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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

145.異説『ブレードランナー』論:2.構造②

2011年05月29日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #06-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 去る5月25日、お約束通り、MFD‐WEBにてasami hiroaki最新作のウェブ連載開始告知をUPさせて頂きました!
 新作小説のタイトルは『Beyond‐When They Cry Again...』! もちろん、『ひぐらしのなく頃に』の二次創作です。
 今回は、前作の『Refrain』とは微妙に異なる短編集(注:個人的には群像劇をイメージしている)となっており、しかもシリーズ全7回(!)という超長編です。
 どれぐらい長いかと言うと、1作目の『with you...』の1.5倍~2倍(!?)ぐらいになる予定。
 まさかこんなに長くなるとは……。
 自分で言うのもナンですが、正直やり過ぎです。
 詳しい話しはまた次回させて頂きますが、連載は6月19日(注:第1回のみ25日ではありません。 ご注意下さい)より、MFD公式ウェブサイト、MFD‐WEB内にてスタートします。 お楽しみにッ!!
 ちなみに、今回のは“アノ人”が帰ってくるお話しです。


 それはそうと、EAがやってくれました。
 世界中を震撼させたスプラッタアクションADV、『アリス・イン・ナイトメア』から10年、ファン待望のリメイク版がいよいよリリースです!
Blog0848  タイトルは『アリス:マッドネス・リターンズ』!
 どうやら“続編”ではなく“リメイク版”っぽいです。 まあ、あのラストからハナシを続けるなんて不可能ですしね。
 AiN同様、今回も3人称視点のアクションADVになっているようですが、グラフィックやデザインが一新され、生まれ変わった“狂った不思議の国”を見せてくれる事でしょう。 超期待してます!
 コンシューマ版は、XBOXとPS3でそれぞれリリースされますが、CERO‐Zなのでご注意下さい。
 また、PC版はイーフロンティアからパッケージ版もリリースされますが、EAのDLストアでも日本語版がリリースされます。 やっぱりSteam版は無し。 まあいいんだけどさ。 EADMもアップデートしてだいぶ使いやすくなってきたし。(注:Steamにはまだまだ劣るけどな!)
 このEADL版には、コンシューマ版やパッケージ版ではDLコンテンツになる(と思われる)コスチュームと追加武器、BGM数曲のMP3ファイル、そして、AiNのソフト(注:ただし英語版)がバンドルされるお得なコンプリートパックになっております。
 僕はコレを買う予定です。
 ってゆーか、さっき予約しました。
 ちなみに、amazonではこのゲームのヴィジュアル・アート集(注:洋書)や、オリジナルサウンドトラック(注:MP3ダウンロード)が発売中です。(注:両方とも買った。 攻略ガイドはいつ出るのかな?)
 リリースは7月。 今年の夏は、凶器と狂気の歪んだ不思議の国に、納涼を兼ねて避暑に行かれてイカれてみはいかがでしょうか?(笑)


 さ、それでは今週の連載コーナーをどうぞ。


‐AS‐RadioHead(2011/05/28)‐

 久々キターーーーー(゜∀゜)ーーーーーッッ!!!
 今週のAS‐Radioは、テクノアーティストKammerer特集です!
 1曲目の『Discoteca』は、4:34の158。
 2曲目の『Under Water』は3:52の203。
 いずれもグリーンスピードが中心ですが、縦ブラインドがやや強く、グレイブロックもやや多めなので難易度は中の中。
 両曲とも、『リッジ・レーサーズ』の名曲『Disco Ball』を彷彿とさせるミニマルテクノ! 良曲です!
 以上の楽曲は、6/3まで無料でDL&プレイ可能です。 ASプレーヤーの皆さま、Don’t miss it!!


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ。



<今週の特集>

 今週は、「異説『ブレードランナー』論」の連載第6回、前回の続きで第2章後編です。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


・ジェームズ・ホン/ハンニバル・チュウ

 レプリカントの目の設計/製造に熱中するマッドサイエンティスト的なキャラクター、チュウを演じたのは、超ベテラン俳優ジェームズ・ホンである。
 1929年、中国移民の息子としてミネソタで生を受けたホンは、生後間もなく香港へ移住し、幼少期を両親の生まれ故郷で過ごす。
 10歳の時に再びアメリカへ移住し、南カリフォルニア大学に進学して建築を学ぶも、演劇への興味が尽きず演劇科に専攻を変える。
 1955年、名優クラーク・ゲーブル主演の『一攫千金を夢見る男』で、ノンクレジットながら銀幕デビューを果たしたホンは、ジョン・ウェイン、スティーブ・マックィーン、フランク・シナトラといった名だたる名優と競演し、しかし映画では端役ばかりで50年代は主にTVシリーズのゲスト、あるいは準レギュラーを活躍の場の中心にする。
 1960年代になり、映画でもクレジットされる出演が出てくるようになるが、TVシリーズ中心の露出は1970年代まで続く事になる。
 とは言え、出演している作品のタイトルと数がとにかくとんでもない。
 有名ドコロを書き出してみると、『怪傑ゾロ』(59年)、『アウターリミッツ』(63年)、『スパイ大作戦』(71年)、『スタスキー&ハッチ』(77年)、『ワンダーウーマン』(77年)。
 さらに80年代に入ると、『特攻野郎Aチーム』(83年~85年)、『冒険野郎マクガイバー』(86年~91年)、『特捜刑事マイアミヴァイス』(87年)など、『ナイトライダー』や『エアーウルフ』が無いのが逆に不思議なほど。
 90年代に入っても、『シカゴ・ホープ』(95年)、『X‐ファイル』(96年)、『ミレニアム』(99年)、『エイリアス』(01年)、『BONES』(07年)等々、日本でも人気の高い作品のほとんどに出演している。
 映画『ブレードランナー』出演以降の80年代は、映画にも多数露出するようになり、エディ・マーフィー主演の『ゴールデン・チャイルド』(86年)、カート・ラッセル主演の『ゴーストハンターズ』(86年)、シルベスタ・スタローンとカート・ラッセルが競演した『デッドフォール』(89年)など、ヒット作、話題作に数多く出演している。
 90年代以降は、映画ではあまり目立った活躍をしていないが、前出の通りTVシリーズではヒット作の常連になっている。
 また、1960年以降、脚本、製作、監督としても多数のTVシリーズや映画、ドキュメンタリーなどで作品製作に関わっている。
 さらに、声優としてのキャリアも豊富で、映画では『ムーラン』(98年)や『カンフー・パンダ』(08年)に出演。 特に後者は、TV用の特別編やゲーム版、さらに2011年公開の続編映画とTVシリーズにも出演している。
 現在までに、TV、映画を通して実に300本以上というキャリアを持ち、既に80歳を超える高齢ながら精力的に活動を続けるホン爺さんには、まだまだ活躍して頂きたいと思う。


・モーガン・ポール/デイヴ・ホールデン

 映画の開始早々にレプリカントに殺されてしまうデッカードの前任者、ホールデンを演じたのはベテラン俳優のモーガン・ポールである。
 1944年に生まれたポールのキャリアは、TVシリーズの『The Patty Duke Show』(65年)のゲスト出演で幕を開ける。
 が、それより何よりポールの名が人々の記憶に残されたのは、1970年公開の歴史的名作、『パットン大戦車軍団』であろう。
 これは、第二次大戦中、アメリカ第3軍を率いて北アフリカ戦線やノルマンディ上陸作戦後のフランス解放戦線でドイツ軍を圧倒し、連合軍内部のみならず、ドイツ軍からも敬意を以って讃えられた実在の陸軍司令官、ジョージ・パットン将軍(注:本名ジョージ・スミス・パットン・Jr)の活躍を描いた作品で、フランクリン・J・シャフナーが監督し、まだ『ゴッド・ファーザー』シリーズを監督する前(注:1作目は73年公開)のフランシス・フォード・コッポラが脚本を手がけている。
 元々、パットン将軍の活躍はアメリカでは伝説になっており(注:パットン将軍は、終戦直後の45年12月に自動車事故で亡くなっている)、公開前から評判が高かった作品だが、前評判通りの大ヒットを記録し、同年のアカデミー賞では9部門ノミネート、作品賞、監督賞を含む内7部門受賞という極めて高い評価を得た。(注:ただし、主演のジョージ・C・スコットは主演男優賞の受賞を拒否している)
 映画の評価と同様に、ポールの演技も注目されるようになり、70年代だけでTVと映画で数十本もの作品に立て続けに出演する。
 映画『ブレードランナー』出演以降の1980年代は、同じくTVシリーズと映画に出演を続けるも作品数は激減。 1997年の『Uncle Sam』という作品を最後に、現在は事実上の引退状態らしい。
 現在は、カリフォルニアのレイクアローヘッドの山岳地帯に住んでいるとか。


・ハイ・パイク/タフィー・ルイス

 チャイナタウンのイカガワしいバーのオーナー、タフィ・ルイスを演じたのは、これまたベテラン俳優のハイ・パイク(注:本名モンティ・パイク)である。
 1935年、デビッドとポーリーの間に生まれたパイクは、カリフォルニア大学で演劇を専攻。 1960年代に独立系の低予算映画に出演しキャリアをスタートさせる。
 1973年、『Lemora: A Child's Tale of the Supernatural』というホラー映画に出演。 以降、ホラーやコメディ、ミュージカルを中心に多数の映画に出演する。
 1980年代に入ると、『ブレードランナー』でタフィ・ルイスという端役ながら印象的なキャラクターを演じ、名脇役として注目されるが、88年の『Halloween Night』というダイレクトビデオ作品では、主役を演じている。
 しかし、90年代に入るとほとんど表に出てこなくなり、2003年の『Music Is a Joke!』というTV映画に出演したのを最後に行方が分からなくなる。 後に、06年に亡くなった事が判明したが、死因などは一切不明のままである。


・ロバート(ボブ)・オカザキ/スシ・マスター

 映画の冒頭でデッカードと口論し、「ふたつで十分ですよ!」の名台詞(?)で日本のファンにも親しまれているスシ・バーの店主を演じたのは、日本人移民のボブ・オカザキである。
 1902年、日本に生まれたオカザキは、日本人移民として渡米。 経緯は不明だが、1940年代からノンクレジットで複数の映画に出演するも、42年の『Secret Agent of Japan』という作品に出演して以降、一時的に映画界から締め出される。(注:恐らく第二次大戦のため。 アメリカの敵国人だった日本人移民は、戦時中強制収容所に収監されていた)
 1955年から俳優業に復帰したオカザキは、当時まだ新しいメディアだったTVで性格俳優として活躍し、かの『ヒッチコック劇場』にも出演している。
 59年の『東京暗黒街‐竹の家』(注:原題『Tokyo After Dark』)など映画にも出演しているが、キャリアのほとんどはTVシリーズである。
 既に80歳を迎えての出演となった82年の『ブレードランナー』の出演直後、85年5月にLAで他界。 83年間の人生に幕を閉じた。
 人生の半分を俳優業に費やしたオカザキは、今もなお、「ふたつで十分ですよ!」の名台詞と共に、多くのファンに記憶されている。


・ベン・アスター/アブドル・ベン・ハッサン

 長らく“演者不明”だったエジプト人の人工動物業者、アブドル・ベン・ハッサンを演じたのは、パレスチナ(注:現在のイスラエル)生まれのベン・アスターである。
 残念ながら、筆者のリサーチではサモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』に記されていた(注:同書449頁~450頁)以上の事は全く分からなかったので、アスターについては同書を再読して頂きたい。
 1909年生まれ、1988年死去。 享年79歳。


 以上が、映画『ブレードランナー』に出演した主要なキャストのバイオグラフィーである。
 公開当時、ビッグスターの仲間入りを果たしたばかりのハリソン・フォードを中心に、それぞれが個性豊かな、そして一度でも映画を観たら忘れられないような極めて印象的なキャスティングで、今となっては彼ら以外にそれぞれのキャラクターを演じられるキャストはいないのではないかと思えるほどのハマリ役ばかりである。
 しかし、多くのキャストが既に他界しているという事実は、誠に残念この上ない。 映画『ブレードランナー』は、フォードやハウアー、ヤング、キャシディといったメインキャストも然る事ながら、スシ・マスターやタフィ・ルイス、ベン・ハッサンといった端役が強烈な個性を発揮した極めて印象的なキャラクターが多数おり、同時にこれらのキャラクターを演じたキャストも注目に値するキャストばかりで、彼らの演技がもう観れないというのは、実に寂しい限りである。
 しかし、彼らの出演した映画は、周知の通り現在でも多くのファンに愛される作品になっている事に変わりはなく、DVDやBDで、我々はいつでも彼らに再び逢う事が出来るのだ。
 そう、“別れの悲しみは一瞬、されどフィルムは永遠”なのだ。
 これからも、彼らの演技に逢いに、DVDやBDを再生したいと思う。


‐キャスティングという仕事‐

 さて、映画のキャスティングというのは、キャスティング担当のスタッフが行う。 最終的な決定権は、もちろん監督やプロデューサーにあるが、基本的にキャスティングは担当スタッフの仕事である。
 映画『ブレードランナー』のキャスティングを担当したのは、マイク・フェントンと彼の長年のパートナーであるジェーン・ファインバーグの二人である。
 この二人のやり方、というワケではないが、映画のキャスティングには、通常4つの過程を経て行われる。


1.リストアップ

 脚本を基に、キャスティングが必要な登場人物(注:名前とセリフがあるキャラクターがコレに当たる。 これ以外の登場人物はいわゆるエキストラに分類され、キャスティングとは区別される)を洗い出し、それぞれのキャラクター設定や役柄、あるいは個性などから適当と思われる役者をリストアップする事が、まず最初に行われる。
 候補者選びの第一歩というワケだ。
 ハリウッドには、役者だけが加盟出来る労働組合、映画俳優組合があり、ハリウッドで製作される映画に出演する場合は、この労組に加盟する必要がある。
 外国人の場合でもこれは同じで、出演と労組加盟が前後する事もあるようだが、一時的にでも加盟する必要があるらしい。
 しかし逆に言えば、この労組に加盟していれば役の大小はあるにせよ、役者として映画に出演する機会は得易くなるワケで、役者にとっては非常にありがたい組織と言える。
 役者とは職業であり、仕事である以上、それは労働である。 と、するならば、役者ひとりひとりの“労働者としての権利”を守るという意味において、こうした労組は映画が極めて大きな産業として成立しているハリウッドにおいて、必要不可欠な存在なのだ。
 もちろん、労組である以上、ストライキなどの問題が発生して製作中の映画に多大な被害を与えてしまう事もままあるが……。
 それはともかく、キャスティングをする側にとっても、この労組の存在は重要である。 映画を製作する度に、2、30人のキャラクター毎に数人から数十人、時には何百人もの役者をイチイチオーディションしていては、時間がいくらあっても足りなくなってしまう。 そこで、労組に加盟している役者の中から、年齢や性別、人種(注:アメリカは“人種のサラダボウル”と言われるほどの多民族国家なので)、あるいはキャリアやギャラなどである程度絞込みを行い、キャスティングの労力を軽減する事が出来るからだ。
 これ以外にも、雑誌や新聞、TVやラジオ、インターネットなどで呼びかけ、一般から広く募集する事もあるが、こうしてリストアップされた役者は、キャスティング過程の次の段階で少しずつ、絞り込まれていく事になる。


2.書類選考

 リストアップと同時に行われる事も多いが、多くの候補者がこの過程で絞り込まれる事になる。
 身体的特徴やキャリアなどがココで確認されるワケだが、ほとんどの場合は役者のルックスの確認を行うための過程と言える。
 改めて言うまでもなく、役者にとってルックスは極めて重要な要素で、これ如何によってその役者の人気が変動すると言っても過言ではない。
 ただし、美男美女であれば良いのかというと、決してそうではないのが芸能界の面白いトコロだ。 たとえ美男美女であっても、演技力が伴わなければ役者として成功する事は出来ないし、逆に美男美女でなくても、確かな演技力があれば役者として大成出来る。 そうした例は、普段何気なく観ているTV番組でもハッキリと確認出来る。
 例えば、映画『ワイルド・スピードX3‐トーキョー・ドリフト』は、ストリートレーサーをモティーフにして大ヒットを記録し、ヴィン・ディーゼルやポール・ウォーカー、ジョーダナ・ブリュースター、ミッシェル・ロドリゲスといった美男美女を一躍トップスターにしたシリーズの3作目に当たる作品だが、それまでのアメリカを舞台とした犯罪組織と潜入捜査官というフォーマットから逸脱し、日本を舞台にした青春ラブストーリーにしたシリーズ屈指の駄作(笑)だが、この作品では、日本が舞台という事もあり、妻夫木聡や北川景子といった日本の役者が何人か出演している。 が、それより何より面白いのは、コメディアン集団ワハハ本舗所属のお笑いタレント、柴田理恵が出演している点である。 しかも、妻夫木や北川よりも出番もセリフも多い!
 しかも、同時に出演している美女(注:一言二言程度のセリフしかないが、全くの大根演技。 幼稚園のお遊戯並み)よりも圧倒的に良い演技。 高校の教師という役どころだが、柴田のキャラクターに合った絶妙なキャスティングと言える。
 役者にとって、美男美女である事は決して絶対条件ではないのだ。
 スティーヴン・キング原作のサイコスリラーで、日本でも大ヒットを記録した映画『ミザリー』は、キャシー・ベイツを一躍トップスターにした彼女の出世作だが、知っての通り、ベイツは決して美女ではない。 本人も、それはよく分かっている。
 しかし、彼女は非常に人気が高く、映画『タイタニック』でも“不沈のモーリー・ブラウン”という重要なキャラクターを見事に演じ切っている。
 確かな演技力があれば、美男美女でなくとも成功出来るのが“芸能界”という摩訶不思議な世界なのだ。
 そして、ココで言う“ルックスの確認”というのは、その役者が美男美女であるかどうかを確認しているワケではなく、“役柄に合ったルックスかどうか”を確認する事に他ならない。
 タフィ・ルイス役のハイ・パイクは、決してリック・デッカードのイメージには合わないし、ハリソン・フォードがアブドル・ベン・ハッサンを演じられるワケがない。 役者を選ぶのは、役者でもなければスタッフでもなく、役者の演じるキャラクターそのモノなのだ。
 面白い例を挙げよう。
 TVドラマ『X‐ファイル』は、シリーズ全体を通して一話完結の基本スタイルで製作されており、レギュラーキャラクター以外の登場人物は、1話だけのゲストキャラクターという前提でキャスティングされている。
 もちろん、全9シーズン(注:プラス映画版2作)、合計200話以上という長期シリーズのため、過去に登場したキャラクターが後のエピソードで再登場する事もあるが、そういう時は必ず同じ役者がキャスティングされ、時間の経過が示されるという懲りようである。
 さらに、一度出演した役者は、同じ役以外では出演しない(させない)という制約が設けられ、ドラマの中で一つの世界を構築し、その世界にリアリティを与える事に成功している。(注:ただし、ごく少数だが例外もある。 2ndシーズンで初登場し、その後のシリーズで極めて重要なキャラクターとなるアレックス・クライチェクを演じたニコラス・リーは、1stシーズンの時に被害者Aとして一度だけ出演している)
 これをさらに強調するために、『X‐ファイル』ではキャスティングの際に“美男美女を選択肢から外す”という制約が課せられた。 ほとんど全てのキャラクターに、どこにでもいるごくフツーの一般市民という設定が与えられているため、これを強調し、ドラマにリアリティを与えるためである。
 もちろん、長期に渡る上、業界内にもファンが多いシリーズなだけに、ブラッド・フィーデルやバート・レイノルズ、リリ・テイラー、カートウッド・スミスといった映画界でも高い人気と評価を得ている有名俳優が出演する事もあるし、逆にほとんど無名であっても役柄によっては超美形の役者がキャスティングされる事もある。 が、それもこれも飽くまでも“役柄に合わせて”、すなわちまず初めにキャラクターありきでキャスティングされている事に変わりはない。
 役者を選ぶのは、あくまでもその役者が演じるキャラクター自身なのである。


3.面接

 いわゆるオーディションと言えば、審査員の前に候補者一同が集められ、各々の候補者が自己アピールする、というのをイメージするが、映画の場合は様相がちと異なる。
 やっている事は基本的に同じなのだが、候補者が一堂に会するという事はあまりなく、一人ずつ面接する形式が一般的である。
 ココで、キャスティング担当や監督、プロデューサーなどのスタッフと面談し、時には既にキャスティングが決まっている役者、あるいは代役の役者と本読み(注:台本の読み合わせの事。 身振り手振りの演技を行わず、セリフを読み合わせるだけのリハーサルの事)をしたり、実際に演じてもらう事もある。
 駆け出しの新人にとっては、ココまでくるのが最も大変なのだが、ココで大失敗して役を得られない事も多いという。
 いわゆるビッグスターと呼ばれるような俳優でも、面接はほとんどの場合受けなくてはならない。 監督やプロデューサーの希望によるオファーがあったとしても、だ。 何故なら、その役者が本当に役に合っているかどうかは、実際に演じてもらわない事には最終的な判断が付きかねるからだ。


4.スクリーンテスト

 面接のあと、あるいはそれと同時に行われるのが、キャスティングの最終段階であるこのスクリーンテストだ。
 これは、実際の撮影台本を使い、実際のセット、あるいはスタジオの簡易セットでカメラを回して行われるモノで、役者のカメラ写りや照明などを確認するためのモノである。
 実際にカメラを回して行われるため、映像として記録に残り易く、『ブレードランナー』でも最終的に起用されなかった役者のスクリーンテストの映像が複数残っており、現在は25周年記念盤の特典映像として観る事が出来る。
 実際に起用された役者が演じている映画本編の映像と見比べてみれば、なるほど確かに演技に相違が見られ、それぞれの役者の個性の違いもあるだろうが、キャラクターに対する役者毎の解釈の違いが見られて面白い。
 その意味では、映画『ブレードランナー』のキャスティングは、どのキャラクターも確かにベストキャストと言えるだろう。


 以上のような過程を経て、映画のキャストはようやく決定されるワケだが、決定したからといって映画が完成するとは限らない。 例外的なモノではなく、一度決定したキャストが何らかの理由で降板するというのは、意外とよくある事なのだ。
 スティーブン・スピルバーグが製作総指揮を務め、ロバート・ゼメキスが監督し、主演のマイケル・J・フォックスを一躍世界的トップスターに押し上げた大ヒット作、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、最初マーティ役はフォックスではなく別の役者がキャスティングされ、実際に数シーンが撮影された。
 フォックスは、マーティ役の第1候補ではあったが、当時TVのホームコメディ、『ファミリー・タイズ』にレギュラー出演しており、映画の撮影に参加出来る時間がなく、起用が見送られたのだ。
 が、代わりに起用された役者がマーティ役を上手く演じられず、撮影されたシーンには常に違和感があった。
 仕方なく、この役者は降板し、フォックスがスケジュールを調整して出演する事になった。 その結果は、映画を観ての通りである。
 もう一つ例を挙げよう。
 デイヴィッド・フィンチャー監督とトップスター、ジョディ・フォスターのコンビで大ヒットした映画『パニック・ルーム』は、当初フォスターではなくニコール・キッドマンがキャスティングされ、本撮影がスタートした。
 が、クランクインして間もなく、キッドマンはその直前に出演したバズ・ラーマン監督のミュージカル映画『ムーラン・ルージュ!』で撮影中に痛めた足の捻挫が悪化。 立っている事も出来なくなり、やむなく降板が決断され、フォスターに代わって撮影が再開された。
 しかし、プリ・プロ段階でカメラアングルやライティングに至るまで、完璧なプレヴィスを行っていたフィンチャーとスタッフは、フォスターとキッドマンの約20センチの身長差に終始四苦八苦させられたそうだ。
 映画『ブレードランナー』でも、デッカード役の最初の候補はフォードではなく、なんとダスティン・ホフマンだった。
 確かに、ホフマンは名優である。 映画『卒業』や『レインマン』を例に挙げるまでもなく、彼の出演作を一度でも観た事がある者ならば、それは絶対に否定する事が出来ない事実である。
 また、『アウトブレイク』で見せた熱血漢の伝染病医師から、『スリーパーズ』で見せたアル中のやる気のない弁護士まで、演技の幅もかなり広い。
 しかし、ホフマンはデッカードを演じられる役者ではない。 たとえ名優であっても、デッカードのキャラクターはホフマンの演技力の範囲外にある。
 結果的に、このキャスティングはホフマン側からの申し出で降板が決定し、デッカード役には改めてフォードが起用されたが、ホフマンがそのままデッカードを演じていたら、……いやいや、その先はあえて言うまい。(笑)
 いずれにせよ、映画のキャスティングは、映画の出来そのモノを左右する極めて重要な要素だけに、スタッフも役者自身も、キャスティングには慎重にならざるを得ないのは確かで、だからこそ“間違い”が許されないのも確かだ。
 役者には、キャラクターに対する理解と、それを正しく演じられる演技力が。
 スタッフには、そのキャラクターを演じるにふさわしい役者を、キャリアやネームバリューに左右される事なく選ぶ確かな目が必要なのではないかと思う。
 強いて言えば、両者とも運も少なからず必要かな?



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週は、オープニングトークに記した通りasami hiroaki最新作『Beyond』についてお話したいと思います。 お楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


女怪盗。

Lmc45Female Eye Candy Rogue Outfit Ver.1.0

 プレイ動画『すたじおおぶり』でも愛用されており、Fran AddonにもNPC用置き換え装備として追加されるセクシー装備。 シティの南東にあるFort Alessia(アレッシア砦)に潜む盗賊から剥ぎ取る。
 デザイン違いアリ。 谷間とハミケツに萌えて下さい。



Thanks for youre reading,
See you next week!

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144.異説『ブレードランナー』論:2.構造①

2011年05月22日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #05-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週はシフトの交代があって、時間がないのでオープニングトーク無しです。
 ……あ、これだけは言わせて下さい。 ワンジル選手のご冥福をお祈りいたします。 今年の世界陸上の楽しみが減ってしまいました。つД`)゜。


‐AS‐RadioHead(2011/05/21)‐

 今週のAS‐Radioは、今年1月にリリースされたパラドックス・インタラクティヴ(注:『マウント&ブレード』のメーカー)のアクションRPG、『Magika』とのタイアップ企画。 オリジナルサウンドトラックからセレクトされた4曲がラインナップです。
 1曲目の『The King in Yellow』は、2:15の214。
 2曲目の『Challenge』は、2:24の210。
 3曲目の『Idle Browsing』は、2:14の124。
 そして4曲目の『Battle of the Wizards』は、2:14の661という久々の超高トラフィック楽曲!
 いずれもRPGのサントラらしい壮大なオーケストラ。 イエロースピード辺りが中心で、グレイブロックもそれほど多くないので、難易度は低め。
 ただし、全ての楽曲に何かしらのコマンドラインが入っており、ゲームルールが通常と微妙に異なるので注意が必要です。
 以上4曲は、5/27まで無料でDL&プレイ可能です。 ASプレーヤーの皆さま、Don’t miss it!!


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ。



<今週の特集>

 今週は、「異説『ブレードランナー』論」の連載第5回、今回から新章突入です。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


第2章:構造‐キャスティング


 この項では、映画『ブレードランナー』のスクリーンを彩った主要なキャストを紹介していく。
 サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』はもちろんの事、DVDの特典映像集や複数のウェブサイトでも、既に同様の紹介テクストは存在するが、キャストのバイオグラフィーやフィルモグラフィーをまとめて紹介しているテクストがあまりない、あるいはあっても日本語化されていない事が多いので、自分で書く事にした。
 正確性を期すために複数の情報ソースを参照しているが、中には全くと言っていいほど情報が入手出来なかったキャストもいる。 予めご了承頂きたい。
 なお、紹介順は映画のクレジットの順番に準拠している。


・ハリソン・フォード/リック・デッカード

 主人公リック・デッカードを演じたのは、今や説明する必要も無いほどの人気を誇り、ハリウッドを代表するビッグスターとして今もなお活躍を続けている人気俳優、ハリソン・フォードである。
 1942年、元俳優の父クリストファーと、主にラジオドラマで活躍する女優の母ドロシーとの間に生まれたフォードは、大学在学中に演劇に目覚め大学を中退。 ロサンゼルスに移り住み、コロンビア・ピクチャーズ(注:現ソニー・ピクチャーズ)と契約して映画俳優になる。
 1966年、『現金作戦』という作品で銀幕デビューを果たしたフォードは、しかし複数の映画に出演するも中々注目されず、長い下積み時代が続き、コロンビアとの契約が終了すると同時に一時俳優を引退。 なんと大工に転身する。
 しかし、この仕事を通じて知り合った映画プロデューサー、フレッド・ルースの紹介で、ジョージ・ルーカスの監督第2作目に当たる作品、『アメリカン・グラフティ』(73年)に出演。
 当時まだ駆け出しの新人だったリチャード・ドレイファスや、後に映画監督に転身し、『バックドラフト』(91年)や『アポロ13』(95年)、『ダ・ヴィンチ・コード』(06年)などの世界的大ヒット作を量産する事になるロン・ハワード(注:ただし、クレジットはロニー・ハワード)らと競演したこの作品は大ヒットを記録し、僅か80万ドル足らずで製作されたにも関わらず1億ドル以上を稼ぎ出し、監督のジョージ・ルーカスの名前と共に、出演したキャストも注目されるようになった。
 さらにフォードは、この出演が縁でルーカス監督に誘いを受け、空前の世界的大ヒットを記録する事になる映画『スター・ウォーズ』にハン・ソロ船長役で出演。 映画と共に、フォードの名前も売れ始める。
 二度目の転機となったのは1981年、ルーカスの友人で『ジョーズ』(75年)で最初の世界的大ヒットを記録したスティーブン・スピルバーグ監督作品、『レイダース‐失われたアーク《聖櫃》』の主役、インディアナ・ジョーンズ役に抜擢された事だ。 この出演で、アクションスターとして一気にブレイクしたフォードは、『ブレードランナー』出演後、『パトリオット・ゲーム』(92年)、『逃亡者』(93年)、『今そこにある危機』(94年)、『エアフォース・ワン』(97年)、『インディ・ジョーンズ‐クリスタル・スカルの王国』(08年)等々、とてもじゃないがココでは書ききれないほどのヒット作に立て続けに出演し、今やハリウッドを代表する超ビッグスターになったと言えるだろう。
 これからも、生真面目な役からコミカルな役まで、幅広い演技とあの独特のシニカルなニヤリ笑いでファンを楽しませて頂きたいと思う。
 ちなみに、フォードは大工として働いた経験があるが、技術は全て独学で学び、しかしかなりウデが良いと評判で、時にはハリウッドの大物(注:前出のフレッド・ルースもその一人)から依頼を受けていたほど。 俳優復帰後も、時々自宅の改築などを自分でやっているとか。
 また、ヘリや飛行機のライセンスを持っており、パイロットとして人命救助に参加したり、自らの操縦で日本に来日した事もあり、さらにワイオミング州に800エーカー(注:約3.2平方キロ)の農場を持っているなど、私生活まで映画の役柄のような毎日を送っている。
 ちなみにちなみに、『ブレードランナー』のプロモーションで初来日して以来、現在までに計8回来日している。


・ルトガー・ハウアー/ロイ・バティ

 主人公のデッカードと並んで『ブレードランナー』の最重要キャラクターであるレプリカントたちのリーダー、ロイ・バティを演じたのは、オランダ人俳優のルトガー・ハウアーである。
 1944年、両親共に演劇学校の講師という家庭に生まれたハウアーだったが、少年時代は特に演劇に興味を示す事もなく過し、15歳の時にナゾの家出をして貨物船の船員になる。
 1年後、家に戻ったハウアーは、電気工や大工として働きながら演劇学校に通い、舞台にも出演するようになる。
 1969年、TVドラマの主役を務めた事で注目されるようになったハウアーは、1974年にポール・バーホーベン監督(注:後に、『ロボコップ』や『氷の微笑』などでヒットメーカーになる)の『危険な愛』という作品の主役に抜擢され、オランダ国内での地位を確固たるものにする。 翌74年には、『ケープタウン』という作品で海外デビューも果たしている。
 その後、バーホーベン監督と複数の作品でコンビを組んだ後、70年代末に同じくバーホーベン監督の長年のパートナーだった撮影監督のヤン・デ・ボン(注:撮影監督としては、日本でも大ヒットした『ダイ・ハード』がつとに有名。 後に監督に転身し、『スピード』や『ツイスター』などで世界的な大ヒットを連発する)らと共に渡米。 活動拠点をハリウッドに移す。
 81年、シルベスター・スタローン主演の『ナイトホーク』に悪役で出演したのがキッカケとなり、『ブレードランナー』のロイ役に抜擢され、高い評価を得る。
 映画『ブレードランナー』出演後は、『レディ・ホーク』(85年)や『ヒッチャー』(86年)で印象的なキャラクターを演じたが、その後はヒット作に恵まれず、あまり目立った活躍はしていない。
 今世紀に入ってからは、『ヤング・スーパーマン』や『エイリアス』といったTVシリーズに出演する傍ら、『コンフェッション』(02年)や『シン・シティ』(05年)、『バットマン・ビギンズ』(05年)などにも出演しているが、あまり大きな役ではない。
 しかし、11年にはアンソニー・ホプキンス主演のオカルトホラー、『ザ・ライト‐エクソシストの真実』(注:同タイトルのノンフィクションが原作のオカルトホラー。 73年公開の歴史的金字塔、映画『エクソシスト』の再来と注目されている。 日本では、11年3月末の公開が予定されていたが、東日本大震災の影響で同年4月まで公開が延期になったのも記憶に新しい)に出演。 円熟した演技に期待大である。
 ちなみに、99年にはカイリー・ミノーグのPVにも出演している。
 また07年には、パトリック・キンランという作家と共著で自伝を発表している。


・ショーン・ヤング/レイチェル

 映画のメインヒロインであり、デッカードと恋に落ちるレプリカントを演じたのは、アメリカ人女優のショーン・ヤングである。
 1959年、TVプロデューサーでジャーナリストのドナルド・ヤングの娘としてケンタッキー州ルイスヴィルに生まれたヤングは、ハイスクール卒業後インターロケン芸術アカデミーに入学し、バレエダンサーを目指す。
 しかし、思うように芽が出ず挫折。 1980年にオーディションを受け、『Jane Austin in Manhattan』という作品で銀幕デビューを果たし、翌81年には、後に『ゴーストバスターズ』(84年)でもコンビを組む事になるアイバン・ライトマン監督とビル・マーレーのコメディ、『パラダイス・アーミー』に出演する。
 そして、転機となったのはさらに翌年の1982年、数十人の候補の中から選ばれ、レイチェル役に抜擢された事である。
 この出演で存在感を示したヤングは、映画の興行的失敗をものともせず注目されるようになる。
 87年の『追いつめられて』、『ウォール街』(注:オリバー・ストーン監督作品。 2010年には、23年振りとなる続編、『ウォール・ストリート』も製作、公開されて話題になった)、90年の『アパッチ』、『死の接吻』など、共演者と作品に恵まれ順調にキャリアを重ねていく。
 しかし、それと同時に88年に『The Boost』という作品で競演したジェームズ・ウッズと交際するも、別れ話のもつれからストーカーまがいの行為で裁判沙汰になったり、ティム・バートン監督の『バットマン・リターンズ』(92年)のキャットウーマンの役欲しさに、自分で用意したキャットウーマンのコスプレでバートン監督に直談判(注:しかしこれは、功を奏する事無くミシェル・ファイファーにその役を譲る結果に終わる)したりと奇行が目立ち、マスコミからの攻撃に晒された時期もあった。
 90年代には、ジム・キャリー主演の『エース・ベンチュラ』(94年)や、『ジキル博士はミス・ハイド』(95年)といったコメディ作品への出演が目立つ。
 近年は、小規模なインディペンデント系の作品に出演すると同時に、日本でも人気の高いTVドラマ、『ER:緊急救命室』や『CSI:マイアミ』などにゲスト出演するなど、現在までに大小合わせて80本近い作品に出演している。
 サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』には、“地球から消えてしまったのかと思えるほどマスコミの前から完全に姿を消した”などと書かれているが、それは全くの間違いで、ただ単に注目されるほどの大作映画に出演していないというだけで、毎年複数の作品にコンスタントに出演しており、現在も活躍中である。
 ちなみに、90年には結婚し、現在は二児の母親だそうだ。


・エドワード・ジェイムズ・オルモス/ガフ

 皮肉屋なダテ男、ガフを演じたのは個性派俳優のエドワード・ジェイムズ・オルモスだ。
 1947年、メキシコ移民の父ペドロ・オルモスと、メキシコ系アメリカ人エレノアの間に生まれたオルモスは、ロサンゼルスで生まれ育つ。
 少年時代、プロを目指して野球に熱中するも、ハイスクール時代にロックに出会いミュージシャンを目指すようになり、クラブのステージに立った事も少なくなった。 カレッジに進学した68年には、レコードデビューも果たしている。
 しかし、このカレッジで受けた授業がキッカケで演劇に目覚めたオルモスは、アーティストの道をアッサリ諦め、俳優を目指すようになる。
 いくつかの小規模な映画に出演した後、75年の『Aloha Bobby and Rose』という作品でクレジットに名前が入る役(注:ただし、クレジット名はエディ・オルモス)を演じ、『白昼の死角』(79年)、『復活の日』(80年)という2つの日本の映画作品にも出演し、実は日本との縁が深かったりする。
 転機となったのは81年公開の『ズートスーツ』という作品で、1943年に実際にLAで起きた暴動事件を基にした作品で、オルモスはブロードウェイの舞台に立ち、映画化作品でも同じ役で出演。 映画は高く評価され、舞台版ではトニー賞にノミネートされるほど絶賛された。
 続く82年には『ブレードランナー』に出演するが、それよりもオルモスの人気を不動にしたのが、84年から89年までOAされ、日本でも人気の高いTVドラマ、『特捜刑事マイアミ・ヴァイス』にマーティン・キャステロ警部役でレギュラー出演した事だろう。
 この出演で不動の人気を得たオルモスは、80年代、90年代を通して多くの映画に出演。 92年の『アメリカン・ミー』という作品では、監督にも挑戦している。
 しかし、出演作のほとんどが日本未公開、あるいは日本ではあまりヒットしなかった作品が多いため、『ブレードランナー』のガフ以外のイメージがあまりないのが残念この上ない。
 近年は、映画よりもTVドラマでの露出が多く、99年から00年までは『ザ・ホワイトハウス』。 02年から04年までは『American Family: Journey of Dreams』に。 03年から09年までは、『ギャラクティカ』にレギュラー出演している他、2010年には『CSI:NY』などにゲスト出演している。
 2011年には、アメコミヒーローモノの映画『グリーン・ホーネット』にも出演している。
 意外なトコロでは声優としてのキャリアも豊富で、『エル・ドラド/黄金の都』(00年)や『ビバリーヒルズ・チワワ』(08年)に声優として参加。 そして05年には、ディズニーがアメリカ国内向けにDVDを製作、販売している宮崎駿監督作品、『風の谷のナウシカ』の英語吹き替え版でも声優を務めていたりする。


・M・エメット・ウォルシュ/ブライアント警部

 口の悪いデッカードの上司、ブライアント警部を演じたのは、ベテラン俳優のM・エメット・ウォルシュ(本名:マイケル・エメット・ウォルシュ)である。
 1935年、ニューヨーク州オグデンズバーグに生まれたウォルシュは、バーモント州にあるクラーソン大学に進学し、演劇の道へと進む。
 1969年、コメディ映画『アリスのレストラン』に軍曹役で出演し銀幕デビューを果たしたウォルシュは、70年代だけで20本以上の作品に出演し、順調にキャリアを重ねていく。 この頃の代表作には、『新・猿の惑星』(71年)や『エアポート77』(77年)などがある。
 82年の『ブレードランナー』の出演時、すでにベテランだったウォルシュだが、転機となったのは『ブレードランナー』出演後の84年の作品、『ブラッド・シンプル』の主演に抜擢された事だ。
 この作品は、後に多数の映画で国際映画祭の常連受賞者となるコーエン兄弟のデビュー作に当たる作品で、85年度のサンダンス映画祭で審査員大賞を受賞し、インディペンデント・スピリット賞では、監督賞も受賞している。 ウォルシュの演技も同賞で高く評価され、主演男優賞を受賞した。
 80年代のウォルシュは、この他に『クリッター』(86年)のようなホラーから、『ハリーとヘンダスン一家』(87年)のようなコメディ作品まで、幅広い作品に多数出演している。
 90年代に入るとさらに出演作の幅は広がり、マイケル・ジャクソンが主題歌を提供した事でも話題になった『フリー・ウィリー2』(95年)や、レオナルド・ディカプリオ、クレア・デーンズ主演のシェークスピア劇のアレンジモノ、『ロミオ+ジュリエット』(注:オススメ作品。 セリフは全てオリジナルのままだが、設定を現代のマフィア・ファミリー同士の抗争に置き換えており、一見不釣合いに思えるがこれが意外にも上手~くハマっていてとても良い。 ちなみに、ウォルシュはロミオに毒薬を売る場末のバーの老店主の役。 96年公開作品)、さらには声優としてピクサーアニメの『アイアン・ジャイアント』(99年)、ウィル・スミス主演のトンデモウェスタン、『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(99年)など、手当たり次第と言っても良いほどである。
 近年は、映画に出演する傍らTVドラマにも数多く出演しているが、メインはやはり映画で、出演作は既に100作を超えている。
 最新作は、ジョン・キューザック主演で2011年に公開予定の『The Raven』という作品。
 ウォルシュは既に76歳と高齢になっているが、現在も衰えを見せる事なくベテランらしい円熟した演技で活躍を続けている。


・ダリル・ハンナ/プリス

 セバスチャンに接触してレプリカントたちに協力させようとする“カワイ子ちゃんタイプ”のレプリカント、プリスを演じたのは、女優としてだけでなく監督としても活躍するダリル・ハンナだ。
 1960年、イリノイ州はシカゴに生を受けたハンナは、幼少の頃からバレエを習い、11歳の時にはTV-CMに出演している。
 しかし、最終的にバレエの道には進まず、南カリフォルニア大学で演劇を学び、演劇の道に進む。
 1978年、ブライアン・デ・パルマ監督の『The Fury』で銀幕デビューを果たしたハンナは、持ち前の長身と見事なブロンドにも関わらずあまり注目されない映画出演が続く。
 しかし、82年の『ブレードランナー』でプリス役を演じたのをキッカケに注目されるようになり、後に『アポロ13』や『ダ・ヴィンチ・コード』など、数回に渡ってコンビを組む事になるロン・ハワード監督とトム・ハンクスが初めてコンビを組んだ84年の作品、『スプラッシュ』で人魚役に抜擢され、同年のサターン賞最優秀女優賞を受賞。
 その後、『ブレードランナー』でも(直接的な競演シーンは無いモノの)競演したショーン・ヤングと再び競演する事になった『ウォール街』(87年)、ブロードウェイで好評を博した演劇の映画化作品、『マグノリアの花たち』(89年)、メインヒロインを演じた92年版の『透明人間』(注:H・G・ウェルズ原作のSF。 何度か映画化されているが、92年版には『ジュラシック・パーク』に出演する前のサム・ニールも出演している)と順調にキャリアを重ねていく。
 ハンナが再び注目されたのは、やはり03年と04年に公開されたクェンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』シリーズをおいて他にはないだろう。 この作品の冷酷な殺し屋、エル・ドライバー役が極めて高く評価され、サターン賞やサテライト賞で助演女優賞を受賞している。
 これ以降は、主にTV映画中心に活躍するようになるが、50代に入った現在も精力的活動を続けている。 最新作は、2011年公開予定のホラーコメディ『Eldorado in 3D』。 エドガー・アラン・ポーの詩に着想を得た作品だそうだ。
 ちなみに、バレエを習っていた経験から、ハンナはスポーツ万能で、撮影当時足を怪我していたにも関わらず、セバスチャンやロイと朝食を食べるシーンでプリスがバク転するスタントを自ら演じている。
 また、プライベートではあのケネディ大統領の実子、ジョン・F・ケネディ・Jrと交際していた事もある。


・ウィリアム・サンダーソン/J・F・セバスチャン

 レプリカントたちに強要され、彼らに協力する事になるタイレル社の技術者、セバスチャンを演じたのは、性格俳優のウィリアム・サンダーソンである。
 1948年、テネシー州メンフィスに生まれたサンダーソンは、デザイナーの父と小学校教師の母を両親に持ち、地元メンフィス大学の法学部に進学して法律を学んだ。
 しかし、キャンパスのすぐ近くにある劇場に通っている内に演劇に目覚め、俳優を志すようになる。
 1977年、『Fight for Your Life』というマイナーなアクション映画の主役に抜擢され、1980年には、主演女優のシシー・スペイセクがオスカーに輝いた名作、『歌え!ロレッタ愛のために』に出演。 これは、カントリー歌手のロレッタ・リンの半生を描いた作品で、オスカーでは作品賞を含む7部門にノミネートされるほど高く評価された作品だった。
 サンダーソンは、それほど大きな役ではなかったが、作品と共にサンダーソンの名前も覚えられるようになった。
 ちなみに、共演者にはトミー・リー・ジョーンズがいる。
 1982年、『ブレードランナー』出演と前後して、CBSテレビのホームコメディ、『Newhart』にレギュラー出演。 これは、1990年まで続いた長期シリーズで、サンダーソンは最後までレギュラー出演した。
 これを皮切りに、サンダーソンは活躍の場をTVに移行し、『ナイトライダー』(82年~86年)や『バビロン5』(93年~98年)、『X‐ファイル』(93年~02年)、『ER:緊急救命室』(94年~09年)、『ロスト』(04年~10年)など、日本でも人気の高い作品に多数ゲスト出演しており、現在は2011年2月からスタートした『Bar Karma』というTVシリーズに主演でレギュラー出演している。
 映画では、『ブレードランナー』出演以降、複数の作品で小さな役で出演するに止まっているが、中には『ロケッティア』(91年)や『ザ・クライアント‐依頼人』(94年)、『ラストマン・スタンディング』(96年。 ハードボイルドアクションの巨匠、ウォルターヒルが監督した黒澤明の『用心棒』のハリウッドリメイク版。 1930年代のアメリカに舞台設定を変更し、ブルース・ウィリスが主演した。 映画『用心棒』は、ハリウッドで何度もリメイクされており、サンダーソンは87年版にも出演している)、『ゴッド&ジェネラル/伝説の猛将』(03年)、『アヴァター』(04年公開。 ジェームス・キャメロン監督の『アバター』ではない)などに出演している。


・ブライオン・ジェームス/リオン・コワルスキー

 イキナリ映画の冒頭でホールデンを殺すという印象的な登場をしたレプリカント、リオンを演じるのは、多彩な演技で実に100本近い作品に出演している俳優、ブライオン・ジェームスである。
 1945年、カリフォルニア州レッドランズに生まれたジェームスは、父親が映画館を経営していた関係で幼少の頃から映画に親しみ、演劇に興味を持つようになる。
 サンディエゴ州立大学に進学し演劇を学び始めるが退学。 しかし、この時ティム・トマーソンと知り合い、共にニューヨークへ渡ってブロードウェイの舞台に立つようになる。
 70年代初頭、複数のTVや映画で端役で出演し始めたジェームスは、74年に『ブレージングサドル』という西部劇映画で本格的に銀幕デビューを果たし、以降映画をメインに出演するようになっていく。
 ジェームスというと、体格の良さと強面のおかげでアクション俳優だと思われがちだが、実は本来はコメディ俳優。 先の『ブレージングサドル』はもちろんの事、『Harry and Walter Go to New York』(76年)など、初期の出演作はコメディ作品が多い。
 しかし、それと同時にシリアスな作品にも度々出演しており、78年の『Corvette Summer』(注:『スターウォーズ』のルーク・スカイウォーカー役で一躍トップスターの仲間入りを果たしたマーク・ハミルと、後に『ゴーストバスターズ』シリーズに出演する事になるアーニー・ポッツが主演。 ジェームスは端役だった)や、サスペンスホラーの『Blue Sunshine』(78年)、意外なトコロでは、デスメタルバンドの草分け、KISSが出演したTV映画『Kiss Meets the Phantom of the Park』などにも出演。 多彩な演技で活躍の場を広げるようになり、80年の『ジャズ・シンガー』(注:史上初のトーキー映画である1927年の同タイトル映画の2度目のリメイク。 ゴールデングローブ賞やグラミー賞で多数ノミネートされ、サントラ盤はサントラとしては異例のミリオンヒットを達成した)や81年のサスペンススリラー、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(注:ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング主演。 ジェームズ・M・ケインのベストセラー小説の映画化作品)などにも出演している。
 転機となった映画『ブレードランナー』の出演で名声を得たジェームスは、同じく82年のエディ・マーフィーの出世作、『48時間』に出演。 映画は大ヒットし、ジェームスも名脇役としての地位を確実なモノにする。
 これ以降のジェームスは、主にサスペンスやアクション映画への出演が多くなり、88年の『D.O.A.‐死へのカウントダウン』(注:デニス・クエイド、メグ・ライアン主演のサスペンス。 過去に何度もリメイクされている)や、同じく88年の『レッドブル』(注:シュワルツェネガー主演のハードボイルドアクション。 前出のウォルター・ヒル監督作品)、89年の『レッド・スコルピオン』、『デッド・フォール』などに出演。
 90年代に入ると、『48時間パート2/帰って来たふたり』に前作と同じ役で出演。 さらには『ザ・プレイヤー』(92年)、『スリー・リバーズ』(93年)、『フィフス・エレメント』(97年)と、話題作、ヒット作にも多数出演し、さらにはこれと平行して77年の『ルーツ』を皮切りに、『超人ハルク』(80年)、『爆発!デューク』(82年、84年)、『特攻野郎Aチーム』(83年、85年)、『世にも不思議なアメージング・ストーリー』(85年)、『特捜刑事マイアミヴァイス』(88年)、『ハリウッド・ナイトメア』(注:91年。 原題を『Tales from the Crypt』といい、複数の映画版も製作、公開されているオムニバス。 キャストやスタッフが超豪華なのが特徴。 日本ではVHSやLDでソフト化されているが、タイトルがマチマチで統一されておらず、観れないエピソードが多数ある)、 『ハイランダー』(94年)、『ミレニアム』(98年)等々、多数のTV作品にゲスト出演している。
 また、声優としてのキャリアもあり、『バットマン』や『スーパーマン』、『スポーン』(注:いずれも90年代版)のTVアニメシリーズにレギュラー出演している。
 しかし、1999年8月に、突然の心臓発作に倒れそのまま他界。 享年54歳の若過ぎる死は、ハリウッド映画界に大きな衝撃を与えた。
 ジェームスが亡くなった翌年、2000年に公開された映画『キング・イズ・アライブ』が遺作となった。 個人的にもスキな俳優の一人だったので、とても残念である。


・ジョー・ターケル/エルドン・タイレル

 レプリカントを発明した天才科学者で、タイレル社の社長を務めるエルドン・タイレルを演じたのは、ジョー・ターケルだ。
 1927年、ニューヨークはブルックリンに生まれたターケルは、1949年に『City Across the River』、『Sword in the Desert』という複数の作品にノンクレジットで出演したのをキッカケに俳優としてのキャリアをスタートさせる。
 50年代前半は、ノンクレジットでの出演が多かったが、52年に『Boston Blackie』というTVシリーズに出演したのを期に、TVドラマや映画にオンクレジット(注:ただし、クレジット名はジョセフ・ターケル)で出演するようになる。 50年代後半以降は、主にTVで活躍した。 55年には、当時アメリカで高視聴率を得た人気TVドラマ『The Lone Ranger』にもゲスト出演している。
 TV中心の活躍は1970年代まで続くが、1980年代には『シャイニング』(80年)と『ブレードランナー』(82年)に出演。 88年には、『特捜刑事マイアミヴァイス』にもゲスト出演している。
 90年代のターケルは、ダイレクトビデオ(注:日本で言うトコロのVシネマ)作品の『The Dark Side of the Moon』(90年)、TVドラマの『ボーイ・ミーツ・ワールド』(注:コメディ作品。 全7シーズン。 日本では00年~03年までNHKでOAされ、11年からはCS放送のディズニーチャンネルでOA中)にゲスト出演するも、高齢のため出演作はこれが最後になった。
 TV、映画を通して、合計133本もの作品に出演し、俳優としてのキャリアは21世紀を向かえる事なく終えたターケルだが、『ブレードランナー』に対しては本人も思い入れが強いらしく、ファンイベントやコンベンションで行われる『ブレードランナー』のパネルディスカッションには何度も参加し、熱心なファンからの質問にも気さくに答えている。


・ジョアンナ・キャシディ/ゾーラ(ミス・サロメ)

 デッカードによって最初に“回収”されるレプリカント、ミス・サロメことゾーラを演じたのは、ニュージャージー出身のジョアンナ・キャシディ(注:本名ジョアンナ・バージニア・カスキー)である。
 幼少の頃から絵画に興味があったキャシディは、ニューヨークのシラキュース大学で美術を学ぶ。
 しかし、卒業して間もなく、ある医師と知り合い68年に結婚。 後に子宝にも恵まれている。 これと前後して、ファッションモデルとしてデビューしたキャシディは、スティーブ・マックイーン主演のカーチェイスアクション、『ブリット』(68年)やTVドラマの『スパイ大作戦』に端役で出演。 これがキッカケで、以降キャシディは女優として活躍するようになる。
 73年、ロバート・デュバル主演の『The Outfit』、77年には、ロバート・アルトマンがプロデュースした『The Late Show』などに出演し、74年には離婚を経験するも順調にキャリアを重ねる。
 転機となった『ブレードランナー』の出演で名声を得たキャシディは、88年に『ロジャー・ラビット』に主演女優で出演。 その地位を確固たるモノにする。
 90年代以降のキャシディは、主にTVドラマでゲストや準レギュラーとして出演する事が多くなるが、中には日本でも人気の高い『スタートレック:エンタープライズ』(01年~05年)や、『シックス・フィート・アンダー』(01年~05年)のような極めて評価の高い作品、『HEROES』(06年~10年)のような話題作まで、幅広い作品に出演している。
 また、『ブレードランナー』のファイナル・カット版のためにゾーラの死のダンスのシーンの再撮影に参加するほど、『ブレードランナー』には強い思い入れがあるという。
 現在は、11年3月にスタートしたTVシリーズ、『Body of Proof』に準レギュラーとして出演している。
 ちなみに、プライベートではヘビをペットにしており、映画『ブレードランナー』ではその内の1匹と“競演”した。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


ハンター×ハンター。

Lmc44Woodsman Armor Ver.1.1

 プレイ動画『テクテク冒険記』でも紹介されていたロビンフッド風軽装装備。 シンプルながら飽きの来ないデザインで、専用のフードとマントも付く。 スニーク系のキャラクターの初期装備にオススメ。
 入手場所は、シティのマーケット地区、スタッフ屋さんの向かいの石像(注:SS参照)の足元。



Thanks for youre reading,
See you next week!

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143.異説『ブレードランナー』論:1.設計④

2011年05月15日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #04-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 ようやく暖かくなってきたと思ったら、今度は汗ばむほどの陽気が続き、かと思ったらなんと台風1号が上陸!
 春ドコロか梅雨も飛び越えて夏になってしまいした。(笑)
 以前、当ブログでは台風特集(注:『055.Area of God』、2009/08/16うp)で書きましたが、日本列島に台風が上陸する/しないというのは、台風の強さや速度、発生場所などではなく、太平洋高気圧の位置が最も大きな要因です。
 太平洋上で時計回りにゆっくりと回転している太平洋高気圧は、渦の中心から外側に向かって風が吹く。 そのため、台風はこの“へり”に沿って移動し、反時計回りの軌道を描きながら日本列島の南東から入って北東へと抜けていくワケですが、太平洋高気圧は、季節によってその中心位置が東西に移動します。
 本来、台風が日本列島直撃コースをたどるのは8月下旬から9月にかけての期間で、太平洋高気圧の“へり”が丁度日本列島と重なる位置にあるためです。
 しかし、今ぐらいの時期(注:梅雨入り前)の太平洋高気圧は、本来はもっと西寄りの位置にあり、台風が発生しても日本列島に上陸せずに日本海、もしくはさらに西の東南アジアや中国に抜けていくのが平年です。 それが、今回こうして“上陸”にまで至ったという事は、太平洋高気圧が例年よりも東の位置にあるという事になります。
 これも、恐らく3月以降の異常気象の影響でしょう。
 ちなみに、この時期に台風が発生する事自体は、それほど珍しい事ではないです。 台風の発生自体は、毎年26~27個もあり、今ぐらいの時期から既に発生し始めており、しかし上陸するのは平均で毎年2、3個しかありません。
 が、先に記したように、この時期に“上陸”するのは珍しい現象です。 しかも1号が!
 この調子でいくと、今年は台風の当たり年になるやも知れず。
 山間部、河川周辺にお住まいの方、今年は台風や大雨による土砂災害、並びに洪水に警戒が必要かもしれません。 ご注意を。


 でわでわ、今週も連載コーナーからどうぞ。


‐AS‐RadioHead(2011/05/14)‐

 今週のAS‐Radioは、フランスのテクノユニット、CWF特集です。
 1曲目の『DefectiV』は、FM音源っぽいイントロが印象的なミニマル系テクノ。 4:36の242。 久々の高トラフィック楽曲です。
 テクノ系楽曲らしく、縦ブラインドが強めでグレイブロックも多め。 加えてスピードもオレンジからリング付レッドが中心なので、難易度はやや高めです。
 2曲目の『Experience』は、トランスライクなシンセが特徴的な楽曲。 4:52の176。
 1曲目とは異なり、スピードはグリーンが中心でかなり遅く感じますが、縦ブラインドとグレイブロックは1曲目以上なので難易度的には大差無し。
 ただし、2曲ともブロック配置に恵まれているので、両曲でマッチ21が狙えます。 ってゆーか出ました。 2曲とも。
 複数の楽曲で同時にマッチ21が出たのは、僕史上これが初めてだと思う。
 それはともかく、以上2曲は5/20まで無料でDL&プレイ可能です。 ASプレーヤーの皆様、Don’t miss it!!


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ!



<今週の特集>

 今週は、「異説『ブレードランナー』論」の連載第4回です。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


<映画化までの道のり>

 さて、テーマやメッセージに関しては、後ほど別項にてまとめて詳しく解説させて頂くのでひとまずコッチに置いといて(注:あれだけ前フリしておいてお預けか!?)、ココでは小説の映画化までの道のりを簡単に紹介したいと思う。
 本来なら、サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』と内容が重複するため、本書の基本ルールから外れるので書くべきではないのだが、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の内容にいささか解説不足を感じたので、本書でも書く事にした。
 ほぼ同一の内容だが、しばしお付き合い下され。


‐オプションの試み‐

オプション:名詞(option)

 選択売買権。
 小説やゲーム、コミックなどの“映画化権を取得する”という意味の業界用語。 用例:「あの小説をオプションしよう!」、「監督の○○がアレをオプションしたらしい」など。 映画が主力産業の一つになっている欧米において、人気の高い小説やコミックを映画化するのは至極当然の成り行きだが、一つの作品に対して複数のプロジェクトが同時進行してしまうと、プロジェクト間で著作権の問題が発生してしまうため、“映画化権”という法的権利が設定された。


 ディックが1968年に発表したSF小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に対するオプションの試みは、映画『ブレードランナー』が公開される遥か以前、小説が発表された翌年の1969年には、既に最初のオプションが試みられている。
 しかもその試みを行ったのは、なんと当時まだ駆け出しの新人だった映画監督のマーティン・スコセッシと、後に『ストレンジ・デイズ』の脚本(注:ジェームズ・キャメロンとの共著)を手がける事になるジェイ・コックスだった。
 しかし最終的には合意を得られず、スコセッシ&コックスによる映画化は夢と消えた。 もし実現していれば、『ブレードランナー』のような興行的失敗は無かっただろうと言えるが、『ブレードランナー』のように公開から30年を経た今日に至るまで、多くの人々に愛されるカルト映画になっていたかと言うと、それははなはだ疑問である。
 時は流れて1974年、二度目のオプションを試みたのは、映画プロデューサーのハーブ・ジャフィ(注:ショーン・コネリー主演の『風とライオン』がつとに有名。 1975年の作品)と、彼の映画プロダクションであるジャフィ・アソシエイツ社だった。 このオプションは正式に契約が成立し、ハーブの息子で脚本家のロバート・ジャフィが脚本を手がける事になった。
 しかし、偶然から脚本のコピーを入手(注:ハリウッドに限った事ではないが、原作者が映画に口出し出来る事はほとんどない。 映画は小説とは切り離され、独立して製作されるためで、時には脚本を読む事さえ出来ない。 原作者が映画に対して口出しするには、監修や製作総指揮、脚本、製作など、“映画製作スタッフ”として製作に参加する必要がある)したディックは、そのあまりにヒドい出来に激怒した。 いわゆるコメディ・スプーフ(注:シリアスな作品をコメディとして映画化するのは、当時のハリウッドではよくある事だった。 イアン・フレミング原作の『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの原作小説第一作となった『カジノ・ロワイヤル』は、1954年に一度TVドラマ化され、これをベースに1967年には映画版も製作されたが、どちらもコメディ・スプーフされている。 ただ、個人的には67年の映画版は結構スキ。 超豪華キャストの上、コメディとしてとてもよく出来ている)になっていたのだ。
 ディックは早速ロバートを自宅に呼び出し、脚本の改稿に協力した。
 二人の共同作業は順調に進み、ディックはオプション契約の更新まで承諾した。
 トコロがそれ以降、ジャフィサイドからの連絡はパッタリと途絶えてしまう。 オプションの契約期限である1977年になっても、プロジェクトは一向に進展しなかった。
 結局、ジャフィ社は映画化を事実上断念してしまったのだ。
 しかし、この顛末と前後して、小説のオプションをアプローチしていた人物がもう一人いた。 それが、後に映画『ブレードランナー』の製作総指揮と脚本を手がける事になる人物、ハンプトン・フィンチャーその人であった。


‐フィンチャーの執念‐

 フィンチャーがオプションを試みたのは、極めて商業的な理由からだった。 1960年代に役者として複数の映画に出演し、しかし10代の頃から8ミリや16ミリの自主制作映画で編集や監督、脚本を手がけてきたフィンチャーは、プロデューサーとして映画製作に携わるのが夢だった。 そこで、手頃な小説作品をオプションし、プロデューサーとして映画を作ろうと考えた。 そして、フィンチャーが目を付けたのが、当時高い評価を得ていたにも関わらず、あまり売れない作家でしかなかったディックの作品だった。 フィンチャーは、友人のジム・マックスウェルに薦められた小説を気に入り、オプションする事を決めて1万ドルの私財を投じた。
 1975年、フィンチャーはディックの知人であったレイ・ブラッドベリ(注:SF、怪奇小説作家。 著作多数。 複数の作品が映画化されており、『華氏451』という作品が、66年にフランスでフランソワ・トリュフォー監督により映画化されている)に偶然出会い、ディック本人のサンタ・アナの住所と電話番号を聞き出した。 そしてフィンチャーは、早速ディックにコンタクトを取った。
 ディックとフィンチャーの交渉は、極めて友好的なモノであった。 ディックもフィンチャーも、お互いの事を「最初から気に入っていた」と後に語っている。
 だが、いくら会合を重ねても、ディックはフィンチャーのオプションを受けてはくれなかった。 ……もうお分かりだろう。 そう、この時既に、ディックはジャフィ社とオプション契約をしてしまっていたのだ。
 この事実を知らされていなかったフィンチャーのディックとの交渉は平行線をたどり、難航した。 ディックは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の代わりに、別の作品をフィンチャーに売り込むのに必死だった。
 先にも記した通り、存命中のディックは批評家や出版社からは高く評価されていが、著作は一般には受けが悪く、あまり売れない作家でしかなく、ディック家の台所事情はあまり芳しくなかった。 ディックは、既にオプションが成立している作品ではなく、他の作品を売り込んで家計の足しにしようとしていたのだ。
 結局、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にこだわったフィンチャーは、一旦オプションを諦めるしかなかった。
 しかし、小説の映画化を諦め切れなかったフィンチャーに、それから2年後、思いがけないチャンスが訪れる。 友人のブライアン・ケリーの登場である。
 ケリーは、1960年代に『わんぱくフリッパー』というTVドラマ(注:日本でも66年からTVでOAされ大人気を博した。 63年と64年には映画化されており、96年にはリメイク版の映画とTVドラマ版が製作されている)に出演していた俳優で、主にTVで活躍していた役者である。
 フィンチャーがケリーに小説とオプションの事を打ち明けると、ケリーはすぐさま小説を読み高く評価した。 そして、自ら交渉役を買って出たのだった。 そしてその結果は、……即OKだった。
 もうお気付きだろうが、この時ウラでは、ジャフィ社によるオプション契約が期限切れとなり、プロジェクトの頓挫が確定していた。 映画化による原作の増販を期待していたディックは、タイミング良く再び現れてくれたフィンチャー(とケリー)に飛びついたのだ。
 こうして、小説の映画化プロジェクトはようやく始動した。
 1969年、スコセッシとコックスの幻のオプションの試みから、既に9年の歳月が流れていた。
 しかし、フィンチャーが実際に映画公開に漕ぎ付けるには、さらに5年もの歳月を要する事になる。


‐“オプション”とは何か?‐

 以上のように、小説が映画化されるまでには様々な紆余曲折があったワケだが、ココで注目したいのは、ハリウッドシステムにおける“オプション”という制度である。
 これは、映画を製作する側の“映画を製作する権利”を保護するためのモノであり、著作権などの法的問題が発生しやすい原作付映画に対しては、原作者の権利保護や意思を尊重する意味でも必要な事だし、映画が(日本とは比べ物にならないほど)極めて重要な産業になっている欧米では、むしろあって然るべき制度である事は理解出来、また重要な事だと言える。
 しかし結果として、この制度があるが故に、原作がないがしろにされたり、逆に映画がダメにされる事が多いのも、また事実である。
 実際、『ブレードランナー』の公開後、ディックの作品にも注目が集まるようになり、この30年間で複数の作品が映画化されているが、タイトルが同じなだけの全くの別物。 テーマもメッセージもすっかり消え去ってしまっている作品がほとんどで、小説に忠実な作品はほんの一握りに止まってしまっているのが現状だ。
 確かに、映画とは妥協の産物であり、たとえ原作がどうであれ、これを完全に再現する事は不可能に等しい。(注:先の『ハムレット』が良い例) 何故なら映画とは、様々な要因に起因する制約によって、大なり小なりの違いはあったとしても、必ず妥協を強いられるモノだからである。
 しかし、だからと言って原作を完全に無視してしまって良いというワケではない。 オプションさえ出来れば、後は何をしても良いワケではないのだ。(注:『ドラゴンボール・エボリューション』を思い出せ!)
 オプションという制度は、確かに映画製作者の“映画を作る権利”を保護するためのモノだ。 しかし、だからと言って原作をないがしろにして良いワケではない。
 2000年(注:日本では2001年)にリリースされたPCゲーム、『アリス・イン・ナイトメア』(注:原題『American MaGee's ALICE』)は、ルイス・キャロル原作の『不思議の国のアリス』、『鏡の国のアリス』を題材としたアクションADVだが、ディズニーのアニメ版を始めとしたそれまでのアリスのイメージを覆し、陰鬱としたヴィジュアルと血みどろのスプラッタ表現で、本来キャロルがイメージしたであろう原作を忠実に再現(注:「えーッ!?」と思うかもしれないが、それはアニメや絵本を通してしかアリスの世界を知らないからであり、キャロルの原作を読んでいないからである。 原作版のアリスの物語はかなり残酷で、ハートの女王が「その者の首をはねておしまい!」と連呼するのは、児童文学とは思えないほどの残酷描写である。 また、物語り全編を通して、ナンセンスでかなりブラックなユーモアに満ちている。 さらに、原作者のキャロルは真性のロリコンで、しかもかなり変質的な性格だった事は、よく知られている事実である)した意欲的なタイトルで、有名なゲームクリエーター、アメリカン・マギー(注:レベルデザインを担当した『ドゥーム』シリーズや『Quake』シリーズがつとに有名。 どちらも現在のFPSゲームの基礎を築いた重要なタイトル)がプロデュースした事もあり、世界中で大ヒットを記録した。
 リリース以降、その人気の高さから何度か映画化が企画されたが、その度に延期を繰り返す事になった。 何故ならアリスの映画化権は、ディズニーが完全に掌握していたからだ。
 何せ、“あの”ディズニーである。 たとえ原作に忠実であっても、暗く陰鬱とした血みどろスプラッタなアリスを映画化するなど、許可するハズがない。
 2010年になり、ようやくディズニーがGOサインを出し、ディズニーの出資でティム・バートンが監督する事で映画化されたが、原作であるゲームのテイストはことごとく消え、結局映画版に残ったのは“アリス19歳”という設定だけ。 タイトルまで変えられ、ゲームとは全く関係のない作品になってしまったのは言うまでもない。
 もちろん、“ゲームが原作”という事を知らない一般の観客にとっては、「さすがティム・バートン!」と言わしめる作品にはなっているかもしれないが、“ゲームが原作”という事を知っている筆者にとっては、たとえバートンが監督であったとしても、ゲームとの違いばかりが目立つ残念な作品になってしまっている感は否めない。
 オプションという制度により、確かに映画製作者の権利は正しく保護されたが、結局原作はないがしろにされてしまった。
 先にも記した通り、オプションという制度、それ自体は、必要なモノである。 しかし、オプションさえすれば、何をしても良いというイミでは、断じてない。
 映画製作者に求められるのは、オプションをするための交渉力ではなく、原作を正しく理解し、そのテイストを上手く抽出した脚本を書き、原作の持っているテーマやメッセージを正しく観客に伝えられる作品を作る事なのではないかと、筆者は考える。


<現実とは何か? 人間とは何か?>

 唐突に重いサブタイトルである。(笑)
 本来であるなら、ココでオプション取得以降の監督の人選やキャスティング、プリプロの苦労や本撮影時の様々な対立、並びにポスプロのSFXや音楽についての諸々を書き記していくべきだが、既にサモンの名著、『メイキング・オブ・ブレードランナー』にて詳細に記されており、加えてDVDの特典映像にも、3時間に及ぶメイキング・ドキュメンタリーが収録されているので、本書ではバッサリと割愛させて頂く。 興味のある方は、(既に既読&鑑賞済みのハズなので)それらを再度参照して頂きたい。
 では、この項では何を記すのか? それは、小説のテーマ、すなわちこの項のサブタイトルに掲げた“現実とは何か? 人間とは何か?”というテーマについて解説していこうと思う。
 そもそも、このテーマを理解する事は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のみならず、ディック作品全般を読み解く上で極めて重要である。 何故ならディックは、その生涯を通して、この哲学的テーマの探求を続け、著作の中で随時自問自答を繰り返してきたからである。
 原作小説である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を例に挙げると、例えばウィルバー・マーサーの存在。 映画には全く採用されなかったこの存在は、作品世界において多くの信者を抱えるマーサー教という宗教を成立させ、エンパシー・ボックスで信者たちと意識を共有する事で自らの教えを説いている。 核戦争により生命が死に絶えようとしているこの不毛な作品世界において、マーサーは人々の心の拠り所になっているのだ。
 トコロが、物語りの後半において、この心の拠り所が完全に崩壊する。 マーサーが、でっち上げられた虚構であった事が暴露されるのだ。
 マーサーは、絶え間ない苦痛を背負って人々に教えを説く尊い存在ではなく、ハリウッドのスタジオで小遣い稼ぎをしている三文役者に過ぎなかったのだ。 この作品世界において、絶望に打ちひしがれた人々の心の拠り所であったマーサーは、実は全くのウソ八百だったのだ。
 この作品世界において、マーサーのウソによる人々の混乱をさらに混乱させたのが、このウソを暴露した張本人たるバスター・フレンドリーその人である。
 大人気のコメディアンとして、TVとラジオに引っ張りダコのフレンドリーは、1日24時間、1年365日、いつでも茶の間に話題と笑いを届けてくれる、名前の通りフレンドリー(注:“親しい”、“身近な”の意)な存在である。
 しかし、論理的に考えて、これは絶対に不可能な事である。 何故ならフレンドリーという一人の人間が、毎日休む事なく放送を続ける事など、物理的に不可能だからだ。
 TVであるなら、放送を録画してループ再生する事でこれが可能なように思えるが、小説ではこの可能性が真っ先に潰されている。 フレンドリーの番組は、TVでもラジオでも毎日違う内容で、再放送を行った試しが全く無いのだ。
 外見や声が全く同じ、もしくは極めてよく似ている人物、すなわち双子や三つ子の可能性は否定出来ないが、コメディアンとしてそれを隠す意味はあまりない。 逆に、それを売りにする方がコメディアンとしては有利である。(注:赤塚不二夫の『おそ松くん』を思い出せ!)
 こうして論理的に考えれば、行き着く答えはただ一つ。 そう、フレンドリーは人間ではなく、休息を必要としない、アンドロイドであるという結論である。
 結局、フレンドリーの存在もウソ八百だったワケだ。
 デッカードに協力し、ターゲットであるルーバ・ラフトの“回収”を手伝う事になるバウンティ・ハンター、フィル・レッシュの存在となると、さらに事態は複雑である。
 レッシュは、デッカードとは異なる警察署に所属しているバウンティ・ハンターだが、その直接の上司であるガーランドは実はアンドロイドで、しかもこのガーランドが仕切っている警察署の職員もまた、大半がアンドロイドで占められており、さらにレッシュは自らが“人間のバウンティ・ハンター”という記憶を埋め込まれたアンドロイドなのである。 その事実を知ったレッシュは、ラフトを“回収”した後、デッカードに自分も“回収”してくれるように頼む。
 何が現実で何が虚構なのか?
 ディック作品では、このリアルとアンリアルの逆転が度々描かれ、その理解を極めて困難なモノにしていると言える。(注:その意味においては、ディック作品が当初あまり売れない作品でしかなかったのは納得出来る。 設定が複雑過ぎて、当時の読者には理解出来なかったのだろう。 ディック作品の映画化が急激に増えたのも、実は今世紀に入ってから。 映画『マトリックス』の公開後の事である)
 では、そもそもヒトは、現実というモノをどのように認識し、リアルとアンリアルをどうやって識別しているのだろうか?
 フランスの哲学者、ルネ・デカルト(注:『幾何学』、『省察』の著者。 “我、思う故に我あり”は、あまりにも有名なデカルトの格言。 1596~1650年)は、自分の事を科学者だと考えており、科学実験に物事や事象に対する証明方法として、“方法的懐疑”を導入した。
 これは、物事や事象の存在を懐疑し、“疑う事でその存在を証明する方法”の事で、この方法で世の中のありとあらゆる存在、事象を懐疑していった結果、最終的にデカルトは、“存在に対して懐疑している自分”だけは、疑い切る事が出来なかった。 疑っている自分自身は、紛れも無くこうして存在しているからだ。
 こうして生まれたのが、かの有名なデカルトの格言、『我、思う故に我あり』であり、“自分という存在”は、自ら懐疑する事でその存在を証明出来るのである。
 アイルランドの哲学者、ジョージ・バークリー(注:『視覚新論』の著者で、“存在するとは知覚される事”という格言を残している。 1685~1753年)は、デカルトの理論をさらに発展させるに至った。
 方法的懐疑によって懐疑された存在や事象は、ヒトの脳、あるいは自我によって知覚された対象(注:現象、あるいは現実)のみが知覚され、ヒトという主体(主観)に、存在する存在として認識、知覚され、存在を証明されるという理論である。
 すなわち、対象となる物事、あるいは事象、現象、存在は、それが何であれ、ヒトという主体としての主観、すなわち“五感を介して対象を認識する脳”が知覚した対象のみが、『現実』として認識、知覚され、その存在を証明されるのである。
 すなわち、個体、あるいは主体を決定する“肉体”。 脳が対象を認識するインターフェースたる五感、すなわち“視覚”、“味覚”、“聴覚”、“触覚”、“嗅覚”。 そしてさらに“第六感”。
 これらの感覚神経を介して脳が知覚した対象、すなわち物事の事象や現象、存在は、デカルトの方法的懐疑によって“ふるい”にかけられ、存在を証明された対象だけがふるいに残り、“現実”としてその存在を認識、知覚される。
 しかし、これには大きな落とし穴がある。 それが“夢”である。 何故なら、“現実”ではない“夢”は、“自分以外は全部ウソ”だからだ。
 映画『マトリックス』において、モーフィアスがネオに言っているように、“現実としか思えない夢”を見ていたら、ヒトはその『夢』を“夢として認識”出来るのだろうか?
 逆に言えば、その“夢”を認識している本人が、“夢”の中の対象を方法的懐疑によって懐疑し切れなければ、それは“ふるい”の中に残ってしまい、本人にとっては現実と区別がつかない、“現実と同じ存在”として認識、知覚されてしまうのではないだろうか?
 と、するならば、対象を“夢”か“現実”か、どちらの存在であるかを区別する決定権は、その対象の主体たる“本人のみ”という事になってしまう。
 ライトノベルとしては極めて高い人気と評価を得ている小説『涼宮ハルヒの憂鬱』に、“物事は観測されて初めて現実になる”という行がある。
 これは、世の中のありとあらゆる現象、事象、存在は、ヒトという主体が観測し、認識して初めて現実として存在するという考え方で、上記の“夢と現実”と全く同じ事を説明している。
 例えば宇宙。
 現在の科学力を以ってしてもその全容を解明出来ないこの存在は、確かに存在しているにも関わらず、不明な点が多い。
 特に、“宇宙の終端”はまさにその典型で、現在人類が観測可能な宇宙の果ては、137臆光年までで“しか”ない。
 しかし、それよりも先にある星(恒星)や惑星、銀河や星雲は、仮に存在していたとしても、現在の人類の科学力では観察不可能なため、存在していないのと同義という事になってしまう。
 ヒトが観測不可能な存在は、存在していないのと同義であり、逆に言えば、ヒトが観測可能になった時点で、その存在は現実に存在している事が証明されるのである。(注:ニュートリノやダークマターもそうだし、地球外知的生命体やUMAなんかもそう。 観測可能で科学的証明が可能にならない限り、存在していない事になる)
 すなわち、デカルトの“我、思う故に我あり”は、極めて主観的で主体的で、極論を言えば本人が“カラスは白い”と認識出来れば、カラスの羽は白いという事になってしまう。
 これはどう考えてもおかしな話しだ。
 そして、その最も典型と言えるのが“夢”なのである。 “夢”は、その内容が何であれ、本人にとっては極めてリアルで、目覚めた時に初めて、今までのソレが夢“だった”と認識する。
 ヒトは“夢”を見ている間は、本人にとっては“夢”と“現実”の境界線はなく、極めてリアルなアンリアルなのである。
 ……ん? 「“夢”は対象外じゃないか?」って?
 違います。 “夢”は重要な対象である。
 何故なら“夢”は、“対象を認識する脳”が知覚する事象であるにも関わらず、“五感を介していない対象”だからであり、脳にとっては、“夢”も“現実”も区別はないからだ。
 それがあり得るのが、ヴァーチャル・リアリティである。
 ヴァーチャル・リアリティは、“五感を介していない対象”を、“現実として”脳に知覚、認識させるコンピュータ・システムであり、“現実としか思えない夢”を具現しうるモノである。
 フランスの哲学者、ボードリヤール(注:ジャン・ボードリヤール。 『シュミラークルとシュミレーション』の著者。 1929年~2007年。)が著書の中に記した“シュミラークルとシュミレーション”は、まさにヴァーチャル・リアリティのそれであり、“現実としか思えない夢”があり得る事を論理的に説明している。
 すなわち、現実を完全に模倣したシュミレーションが可能であれば、模造が現実に取って代わり得るという事であり、模造(シュミラークル)と模倣(シュミレーション)が、現実を必要としないほど完璧な世界は、脳にとっては現実と同義という事だ。
 そして、それが成立しうるのが、真の意味でのヴァーチャル・リアリティであり、映画『マトリックス』シリーズで描かれたマトリックス・システムであり、映画『13F』で描かれたヴァーチャル・リアリティ・システムなのである。
 しかし問題は、夢やヴァーチャル・リアリティは“現実としか思えない夢”であり、“リアルなアンリアル”であるため、本人には“現実”と区別する術がない。 本人にとっては、どちらも“極めて現実的”だからだ。
 では、どうすれば両者を区別出来るのか?
 その答えが、映画『マトリックス』に登場する、ネオに対するモーフィアスの存在である。
 ネオが主体としての“主観”だとすると、モーフィアスは何なのだろうか? ……そう、主観とは異なる視点、すなわち“物事の多角的な視点による分析”を行うために必要な、“客観”である。
 全ての事象、現象、存在は、主体としての主観によって知覚、認識され、この“客観的視点”によって存在を証明される。
 先ほど宇宙人やUMAを例に挙げたが、目撃者が誰であれ、一人であれ複数であれ、それを目撃した視点、すなわち主観は一つでしかない。 コンピュータ・システム上に構築されたマトリックス・システムは、複数の人間が接続し、ヴァーチャル・リアリティの中で生活しているにも関わらず、誰一人としてソレが“現実としか思えない夢”である事に気付かないのは、接続している全ての人が、全く同じ主観視点だからである。
 そこに、“客観的視点”としてのモーフィアスが投入された事により、ネオはようやく主観視点とは異なる“客観的視点”を得て、マトリックスの世界を“現実としか思えない夢”だと認識する。
 ヒトは、現実を主観と客観による多角的視点による分析、そして両者の相互作用によって識別、認識しているのである。
 そして、小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』におけるリアルとアンリアルの逆転は、まさにこの論法によって展開されている。
 マーサーは、信者たちにとってはマーサー教の教祖だが、これはエンパシー・ボックスという“共有された主観”を通してのみ認識される現実であり、そこには客観的視点は存在しない。 そこに、エンパシー・ボックスを用いずにこの現実を検証したバスター・フレンドリーという客観が投入された事で、マーサーのウソが暴露されたのである。
 フレンドリーは、イジドアにとってはいつも様々な話題と笑いを提供してくれるTVのコメディアンだが、イジドアのアパートにやってきたロイたちにとっては、人間ではなくアンドロイドである。 イジドアという主観に、ロイたちの客観が投入された事で、リアルとアンリアルの逆転が起こったワケだ。
 レッシュの場合は、その複雑さとは裏腹にもっと簡単だ。 レッシュという主観に、デッカードという客観が投入された結果、レッシュ自身にとっての全ての現実は、完全に崩壊するのである。
 主観と客観。 その相互作用。
 これこそが、現実を認識し、識別する唯一の方法なのである。


 これを発展させると、小説が問いかけるもう一つの疑問、すなわち“人間とは何か?”も説明が可能になる。
 小説では、ディックは“共感”にこそ人間とアンドロイドを区別するカギがあるとしている。 そしてそれは、デッカードがレイチェルやラフトに対して行うVKテストの設定に色濃く表れている。
 VKテストは、担当官が被験者に対していくつかの質問をし、質問に対する被験者のリアクションを専用の機械で測定する事によってアンドロイドを識別しているが、重要なのは質問の方で、ほとんどの質問は動物に関係しており、ある特定の動物が道義的に嫌悪感を感じるような状況に置かれており、それに対してどう思うか?という内容である。 すなわち、担当官はヒドい目に遭っている動物に対し、被験者が共感出来るか否かを見ているのである。
 作品世界の設定では、アンドロイドには感情らしい感情がなく、外見は人間ソックリでも精神、すなわち“こころ”は、人間と呼べるレベルにはないという設定である。 そのため、この世界では上記のVKテストによってこれを区別出来るというワケだ。
 トコロが、この不文律にほころびを生じさせる存在が、小説には登場する。 それが、精神的障害を持つ“マル特”である。
 この存在は、感情の欠如した人間らしくない人間である。 VKテストでは、アンドロイドとマル特を区別する事は極めて難しい。(注:リアルとアンリアルの逆転) 両者とも、他者に対する感情的共感能力、すなわち“思いやり”が欠如しているのだ。
 さらに言及するなら、デッカードも同様である。 彼は、アンドロイドや人工動物に対する“思いやり”のない人物である。 バウンティ・ハンターの仕事も、かなりノリノリでやっている。 それも、生活のために仕方なく、ではなく、作品世界のステータスシンボルたる“ホンモノの動物を買う”という執着からである。
 妻であるイーライに対しても、もはや愛情は感じておらず、ただの同居人程度にしか認識していない。
 しかし、そんな彼の感情が、物語りが進むに従って次第に変化していく。
 ルーバ・ラフトにVKテストを拒否されたデッカードは、アンドロイドたちが人間たちに知られる事なく運営している警察署に連行され、ガーランドにアンドロイドである事を疑われる。
 ガーランドがハスキングというアンドロイドである事を見破り、記憶を操作されたアンドロイドであるレッシュと共にラフトの“回収”に行くと、デッカードは美術館で絵画に共感しているラフトと再会する。 そして、ラフトをなんとか“回収”するも、コンサートで素晴らしい歌声を聴かせていた彼女を想い、ラフトに共感を抱く。
 この感情の変化が尾を引き、デッカードはレッシュを“回収”する事を拒否する。 アンドロイドに対する考え方が変化し、彼らに共感を憶えたデッカードは、バウンティ・ハンターという仕事にも疑問を持つようになる。
 最初は、“ホンモノの動物を買う”という夢で頭がいっぱいだったデッカードは、アンドロイドに対して共感を得る事で、妻に対しても“思いやり”を見せるようになり、ヒトとしての“こころ”を取り戻すのである。
 自分と相手。
 先ほどの主観と客観と同じく、この両者の相互作用により、ヒトは“人間とは何か?”という疑問に対する答えである“思いやり”を得るのである。
 ディック自身は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という作品を、「デッカードが人間性を失っていく物語り」だと言っているが、筆者にはそうは思えない。 全くの逆である。
 この物語りは、人間であるハズのデッカードが、人間ソックリのアンドロイドを“回収”するというバウンティ・ハンターの仕事を、自らの自己顕示欲的欲求に起因する“ホンモノの動物を買う”という夢のため、アンドロイドに対する共感を得られないまま嬉々として仕事を請け負い、しかしアンドロイドにも感情、そして感情的共感能力たる“思いやり”がある事を識り、自らもそれを取り戻し、人間性に目覚めていく物語りなのである。
 “人間性の再発見”。
 これこそが小説の、そして映画『ブレードランナー』に共通した、最大のテーマなのである!


 これを念頭に置いて物語りを読み進めていくと、レイチェルの不可解な行動にも納得出来るフシがある事に気付く。
 映画とは異なり、小説ではレイチェルの方から積極的にデッカードを誘う演出になっている。 また物語りの終盤では、レイチェルはデッカードの家に侵入し、デッカードが苦労の末にようやく手に入れたホンモノの動物を殺してしまう。
 このような不可解な行動のウラには、いったい何があるのか?
 それは、これらが全て、デッカードにアンドロイドにも感情があり、アンドロイドに共感して欲しいというレイチェルの想いがあったからである。
 デッカードをセックスに誘う事で、アンドロイドにも恋愛感情がある事を知って欲しかったからだし、ホンモノの動物を失う事で、人工動物にも共感を得て欲しいと考えたからだ。
 全ては、デッカードの“人間性の再発見”のためなのである。


 それと同時に、極めて興味深いのがデッカードの妻、イーライの行動である。
 イーライは、うだつの上がらない夫に失望し、ムードオルガン中毒になっているやる気のない主婦だが、ラストでは仕事に疲れ、ホンモノの動物を殺され、灰の降り積もった不毛世界で見つけたヒキガエルが人工動物であった事に失望したデッカードを温かく迎え入れ、優しさと愛情の一面を垣間見せる。 そして、人工動物であったヒキガエルに必要なエサや飼育道具一式を揃えようとする。
 一見すると、イーライもデッカードの疲れた様子に共感を憶え、人間性を取り戻したようにも見えるが、問題はイーライの最後のセリフである。

「うちの主人はそれ(人工動物のヒキガエル)に夢中なのよ。」

 ……明らかにウソである。 デッカードは、ヒキガエルが人工動物であった事に失望しており、ほとんど興味を失っている。
 なのにナゼ?
 この続きは、詳細を別項に譲る事にしよう。(←引くんかい!)


 以上のように、小説と映画には極めて数多くの点において、極めて大きな相違が見られるにも関わらず、作品の根底にあるテーマ、すなわち“現実認識”と“人間性の再発見”は完全に一致しており、実は“全く同じ作品”と言えるのである。
 見た目やタイトルが異なるという事など、極めて些細な相違でしかないのだ。
 DVDの特典映像集に収録されているインタビューにおいて、サモンはこんな事を言っている。

「小説と映画は、両者を補い合っている。」

 その通りである。
 先にも記した通り、活字メディアたる小説と視覚メディアたる映画との間には、“メディアの違い”という根本的な“越えられない壁”が存在し、お互いにどうしても表現するのが難しい点や、逆にそのメディアだからこそ表現可能な要素が存在する。 小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と映画『ブレードランナー』においては、これが極めて顕著に現れており、活字メディアと視覚メディアの長所と短所のみならず、世界観やキャラクター描写、そしてストーリーとテーマ、これら作品を構成する各要素を分解し、つなぎ合わせ、再構築する事で、この作品はようやく“完全版”となるのである。
 小説は映画の、映画は小説の、それぞれの“説明不足”な部分を上手く補い合う、注釈として機能し合っているのである。


<原作者は夢の映画を観るか?>

 さて、原作者のフィリップ・K・ディックは、映画『ブレードランナー』をどう思っていたのだろうか?
 1982年の年明け早々、ディックは映画製作スタッフの招待を受け、映画の特殊効果を製作していたEEGスタジオに赴いている。 この時ディックは、最初は憤慨の極みにあったという。
 これに先立って、映画のノベライズ版(注:“映画を小説化”する事。 原作付映画でもよく行われ、原作とは異なるバージョンの小説版として出版される)の執筆を依頼されていたが、ディックはこれを断っていた。 映画に合わせて、原作にある諸要素をカットするように要求されていたからだった。
 しかも、この頃はもう映画の製作も終盤で、そろそろ試写会の準備に入ろうかという頃だったにも関わらず、映画の製作中から、ディックに助言を求めるドコロか製作の進行状況すら、ディックには何ひとつとして報されていなかった。
 もちろん、これは契約上当然の事(注:ディックは原作の権利を提供しただけで、映画製作に関わるスタッフとして雇われたワケではない)で、ハリウッドの映画生産システムにおいては、至極当たり前の事だった。
 しかし、こうしたハリウッドシステムを心底嫌っているディックにとっては、原作と原作者をないがしろにしていると感じられ、この時の招待も決して、快いモノではなかったのだ。
 トコロが、ディックのこの心境は、文字通り180度一変する。
 映画はまだ未完成の状態だったが、冒頭の20分程度は既に完成していた。 ディックは、EEGの映写室でこれを観せてもらう事になった。
 室内が暗くなり、映写機が回り始め、スクリーンに映像が映し出された瞬間、ディックは思わず息を呑んだ。
 映画の冒頭の20分と言えば、映画のオープニングを飾る遠景ショット(注:通称“冥界風景”)や、街の上空を遊覧する広告飛行船、街のビルの合間を飛び交うスピナーなど、映画の圧倒的なヴィジュアルを「これでもか!」と言わんばかりに観客に見せ付けるシーンが連続するパートである。
 ディックは、その通り映画のヴィジュアルに圧倒され、これこそが自らがイメージした作品世界そのモノだと言い放った。
 その後、試写会に同席したスコット監督と1時間ほど会談し、ディックはやって来たとは全く正反対の会心の笑顔で、EEGのスタジオを後にしたという。
 それからのディックは、映画の熱烈な支持者に転身した。 雑誌のインタビューでも、「映画に期待している。 公開が待ち遠しい。」と答えているほどだ。
 ……が、ディックが映画の熱烈な支持者でいられたのは、EEGでの試写会からわずか1ヵ月余りの間でしかなかった。
 1982年、2月末。
 ディックは、心臓発作に襲われ入院。 一応回復するも、1週間と経たない3月2日に再び発作を起こし、ディックはそのまま、帰らぬ人となった。
 映画『ブレードランナー』の公開まで、あとわずか4ヶ月足らずというタイミングでの出来事だった。
 孤独だった少年時代。
 精神を蝕まれた青年時代。
 作品が思うように売れず、ドラッグにまで手を出すほど追い詰められながらも、しかし決して創作を諦めなかったディックは、最晩年を迎えてようやく、自らが認められる瞬間が訪れた事を確信出来たハズだ。 未完成だったとは言え、映画『ブレードランナー』は自らが望んだ通り、いや、それ以上の作品になる事を確かめられたのだから。
 ディックはきっと、十分な充足感を得てこの世を去って逝けた事だろう。
 ディックの死後、それが本当であった事を、我々は目の当たりにする事になった。
 映画『ブレードランナー』の公開後、ディックの作品は一気に再評価され、その映画化が相次いだ。
 映画『トータルリコール』、『バルジョーでいこう!』、『スクリーマーズ』は言うに及ばず、『クローン』、『マイノリティ・リポート』、『ペイチェック‐消された記憶』、『スキャナー・ダークリー』、『Next』など、現在も企画が進行中の作品があるという。
 もちろん、その全てがディックの原作に忠実というワケではないし、作品のテーマが薄れてしまっている作品も決して少なくない。 だが、ディック作品に対する注目度という意味においては、これだけ多くの作品が立て続けに映画化されている事実、それ自体が、その証明になっていると言えるのではないだろうか?
 これまでの30年間がそうであったのと同じく、これからの30年間、あるいはそのもっと先も、ディックの作品は先を争うように映画化され、ディックの先見性の高さと奥深さを、我々に観せてくれる事だろう。
 本名、フィリップ・キンドレッド・ディック。
 1928年生まれ、1982年没。 享年54歳。
 終生、絵画やクラシックなどの芸術を愛し、その類希なるイマジネーションで多数の作品をこの世に残し、最後まで創作を諦めなかった売れない作家は、現在、最も優れた作家の一人として極めて高い評価を得て、その著作は今もなお、多くの人々を魅了し続けている。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


連邦の白いヤツ。

Lmc43AT2 02-Shiki Armor Set Ver.1.6

 日本人クリエーターによる装備追加MOD。
 01式と同じく、個性豊かでハイクォリティな装備品が多数追加される。 場所は、01式のすぐ隣りなので分かり易いと思う。
 この“SHIROGANE”は、ご覧の通り名前に恥じない白一色の一品。 01式にはテクスチャー置き換えオプションがあるが、02式にはそれがなく、これが唯一の白装備。 兜が3種類から選べる。



Thanks for youre reading,
See you next week!

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141.異説『ブレードランナー』論:1.設計③

2011年05月01日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #03-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 5月ですね!
 GWスタートです!
 なのになしてこっただ寒いかねッ!?
 春が来ないまま梅雨が来そうです。
 それはともかく、忘れてたッ!!
 実を言うと、先週はMFD‐WEBの方を更新する予定だったんですが、シフトの交代やらなんやらですっかり忘れてました。 すまぬ……。つД`)゜。
 で、昨日、更新作業をしました。
 とは言っても、今回は告知だけなのでアレなんですが、次回の更新(注:5/25)では、新作の正式発表をする予定です。
 執筆の方は順調(?)なので、今回は予定通りに連載開始出来そうです。 お楽しみにッ!


 では、今週も連載コーナーからどうぞ。


‐AS‐RadioHead(2011/04/30)‐

 今週のAS‐Radioは、ヘヴィーメタルバンド、Sekshun8特集です。
 1曲目の『Blackwing Butterfly』は、3:39の177。
 2曲目の『Three Blocks』は、3:54の195。
 3曲目の『Hooked』は、4:19の143。
 そして4曲目の『Still Smokin』は、3:30の205。
 いずれも、エッジの効いたギターがクールなバリバリのヘヴィーメタルで、スピードはグリーンからレッドとややバラつきがありますが、縦ブラインドがやや強めでグレイブロックもやや多めなので、難易度は中の上といったトコロ。
 マッチ21は狙い難いですが、上手い人ならニンジャステルスが狙えると思います。
 以上4曲は、5/6まで無料でDL&プレイ可能です。 ASプレーヤーの皆さま、Don’t miss it!!


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ!



<今週の特集>

 今週は、「異説『ブレードランナー』論」の連載第3回です。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


2.製作期限

 原作からの設定変更の原因としてはあまり例がないかもしれないが、製作期間の期限、すなわち締め切りも、原因の一つとして考えられる。
 映画に限った事ではないが、どんな仕事にも締め切りは付いて回る重要な問題であり、絶対に無視出来ない制約である。 小説やマンガ、新聞や雑誌などの活字メディアは特にコレが顕著で、締め切りに間に合わせるためにカットや簡略化はよくある事で、もっとヒドい場合は、最悪“原稿落ち”という事になりかねない。
 ……まあ、中には原稿落ちをある種のステータスと捉え、大物ぶってる作家も少なくないが……。
 それはともかく、映画でもこれは同じで、限られた時間の中で最高のモノを作らなくてはならない。
 が、映画の場合は延期や原稿落ちは許されない。 何故なら映画の場合、その映画に携わっているキャストやスタッフの拘束期間を延期する必要があるワケで、その分の言わば“残業代”を支払う必要があるからだ。
 残業代を支払う対象となる人員が一人や二人程度ならば、ロスも微々たるモノなので目をつむる事も出来よう。 しかし、映画は最低でも何十人、何百人、時には何千人もの人手を必要とし、その人件費だけでも膨大なコストが掛かっている。 これに、“残業代”が加算されてしまうと明らかに予算オーバー、すなわち一般企業でいうトコロの“倒産”という事になってしまう。
 映画とは産業であり、映画製作とは、時限的な起業と言える。 映画製作が企業経営と同義であるなら、倒産などは絶対にあってはならない事なのだ。
 もちろん、出資者たるスタジオやスポンサーの承諾を得られれば、追加予算(注:追加融資)が受けられ、延期も不可能ではない。
 が、それでも映画館や観客の信頼や興味を失う事は避けられない。 映画館には公開スケジュールというモノがあり、次に公開する映画が既に決まっている。 一本の映画が延期になったからと言って、予定通りに製作された次の映画を延期する事など出来ないのだ。
 映画『ブレードランナー』では、製作中に既に予算オーバーが確実となり、製作期間の延長は不可能だった。 そのため、最後に撮影されたロイが死ぬシーンは、夜間撮影が夜明け間近まで続けられ、結局撮影が終了しないままタイムアップとなり、妥協を余儀なくされた。
 映画『ブレードランナー』の製作は、常に予算と時間の制限との闘いだった。(注:ただし、その後の試写会の結果が思わしくなかったため、スタジオ側の決定でハッピーエンディングのシーンを追加撮影する予算が追加されている)


3.技術不足

 主に技術的な間違い、いわゆるテクニカル・エラーの原因になる事が多いが、SFやホラーなど、特殊効果が多用される映画では、技術的な問題からカットや簡略化、設定変更の原因にもなり得る。
 特撮技術の歴史は驚くほど古く、映画黎明期の20世紀初頭にはすでに存在しており、1902年の『月世界旅行』にその期限を求める事が出来る。
 映画における、“フィルムを切ってつなげる”という編集技術を応用し、画面から人物が消えたり、逆に突然現れたりするという映像は、当時極めて画期的なモノであった。
 いわゆる“トリック撮影”と呼ばれるこの特撮技術は、より斬新な映像を、より面白い映像を作り出そうと様々な技法や特撮用の装置が考案、実用化され、1920年代までには、マットペインティングやミニチュア撮影、ストップモーションや多重露光など、オプチカル合成を除くほとんどの特撮技術が実用化され、映画『ブレードランナー』が製作される1980年代前半まで主要な特撮技術として利用されていた。(注:中には、後のオプチカル合成の登場で淘汰されてしまったシュフタン技法という技術もあった)
 1960年代から80年代にかけて、オプチカル合成(注:いわゆるブルーバック)やステディカム、モーションコントロールなどの技術が確立し、コンピュータテクノロジーを利用した完成度の高い特撮が実現出来るようになったが、基本的な技術は、20年代の頃と何ら変わる事はなかった。
 1990年代に入り、映画『ターミネーター2』や『ジュラシック・パーク』によって、80年代まではまだ実験的な利用でしかなかったCGI(注:コンピュータ・ジェネレイテッド・イメージの略。 日本では、“CG”という略語が先行して広まってしまったためコンピュータ・グラフィックスと混同されてしまったが、CGは本来2Dの静止画、及びアニメーションを指し、3Dの方はCGIと呼び、区別される。 近年、日本では2DのCGを“デジタルペイント”、あるいは“デジ絵”と呼び、区別する事が多い)の有用性が実証され、特撮技術はその主流をCGIへと移行していく。
 その効果のほどは、実写と見紛うばかりのリアルなCGIの登場で、映画の技術不足による“映像化不可能”は無くなったのではないか? と思えるほどである。
 しかし、『月世界旅行』の時から、技術不足によるシーンのカット、あるいは簡略化は、極当たり前に行われていた。
 映画『月世界旅行』と同じ1902年、それ以降、何度となく映画化される事になるルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』の最初の映画化作品では、冒頭のアリスが地面に開いた穴に落ちるシーンが、落下ではなくトンネルを潜り抜ける設定に変更されているし、原作でも極めて印象的なキャラクターであるチェシャ猫の登場シーンでは、ホンモノの猫がトリック撮影で消えたり現れたりするだけで、原作のように目や口だけが何も無い空間に現れるという描写が無い。
 また、ラストもアリスが叫んでトランプ兵がただのトランプになって散り散りに吹き飛ばされるシーンも無い。 当時の特撮技術では、いずれも撮影不可能だったからだ。
 1970年代、77年に公開された『スターウォーズ』は、モーションコントロールカメラが初めて使用された作品であり、極めて完成度の高い映像に観客は熱狂した。
 しかし、実際には1作目(注:いわゆる旧三部作の1作目。 『エピソードⅣ:新たなる希望』の事を指す)の時点で、実はジャバ・ザ・ハットが登場するシーンが加わるハズだった。 実際、ジャバと口論するハン・ソロの実写プレートが撮影され、これにジャバを合成するハズだったが、結局技術不足でジャバを合成する事が出来ず、このシーンは20年後に製作された特別編のリリースまでお蔵入りする事になってしまう。(注:そのため、ジャバは『エピソードⅥ:ジェダイの帰還』が初登場になった)
 1980年代、映画『ブレードランナー』と同じ82年に公開された映画『E.T.』でもこれは同じで、技術不足のため特撮が上手く行かず、実写プレートが撮影されただけで未完成に終わったシーンがいくつかあり、20年後の20周年記念版にてCGIで作り直されるまで、お蔵入りを余儀なくされた。
 映画『ブレードランナー』では、技術不足によるテクニカルエラーがいくつか発生しているが、これが原因でシーンのカット、あるいは簡略化されたという事は事実上無いようだが、CGI全盛時代の今日においても、映像化不可能は存在する。 技術不足と言うより、技術はあっても先に述べた金銭的、時間的制約によって不可能になってしまう事も多いが、どんなに革新的な技術であっても、新しい技術が出来る度に、ヒトのイマジネーションは常にその一歩先を行ってしまうからだ。
 映画の特撮技術とは、つきつめればヒトのイマジネーションの具現化であり、ヒトに想像力という能力がある限り、決して終わる事のないイタチゴッコなのである。


4.上映時間

 金銭的、時間的、あるいは技術的問題が解消されても、映画にとって常に大きな問題として極めて厳しい制約になっているのが、上映時間の問題である。
 本来、映画には上映時間に関する決まりというのは存在しない。 戦前、サイレント時代の映画は、そのほとんどが現在では短編に分類される程度の1時間前後のモノか、あるいは2時間を大幅に超える超長編かのどちらか(注:前者は主にハリウッドの娯楽映画。 後者は主にヨーロッパの芸術映画で、かなり両極端だった)で、戦後になって2時間という時間枠が一般的になったが、それでも20~30分程度の短編から、3時間をゆうに超える超長編まで様々で、2時間という枠組みは、飽くまでも目安でしかない。
 もちろん、中には5時間とか6時間とか、15時間(!)とか、実験映画になるが、上映時間240時間(!?)という、もう何がなんだかな作品(注:飽くまでも実験作品なので劇場公開はされていない。 2011年3月に開催されたヘルシンキの映画祭で上映された)もあったりするが、現在(注:戦後という意味で)の映画は、2時間という上映時間が一つの目安となっており、ほとんどの映画がこれに合わせて製作、編集されている。
 しかし、この時間枠の制約のために、映画はしばしばカットや簡略化を余儀なくされる。
 最も分かり易い例を挙げるなら、シェークスピア4大悲劇の一つ、『ハムレット』がその良い例と言えるだろう。
 本来は舞台演劇であるこの作品は、シェークスピア作品の中でも『ロミオとジュリエット』と並んで非常に人気の高い作品で、舞台版やミュージカル版はもちろんの事、これまでに幾度と無く映画化がなされてきた。
 1948年にローレンス・オリヴィエの監督によって映画化されたバージョン(注:これが初めてというワケではない。 これ以前に、1900年、1908年、1920年にも映画化されたバージョンがある)では、アカデミー賞5部門、ゴールデングローブ賞2部門、ヴェネツィア国際映画祭グランプリなど数多くの賞に輝き、現在も名作として高い評価を得ている作品だが、上映時間は155分“しか”ない。
 1964年のグレゴリー・コージンツェフ監督のバージョンは140分。 1969年のトニー・リチャードソン監督のバージョンは117分。 1990年のフランコ・ゼッフィレッリ監督のバージョンは130分。 いわゆるインスパイアモノになるが、同じく1990年のトム・ストッパード監督の『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(注:超傑作! 『ハムレット』に登場する二人の脇役キャラ、ローゼンクランツとギルデンスターンを主人公にしたモノで、ストッパード監督自身が原作小説と舞台版を手がけており、映画版ではゲイリー・オールドマン、ティム・ロス、リチャード・ドレイファス、そして、当時映画ではほとんど無名だったイアン・グレンなどが出演し、ヴェネツィアでグランプリを獲得するほど高い評価を得た作品。 ……しかし、日本では現在ソフト版が絶版状態で観る事が出来ない。 ナゼだッ!? 超傑作なのにッ!!)は、117分“しか”ない。
 日本では、かの黒澤明も1960年の『悪い奴ほどよく眠る』というインスパイア作品を撮っており、舞台では浅利慶太率いる劇団四季がミュージカル版と戯曲版(注:ミュージカル版はレギュラー公演だったが、戯曲版は創立記念公演として限定公演された。 1993年の公演はNHKで放送され、2008年の公演はDVD化されている)の公演を行っているが、いずれも170分程度である。
 しかし、1996年に公開(注:日本では1998年。 映画『タイタニック』の公開後)されたケネス・ブラナー(注:映画『ハリー・ポッターと秘密の部屋』のギルデロイ・ロックハート先生、と言えば、分かる人も多いかな?)の監督/主演による映画版(注:出演は他に、ケイト・ウィンスレット、ロビン・ウィリアムス、チャールトン・ヘストン、さらにはSir・リチャード・アッテンボローという超豪華キャスト)は、これらを遥かに超える242分(4時間2分)という大変長い作品になっている。
 が、実はこれが、本来の上映時間である。
 シェークスピアの原作は非常に長く、全5幕、20場構成という超長編で、シェークスピアの数ある著作の中でも最も長く、原作にある全シーン、全セリフを完全ノーカットで再現するとフツーに4時間ぐらいはかかってしまうモノで、先に挙げたブラナー版以外のバージョンは、全て何かしらのシーンがカット、あるいは簡略化された短縮版なのである。
 シェークスピアの原作は、1600年から1602年頃に書かれたとされているが、それから実に364年もの歳月をかけてようやく、本来のシェークスピアが意図したモノの完全再現映画版が製作/公開された事になる。
 しかし、考えてもみてほしい。 アナタが映画館に行ってこの映画を観るとして、4時間もの間、大人しく席に座り続けている事が出来るだろうか?
 原作、あるいは舞台のファンでもない限り、4時間もの間客席に座り続ける事を強要されるなど、拷問以外の何物でもない。(注:ブラナー版では、これを避けるために2幕構成に構成し直し、休憩時間を挟んで上映された)
 また、上映時間4時間という事は、1日24時間、休み無く上映し続けたとしても、1日の上映回数は6回が限界。 これが2時間のワクに収まっていれば、上映回数は単純に倍化し、より多くの観客に映画を観せる事が出来る。 結果、チケットの売り上げは倍増する。(注:ただし、実際には上映と上映の間に観客の入れ替えや清掃作業が入るので、単純に2倍というワケではない)
 商業的な観点から見れば、上映時間は短ければ短いほど良いという事になり、ココにもまた、出資者の思惑と芸術家の意図の対立が付きまとうワケだ。
 この対立を避けるため、映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作では、劇場公開版の上映時間を3時間を上限(注:ただし、第3部の『王の帰還』のみ3時間20分)とし、多くのシーンをカット、あるいは簡略化した。
 そして、出資者の思惑と芸術家の意図の折衷案たるDVD版にて、劇場公開版ではカットされたシーンを戻したエクステンディッドバージョンが再リリースされた。
 ちなみに、劇場公開版は三部作合計で9時間20分だが、エクステンディッド版はそれよりも2時間以上長い11時間半になっている。 『ロード・オブ・ザ・リング』は、三部作合計とはいえ、映画丸々1本分ものシーンがカットされていた事になる。(注:ちなみに、エクステンディッド版でもカットされたシーンが原作にはある)
 2011年、1作目の公開から実に10年の時を経てようやくシリーズ完結編が公開されたJ・K・ローリングの世界的大ベストセラー小説の映画化作品、『ハリー・ポッター』シリーズでもこれは同じで、原作はハードカバーのしかも上下2巻分冊、それが第7部まである非常に長い作品である。 これを全て映画化しようとすると、どんなに少なく見積もっても、1本当り5~6時間は当たり前になってしまう。 そのため、同シリーズではストーリーの主軸だけに焦点を当て、主軸から外れるシーンを全てカットし、可能な限り短くする方法で映画化された。
 映画『ブレードランナー』では、最初から2時間枠に収められるように製作するために、原作にあった設定やキャラクターの大半(注:マーサー教、エンパシー・ボックス、ムード・オルガン、バスター・フレンドリー、ガーランド警視、アームガード・ベイティー、イーライ・デッカードなど)がことごとくカットされ、改変された脚本とストーリーボードに描かれた一部のシーン(注:6人目のレプリカント)は未撮影に終わり、撮影されたにも関わらず、後の“モノローグ”と“ハッピーエンディング”の追加のためにいくつかのシーン(注:入院中のホールデンをデッカードが見舞うシーン、及びその様子をブライアントとガフが監視しているシーン、街の風景の一部など)がカットされた。
 これらのミッシングシーンは、後にフィルム素材が発見され、現在はDVDの特典映像として観る事が出来るが、上映時間の制約は、現在でも出資者の思惑と芸術家の意図の対立によって厳しい制約になっている。
 ちなみに、映画『ブレードランナー』にはかつて、上映時間3時間のロングバージョンがあるというウワサが実しやかに囁かれた事があったが、これは全くの間違いである。 そのような編集版が存在した事実はなく、上記のミッシングシーンを戻しても、公開版と重複しているショット(注:別アングル、もしくは別テイク)も含まれているので、これを除くとせいぜい2時間20分程度にしかならない。
 いずれにせよ、映画は出資者の思惑と芸術家の意図が対立した結果、上映時間の短縮を余儀なくされ、2時間というワクに押し込められるのである。


5.メディアの置き換え

 小説と映画には、根本的で決定的な違いがある。 それが、“メディアの違い”である。
 小説は、文字と記号の羅列たる“活字メディア”であり、映画は映像化された“視覚メディア”である。 音声の有無は無関係だ。 映画に音声が必須なら、サイレント映画は映画ではない事になってしまう。
 この、“活字の視覚化”という命題を課せられた原作付映画には、この変換プロセスが必須であり、映画クリエーターは、常にこの問題に悩まされる事になる。
 先ほどの上映時間の問題にも多少引っかかるが、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の第一部、『旅の仲間』の中ほどにあるエルロンド卿の館の会議のシーンは、物語りの中心となる9人の旅の仲間が集結する重要なシーンだが、原作のこのシーンは、実に数十ページに及ぶ非常に長いシーンで、これを完全に再現しようとすると、それだけで30分近い時間を取られてしまう。 が、登場人物が延々と話しているだけのシーンは、視覚的な動きが少なく、小説では成功していても映画にすると助長なだけの退屈なシーンになってしまい、観客を飽きさせてしまう。
 これを避けるために、映画ではこのシーンがかなり簡略化され、数分程度にまで短縮された。 結果、映画全体のテンポが良くなり、活字の視覚化に成功した例と言える。
 映画『ダ・ヴィンチ・コード』も、これとは異なる方法で成功した好例だ。
 世界中で一大センセーションを巻き起こしたこの映画の原作には、キャラクターが歴史的事実を延々と語るシーンが結構多い。 これをそのまま再現してしまうと、先の『ロード・オブ・ザ・リング』と同様、単調で退屈なシーンになってしまう。
 そこで、『ダ・ヴィンチ・コード』では“語り”の背景に古代ローマや十字軍の再現映像を取り入れ、視覚的な単調さを解消する事に成功した。
 小説とは活字メディアであり、文章を読ませる娯楽である。 視覚情報がない分、読者にはある程度以上の想像力が要求されるが、視覚情報に囚われない分、上記のような長い“語り”のシーンでも成功する。
 しかし、映画は映像メディアであり、視覚情報を中心に構成される娯楽である。 そのため、視覚的に単調なシーンは観客を飽きさせないようにある程度の簡略化、あるいは視覚的に単調にならない斬新なアイディアが必要なのである。
 これとは逆に、映画では成功しても小説では失敗してしまうシーンというのもある。 アクションシーンがそれだ。
 映画『ダイ・ハード』シリーズや『スピード』シリーズを例に持ち出すまでもなく、映画におけるアクションシーンの重要性は、小説とは比べ物にならないほど高く、また視覚メディアの真骨頂とも言えるモノである。 何故ならアクションこそがアクト(注:act)、すなわち“演技”の原点だからだ。
 映画黎明期のサイレント時代、アメリカに移民としてやってきてハリウッドで大成功を収めた“喜劇王”、チャーリー・チャップリン。
 俳優であり映画監督でもある彼の初期の作品は、現在では再現不可能なアクションシーンに溢れた作品が多い。
 自らの体験を基にした『移民』という作品では、移民船の食堂で大波に激しく揺れる中、チャップリンが右へ左へ画面狭しと床を滑るアクションシーンがある。
 ホームレス生活をコミカルに描いた『犬の生活』では、チャップリンを追いかける警官とのやり取りをコミカルなアクションで描き、ノラ犬の集団から一匹の犬を助けるシーンでは、10頭以上の犬にもみくちゃにされるというスタントを演じている。
 いずれも代役無し。 チャップリン本人が演じているアクションシーンである。
 そもそも、サイレント時代はセリフに頼る事が出来ないため、肉体を使ったフィジカル・アクト(注:身体の演技)が重要視されていたため、というのもあるが、バスター・キートンやジェリー・ルイスにしてもこれは同じで、後の『ピンク・パンサー』シリーズや『モンティ・パイソン』シリーズのようなコメディ映画へと受け継がれ、コメディ=アクションの等式を成立させたのは疑いようのない事実である。
 コメディ映画が衰退期を迎える事になる1970年代以降は、格闘戦や銃撃戦、カーチェイスや爆破を主体としたいわゆる“アクション超大作”が台頭を始めた時代である。
 映画『007:ジェームズ・ボンド』シリーズは、まさにアクション超大作時代の到来を世に知らしめたと言えるだろう。
 最も、より大規模なアクションシーンを実現するために、映画の製作規模がシリーズを追う毎に膨らみ続け、失敗出来なくなっていったのはある種の皮肉と言えるかもしれないが……。
 それはともかく、映画批評家の中には、アクションシーンを「ドラマがない」、「時間のムダ」と断じて否定する向きも多いが、前出の『ハムレット』のクライマックスシーンは、ハムレットとレアティーズの決闘シーンだ。 で、あるならば、アクションとはやはり、アクトの原点であり、視覚メディアたる映画の真骨頂なのである。
 しかし、活字メディアである小説では、アクションを表現するのが極めて難しい。
 例えば、映画『マトリックス』。 この映画のあまりにも有名なアクションシーンの一つである“バレットタイム”。 あれを、文章で表現しようとした場合、正確に文章化する事が出来るだろうか?
 不可能である。 言語が何であれ、ネオが上半身を大きくのけぞらせて銃弾を避ける様子を正確に読者に伝わるように文章化する事など出来ない。
 しかし、映画ならばそれが可能である。 カーチェイスや銃撃戦、爆破など、程度や規模に違いはあるだろうが、実際にやって、それを撮影すればいいだけの話しだ。
 アクションシーンではないが、映画『ブレードランナー』でもこれは同じで、文章ではどれだけ細かく描写しても表現不可能な未来世界たる2019年のLAの街並みを、これ以上にないほどのリアリティとクォリティで視覚化する事に成功した。
 とは言え、この映画だからこそのメリットは、逆に映画にとっての厳しい制約になる事も少なくない。 アクションが主体の現在の映画では、アクションシーンは最早必須の領域にあり、当然あるべきアクションシーンがないと、観客は映画に対して“物足りない”という評価を下してしまう。
 そう、映画の評価を上げるためには、観客が期待するアクションシーンをしっかりと観せなければならないのだ。
 前出の『007:ジェームズ・ボンド』シリーズはこれが顕著で、一作目の『ドクター・ノオ』からシリーズ作品を順番に観ていくと、回を追う毎にアクションシーンの規模がどんどん大きくなっていくのが分かる。 観客の期待に応えようと、前作を超えるアクションシーンを構成する必要があったからだ。
 そしてそれは、原作にアクションシーンがなくても同じである。
 映画『ブレードランナー』の原作小説には、実はアクションシーンがほとんどない。 強いて言えば、デッカードがマックス・ポルコフを“回収”するシーンが唯一“アクション”と呼べるアクションシーンである。
 小説には、リオンとの肉弾戦やプリスのアクロバット、ロイとの追跡劇はもちろんの事、ゾーラの死のダンスすらない。 小説における“回収”シーンは、拍子抜けなほどアッサリしている。 何故なら小説は、アクションシーンを正確に読者に伝わるように表現する事が難しいメディアだからだ。(注:その代わり、小説ではキャラクターの心理描写や世界観設定の説明、そしてキャラクター同士のドラマにページが費やされており、映画よりもドラマ性の深い構成になっている)
 対して映画では、原作通りのアッサリしたアクションシーンでは観客が満足してくれない。 そのため、映画では“回収”に重点を置き、小説にはないアクションシーンが構成された。 結果、アクションシーンにかなりの時間を取られてしまい、2時間枠に収まらなくなってしまったので、他のシーンをカットしたり簡略化するなどされたワケだ。
 映画は視覚メディアであり、観せる事が重要なメディア(注:“語るな、観せろ”)だが、それが逆に制約となり、現在では“観せなければならない”メディアになっているのは、映画が映画であるためには致し方の無い事なのだと、筆者は考える。


 以上のように、小説を映画化する際には、活字メディアと視覚メディアという根本的な表現メディアの違い、並びに映画製作に伴う金銭的、時間的、技術的制約により、設定やシーンの変更、カット、簡略化が必要になる事がほとんどである。
 しかし、それとは関係なく、原作を完全に無視したとしか思えないような悪質な改変が度々見受けられるのも、また事実である。
 俗に言う“原作レイプ”である。
 映画『スーパーマン』や『バットマン』、『X‐メン』、『スパイダーマン』など、原作が既に40年以上の歴史(注:最も古い『スーパーマン』は、1938年に誕生)を持つ事が多いアメコミヒーローモノなどは、キャラクターや世界観が共通しているだけで、ストーリーは映画だけの完全なオリジナルになっている事が多いが、これはもうどうしようもない事である。 何せ、40年~60年もの長い歴史を持っている原作を忠実に再現するなど、上映時間が1000時間あっても全く足りない。 なので、原作のテイストを上手く抽出したオリジナルストーリーにする必要がある。 そのため、これらは原作にあまり忠実でなくても、“原作レイプ”などとは呼ばれないのだ。
 しかし、ヒドいのは日本のゲームやアニメ、コミックが原作のハリウッド映画版だ。
 比較的早い時期に映画化された『スーパーマリオ』や『ストリートファイター』は言うに及ばず、『バイオハザード3』(注:3作目のみ。 それ以外は、比較的上手く映画化されている)や『鉄拳』、『北斗の拳』等々。 最も最近の例である『ドラゴンボール・エボリューション』では、原作者であり映画の製作総指揮としてもクレジットされている鳥山明本人が、「マンガとは別物」と言い切ってしまったほどの改変がされ、映画は大失敗に終わった。 当初は続編の話しもあったが、恐らくもうムリだろう。
 さらに言うなら、『ゴジラ』や『マッハGo!Go!Go!』のハリウッドリメイク版もかなりヒドい。 文字通りの“全くの別物”である。
 黒澤明の『七人の侍』や『用心棒』のハリウッドリメイク版は名作になってるのに、ナゼにアニメやゲームだとこんなコトになってしまうのだろう?
 ……とか考え始めると夜も眠れなくなってしまうので考えない方がいい。 もう“そういうモノなんだ”と思うしかない。
 もちろん、こうした改変も先の様々な制約のために必要に迫られて行われたモノもあるだろうが、原作への不理解や誤解、あるいは民族的な偏見や気質、もしくは“ハリウッドシステム”と呼ばれるハリウッド映画独自の映画製作プロセスの欠点など、様々な要因が複雑に絡み合った結果、原作の持つポテンシャルを台無しにしてしまうのかもしれない。
 では、映画『ブレードランナー』の場合はどうか?
 先に記した通り、小説と映画は実に様々な点で多くの相違が認められ、ストーリー展開にも大きな違いが見られる。
 しかし、それでもなお、映画『ブレードランナー』は、意外にも原作に忠実な作品と言える。
 例えば、映画の前半部にあるデッカードがレイチェルにVKテストを行うシーン。 これは、原作にも映画とほぼ同じ構成で存在するシーンである。 デッカードの質問事項の内容や、レイチェルの「これはレズビアンのテストなの?」というセリフまで同じである。
 劇場公開版で問題になったモノローグとハッピーエンディングだが、皮肉にも両者とも原作に存在する要素である。
 モノローグは、キャラクターの心理描写として一人称視点で表現(注:ただし、デッカードの視点のみに限っていない)されているし、ハッピーエンディングは、「カナダの方にはまだ緑が残っている」という記述がある。
 さらに、これまで長い間議論の対象になってきた“デッカード=レプリカント論争”も、小説にはそれを示唆する記述がいくもあり、加えてデッカードがVKテストを受けるシーンまである。
 そして何より、小説のメインテーマである“現実とは何か? 人間とは何か?”というテーマも、映画でも(多少語り口を変えてはいるが)しっかりと語られているのである。
 小説も映画も、メディアの違いはあってもストーリーとテーマを語るという点においては同じ娯楽であり、メディアの違いに関係なく、これは共通させる事が可能な最重要要素であり、これさえ間違えていなければ、たとえ原作に忠実でなくても、“原作レイプ”などとは呼ばれないのだ。
 重要なのは、ストーリーが物語るテーマであり、芸術家の意図たるメッセージなのだ。 これさえ間違えていなければ、たとえ見た目がどんな姿になったとしても、作品の本質は変わらないのだから、何にも問題は無い。 逆に問題なのは、見た目の違いにばかり気を取られ、作品の本質たるテーマやメッセージを見落としてしまっている観客、すなわち“映画を正しく観れない人”が、あまりにも多過ぎるという事だ。
 映画『ファイトクラブ』はただの暴力映画ではないし、映画『エクソシスト』は、ただのオカルト映画ではない。 アニメ『ひぐらしのなく頃に』だって、ただの連続殺人ミステリーでは決してない。 興行的にも評価的にも大失敗に終わった『ファイナル・ファンタジー』にしたって、筆者は原作であるゲームの『ファイナル・ファンタジー』シリーズ(注:特に『FFⅦ』)のテーマを上手く抽出した良作と評価している。 原作に忠実である事だけが、原作付映画の唯一絶対の道ではないのだ。
 その意味においては、映画『ブレードランナー』は、原作のテイストを上手く抽出して映画化された好例と言えるだろう。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週は、『ヘタレゲーマークロニクル・ムービー版』の2011年5月号をお送りする予定なので、「異説『ブレードランナー』論」はお休みです。 予めご了承下さい。
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


マントマントマント。

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 01式と同じく、個性豊かでハイクォリティな装備品が多数追加される。 場所は、01式のすぐ隣りなので分かり易いと思う。
 この“YUUNAGI”には、ナゼかアッパーがないので“YUKIKAZE”で代用。 ただし、その代わりに専用のマントがある。 ちょっとレトロな軍隊風。 ガンダムとかに出て来そう。(笑)
 ガントレットとブーツは、デザイン違いのバリエーション有り。


Thanks for youre reading,
See you next week!

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140.異説『ブレードランナー』論:1.設計②

2011年04月24日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #02-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週も、急なシフト交代があったので時間がありません。
 なので、オープニングトークなしでとっとといきます!


‐AS‐RadioHead(2011/04/23)‐

 今週のAS‐Radioは、先週に引き続きValve社の最新タイトル、『Portal2』とタイアップした特別仕様版です。 楽曲、仕様、共に先週と同じなので、まだ未プレイの方はお早めにどうぞ!


 ……って、以上かいッ!
 ちょっとぐらい変化を付けてくれ運営様。
 しょうがないので、以上今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ。



<今週の特集>

 今週は、「異説『ブレードランナー』論』の連載第2回。 前回の続きです。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


‐登場人物‐

 映画には、小説と共通したキャラクターが多数登場するが、そのほとんどが名前が共通しているだけで、細部の設定は多くの点で変更されている。 中には、名前さえも変更されているキャラクターも少なくない。
 ココからは、小説に登場する主要なキャラクターとその設定、及び映画のキャラクターとの相違点を検証していく。
 ちなみに、記述順は小説の登場順に準拠しているが、人間とアンドロイドを分けるために、一部順番を入れ替えているキャラクターもあるのでご了承頂きたい。
 また、ココからは箇条書きではなく、キャラクター毎にまとめて相違点を書き出していく。


1.共通して登場するキャラクター

 まずは、映画と小説に共通して登場するキャラクターから。
 キャラクター名は小説での名前を基準とし、解説にて相当する映画のキャラクターを特定している。


・リック・デッカード

 主人公は映画と同じくデッカードだが、人物設定は大きく変更されている。
 まず、映画ではデッカードは離婚した事になっていたが、小説では離婚しておらず、奥さん本人も重要なキャラクターとして登場する。
 また、映画では引退した元ブレードランナーという設定だったが、小説では現役バリバリのバウンティ・ハンターで、しかもかなりやる気満々である。 映画のように、仕事と私生活に疲れたやる気の無い中年男という雰囲気はない。
 さらに、映画では常に議論の中核を担ってきた“デッカードはレプリカントか否か?”という要素は、小説では映画以上に重要なウェイトを占めており、デッカードがVKテストを受けるシーンがあるほど。 映画と同様、小説でも両者の可能性を残したまま明言は避けられているが、ラストシーンの奥さんのセリフは、デッカードがアンドロイドである事を示唆していると考えられる。(注:詳細は後述)


・J・R・イジドア

 映画のJ・F・セバスチャンの相当するキャラクター。
 映画のセバスチャンは、タイレル社でレプリカントの手を専門に設計する優秀な技術者で、早老症(注:主に先天性の染色体異常により、老化現象が実年齢よりも早く進んでしまう病気。 直接的な死因は病気によるモノがほとんどだが、実際には患者は実年齢に関係なく老衰で死ぬ。 セバスチャンは25歳という設定だったが、実際には早老症が発病すると、成人を向かえる前に亡くなるケースが多い。 ウェルナー症候群、ダウン症候群など、複数の症例が報告されているが、全体の数はかなり少なく、中々研究が進まないのが現状で、もちろん治療法も確立されていない)のために地球に残っているという設定だが、小説のイジドアはヴァン・ネス動物病院という人工動物専門の動物病院で、運送車のドライバーを勤めているという設定。 知能指数が低く、“マル特”に指定されたために移住が許されないという設定である。 緊張するとどもるクセがある吃音症でもある。
 人気の無いビルで一人暮らしをしていたり、止むに止まれずアンドロイドたちに協力するという点は相違無し。
 ただし、セバスチャンのように趣味で“おもちゃ”を作っているワケではないので、部屋が“おもちゃ”で溢れかえっているワケではない。
 その代わり、イジドアの部屋はキップル(注:人気の無い部屋がどこからともなく飛んでくるホコリやゴミに埋まっていく事。 またはゴミそのモノの意。 映画の街中やブラッドベリ・ビルなど、至るトコロにゴミが散らばっているのがそれ)で溢れかえっており、おおよそ人が住むような部屋ではないようだ。


・ハリー・ブライアント

 デッカードの直接的な上司という点で、ブライアントの役柄にはこれといった設定変更は見られないが、映画ではレプリカントを“スキン・ジョブ”と呼ぶ口の悪いキャラクターが、小説では特に見られないという変更点がある。 また、映画ではブライアントの階級は“警部”だったが、小説では“警視”になっている。 降格させられとるがな!


・デイヴ・ホールデン

 デッカードの前任者で、名前と共に特にこれといった相違点は認められない。 ただし、映画では物語りの冒頭でいきなりレオンに殺されてしまうが、小説では重症だがまだ生きている事が明記されており、ブライアントが入院中のホールデンを見舞った事も記述がある。(注:映画の方は、飽くまでも完成版での設定。 映画の脚本では、重症を負うもまだ生きており、入院中のホールデンを見舞うシーンが実際に撮影されたが、編集でカットされた。 また、この時見舞うのはブライアントではなくデッカードになっている。 このシーンは、DVDの特典映像で観る事が出来る)
 ただし、小説でのホールデンは、デッカードとブライアントの口からその名前が語られるだけで、ホールデン自身が登場するシーンは一切無い。


・レイチェル・ローゼン

 映画のレイチェル・タイレルに相当。
 エルドンの秘書で姪っ子、そして、自らがアンドロイドである事を知らないという点には相違無し。 ただし、デッカードとの関係は大きく異なり、映画ではデッカードが強引にレイチェルを抱く、という描写がなされているが、小説ではレイチェルの方がデッカードをしつこく誘う、という描写になっている。
 また、ストーリーへの絡みも少なく、役柄としては映画よりも小さい。 もちろん、ラストのデッカードとの愛の逃避行もない。
 ちなみに、小説では18歳(注:飽くまでも見た目の肉体年齢)というかなり若い年齢設定があり、美人だが貧乳(笑)という設定まで付いている。


・エルドン・ローゼン

 タイレル社の社長にしてレプリカントの生みの親である、エルドン・タイレルに相当する。 この点において相違は認められないが、劇中の前半部、しかもワンシーンのみの登場で、アンドロイドに殺されるようなシーンもない。 役柄としては、レイチェルよりも小さくなっている。


・ロイ・ベイティー

 映画のロイ・バティに相当。(注:ラストネームの表記の違いは、翻訳者の解釈の違いによるモノで、英語のスペルに相違は無い。 ちなみに、発音としては映画の方が正しい)
 アンドロイドたちのリーダーという点で相違は無い。 プリスと共にイジドアに協力を強要するという点でも差異は認められない。 ただし、小説では比較的肉体派で、映画ほど頭が良いという印象はない。
 また、物語りの後半になってようやく登場し、しかしデッカードとは映画のような死闘や追跡劇を演じる事なく、意外にアッサリ“回収”されてしまう。 役柄としては極めて小さい。 寿命を迎える事なく“回収”される点も異なる。


・プリス・ストラットン

 映画のプリスに相当。
 映画ではファーストネームだけだったが、小説ではラストネームが設定されている点が異なる。
 イジドアに最初に接触し、自分達に協力するよう仕向けるという点で相違はないが、イジドアを見下しているフシがあり、冷たくあしらう描写もあって、二人の関係は映画ほど親密ではない。 また、ロイとの関係も大きく異なり、ロイに既婚という設定があるため、恋愛関係は全くない設定になっている。
 物語りの前半から登場し、役柄としては映画と同様に比較的大きい。


・マックス・ポルコフ(サンドール・ガタリィ)

 映画のリオン・コワルスキーに相当。
 ガタイが良く肉体派という点で相違はないが、小説ではWPOから派遣されてきたサンドール・ガタリィ(注:ロシア人。 ロシア系という点でも相違はない。 余談だが、“ガタリィ”というラストネームは、PSゲーム『クーロンズ・ゲート』の元ネタか?)という捜査官に成りすまし、デッカードを殺そうとする中々の知能犯。
 映画では、デッカードが最初に“回収”するのはゾーラだったが、小説ではポルコフが最初になっている。 また、映画ではそのゾーラとリオンの関係を匂わせる描写があるが、小説では他のアンドロイドと一緒にいるシーンが一切なく、一匹狼的なキャラクターになっている。


・ルーバー・ラフト

 映画のゾーラに相当するキャラクターだが、設定は名前も含めて大きく異なる。
 ゾーラは、チャイナタウンにあるタフィ・ルイスのバーで、デッカードが思わず目を背けてしまうような、ヘビを使ったかなりイカガワしいダンスを披露するストリップダンサー(注:芸名はミス・サロメ)だが、ラフトはオペラ歌手という設定になっており、デッカードが思わず感動してしまうほどの素晴らしい歌声を披露するシーンがある。 また、バーの代わりにゴージャスなオペラ劇場が登場する。
 デッカードが楽屋に押しかけるという点に相違は無いが、小説ではデッカードは身分を偽っておらず、映画のようなハードなスタントシーンもない。 当然、ヘビも出てこない。
 もうひとつ、小説ではドイツ系という設定が与えられている。
 ちなみに、原作者のディックは、クラシックや絵画を好み、終生芸術を愛したそうだ。 ラフトが登場するシーンのクラシックや絵画の詳細な描写は、その表れと言えるだろう。


・フィル・レッシュ

 映画には正確に相当するキャラクターが登場しないが、強いて言えばガフに相当するキャラクターである。
 ガフは、新人のブレードランナーでデッカードを監視するキザで皮肉屋なダテ男という設定だが、レッシュはデッカードとは所属の異なるバウンティ・ハンターで、しかもかなりのウデ利きという設定。 デッカードと共にラフトの“回収”をする。
 しかし、本当は記憶を操作されたアンドロイドで、最終的には自殺し、デッカードに“回収”される。 また、デッカードにVKテストを行う極めて重要なキャラクターでもある。
 小説には、レッシュ以外にもジョージ・グリースンというバウンティ・ハンターが名前だけ登場する。


 以上が、映画と共通するキャラクターの設定の相違点である。
 ココに挙げた以外で映画に登場する主要なキャラクター、すなわちスシ・バーの店主のボブ・オカザキ、レプリカントの目を設計、制作している中国人技術者のハンニバル・チュウ、チャイナタウンのバーのオーナー、タフィ・ルイス、そして、アニモイド・ロウで爬虫類の人工動物を製造、販売しているエジプト人、アブドル・ベン・ハッサンなどのキャラクターは、小説には登場しない映画だけのオリジナルキャラクターである。


2.映画には登場しないキャラクター

 小説には、上記以外にも重要、あるいは比較的役柄の大きなキャラクターが多数登場する。 映画では、簡略化のためにこれらのキャラクターがカット、あるいは他のキャラクターにその要素を組み込む形を取っている。
 ココでは、以下に映画には登場しない、小説だけの主要なキャラクターを書き出していく。


・イーライ・デッカード

 デッカードの妻。
 映画では、デッカードは離婚した事になっており、奥さんは一切登場しないが、小説ではデッカードは離婚しておらず、オープニングとエンディングにおいて、極めて重要なキャラクターとして登場する。
 何事にもやる気が無く、デッカードとの関係も倦怠気味だったイーライが、ラストで仕事に疲れた夫に優しい愛情を見せる描写は、物語りのラストをほんのりとしてラブストーリーで柔らかく締めくくっている。
 しかし、イーライの最後のセリフは、デッカードがアンドロイドである可能性を示唆しているように思えてならない。


・バスター・フレンドリー

 自分の名前を冠したバラエティ番組、“バスター・フレンドリーとフレンドリー・フレンズ”を、TVでもラジオでも持っている大人気コメディアン。
 物語りの後半で、ウィルバー・マーサーがでっち上げられたウソっぱちである事を暴露する重要なキャラクターだが、そう言っているフレンドリー本人もアンドロイドであり、物語りのテーマを構成する重要なキャラクターである。
 ちなみに、アマンダ・ウェルナーや名前だけ出てくるオスカー・フラッグスという番組の準レギュラーを勤めるキャラクターがいるが、彼らもまたアンドロイドである。


・ウィルバー・マーサー(アル・ジャリー)

 マーサー教の教祖。
 いつも頂上の見えない山をひたすら登り続けており、誰が投げたのか、どこから飛んでくるのかも分からない小石を打ち付けられている。
 エンパシー・ボックスによって世界中の信者と意識を共有し、信者に教えを説いているが、物語りの後半において、バスター・フレンドリーによってアル・ジャリーというハリウッドの三文役者である事が暴露される。
 もちろん、マーサーはホンモノの人間だが、フレンドリーと同様、この暴露によって物語りのテーマを構成する重要なキャラクターになっている。
 ちなみに、原作者のディックは自他共に認める大のハリウッド嫌いで、ハリウッドの映画生産システムを心底嫌っていたそうだ。 フレンドリーがマーサーのウソを暴露する行は、まさにその表れと言えるだろう。


・ハンニバル・スロート

 イジドアが勤めるヴァン・ネス動物病院の院長。
 スロートは、人工動物の修理を生業としているが、製造や販売はしていないので、映画のアブドル・ベン・ハッサンのキャラクターとは異なる。(注:ファーストネームだけは中国人技術者のチュウのキャラクターに転用されている)
 登場シーンは1シーンのみなので、役柄としては非常に小さく、物語りやテーマにもあまり関わらない。


・ミルト・ボログローヴ

 イジドアが勤めるヴァン・ネス動物病院の修理工。
 スロートと同じく、人工動物の修理が専門で、製造、販売は行っておらず、もちろん男性なのでデッカードが持ち込んだヘビのウロコを鑑定する老女のキャラクターとは異なる。
 スロートと同様、1シーンのみの登場で、物語りやテーマにもあまり関わらない小さな役柄のキャラクターである。


・ビル・バーバー

 デッカードの隣人。
 2つのシーンに登場するが、特にこれといった絡みはなく、役柄としては非常に小さい。
 ただし、人工ではなくホンモノの動物(注:馬)を飼っており、非常に裕福な身分だと推測出来るが、それでも地球に残っているのはナゼだろう? ……とか考え始めると夜も眠れなくなってしまうので考えない方が良い。(←オイオイ)


・ガーランド警視(ハスキング)

 映画には登場しないアンドロイドの一人。 フィル・レッシュの直接の上司で、デッカードの所属とは異なる警察署の責任者。
 デッカードがアンドロイドである事を示唆する重要なキャラクターだが、デッカードによってハスキングというターゲットのアンドロイドである事を見破られ、“回収”される。
 また、彼が責任者を務めている警察署は、職員のほとんどが彼と同様にアンドロイドで、アンドロイドによって運営されている警察署である。 この事からも、ガーランドが物語りやテーマを構成する重要なキャラクターである事が分かる。
 ちなみに、ガーランドの口調や態度は、映画のブライアントのキャラクターに似ており、設定が切り離されて組み込まれた事が分かる。


・アームガード・ベイティー

 映画には登場しないアンドロイドの一人。 ロイの妻という設定。
 映画では、脚本やストーリーボード(注:絵コンテの事。 ただし、日本でいう絵コンテとは役割りが大きく異なり、書式も日本のように決まりが無い)の段階では設定があり、キャスティングも決まっていたが、撮影開始早々に決定的になった予算不足のため、登場シーンが丸々カットされた“メアリー”というレプリカント(注:6人目のナゾ)がいるが、アームガードは、あるいはこれに相当するキャラクターかもしれない。
 ただし、メアリーは映画の冒頭でイキナリ自然死する最初のレプリカントだが、アームガードはデッカードによってロイ、プリスと共に“回収”される。
 プリスよりも比較的イジドアに好意的で、映画のプリスのキャラクターは、アームガードのキャラクターの方が似ていると言える。 ロイとの関係も、映画のプリスに似ている。


 以上が、小説だけに登場するキャラクターで、上記の通り物語りやテーマを構成する上で極めて重要なキャラクターが多いが、物語りの簡略化のために、映画では已む無くカットされた。
 とは言え、これはある意味正解である。 これらのキャラクターが登場するシーンを映画でも再現していたら、映画『ブレードランナー』は上映時間が3時間を超える非常に長ったらしい映画になってしまうからだ。


 これとは別に、実は小説には、映画のキャラクターと設定が完全に一致するキャラクターも僅かながら登場する。
 それが、アンダースとギッチェルである。
 二人とも、小説で名前だけ出てくるアンドロイドである。
 映画には名前が出てこないが、ホールデンによって“回収”された二体のレプリカントに相当し、彼らもまた、映画と同様に物語りが始まった時点で既に“回収”されているという点で相違点は全く認められない。
 ……まあ、それ以上の役柄はないので所詮ヤラれメカではあるのだが。(笑)


‐相違の原因‐

 それはともかくとして、はなはだカンタンではあるが、以上のように小説と映画の相違点を検証してみたワケだが、ココで読者の皆さんには、ひとつの大きな疑問符が頭に浮かんでいる事だろう。
 すなわち、「ナゼこのような相違が起きてしまうのか?」である。
 この疑問は至極もっともなモノであるし、これが元で、原作付映画の評価や収益が上下するのは確かだ。
 映画『ブレードランナー』が製作された80年代当時のみならず、映画黎明期の20世紀初頭から、デジタルVFXが極めて一般的になった21世紀初頭たる今日に至るまで、100年以上もの間、この問題は常に映画製作者を、そして原作者と観客の頭を悩ませ続けてきた極めて重大な問題であり、にもかかわらず、根本的な解決策は未だに無いというのが現状である。
 ナゼ、このような事が起こってしまうのか?
 それは、映画の製作プロセスが大きく関係するからであり、その原因は、主に以下に挙げる5つの要因が考えられる。


1.予算不足

 最もよくある例がコレである。
 小説とは異なり、映画には予め予算が決められており、どんな映画でもこの予算の枠内での製作が必須である。
 比較的低予算な映画の場合は特にコレが顕著で、予算節約のために原作にある様々な要素がカットされ、全く異なる作品になってしまうのはよくある事だ。 ある要素がカットされたために合わなくなってしまったつじつまを無理矢理合わせなければならなくなるからだ。
 比較的大規模な予算が組まれる、いわゆる大作系映画(注:もっとも、その線引きは決して明確ではないが)でもこれは同じで、予算節約のためにシーンのカット、あるいは簡略化はよくある事だ。
 もちろん、大作系映画の場合は予算にモノを言わせて大規模なセットを組んだり、複雑なスタントシーンに大金を注ぎ込む事はよくある事だし、それがなければ“大作”とは呼べないのも、また事実である。
 そのため、これら映画の“目玉”となるシーンのために、これ以外のシーンのカットや簡略化が行われるのは、面白い映画を作るためには致し方の無い事なのである。
 映画『ブレードランナー』でもこれは同じで、“6人目のレプリカント”になるハズだったメアリーが登場するシーンは、映画のオープニングを飾る印象的なシーンになるハズだったが、予算不足のため丸々カットされた。 結果、セリフのつじつまが合わなくなり、長い間観客に誤解されたまま議論の対象となり、最終的に映画の続編小説(注:しかも3作も!)が出版されてしまう事になる“6人目のナゾ”が生まれたワケだ。
 もちろん、明らかにお金の使い方を間違えている“予算不足”な作品があるのも確かだ。
 映画『ブレードランナー』に端を発する80年代から90年代前半の新しいSFジャンルとしての“サイバーパンク”ムーブメントを代表する作家、ウィリアム・ギブスンは、映画『ブレードランナー』に強い影響を受けた作家の一人であり、この影響から小説『運び屋ジョニー』を発表する。
 この作品は高く評価され、90年代になって『JM』というタイトルで映画化もされている。
 キアヌ・リーヴス、ドルフ・ラングレン、アイス‐Tに加え、当時既に日本を代表する映画監督として海外でも高い評価を得ていた北野武が、日本人のヤクザ役で役者として出演。 豪華なキャストを揃えた本格的なサイバーパンク映画になる……ハズだった。
 しかし、明らかに予算の使い方を間違えている。
 キャストのギャラにお金を使い過ぎたため、セットや小道具は妙に安っぽさが目立ち、明らかに映画『ブレードランナー』のオープニングを意識した未来都市の遠景は、ミニチュアではなくCGIで再現されたが、当時の未熟なCGI技術のためにリアリティはまるでなく、スピナーのような特徴的な乗り物なども一切登場しない。
 ストーリーや世界観が比較的シンプルで、『ブレードランナー』のように難解なトコロは一切無く、お金をかけたキャストだけに演技力は十分なのに、『ブレードランナー』の足元にも及ばないヴィジュアルが映画をダメにしてしまっている。 非常に惜しい作品だ。
 では、予算を増やせば良いのではないか? と考える向きもあるだろうが、それこそが世の中のままならない最大の問題なのである。
 何故なら、お金は限りのあるモノだからだ。
 ヒトのイマジネーションには限りが無い。 だから、小説はどんな世界でも構築出来るし、それによって高い人気と評価を得る事が出来る。
 が、映画はそうはいかない。 限りのあるお金が、ヒトのイマジネーションに追いついてくれないからだ。
 残念ながら、お金は地面から勝手に生えてきてはくれないし、空から降ってくるモノでもない。 お金は、極めて低い限界のある資源なのだ。 たとえどんな事があったとしても、無尽蔵に使えるモノではないのだ。
 限られた予算を最大限に活用し、妥協を余儀なくされて製作されるのが、映画という芸術なのだ。
 この問題は、今後も幾度と無く映画製作者を、そして、原作者と観客の頭を悩ませる重大な問題になるだろうが、ようは“お金の使いドコロを間違えない事”が最も重要なのではないか? と、僕は考える。(注:それが出来れば苦労は無いとか言われそうだが……)



 といったトコロで、今週はココまで。
 中途ハンパですまぬ……。つД`)゜。
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


リリィ?

Lmc40AT2 02-Shiki Armor Set Ver.1.6

 日本人クリエーターによる装備追加MOD。
 01式と同じく、個性豊かでハイクォリティな装備品が多数追加される。 場所は、01式のすぐ隣りなので分かり易いと思う。
 なぁ~~んかどっかで見た事あるよ~なないよ~な? ちなみに、袖のないノースリーブバージョンもあり、それだとさらにそれっぽい。 また、ガントレットがないので別ので対応する必要があるが、これがベターかと思われる。
 思わず白テクスチャーバージョンが欲しくなりますね。(笑)



Thanks for youre reading,
See you next week!

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