米、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス―。
 アルゼンチン・タンゴのメッカであり、“南米のパリ”とまで呼ばれるほど美しく、また歴史的建造物が立ち並ぶこの街が、本作の修復の歴史の物語りの最後の舞台となった。
 ペナがまだ映画学校に入学して間もない学生だった1986年、ペナは学業と平行してこの街にある映画クラブ、“ヌクレオ”で働いていた。
 この頃、クラブの会員であった映画評論家のサルヴァドール・サンタマリターノと知り合ったペナは、ある時サンタマリターノからこんな話しを聞いた。

「59年に『メトロポリス』を上映したんだ。 映写機を2時間半も指で押さえていて大変だったよ。」

 この話しに、ペナは奇妙な違和感を覚えた。
 なんてコトはない、単なる映画クラブの先輩の昔話だ。
 しかしペナは、サンタマリターノの言った言葉に大きな疑問符を浮かべていた。

「……“2時間半も”???」

 先に述べたように、86年当時は本作の修復作業はまだ不完全で、84年に公開されたモロダー版は僅か83分の版でしかなく、この直後に発表される事になるパタラス版にしても、115分“しか”ない版である。
 それ以前には、映画はポロック版からコピーされた短縮版しかなく、59年当時に上映時間“2時間半”もある長尺版は、この世に存在していなかったハズだからだ。
 フレームレートを変えて上映された可能性は否定出来ないが、50年代には既にfps24が一般的で、映写機もこのfpsで再生する機種がほとんどだった。 そのため、低フレームレートで再生したとは考え難い。
 ペナは、この疑問の答えがどうしても知りたくなり、独自のリサーチを開始した。
 調べてみると、サンタマリターノが59年に上映した本作のフィルムは、映画収集家のマヌエル・ペーニャ・ロドリゲスのコレクションであった事が判明した。 そして、さらに調査を重ねてみると、意外な事実が浮かび上がってきた。
 なんとアルゼンチンでは、ドイツ本国とオーストリア以外では上映された事がないと考えられていたオリジナル完全版が、20年代に既に上映されていたのである!


 事の起こりは1927年。
 本作のドイツ本国での初公開時に、南米はアルゼンチンから一人の男がはるばる海を渡ってドイツを訪れた。 映画配給業者のアドルフォ・Z・ウィルソンである。
 ウィルソンは、当時公開中だった本作を鑑賞し、いたく感激したという。 そして、本作のオリジナル完全版を何とかしてアルゼンチンに持ち帰り、再編集せずにそのまま公開したいと考えた。
 どういった経緯があったかは、残念ながら記録が残っていないで定かではないが、とにかくウィルソンの熱意は実を結び、ウィルソンは本作のオリジナル完全版の35mmフィルムをアルゼンチンに持ち帰る事に成功する。 そして、27年11月にブエノスアイレスにて、ウィルソンは本作をオリジナル完全版のまま公開したのである。
 これは筆者の想像だが、本作のオリジナル完全版のフィルムは、少なくとも2つある。 一つは、27年1月のドイツ本国での初公開に使用された版。 プレミア上映の版と同じプリントである。
 もう一つは、27年2月のオーストリア配給で上映された版。 ドイツ国内の一般公開と、オーストリア配給は公開時期が重複していた期間があるのが明確に記録に残っているので、両者の上映に使われたのは確実に別のプリントである。
 もちろん、映画の上映の際はオリジナルのネガ・フィルムからポジ・フィルムにコピーしたプリントが使用されるので、両者が同じネガからコピーされたのは確かで、ネガが実際に残っていたのでオリジナル完全版の上映用ポジ・フィルムが複数あっても不思議ではない。
 が、ドイツ国内での一般公開において、惨憺たる結果に終わった本作のネガ・フィルムは、その後27年8月の再リリースの際にポロック版に倣って直接再編集され、カットされたフィルムが破棄されているので、1927年8月以降にオリジナル完全版の上映用ポジがコピーできるハズがない。
 このネガは、再リリース版の上映用ポジをプリントした後破棄、あるいは倉庫にしまい込まれた後、第2次大戦の混乱によって失われてしまう。
 すなわち、ウィルソンがアルゼンチンに持ち帰って27年11月に公開したのは、ドイツ初公開版かオーストリア配給版のいずれかのポジ・フィルム、という事になる。(注:もう一方は破棄、あるいは第2次大戦後の混乱によって紛失。 ナチスによってアーカイヴに封印され、終戦後にソ連へ渡るのは再リリース版)
 そしてこのフィルムは、同時にヨーロッパを“脱出”した唯一のオリジナル完全版であった。
 これまたどういった経緯でかは不明だが、このフィルムはアルゼンチンの日刊新聞、ラ・ナシオン紙に映画の批評を掲載していた映画評論家で、映画フィルムの収集家でもあったロドリゲスの手に渡り、彼のコレクションに加えられた。
 1930年代から始まったロドリゲスのコレクションは、最終的にこのフィルムを含めて実に3000タイトル(!)にも上り、ロドリゲスはこれを使ってフィルム・アーカイヴを設立しようと考えていたのだ。
 さらにロドリゲスは、蒐集したフィルムを倉庫にしまい込む事なく、映画クラブや回顧展などで度々コレクションのフィルムを映写機にかけた。
 トコロがロドリゲスのこの夢は、儚くも霧散する。
 1970年代に入り、体調不良に悩まされるようになったロドリゲスは、病院で診察を受けるとガンを患っている事が判明したのだ。
 余命幾ばくもない事を悟ったロドリゲスは、蒐集したフィルムを国立芸術基金に売却。 そのお金で、晩年は病気の治療に専念した。
 こうして、国家の所有物となった本作のオリジナル完全版は、ココで重大な改変が行われる。 アルゼンチン政府は、この35mmフィルムをなんと16mmフィルムに縮小コピーしてしまったのである!
 先にも述べたように、フィルムは非常に可燃性が高く、また高価だった事もあり、当時の保管技術では古い35mmフィルムを保管するのがとても難しかった。
 そのため、アルゼンチン政府は扱い難い35mmフィルムではなく、比較的安価で扱い易く、保存が容易な16mmフィルムにコピーする事で何とか映画を保存しようとしたのだ。
 ……まあ、努力は認めますがね。
 また、この複製によってミスが生じたのか、ほんの僅かだが一部のシーンが失われ、所々に微細な短縮が見られる版に改訂されてしまう。
 いずれにしても、こうしてアルゼンチン版は35mmフィルムが破棄され、16mmの縮小版だけが倉庫にしまい込まれる事になった。
 そして、サンタマリターノから話しを聞いたペナは、この真相を確かめるべく国立芸術基金にフィルムの調査を申し出た。
 しかし、フィルムは既に国立芸術基金の手を離れ、他のロドリゲス・コレクションのフィルムと共にプラドシネ・フィルム・アーカイヴに移されていた。
 ペナは、アーカイヴに再三フィルムの調査を申し出たが、返事は常に“ノー”だった。 当時の館長の官僚主義的方針が、部外者の立ち入りを拒んだ。
 では、アーカイヴ側で独自の調査はしなかったのか?という疑問が浮かぶが、……やらなかったらしい。/(^0^)\ナンテコッタイ
 ペナがフィルムを調査出来ないまま、時間だけが空しく過ぎていった。
 時は流れて2008年、ついに幸運がペナに味方する。
 この年、アーカイヴの館長が引退し、新しい館長に就任したのが、パウラ・フェリックス=ディデイエ女史であった。
 フェリックス=ディデイエは、実はペナとは付き合いの長い友人同士だったのだ。
 これ幸いと、ペナはフェリックス=ディデイエにフィルムの事を話し、調査を申請した。 フェリックス=ディデイエはこれを二つ返事で了承し、無数のフィルムが保管されている倉庫中を探し回った。
 すると、錆びだらけのゴールドバーグが並ぶ倉庫の一角、旧ロドリゲス・コレクションが並んだ棚に、それはあった。
 80年もの長きに渡り、この地球上から完全に失われていたと思われていた、本作のオリジナル完全版(に、最も近い16mm縮小版)が!
 錆びだらけのフィルム缶は、文字通りのゴールドバーグ(お宝)だったのだ。


 フィルムの内容を確認し、失われたシーンを含むオリジナル完全版である事を確認したペナとフェリックス=ディデイエは、この世紀の大発見の報をすぐさまドイツのムルナウ財団にEメールで連絡した。
 ……トコロが、待てど暮らせどムルナウ財団からの返事は返ってこなかった。
 先にも述べたように、この頃ムルナウ財団とケルバーの下には、世界中から“フィルム発見”の報告が絶え間なく届いていた。 しかし、その全てが誤報であったため、ケルバーも正直疲れていたのだろう。
 ケルバーは、Eメールに記されていた“16mmフィルム”の文字にこれもまた他の情報と同じく誤報だと思ったと言う。 交流のあったドイツ国内の映画雑誌、“ツァイト・マガジン”の編集者も、このアルゼンチンの“世紀の大発見”の事を教えてくれたが、ケルバーは「16mmは要らない。」と答えた。(注:後にケルバーは、「高慢な態度だった。」と苦笑した)
 返事が返ってこない事に業を煮やしたペナとフェリックス=ディデイエは、フィルムをビデオに撮り、なんとスペインに渡った。 ムルナウ財団の電話番号が分からなかったペナとフェリックス=ディデイエは、スペインの映画史家でF・W・ムルナウの研究家として名を馳せていたルシアーノ・ベリアトゥーアを面識もないのに訪ね、ムルナウ財団との仲介役を頼んだのだ。
 ビデオを観たベリアトゥーアは、二人が言っている事が事実である事に驚き、しかし同時に感激し、既に親交のあったムルナウ財団との仲介役を快く引き受けた。
 こうして、ベリアトゥーアという第三者の仲介によってフィルムが間違いなく“本物”である事を知ったケルバーは、このアルゼンチン版を使って本作の最後の修復作業を開始したのである。


・最後の修復作業(2010年版)

 しかし、修復作業は今まで以上に難航した。
 その最も大きな原因は、フィルムの劣化状態であった。
 ケルバー曰く、「今までで一番劣悪なプリントだった。」というこの16mmフィルムは、16mmフィルムというだけでも修復が大変(注:フィルムが小さいため、35mmよりも必然的に解像度が低く、またフレームのアスペクト比が異なるため、映像の一部がトリミングされてしまっているため。 修復しても、必然的に他のフィルム素材より画質の劣るモノにしかならない)なのに、このフィルムはどうやったらこんな状態になるのか首を傾げてしまうほど、極めて劣化の激しいシロモノだった。
 フィルムは傷付き、汚れ、再生しても何とか映像を判別出来るかどうかという程度で、リマスター素材としては全く使えなかった。
 しかし、ペナとフェリックス=ディデイエが言った通り、フィルムには確かにこれまで完全に失われていたと考えられていた影なき男の登場シーンや、大聖堂の神父の説教のシーンなどが含まれており、オリジナル完全版に最も近い版である事は確かだった。
 が、ドライ・スキャンだろうがウェット・スキャンだろうが、自動修復だろうが手作業だろうが、何をどうやってもある程度までしか修復し切れず、損傷を完全に除去するのは不可能だった。
 2001年版の修復時から既に10年近くが経過し、コンピュータテクノロジーがさらに進んだ2010年にあっても、この極めて損傷の激しい16mmフィルムの完全修復は不可能だったのだ。
 ケルバーは決断を迫られた。
 そして、ケルバーは“別の解釈”によって修復が不完全なまま作業を終える事を決断した。
 その“別の解釈”とは、“キズも歴史の一部と見なす事”だった。
 実際、既にリマスター済みのフィルムにも、極僅かなキズや汚れが残っている箇所はある。 これは、どんなに技術が進んでももう修復不可能なモノであり、不可能ならば諦めるしかない。
 何故ならそのキズは、そのフィルムが歩んできた数十年の歴史の積み重ね、そのモノでもあるからだ。
 こうして、やや強引な解釈ではあったが、修復作業は不完全なまま妥協を強いられた。


 しかし、妥協していない追加修復もあった。
 それが、音楽である。
 本作は、27年1月に行われたプレミア上映の際、フッペルツの作曲、指揮によってオーケストラの生演奏付きで映画が上映され、映画における音楽の重要性を明確にしたのは明らかだ。
 本作の復元版で編曲とオーケストラの指揮を手がけたフランク・シュトローベルは、本作の音楽について次のように語っている。

「表面的な音色に騙される事なく、その劇的効果を理解すれば、未来志向の音楽だと分かる。 ただの説明音楽ではない。」

 その通り、本作の音楽は映像の迫力を補完し、映画にダイナミックな劇的効果をもたらしている。
 80年代になって、フッペルツ自身がプレミア上映で使用したと思われる総譜が発見され、パタラスはこの総譜に基いて本作の修復作業を進めた。 そして、87年のパタラス版公開の際は、この復元版の尺に合わせて編曲し直した音楽を付けて上映された。
 2001年版では、作曲家で指揮者のシュトローベルが尺に合わせた編曲を手がけ、海外でも高い評価を得ているベルリン放送交響楽団がシュトローベルの指揮で演奏した音源がレコーディング、使用されている。
 今回の2010年版では、2001年版と同じくシュトローベルが再び尺に合わせて編曲をやり直し、やはり同じくベルリン放送交響楽団の演奏で再レコーディングが行われ、追加修復された映画に付けられた。
 すると、それまでカットされたままだった音楽の尺と映像がピタリと一致し、フッペルツが本来意図した本作の音楽の全体像が浮かび上がってきた。
 シュトローベルは語る。

「音楽を見る限り、以前の版では修復作業は完了していなかった。 まだ不十分だったのだ。 音楽だけが、映画の完全版を知っていた。」

 レコーディングされた音楽は、2011年にCD化され、全32曲が収録されたサントラ盤としてリリースされている。


 こうして、4110m、fps24で150分という、これまでで最長の最もオリジナル完全版に近い修復版が完成し、2010年に公開された。
 それまで、おとぎ話や都市伝説と何ら変わりなかった映画界の伝説は、こうして現代に再生されたのである。
 ドイツ国内では、2001年版の時と同じく、シュトローベルの指揮によるフルオーケストラの生演奏付きでプレミア上映が行われ、この模様はドイツ国内のTVで全国に生中継された。
 同年には、このバージョンをフルHD解像度で収録したBD版がリリースされ、日本でも同じ仕様で2010年末に、2001年版と同じく紀伊国屋書店からリリースされた。 同社がリリースしていた“クリティカル・エディション”シリーズでは、初のBD仕様であった。


 オリジナル完全版まで、あと79m、時間にして約2分。
 ネガもポジもほとんどが破棄され、残っていても損傷が激しく鑑賞に耐えられない状態になってしまっている本作のフィルムは、あとほんの僅かで完全版が復活する。
 ……しかし、アルゼンチン版を以ってしても復活がならなかったのだから、これ以上新たなフィルムが発見されるような事は、もう二度とないだろう。 残念な事ではあるが、本作の修復の旅はこれで終わりを告げると断じてしまっても間違いではないだろう。
 しかし、初公開時に大ゴケし、製作スタジオを経営危機にまで陥らせた当時の“世紀の駄作”は、再評価された今日、人類共有の財産としてその価値が認められ、“ドイツ表現主義映画最大の成果”、“SF映画の原点にして頂点”という、これ以上にないほどの賞賛が与えられる“世紀の名作”になった。
 しかしその裏には、80年の時を超えてなお、本作に魅了された多くの人々の情熱と、気の遠くなるような時間と、絶え間ない努力があった。
 2010年版は、本作の修復に携わった全ての人々の熱意と献身の成果である。
 筆者はその献身に心からの敬意と感謝の意を表し、再び本作のソフト版を再生したいと思う。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


魔法女子。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 ソーサレスは、その名の通り魔法使い系の敵。 攻撃魔法をガンガン撃ってくる。 しかし、両手の炎が結構明るいので、遠距離での発見、捕捉、スナイポは比較的ラク。 撃たれる前に撃つべし!



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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215.『メトロポリス』伝説:第5章④

2012年09月30日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #16-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 9月ももうおしまい。 秋深し10月が始まります。
 が、何なんでしょうこの暑さ。
 朝晩はさすがに秋の気配を感じますが、昼間の日差しはまだまだ夏! いい加減にしてほしいです。
 そしてアツいと言えばロンドンオリンピック! asayanはまだまだ観戦中です。
 カヌー&カヤックのスラロームがアツかった! そして今は乗馬がアツいです。
 ただ、以前ご紹介したIOCの公式サイトでは、やはりサバが遠過ぎて上手く繋がらない事がほとんどなので、今はコッチで観てます。(↓)

Official Olympic Channel by the IOC

 YouTube内のIOCオフィシャル・チャンネルです。 サバがストリーミング専用なので、こっちの方が繋がり易い上、全競技全種目、全試合がフルサイズ完全ノーカットで観れます。 もちろん、YouTubeなので全動画フルHD対応。 高解像度の映像で観戦できます。
 ただし、繋がり易いと言っても飽くまでも“比較的”。 高解像度では間違いなくラグる上、最悪エラーで要再接続です。 240以外は、まず間違いなくラグるので注意。
 また、開催期間中のライブ映像をそのままアップしているので、編集が極めて雑。 競技間の休憩時間すら、カットせずにそのままなので、時々シークしてやる必要があります。
 まあ、今のYouTubeはシークし易い仕様になったので、煩わしさはずいぶん低減されましたが。
 いずれにしても、あっしのアツい夏はまだまだ終わりそうにないです。
 ……って、え? この昼間の夏の日差しは僕のせい?
 んなバカな。(笑)


 それとは関係ありませんが、ココで緊・急・告・知!
 来月10月に予定していたMFD‐WEBの更新ですが、誠に遺憾ながら延期させて頂きます。
 というのも、来月のアップでは現在当ブログで連載中の『「メトロポリス」伝説』のPDF版をアップするつもりでしたが、ブログ連載の方が10月のアップ予定日までに終わりそうにない上、その次の12月のアップを予定していた『Beyond』のアルティメット版の制作が、10月のアップ予定日に間に合いそうにないので、アップ予定日そのモノを延期する事にしました。
 本当に申し訳ないです。つД`)゜。
 MFD‐WEBの次回の更新は、11月25日の予定。 『Beyond』のアルティメット版をアップするつもりです。
 連載中の『「メトロポリス」伝説』のPDF版は、その翌月の12月の更新でアップする予定です。
 それまでには、ブログ連載も終わるハズなので。
 公開予定日まで、今しばらくお待ち下さい。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第16回です。
 最後までヨロシクね☆


・もう一つの80年代修復版(パタラス版/1987年)

 モロダー版の成果には、しかし前回記した通り批判もあった。 その考えには、西ドイツで本作の修復作業を続けていたパタラスも大いに同意した事だろう。
 パタラスは、大きく分けて4種、すなわちソ連・チェコ版、東独版、イギリス・ポロック版、そしてオーストラリアのメルボルンで見つかった版(注:競技場のシーンが含まれていた版)を主に使用し、検閲カードから中間字幕を再現し、さらにフッペルツのスコアに書き込まれた指示に従って、ショットの尺を合わせた。
 これを、オリジナル脚本に従って編集した。
 しかし、作業は難航した。
 欠落したシーンがあまりにも多く、フッペルツのスコアに合わせると所々歯抜けになってしまう。
 かといって、歯抜けにならないようにすると、フッペルツのスコアと尺が合わない。
 また、先にも記したように版によって同じショットでも別アングル、あるいは別テイクのフィルムが使われている事があり、どちらのショットを使うか大いに悩まされた。
 また、修復作業中も「どこそこでフィルムが見つかった」という情報が絶えず入り、その度にそのフィルムがどういう版でどういう状態なのかを確認する作業にも追われた。
 そのため、修復作業は何度も中断しては再開し、再開しては中断するを繰り返した。 その時の苦労を、パタラスは「要した時間も分からない。 2週間とも8年とも言える。」と語っている。
 最終的に、尺の問題は音楽の方を編曲する事で解決したようだが、最大の難問は失われていたシーンをどうするか?だった。
 既に、83年にパリのシネマティークに眠っていた831枚にも及ぶスティルが発見され、これにはスティルではあったが失われたシーンを写したモノも含まれていた。 そのため、モロダー版と同じくこのスティルを挿入する事で、失われたシーンを再現する事は可能だった。
 この問題に、パタラスは迷いに迷った。
 しかし最終的に、パタラスはスティルを使う事を断念した。 そして、失われたシーンには中間字幕化した説明文を入れるという方法を取った。
 これが、パタラスの選択した“英断”である。
 批判的に考える方もいるかもしれないが、筆者はパタラスの“英断”を讃えたい。 何故なら、スティルから再現すると失敗する事が多いからだ。
 最も顕著な例は、この章の頭に記したシュトロハイム監督作品の『グリード』である。
 この映画のオリジナル版は、上映時間実に10時間という途方もない巨大映画で、スタジオは映画の失敗が目に見えているため、シュトロハイムに短縮を指示し、140分にまで短縮された。 結果、失われたシーンのフィルムは破棄され、撮影中に撮られたプロダクション・フォトだけが残されたが、後にこの映画はデジタル・リマスター化され、オリジナル版を再現すべく残されたスティルから失われたシーンの再現が試みられている。
 ……が、正直観ていて煩わしい。
 資料がなかったのか、中間字幕が全く再現されていないので、スティルシーンがどういうシーンなのかが全く分からない。 少なくとも、中間字幕も一緒に再現すべきだった。
 本作の修復でも、これと同じ事が起こる可能性は十分あった。 中間字幕の再現は可能だが、“映画”なのに画が動かないという印象が、観客に煩わしさを与える可能性は高かった。 実際、これと同じ手法で修復された2001年版(注:後述)を観てみると、失われたシーンの説明文は文章なのでかろうじて観ていられる(読んでいられる)が、これが動きがないスティルとして脳内補完すると、正直筆者でも鑑賞に耐えられるかどうかはなはだ疑問である。
 ともかく、パタラスは失われたシーンの再現にスティルを使わない事を決めたが、ただ1ヵ所だけ、スティルを使って失われたシーンを再現したショットがある。
 それが、ロートヴァングの家に鎮座する巨大なヘルの頭像を写したシーンである。
 検閲カードには、中間字幕としてヘルの頭像の台座に刻まれていた碑文が書かれていたが、フッペルツのスコアには他の中間字幕のタイミングは全て指示されていたのに、これだけがない。(注:本来は中間字幕ではなく映像のため)
 検閲カードにある中間字幕が何なのか分からず、パタラスは脚本を確認したが、これに相当する中間字幕は脚本にもなかった。
 そこで、スティルを探してみると、“文章”が写されている写真が見つかった。 その文章は、紛れもなく検閲カードに書かれてあった中間字幕だった。
 パタラスは、このシーンがフレーダーセンとロートヴァングの関係を明確にする重要なシーンである事を悟り、このシーンに限り、スティルから失われたシーンを再現する事を決断したのであった。
 こうして、パタラスは長い年月をかけてラングが本来意図したオリジナル版に相当するようにフィルムを再構築し、本作の修復作業を進めた。
 そうして1987年、パタラスは再現された中間字幕を含む3153m、fps24で約115分という、当時最長の修復版を完成させた。
 この版は、尺を合わせて編曲したフッペルツのスコア付きでモスクワで最初に上映された後、ヨーロッパ各国やアメリカなど、世界各国でも上映され、極めて高い評価を受けた。
 そして、かつてのポロック版やモロダー版を“無かった事”にして、本作の正しい解釈に観客を導く事に成功した。
 このパタラス版によって、本作は60年の時を経てようやく、現代に蘇ったのである!
 ちなみに、この版は当時日本でも古典映画の上映会などで複数回上映されているが、ナゼかフッペルツのスコアが無い、完全なサイレントとしてしか上映されていない。
 ……なんで?(´・ω・`)??


・修復作業の継承

 以上のように、本作は映画を愛する多くの人々の多大な献身によって、初公開から60年以上という長い年月をかけてようやく再生され、不当に低かった本作の評価を改めさせる事に成功した。
 残念ながら、失われた完全版の再生には至らなかったが、パタラス版というラングやフォン・ハルボウ、フッペルツの意図を汲み取ったバージョンが完成し、本作のヴィジュアル的、音楽的、ストーリー的、そしてテーマ的先見性と現代性を確信出来る版を、ビデオソフトという形で我々一般の観客も観る事が出来るようになった。
 だが、本作の修復の歴史は、これで終わりではなかった。
 ビデオソフト化されたパタラス版は、新たな修復の歴史の始まりになったのである。
 少し時間を遡るが、ラングやルービッチュ、デュポンらと共に1920年代のドイツ映画黄金時代を牽引した巨匠、F・W・ムルナウの発案で1966年、F・W・ムルナウ財団という財団法人が設立された。
 これは、第2次大戦、そして戦後の混乱期によってドイツ国内から失われてしまった戦前のドイツ映画作品の蒐集、保護、管理、保存を目的とした財団であった。
 設立当初は小さな組織でしかなかったが、ドイツ映画産業組合(SPIO)との協力により、ドイツ国内の複数のフィルム・アーカイヴや映画博物館とも連携し、約3000タイトルのドイツ映画の保護に貢献した。
 1978年になると、ウーファ社が戦後になって再度民営化し、しかしソ連の共産化政策によって分割再編されて出来たDEFA=ドイツ・フィルム・AG社とも提携。 さらに幅広い映画作品の保護に努め、現在までに娯楽映画、短編映画、さらにはニュース映画まで含めて、実に20000タイトル(!)ものドイツ映画の保護、管理を行っている。
 2009年には、ドイツ映画研究所と共同でヴィースバーデンにドイツ・フィルム・ハウスという映画博物館をオープンし、財団が蒐集、保護した作品の資料を常設展示する他、蒐集したフィルムを館内の映画館でも上映している。
 また、1994年からは短編映画賞を設け、若手の育成にも努めている。
 本作の修復は1990年代に入り、この財団に引き継がれた。
 ムルナウ財団に務める映画修復家、マルティン・ケルバーは、パタラス版とその修復のためにパタラスが蒐集した資料を引き継ぎ、さらに本作の修復を完全なモノにすべく独自のリサーチを開始した。
 ケルバーはまず、それまでに蒐集されていたフィルムや資料、全てに目を通し、再検証する事から始めた。 そうする事で、オリジナル完全版の全体像を捉え直そうと考えたのだ。
 これと平行して、世界各地のシネマティーク、フィルム・アーカイヴ、映画博物館、近代美術館、個人コレクター等と連絡を取り、既存の版を超える、すなわち失われたシーンが含まれているプリントが残っていないかの確認を行った。
 その結果1998年、フィルムリール全8巻の、アメリカ・ポロック版のオリジナル・ネガ・フィルムが発見された!(注:このフィルムの出所は、筆者はリサーチし切れなかったので不明。 現在は、約9万巻に及ぶフィルムを所蔵するベルリンのフィルム・アーカイヴに収蔵されている)
 しかもこのフィルムは、保存状態が非常に良かっただけでなく、パタラス版にも含まれていないいくつかショットが含まれていた。
 フィルムは全部で3341m。 ランニングタイムは、fps24で約121分。
 ただし、フィルムを確認してみると、8巻のフィルムリールのうち1巻だけは、どうやら60年代に複製されたモノらしく、画質が悪いドコロか既にフィルムが腐食してしまっており、映画の修復素材には使用出来なかった。(注:後述するソフト版のランニングタイムが微妙に短いのはこのため。 計算上は、3341mのfps24で121分が正しい)
 が、それ以外はそれまでに観てきたどの版よりも極めて状態が良く、また追加リサーチしてみると、どうやら本作の撮影に実際に使用された撮影ネガであるらしい事が分かった。
 映像素材としても、いわゆる別テイク、別アングルではなく、キャストの演技もカメラアングルも最高のモノであった。
 この発見により、ケルバーはこのフィルムをベースに、パタラス版を補完する改訂パタラス版に再構築する事を決意した。


・電脳修復技巧(2001年版)

 ケルバーが行った本作の修復作業は、パタラス版までのようにフィルムをコピー、再編集するだけに止まる事のない、更なる“画質の向上”を目指した修復作業であった。
 当時既に一般化していた、デジタルリマスター化を行ったのである。
 デジタルリマスターとは、フィルムをコンピュータに取り込み、映像をデジタルデータ化して修復、保存する技術の事である。
 元々は1980年代、本作のパタラス版が公開されたのと前後して、ジョージ・ルーカスが映画編集用のノンリニアデジタル編集システム(注:通称Avid)をILMに開発させ、その副産物として映像をデジタルデータ化したAVI形式の動画ファイル(注:後に、LD=レーザーディスクの動画記録形式に採用される)が出来、その延長線上で90年代に入ってから、古くなって画質に劣化が見られるようになった映画作品の修復、再保存を目的とした世界初のデジタルリマスター技術、“THXデジタリーマスタード”がILM社によって開発され、当時ビデオソフトで再リリースされたTHX版『スターウォーズ』シリーズ旧三部作に採用されたのが、その始まりである。(注:詳しくは拙著『異説「ブレードランナー」論:完全版』、127頁辺りを参照の事)
 これにより、80年代以前の名作映画作品が次から次へとデジタルリマスター化されるようになり、98年頃から急速に市場が拡大し始めたDVDソフトの大量リリースへと発展し、2000年にリリースされたソニーのコンシューマゲーム機、“プレイステーション2(PS2)”によって一気にDVDソフトが普及したのは、皆さんも周知の通りである。
 こうした映像のデジタル化、並びにデジタル技術を利用した映像の修復技術が普及した事により、今日では数十年前のフィルム映像を撮影した当時、あるいはそれ以上の美しい映像で観る事が出来るようになった。
 ホント、良い時代になったモンだよ。
 ケルバーは、この技術を本作の修復にも利用する事を決定する。
 ルーカスがILMに開発させたTHXテクノロジー以降、デジタルリマスター技術は世界各国の映画産業で注目され、多数の企業により独自のデジタルリマスターソフトが開発され、中にはデジタルリマスター化を専門的に行う企業も設立されるようになった。
 本作のデジタルリマスターは、ムルナウ財団の後援により、ケルバーの監修の下でドイツのデジタルリマスター専門会社、アルファ=オメガ・デジタル・GmbH社によって2000年から2001年にかけて行われた。
 ケルバーはまず、ブンデス・フィルム・アーカイヴに赴き、発見されたアメリカ・ポロック版のオリジナル・ネガを実際の修復作業に使用するワークプリントに複製した。 そして、これをアルファ=オメガ社に持ち込み、デジタルスキャナーでスキャニングした。
 通常、コピー機やファックスを含むスキャナーは、フロント・プロジェクションと同じ要領で原稿に光を照射し、この照射された光の反射光をCCDカメラで撮影してデジタル化する。
 しかしネガ・フィルムの場合は、フロント・プロジェクションで光を照射すると、明暗が反転した画像が取り込まれてしまうため、リア・プロジェクションと同じ要領でフィルムの裏側から光を照射し、反射光ではなくフィルムを通した透過光をCCDでスキャンする、という方法が取られる。
 現在は、デジタルカメラの普及でスティルでもムービーでも素材が最初からデジタル化されているため、手書き原稿や印刷済み原稿を取り込む事にしかスキャナーを利用する機会がなくなり、需要がなくなって一般向けのスキャナー製品ではこのような機能、あるいはオプションが実装されている事が少なくなった。
 また、映画の世界でも、撮影にフィルムカメラを使用する例がどんどん少なくなっており、3D映画の頻作もあって、映画の撮影現場でもデジタルカメラがかなり普及(注:3D用の撮影では、右目用の映像と左目用の映像を同時に撮影しなくてはならないため、フィルムだと結果的に2倍の量のフィルムを消費しなければならない。 デジタルならば、フィルムの消費量を無視して撮影出来る。 ちなみに、本作の撮影では2台同時撮影によって右目用と左目用に相当するフィルム素材が一部だが現存しているので、これを使えば部分的ではあるが『メトロポリス:3D』が製作出来る。 ……頼むからやらないでね? 3Dキラいなんで)してきてはいるが、筆者的には撮影だけでもフィルムで撮って頂きたいと願う。 デジタルカメラの映像は確かにキレイだが、フィルム特有の“アジ”がないからだ。
 確かに、膨大なフィルム消費に伴うコストを考えれば、デジタルカメラの方がカメラそのモノが高価でも、結果的にランニングコストが下がるので合理的だというのは分かるが、やっぱり映画はフィルムであって欲しいと思う。
 話しが逸れた。
 ともかく、本作のデジタルリマスター化でもそれは同じで、ケルバーとアルファ=オメガ社は本作のフィルムをフレーム単位でスキャニングし、コンピュータに取り込んだ。
 が、これが裏目に出た。
 先ほど延べたように、ネガ・フィルムのスキャニングでは裏側からライトを当てて透過光をスキャニングする必要があるのだが、こうするとフィルムに残っていた細かい傷や汚れが目立ち、全体的に映像がぼんやりと白っぽくなってしまったのだ。(注:ケルバー曰く、「ヴェールを覆ったように白くなった。」)
 これは、もちろんスキャニングの原理上仕方のない事なのだが、これをデジタルリマスターの素材として使用するには手間がかかり過ぎるとケルバーは判断し、別のスキャニング方法を用いる事にした。
 それが、“ウェット・スキャン”と呼ばれる手法である。
 これは、読んで字の如しネガ・フィルムを濡らしてスキャニングする技法である。
 多少汚れたクルマを洗車する際、ホースで水をかけただけで汚れが目立たなくなり、キレイになったように見えた経験が、皆さんはあるだろうか?
 これは、水によって汚れが洗い流されたからではなく、汚れているトコロと汚れていないトコロの差が水によって埋められ、差がなくなった事でキレイなった“ように見える”からである。
 フィルムでも、これは全く同じである。
 水で濡らす事で、フィルムの表面についた細かい傷や埃、汚れが埋まり、キレイになった“ように見える”状態にする事が出来る。
 すなわち、濡らす事によってフィルムの劣化を隠す事が出来るのである。
 発見されたアメリカ・ポロック版のフィルムは非常に状態が良く、撮影フィルムだったので画質は申し分なかったため、ケルバーはリマスター化作業に手間がかかるだけのドライ・スキャンではなく、このウェット・スキャンを優先してスキャニングした。
 結果、多くの素材がデジタルでの修復を必要としないほどの高画質、高品質でスキャニング出来たそうだ。
 ちなみに、現在のデジタルリマスター化作業では、ドライとウェットを使い分け、かつ4K(注:フレーム当り3840×2160ピクセルの超高解像度でスキャニングする事。 フルHDの約4倍に相当。 当然、その分ファイル容量が大きくなり、HDDを圧迫する上、エンコードにマシンスペックを要求するというデメリットもある)でスキャンするのが一般的になったが、当時はまだ2K(注:1920×1080ピクセル。 すなわちフルHD解像度)が主流だったハズなので、本作のスキャニングも2Kで行われたハズ。(注:資料が見つからなかったので自信はない)


 スキャニングされたフィルムは、ウェット・スキャンのおかげでデジタル修復の必要がないほどキレイになったが、中にはキズや汚れが大きく、デジタルでの微修正を必要とするフィルムもあった。
 修復作業当時、既に複数のソフトメーカーによってデジタルリマスター用の映像修正ソフトが開発、リリースされており、ケルバーは“ライムライト”という自動修正ソフトを主に使用してこの微修正を行った。
 自動修正ソフトは、その名の通り映像を自動的に判別し、キズや汚れを取り除いて映像をキレイにするソフトである。
 このソフトは、まず取り込んだ映像をフレーム単位で認識し、あるフレームとその一つ前のフレームをピクセル単位で比較する。 そして、一つ前のフレームには無いのに目的のフレームにはある“連続した映像としての相違点”を検証し、この相違を“ゴミ”と判断して、一つ前のフレームと同じ状態になるように修正する。
 これが、自動修正ソフトの基本的な修正プロセスである。
 デジタルリマスター化作業を効率的に進めるためにも、非常に便利なソフトと言える。
 ただし、これには弱点もある。
 結局のトコロ、このソフトが判別しているのは“フレーム間の相違”であって、それが“ゴミ”であるか否かを判別しているワケではない。 そのため、このソフトはフレーム間の相違を全て“ゴミ”と判別してしまい、時には必要なモノまで勝手に修正して映像を改変してしまう事があるのだ。
 特に、本作製作当時の1920年代までのサイレント映画では、トーキー普及前でカメラも手回し式がほとんどだった事もあり、撮影されたフィルムのフレームレートは一定せず、マチマチだった。 そのため、fps16での再生を前提に撮影された本作のフィルムを現在のfps24で再生すると、1.5倍速程度の映像になる。 すなわち、フレーム間の動きが大きな映像がフィルムに焼き付けられているのである。
 そのため、現代の作品を自動修正する分には何ら問題ない自動修正ソフトでも、フレーム間の動きが大きな当時のフィルムを自動修正させると、手足や頭を速く動かすような映像において、動きがあまりに速い=フレーム間の相違が大きいため、ソフトが“ゴミ”と誤認して勝手に修正してしまう事が多かった。
 中には、手が消える、足が消える、頭が髪だけを残して消えるなど、まるで心霊動画のような映像になってしまう事もあった。
 そのため、ケルバーとアルファ=オメガ社のスタッフは、自動修正ソフトが誤認してしまう映像をフォトレタッチ(注:スティルの画像加工技術の事。 グラビア写真や広告写真でもよく使われている)の要領で手作業で、チマチマと映像を修正しなければならなかった。
 先ほど延べたように、新発見されたアメリカ・ポロック版は3341m、fps24で121分の尺があるが、単純計算すると24(フレーム)×60(秒)×121(分)=174,240枚(!)のスティルがある事になる。
 これを、全部ではないにしても、フレーム単位でチマチマチマチマ……。
 デジタル修復が、いかに手間のかかる作業を必要とするかお分かり頂けるだろうか?
 しかし、ケルバーは語る。

「流し観すれば気付かないが、映像の史料的価値を求めるなら、こうしたミスは許容出来ない。 本来の版と映像が異なるからだ。」

 ケルバーとスタッフは、来る日も来る日も映像を確認しては修正を繰り返すという気の遠くなるような修復作業に忙殺された。


 これとは別に、スキャンしたフィルムに元々あったテクニカル・エラーも修正する必要があった。
 編集やフィルムの複製によって起ったフレームのズレ、画の歪み、画質の劣化、経年劣化による画質の不均質である。
 これらはキズや汚れではないため、自動修正ソフトでは修正出来ない。 全て、手作業で修正していくしかない。
 例えば、バベルの塔の伝説のシーンで、アニメーションによって“BABEL”の文字が“キラリキラリぱぁああ☆”と光る(笑)ショットがあるが、新発見されたフィルムのこの部分は経年劣化しており、“ぱぁああ☆”と光った時に光で文字が飛んでしまい読めなくなってしまっていた。 これは、他の版でも大差なく、修正ソフトでの修復が断念され、手作業での修復が決断された。
 ケルバーとスタッフは、まずフレーム単位で文字だけを抜き出し、文字だけの映像に作り直した。 そして、フィルムから今度は光だけを抜き出し、文字だけの映像に重ねる。
 最後に、光の透過率を調整して、文字が白く飛んでしまわない程度にまで半透明化する。
 こうして、あのタイポグラフのアニメーションショットはほぼ100%作り直された。
 さらにやっかいなのは、経年劣化によってフィルムそのモノが物理的に破損、すなわち裂けてしまっている場合だ。 これはもう、デジタルでしか修正出来ない。
 裂けてしまったフィルムから映像を抜き出し、コンピュータ上でフィルムの断片を繋ぎ、本来の映像に戻す。
 これを、フレーム単位で繰り返した。
 こうして、ケルバーとスタッフはテクニカル・エラーも修正していき、映画全体が均一な画質になるように作業した。


 先に記したように、新発見したフィルムは全部で8巻のリールにまとめられていたが、この内の1巻のフィルムは60年代に複製されたリールで、しかも保存状態が悪かったのかフィルムそのモノが腐食してしまっており、映っている映像が全く使えなかった。
 心臓機械が崩壊するシーンを含むリールがそれだったのだが、他の版のフィルムにしても、劣化や損傷が激しいモノがほとんどで、修復しても他のリールほどの画質にはならないと判断せざるを得なかった。
 しかし、幸運はケルバーに味方する。
 心臓機械が崩壊するシーンは、シュフタン・プロセスや多重露光ではなく、撮影後にフィルムを重ねて複製するという複写合成で制作されたシーンなのだが、なんとこの合成する前の合成素材のフィルムが見つかったのである!
 しかも、この合成素材のフィルムは大変状態が良く、再発見されたフィルムと比較してもそれに匹敵する良質なモノであった。
 ケルバーは、この合成素材フィルムをウェット・スキャンし、コンピュータに取り込んでコンピュータ上でコンポジットして、このシーンを修復した。
 すなわち、70年前のポス・プロ作業をやり直したのである。
 70年の時を経て、本作はようやくポス・プロ作業が完了したワケだ。(笑)


 失われたシーンの再現は行わず、パタラス版と同じくスティルを使用しない説明文のみ(注:ただし、パタラス版と同じくヘルの頭像のシーンだけは例外的にスティルを使用)にした。
 さらにケルバーは、映画の中間字幕にもこだわった。
 リサーチの結果、当時の映画雑誌の記事などに中間字幕に使われたオリジナルのフォントの情報が見つかり、ケルバーはこれを基にコンピュータを使ってフォントを再現。 中間字幕を全て作り直し、映像に挿入した。
 そして、フランク・シュトローベル指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏によって新たに収録されたフッペルツのオリジナル楽曲をミキシングし、3341m、fps24で118分ランニングタイムを持つ史上初のデジタルリマスター版『メトロポリス』2001が完成した。
 ケルバーの成果である2001年版は、同年にベルリンで、しかもシュトローベル指揮によるフルオーケストラの生演奏付きで大々的にプレミア上映が行われ、集まった観客から拍手喝采を受けた。
 そして、“再誕生”した本作は再び再評価され、その芸術的価値が認められた結果、人類共有の財産としてユネスコが定める世界文化遺産に認定された。
 映画作品としては、これが史上初の快挙であった。
 この版は、世界各国でも上映され、2003年からはDVD化されたソフト版がリリースされた。
 日本では、紀伊国屋書店が権利を取得し2006年に特典映像付き2枚組みのDVDソフトが、“クリティカル・エディション”と題されてリリースされている。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


志村ー! 後ろ後ろーッ!!


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 ナゼか壁に密着してルナちゃんに背中を狙われているオーク。 神殿には、訓練に励んでいる同種族のネームドNPCもいるが、ダンジョン内ではこれも敵。 デフォルトのオークそのままではなく、ボディは専用の新規モデリングらしい。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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214.『メトロポリス』伝説:第5章③

2012年09月23日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #15-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先日発表された文部科学省の“国語世論調査”。 皆さんはいかがでしたか?
 あっしは、書いてる側の人間としてハズかしい結果でした。つД`)゜。
 う~~ん、書くようになってから結構自信あったんですが、まだまだ勉強不足だなぁ~と。
 日本語ってムズかしいッスね。


 ちなみに、先週ウチの庭で鳴いてたツクツクホーシ、どうやら一連の暴風雨でいなくなったクサいんですが、その代わりに今は赤トンボが大量発生してます。Σ(゜Д゜;)
 ……頼むからもうちょっと季節感に統一感を持たせてくれ……。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第15回です。
 今週も、最後までお楽しみ頂けたら幸いです。


・第2次世界大戦~戦後

 さて、ヒトラーネタはそろそろ読者もお腹一杯になってきた頃だと思う(注:既に手遅れ?)ので、ココからは本題に戻るとしよう。
 第2次世界大戦勃発直前の1936年と翌37年、本国ドイツでは上映禁止になっていた本作は、実はアメリカでリバイバル上映されている。
 この時の公開されたのはポロック版だったが、ニューヨーク近代美術館が保管していたフィルムは所々損傷してしまっており、鑑賞に耐えられるフィルムは僅かしか残っていなかった。
 そのため、この公開では2250m、fps24で再生して、なんとたったの80分しかない最短版になっていた。(注:トーキー時代に入った事で、音声との同期にズレがないfps24が一般化し、現在に至る。 ので、ココからは全てfps24を基準にランニングタイムを表記する)
 アメリカでも、本作はあまり評価されていなかった作品のため、損傷したフィルムはほとんどが破棄されてしまい、残っていたのはこの最短版ぐらいしかなかった。
 本国ドイツでは、上映禁止になっていたとは言っても、フィルムそのモノは(ポロック版ベースの短縮版ではあったが)ナチスによってベルリンの帝国フィルム・アーカイヴに保管されていた。
 もしかしたら、個人所有や倉庫の奥に眠っていたフィルムもあったかもしれない。
 しかし、その後の第2次世界大戦の戦乱と混乱のため、そうした残っていたかもしれないフィルムは紛失や焼失を免れず、失われてしまう。
 そして、唯一残っていた短縮版のフィルムは、戦後ドイツを占領したソ連軍によってアーカイヴを丸ごと押さえられ、押収されてソ連に持ち帰られてしまう。
 時ココに至って、本作のフィルムはドイツ国内から完全に、完璧に、断片すら残す事なく、失われた。
 ちなみにこの頃、ハリウッドで活躍していたラングを、ある日本人が訪ねている。
 その日本人とは、当時活躍し始めていた映画評論家、淀川長治である。
 正確な年代が不明だが、淀川本人の弁によると、淀川はハリウッドで名声を得ていたラングを訪ね、監督作品についてインタビューしている。
 このインタビューの最中、淀川は予てから自身のフェイバリット作品だった本作の事を取り上げ、ラングに賛辞を述べた。 その言葉にラングは、淀川に抱きついて大喜びしたという。
 当時、ラングが評価されていたのは飽くまでもハリウッドで撮った作品に対してのみで、それ以前のドイツで撮った作品、特に本作に対しては、全くと言っていいほど評価されていなかった。 そのため、ハリウッドに来て初めて本作に対する賛辞を聞いたラングは、大層感激したそうな。
 それはともかく、終戦から10年以上が経過した1957年、オーストラリアのシドニーにあるニューサウスウェルズ・ナショナル・フィルム・アーカイヴに保管されていた本作のフィルムが発見され、オーストラリアとイギリスで再リリースが行われている。
 このフィルムは、どうやら保存状態が比較的良かったらしく、2545m、fps24で92分のポロック版ベースではあったが、この公開が映画の再評価を促すキッカケになったのかもしれない。
 だが、こと“修復”という意味においては、それまで全く行われた事はなかった。
 ドイツ国内からは本作のフィルムが失われてしまったが、それでも世界各国には本作の複数種の短縮版のフィルムが散在しており、これら世界中に点在していた本作のフィルムをかき集め、重複していないフィルム素材を繋ぎ合わせてオリジナル版に近い版に作り直す事は可能だったハズなのに、当時はそういう事が行われたという記録は一切残っていない。
 もちろん、当時の時代背景には既に始まっていた米ソ冷戦構造があり、これによって(冷戦とは全く関係ない芸術分野での事ではあっても)国際協力がやり難かった現状があったかもしれないが、この時点で修復が行われていれば、本作は現在もうちょっと状態の良い映像で修復出来たかもしれない。
 ……と、残念がるのは、当時を知らない筆者の勝手な言い分だろうか?
 それはともかく、本作の“修復”が試みられるには、オーストラリアとイギリスの再公開以降、4年の歳月を待たなければならなかった。


4.再生への道のり

 以上のように、本作は1950年代までに喪失し、ほとんど忘れられた作品になっていた。
 これを監督したラング自身も、50年代に入ってからハリウッドのスタジオやプロデューサー陣と考え方の違いから度々対立するようになっており、多くのヒット作を手がけた実績がありながらも、既に60代も後半を迎えて高齢の域に達していた事もあり、ハリウッド映画界もラングを必要としていなかった。
 そのため、ラングはハリウッドと決別する事を決意。 1956年、ラングはアメリカを離れ、ドイツ(注:当時の西ドイツ)に23年ぶりに帰国した。
 帰国したラングは、スタジオとプロデューサーの発案で、帰国直前の1954年に不慮の事故で亡くなっていたかつての妻、フォン・ハルボウ原作、脚本の『インドの霊廟』のリメイク版を監督する。
 この作品は、かつてサイレント時代にフォン・ハルボウの原作小説を基にジョー・マイが映画化した作品で、トーキー仕様では1937年にリヒャルト・アイヒベルクによってリメイクされていたが、元々ラングはマイにこの作品の監督させて欲しいと頼んでいた。
 が、ラングとウマが合わなかったマイはアッサリとこの要求を蹴り、自分で監督する。
 そんな作品の2度目のリメイクが、ラングに提案されたのである。
 リメイク版『インドの霊廟』は、『大いなる神秘/王城の掟』、『大いなる神秘/情炎の砂漠』というタイトルで、実際にインドロケを敢行した2部作として製作、59年に公開された。
 しかし、既に50年代も末を迎えた当時、30年も前の時代遅れのモティーフは観客にも批評家にも受けず、興行的失敗を招いた。(注:ラング自身も、撮影中から作品としての古さを感じていたそうだ)
 トコロが翌年の1960年、ラングは何を思ったのか戦前のドイツ脱出直前の作品である『怪人マブゼ博士』のリメイク版を監督する。
 当然、この作品も批評家から「古臭い」、「時代遅れ」と批判が集中した。
 ……が、観客は喜んでくれた。
 30年前の犯罪映画に観客は熱狂し、映画は大ヒットとなった。
 この大ヒットを見届け、ラングは映画制作が困難なほど視力が低下してきた(注:元々悪く、トレードマークの片眼鏡が手放せなかった左目は、この頃既に失明していた)事もあり、この作品を最後に引退を決意。 40年余りのキャリアに幕を閉じた。
 同年、ラングは連邦政府よりウォーク・オブ・ファーム賞(注:直訳すると、“名声の歩み”。 一種の名誉賞で、ドイツ語では“Wertvoll賞”)を受賞し、引退に花を添えた。
 そして、このラングの引退直後、長い間忘れ去られていた本作の歴史がいよいよ動き出す。
 ラング引退の翌年、1961年に、本作は最初の修復が試みられたのである。


・最初の修復作業(ソ連・チェコ版/1961年)

 本作の初の修復作業を行ったのは、ドイツではなくなんとソ連だった!
 前章で述べた通り、本作の撮影中には、当時『ストライキ』と『戦艦ポチョムキン』をソ連政府の肝いりで大ヒットさせたソ連映画界の名匠、エイゼンシュテインが見学に訪れるほど、ソ連では元々本作に多大な関心が寄せられていた。
 製作中から、ソ連の映画雑誌は事ある毎に本作の特集記事を掲載し、製作状況は本国ドイツよりも詳細に報じられていたほどだった。
 しかし、1927年に本国ドイツで本作のロードショウが始まると、ソ連の映画ファンはソ連でも本作が公開されるかと思っていたが、ソ連政府の映画検閲局はいつまで経ってもソ連国内での公開にゴーサインを出してくれなかった。
 ソ連の映画ファンは待たされに待たされ、本作が日本で公開された1929年になってようやく、公開の兆しが見えた。
 ……が、実現はしなかった。
 ソ連共産党政権の映画検閲局のラスコーリニコフ議長は、最終的に「反体制的な思想が見られる」という理由で検閲不通過の判定書に判を捺す。 本作のソ連国内での上映禁止が決定された。
 時は流れて1945年、第2次大戦末期のベルリンに進攻したソ連軍は、ナチスが戦前、及び戦時中に頻作した大量のプロパガンダ映画を含む多数の映画作品を保存していたフィルム・アーカイヴ、ベルリン帝国映画アーカイヴのフィルム保管庫を発見。 第三帝国崩壊の混乱に乗じ、この倉庫に眠っていた映画フィルムのことごとくを押収し、戦利品としてソ連本国に持ち帰ってしまう。
 これにより、ドイツ国内からは本作のフィルムが完全に失われてしまったワケだが、押収された映画フィルムにとって幸いだったのは、この押収によって世界でも最高レベルの映画フィルム保存技術を導入したゴスフィリモフォンド(ゴスフィルム・アーカイヴ)で大切に保管、保存された事だ。
 現在でも、古くなったフィルムが上映中に炎上する事があるが、当時はフィルムの質も保存技術も未熟で、撮ったばかりのフィルムでさえ、上映中に映写機の強力なライトの熱で燃える事があるほど、保存の難しいシロモノだった。
 しかし、このゴスフィルムによる保存によって、30年以上を経た60年代にあっても、映画は十分鑑賞に耐えられる状態を維持していた。
 これを“発見”したのが、当時ゴスフィルムに務めていたウラジミール・ドミトリエフである。
 ドミトリエフは、当時保管されていたフィルムを分類、整理する仕事に就いていたが、フィルムの保存状態は良かったモノの、扱いは酷かった。 ゴールドバーグ(注:フィルムを入れて保管しておくための丸いブリキ缶の事)のラベルは剥がれ、ラベルがあっても文字は掠れて読めなくなっていた。
 ドミトリエフは、まずはフィルムを一つ一つチェックし、映画のタイトルを特定する作業から始めたと言う。
 その作業の過程で発見されたのが、ベルリンの帝国映画アーカイヴから押収された本作のフィルムだった。
 探してみると、フィルムリールは全部で5巻。 中間字幕が英語だったというので、1927年1月の初公開後に、ポロック版に倣って再編集され、同年8月に公開されたバージョン、あるいはそのコピーだろう。
 しかし、フィルムリールはたった5巻しかなく、合計で2826m(注:fps24で約100分)あったそうだが、映画はシーンが大きく欠落した断片的なモノでしかなかった。
 ところがそんな折、チェコのプラハにあるフィルムアーカイヴに、同じくシーンが大きく欠落した断片的な本作のフィルムが保管されているとの連絡を受けた。
 ドミトリエフはこれを取り寄せ、お互いの欠損部分を繋ぎ合わせるという、本作の史上初の修復作業が試みられた。
 結果的に、欠損部分を補っても完全版には程遠いモノにしかならず、公開もされなかったが、本作の修復が可能である事は証明された結果と言えるのではないだろうか?
 そして、このドミトリエフによる修復と前後して、ドイツでも本作に注目している人物がいた。 それが、映画史家のヴォルフガング・クラウエと、当時映画学校の学生だったエッカルト・ヤーンケである。


・クラウエとヤーンケの功績(東独版/1972年)

 1969年、当時の東ドイツのフィルム・アーカイヴから、クラウエは幸運にも本作のネガ・フィルムを発見する。 ソ連にフィルムが押収された事で、ドイツ国内からは完全に失われたと思われていた本作のフィルムが、偶然出てきたのである。
 これは、1927年のアメリカ公開の際、パラマウントに送られたオリジナルネガからコピーされたポジ・フィルムをポロックが直接編集、改定しネガ・プリントされたモノで、言わばポロック版のオリジナル・ネガであった。
 27年のアメリカ公開後、1930年代に入るとパラマウントは映画の所有権を喪失したため、このネガ・プリントもウーファ社に返却された。 ラングの渡米後、第2次大戦勃発前というタイミングでの返却であった。
 筆者の想像だが、当時ナチス政権はウーファ社を国営化していたが、ドイツ国内で上映されていた本作のフィルムは既に帝国映画アーカイヴに保管されており、その事を知っていたウーファ社も、既にナチスが所有しているモノと同じモノを返却されてもどうしたものか扱いに困り、とりあえず倉庫に放り込んでそのまま忘れられた。 ……のではないかと考えられる。
 いずれにしても、ドイツ国内から失われたと思われていた本作のフィルムが出てきた事で、クラウエは本作の修復を試みる。
 クラウエは、当時学生だった若手作業員のヤーンケと共に、ニューヨーク近代美術館に収蔵されていた2532mのアメリカ用ポロック版(注:1936年と37年にアメリカで再リリースされた最短版の、損傷したフィルムを含む版と思われる)や、ロンドンのナショナル・フィルム・アーカイヴ(注:現ナショナル・フィルム・アンド・テレビジョン・アーカイヴ)に保管されていた2602mのイギリス用ポロック版など、複数のフィルムを入手し、ココから何とかオリジナル完全版に近い版を作れないものかと考えた。
 加えてクラウエは、修復作業のために“ある人物”に助言を求めている。 その“ある人物”とは、当時既に引退し、しかしまだ存命しており静かに余生を送っていた本作を監督した人物、フリッツ・ラング本人である。
 クラウエは、映画の修復作業を始めた旨を手紙にしたため、ラングに助言を求めた。
 手紙を受け取ったラングはすぐに返事を書き、その中で既に監督脚本を紛失している事を断った上で、1927年のアメリカ公開時に出版されたパンフレットのコピーを同封して、修復作業の成功を祈った。
 しかし、修復作業は難航した。
 というのも、取り寄せたフィルムには、別アングルや別テイクが含まれていたからだ。
 前章で述べた通り、本作の撮影ではドイツ国内で初めて使用されたミッチェル・カメラを2台同時に、同じアングルで回しているが、60年代当時には、この事実はあまり知られていなかった。 そのため、クラウエもネガ・フィルムは当然1種類で、海外配給版はネガをコピーしたモノだとばかり思っていた。
 トコロが、取り寄せたアメリカ版やイギリス版には、同じシーンなのにカメラアングルが微妙に違う別アングルや、役者の演技が明らかに異なる別テイクがあるなど、どれが本当の意味での“オリジナル”なのか分からなかったのだ。
 これに気付いたのが、クラウエの助手をしていたヤーンケだった。
 このヤーンケの発見により、本作がネガの量を増やすために特異な方法で撮影されていた事実が明らかになったのである。
 そうした別アングル、別テイクの判別に苦労しながらも、クラウエは実に3年の歳月をかけて一通りの修復作業を終えた。
 結果、2927m、fps24で約105分の東独版が完成した。
 ちなみに、この修復作業と前後して、1971年には日本でドイツ映画の上映会が開催されており、本作も40年以上振りにリバイバル上映されている。
 ただし、上映されたのはポロック版で、小松によると27年8月のドイツ国内の再リリース版からコピーされたプリントが上映されたのだそうだ。


 それはともかく、完成した東独版は1972年にブカレストで開催された映画博物館会議に出品され、世界各国の映画史家を観客に迎えて上映会が行われた。
 クラウエは、これがキッカケになって世界各国のフィルム・アーカイヴに眠っている(であろう)本作のフィルムの発見や、国際的な修復作業につながる事を期待した。
 しかし、一定の賞賛はあったモノの、協力の手が差し伸べられる事はなかった。
 ある程度の関心は寄せられ、また本作の再評価運動のキッカケにはなったモノの、絶大な関心ではなかったのだ。
 クラウエは落胆し、オリジナル完全版の復活への道が閉ざされたと思った。
 トコロがこの直後、クラウエは極めて重大な“発掘”をする。
 本作の修復とは別件で、スウェーデンのストックホルム映画センターを訪ねた時の事、当地の学芸員に様々な映画の記録資料を見せてもらったが、その中に偶然、未整理の映画検閲カードの箱があるのを発見した。
 現在、映画は公開される国毎に映画の内容をチェックし、主に性描写や暴力表現など、倫理上よろしくないシーンのカット、あるいは短縮、もしくは差し替えを指示する映画倫理審査協会、いわゆる“映倫”があり、劇場公開される映画は必ずココで審査を受けなければならない。
 現在は、民間の審査協会がほとんどだが、戦前にこの映倫の役割りを担っていたのは、各国政府の役人であった。
 ドイツでは、映画検閲局という役所があり、映画はココで検閲を受け、これを通過した映画のみが劇場公開を許された。
 件の検閲カードは、この検閲局で審査員が映画を検閲する際に参照するモノで、映画の全ての中間字幕が完全に記されているモノであった。 審査員は、映画を観た上でこのカードをチェックし、倫理上、あるいは当時の社会通念上不道徳なシーンがないか確認するのに用いられるのである。
 クラウエが見つけたのは、そんな検閲カードが未整理のまま無造作に放り込まれた箱だった。
 これに興味を惹かれたクラウエは、検閲カードを一つ一つ丹念に確認した。
 そして、クラウエはついに、“発掘”する。
 ドイツ国内では完全に失われ、どの映画博物館やフィルム・アーカイヴにもなかった、本作の検閲カードをッ!!
 この大発見により、本作の修復作業は新たなステージへと進む。
 そして、その“新たなステージ”の中央に立っていたのが、映画史家のエンノ・パタラスであった。


・パタラスの献身

 当時の西ドイツ領、ミュンヘン映画博物館の館長だった映画史家のパタラスは、しかし当初は本作に対して何の関心もなかったと語る。
 クラウエとヤーンケによる東独版の修復作業と前後して、実はパタラスは独自にゴスフィルムにコンタクトを取っていた。 終戦の混乱に乗じ、ソ連軍が押収してソ連に持ち帰ってしまった戦前のドイツ映画のオリジナルフィルムを“奪還”するのがその目的だった。
 法律的な事を言えば、ゴスフィルムが保管していたドイツ映画のフィルムの所有権は、それらの映画を製作したスタジオにあり、著作権的な面でもまだ公開から半世紀も経っていない作品がほとんどで、パブリックドメイン化(注:後述)していなかったハズなので、ゴスフィルムには返却する義務があったモノと思われる。
 しかし、戦時中から終戦直後の混乱期に、本作の製作スタジオであるウーファ社を始め、ドイツの映画スタジオはその多くが倒産や統廃合によって消滅しており、加えてゴスフィルムは保管していたフィルムのことごとくを独自に“ゴスフィルム所有”にしていたため、権利関係が曖昧になっていた可能性は否定出来ない。
 そのため、パタラスは元々ミュンヘン映画博物館が所有、あるいは寄贈、もしくは独自に蒐集したソ連映画のフィルムの返却を交換条件にして、ゴスフィルムと交渉を行った。
 パタラスの談によると、「メーター毎の交換だった。」という。 カラーフィルム1mに対し、モノクロフィルム3m。 あるいは、製作年の古い作品複数本と、新しい作品1本、といった具合で、パタラスはゴスフィルムとの交渉を粘り強く行った。
 結果的に、ファスビンダーやヘルツォーク、ムルナウといった20年代のドイツ映画黄金時代の作品、12作品を“奪還”する事に成功した。
 この12本の作品の一つに、実は本作も含まれていた。
 ……が、先にも記したようにパタラスは、本作に対しては何の関心もなかった。 せいぜい、「ゴスフィルムが保管していたモノなのだから、他のプリントよりも質が良いだろう。」という程度で、ましてや修復など考えてもいなかった。 パタラスは、あえて本作を選ぶ事で、他の作品の“奪還”がやり易くなるのではないか?と考えたのだとか。
 実際、交渉が成立して手元に届いた本作のフィルムは、それまで観てきたポロック版のコピーよりも遥かに保存状態が良く、さすがゴスフィルム所蔵と言わしめるモノであった。
 そんな折、パタラスの下にある人物から連絡が入った。
 クラウエからの連絡であった。
 クラウエは、偶然から“発掘”した本作の検閲カードが手元にある事を告げ、自らが修復したプリント=東独版と共にパタラスに送ると告げた。
 時ココに至って、パタラスの考えがようやく変わる。
 取り戻した良質のフィルムと、クラウエの検閲カードを使えば、東独版よりもオリジナル完全版に近いバージョンを作る事が出来るのではないか?
 パタラスは、クラウエの申し出を了承し、本作の修復作業に向けたリサーチを開始した。


 パタラスがリサーチを開始した前後の1976年8月、本作を監督したフリッツ・ラングは、複数のTVのドキュメンタリー番組に出演し、本作や当時の事を何度となく語っていたが、この年、アメリカはカリフォルニア州、ロサンゼルスの地で帰らぬ人となった。 85歳だった。
 ドイツとアメリカで合計46本(注:他国語版含む)を監督し、後の映画監督はもちろん、同時代の映画人にも多大な影響を与えたドイツ映画黄金時代の立役者は、長い眠りに就いた。
 なお、監督業引退後の1963年、ラングは長年の功績が評価され、ドイツ・フィルム・アワードで栄誉賞を受賞。 亡くなった1976年には、アメリカのSF映画アカデミー賞で生涯功労賞が送られている。
 ラング亡き後、パタラスが改めてリサーチしてみると、本作の“復元”の可能性が高まる“発見”に相次いで遭遇する事になった。
 例えば、本作の脚本。
 先にも述べたように、監督のラングは本作の撮影に使用した監督脚本を紛失してしまっている事を明言していたが、問題は他の主要スタッフが所持していた脚本である。
 ほとんどのモノは紛失、あるいは破棄されてしまっていたが、唯一つだけ、オリジナルの脚本が残っていた事が判明した。 しかもその脚本は、フォン・ハルボウによる手書きのメモが書き込まれていたモノで、間違いなくオリジナルの脚本であった。(注:ただし、これがフォン・ハルボウ自身の所有物だったかどうかは定かではない)
 さらにパタラスは、プレミア上映の際にフッペルツ自身がタクトを振って演奏された音楽の楽譜、それも、フッペルツ自身が使っていたと思われる指揮者用の総譜を発見する。
 前章で述べた通り、この総譜には音楽と映像を同期させるための指示が多数書き込まれており、修復作業を行う上でのガイドラインとして非常に重要なモノであった。
 もうひとつ、海を隔てた遠きオーストラリアの地で、本作の修復作業において重大な“発見”があった。 ポロック版ではバッサリとカットされ、これをベースにしたソ連・チェコ版や、クラウエが修復した東独版にも含まれていなかった御曹司クラブの競技場のシーンを含むフィルムが見つかったのである!
 さらにもう一つ。 フランスはパリのシネマティークの倉庫から、古いモノクロ写真が見つかった。
 それも、ハンパな数ではなく大量に。
 未整理のまま、無造作にしまい込まれていたその写真の数は、なんと831枚(!)にも及ぶ。
 25年から26年にかけて本作が製作されていた当時、フォン・ハルボウの兄弟のホルストがカメラマンを務めて撮影された、本作のプロダクション・フォトの数々であった。
 33年のドイツ脱出の際、ラングが自宅から持ち出し、フランスで『リリオム』を撮っていた頃に当地のシネマティークに寄贈したモノであった。
 こうした資料、そして素材の度重なる発見により、パタラスは東独版を超えるオリジナル版に近いバージョンに修復出来る事を確信し、いよいよ修復作業を開始する。
 時代は70年代をとうに過ぎ、既に80年代に入っていた。


・意外な伏兵(モロダー版/1984年)

 パタラスの修復作業と前後して、意外なトコロから意外な人物が登場し、本作の修復の歴史に名を連ねる事になった。
 シンセサイザー奏者で音楽プロデューサー、兼コンポーザーのジョルジオ・モロダーである。
 イタリア出身のモロダーは、音楽を学んだ後渡米し、シンセサイザーを使った鮮烈な音作りで瞬く間に注目を集め、ドナ・サマーをプロデュースした事が話題となり、70年代のディスコティック・ムーヴメントを牽引した人物である。
 音楽プロデューサーとして70年代、80年代を通して活躍し、ティナ・ターナー、ドナ・サマー、エルトン・ジョン、ジャネット・ジャクソン、デヴィッド・ボウイ、フレディ・マーキュリー、オリビア・ニュートン=ジョン、チャカ・カーン、ボニー・タイラー、
さらには日本の(当時の)スーパーアイドル、松田聖子の海外デビューもプロデュースしている。(注:ただし、この海外デビューは失敗に終わる)
 後に、日本のYMOや小室哲哉にも影響を与え、同時に映画音楽も手がけており、『ミッドナイト・エクスプレス』(78年)、『スカーフェイス』(83年)、『フラッシュダンス』(83年)、『ネバーエンディング・ストーリー』(84年)、『トップガン』(86年)などのスコアを手がけており、特に『フラッシュダンス』と『トップガン』では、両作品でハリウッドオスカーのオリジナル歌曲賞を受賞しているほどの人物である。
 そんなモロダーは1984年、ドコから手に入れたのか本作のイギリス配給用のポロック版(注:ニューヨーク近代美術館に寄贈された版のコピーらしい)を入手し、これをオリジナル版に相当するように編集し直した。 そしてさらに、これまたドコから手に入れたのかポロック版では失われたシーンとなっていた影なき男の登場シーン(注:影なき男が労働者11811号を監視しているシーン)のスティルを手に入れ、失われたシーンの再現を試みている。
 ココまでなら、筆者も不当に評価の低かった本作の再評価を促す意味でも、モロダーのこの“参戦”は評価されて然るべきだと思う。
 が、モロダーはサイレント映画の事を何も分かってはいなかった。
 モロダーは、コトもあろうにモノクロだった本作のフィルムを独自に着色(!)し、サイレント映画である本作には本来は存在しない効果音をいくつか追加。 そして、中間字幕を全てカットして、字幕スーパーにしたのである!
 この結果、元々短縮されていたポロック版はさらに短縮され、2445m、fps24で83分という、失われたシーンを再現しているのにソ連・チェコ版や東独版よりも短い版にされてしまう。
 しかも、モロダーはこの頃既に発見されていたフッペルツのスコアを一切使用せず、なんと自身が作曲、あるいはプロデュースした80年代当時のポップスアーティストの楽曲を音楽として使用したのである!
 フレディ・マーキュリー、ボニー・タイラー、アダム・アント、ジョン・アンダーソン等々、いずれ劣らぬ80年代のアメリカン・ポップスシーンを代表する名だたるアーティストばかりで、確かに80年代のハリウッド映画はオーケストラよりもポップスやロックを使う事が多かった(注:タイアップ曲になれば、レコードが売れるから)が、いくらなんでも本作にも同じ手が通用すると誰が考えるだろうか?
 ラングの演出が効いた力強い重厚な映像に全くそぐわない、軽くてチャラチャラした耳障りなこの“騒音”は、本作を完璧に破壊した。
 こんなモノでは、亡くなったラングも浮かばれない。 きっと、草葉の陰で泣いていた事だろう。
 それを証明するかのように、このモロダー版の音楽はラジー賞(注:正式名称は“ゴールデン・ラズベリー賞”。 ブーイングが合言葉の“最低の映画”に与えられる賞。 元々は、アカデミー賞のボイコットを目的としてオスカー授賞式と同じ日に授賞式を行っていたが、ジョークとして受け取られるようになり、今年2012年からはこれを強調するかのようにオスカー授賞式後の4月1日、エイプリル・フールに授賞式が行われるようになった。 そのため、授賞式に参加する映画関係者も増えたとか)の最低作曲賞と最低歌曲賞にノミネートされている。
 そんな“改悪版”でしかなかったモロダー版ではあったが、84年に公開されるや否や、瞬く間に話題になり、当時の若者文化に熱狂的に受け入れられた。
 時折りしも、あの『ブレードランナー』(82年)が公開された直後の事。 本作が提示した未来世界が、サイバーパンク・ムーヴメントとある種の必然を以ってクロスオーバーし、本作を一気に再評価させたのである。
 これを裏付けるかのように、1989年にリリースされたマドンナのシングル、『エクスプレス・ユアセルフ』のプロモーション・ビデオクリップでは、本作に登場するM機械を再現したセットを組み、機械的な動きで機械を操作する(ような動きをする)ダンサーが配置され、マドンナが歌って踊るという、まんま本作をパ○ったPVが製作されている。
 しかも、このPVの最後には、本作で提示された格言を文字ったメッセージ(注:“ハートがなければ手と心(精神)は分かり合えない”)が添えられている。
 本作のテーマや解釈については、次章にて詳述するのでココでの解説は割愛させて頂くが、80年代のアメリカン・ポップスとの融合が(皮肉にも)本作の再評価に拍車をかけたのは明白で、観客が本作の持っていた先見性を改めて確認させられたのは確かだ。
 モロダー版は、後にビデオソフト化されて好調なセールスを記録する事になった。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


味方が敵?


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 このMODでは、オリジナルのクリーチャーも多数追加され、PCの行く手を阻むが、まずは人間系の敵から紹介していこう。 このバトル・ダンサーは、神殿にいた巫女さんたちと同じ格好をしているが、ナゼか敵でもある。 各ダンジョンに相当な数がエントリーしている。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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213.『メトロポリス』伝説:第5章②

2012年09月16日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #14-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 連日熱戦に沸いたロンドンオリンピック、既にパラリンピックも終了しましたが、asayanは今さらながらネットで観戦中です。
 NHKのTV‐OAを録画したのは全部観たんですが、いかんせん民放でOAされてる競技やマイナーな競技がOAされなかったので、ネット動画を全部観よう! ……と思ってNHKのロンドンオリンピック特設サイトで観始めたのですが、6割ぐらい観たトコロでサイトが公開終了してしまった。つД`)゜。
 うぅ……。 陸上まだ観てないのに……。
 でもまあ、ボートや自転車競技なんかは結構観れた(注:BMXが熱かったッ!)ので良しとするか~。 ……と、思っていた矢先、ふと思い立ってあるサイトにアクセスしてみたら、……あった! 動画ごっさアップされてた!
 それがこのサイト。(↓)

Olympic.org:LONDON2012

 そう、IOC=国際オリンピック委員会の公式サイトです。
 このサイトの“Videos”のタブから、ロンドンオリンピックはもちろん、北京2008やアテネ2004の動画も観れます。
 ただし、海外サイトなので表記は全て英語(注:もしくはフランス語)。
 画質はまあまあですが、動画によっては激しく音ズレしているモノも。(注:僕が確認した中では、最大6秒の遅延があった)
 また、サバが遠い(注:確か、IOCの本部はフランスにあったと思う)ので、動画が上手く再生されない事もしばしば。
 ……まあ、僕のPC環境のせいというハナシもありそうだが……。
 いずれにしても、決勝戦はほぼ全てがフルサイズ(注:ハイライトやダイジェストではない)で観れるのでオススメです。
 既に朝晩の涼しさに秋の気配を感じる今日この頃ですが、あの夏はまだまだ終わらんよーッ!?
 ……ってゆーか昨日、ウチの庭でツクツクホーシが鳴き始めた。Σ(゜Д゜;)



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは、映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第13回です。
 最後までお楽しみ頂けたら幸いです。


2.再編集

 何度も記した通り、本作はウーファ社とハリウッドのメジャースタジオ、パラマウントとMGMの間で締結された相互協定、パルファメット協定による1700万マルクもの資金援助によって製作された映画であり、制作中からアメリカを始めとした複数の海外配給が前提の映画であった。
 しかし、ドイツ国内配給の散々な結果に、海外配給を請け負う事になっていたパラマウント社が激怒。 映画を公開する代わりに、上映時間の短縮を始めとした映画の再編集を要求した。
 ……というのが、本作のオリジナル完全版が封印され、大幅に短縮された異版ばかりが大量に現存する事になった原因と、これまでの長い間考えられていた。
 が、しかし実際の記録を丹念に調べてみると、実はそうではなかった事が明らかになった。
 実際にはなんと、本作の海外配給ではパラマウントによる再編集が“最初から”前提条件だったのである!
 事の起こりは1926年12月。 既に映画は検閲を通過し、後は年明け早々のプレミア上映と一般公開を待つばかりとなったこの頃、本作の海外配給を手がけるパラマウントの重役向けに試写会を行うため、ウーファのニューヨーク支社にオリジナル完全版の上映用ポジ・フィルムが送られた。 そして、現地にパラマウントの重役陣を招いて試写会が行われた。
 当然、ウーファはパラマウントの重役陣がこの映画を絶賛し、海外配給に意欲を見せてくれるものだと信じていた。
 が、その確信は脆くも礫壊する。
 パラマウントの重役陣は、この壮大な芸術映画を理解出来ず、有名スター俳優不在のキャスティングや4時間近くもある上映時間が長過ぎると批判。 海外配給にも難色を示した。
 当然といえば当然の結果である。 当時のハリウッドは、チャップリンに代表される底抜けに明るい娯楽映画全盛の時代で、崇高な芸術映画はあまり人気がなく、加えて上映時間が4時間近くもあるような超大作系映画は、『イントレランス』や『グリード』を再び例に挙げずとも、失敗する可能性が高いハイリスクな映画だったからだ。
 そのため、パラマウントの重役陣は、本作の海外配給を請け負うためにウーファ社に対して条件を提示した。
 それが、映画の再編集である。
 長過ぎる上映時間を短縮するために助長なシーンをカット、あるいは短縮し、ストーリーを娯楽映画に慣れたアメリカの観客にも解り易いように簡略化するため、中間字幕の差し替えを含めた脚本の改定を提案したのである。
 当然、出資してもらった助成金の一部を本作の製作や銀行からの融資の返済に使ってしまって返却出来ない状態だったウーファ社は、この提案に従うしかなかった。
 こうして、本作の再編集は1926年12月の時点で決定事項になり、海外配給ではこれが前提条件になっていたのである。


 ココで、本作がたどったその後の数奇な運命を左右する事になった重要な人物を紹介しなくてはならない。
 劇作家のチャニング・ポロックである。
 1880年、ワシントンDCに生まれたポロックは、1904年にフランク・ノリスとダグラス・フェアバンクスの原作小説を舞台化した『The Pit』というミュージカルの脚本を手がけたのを皮切りに、1931年までに多数の舞台演劇やミュージカルの脚本や作詞を手がけ、1914年からは映画の脚本も手がけるようになり、1920年代にはアメリカ演劇界を代表する劇作家になっていた人物である。
 しかし、パラマウントから本作の再編集の仕事を依頼された時、ポロックは本作に興味を抱いてはいなかった。 アメリカ公開時のパラマウントが発行した1927年3月7日付の公式プレスリリース(注:マスコミ向けの“お報せ”の事)によると、ポロックは本作のストーリー展開を「論理的ではないと感じた。」と語っている。
 また、晩年の1943年に出版したポロック自身の自伝では、本作の事をあざ笑うかのように、「愛する人を失った発明家は、鋼鉄製の妻を作る。 冬の晩にベッドを共にするのはゴメンだ。」と記している。
 ポロックは、本作を最初から“駄作”扱いしていたのだ。
 そんな人物が、本作の海外配給の前提条件である再編集を手がける事になった。
 ポロックは、映画全体に渡って助長なシーンを細かく短縮し、不要なシーンを大幅にカットした。 特に、影なき男の登場シーンはことごとくカットされ、影なき男と同じくフリッツ・ラスプが演じた大聖堂の神父が登場するシーンもバッサリとカット。 結果、本作におけるラスプの出演シーンは、そのほとんどが失われた。
 加えて、物語りを解り易く簡略化するために、ロートヴァングとフレーダーセンの関係を示す重要な存在であるフレーダーの母、ヘルの存在を完全に消し去り、ロートヴァングは一人の女性を共に愛したフレーダーセンのかつてのライバルではなく、大企業の社長に従う従者的な存在にされ、ロートヴァングは背景には何も無い、ただのマッド・サイエンティストにされてしまう。(注:ただし、この変更はポロックによるモノであるのは確かだが、“ヘル”という名前が英語の“hell”、すなわち“地獄”を連想させるという理由で削除された、という説もある。 本来、フォン・ハルボウが意図したのは北欧神話に登場する使者の国、ヘルハイムを支配する女神ヘルの意だった)
 加えて、これらの変更のために合わなくなったつじつまを合わせるために中間字幕もほぼ全面改訂され、フレーダーセンの名前まで、英語名に近い“ジョン・マスターマン”という名前に変更されてしまう。
 176枚の中間字幕は、36枚もカットされ、45枚も改訂されてしまう。
 また、一部のシーンでは場面転換に本来はないフェードアウトを入れたりするなどして、映画はメアリー・シェリーの不朽の名作、『フランケンシュタインの怪物』を連想させるようなシンプルなストーリーに改訂された。 当然、本作の最重要テーマである“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”の格言も、容赦なくカットされた。
 その結果、本作は海外配給用の英語字幕版として、3170m(注:fps16で約2時間40分)と3050m(注:fps16で約2時間30分)の二つの版に再編集された。
 この再編集版は、3050mの版がイギリス配給用として。 3170mの版がアメリカ配給用として、それぞれ1927年3月に一般公開された。
 パラマウントは、カットした約4分の1のフィルムをアッサリと破棄した。
 本作に訪れた受難の日々は、この時から始まったのである。


3.喪失

 このように、本作の海外配給版はポロックによって無残にも切り刻まれ、映画本来のテーマを喪失した短縮版になった。 そして、ドイツとオーストリア以外の国では、本作のオリジナル完全版を観る事は出来なくなった。
 では、少なくとも1927年1月からの一般公開において、オリジナル完全版がリリースされた本国ドイツでは、どうだったのだろうか?
 ドイツでは、大失敗に終わった最初の一般公開後、27年8月に本作の再リリースが行われている。 もちろん、最初の一般公開の大失敗による赤字を少しでも回収する目的で行われた再リリースである。
 が、この再リリースで上映されたのは、オリジナル完全版ではなかった。
 ポロック版(注:アメリカ、及びイギリスで上映された短縮版の通称)に倣い、この再リリースでは3241m(注:fps16で2時間53分)に短縮されたバージョンのみが上映された。
 しかも、この短縮版は撮影に使用されたオリジナルのネガ・フィルムを直接編集したモノで、カットされたシーンは容赦なく破棄された。
 これ以降も、ヨーロッパやオーストラリア、日本などの各国で本作が公開されているが、その全てがポロック版からコピーされたプリントを使用しており、カットされたフィルムはことごとく破棄されてしまう。
 もちろん、ラングやフォン・ハルボウ、ポマーといった主要スタッフは、最初の一般公開の責任を取らされる形でウーファ社を追い出され、仕方なくインディペンデント・プロダクションを設立する事になったため、これらの映画の短縮には一切反対出来なかった。 もしくは、反対しても無視された。
 こうして、4189mの本作のオリジナル完全版はこの地球上から永久に失われてしまったのである。(注:後述の解説と矛盾するが、ココではとりあえずこう記しておく)
 また、これと前後してドイツという国に訪れた“変革”もまた、この状況に拍車をかけた。
 その主役の名は、アドルフ・ヒトラー!


・ナチスの台頭

 1889年、オーストリア―。
 ドイツとの国境にあるブラウナウという小さな街で、ヒトラーは生を受けた。
 父アロイスは、税関官吏。 母クララは、3番目の妻だった。(注:そのため、ヒトラーには異母兄弟が多くいた。 また、ヒトラーの生家は現在も当時のまま保存されており、ブラウナウの観光地になっている)
 学生時代、反抗的でワガママな性格だったヒトラーは、学業に励むこともなく、それどころか問題行動を起こしては教師らに大目玉を喰らう事を繰り返し、ついには学校を退学させられてしまう。(注:それも2度も!)
 しかしヒトラーは、この頃から芸術に興味があり、ウィーンの芸術アカデミーを受験している。 が、結果は不合格だった。(注:やはり2度も!) また、芸術家を諦めて建築家を目指したこともあったが、これまたすぐに挫折する。 1908年を迎えた頃には、ヒトラーは行き場もなく、転居を繰り返し、独学で描いた絵葉書を売るなどして細々とした生活を送っていた。
 そんな時に起こったのが、第1次世界大戦である。
 ヒトラーはオーストリア出身だったが、親ドイツ派でドイツ帝国の兵士として戦う事を希望した。 自身がドイツ系民族だった事も理由だろうが、しかし飽くまでもオーストリア国籍だったヒトラー(注:ドイツ国籍を取得したのは、実は政権獲得直前だった)はドイツ帝国軍への入隊が許されず、当時ドイツ帝国の属州であったバイエルン王国軍に懇願し、同軍の第16予備歩兵連隊への入隊を許された。
 第1次大戦中、ヒトラーは伝令兵として活躍し、2度も受勲されている。(注:ただし、昇進は遅く伍長止まりだった。 そのため、この受勲は高級将校の覚えが良かったためだとする説もある。 かつての挫折が、ヒトラーに世渡りを覚えさせたのかもしれない)
 しかし、大戦末期の1918年、ヒトラーは毒ガス攻撃に巻き込まれて負傷。 一時的に視力を失うほどの重症だったため、戦線を離れる事になった。
 そして、病院のベッドでの治療中、第1次大戦は終戦を迎えた。
 崩壊するドイツ帝国を目の前にして、ヒトラーは深い憤りを覚え、政治家になる事を決意する。
 1919年、ヒトラーはドイツ労働者党に入党し政治家としての活動を開始する。 ココで頭角を現したヒトラーは、僅か2年後の1921年に新党首に指名され、党名を国家社会主義ドイツ労働者党に変名。 略称NSDAP、通称、“ナチス”である。(注:本来、“ナチス”は蔑称として用いられていた呼称である。 しかし、現在は敬意を示す意味はないので正式名称的な扱いで“ナチス”と呼称されている)
 しかし、これと前後して成立したベルサイユ条約による巨額の賠償金により、ドイツ経済は瞬く間に悪化。 臨時発足したワイマール政権の失策もあり、ドイツの国内情勢は悪化の一途をたどった。
 これに業を煮やしたヒトラーは1923年、ミュンヘンでクーデターを画策する。
 ……が、クーデターは見事に大失敗。 ヒトラーは逮捕、起訴され、禁固5年の実刑判決を受けランツベルク要塞刑務所に投獄される。
 しかし、ヒトラーにとってはこれが大きな転機となった。
 武力によるクーデターに意味がない事を悟ったヒトラーは、選挙によって合法的に政権を獲得する事を決意し、そのための壮大な計画を構想し、これを獄中で口述筆記した1冊の本にまとめた。
 世紀の悪書、『我が闘争』である。
 本作が制作中だった1926年、恩赦が認められ出所したヒトラーは、この『我が闘争』に基づいて早速行動を開始した。
 しかし、党の支持率は低迷した。
 インフレが収まり、為替相場も安定した当時のドイツは、映画産業の活性化を始めとした好景気に恵まれ、ヒトラーが語る帝国主義に、ドイツ国民が耳を傾ける事はなかった。
 1928年、本作の興行的大失敗を理由にウーファ社を追われたラングが仕方なく独立し、インディペンデント・プロダクションのフリッツ・ラング・フィルムを設立。 そして、その第1回制作作品としてかつての『ドクトル・マブゼ』を髣髴とさせる犯罪スリラー、『スピオーネ』を大ヒットさせていたこの年、ヒトラーは選挙に出馬している。
 が、票は集まらず惨敗。 ヒトラーが『我が闘争』に記した政権獲得計画は、遅々として進まなかった。
 しかし翌年、この状況が文字通り“一変”する世界を巻き込んだ大事件が勃発した。
 世に言う“ブラックサーズデー”、“世界恐慌”の始まりである。


・世界恐慌

 1929年10月24日、木曜日。
 世界経済の中心地であったニューヨーク、ウォール街の証券取引所に集まっていた群集は、我が目を疑った。 株価を表示していた掲示板の数字が、一斉に下落を始めたのである。
 この1ヵ月半ほど前の9月3日には、平均株価が史上最高値を記録しており、アメリカは空前のバブル景気に沸いていた。 誰もが、この好景気が終わる事なく続くモノだと信じていた。
 しかし、その実態は実は、“信用貸し”であった。
 好景気に沸いていた当時、庶民でさえも株式に投資する“株ブーム”が起こっていた。 そして、実際に儲けている人が多かった。
 そのため、銀行も「株に投資する」と言えば、担保がなくともカンタンに必要な資金を融資した。
 が、この“信用貸し”が、この暴落によって破綻する。
 翌10月25日、株価は一時的に買いが先行して持ち直すも、週明けの月曜日には、木曜日の暴落を上回る史上最大の下落幅(注:-12.82%)の大暴落を記録。 翌日火曜日には、それに匹敵する下落幅(注:-11.73%)を記録する大暴落となり、信用貸しした融資は返済がないまま焦げ付き、銀行の連鎖倒産が相次いだ。
 これに伴い、融資を受けられなくなった企業も倒産が相次ぎ、街は職を失った失業者で溢れ返った。
 第1次大戦の戦勝国として、世界に冠たる超大国に急成長していたアメリカを襲ったこのバブル経済の崩壊は、瞬く間に世界に飛び火した。
 アメリカ経済の崩壊は、世界を大不況の嵐に巻き込んでいったのである。
 こうして、狂乱の1920年代は世界恐慌の始まりと共に終わりを告げ、世界は暗黒の1930年代へと進んでいくが、ドイツではこれがキッカケとなり躍進したのが、ヒトラー率いるナチス党であった。
 この頃ドイツでは、世界恐慌の影響が特に深刻で、企業や銀行の連鎖倒産が相次ぎ、失業者はあっという間に600万人を超え(!)、国内情勢は再び第1次大戦直後の暗黒時代に戻ってしまう。
 しかし、ヒトラー率いるナチス党は、この社会不安を背景に躍進し始めた。
 ヒトラーは、指導者が全責任を負う“独裁”にこだわり、他の政党の解体を主張。 ドイツ民族復興をスローガンに掲げて、精力的に活動した。 そして、党員には規律ある行動を強いた。 これによって生まれたのが、「ハイル・ヒトラー!」で有名なあの右手を挙げるスタイルの敬礼(注:これは、イタリアの独裁者、ムッソリーニの短剣を掲げる敬礼スタイルを真似たモノだった)を取り入れ、ドイツ民族の優越性を誇示するために、反ユダヤ主義を表すハーケンクロイツ=カギ十字を党のエンブレムに採用した。
 さらにヒトラーは、膨大な量のビラまきや、数百万枚に上るポスター、さらに、飛行機を駆使したかつてない規模の精力的な遊説でドイツ全国を回り、この遊説の模様を当時まだ新しいメディアであったラジオを使って家庭にまで流し、国民一人ひとりに訴えかけるような選挙戦術を展開した。
 同時に、ヒトラーは“突撃隊”と呼ばれる私的な軍隊を組織した。 その一糸乱れぬ行進は、当時の若者たちには一際魅力的に見えたという。
 こうしてヒトラーは、世界恐慌という社会不安を背景に、ドイツ国民の支持を集めていったのである。


・吹き荒れる社会不安

 これと時を同じくして、世界各国でも社会不安を背景に強力な指導者たちが台頭を始めていた。
 その先駆けとなったのは、ヒトラーも手本にしたイタリアの独裁者、ムッソリーニであった。
 1929年、ラングがフリッツ・ラング・フィルム第2回製作作品として『月世界の女』を公開、ヒットさせたこの年、イタリアでファシスト党を率いていたベニト・ムッソリーニが首相に就任し、一党独裁政権を樹立する。
 イタリア国民は、第1次大戦の戦勝国でありながら大した領土を得られなかった不満から、ムッソリーニが掲げた“古代ローマ帝国復活”という途方もない(そして極めて無謀な)夢に賛同した。
 同じ頃、ソ連ではロシア革命の指導者であったレーニンが、53歳の若さで死去。 これにより、レーニンの片腕であったヨシフ・スターリンがソ連共産党第1書記の地位に就き、共産主義国家を率いる事になった。
 ソ連では、共産党による計画経済政策が成功し、世界恐慌の影響もなく目覚しい経済発展を遂げていた。
 特に、34年の革命記念日に間に合わせようと急ピッチで建設されたモスクワの地下鉄は、その過酷なノルマをモノともせずに完成し、世界一長いエスカレーターを有する駅は、宮殿に喩えられたほどの豪華なモノであった。
 この地下鉄建設を指揮したのが、ニキタ・フルシチョフ。 後に、スターリンの後を継いでソ連共産党第1書記に就任し、首相をも兼ねてアメリカとの冷戦を戦う事になる男である。
 ただし、この目覚しい経済発展のウラには、自由主義者や無政府主義者、反体制の人々が、大量に投獄され強制労働に従事させられたり、時には“粛清”された事実があったが、もちろん当時はひた隠しにされ、外国はもちろん、ソ連国民さえも知らなかった。
 1931年、既に本作の公開と前後して1927年にアメリカで公開された映画、『ジャズ・シンガー』によって始まっていたトーキー時代にありながら、しかしトーキーを嫌っていたラングもココに来て世界的な流れに逆らう事が出来なくなり、自身初のトーキー映画、『M』を監督したこの年、イギリスでは当時政権を握っていた労働党所属のオズワルド・モーズリーが突如離党。 なんと、“イギリス・ファシスト連盟”という独裁主義政党を結成する。
 これと時を同じくして、フランスでは“火の十字団”と呼ばれる反共団体が勢力を拡大し始めていた。
 1927年に結成されたこの団体は、しかし31年にフランソワ・ド・ラロックが主導権を握ると同時に武闘派右翼団体に変貌。 市街地ではデモの傍ら、度々騒動を起こしては警察や軍が出動する事態を引き起こした。
 これと時を同じくして、地球の裏側のアジアでも、大きな動きが始まった。
 満州事変である。
 1931年9月、中国の満州において、日本が利権を持っていた南満州鉄道が爆破されるという事件が起きた。 これをキッカケに、日本は満州に軍を送り、武力衝突を伴う満州事変へと発展した。
 これに端を発し、約1年後の翌32年7月には、辛亥革命によって崩壊して間もない中国清王朝最後の皇帝、ラストエンペラー溥儀を執政(注:ただし、実際には日本軍の傀儡でしかなかった)に迎えた満州国建国を宣言する。
 しかし、国際連盟はこれに待ったをかけ、調査団を派遣。 最終的に、日本の行動を「自営権に基づくモノではない」と結論付けた。
 日本はこれに反論し、1933年3月に国際連盟を脱退。 国際的孤立化の道を進み始める。
 ただし、そのキッカケとなった31年の南満州鉄道爆破事件は、後に日本軍の自作自演であった事が発覚し、厳しい国際非難を浴びる事になった。
 こうした世界各国の動きの中、超大国アメリカでは1932年、ワシントンDCに第1次大戦を戦った退役軍人たちが全国から集結。 最終的に、実に200万人にもなったこの退役軍人の集団は、1945年に支払われる事になっていた恩給の先払いを求めてDCの中心部に居座り、バラックまで建てて共同生活を始めた。
 彼らは職もなく、家さえも差し押さえられ、行くアテすらなかったのだ。
 これに対し、政府はなんと軍を動員。 戦車まで投入して、このデモ隊を鎮圧した。
 ちなみに、この鎮圧部隊を指揮したのが、当時陸軍参謀総長だったダグラス・マッカーサーであった。 マッカーサーは、後に「共産主義者に先導された革命集団と判断した。」と語っている。
 それもそのハズで、この頃のアメリカでは失業者の数が実に1000万人(!?)を超えており、革命の危機さえ公然と語られていたのだ。
 この翌年、ラングがドイツでの第2次大戦前最後の監督作品となった『怪人マブゼ博士』を撮っていた1933年には、この状況の打開を期待されてフランクリン・ルーズベルトが第32代アメリカ大統領に就任する。 ルーズベルトは、就任演説で「恐れなければならないのは恐れそのモノ。」と語った。
 ルーズベルトが実践したのは、いわゆる“ニューディール政策”であった。 中央政府の強力な権限によって公共事業を進め、失業者の救済を図るのがその狙いだった。 これは、ソ連の計画経済のシステムを真似たモノでもあった。
 しかし、このニューディール政策は失策に終わる。
 一向に効果は上がらず、労働条件の改善を求めてストライキが頻発。 時には警察の鎮圧部隊が出動するほどの事態に発展した。
 特に、34年にサンフランシスコで起こったゼネストでは、数千人の軍隊が戦車まで投入してデモ隊の鎮圧を行った。
 この模様を伝えた当時のニュース映画は、「最早これは“暴動”だ。」と報じた。
 このように、ドイツだけでなく、世界中で社会不安を背景にした独裁勢力の台頭や国際的孤立化が進み、世界は暗黒の時代を迎えていく事になった。
 そしてヒトラーは、世界が孤立化への道を歩み始めて間もない1933年1月30日についに、選挙によって合法的にナチス党の一党独裁政権を樹立。 首相の地位を手に入れたのである。


・ヒトラーとラング

 さて、そんなこんなで政権の座に就き、全ての権力を一手に牛耳る独裁者となったヒトラー。 では、独裁者ヒトラーは本作を、そして監督のラングをどのように見ていたのだろうか?
 結論から言えば、“気に入っていた”というのが大方の見方である。
 対外的な問題から、独裁政権打倒のメタファーとも受け取れる『ドクトル・マブゼ』や本作、そして『M』は、ナチス政権によってドイツ国内での上映が禁止になり、33年に公開予定だった『怪人マブゼ博士』もまた、上映禁止になっている。
 さらに言うなら、本作の興行的失敗を招いた原因になった当時のドイツ芸術の最新の流行であった新即物主義も、“退廃的芸術”と見なされて弾圧される事になった。(注:結果、新即物主義はあっという間に衰退した。 が、第2次大戦終結に伴い再評価され、60年代以降のモダニズム文化へと進化する事になる)
 しかしヒトラーは、政権獲得直後に開催した記念式典において、式典の最後を得意の長演説で締めくくっているが、ヒトラーは選挙時に“主導者が全責任を負う独裁政権”に固執していながら、しかし実に2時間を超えるこの演説の最後で、「ドイツの復興が自然に出来るとは約束しない。」と、おかしな事を言い出す。
 が、それも束の間、ヒトラーは次のように述べた。

「幸せは、ある日突然空から降ってこない。 国民一人ひとりが力を合わせ、努力すべきだ。」

 ヒトラーは、ドイツ国民の愛国心に訴えたのである。
 そう、本作が掲げた格言、“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”の“こころ”を、“愛国心”と言い換えて国民に訴えのである。(注:頭脳=ヒトラー。 手=ドイツ国民)
 ヒトラーは、本作に決して少なくない影響を受けていたのは間違いないと、筆者は考える。
 そしてヒトラーは、政権獲得直後の内閣に新たに“宣伝省”を設け、旧ドイツ労働者党時代からの旧友で、“ヒトラーの片腕”とまで呼ばれた“プロパガンダの天才”、ヨーゼフ・ゲッベルスを宣伝省相に据え、ゲッベルスに指示して省内に“映画部”という部署を設立。
 さらに、当時まだ民営化して10年ほどしか経っていなかったウーファ社を再び国有化(注:経営危機に立たされていたウーファ社にとっては、ある意味“渡りに船”だったのかもしれない)し、ウーファ社に所属する俳優や監督を使って、ナチスのプロパガンダ映画を作るように命令した。
 当時、既に大衆娯楽として人気の高かった映画を宣伝に利用し、政権運営をやり易くするための内閣支持率維持が目的だった。
 そしてこれには、ラングやポマー、フォン・ハルボウといった本作の主要スタッフも含まれていた。
 実際、ラングは1933年にゲッベルスに召喚され、プロパガンダ映画の監督になるよう要求されたという。
 対外的な理由から、その監督作品の多くがナチス政権によって上映禁止にされたラングだったが、ヒトラー自身はラング作品を気に入っており、その映画監督としての手腕を買っていたのだ。
 しかし、ナチス政権に反感を持っていたラングは、その場で即答する事なく曖昧な返事でごまかし、フンテ、リッタウ、フォルブレヒト、ケッテルフント、ミッテンドルフ、フッペルツらがドイツ残留を決めたのに対し、ポマーやシュフタンらと共に間もなくドイツを脱出。 フォン・ハルボウもドイツに止まる事を望んだため、ラングは離婚を決意。 10年以上の長きに渡るラングとフォン・ハルボウのコンビは、ココで終焉を迎えた。
 ラングに逃げられて、ヒトラーはさぞや残念な想いだった事だろう。(注:ただし、最近の研究ではこれに反論する説も出ている。 ラングはユダヤ系だったため、ナチスの台頭によって映画監督の職を失う事を恐れ、自分からナチスに取り入ったが、ゲッベルスに拒絶されて仕方なくドイツを脱出した、という説である。 ……が、筆者はこの説を全く信用していない。 何故なら、反ユダヤ主義を政策としながらも、ナチスは優秀な科学者を中心に多数のユダヤ人を重用しており、優秀な人物であれば比較的柔軟に対応していたからだ。 また、ユダヤ系という理由でラングを拒絶したのであれば、ヒトラーが本作を“気に入っていた”などという説が出てくるのは論理的におかしい)
 代わりに、リッタウを始めとした多くのカメラマンや映画監督がプロパガンダ映画を手がける事になるが、ラングはフランスに渡ってポマーと共に『リリオム』(34年)を製作。 その後、既にドイツを離れていたフロイントを追いかける形でアメリカに渡り、ハリウッドで『激怒』(36年)を皮切りに、『暗黒街の弾痕』(37年)、『マンハント』(41年)、『死刑執行人もまた死す』(43年)、『恐怖省』(44年)、『外套と短剣』(46年)、『ビッグヒート/復讐は俺に任せろ』(53年)など、全部で21作を監督し、その陰影を強調した映像スタイルが同時代の映画監督にも大きな影響を与え、特に犯罪映画におけるフィルムノワール・ムーヴメントの基礎を築いたとまで言われるほどの高い評価を得るまでになる。
 ラングがドイツに帰国するのは、50年代も後半に入った1956年になってからの事であった。
 この間、ドイツはヒトラーとナチス政権によって大改革が行われ、ヒトラーの発案で高速道路アウトバーンの建設と、フェルディナント・ポルシェが設計した格安の国民車、フォルックス・ワーゲンを量産する。(注:後にポルシェは、ヒトラー政権下で戦車の開発にも携わる事になったが、終戦後にフォルックス・ワーゲン社から独立してドイツを代表するスーパースポーツカーメーカー、ポルシェ社を設立する)
 中央政府の強力な権限によって大規模な公共事業を進める事で失業者の救済を図り、それまで庶民には手の届かなかった“マイカー”の夢を国民に与え、国民に“愛国心”を示す機会を与えるのが目的だった。
 この大改革により、世界恐慌によってドイツ国内に溢れていた600万人を超える失業者は、なんと50万人以下にまで激減! 最大の難問だった失業者問題を解決した“ヒトラーの奇跡”に、ドイツ国民は改めてこの指導者の凄さを見せ付けられた気がした事だろう。
 実際、この大改革はまさに“奇跡”と呼ぶにふさわしく、ドイツは嵐のように吹き荒れた世界恐慌から脱出出来た。
 ……が、ココまでで止めておくべきだった。
 ココまでで止めておけば、ヒトラーは現在において、ドイツを救った“英雄”として世界中から讃えられていた事だろう。
 しかしヒトラーにとっては、この程度の事はほんの序の口、朝メシ前に過ぎなかった。
 政権獲得直後から、ヒトラーは親衛隊に命令してユダヤ人への迫害を開始。 さらに、フランスやチェコのドイツ系民族が迫害されているという理由でその領土の一部を割譲するように要求。 この恫喝は、イギリスが仲裁する形で、しかしヒトラーの要求を丸呑みにして要求に応じてしまう。(注:ミュンヘン会談/1938年)
 これにより、ヒトラーが自信を深めたのは間違いない。
 ヒトラーは、ドイツ第三帝国がヨーロッパを支配出来るだけの力を持っていると、確信したに違いない。 そして資本主義陣営は、世界恐慌の痛手から未だに立ち直れない、腰抜けの集まりだと思ったに違いない。
 ミュンヘン会談は、間違いなく失敗だった。
 それを裏付けるかのように、隣国オーストリアを無血併合した直後の1939年、ドイツ軍はポーランドに侵攻。 恫喝ではなく、直接武力での領土拡大を開始した。
 これにより、ミュンヘン会談の約束が破られた事をようやく悟ったイギリスは、ドイツに対して宣戦布告。
 ココに、20世紀最大の悲劇、第2次世界大戦の火蓋が切って落とされた。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


神殿にチャイナ。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 神殿には、マスター以外にも名前付きNPCが多数いる。 この方は武器庫にいるイズナさん。 話しかけると一応セリフがあるが、英語なのでナニ言ってるのか分かりません。 それよりもナゼにチャイナなのか? その理由を心行くまで伺いたい!



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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