-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #01-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
今週はシフトの交代があって時間がないので、オープニングトークなしでとっとといきます。
‐AS‐RadioHead(2011/04/16)‐
今週のAS‐Radioは、Valve社の最新作、『Portal2』のリリースウィークという事で特別仕様! なんと、自機がP2のポータルガンに! ブロックもポータルをイメージした青とオレンジに!
さらに、愛しのコンパニオンキューブまで!?
期間限定のあり得ない特別仕様のASを堪能されたしッ!!
ただし、ゲームそのモノがアップデートするので注意が必要です。
以上、今週の連載コーナーでした。
では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ!
<今週の特集>
予告通り今週からスタートする大型連載企画、「異説『ブレードランナー』論」の第1回目をお届けします。
これから長い長い道のりになるかと思われますが、根気良くお付き合い頂けたらと思います。
ちなみに、カテゴリーを新設して独立させる事にしました。 過去記事は右側のサイドバーにある“カテゴリー”欄の“異説『ブレードランナー』”のリンクをクリックして頂くとまとめてお読み頂けます。
第1章:設計‐原作者と原作小説
映画『ブレードランナー』を理解する上で、まず必要なのは原作小説を理解する事である。 何故なら映画『ブレードランナー』は、表現メディアやキャラクター設定、ストーリー展開とそのディテール、さらには作品の舞台設定に至るまで、様々な点で多くの差異が認められるにも関わらず、映画と小説は作品の根底にあるテーマ、すなわち作品の本質は、何一つ変わらないからである。
映画『ブレードランナー』は、アメリカの作家、フィリップ・K・ディックが著した小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原典として出発し、紆余曲折を経て映画になり、再度紆余曲折を繰り返した後、原作小説へと回帰するのである。
<原作者:フィリップ・K・ディック>
本名、フィリップ・キンドレッド・ディック。
1928年、アメリカはイリノイ州のシカゴに生まれたディックには、誕生日を同じくする双子の姉がいた。 しかし、ディックが姉と共に幼少期を過ごしたのは、生後から僅か41日間だけだった。(注:死別。 死因はリサーチし切れなかったので分からないが、いわゆる乳幼児突然死症候群だと思う。 健康な乳幼児がある日突然死んでしまう現象で、原因は全くの不明。 現在も、世界各地で度々報告されており、それほど珍しいというモノでもない)
この事実を後に知ったディックは、作品の中で度々、姉の幻影とも受け取れるようなミステリアスな女性キャラクターを頻繁に登場させるようになる。
この、実の姉との死別という悲劇に端を発するかのごとく、ディックの少年時代、及び青年時代は、様々なトラブルに取り囲まれるようになる。
1930年、ディックとその家族は、シカゴを離れてカリフォルニア州バークレーに移り住む。 しかしその2年後、両親が離婚。 母親に引き取られたディックは、バークレーどころか西海岸すらも離れて、首都ワシントンDCに転居。 しかし1940年、12歳になったディックは、母親と共に再びバークレーに戻る。
姉との死別、両親の離婚、度重なる転居。 様々な問題に振り回され、寂しい少年時代を過ごしたディックは、その心の拠り所をSFやホラーを中心とした小説作品に求めた。 特に、フレデリック・ブラウンやH・P・ラヴクラフト、A・E・ヴァン・ヴォークといった作家に傾倒していった。 14歳の時には、自身最初の小説『リリパットに帰る』を執筆している。(注:ただし、原稿紛失のため未発表に終わる)
18歳になったディックは、カリフォルニア大学バークレー校に進学した。 しかし、僅か1年で中退。 職を転々としながら、24歳の時に作家になる事を決意。 仕事をしながら、自分の好きな雑誌や小説を出版している出版社に、自作の投稿を始める。(注:海外では、エージェント制度を利用するのが普通で、日本のように投稿から職業作家になる事は珍しい。 エージェント制度とは、企業と個人の仲介をしてくれるマネージャーの事で、どこの企業にも属さない独立したエージェント事務所も少なくなく、作家に企業からの依頼を薦めたり、逆に作家から企業に作品を売り込むのを代行してくれる。 ただし、エージェントを雇うにはお金がいるので、貧しかったディックはエージェントを雇えなかった)
これと前後して、ディックはカリフォルニア中で転居を繰り返すが、同時に精神的に不安定になり、広場恐怖症(注:強迫神経症の一種。 いわゆるPD=パニック障害)などの精神病を患い、専門医の治療を受けている。
また、48年から58年までの10年間の間に、3人の女性と結婚/離婚を繰り返すようになる。
しかし、そんなディックにもようやく転機が訪れる。 投稿した短編作品、『Beyond lies the wub』が出版社の目に留まり、ついに1952年、プラネット・ストーリーズ社から著作が出版され、ディックは作家デビューを果たしたのである。(注:もうお気付きだろうが、2012年はディックの作家デビュー60周年のアニバーサリーイヤーでもある)
その後、ディックは62年に出版された小説、『高い城の男』という作品でヒューゴー賞(注:SF小説界のピューリッツァー賞と言われるほどの権威ある賞。 1953年に、アメリカのSF作家、ヒューゴー・ガーンズバックにちなんで創設された)を受賞。 75年には、小説『流れよわが涙、と警官は言った』という作品で、ジョン・W・キャンベル記念賞(注:アメリカの小説界において、1930年代~40年代のSF黄金期の立役者にちなんだ賞で、1973年に設立された)の長編小説部門で最優秀賞を受賞する事になる。
また、亡くなってからになるが、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズと肩を並べる形で、2005年にはSFの殿堂入り(注:94年創設。 シアトルに殿堂入りした作家の作品や関連資料を展示する博物館がある)を果たしている。
ディックは、デビュー当時から比較的評価の高い作家であった。
しかし、そんな華々しい受賞歴や高評価にも関わらず、生前のディックは成功とは言い難い、あまり売れない作家でしかなかなく、小説の売り上げは常に低迷した。 デビューからしばらくは、生活のために様々な副業をこなさなければならなかった。
豊かなイマジネーションを展開しながらも、神経質で気難しいディックの作風は、評論家や賞の選考員のウケは良かったが、一般の読者の理解は得られなかった。
もちろん、時代的な背景も理由として考えられる。
1950年代―。
第二次大戦、及び太平洋戦争に勝利し、イギリスやフランス、ソ連などの他の戦勝国が焼け野原からの復興を余儀なくされていた最中、アメリカはハワイ以外の国内での戦闘が事実上皆無で、本国の大多数の国民にとっては、戦争は遥か海の向こうの出来事でしかなかった。
ダメージもなく、勝利の喜びにボルテージが上がるアメリカは、郊外型住宅や巨大ショッピングモールの建設ラッシュに沸き、広い国土を自由に行き来出来るようにとモータリゼーションの波が押し寄せ、次世代を担う若者中心の文化が華開いた時代だった。
そんな、輝かしい未来を約束されていたような時代に、荒廃し、暗く陰鬱とした世界でしか展開されないディックの作品は、当時の人々には非生産的で悲観主義的に映った事だろう。
ディックの作品は、華やかなりし1950年代のアメリカという時代にマッチしていなかったのだ。
そして、1960年代になっても、ディックの経済状況は好転しなかった。
そこでディックは、禁断のウラワザに手を出してしまう。
アンフェタミン―。
興奮剤を使用する事で執筆量を増やし、足りない発行部数を作品数で補おうというワケだ。
しかし、この薬物使用はディックの作品に決して少なくない影響を与え、神秘主義や宗教的思想に傾倒していき、やがて、ディック自身が神秘体験を経験する事になる。
そんな折りも折りの1968年、間もなく人類が初めて地球以外の惑星に足跡を付けようとしていた矢先のこの年、ディックは長編第20作目として、小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を発表した。
<原作小説:『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』>
さて、後に映画『ブレードランナー』の原作となるフィリップ・K・ディックの1968年の小説作品、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』(注:原題:『Do Androids Dream of Electric Sheep?』。 日本では1977年に早川書房から邦訳版が出版され、現在は新装丁版が重版され続けている)とは、いったいどのような作品なのだろうか?
ではココからは、小説の内容をかいつまんで紹介していく事にしよう。
‐Story‐
時は1992年、サンフランシスコ―。
核戦争の勃発により、地球上の生命はそのほとんどが絶滅し、人類も大半が地球外の殖民星に移住し、地球に残った者と言えば、移住するほどのカネがないビンボー人と、肉体的、あるいは精神的に問題のある不適合者、“マル特”だけだった。
愛情も冷め、倦怠気味の妻と二人で地球に住む男、リック・デッカードは、警察の依頼で地球に潜り込んだアンドロイドを捜し出し、“回収”するバウンティ・ハンター(注:“賞金稼ぎ”の意)だ。
彼の夢は、地球上では希少になってしまったホンモノの動物を買う事。 生命が死に絶えようとしているこの星では、それは何よりのステータスシンボルなのだ。
一攫千金を狙うデッカードは、ある時警察からアンドロイドの“回収”を依頼される。 殖民星から逃げ出したアンドロイドが、地球の、しかもこのサンフランシスコの街に潜り込んでいるというのだ。
逃げたアンドロイドは全部で8体。
2体は、既に他のハンターが仕留めているので残りは6体。
賞金は、アンドロイド1体につき一律1000ドル。
6体全部仕留めれば、憧れのホンモノの動物が買える!
そしてデッカードは、この依頼を二つ返事で引き受けるのだが……!
……というのが、主な内容である。
既に多くの点で、映画『ブレードランナー』との相違は明らかだが、これについてもう少し詳しく見ていく事にしよう。
‐世界観設定‐
小説の世界観設定は、映画とは大きく異なる部分が多い。
ココではまず、キャラクターを除く作品の世界観設定の相違点を検証してみよう。
ただ、普通に書くと非常に長く、また読み難い文章になってしまうので、箇条書きで書き出す形にした。 この方が読み易いと思う。
1.変更された設定
・映画では、2019年のロサンゼルスが物語りの舞台になっているが、小説では1992年のサンフランシスコが舞台である。
・映画では、環境破壊による酸性雨の影響で地球外(注:映画では“オフワールド”と呼称。 小説では、単に“殖民星”となっているが、どうやら火星の事らしい)への移住が始まっているという設定だが、小説では核戦争による放射能汚染が原因になっている。
ただし、TVや広告飛行船が、「別世界に行こう!」と声高に宣伝文句を垂れ流している点は相違無し。
・映画では、ホンモノの動物が一切登場しない(注:全て人工動物)が、小説では複数種のホンモノの動物(注:ダチョウ、ヒツジ、クモなど)が度々登場する。
・映画では、人でごった返す街の通りやクラブの様子が度々スクリーンに映し出されるが、小説ではほとんど無人のゴーストタウンのような街になっている。
・映画では、人造人間の呼称が“レプリカント”(注:バイオ科学用語で、細胞の複製を作る“レプリケーション”が語源。 “複製された”といった意味)に変更されたが、小説では単に“アンドロイド”と呼ばれ、特徴的な呼称はない。 ただ、略して“アンディー”と呼ぶ事はある。
・主人公デッカードの職業は、映画では“ブレードランナー特捜班”という警察組織の一部門で、デッカードは警官としての身分も持っているが、小説では飽くまでも警察から委託で依頼を受けるバウンティ・ハンター(注:バウンティ・ハンターという職業自体は実在する。 本来のバウンティ・ハンターは、警察が検挙、書類送検した容疑者が、保釈保証金専門の貸金業者からお金を借りて保釈金を支払い、裁判までの間自由になれる。 が、この借りたお金の返済がないまま行方不明、すなわち逃げると、貸金業者によって賞金が設定され、バウンティ・ハンターの仕事になる。 アメリカには、有名なバウンティ・ハンターも多い。 ちなみに、銃器を使用する事もあるが、使わずに逃亡犯を捕まえる事の方が多いそうだ。 また銃器の携帯には、それ用の資格が必要)で、警官としての身分が無い。
・映画では、レプリカントの製造、販売を行っているのは“タイレル社”だが、小説では“ローゼン協会”という名称になっている。 そのため、タイレル社の社長のエルドン・タイレルも、ファーストネームは同じだが、ラストネームは“ローゼン”になっている。(注:私見だが、人形師ローゼンの元ネタか?)
・映画では、脱走したレプリカントは全部で6体だったが、小説では8体になっている。 デッカードが仕事を引き受けた時点で、既にホールデンが2体を“回収”している点では相違無し。
・映画には、デッカードが使う銃器として“ブラスター銃”という対レプリカント用の特殊弾頭を発射するハンドガンが登場するが、小説では“レーザー銃”になっている。 銃のディテールなどは、記述が無いので不明。
2.相違の無い設定
・映画には、いわゆるTV電話に相当する“ヴィドフォン”という公衆電話が登場するが、小説にも登場し相違はない。 ただし、小説の邦訳の表記は“映話”となっている。
・映画には、“スピナー”という空飛ぶクルマが登場するが、小説にもこれは登場し、相違点は特に見受けられない。 ただし、映画のような特徴的な呼称はなく、単に“ホバー・カー”と呼称されている。 また、映画では警察などの限られた組織だけが使用出来る特殊車両だったが、小説では比較的一般的な車両として設定されているようだ。(注:明確な記述があるワケではないので定かではないが、小説のデッカードは警官ではなく民間人だし、イジドアも民間人だがホバー・カーに乗っているので)
・最新型のレプリカントの“ネクサス6型”は、映画と小説でこれといった相違は見当たらない。
ただし、“4年の寿命”という設定は、映画だけの独自の設定で、映画ではこの寿命を延ばす方法を探すためにレプリカントたちが地球にやってきたという設定だったが、小説ではアンドロイドが脱走した理由は一切記述が無い。
ちなみに、旧式のアンドロイドとして“マクミランY4型”などの複数の形式が名前だけ出てくるが、ネクサス6型よりも見分けが付き易い点に相違は無い。
映画では、ブライアント警部がデッカードにネクサス6型レプリカントの説明を行うシーンがあるが、これは映画のデッカードはしばらく現場を離れていた設定なので、この間にネクサス6型がリリースされたためと思われる。
・VKテストの設定には、特にこれといった相違は見られない。
ただし、小説にはこれよりも詳細にアンドロイドと人間を区別出来る検査法として、“骨髄分析”(注:骨の髄液を分析して判別する方法。 詳細は記述が無いが、飽くまでもVKテストで疑いのある者が受けるテストで、本人の同意無しに検査を強制する事は出来ない)がある事が明記されており、VKテストよりも以前に行われていた“ボリネ反射弧テスト”というのも設定されている。(注:ただし、詳細は記述が無い)
また、VKテストはルリー・カンプフというソ連の精神科医が発表した論文を基に、レニングラードの精神科医のグループが検査法を確立し、ソ連に本部があるWPO=世界警察機構がアンドロイドを識別する検査法として採用した。
なお、映画ではVKが“ヴォイト・カンプ”になっているが、小説では“フォークト・カンプフ”と表記されている。 ただし、これは翻訳者の解釈の違いによるモノで、英語表記ではどちらも“Voight Kampff”で一致しており、相違は無い。
3.映画には登場しない設定
・小説には、映画には登場しない“WPO”=世界警察機構という組織が登場する。 現在のICPO=国際刑事警察機構に相当するが、本部がなんとソ連にある。(注:この事から、核戦争はソ連が勝利、あるいは“生き残った”と読み取れる)
アンドロイドの識別にVKテストを採用したのもこの組織。
・小説には、映画には登場しない“エンパシー・ボックス”なるデバイスが登場する。 一種の脳波コントロール装置で、デバイスに接続した全ての人物と意識を共有出来る。 当然、洗脳も可能である。
・小説には、映画には登場しない“ムードオルガン”というデバイスが登場する。 これを使用すると、使用者の気分を自由にコントロールする事が出来る。 まさに、エンパシー・ボックス以上に強力な洗脳装置と言えるが、“オルガン”という鍵盤楽器が呼称に入っている点から、このデバイスは極端に単純化されて、デッカードのアパートに置いてあるピアノとして映画に登場する事になったのではないかと思われる。
・小説には、映画には登場しない“バスター・フレンドリーとフレンドリー・フレンズ”というTV番組が度々登場する。 バスター・フレンドリーという大人気のコメディアンがホストを務める人気番組で、一日24時間、一年365日、絶える事無く放送され続けているが、フレンドリーも休む事無く出ずっぱりである。
また、TVだけでなくラジオでも同様に放送されており、しかもTVとは内容が全く異なり、さらに再放送もただの一度も行われた事が無い。 フツーに考えただけでもかなりアヤしい。
他に、アマンダ・ヴェルナーという女優やオスカー・フラッグスという人物も時々出演するが、彼女達もまた、フレンドリーと同じくほとんど出ずっぱりである。
・小説には、映画には登場しない“マーサー教”という宗教が登場する。 ウィルバー・マーサーという教祖がいて、この人物と感覚を共有出来るエンパシー・ボックスを通して、マーサーの今現在とシンクロするという、かなりアブナイ宗教である。
マーサーは、頂上が見えない山をひたすら登り続けており、ナゼか何処からともなく飛んでくる、誰かが投げた石コロに打ち付けられているが、これは実は真っ赤なウソで、実際にはハリウッドのスタジオで演じられていた特撮だった事が、バスター・フレンドリーによって暴露される。
以上が、小説と映画における世界観設定上の相違点と共通点である。
共通している設定でも、名称やディテールに微妙な相違点が認められ、相違点よりも共通点を探す方が大変なほどである。
そしてこれは、両者に登場するキャラクターにおいても同様である。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
軽戦車。 ※AT2 02-Shiki Armor Set Ver.1.6
日本人クリエーターによる装備追加MOD。
01式と同じく、個性豊かでハイクォリティな装備品が多数追加される。 場所は、01式のすぐ隣りなので分かり易いと思う。
今回のKIKKAは、KAGEROUと比べてやや大人しめの重装。 兜から髪がはみ出ちゃってるが、装備属性が兜ではなくペンダントになっているため。 装備属性が兜の兜(笑)と同時に装備出来る。(注:ただし、その場合は髪が見えなくなって兜が2つ重なって表示される)
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #00-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
震災発生から2週間が経過しましたが、福島第一原子力発電所は一応の小康状態を保っていますが、未だ予断を許さない状況。
高速道路や鉄道などの交通機関はある程度復旧しましたが、被災地の瓦礫の撤去や仮設住宅の建設などは中々進んでいないのが現状。
加えて、被災地への救援物資の配送がままならず、放射能汚染の危険もあって、政府は県外脱出の検討に入っているとか。
そして、被災地以外では“次”の震災や放射能汚染の懸念から、未だに買い溜めに奔走する人々が後を絶えない様子。
いやぁ~~、皆さん踊らされておりますなぁ~。 おかげでウチの店もミネラルウォーターの売り上げが伸びる伸びる。 具体的な数字にすると、平均で震災前の5倍程度。 銘柄によっては、10倍近い伸張率。
文字通りのケタ違い。
あり得ない。
もちろん、夏になればこれぐらいの数字は出ないワケではないんですが、今はまだ春。 ってゆーか、未だに桜の便りが来そうにないほどの寒い日が続いており、このような数字が出るハズ無いんですが、踊っている人たちのおかげでこんなコトになってます。
レンホーセンセ? 一般消費者の買い溜めは、沈静化ドコロか逆にヒートアップしてますよ?
そうそう、レンホーセンセと言えば、プロ野球界にも震災の余波がありましたね。
結局、4月12日の開幕で一応の決着が付いたようですが、確かにナイターは膨大な電力を消費するため、これから夏に向けて電力消費量が増す事を考えると、やらない方が良いのでは? と思えてしまいますが、僕に言わせればそんなコトはないんです。
やればいいんです。 144試合フルで。 そりゃあもうガンガン。
た・だ・し。
行われた全ての試合、販売された全てのチケットの売り上げの一部を、義援金として募金すればいい。(注:前売り、当日の全て。 天候や予期せぬトラブルなど、“主催者側の都合で試合が中止”にならない限り、チケットの払い戻しは原則不可で、観客側の都合による払い戻しには基本的に応じない。 例えば、急な予定変更でスタジアムに行けなかった場合でも、試合が正常に開催されていれば、そのチケットはただの紙切れになる。 主催者側の都合ではなく、一人の観客の都合だから。 他の観客は普通に観戦出来ているので)
例えば、野球の観戦チケットはシートによって金額がピンキリですが、平均で一人2000円と仮定し、1試合当りの観客動員数が3万人程度(注:多いか?)だったとしましょう。
で、義援金として売り上げの1%を寄付するとしましょう。
これで、1試合辺り60万もの義援金が集まる事になります。
これを、開催された全ての試合で行うとして、プロ野球界全体のペナントレースだけで、5億円以上の義援金を寄付出来る事になります。
プロ野球だけじゃありません。
サッカー、バスケ、バレーボール、さらにはゴルフ、テニス、モータースポーツなど、日本国内で開催される全てのプロスポーツイベントの観戦チケットで同じ事をやれば、今年のシーズンだけで数十億の義援金が集まります。
やればいいんです。 全試合、全イベント、フルでガンガン!
これでどうッスかレンピョウセンセ!?
ちなみに、先週“ローソン各店で義援金を集めている”と書きましたが、26日までの期間が延長になりました。 ウチの店でも、かつてないほどの金額が集まっています。 現在も集めていますので、皆さまの温かいご協力をお願い致します。
‐AS‐RadioHead(2011/03/26)‐
久しぶりに間に合いました。(笑)
今週のAS‐Radioは、エレクトロニカアーティストのPeter Kind特集です。
1曲目の『Next Exit』は、2:31ながら388の高トラフィック楽曲。 グリーンからイエロースピードが中心ですが、グレイブロックの配置がイジワルなカンジなので難易度はやや高め。
2曲目の『Uncer the Pyramid of Cheope』は、6:50の233で、イエロースピードですがやや縦ブラインドが強め。 意外に良曲で、上手く行けばMatch21が狙えます。 ってゆーか僕は出ました。
以上、今週は2曲だけですが、4/1まで無料でDL&プレイ可能です。 ASプレーヤーの皆さま、Don’t miss it!
では引き続き、今週の特集コーナー(注:久々)をどうぞ。
<今週の特集>
今週の特集は、皆さまに重・大・発・表ッ!! です。
かねてからお報せしていた“ビッグプロジェクト”の詳細を発表します!
……あ、小説ではありません。 小説の方は5月頃、GWぐらいに発表出来ると思います。
今回は、飽くまでも当ブログ内で行うプロジェクトの発表ですので、あしからず。
・BR30th
ちょっと気が早いかもしれませんが、来年2012年は、個人的にも、また映画界にとっても非常に重要な年に当たります。
古代マヤの予言とかもありますが、ノストラダムスの予言と同じで、まあそんなコトはまず起きないんですが、これまでの映画界において、映画史にその名を刻む歴史的名作の数々が、2012年に一斉にアニバーサリーイヤーを向かえるからです。
近いトコロから言うと、映画『タイタニック』。
ジェームズ・キャメロン監督の最高傑作にして、史上2度目のアカデミー賞11部門制覇を達成したこの作品は、1997年の公開から丁度15周年を迎えます。
映画『スターウォーズ』。
1977年に公開された、いわゆる旧三部作のシリーズ1作目、『エピソードⅣ:新たなる希望』は、公開から35周年を迎えます。 これに合わせる形で、今年2011年の秋には、シリーズ全6作のBD版のリリースが予定されています。
同じく77年公開のスティーブン・スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』も、同じく35周年を迎えます。
映画『007:ジェームズ・ボンド』シリーズ。
1作目の『ドクター・ノオ』が公開されたのが1962年なので、2012年はシリーズ誕生50周年の記念の年に当たり、これに合わせる形で、23作目に当たるシリーズ最新作が公開される予定。
映画『メトロポリス』。
サイレント時代の伝説的名作中の名作は、1927年の映画公開から、実に85執念の節目の年を迎えます。
ちなみに、当ブログでも昨年から今年の頭にかけて大々的に取り上げた同人ヴィジュアルノベル『ひぐらしのなく頃に』は、シリーズ第1章となる『鬼隠し編』が2002年に最初のリリースがされているので、来年2012年でシリーズ誕生10周年を迎えます。
そしてもうひとつ、1982年に公開されたハリウッド映画が、2012年、ついに映画公開30周年を迎えます。
ワーナーブラザーズ配給。
監督はリドリー・スコット。
脚本は、ハンプトン・フィンチャーとデイヴィッド・ピープルズによる共著。
音楽は、映画『炎のランナー』のヴァンゲリス。
製作は、マイケル・ディーリー。
出演は、ハリソン・フォード、ショーン・ヤング、ルトガー・ハウアーなど。
そう、その映画のタイトルは、『ブレードランナー』!
・議論の再燃
1982年に公開されたこのハリウッド映画については、これまで数え切れないほどの人々が、数え切れないほどのテクストで語ってきた。
新聞、雑誌、書籍などのペーパーメディアは言うに及ばず、90年代に入ってから広く一般的に、急速に普及したインターネットの登場により、複数のウェブサイト上にデジタル化されたコンテンツがアップロードされ、人々はこぞってコレを収集し、ハードディスク上に自分だけの“『ブレードランナー』ライブラリー”を構築し、それを再びインターネット上にアップロードするという循環が繰り返される中、この映画の中で提示されている“謎”に対する考察、検証を論述したテクストがバンドルされ、さらにBBSやチャットで議論が繰り返され、そのテクスト量だけでも図書館の棚が埋まってしまうのではないかと思えるほどである。
その議論は、いつ果てるともなく今日まで延々と繰り返されており、もはや本当の意味での“答え”はないのではないかと思えてしまうほどのエターナル・クエッション(永遠の疑問)になったと言える。
そもそもこうなってしまった原因は、この映画がヴィジュアル的、あるいは音楽的に圧倒的な芸術性に富んでおり、加えて極めて普遍的な哲学的テーマを有したストーリーが、極めて難解で解り難いという欠点があるからだ。 そのため、この映画を観る者の個人的価値観や個性、性格、前提となる予備知識、及び個人的な好みに左右され、この映画の解釈に極めて激しい個人差を生じさせるからである。
さらに言及するなら、この映画には異なる編集が施された異版が複数あり、しかもこれらが一般に流通した事により、その理解をさらに困難にしているのは疑いようもない事実であり、映画『ブレードランナー』は、ハリウッドの映画産業システムの代表的な犠牲者である。
映画産業というシステムにより、映画が出資者のモノになると、映画作品を巡ってしばしば芸術家と出資者の間で対立が起こるようになった。
映画作品を実際に制作しているのは芸術家で、芸術家には芸術家なりの意図があって映画を完成させるが、それが売れる作品になるのかどうかは、芸術家の意図とは全くの別問題である。 そこで、出資者は作品に手を加える。 より売れる作品にするために。
出資者が映画作品に出資する以上、その作品が出資した額よりも多い収益を得られるモノでなければ、出資者が映画作品に出資する意味はない。 それこそ、一円でもいいので黒字にならなければ、それは商品としての価値が無いも同然だからだ。
しかし、映画の場合は、出資者は映画を撮影する術を知らないため、自らメガホンを取って映画を撮影する事が出来ない。 それを自分の代わりにやってもらうために、脚本家や監督といった芸術家が雇われているのだ。 やれなくて当然である。
しかし、出資者にも出来る映画の手直し方法がある。 それが編集である。
公開前に試写会を行い、観客から得た感想を基に、より売れる作品、より観客にウケる作品にするために、スタジオなどの出資者は映画に手を加える。 観客にウケの悪かったシーンをカット、あるいは差し替えるなどして、“観客が望む映画”にする。
こうして、映画はようやく、一般の観客が観る事が出来る“劇場公開版”が完成するのである。
この、最終的な劇場公開版に編集する権利を“最終編集権”と呼び、ほとんどの場合は監督ではなく、プロデューサーやスタジオなどの出資者側が権利を保有する。
最終編集権が行使されると、結果として脚本家や監督が意図したモノとは異なる作品、すなわち解釈やテーマの異なる“別の作品”になってしまう事がある。
芸術家の意図が、観客にウケる作品になるかどうかは、全くの別問題なのだ。
このようにして、映画は普通、複数の編集版が作られ、存在しているが、公開版以外の編集版を一般の観客が目にする事は極めて稀である。 よっぽどの事が無い限り、最終編集権が行使された公開版のみが、我々一般の観客に対して流通される唯一のバージョンであるのが普通である。
しかし、80年代に入ってこの状況が一変する事態が映画界を襲った。
ホームビデオの登場である。
ビデオの普及により、それまで映画館、あるいはTVでしか観る事が出来なかった映画が、いつでもスキな時に、何度でも繰り返し、外に出る事無く自宅で観る事が出来るようになったのである。
さらに、ビデオソフトのレンタル業が拡大すると、映画館からは観客の足が遠のき、観客は自宅で自由に映画を楽しむようになった。 映画館のチケット販売数は減り、空席が目立つようになり、スタジオの収入は減った。 すなわち、出資金を回収出来なくなってしまったのだ。
もちろん、レンタル業に対する法整備が進んだ事で、出資者もビデオソフトのレンタル業から利益を得られるようにはなったが、単価が小さいため回収までに時間がかかる。 次の作品を作るための資金が、用意出来なくなってしまう。
それと同時に、出資者が予想もしていなかった奇妙な現象が起こるようになった。
ビデオの普及は、公開時には大して売れなかった作品を、観客が再評価する機会を与えたのだ。 これにより、公開時には駄作の烙印を押されて出資金を回収出来なかった作品が、実は結構良作だったと、観客に認識を改めさせる事に成功したのだ。
そこで出資者は、映画館では回収出来なかった出資金を回収、あるいは更なる売り上げ拡大のために一計を案じる。
ビデオソフトとしての“再リリース”である。
元々、映画の再リリースはよくある事だった。 映画『007:ジェームズ・ボンド』シリーズは、新作の公開と前後して旧作を二本立てで再リリースする事が通例になっていたし、『スターウォーズ』シリーズの旧三部作でも、新作の公開前に旧作の再リリースが行われていた。
また、映画館によっては、週末などに名作映画をオールナイトで映写機にかける事も多かった。 ホームビデオが無かった時代、観客が映画を観る事が出来るのは映画館だけで、映画館は観客を呼ぶためにこうしたイベントを独自に企画していた。 再リリース自体は、さほど珍しい事ではなかったのだ。
しかし、80年代のホームビデオの普及により、旧作の再評価が増えると、スタジオにとってもコレは無視出来ない事態になり、ビデオソフトによる再リリースが行われるようになった。
しかし、当時公開されていた劇場公開版を、例えば“○○周年記念版”としてそのままビデオソフト化しても、観客に対する訴求力は弱く、再リリースの意味は薄い。 そこで、編集によってカット、あるいは差し替えられたシーンを戻したり、未公開のままになっていたミッシングシーンを追加するなどした同じ作品の別編集版、すなわち“異版”のリリースに踏み切ったのである。
先にも記した通り、作品に対する解釈、あるいは作品の意味そのモノが変わってしまう恐れがあるため、こうした異版は一般に流通しないのが常である。
しかし、公開時に駄作と評価された作品が、ビデオソフト化によって再評価された事で、
出資者が最終編集権を行使したバージョン(注:俗に、“プロデューサーズ・カット”と呼ばれるバージョン)が実は間違っていて、作品を受けるようにしようとした結果、逆に作品をダメにしていた事を認めざるを得なくなった。
こうして、脚本家や監督といった芸術家が本来意図した再編集版が、異版としてビデオソフトとして再リリースされる事になった。
世に言う“ディレクターズ・カット版ブーム”である。
70年代、80年代の作品が、こうして80年代になって再リリースされるケースが多くなった。
映画界を襲ったこの時代の転換期の真っ只中に、映画『ブレードランナー』は、その中心的存在として巻き込まれていく事になる。
しかし、こうした異版は、存在したとしても一般に公開されないのが常であった。 出資者の思惑が、芸術家の意図より常に優先されたからだ。
トコロが、80年代のホームビデオの普及により、この状況が一変する。 観客の要望が出資者にも理解されるようになり、芸術家の意図を優先した異版が、いわば出資者の思惑と芸術家の意図の折衷案としてのビデオソフトによって一般公開される機会を得たのである。
ホームビデオが、出資者の思惑と芸術家の意図との間で、まるで波間にたゆとう船のように揺れ動く映画作品に対して、折衷案として上手く機能した事により、映画は映画としての価値と意味を取り戻す事に成功したのである。
とは言え、『ブレードランナー』に限って言えば、これがある意味裏目に出てしまった事を、僕は勇気を持って指摘しなければならない。
82年の公開以降、時間の経過と共に『ブレードランナー』という映画作品に対する評価が少しずつ、しかし確実に改められていくに従い、人々の間でこの映画に関する様々な噂や憶測が飛び交い、様々な“ナゾ”が議論されるようになっていった。 これが拍車をかける形で、80年代の末には、『ブレードランナー』はVHSやLDソフトの売り上げランキングの常連になっていた。
こうした大衆の行動に、スタジオ側も無視出来る状況ではない事を知り、ビデオソフトとしての再リリースを検討し始めるようになった。
時を同じくして、偶然発見された上映用70ミリフィルムが、この状況を一気に加速させた。 “ワークプリント版”の再発見である。
限定的とは言え、これが一般大衆に公開されてしまった事により、ファンの間で「映画『ブレードランナー』には、別編集された異版が存在する」という事が確実視された。 これは、それまで既に数年に渡って繰り返されてきた“ナゾ”に対する議論を再加熱したに止まらず、この映画に対する解釈においても、それまでとは異なる別の議論を噴出させる事になった。
この現象は、スタジオ側はもちろんの事、監督であるリドリー・スコットも知る所となり、92年の公開10周年を期に、『ブレードランナー』をもう一度、芸術家の意図を優先して作り直す事が決定された。 “ディレクターズ・カット版”のビデオソフトリリースである。(注:日本では、リリース時に“最終版”と表記されていたが、本来は“ディレクターズ・カット版”が正しく、後に“ファイナル・カット版”のリリースに合わせる形で、日本でも本来の呼称である“ディレクターズ・カット版”に改められた)
先にも記した通り、これはホームビデオが出資者の思惑と芸術家の意図との対立に対して、折衷案として機能したのが最大の理由だが、芸術家の意図として、それまで数え切れないほど繰り返され続けてきた議論に対し、一定の“答え”を示すためのモノでもあった。 実際、“ディレクターズ・カット版”は、芸術家が意図した通りの編集が施され、その“答え”が明確に示された初めてのバージョンである。
トコロが、この再リリースによって、芸術家が思ってもみなかった議論がファンの間で交わされるようになった。
「果たして、本当にコレが“答え”なのだろうか?」
この、本末転倒とも言える奇妙な現象の裏には、極めて重要な、そして、決して無視出来ない心理学的作用があった。 一言で言えば、“遅過ぎた”のである。
1992年―。
映画の公開から、既に10年もの年月が経過していた。
10年一昔と言うが、10年という時間は、その間同じ議論を繰り返し続けてきたファンにとっては、あまりにも長過ぎた。 10年の間、ファンにとっては『アメリカ国内版』と『インターナショナル版』(注:日本では、ビデオリリース時に“完全版”と題されたが、本来はアメリカよりもレーティングの低い海外での配給を目的としたバージョンで、日本で劇場公開されたのもコレ。 なので、“完全版”という呼称は明らかにメーカーの販促目的のでっち上げ。 “ファイナル・カット版”のリリースに合わせる形で、これも本来の呼称である“インターナショナル版”に改められた)こそが唯一のバイブルであり、その中から答えを探すしかなかった。
もちろん、その“唯一のバイブル”だったモノは、出資者の思惑が優先され、芸術家の意図が殺されたバージョンでしかなく、そこに明確な“答え”は、ない。
しかし、。カルトファンの飽くなき探究心は、VHSが擦り切れるほどのリピート再生を繰り返させ、必死になって(そのバージョンには存在しない)“答え”を探させ続けた。
その結果、カルトファンは唯一のバイブルだったバージョンに示されていた、芸術家の意図しない“答え”にたどり着き、これを確信し、やがて、その確信を修正出来ないほどに潜在意識に刷り込ませていった。
こうして、自ら得た“答え”を修正する機会を与えられないまま、10年という長い長い年月が経過していくうちに、雨が降って地面が固められてしまったファンには、もう自分の力で凝り固まった地面を割って、新しい芽を発芽させる事が出来なくなってしまっていた。 そしてそれは、『ディレクターズ・カット版』という名の激しい雨を以ってしても、叶う事はなかったのである。
この、新たな議論に寝耳に水を打たれた芸術家たちは、何とか彼らの誤解を解こうと、事ある毎に何度も何度も、芸術家の意図たる“答え”を示し続ける事を強いられる。
1997年、『ブレードランナー』の公開15周年を期に、ポール・M・サモンによるドキュメンタリー本、『メイキング・オブ・ブレードランナー』が出版された。
元々、サモンは82年の映画公開に合わせる形で、出版社からの依頼で映画雑誌の特集記事用にメイキングドキュメンタリーを書いており、映画の製作中からスタッフやキャストへのインタビューを繰り返しており、その中には原作者のフィリップ・K・ディックも含まれている。 また、同時に制作資料などの蒐集も行っていた。
映画公開後、雑誌用の記事も書き終えたサモンだったが、この映画に対する探究心に突き動かされ、記事原稿を加筆修正する形で、ドキュメンタリー本の執筆を決意する。
サモン自身の想いや他の仕事に時間を取られ、さらに92年の“ディレクターズ・カット版”のリリースで更なる加筆を余儀なくされ、結局、映画公開から15年を経過してようやく出版されたが、出版された本は、映画製作の舞台裏はもちろん、この映画を巡る出資者の思惑と芸術家の意図の対立、そして、この映画が駄作からカルト映画へと再評価されていく過程を詳細に書き記し、さらに芸術家の意図をインタビューを通して芸術家自身の言葉として伝えただけでなく、長い間この映画に携わり続けた著者自身の言葉としても、明確に“答え”を示した。
結果、この本は約600ページ(!)にも及ぶ超大作であるにも関わらず、『ブレードランナー』ファン必携の一冊になった。
……が、ネット上ではこの評価に相対するかのように、示された“答え”に対する反論が相次いだ。
約600ページにも及ぶ名著ですら、議論を終わらせる事は出来なかった。
世紀をまたいだ2002年、イギリスの国営TV、BBC放送は、映画公開20周年を記念して、完全新録のメイキングド・キュメンタリー番組『On the Edge of BLADERUNNER』をOAした。(注:日本国内では未放送。 現在は、YouTubeに動画がアップされているが、日本語字幕などは一切無い。 25周年のDVDボックスに特典映像として収録されるというウワサがあったが、権利関係の問題で収録は見送られた) この番組の中で、リドリー・スコットは議論に終止符を打つべくインタビューに応え、芸術家の意図たる“答え”を明言した。 これにより、『ブレードランナー』を巡る議論は、完全終結するハズだった。 トコロがッ!!
……ダメでした。/(^O^)\
この発言が元で議論を再燃したりしたが、結局同じ議論が繰り返されただけで、終結には至らなかった。
「ウンザリだよ!もうウンザリだ! こういうのを“夏の後”って言うんだ! “飽き飽き”ってね。」
スコット監督の、そんな心の叫びが聞こえてきそうである。
04年、これに輪をかけるかのごとく、日本の映画評論家、加藤幹郎が、映画本編(注:“インターナショナル版”)の全編をテキストコメンタリーするという構成で、『「ブレードランナー」論序説』を出版。 映画のワンシーン、ワンカットを重箱の隅をつつくかのごとき細やかさで詳細に解説したこの本は、著者の鋭い洞察力と、深く、また極めて広範な知識を証明しており、“解説とはこうあるべき”を示した名著である。
しかし、著者はこの本の中で、長らく続けられてきた議論に対して「どーでもいい」とバッサリ。 しかも、同署では“インターナショナル版”のみを対象に解説しており、“ディレクターズ・カット版”を「監督の判断が必ずしも正しいとは限らない」と一蹴。 事実上、“ディレクターズ・カット版”を完全否定した。
……だったらスタッフは誰の指示に従って映画作ればいいんだよ? 判断するのが監督の仕事だっつーの。
確かに、間違った判断をしているとしか思えない映画監督は居る。 ダレとは言わないが、僕もこれまでに600本を超える映画(注:邦画、アニメを除く)を観てきた人間だ。 それぐらいは分かってる。
しかし、判断の正否を観客が論じるのはスジ違いである。 観客が論じて良いのは、その作品の好き嫌いだけである。(注:結果、判断の正否を論じる事になる事はあるが、まず初めに好き嫌いありきなのは確かだ。 ……まあ、タマゴとニワトリかもしれないが……)
加藤は、確かに鋭い洞察力の持ち主だが、この点が個人的思考が優先されてしまっていると言える。 敬意に値する洞察力を持った、“映画を正しく鑑賞出来る確かな眼”を持っているだけに、とても残念だ。
加藤の著書、『「ブレードランナー」論序説』の出版から1年とちょっとが経過した06年、同じく日本の映画評論家の町山智浩によって、『ブレードランナーの未来世紀』が出版された。
この本は、『ブレードランナー』と同じ80年代のSF映画8本を解説する内容で、全287ページ中、『ブレードランナー』には64ページ(注:同書中最多)が割かれている。
主に、『ブレードランナー』におけるポストモダニズムを中心に解説しているが、例の議論に対しては、「どっちでもいい」とこれまたバッサリ。 しかも、“ディレクターズ・カット版”には一切触れず、“アメリカ国内版”のみ(注:“インターナショナル版”ですらない!)についてしか解説されていない。
……まあ、“ディレクターズ・カット版”は、飽くまでも92年製作/公開の作品なので、“80年代のSF映画”というテーマから外れるので、取り上げたくても出来なかったのかもしれないが、それならそれで一言ぐらい注意書きを入れてほしかった。 これでは、「町山お前もかッ!?」と思われかねない。 ……ってゆーか、事実僕は最初そう思っていた。
どうしてこうも、誰も彼もが“ディレクターズ・カット版”を受け入れられないのだろう?
それほどまでに、10年の沈黙は重く、また大きなモノだったのだろうか?
07年には、“ディレクターズ・カット版”をベースに、デジタルリマスター化や92年当時は技術的に不可能だったテクニカルエラーの修正、並びに“ワークプリント版”にしかなかったショットの追加を含めた再・再編集が施された本当の意味での“最終版”となる“ファイナル・カット版”がリリースされた。 しかもこれは、DVDやBD、HD‐DVDのソフト版のリリースだけでなく、劇場公開を前提とした再リリースで、アメリカはもちろん、日本でも劇場公開された。
また、25周年記念となるコレクターズ・ボックスには、新録のメイキング・ドキュメンタリーや、82年版、92年版、ワークプリント版、さらには別アングルや別テイクを編集した“アウトテイク版”などが、ディスク5枚に収録された。
特にメイキング・ドキュメンタリーでは、これまでこの作品に対してあまり多くを語らなかったハリソン・フォードが、問題になったモノローグの裏話などを語っている。
また、フランク・ダラボン(注:映画監督。 『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』などがつとに有名)を初めとした、『ブレードランナー』ファンによる例の議論も収録されている。
しかし、賛否両論で決着付かずのまま。 スコット監督自身のコメントも収録されているが、あまりに度重なる議論にもうどうでもよくなってしまったのか、個人的見解を述べるに止まっている。 正直、議論にもう疲れてしまったのだろう。
また、これに合わせる形で、97年出版版を加筆した『メイキング・オブ・ブレードランナー:ファイナル・カット』も、サモン自身の手で再出版されている。
以上のように、82年公開から25周年記念版のリリースに至るまで、映画『ブレードランナー』がたどってきた遍歴をざっと(?)紹介してきたが、このような紆余曲折があった作品が、2012年、ついに公開30周年を迎える。
30周年を目前にして、この映画を20年近く観てきたいちファンとして、これはぜひとも何かやりたい。 何かやらねば。 何かしよう! と思い、僕は今回の執筆を決意した次第である。
もちろん、30周年を記念する決定版として書く以上、正確性の徹底や見落としが無いかをチェックする意味でも、手元にある資料群は全て再読、再鑑賞し、ネットなどを利用して改めてリサーチを行い、徹底的な検証を繰り返した。
その過程で僕は、上記までに記した人々が、共通して見落としているある重要事項がある事に気づいた。 この致命的とも言える欠落により、例の議論がエンドレス・ディスカッションされ、エターナル・クエッションになってしまったのだと確信した。
この致命的な欠落は、最終的に以下の二点に絞られる。
一つは、誰も彼もが、“全ての異版をそれぞれ個別に捉えている”という点である。 本来は、全く同じキャラクターと世界観を使って、全く同じストーリーが展開されている“全く同じ作品”であるにも関わらず、“モノローグ”、“ユニコーンの夢”、“ハッピー・エンディング”などの有無という、目に見えて分かる違いがあるというだけの理由で、それぞれの異版を“全く別の作品”と談じてしまっているのだ。 それ以外の部分は、何一つ変わらない“全く同じ作品”だというのに!
90年代、社会現象を巻き起こしたTVドラマシリーズ、『X‐ファイル』に、こんなセリフがある。
「天才とは、一見異なる両者を比較し、検討し、両者に共通項を見出す人物である。」
一見異なるそれぞれの異版には、目に見えて分かる違いの10倍をゆうに超える共通項があり、それは天才でなくても誰の目にも明らかなハズなのに、目に見えて分かる違いにばかり気を取られ、誰も彼もがこの共通項を盲目的に無視してしまっているのだ。
本書では、この点を最重要視し、今までの30年間、議論され続けてきたこの作品において、これまで誰一人として全く議論してこなかったこの共通項を中心に考察、解説、論述する事をひとつの目的としている。
そして、もうひとつの致命的な欠落についてもまた、極めて重要な問題として集中して論述していく。 そのもうひとつの致命的な欠落とは、映画『ブレードランナー』が、フィリップ・K・ディックが記したSF小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作としているという点である。
何故かは分からないが、やはり誰も彼もが、この点を盲目的に無視する。
町山が、多少なりとも著書の中で原作について言及しているが、関連性は決して高くない。
サモンにしても、原作と原作者についてかなりのページを割いているが、解釈に関してはあまり強い関連性を見出せていない。
そもそも、映画『ブレードランナー』のファンの中でも、原作をしっかりと読んだ事のある人は、いったいどれほどいるのだろう?
全く読んだ事が無い人、あるいは読み始めても最初の数十ページだけで、映画とのあまりに大きな違いに驚き、読破を諦めてしまった人も多い事だろう。
さらに言うなら、最後までしっかり読んだ人でも、「映画とは別モノ」と判断してしまった人もいるだろうし、頭から原作を否定している人も少なくないかもしれない。
実際、僕も最初はそうだった。 初めて原作を読んだ時、映画とのあまりの違いに驚き、「映画とは別モノと考えるべき」と判断した。
しかし、原作を注意深く読んでいくと、極めて多くの点において、原作と映画が一致しており、多数の類似がある事に気付く。 そして何より、両者が共通のテーマを語っている事に気付くハズだ。
何故なら小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、映画『ブレードランナー』の原作であり、原点なのだから!
原作と原作者、並びに原作と映画の類似については、第1章にて詳細に解説するが、本書では、原作も含めた映画『ブレードランナー』の全ての異版をひっくるめて、総合的に論じるのを最大の目的としている。
これまでの30年間、この映画について多くの議論がなされて来たにも関わらず、何故かこれまで一度たりともなされる事がなかった新しい視点からのアプローチによる、これまでとは異なる“『ブレードランナー』論”をお楽しみ頂けたら幸いである。
さて、映画『ブレードランナー』の公開30周年を(勝手に)記念した“決定版”BR解説集、『異説「ブレードランナー」論』は、当ブログの2011年3月17日アップ号より、いよいよ解説本編が始まるが、今回はその“序文”である。
すでにココまでを読み進めてきただけで、「いい加減前フリ長ぇよ!」と感じている方も多いだろうが、本編に進んで頂く前に、皆さまに注意事項をいくつか喚起しておきたい。
まず、本書は以下にリストアップする映画作品、及び書籍群を、皆さまが既に全て鑑賞、及び読破しているという前提で記していく事になる。
既存の書籍等との内容の重複により、読者の皆さまに無用の混乱を与えないようにという配慮からと、重複する内容を書くだけで、解説のテクスト量が文字通りの倍増をしてしまうのを避けるためである。
そのため、解説の中には、これらを全て鑑賞、及び読破していないと理解し難い、あるいはこれらの中で既に解説されているため、意図的に詳細を割愛している部分も少なからずある。
従って、以下のリストの中で一つでも“未”のモノがある場合は、今回の記事ご一読の後、すぐにレコード店やレンタル店、書店などに行って、“未”のモノを購入、あるいはレンタルして頂き、本書よりも先に鑑賞、あるいは読破して頂いてから、解説本編のスタートに備えて頂く事を強く、強くオススメする。
前提条件となるソフト、及び書籍は以下の通りである。
‐DVD/BD‐
『ブレードランナー』 アルティメット・コレクターズ・エディション [DVD]
『ブレードランナー』アルティメット・コレクターズ・エディション [Blu-ray]
DVD/BD5枚組みによる25周年記念盤。 現存する5つの異版全編、並びにメイキング・ドキュメンタリー、未公開シーン集、音声解説などの特典も、全て鑑賞して頂きたい。 なぁに、全部観たってたったの26時間だ。 『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のエクステンディッド・エディション(注:全部でDVD12枚)に比べたらラク勝ラク勝♪
BD版とDVD版があるが、フォーマットと解像度が異なるだけで、内容に違いはないのでどちらを選んでも可。
これぐらいは、最低限鑑賞しておいて頂きたい。
‐書籍‐
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
/フィリップ・K・ディック
メイキング・オブ・ブレードランナーファイナル・カット
/ポール・M・サモン
「ブレードランナー」論序説
/加藤幹郎
ブレードランナーの未来世紀
/町山智浩
4冊とも全部。 合計1464ページ。 カルいカルい☆ ただし、『ブレードランナーの未来世紀』だけは、メンドウなら『ブレードランナー』の項だけでもおk。
‐ウェブサイト‐
ブレードランナーFAQ日本語版
最も初期に開設された英語版ウェブサイトの日本語完訳版。 現在ももちろんアクセス可能。 “ブレードランナー初心者”は、まずはココから入るべし!
解説では、上記以外にも多数の作品、書籍、ウェブサイトを参考資料として、執筆の際適宜参照しているが、上記のリストだけで解説を読み進めて頂く上でのとりあえずの前提条件は満たせるモノと判断した。
これ以外については、後述の各章や巻末の“付録:参考資料”のリストを参考に、本書を読破した上で鑑賞して頂いた方が、それぞれの作品をより一層楽しんで頂けると思う。
もう一つの注意点として、解説では映画『ブレードランナー』を様々な角度から分析、検証、考察、解説、論述しているが、これらは全て、筆者の個人的な見解に基くモノであり、映画『ブレードランナー』の製作スタッフ、キャスト、及び関係者各位、並びに、関連する複数の作品、書籍、及びウェブサイトの製作スタッフ、キャスト、著者、管理者、及び関係者各位の公式見解を代弁するものでは決してありません。
以上をご理解頂いた上で、映画『ブレードランナー』をトコトン楽しむためのガイドブックとして、“asayan的映画『ブレードランナー』解説”を楽しんで頂けたら幸いです。
なお、解説では全ての個人名を敬称略とさせて頂いております。
……つか、映画『ブレードランナー』は、昨年『映画を“読む”』のコーナーで取り上げる予定だったんですが、小説やら何やらで色々と時間を取られてしまい、結局昨年は『映画を“読む”』のコーナー自体が一度もやれなかった。 書かなければいけない事が多過ぎて、今までのように中途ハンパに書く事も出来なかったし。
そこで、仕方なく来年の“BR30th”に合わせる形で、当ブログの特集記事内で集中的に連載する、という形式にしました。
連載は、当ブログの2011年3月17日(日)アップ号からスタート。
連載回数が未だに何回になるのか見当もついてませんが、年内には終わらせたいと考えています。
まだまだ先は長いですが、最後までお付き合いして頂けたら幸いです。
……ってゆーか今気付いたが、『フリートーク』コーナーは今回が第30回。(笑)
狙ってません。 全くの偶然です。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
チャンバラトリオ。(ソロ活動) ※AT2 01-Shiki Armor Set Ver.1.8
日本人クリエーターによる装備MOD。 極めてクォリティの高い装備が大量に追加される上、全てタダで入手出来る。 比較的、高性能なモノが多い。
ただし、独自のヌードボディをベースにモデリングされているため、他の装備品とコーディネート出来ない。 一部の装備は、ECに対応している。
このMODには、おまけとしてこんなのも収録されている。 他に、ピコポンハンマーやバス停などもあるが、飽くまでもネタ装備なので実用性は全くの皆無。
Thanks for youre reading,
See you next week!