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週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

155.異説『ブレードランナー』論:5.量産④b

2011年08月08日 | 異説『ブレードランナー』論

‐混乱の原因‐

 さて、これだけ解説しても理解出来ない方は一生理解出来ないので諦めてもらうとして(←コラコラ)、この章の最初に記した問題について解説していく事にしよう。
 先にも記した通り、映画『ブレードランナー』は『メトロポリス』のオマージュがふんだんに含まれている作品で、ヴィジュアル的な類似が常に指摘されている作品である。 そしてそれは、ヴィジュアル面だけに止まる事無く、物語りのテーマ、世界観、ストーリー展開に至るまで、様々な面で偶然では片付けられない一致を見せ、さらには映画が公開された後、それぞれの映画がたどった運命もまた、奇妙な一致を見せているのである。
 これほどまでに多くの類似点を持っている両者だが、しかし作品の解釈という点においてだけは、一致する事は無かった。
 何故か?
 答えは至って単純だ。
 公開された順番が異なっているからだ。
 映画『メトロポリス』は、1927年の初公開時に芸術家の意図が反映された完全版が、オリジナル版として公開されている。
 その後、何らかの形で改変がなされた短縮版が順次公開される事になるが、大まかなバージョンを並べると、ポロック版、モロダー版、パタラス版、2001年版、2010年版となる。
 最初のオリジナル版の直後に公開されたポロック版は、映画の短縮だけに止まらず、物語りを単純化するために中間字幕の大幅な改変が成され、キャラクターの名前まで変わってしまっているほどだった。
 長らくこれが多くの観客に上映される事になるのだが、60年代から80年代にかけて再評価された『メトロポリス』は、多くのクリエーターによって1927年のオリジナル版に戻そうと努力が続けられ、最終的に2010年版でほぼ完全な状態に戻す事に成功した。
 すなわち、最初に明確な“正しい答え”が示された後、改悪された“間違った答え”が公開されるも、長い時間をかけて“正しい答え”に戻す努力が続けられたというワケだ。
 しかし、映画『ブレードランナー』では、これと同じ事が起こらなかった。
 何故なら、最初に公開されたのがイキナリ“間違った答え”だったからだ。
 1982年に公開されたアメリカ国内版、及びインターナショナル版は、芸術家の意図がしっかりと反映されていない(注:ユニコーンの夢の欠如)バージョンで、しかも出資者の思惑が全面に盛り込まれた(注:デッカードのモノローグとハッピーエンディング)、言わば“間違った答え”であった。
 そう、映画『メトロポリス』で言えば、いきなりポロック版が公開されてしまったのと同義なのだ。
 結果的に、この“間違った答え”は映画の興行的失敗を招く事になるが、映画『ブレードランナー』の不幸はココから始まる。
 公開された映画が“間違った答え”である事を知らない観客は、やがて出資者の思惑と芸術家の意図の折衷案として機能したビデオソフトによる再リリースで再評価するが、観客が再評価したのは、飽くまでも“間違った答え”でしかない。
 そこで、芸術家の意図はこの“間違った答え”を“正しい答え”に修正すべく、ディレクターズ・カット版をリリースするが、それが“正しい答え”である事を知らない観客は、元からあった“間違った答え”との違いに困惑し、混乱しただけだった。
 観客は、最初に公開された“間違った答え”を“正しい答え”だと思い込んでいたからだ。
 映画『メトロポリス』では、ポロック版に続いてモロダー版でも酷い改変がなされたが、それ以前の1960年代に、最初に公開された“正しい答え”が復元されており、観客にポロック版が“間違った答え”である事を証明していたため、観客の認識を改める事に成功出来た。 そしてそれは、モロダー版以降のパタラス版、2001年版、2010年版でより確実なモノになっていく。
 これとは逆に、映画『ブレードランナー』では、最初に公開されたのがいきなり“間違った答え”だったために、その後公開された“正しい答え”を以ってしても、“間違った答え”が間違いである事を証明出来なかったのだ。
 映画『メトロポリス』とは、公開された“答え”の順番が全く逆だったからだ。
 こうして、間違いを間違えたまま認識した観客は、様々な形(注:『メイキング・オブ・ブレードランナー』、『On the Edge of BLADERUNNER』など)でこれが「間違いだぞ」と言われても、自らの認識を改める事が出来なかったのである。
 結果、ファイナル・カット版が公開された現在でも、どちらが“正しい答え”なのか? というエンドレス・ディスカッションが繰り返される事になったのである。
 ココで、筆者が問題にしたいのは、映画を正しく観る事が出来ない観客が多過ぎるという事ではなく、映画に付きまとう出資者の思惑と芸術家の意図の対立という、根本的な問題である。
 結果として、『メトロポリス』も『ブレードランナー』も出資者の思惑の犠牲になったが、『メトロポリス』が幸運だったのは、少なくとも最初は、出資者の思惑と芸術家の意図が一致していた事である。 だから、初公開時は芸術家の意図が十分に反映されたオリジナル版が公開された。
 しかし『ブレードランナー』では、映画の製作中から出資者の思惑と芸術家の意図が対立し、予算超過を理由に映画が芸術家から取り上げられ、出資者の思惑が最優先になってしまった。
 その結果、映画は致命的な改変が成され、“間違った答え”として公開されてしまったのである。
 何度も記している通り、映画とは産業であり、映画は出資者のモノであり、出資者の思惑が優先されて当然のモノである。 が、忘れてはいけないのは、映画は産業である“以前に”、総合芸術という芸術だという点である。 これを忘れてしまうと、映画『ブレードランナー』のように芸術家の意図よりも出資者の思惑が優先された致命的な改変が平気で行われてしまうのである。
 バブル絶頂期の1980年代、日本の大企業は、こぞって歴史的な名画の数々をオークションで落札した。 いわゆる“ジャパン・マネー”の流入である。
 本来、オークションとは参加者同士の駆け引きがその醍醐味だが、バブル絶頂期の日本企業は、いきなり法外な高額を提示して名画を落札していった。 実際にオークションに参加した個人投資家やコレクターは、「オークションにならなかった」と語ったそうだ。
 日本企業が、このようなある意味無作法な事をしてまで名画を落札したのは何故か?
 どうしても名画をコレクションに加えたかったから? それならばまだカワイイモノだが、その答えは残念ながらノーだ。 日本企業が名画の落札に奮闘したのは、実はそれが投機目的だったからだ。 ただ単に、バブル絶頂期でお金が余っていたからだ。
 そこには、名画に対する敬意もなければ憧れもない。 ジャパン・マネーは、ただ単にその威力を見せびらかすためだけにバラ撒かれたのだ。
 バブル絶頂期の頃、美術館ではなく有名デパートやシティホールで名画の展覧会がよく行われたのは、結局はそういう事なのだ。
 成金が剥製や悪趣味なアクセサリーを自慢するのと同じだ。
 芸術家の意図はないがしろにされ、出資者の思惑が優先された結果なのだ。
 そこには、芸術や芸術家に対する敬意も、憧れも、好意すら、無い。 結局、出資者にとってはお金こそが最も重要なのだ。
 もちろん、それは企業として、“出資者”としては当然の事であり、金儲けに執着するのは産業としては至極正しい。 が、扱っているモノが工業製品ではなく芸術であるならば、それに対して敬意と理解を示さなければならない。 敬意と理解、すなわち“こころ”がなければ、出資者の思惑は、芸術と芸術家をダメにしてしまう結果になりかねないのだ。
 そう、映画『メトロポリス』が語っている通り、“頭脳と手の媒介者はこころでなければならない”のである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


玉座。


Felmoon Air Fortress Ver.1.2

 プレイ動画『天空の城』でも紹介されていた古代エルフ族の遺産。 文字通りの“天空の城”。 持ち家として利用出来、蒐集したアイテムの保管場所に最適。 外観が異なる『Dawn』(注:キレイ)と『Dusk』(注:荒れ放題)の2種類から選べるが、ロケーションが同一で競合するため同時に導入出来ない。 今回は『Dawn』をセレクトしたが、espファイルのみのシンプルなMODなので、導入がとてもラク。
 玉座から見ると、室内はこんなカンジ。 左右対称のデザインが秀逸です。 ちょっと薄暗いですが、そこが逆に雰囲気があって良い。



Thanks for youre reading,
See you next week!

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155.異説『ブレードランナー』論:5.量産④a

2011年08月07日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #13-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 8月ですね! 朝からセミの鳴き声がうるさい毎日で、まさに夏本番といったカンジですが、やっぱり去年ほどの酷暑というカンジはしないです。 最高気温も30度を超える程度だし、雨の日も多いし、エアコンかけててもなんか暑いという事もないですし。
 まあ、今年は色々あって節電が必要なので、その意味では運が良かったのやも知れず。 元々これが“平年並み”なワケだし。
 いずれにしても、酷暑云々に関係なく、早く電力供給が安定する事を願わずにはいられません。 あっしの生活は電気がないと何にも出来なくなってしまうので、計画停電とかあると超困るんで。
 PC使えないとホント何にも出来ないんスよ。 ゲームも出来ないし映画も観れなくなるし、ブログも小説も書けない。
 幸い、僕の在住地域は(今のトコロ)計画停電のハナシは出ていませんが、地域によっては困っている方も多いハズ。 計画停電じゃ節電云々以前のハナシなので、コッチは何も出来ないですし。
 復興とか大変なのは分かりますが、早いトコロ対策を立てて頂きたいモノです。
 来年の夏は暑くなるかもしれないし。


 それはさて置き、とりあえず今週も連載コーナーからどうぞ。


‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐

 AiC2nd、デイドリッククエスト編。 今回はメリディアのクエストです。
 前回、「次回はノクターナルのクエスト」と書きましたが、都合によりメリディアです。 ご了承下さい。
 ノクターナルのクエストは、次回お送りする予定です。
 また、マラキャスのクエストは、既に1stシーズンのメインクエスト編で攻略済みなので、今回は割愛します。 マラキャスのクエストの詳細は、当ブログ記事第98号(2010/07/04)を参照して下さい。
 では改めて、メリディアです。 場所はコチラ。(↓)
Blog0880_2  前回のサングインの神像の南、クヴァッチとスキングラッドの間ぐらい。
 クエスト開始条件は、必須レベルが10以上。 供物としてエクトプラズム、骨粉、あるいは腐肉のいずれか一つが必要です。
 メイジギルドやアルケミ屋さんで購入してもいいですが、ダンジョンの方が手に入り易いのでダンジョンに行きましょう。
Blog0881  てなワケでダンジョン攻略。
 アイレイドの遺跡は、アンデッドの宝庫なので3つともカンタンにゲット出来ます。
 ちなみに、このダンジョン攻略中にスケルトンがイイカンジのエルフブレード(注:Long White Sabre、両手剣、攻撃力20、重量28、Fran追加装備)を持っていたのでついでにゲット。 今まで使っていたカタナには劣りますが、しばらくコレでいこうと思います。
 で、メリディアに供物を捧げると、例によって有り難いお言葉と共にクエストが与えられます。
 今回のクエストは、とある洞窟にいるネクロマンサーを殲滅せよというモノ。 Aliceちんお得意のダンジョン攻略&暗殺です。
 場所はコチラ。(↓)
Blog0882  スキングラッドの東南東、森の中の墓地にある洞窟で、周辺の墓地が目印になるので比較的簡単に見つけられるでしょう。 この中で、ネクロマンサーたちが墓を暴いてせっせとアンデッド作りに精を出しているそうな。
 ちなみにこの洞窟、周囲がナゼかワンワンのたまり場になっていて、この洞窟に到着するまでに2ケタに達するワンワンに襲われました。
 所詮は犬畜生なので強くはないですが、結構ウザいです。
 んで、いざ洞窟に入ると……、
Blog0883  第一、第二ネクロマンサー発見!
 何やら話し込んでいる様子なので、気取られない内に闇討ちでさっさと殺ってしまいましょう。
 ネクロマンサーに限らず、魔法使い系の敵は大量のポーションを所有しており、接近戦だとこれを多用してなかなか死んでくれないので、闇討ちで倒した方が確実で手っ取り早いです。 スニークで慎重に行動し、一撃必殺で倒しましょう。
 んで、探索中に何やら争うような物音がしたのでそちらの方に行ってみたら……、
Blog0884  ネクロマンサーの一人がナゼかアンデッドと戦闘中。
 どうやらリッチと戦っているようですが、これ以上近付くと気付かれてしまうので分かり難いSSになってしまいました。 申し訳ない。つД`)゜。
 最終的に、このネクロマンサーはリッチを倒しましたが、スケルトンにやられてお亡くなりになりました。
 ネクロマンサー一人分ラクになりました。(笑)
 何があったのかは知りませんが、TESⅣではこういう事がよくあります。
 さて、ネクロマンサー全員を倒すと、クエストダイアログがアップデートされるので、それに従ってメリディアの神像に帰還し、再び有り難いお言葉を頂戴すればクエスト完了になります。
 基本ダンジョン攻略なので、闇討ちオンリーで接近戦さえ挑まなければ、難易度はそれほど高くありません。 闇討ち以外の方法では、まず間違いなく地獄を見ます。 スニークスキルを鍛えましょう。
 そして、今回の報酬はコチラ。(↓)
Blog0885  透明化&スピードアップの指輪です。
 透明化は35%しかないのでそれほどの価値はありませんが、スピード+10はかなりの価値。 必須レベル通りならば、役立つアイテムでしょう。
 ……まあ、Aliceちんは既に同様の指輪も装備しているので、全く無価値なんですが……。
 ちなみに、倒したネクロマンサーからパクったポーション、合計で400個(!!)近くありました。
 これだからメイジ系の敵はキライなんだよ。 回復しまくるから全然死んでくれないんだもん。
 ちなみに、メリディアはマイナーなデイドリックのためあまりよく分かっておらず、生き物に活力を与える存在だと考えられているますが、定かではありません。
 また、今回のクエストの内容からも分かる通り、アンデッドを極めて嫌悪しているデイドリックで、神像の通り美しい女神だそうです。
 つか、神像の衣装がちとセクシー過ぎるの、誰か何とかして下さい。 目のやり場に困ります。


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第13回、前回の続きです。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


・裏口へ

 完成版には無いシーン。
 タフィーからは情報を得られなかったデッカードだったが、バーテンダーがバックステージへ忍び込む事を勧め、それに従って楽屋へと入っていく。
 完成版では、ミス・サロメ(注:ゾーラ)のステージを見てアタリを付ける展開になっているが、このシーンは恐らくその代替案だったのではないかと思われる。
 当初の計画では、ミス・サロメのダンスのシーンはストップモーションアニメでミス・サロメの肢体に絡みつくヘビが描かれるハズだったが、予算的、及び技術的な問題からこれは廃案になってしまう。
 そのため、ミス・サロメのダンス自体が丸々カットになる可能性が出てきたため、その代替案としてこのシーンが撮影された可能性は高いと思う。
 バーテンダーがデッカードにアドバイスするという展開は、不自然ではないが唐突と言えば唐突だし、妙な違和感が感じられるからだ。
 後半の楽屋内でのゾーラとのやりとりは、完成版にもあるがカメラアングルの異なるアウトテイクである。 このショットだと、ゾーラがはいている肌色のパンツがハッキリと見える。
 後半部分にはセリフがなく、デッカードのモノローグのみで構成されているが、シーンエンドの編集がとても良い。 この直後のシーンに上手く繋いでいる。
 何度も記しているように、このアウトテイク版は未使用のフィルム素材を完成版のストーリー展開に相当するように編集したモノで、本来はこれ単体ではストーリーは成り立たない。 必要なシーンが決定的に足りないため、説明不足な部分が多過ぎてしまうからだ。
 が、この説明不足を説明過剰なモノローグが上手く補っており、アウトテイク版は1本の映像作品としてシッカリと完成している。
 なんとも皮肉なハナシではあるが、このシーンと次のシーンのカット繋ぎは、まさにこれを立証しているポイントと言えるだろう。


・人間の血ではない

 ゾーラの死のダンスのシーンだが、完成版とは別アングル。
 未使用のアングルが一つしかなかったのか、シーン全体は完成版より極端に短い。
 ただし、デッカードが野次馬の雑踏の中にレイチェルの姿を見つけるショットがあり、この後の展開が完成版と決定的に異なる。
 完成版では、雑踏の中に紛れ込んでいるのはリオンで、デッカードはリオンと死闘を演じ、その末にレイチェルが助けに入ってリオンを撃ち殺すという劇的な展開になるが、このアウトテイク版ではそれがない。
 そのため、リオンは生死不明のまま出番終了になっており、“6人目のナゾ”とは異なる議論を呼びそうな展開になっている。
 デッカードがリカーショップでチンタオを買う点に相違は無いが、ショットは完成版とは別アングルである。
 ちなみに、ココのモノローグは完成版とは内容が異なるモノの、雰囲気が似ている。
 デッカードが“回収”しているのは、ヒトではなく“ヒトに極めてよく似たアンリアル”だが、デッカードは心のどこかで罪悪感を感じており、それがブレードランナーを辞職した理由である。
 デッカードは、(自覚はなくとも)既にレプリカントに共感を覚えているのである。


・洗い流す

 レイチェルと共に自宅に戻ったデッカードは、流し台で血を洗い流す。
 完成版にもあるシーンだが、別アングル、別テイクで構成されている。
 このシーンには、完成ではカットされたレイチェルが椅子に座ってタバコを燻らすショットが含まれている。 サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』などでスティールが掲載されているので見覚えのある方も少なくないだろうが、完成版には未使用の映像素材である。
 また、このショットのヤングの足元に注目してほしい。 妙にテカっている。 理由は、この後のシーンの方が分かり易いので後述する事にする。
 血を洗い流したデッカードは、疲れて眠ってしまうのだが、完成版とは異なりチンタオの注がれたショットグラスを持っていない。 明らかに別テイクである事が分かる。
 が、カットが切り替わって一旦レイチェルを映し、再びデッカードが映るショットでは完成版と同じくショットグラスを持っている!
 連続するカットでこうした不整合が起こる事は、実は映画ではよくある事で、近年の映画でも細かく観ていくと時々見かける。
 言われないと気付かない程度のテクニカルエラーだが、ミスはミス。 気を付けて頂きたいモノである。
 また、そのショットグラスだが、完成版ではレイチェルが奏でるピアノの音で目を覚ましたデッカードが、グラスの中身をこぼしてしまうのだが、このアウトテイク版ではレイチェルがショットグラスを取り上げて部屋を出て行くという演出になっており、デッカードがグラスの中身をこぼしてしまうような事はない。


・“離さないで”

 前のシーンからカットが切り替わると、唐突にデッカードとレイチェルの濃厚なラブシーンが始まる。
 完成版にもあるシーンだが、これはそれよりも長いロングバージョン。 デッカードがレイチェルの太ももをまさぐるショットなどがあり、レイチェルの下着なども見えてしまっているため、レーティングに引っかかる恐れからカットされたモノと思われる。
 ココで、先ほどのレイチェルの足が妙にテカっていた理由を解説しよう。
 サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』でも触れられているが、衣装を担当したチャールズ・ノードとマイケル・カプランは、レイチェルに未来世界らしい衣装を着せようと考え、“未来世界のストッキング”を思いついた。 が、その方法はいたって単純で、ショーン・ヤングの太ももに黒いテープを張り、そこから下にオイルを塗っただけ。 ヤングの足が妙にテカっていたのは、足に塗ったオイルのためで、これはノードとカプランが考えた“未来世界のストッキング”だったのだ。
 結果的に、完成版ではこのアウトテイク版にあるレイチェルの太もものアップがカットされたため、観客には何がなんだかさっぱり分からない表現になってしまっていたが、このアウトテイク版でようやくそれが正しく示されたと言えるだろう。
 トコロで、レイチェル役のヤングもデッカード役のフォードもこのシーンは嫌っているようで、撮影中も二人はあまり話す事も無く不仲だったと言われている。 複数の関係者の証言がそれを裏付けているが、当時のヤングはまだ新人で、撮影現場に不慣れなトコロがあったらしい。 そのため、監督のスコットはヤングに付きっ切りで演技指導をしたが、フォードに対してはそういう事がほとんどなかったようだ。
 これが原因で、スコットとフォードの不仲説を生む事になったが、好意的に考えれば、スコットがフォードの演技を信頼していたからだと言える。 何も言わなくても、フォードの演技なら問題ないと、スコットは考えていたのだろう。
 しかし、当時のヤングはまだ若く、世間知らずでやや情緒不安定なトコロがあったため、放っておけなかったのだろう。
 しかし、これが原因となり、スコット、フォード、ヤングの間に妙な三角関係が出来てしまい、ギクシャクしたコトになってしまったのだろう。
 そして、そのギクシャクした関係がこの極めて濃厚な、ある意味乱暴なラブシーンに結実したのだと思われる。
 ……まあ、筆者の想像ですけどね?


・創造主

 再びデッカードがホールデンを見舞うシーンである。 ホールデンの出番が異様に多いのもこのアウトテイク版の特徴だが、レイチェル=レプリカントをデッカードが抱いた事をホールデンが嘲る。
 これ自体にはあまり意味はないが、ホールデンはブレードランナーとしてレプリカントに共感していないのに対し、デッカードはレプリカントに、少なくともレイチェルには共感を憶えている事を示すシーンである。
 このシーンがカットされたのは、先のホールデンを見舞うシーンがカットされてブライアントのブリーフィングのシーンに差し替えられたため、このシーンも合わせてカットされる事になったのだろう。
 ココでホールデンが登場しては、唐突過ぎて観客が混乱してしまうからだ。
 それはともかくとして、このシーンで重要なのは後半部分である。
 なんと、このホールデンとデッカードの会話をブライアントとガフが監視モニター越しに聞いているのである。
 なぜ二人が?
 仮に、デッカードを監視するのがガフの役目だとして、ブライアントはこの版の冒頭でデッカードがモノローグで説明していた通り、どんな情報にも通じている事情通だから、とするならば、この二人の行動にはある程度納得出来るフシがある。 彼らの仕事は、レプリカントの“回収”ではなく、“識る事”なのだ。
 だが問題は、“識る”意味はどこにあるのか? である。
 情報とは、知っているだけは何の意味もない。 データを集め、情報を収集し、HDDがいっぱいになってほくそ笑んでいるだけでは、自己満足以上の意味は無く、蒐集したデータにはそれ以上の価値はない。
 何故なら情報とは、それを何らかの形で利用するための道具であり、利用する事に価値があるのであって、情報それ自体には、実はそれほど大きな価値はないからだ。
 だから、HDDいっぱいのデータには価値がない。 どんなにデータを蒐集しても、時間が経過すればその情報はいずれ価値を失う。 情報は、鮮度こそが命だからだ。
 情報とは、常に流動させておき、勝手に更新させておいた方がずっと価値がある。 更新される度に、情報は常に鮮度を取り戻すからだ。
 必要なのは、これを蒐集し、溜め込むのではなく、常に流動している情報をユーザーの都合によっていつでもどこでも簡単に取り出せる手段を確保しておく事である。
 インターネットは、まさにそれを具現化したモノである。
 ネット上に流れる情報は、常に流動し、どこかの誰かが勝手に最新情報に更新してくれる。 そして我々は、インターネットブラウザで検索ワードを入力すれば、いつでもどこでも、ユーザーの都合で最新情報が手に入るのである。
 では、この場合のブライアントとガフはどうか?
 彼らは、確かに情報を収集している。 そして、それを記録として溜め込んでいる。
 しかし、先にも記したように、情報を溜め込む事には何の価値もない。 何故なら情報は、何らかの形で利用した時に初めて、情報としての価値を発揮するからである。
 すなわち、ブライアントとガフは、こうして溜め込んだ情報を何らかの形で利用しようとしていると想像出来る。
 ならば問題は、何のために?
 ココで、先ほど“重要”と記したデッカードのモノローグを思い出していただきたい。
 この両者に関連が見出せなければ、この後の解説はきっと理解出来ない。
 ちなみに、このシーンは加藤が著書の中で散々っぱら繰り返し繰り返し述べていた“オレが見たモノをお前にも見せられたらな”の具体例でもある。
 デッカードは何を見ているのか?
 そして、ブライアントとガフは何を見ているのか?
 登場人物たちは、一体何を見ているのだろう?
 そして、観客たる我々に、何を見せようとしているのだろう?
 ブライアントとガフの視点は、あるいは映画を見ている我々観客の視点と同じなのかもしれない。
 もう一つ、先ほどの“重要”に絡むホールデンのセリフが終盤に出てくる。
「神さ。」
 この、極めて抽象的かつ概念的存在は、原作においてはウィルバー・マーサーという形で非常に重要な意味を持つが、その重要性は、形を変えて『ブレードランナー』にもしっかりと組み込まれている。
 レプリカントたちは、タイレル社に押し入って何を探していたのか?
 チュウを殺してまでも手に入れたかった情報とは何か?
 そして、セバスチャンに接触しているのは何のためなのか?
 そう、全てはホールデンがココで言っている通り、“神”を捜しているからである。
 では、ココで言う“神”とは、いったい何の事なのか?
 そして、レプリカントたちが“神”を捜している理由は?
 以上を踏まえて、この後のシーンを観て頂きたい。


・タイレル・コーポレーションのセキュリティ・プロトコル

 さて、ロイがチェスを口実にセバスチャンと共にタイレルを訪ねるシーンである。
 完成版にもあるシーンだが、完成版ではカットされた部分が含まれているロングバージョンである。
 ロイとセバスチャンが乗っているエレベーターの広さが確認出来たり、タイレルがホットミルクを飲んでいるショットが含まれているワケだが、あまり意味がないショットなのでテンポを良くするためにカットされたモノと思われる。
 タイレルが株式投資の指示をしている点は相違無し。
 受付の音声が完成版とは異なる。
 この後の、ロイがタイレルを殺すシーンは、音声のみで表現されているが、“あえて見せない”というホラー映画的演出になっている点が面白い。
 スコット監督の『ブレードランナー』の前作に当たる『エイリアン』でも、エイリアンに襲われる登場人物の悲鳴が聞こえるだけで、画面はその様子を物陰から伺っている猫を映し出し、観客は猫が見ているであろう光景を“勝手に”想像して恐怖心を膨らませる。
 ホラー映画の常套手段が、このアウトテイク版では編集テクニックとして導入されているワケだ。
 それとは関係ないが、ロイのセリフが“畜生”になっている。 これは“父さん”にしてほしてかった。 この後のロイのセリフ(注:日本語字幕では“君か?”になっているが、ロイはハッキリと“ma'm?”と言っている)と噛み合わないので。
 また、この帰りのエレベーターのシーンで聞こえてくるコンピュータの音声ガイダンスは、英語ではなくフランス語である。 シティ・スピークと同じく、この世界では言語的国境が低くなっている事の証と言えるだろう。
 そもそも、タイレル社の巨大な社屋は、旧約聖書に登場するバベルの塔そのモノであり、驕り高ぶったヒトの愚行の具現であるが、その塔は神の怒りを買う事無く毅然とその雄姿を天空へとそびえ建たせている。
 そして、かつて神が分かった言語を再び一つに統合させた“シティ・スピーク”を使い、言語的国境を極めて低いモノにしている。
 何故なら、神はもう既に天空には存在せず、この世界の神は、バベルの塔の頂上に降臨しているからだ。
 そしてロイは、その神を殺した神の似姿たる神の子であり、父親殺しのオイデプスなのである。


・接近

 デッカードが警官に職質されるシーン。
 完成版にもあるシーンだが、デッカードが身分を偽ろうとするショットが含まれ、警官の去り際のセリフが完成版とは異なる。
 スピナーを吊るしているワイヤーがハッキリと見えるテクニカルエラーが修正されていない点は相違無し。(笑)
 このシーンで重要なのは、レプリカントたちの目的、すなわち4年間の寿命の延命をレイチェルがデッカードに教えたというモノローグがある点である。
 完成版では、実はデッカードはレプリカントたちの目的を知らないまま物語りが進行し、そのままエンディングとなる。
 観客には、ロイとセバスチャン、ロイとタイレルの会話からこれが説明されているが、デッカードには全く説明されないままである。
 デッカードがレプリカントたちの目的を知らないという点は、原作と同じ設定なのだが、このアウトテイク版ではレイチェルによってその情報がデッカードにもたらされる。
 が、実はこれは、物語りの進行上は全く以ってどーでも良い事だったりする。
 結局のトコロ、デッカードはブレードランナーとしてレプリカントを“回収”するのが目的なのであって、彼らが何をしているのか? あるいは何がしたいのか? などという事は、仕事の支障になるだけで識る意味の無い事だったりする。
 しかし、これが作品のテーマを語る上では、実に重要な事になる。
 デッカードは、レプリカントたちの目的を知らなくても、彼らを“回収”する事には何の支障もない。 それは飽くまでも事務的に、極めて機械的に行われる“作業”に過ぎないからだ。
 しかし、彼らの目的を識る事によって、レプリカントにも生命の基本フォーマットである自己保存本能があり、彼らをヒトの似姿として認識出来なくなり、彼らに人間的感情としての共感を憶える。 結果、デッカードはブレードランナーという仕事に疑問を抱き始め、最終的にレイチェルとの愛の逃避行に帰結する。
 デッカードがレプリカントたちの目的を識る事は、デッカード自身の人間性の再発見のために必要な事なのだ。
 完成版でこの要素がカットされたのは、モノローグが総入れ替えになった事と、物語りの主軸がデッカードとレイチェルのラブストーリーに絞られたためだ。 その点に置いては、ガフの最後のセリフが重要になってくるので、これさえ入っていれば特に問題はない。
 また、デッカードとレイチェルのラブストーリーがしっかりと語られていれば、デッカード自身の人間性の再発見についても、レイチェルというデッカードが共感を憶える対象が存在しているので、やはり特に問題はない。
 逆に、デッカードがレプリカントたちの目的を識る事は、説明が重複するし観客を混乱させる恐れがあるため、これをカットしたのはある意味正解だろう。
 ココで、先の“風変わりな天才”のチャプターと同じく、セバスチャンのアパート、ブラッドベリ・ビル周辺の俯瞰ショットが映し出されるが、先のモノとは別素材で、特殊効果の完成度が微妙に上がっている。
 こちらのショットが先に製作され、先のショットが後から製作されたのかもしれない。
 また、ブラッドベリ・ビルが第9区にある事がモノローグで示される。
 デッカードが車を降りてビルに入っていくショットは、他のバージョンにはないショットで、完成版ではあまりよく見えなかったデッカードのセダンの背面のディテールが確認出来る貴重なショットである。


・一瞬に生きる

 で、イキナリだがクライマックスである。
 ロイが自然死するシーンは完成版にもあるが、完成版とはキャストの演技が異なる別テイクである。
 また、飛び立つハトのショットも、完成版とはロケーションが異なる。
 飛び立つハトのショットは、本来ロイが自然死するシーンと同時に撮影されるハズだったが、雨でずぶ濡れになったハトがちゃんと飛び立ってくれず、後日撮影し直されたショットだが、このショットを見る限り、少なくとも2回(注:完成版とアウトテイク版)撮影されたようだ。
 そして、デッカードのモノローグは、この後ワークプリント版に唯一残される事になったモノローグと同一の内容で、完成版とは異なる。
 独特の雰囲気のあるこのモノローグは、フィンチャーが初期に書いたモノローグがほぼそのまま撮影台本に使われたモノで、デッカードがロイに対して共感している様子が伺える点が興味深い。
 このモノローグのままなら、完成版のモノローグに対する評価も多少なりとも変化していたかもしれない。
 このシーンで最も重要なのは、このモノローグの後に現れるガフのセリフである。
 完成版とは異なるセリフになっており、
「だが、あなたは“人間”か?」
 という、デッカードがレプリカントである可能性を示唆する事を、“デッカードを監視していたガフ”が言う。
 超重要ッ!!
 これを踏まえて、次の2種類のエンディングを観て頂きたい。


・もうひとつのエンディング その1

 完成版で問題になったハッピーエンディングの別バージョン。
 完成版では、北へ向かう車中のデッカードとレイチェルの様子が映し出されるだけだが、このアウトテイク版には峠道をひた走るデッカードのセダンの空撮ショットが含まれている。 このショットを観れるのは、アウトテイク版だけである。
 また、ココに重ねられるデッカードのモノローグは、当然完成版とは異なる内容だが、北、すなわちカナダへ向かっている事が語られ、原作にある“カナダの方にはまだ緑が残っている”という記述と一致している事が分かる。
 また、ラストの山並みの風景ショットは、『メイキング・オブ・ブレードランナー』に記述がある通り、曇っていてあまり良い景観とは言えない。 そのため、これはアウトテイクになり、完成版では映画『シャイニング』のオープニングシーンのアウトテイクが借用されたというワケだ。


・もうひとつのエンディング その2

 さて、問題のハッピーエンディング別バージョン、その2である。
 このシーンは、先の“その1”と編集が異なるモノの、ほぼ同じ素材が使用されているが、大きく異なるのは“その1”がデッカードのモノローグのみで構成されていたのに対し、この“その2”では車中のデッカードとレイチェルのセリフで構成されている点である。
 で、問題なのはそのセリフで、レイチェルがデッカードに“元妻”の事を訊ねたりして結構長い会話になっているのだが、その終盤でレイチェルが、ハッキリと、キッパリと、「私たちは一対で作られた」と、デッカードがレプリカントである事を明言しているのである!
 もうお分かりだろう。 この項で度々、僕が“重要”と記した要素の意味が。
 デッカードは、レイチェルの“対の存在”として同時に生産されたレプリカントである。
 これを仕組んだのは、もちろんこの作品世界でバベルの塔の最上階で神として君臨しているエルドン・タイレルである。
 タイレルは、ネクサス6型レプリカントの進化系として、ネクサス7型レプリカントを設計した。 そして、その試作品が、デッカードとレイチェルなのである。
 タイレルは、本来は作業用ロボットに不要な感情が芽生えないように、ネクサス6型レプリカントには自殺遺伝子を組み込み、4年間の寿命を与えた。
 レプリカントを工業製品として考えた場合、これは極めて必要な措置である。 何故なら、感情が芽生える事で気分に浮き沈みが発生し、ユーザーの言う事を聞かない機械などナンセンスだからだ。 スタンドアローンで制御不能な兵器が存在しないのと同じく、主人の言う事を聞かない従者など、いったい誰が使うと言うのか?
 レプリカントが“機械”であるためには、4年の寿命は必要な事なのだ。(注:さらに言うなら、企業としてもこれはメリットになる。 4年毎に買い換える必要が出てくるため、ユーザーに常に新しい製品を買い続けてもらえる。 結果、会社の利益が上がるので。 その昔、家電メーカーが買い替えを促進するために自社の製品が一定期間で壊れるように細工しているというウワサが実しやかにささやかれたが、この作品世界ではそれが現実のモノになっているというワケだ)
 しかし、タイレルは企業家としての現実だけでなく、科学者としての夢を同時に持ち合わせている。 それが、完成版でデッカードがレイチェルにVKテストを行うシーンでタイレル自身の口から語られる。

「我々は人間以上の人間を目指している。」

 ネクサス6型レプリカントは、その第一歩として超人的な肉体と天才的な頭脳を与えられた。
 先ほど述べたように、工業製品であるために4年の寿命が与えられているが、タイレルの夢はネクサス6型レプリカントによって実現に向けて前進した。
 そしてタイレルは、夢を完全に実現するために、ネクサス6型レプリカントの欠点である4年の寿命を廃止した“人間以上の人間”、すなわち最新型レプリカントであるネクサス7型を設計する。 そして、その試作品としてレイチェルを作った。 レイチェルには寿命がない事は、完成版の同じシーンでタイレル自身がハッキリと述べている。
 だが、タイレルの実験はレイチェルだけに止まらなかった。 タイレルは、レイチェルと対になる男性型の試作品も作っていたのだ。
 それがデッカードである。
 レイチェルには、“タイレルの姪”という擬似過去が与えられ、デッカードには“元ブレードランナー”という擬似過去が与えられた。 そして、二人が偶然から出会うように仕向けるため、何らかの方法でロイたちを地球に忍び込ませ、ブライアントとガフを使ってデッカードにロイたちを追わせ、その過程でレイチェルに偶然出会ったと思い込ませるシチュエーションを与えた。
 そう、二人が人間的感情たる他者への共感能力を発現し、恋に落ちるように仕向けたのだ。
 だから、ブライアントとガフはデッカードを監視していた。 デッカードの様子を観察し、データを集めてタイレルに報告するためだ。
 集めた情報が、ココでようやく“情報”としての意味を持つのである。
 飛躍していると?
 いや、していない。 何故なら、デッカードにタイレル社にいるレプリカントをテストしろと言ったのは、他ならなぬブライアントだからだ。(注:完成版参照)
 そして、「あなたは“人間”か?」とデッカードに問うたのは、やはりデッカードを監視していたガフである。
 レイチェルは、デッカードがモノローグしていた通り“タイレルの企み”に気付いた。 しかしそれは、デッカードの想像とは異なったモノだ。
 デッカードは、レイチェルが擬似過去を与えられたレプリカントである事を知っているが、タイレルにとってはそれは大した隠し事ではない。 何故なら、レイチェルにデッカードを引き合わせた時点で、デッカードのVKテストによってそれが彼女にバレる事ぐらいタイレルは先刻お見通しだ。 それが予測出来ないタイレルではない。
 そして、レイチェルが自らの事を識った事により、デッカードに接近する事も、やはりお見通しの予定通りの行動である。
 そして、デッカードとレイチェルは、タイレルの思惑通り人間的感情たる他者への共感能力を発現し、二人は恋に落ち、そして互いに求め合う。 最終的に、それは二人の愛の逃避行へと結実する。
 ガフが二人を見逃したのは、タイレルの指示に二人の殺害がなかったからだ。 このシュミレーション実験が失敗した場合はそれもあり得ただろうが、結果として成功したので、ガフは二人を見逃した。 本来なら、二人はこの後タイレルによって“回収”され、ネクサス7型レプリカントの量産のために分解され、データ収集され、破棄される予定だったと考えられる。
 タイレルにとっての唯一の誤算は、ロイが予想以上に感情的になり、自分が殺されてしまった事である。 自ら死を望む神などいない。 ロイの予想外の行動は、まさに神殺しの大罪となった。
 が、これにより自由を手に入れたデッカードとレイチェルは、神の似姿として生を与えられ、永遠の園を追放された人類最初の男と女、すなわちアダムとイヴになったのである。
 何故なら、タイレルはバベルの塔の最上階に降臨した神であり、デッカードとレイチェルは、その神によって生を与えられた存在だからだ。
 だから、デッカードはレプリカントなのである。
 ……まだ納得出来ないか?
 いいだろう。 決定的な証拠を挙げよう。
 タイレルの唯一の誤算である自らの死。 このシーン(注:完成版参照)において、タイレルの私室に現れたロイに対してタイレルは開口一番こう言う。

「遅かったな。」

 何故、“遅かったな”なのだろう?
 何故、“よく来たな”ではないのだろう?
 ロイを歓迎するのであれば、“よく来たな”がセリフとしては妥当である。
 逆に、歓迎していないのであれば、“何故来た?”が妥当である。
 しかし、どちらの場合であっても、“遅かったな”は妥当とは言い難い。 何故なら“遅かったな”という言葉は、“その人が来る事が分かっていた場合”のみに限られた言葉だからだ。
 そう、タイレルは、ロイが自分に会いに来る事を“予想済み”だったのだ。 何故ならロイたちの目的である4年の寿命の延命は、タイレル自身にその方法を聞くしかないからだ。
 これが予測出来ないタイレルではない。
 だから、“よく来たな”でも、“何故来た?”でもなく、“遅かったな”になるのである。
 さらに、このシーンでロイたちがタイレルに会うための口実として利用したのは、何だっただろうか? そう、チェスである。
 チェスの基本は、相手の手を読む事である。
 相手の手を読み、こちら側のピースを配置して、タイミングを合わせて一斉に襲い掛かり、相手のキングを取るのがチェスというゲームなのだ。
 そして、タイレルは天才的な頭脳の持ち主であるセバスチャンを以ってしても、まだ1回しか勝った事がないほどのチェスの名手なのだ。
 相手の手を読み、ピースを配置し、まんまと相手のキングを取る事にかけては、右に出る者無しなのだ。
 何故なら、タイレルはバベルの塔の最上階に降臨した、この作品世界の神だからだ。
 加藤が著書の中で散々っぱら述べている通り、映画『ブレードランナー』にはことある毎に眼球を模した“円形のモティーフ”がスクリーンに映し出される。
 冥界風景を見つめる巨大な目。
 バスタブの中で揺らめく光の輪。
 チュウのラボの入り口に掲げられた眼球のモニュメント。
 回転するルーフファン。
 ロイにつぶされるタイレルの眼球。
 etc、etc。
 これらの“円形のモティーフ”は、加藤が指摘している通りロイがチュウに言い放ったセリフ、「オレが見たモノをお前にも見せられたらな」に引っ掛けられた視覚のメタファーである事は明らかで、スコット監督もインタビューの中で“意図的なモノ”と明言している。
 だが、間違えてはいけないのは、このメタファーが示しているのはロイ=真の主人公ではなく、“神の視点”である。
 聖書的世界観の中では、神はいつでも我々を見ている存在で、我々の行いを識っている存在であるとされている。
 だから、死して天の御国へと迎え入れられるように、皆さん祈りなさいと教えるのである。 何故なら神は、我々の良い行いも見られておいでだが、悪い行いもまた、ちゃんとご覧になっておいでだからだ。
 キリスト教的世界観が定着していない日本ではあまり考えられないだろうが、聖書的世界観が定着しているアメリカやヨーロッパでは、これはまさに人々の行動原理の根本を成していると言える。
 で、あるならば、映画のそこかしこでスクリーンに映し出される“円形のモティーフ”が、“神の視点”のメタファーであっても何の不思議もない。 神はこれほどまでに、いつでもどこでも、何をしていても、我々の事をお見通しなのだ。
 ただし、ココで言う“神”とは、文字通りのソレではない。 ココで言う“神”とは、この作品世界においてバベルの塔たるタイレル社の最上階に降臨したレプリカントたちの創造主である、エルドン・タイレルその人の事だ。
 タイレルは、聖書が語る神よろしく、デッカードたちの行動をブライアントとガフに監視させ、逐一報告させ、いつでもデッカードたちを見ている“神”そのモノなのだ。
 神は、最初から最後まで全てお見通しで、タイレルは自らの夢の実現のため、この箱庭世界たるチェスボードでシュミレーション実験をしていたチェスの名手なのである。
 だから、デッカードはレプリカントなのである!
 これだけ言ってもまだ分からんのけッ!?


to be continued...

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154.異説『ブレードランナー』論:5.量産③

2011年07月31日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #12-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 今週はシフトの交代があって時間がないのでとっとといきます。
 あ、その前に一言だけ。

ペプシ・カリビアンゴールド、今回はフツーにイケますね。(笑)

 さ、まずはいつもの連載コーナーをどうぞ。


‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐

 AiC2nd、デイドリッククエスト編。
 今回はサングインのクエストです。
 場所はコチラ。(↓)
Blog0874  スキングラッド北部、コロールとの間ぐらい。
 この、ジョッキを片手にどや顔のオッサンがサングインです。
 必須レベルは8以上。 供物として“シロデリック・ブランデー”が必要です。(注:神像通りお酒好きなので)
 ただし、シロデリック・ブランデーはお酒の一種ですが、アイテムアイコンがナゼかポーション系になっており、お酒だと思っていると持っていても見落とし易いので注意が必要です。
 Aliceちんはナゼかすでに持っていた(注:何処で手に入れたか憶えてねーッス)ので事無きを得ましたが、ダンジョンなどで手に入るコトが多いようです。 アルケミ屋さんとかでも手に入るとか。
 それはともかく、今回の指令はレーヤウィンのお城で毎夜行われている地味ぃ~~な晩餐会に潜入し、ちょっとイタズラして楽しい宴会にしておあげなさいというモノ。
 さすがデイドラ。 人の迷惑なんざカン無視です。
 で、特殊な魔法を授かったら、一路レーヤウィンに向かいます。
Blog0875  レーヤウィンに着くと、お城の一室の前にガードが立っています。 彼に話しかけると、晩餐会には限られた人しか参加出来ず、午後6時~午後8時までは関係者以外立ち入り禁止との事。
 しかし、このガードさんはちょっと頭が弱いので、正装(注:ちょっとよさげな“服”を着ればおk)して見た目を良くすれば、カン違いしてカンタンに入れてくれます。
 ……それでいいのかレーヤウィンガード! 他人事ながら心配です。(笑)
 んで、会場に入るとすでに晩餐会が始まっている様子。
 しかし……。
Blog0876  サングインの言う通り、かなり地味ぃ~~な晩餐会。 参加者の皆さんも、つまらなそうにモソモソと食事しているだけ。
 宴会は楽しくなきゃいけません。 飲んで食って騒いでこその“宴会”です。
 で、ココで魔法を使うワケですが、この魔法は使うと違法行為になり、ガードに捕まってしまい前科が付いてしまいます。 しかも、このクエストに無関係の人に使ったり、使ったトコロを見られてしまうと、問答無用で人々が襲い掛かってきます。
 そこで、彼らに見つからないようにコッソリと使わなければいけないワケですが、……部屋の奥に、イイカンジで隠れられそうなトコロがありますね。 あそこに隠れましょう。
 そして、スニークモードで魔法を使います。
 すると!?
Blog0877  wwwwwwwww
 全員マッパ。(笑) EC外しておいて良かった。(笑)
 ちなみに、この魔法は遠距離魔法ですが効果範囲が結構狭く、全員にかけられない事が多いので、全員にシッカリとかけないとクエスト達成になりません。
 また、全員にかけてもクエスト更新ダイアログが出る前にガードに捕まってしまうと、やはりクエスト不達成になってしまうので注意が必要です。
 魔法をかけ、全員がマッパになった状態(注:ちなみに、PCも同様にマッパになる。 所持品はお金も含めて全て、一時的にイベントリー画面から消えてしまいます。 ただし、クエスト完了後に取り戻せるのでご安心を)で、ガードに捕まる事なくクエスト更新ダイアログが出れば、オブジェクティブコンプリートです。
 ダイアログが出た後であれば、ガードに捕まってもクエストの進行に支障はありません。 前科が付きますが、逃げるか服役するかしてやりすごしましょう。
 で、解放されたら、一路神像に戻ります。
Blog0878  神像に戻ると、サングインからお褒めの言葉を頂き、報酬を頂いてクエスト完了になります。
 失っていた所持品は、神像のそばにある宝箱の中に入っています。 忘れずに取っておきましょう。
 なかなか愉快なクエストですが、スキングラッドからレーヤウィンまでの往復が一番大変かも。(笑) レベルが低い内なら、スキルアップ&レベルアップも兼ねるので逆にファーストトラベルを使わない方がいいですが、Aliceちんぐらい高レベルになってしまうと煩わしいだけです。 僕は迷わずファーストトラベルしました。
 んで、今回の報酬はコチラです。(↓)
Blog0879  バラの花を象った杖。
 ただし、チャージが3000もあるのに使用回数10回て。
 ソウルジェム貧乏になりそうな杖ですが、ランダムでデイドラを召喚する杖だそうです。 プチパルプンテ!(笑) サングインらしい愉快な効果ですね。
 ちなみに、サングインはお察しの通り快楽と道楽を司るデイドラ。 オブリビオン界の宴会部長といったトコロでしょうか?
 さて、次回はノクターナルのクエストを攻略する予定です。 お楽しみに!


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第12回です。
 今週と来週の記事は、本連載の最重要パートです。 ココロしてお読み下さい。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


7.アウトテイク版(初出:07年12月)

 本来は異版ではなく、25周年記念盤の特典映像として収録された未公開シーン集(注:25周年記念盤ディスク4の“構造”のメニュー)で、ロージリカが“発掘”した素材を繋ぎ合わせた47分の“短縮版『ブレードランナー』”というべきバージョンがこれである。
 未公開のショットやテイクを繋ぎ合わせたモノだが、作品としてちゃんと起承転結があり、加えて作品の解釈に影響を与えるシーンが含まれているため、本書では異版の一つとして扱う事にした。
 また、他のバージョンとの相違点や、新たに見つかった映像素材に関してはソフト版がリリース前だった事もあり、『メイキング・オブ・ブレードランナー』でもあまり詳しく記されていないので、本書では同書を補完する意味でこれも記す事にした。
 この項は少し長くなるので、気長に読み進めて頂きたい。
 ちなみに、“アウトテイク版”という名称は、本書独自のモノなのであしからず。


‐相違点‐

 まずは相違点について記していく。
 先ほど記した通り、アウトテイク版は未公開シーンやアウトテイクを繋ぎ合わせたモノなので、これ以外のバージョンでは観る事が出来ないシーンやショットのみで構成されている。
 そのため、正確な意味では“相違”ではないのだが、時系列に沿って全24のチャプター全てを順番に解析し、相違点を検証していく。
 なお、チャプタータイトルは25周年記念盤、日本語版に準拠している。


・もうひとつのオープニング

 完成版のオープニングは、真っ黒な画面にタイトルとキャスト、主要スタッフのオープニングクレジットがテクストで表示されるという非常にシンプルなモノだったが、アウトテイク版のオープニングは非常に凝った構成になっている。
 画面中央に青い帯が縦に走り、その中を巨大な水の滴が一滴、また一滴と落ちていく。 そして、画面左右の真っ黒な部分に、シンプルなテクストのオープニングクレジットが順次表示される。
 ハイスピードカメラ(注:通常、カメラのフレームレートはfps24だが、これよりもフレームレートが高いカメラを総称してこう呼ぶ。 fps120~300程度がほとんどで、これで撮影して再生の際に通常のfps24に戻すと、ゆったりとした滑らかなスロー映像になる。 中には、fps600~1200という超高速カメラもある)を使用した滴のゆったりとした滑らかな動作は、完成版で度々スクリーンに映し出される眼球を模した“円形のモティーフ”であり、これをオープニングからいきなり観客に示す目的があったモノと思われる。
 音楽は完成版と相違無く、ヴァンゲリスの特徴的なシンセサイザーが印象的なオープニングタイトルの楽曲が使用されているが、注目すべきは水の滴の動きである。 音楽と完璧にシンクロしており、音楽がまるで効果音のような役割りを果たしている。
 この事から、ヴァンゲリスはオープニングタイトル曲をこのオープニングに合わせて作曲、編曲したモノと考えられる。
 このオープニングが最終的にボツになったのは、恐らくこの後に来る“冥界風景”のショットを際立たせるためだろう。 オープニングクレジットでいきなり特殊効果を使用したショットを見せては、“冥界風景”のインパクトが薄れるからだ。
 ちなみに、『ブレードランナー』ではハイスピードカメラ(注:ゾーラの死のダンスのシーン)と同時にアンダークランクカメラ(注:プリスの死のダンスのシーン。 通常よりもフレームレートの低いカメラで撮影し、再生時にfps24に戻すと実際よりも早送りの映像になり、人物の動作が速くなったように見える)も使用されている。


・デッカード

 いきなり“平家物語”の琵琶の音が入り、完成版の“冥界風景”とは異なるイスタブリッシング・ショット(注:都市の遠景ショットの事。 “この物語はこんな風景の街で展開しますよ”という世界観設定説明を兼ねた映像テクストの一種)がスクリーンに映し出される。
 このショットは、映画『メトロポリス』のオープニングやミニチュアを使用したイスタブリッシング・ショットに似ており、『メトロポリス』のオマージュだと思われる。 また、後のバートン版『バットマン』のイスタブリッシング・ショットにも似ており、『バットマン』が『ブレードランナー』の影響を受けている事が確信出来る。
 上空を飛び交うスピナーや広告飛行船がカメラに近く、そのディテールの細やかさをしっかりと見る事が出来るのも特徴だ。
 ただし、街の風景はマット画だが、画質の調整がされていないため明らかに“絵”と分かってしまう。 この事から、シーンが未完成のままお蔵入りになった事が分かる。
 続くクレーン・ショットは、完成版ではカウンター席しか映らなかったスシ・バーの裏側が見える貴重なショット。 使えば良かったのに。 もったいない!
 ちなみに、この背景で聴こえている広告飛行船の宣伝文句は、完成版よりも長い。
 カメラがデッカードに近づくと、デッカードが腰を下ろしている商店のショーウィンドウ全体が映し出される。 どうやらカメラ屋だったらしい。 筆者はずっと、TVなどを扱う家電ショップだと思っていた。(注:だってショーウィンドウにTVが並んでるしぃ~)
 ちなみに、奥のアーケードには漢字の呈を成していない“日本語モドキ”が見える。 中国語にもこんな漢字はないと思う。
 また、ココからデッカードのモノローグが始まるが、内容は完成版とは全く異なる。 恐らくフィンチャーの脚本をベースにピープルズが書いた台本が使用された2回目の収録のモノだと思うが、飽くまでも推測なのであしからず。
 この途中で、再び広告飛行船の音声が聴こえてくるが、完成版では削除されたパートである。
 スシ・バーのカウンターに座ったデッカードは、別れた妻をモノローグする。 デッカードの元妻の設定が説明されており、実はこういう裏設定があった事が分かる。
 そして、デッカードは「ふたつで十分ですよ!」と店主に言われた魚(の焼き物?)を食べる。(注:このショットの画面右端に注目! ミツカン酢がある)
 ガフが登場し、“シティ・スピーク”でデッカードに話しかけるが、この時のデッカードの反応が完成版と微妙に異なる。 明らかにアウトテイクだという事が分かる。
 前半のイスタブリッシング・ショットはともかく、このシーンが使用されなかったのは、恐らくカメラアングルが気に入らなかったのだろう。 完成版と比較すれば分かると思うが、スコット監督らしいショットとはあまり言えない。


・ガフ

 シーンは替わって警察署の俯瞰ショット。 完成版とは異なり、天井の高い建物の構造が強調されている。
 サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』でも触れられている通り、警察署のシーンは駅の一角にセットを組んで撮影された。 警察署らしからぬ高く設えられた天井は、警察署ではなく駅の構内だからだ。
 面白いのは、この建物が先の2019年のLAを映し出したイスタブリッシング・ショットと不釣合いなほどレトロなデザインである点だ。 スコット監督が説明している通り、これはレイヤリングの一環で、未来社会は古い建物が取り壊されて新しい建物が建てられるのではなく、古い建物と新しい建物が同居する、現在のマンハッタンの延長線上にある事を示し、サイバーパンクの基本フォーマットを提示していると言える。
 また、ココでのデッカードのモノローグは、完成版では多少曖昧だったガフのキャラクターが詳細に説明され、野心的な新人のブレードランナーという設定である事が分かる。
 このシーンが使われなかった理由は判然としないが、助長と感じたのだろうか? あるいは、この前に来るハズの、デッカードとガフを乗せたスピナーが街中を飛び回る特殊効果ショットをたっぷり見せるためかもしれない。


・ブライアント

 コンピュータのモニターを前に、ブライアントからブリーフィングを受けるデッカード。 しかし、このシーンにはセリフが一切無く、モノローグのみで進行する。
 これでもうお分かりだろうが、雰囲気は完成版よりも良いのだが、明らかにモノローグが説明過剰である。 セリフどころか、映像すら必要ないほどだ。
 このように説明し過ぎているモノローグのため、映像の邪魔になっていると判断され、モノローグは一時ほぼ完全にオミットされる事になったワケだ。
 このシーンも、飽くまでもモノローグを入れるためのシーンなので、モノローグがカットされた事で不要になり、同時にカットされたモノと思われる。


・ホールデン

 さて、続いては瀕死の重傷を負ったホールデンをデッカードが見舞うシーンである。
 このシーンは、原作ではホールデンを見舞うのはブライアントである事が明記(注:ただし、見舞うシーンそのモノは描かれていない。 見舞いに行ったブライアントの口から、その時の様子が語られるだけ)されているシーンであり、本来ホールデンは死んでいない事が示される重要なシーンだが、映画を短くするために丸ごとカットされ、完成版ではホールデンはリオンに撃たれて死んだという事に設定が変更される事になった。
 また、完成版でブライアントが説明していた事を、このシーンではホールデンが説明しているが、「一人を殺して二人が逃げた」となっている。
 完成版では、「一人を殺した」事だけが説明され、後に“6人目のナゾ”の議論を生む事になり、ファイナル・カット版でようやく「二人を殺した」に改められたが、「二人が逃げた」という設定はこのアウトテイク版だけである。 設定がコロコロ変わった製作の舞台裏が分かるシーンである。
 このシーンで面白いのは、まずはなんと言ってもセットデザインである。 明らかに『ブレードランナー』の直前にスコット監督が撮った作品、『エイリアン』のコールドスリープベッドのデザインが流用されている。 壁に並んだモニターも、『エイリアン』に登場するコンピュータ、“マザー”のコントロール・ルームのデザインの転用である。
 『エイリアン』のコンセプト・アートはロン・コブが担当しているが、シド・ミードと作風が似ており、ミードはあるいはコブの作風を真似たのかもしれない。
 ホールデンが着ている患者服も、極めて突飛なデザインが特徴的で面白い。
 もう一つは、ホールデンが『宝島』を読んでいる点である。
 1881年~82年にかけて、子供向けの雑誌に連載されていたロバート・ルイス・スティーブンソンのこの不朽の名作は、1883年に最初の単行本が出版されていおり、その後1934年と50年にそれぞれ映画化されており、73年にはアメリカで。 87年には日本でそれぞれTVアニメ化されている。
 宿屋の息子がケンカして死んだ酔っ払い客の荷物から宝島の地図を見つけ、なんだかんだでお宝をゲットするという、いかにも児童文学らしい作品だが、ココで重要なのは、少年に協力して宝島に行くための船を調達するジョン・シルバーというキャラクターである。
 片足を失っているこの男は、実は海賊で、少年からお宝を横取りするのが目的だった。
 そして、船員達と結託し、船を乗っ取るのである。
 そう、この行は、ロイが地球にやってくるために宇宙船をハイジャックしたのととても良く似ている。 ココで、ホールデンが作品に似つかわしくない『宝島』を読んでいるのは、アウトテイク版ではあまり詳しく語られていないレプリカントたちが地球にやってくる過程を示唆しているモノなのである。
 なかなか面白い“仕込み”だが、極めて分かり難い。 観客を混乱させるか無視されるだけなので、カットされて正解だと思う。
 ちなみに、“緑のボタン”が押された時のモーガン・ポールの演技がとても良い。 いかにも気持ち良さそう。(笑)


・レプリカント捜査ファイル

 捜査を開始したデッカードは、ガフと共にタイレル社に向かう。 その移動中のスピナーの車内で、デッカードはガフから渡された今回のターゲットであるレプリカントたちのファイルに目を通すというシーン。 そして、デッカードがページをめくりながらレプリカントたちの設定を順次モノローグする。
 完成版では、ブライアントから受けるブリーフィングのシーンでブライアントから説明を受けるが、本来はこういうシーンが入るハズだった。
 しかし、その後設定が変更になり、警察署のシーンが撮影し直され、ブライアントが説明するという構成に変更された。
 ココで注目したいのは、ロイの製造年月日の設定。 ハッキリと明記されているワケではないが、デッカードのモノローグで“製造3年半”である事が説明されている。
 完成版では、ブライアントから説明を受けるシーンでコンピュータのモニターに表示されるロイの製造年月日は“2017年4月17日”になっており、“4年の寿命”という設定上、映画のラストでロイが自然死するのは論理的にあり得ないというテクニカルエラー(注:このエラーは、ファイナル・カット版でも修正されていない)が発生して議論のネタになったが、このアウトテイク版ではその矛盾が少なからず解消されている。
 と言うのも、最初の設定では作品の設定年代が“2020年”だったためで、完成版の設定でも矛盾は少ないのだが、製作中に年代設定が“2019年”に変更されたため、上記の矛盾がテクニカルエラーとして残った。
 そのため、アウトテイク版の方が矛盾が少なくなり、完成版の方が矛盾が大きくなってしまった、というワケだ。
 製作中に脚本がコロコロ替わった舞台裏をうかがい知る事が出来るシーンである。
 また、完成版でも一際印象的なロイの死のシーンでロイが口にする詩のようなセリフに出てくるタンホイザー・ゲートも、ベネズエラ・ムーンという別の設定と共にモノローグされる。
 あのセリフは、ロイ役のルトガー・ハウアーのアドリブだというのは最早有名なハナシだが、ハウアーはこのモノローグから着想してあのセリフを思い付いたモノと思われる。
 デッカードのモノローグの中に、ネクサス6型レプリカントが地球上では違法である事を語る行があるが、完成版ではこの辺りはあまり詳しく語られておらず、ただ単に地球外(注:オフワールド)で重労働に従事していたレプリカントが逃げ出しただけになっていた。 しかし、このアウトテイク版では、それに加えてネクサス6型レプリカントが地球上に存在している事自体がマズいという設定になっている。
 さらに、原作版と同じくネクサス6型レプリカントは最新モデルのため、VKテストの信頼性に疑問が残る事も語られている。
 第1章で記した通り、VKテストは飽くまでも心理学を応用した判別法のため、生理学的に判別し易い骨髄分析法の方が確実だが、これは被験者の同意を必要とする(注:人権などの問題のため。 レプリカントではなく人間だった事が証明されると、重大な人権問題に発展する恐れがある)ため、ネクサス6型レプリカントが発表された作品の設定年代でも、VKテストに頼るしかない状況がある事が伺える。
 このように、何度も記している通り『ブレードランナー』は、原作小説に極めて忠実な作品なのである。(注:ただし、完成版ではカットされて設定が曖昧になってしまったが)
 ちなみに、特殊効果が多様されているシーンだが、スモークが濃過ぎて遠景が全く見えない。 NGテイクであるのがよく分かる。
 改めて思うが、このモノローグは“モノローグ”としては非常に良く出来ている。 説明不足な映像を上手く補い、47分しかないアウトテイク版でもストーリーラインは非常にしっかりしており、『ブレードランナー』を観た事がない人でも、物語りや設定はかなり理解し易いハズである。
 しかし、完成版にこのモノローグを挿入される事を想像すると、説明過剰な上同じ説明を繰り返している部分が出てくるため、やはり入れない方がいいモノローグである。
 説明し過ぎは、逆に観客をウンザリさせてしまうのだ。


・ZERO-ZERO-ZERO

 タイレル社に到着したデッカードは、社長であるタイレルの希望でレイチェルにVKテストを試みる。
 完成版にもあるシーンであり、カット割りやカメラアングルも同じだが、フォードやヤングの演技が完成版とは異なっており、アウトテイクである事が分かる。
 また、完成版では原作を忠実に再現したデッカードの質問事項とレイチェルの回答がセリフとしてアクトされるが、このアウトテイク版ではデッカードのモノローグで構成され、62の質問をした後、さらに28の質問をした事が語られている。
 最後の質問には相違はない。
 このシーンは差し替えられて当然だ。 デッカードとレイチェルの問答をモノローグで済ますなどとんでもない! 完成版のように、原作に忠実である事が重要なシーンだからだ。


・フンタバーサ1187

 タイレルとの接見を終えたデッカードは、リオンの宿泊していたフンタバーサホテルに向かう。 ココで、後にゾーラを探し出す手がかりとなるヘビのウロコを見つけるのだが、演技の異なるアウトテイクというだけで、完成版とは基本的に相違は無い。(注:もちろん、デッカードのモノローグは除く)
 ただし、完成版では削除された部分が含まれており、完成版よりも長いシーンになっており、室内を歩き回るデッカードと共に室内の様子も映し出され、部屋の様子がよく分かる構成になっている。 2019年という設定年代にしてはかなりレトロな、製作当時の1980年代、いや、それよりももっと古そうな、場末の小さなしけこみ宿といった雰囲気の部屋である。
 このシーンで最も重要なのは、シーンの終わりでバスルームからリオンが出てくる点である。
 この設定は、元々脚本にもあった設定で、バスルームの天井に張り付いているリオンの姿も撮影されるハズだったが、時間が足りず未撮影に終わり、設定を変更して完成版のホテルの窓を見上げているリオンというシーンになった。
 もしも撮影されていたら、かなりショッキングなシーンになっていた事だろう。
 この辺りの詳細は、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の151頁に詳しく記されている。
 ちなみに、リオンがガフの“オリガミ”を摘み上げるショットがあるが、完成版ではこれを逆再生し、ガフがチェストに“オリガミ”を置くショットとして転用されている。
 映画とは、編集室で作られるモノなのだ。(笑)


・チューの専門パーツ

 デッカードとガフが居なくなった事を確かめたリオンは、ホテルを後にしてヴィド・フォン・ブースの前でロイと合流する。
 完成版では、ロイの手のアップと振り返るロイのショットが挿入されたために短くなっているが、このアウトテイク版ではリオンがヴィド・フォン・ブースの前まで行くやや長めのショットが含まれている。
 それ以外は、キャストの演技が異なるだけで完成版とほぼ相違無しだが、ナゼかデッカードのモノローグが挿入され、チュウのキャラクター設定が説明される。
 ……いや、セリフじゃないんだから決しておかしいワケではないのだが、場違いと言えば場違い。 ロイがチュウに会いに行ったのをデッカードが知っているのは、論理的にあり得ないから。


・帰路にて

 デッカードが自分のセダン車を運転してアパートに帰るシーンである。
 完成版では、トンネルを通るショットだけが使用されたが、このアウトテイク版ではトンネルに入る前のショット、及びトンネル内で警官がスピード違反らしき車を止めている脇をデッカードのセダン車が通り抜けるショットがある。
 この時、完成版ではほとんど良く見えなかったデッカードのセダン車と、地上走行モードのスピナーのディテールがハッキリと見える。
 コンセプチュアル・アーティストのシド・ミードは、元々工業機械の設計を生業としていた人物で、技術的に極めて理に適ったデザインを得意とするデザイナーである。
 車やスピナーのこうしたディテールは、彼なりの工業製品としてのこだわりが感じられるモノがあると言えるだろう。
 また、完成版ではデッカードの回想、あるいは車の小型モニターで再生されていると思われるホールデンがリオンに撃たれる瞬間の音声が聞かれるが、このアウトテイク版ではチュウが殺された事を想うデッカードのモノローグが重ねられている。
 このモノローグにある通り、ロイたちがチュウを殺すシーンと、デッカードがアパートに帰るシーンは同時進行で、時間軸的にはほぼ同時に起こっている出来事である。
 故に、この時点ではデッカードはまだチュウの死を知らないワケで、このモノローグはやはり場違いと言わざるを得ない。
 例えば、モノローグ演出がフォーマットになっているフィルムノワールでは、往々にして主人公がそぼ降る雨に濡れながら、大都会の路地裏に倒れ込み、死にかけているトコロから物語りは始まる。
 そしてモノローグにて、「こんなハズじゃなかった……。 全ては、あの時から始まったんだ……。」といった内容が語られ、物語りは死にかけている主人公の回想として展開していく。
 すなわち、死にかけている主人公が“現在”で、展開する物語りは、そこに至るまでの過程としての“過去”というワケだ。
 これならば、物語りの進行上これから起こる出来事であったとしても、モノローグを語っている主人公にとっては既に過去なのだから、このような“主人公が知り得ない情報”が語られても何の不思議もないし、違和感も無い。 もう既に、コトは起こってしまっているからだ。
 フィルムノワールではないが、『ファイトクラブ』やアメコミヒーロー映画の『ディア・デビル』でもモノローグ演出が利用されているが、この暗黙の了解が守られているからこそ、モノローグが効果的な演出になっているのである。(注:『カジノ』や『ムーランルージュ!』もそうだね)
 しかし、『ブレードランナー』に限ってはこのフィルムノワールにおける暗黙の了解が破られている。 デッカードにとっての“現在”は、物語りの進行と完璧に同期しており、デッカードにとってはこの一連の事件は過去ではないのだ。
 トコロが、このようにフィルムノワールの基本フォーマットたる“過去を語る主人公”のモノローグが入る事によって、主人公にとっての“現在”が曖昧になってしまっている。
 だから、このモノローグには違和感が感じられてしまうのである。
 完成版のモノローグは、この点を解消しようと努力された形跡が見られるが、今度は逆に言っている事が抽象的になり過ぎてしまい、モノローグとしての意味が薄れ、圧倒的なヴィジュアルの邪魔になってしまっている。
 このシーンで注目すべきは、実は未公開映像の方ではなくデッカードのモノローグの方なのだ。
 ……ただし、雰囲気が決して悪くない印象になっているのは、フィルムノワールの基本フォーマットに忠実だからであり、アウトテイク版が本来必要なシーンが相当数省かれた短縮版だからだ。
 省かれたシーンの代わりとして、モノローグがしっかりとその役割りを果たしているからだ。
 なんとも皮肉なハナシである。


・風変わりな天才

 プリスとセバスチャンの登場シーンである。
 シーンの最初に、通りを歩くプリスをかなり高い位置から俯瞰で捉えたショットがあるが、特殊効果が未完成で、ショットが完成する前にボツになったのが分かる未公開ショットである。
 注目してほしいのは、画面左上と右下。 地面の一部が無く、下の階層が見えている。
 この事から、『ブレードランナー』の舞台である“2019年のLA”は、超高層建築が立ち並び、ある程度の間隔で高架道路が縦方向に折り重なっている多層構造都市である事が分かる。
 これは立体都市構想の一種で、都市の外周を四方八方に広げていくのではなく、ミルフィーユのように縦方向に何層にも重ねていくという都市構想だ。 映画『メトロポリス』でもこれは表現されており、夢の未来都市のヴィジュアルデザインの基本フォーマットになっている。
 続く中景も、マットペインティングが実写プレートと馴染んでおらず、明らかに未完成だと分かるが、画面の奥の方にぼんやりと、多層構造が確認出来る。
 ブラッドベリ・ビルの軒先のゴミ溜めに隠れるプリスの演技は、完成版とは微妙に異なりアウトテイクである事が分かる。
 また、セバスチャンの乗っている車は“アルマジロ・バン”という名前があるのだが、そのディテールが良く確認出来るカットがある。
 で、そのアルマジロ・バンなのだが、セバスチャンに見つかったプリスは、突然走り出してアルマジロ・バンにぶつかってしまう。 この時、完成版ではプリス役のダリル・ハンナは勢い余ってバンの窓ガラスを割ってしまうのだが、このアウトテイク版では割れてない。
 これは、『メイキング・オブ・ブレードランナー』にも言及がある通り、ハンナは最初のテイク(注:アウトテイク版)では割らなかったのだが、テイクを重ねた時(注:完成版)に勢い余って割ってしまい、大怪我をしてしまうほどのアクシデントだった。
 しかし、ハンナは痛む腕を堪えて演技を続けたため、結果的にこれがOKテイクとなり、完成版に使われたのである。
 まさに怪我の功名である。(笑)
 ちなみに、アウトテイク版のこのシーンは、完成版と比較して画面全体がかなり明るい。 完成版では、編集で画質が調整され、暗くされた事が読み取れる。
 また、このシーンの冒頭に重ねられているデッカードのモノローグでは、ネクサス6型レプリカントの“4年の寿命”という設定が説明される。
 先にも記した通り、このアウトテイク版ではレプリカントたちの製造年月日が明確に示されておらず、しかし“製造から3年半が経過”という点は示されており、間もなく寿命を迎える事がココに来て明らかになるが、完成版のような大きな矛盾は無い。 設定としては、比較的理に適っている。
 ……街の総人口まで示されてますね。 1億600万人。 原作とは比較にならないほどの過密都市である。
 もうひとつ、セバスチャンのキャラクター設定も説明されているが、完成版では説明されていなかった手の設計が専門という点が説明されている。
 ちなみに、完成版ではサックスの音が印象的なヴァンゲリスの音楽が重ねられているが、このアウトテイク版にはそれがない。 デッカードのモノローグを重ねるためにオミットされたようだ。


・記憶

 デッカードがリオンの部屋から押収した写真を見ているシーン。
 完成版では、このシーンはカットされ、ユニコーンの夢が挿入されるが、本来はこういうシーンが先にあったワケだ。
 ココで重要なのは、デッカードが別れた元妻、すなわち原作に登場するイーライの事をモノローグする点である。 ご丁寧に、デッカードとイーライが肩を組んでポーチに立つスナップ写真も大きく映し出される。
 完成版では、イーライのキャラクターはスシ・バーのシーンのデッカードのモノローグでかろうじてその存在が伺える程度だが、このアウトテイク版ではちゃんと身のあるキャラクターになっている。
 写真を持ってコンピュータ(注:エスパー)に向かうショットと、コンピュータで写真を調べているショットは、カメラアングルが完成版とは異なる。 また、コンピュータのモニターに表示されるハズのグリッドがなく、ドットになっている。 特殊効果が未完成のままお蔵入りになったアウトテイクのためだ。 本来は、このドットをガイドラインとしてグリッドをオプチカル合成してようやく完成する。
 この時重ねられるデッカードのモノローグに、「スパンコール、これを見たのは20年ぶりだ」という行がある。 この事から、2019年のLAではスパンコールがかなり時代遅れな代物である事が分かる。 映画が製作されていた80年代当時は、流行の最先端だった。
 ちなみに、最後にデッカードが見つけるゾーラは、完成版と同じくジョアンナ・キャシディとは別人であり、この点に相違は無い。


・うろこ

 完成版には全く無いシーン。
 映画の冒頭で登場したスシ・バーが再び登場し、デッカードがハシを使ってヌードルを食べるシーンである。
 完成版では、デッカードがヌードルを口にするショットが皆無(注:器を手に持ってハシで弄んでるだけ)だが、このアウトテイク版にはこのようにちゃんとハシを使って食べているシーンがある。
 このシーンは、デッカードがリオンのホテルのバスタブから拾ったウロコを魚のウロコではないかと思い付くシーンで、ディテクティブ・ストーリーの基本フォーマットに準拠して構成されたのは明らかだが、助長と言えば助長だ。 映画全体のテンポを良くするためにカットされたのではないかと思われる。
 後半は、アニモイド・ロウでウロコを調べるシーンである。
 アニモウド・ロウで老女にウロコを調べてもらうシーンが展開するが、 電子顕微鏡の拡大写真は完成版とは異なるが、シリアルナンバーは完成版と相違無し。
 喧騒に包まれ、混沌としたアニモイド・ロウの様子を映し出すショットは、完成版とは大きく異なる別素材。
 デッカードのモノローグによって、アブドル・ベン・ハッサンがエジプト人である事が説明されている。 ただし、ハッサンの名前は一切出てこない。
 ハッサンから4区にあるタフィー・ルイスのバーの事を聞き出すという点は相違なし。
 後半のアニモイド・ロウのシーンは、完成版にもあるシーンで構成も良く似ているが、映像素材は全てアウトテイクなのでアニモイド・ロウ独特の喧騒や混沌とした様子、いかがわしい雰囲気が薄れている感がある。


・バーにて

 デッカードがタフィー・ルイスのバーを探し、そこに入っていくシーン。
 シーンの冒頭は、完成版では長らく“行方不明”になっていたワークプリント版とファイナル・カット版でしか観る事の出来ないホッケーマスクダンサーのショット。 ただし、完成版とはカメラアングルが異なるアウトテイクで、完成版のショットでは観る事が出来なかったアタリ社(注:アメリカ最大のコンシューマゲームメーカー。 1980年代当時、アメリカでも販売が開始された任天堂のファミリー・コンピュータと双璧を成すメーカーだったが、後にスーパー・ファミコンがリリースされて一気にシェアを奪われあえなく倒産。 再建した現在は、ハード開発から撤退し、PCを中心にしたゲームソフトの開発、販売を行っている。 日本では正規リリースされているタイトルは極めて少ないが、Valve社が開発したゲームソフトのダウンロード販売専用インターネットブラウザ、Steamに参入しており、完全英語版のダウンロード版なら日本からでも購入&プレイ可能)の看板が大きく映し出されている。
 通りの雑踏の中を歩くデッカードのショットでは、完成版ではあまりハッキリと見えなかったアルマジロ・バン(注:セバスチャンの車の同型車)の後部のディテールを観る事が出来る他、やはりあまり注目されないエキストラの衣装もよく見える。 おおよそ1930年代~40年代の古めかしいファッションを踏襲しているモノの、近未来的な配色は過去と未来が現在で同居するサイバーパンクのフォーマットであり、『ブレードランナー』がその先駆的な役割りを果たした事が明確に読み取れる。
 ただ、ココに重なるデッカードのモノローグは、非常にかったるく要領を得ない内容で、蛇足的になってしまっているのが残念だ。
 しかし、極めて重要な一言が含まれている。
「タイレルたちの企みに彼女は感づいてるかもな」
 ……コレ重要。
 すごく重要。
 詳細は後述にするが、このモノローグを憶えておいてほしい。
 また、コレが語られるバーのシーンを含め、この一連のシーンにはセリフが一切無く、全てモノローグで語られている。
 何度も記しているが、このアウトテイク版のモノローグは、全体的に雰囲気がとても良い。 フィルムノワールのフォーマットたるモノローグ演出を踏襲し、内容も決して悪くない。 が、やはり説明過剰でせっかくの映像の邪魔になっている感は否めない。
 とても残念な結果になっていると思う。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


お手軽。

Lmc54Felmoon Air Fortress Ver.1.2

 プレイ動画『天空の城』でも紹介されていた古代エルフ族の遺産。 文字通りの“天空の城”。 持ち家として利用出来、蒐集したアイテムの保管場所に最適。 外観が異なる『Dawn』(注:キレイ)と『Dusk』(注:荒れ放題)の2種類から選べるが、ロケーションが同一で競合するため同時に導入出来ない。 今回は『Dawn』をセレクトしたが、espファイルのみのシンプルなMODなので、導入がとてもラク。
 玉座の左右には、エンチャント台と魔法作成台がある。(注:上図はエンチャント台) 本来は、メイジギルドのクエストをこなしてメイ大に入学しないと使えないが、このMODを導入すれば苦も無く使えるようになる。
 ただし、ソウルジェムやお金、必須スキルは同様に必要。



Thanks for youre reading,
See you next week!

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153.異説『ブレードランナー』論:5.量産②b

2011年07月25日 | 異説『ブレードランナー』論

‐初リマスター化‐

 さて、ハナシが逸れてきたのでそろそろ戻す事にしよう。
 25周年を記念すべく製作されたファイナル・カット版は、しかし元々は2002年の20周年の時に、記念盤と同時にリリースされる予定だった。
 01年頃、ロージリカの手によって大量の未公開フィルムが“発掘”された事により、記念盤にふさわしいコンテンツを満載したソフト版のリリースが予定され、同時にファイナル・カット版の製作も決定した。 実際、スコットもこれにはやる気を見せていた。
 が、実現しなかった。
 理由は大きく二つある。
 一つは、権利上の問題である。
 当時、『ブレードランナー』の著作権はバド・ヨーキンとA・ジェラルド・ペレンチオ(注:両者とも、映画の“完成保証人”としてクレジットされており、製作中に予算オーバーが確定した映画は、契約に従って法的に彼らの所有物になった)が所有しており、スコットどころか配給元であるワーナーですら、自由にする事が出来なかった。 この法的問題が解決出来なかったのが、20周年記念盤のリリースがお流れになってしまった一番の要因である。
 もう一つは、スコット監督が忙し過ぎて、全く手を付けられなかったからだ。
 1980年代後半以降のスコットは、松田優作の遺作となった『ブラックレイン』を初め、複数の作品が興行的にも評価的にも極めて高いポイントを示し、ヒットメーカーとしての地位を確固たるモノにしていたが、『グラディエーター』でオスカーを受賞し、名実共に一流監督の仲間入りを果たしたスコットは、当時複数のプロジェクトを抱えており、文字通りの目の回るような忙しさにあった。 そのため、ファイナル・カット版の製作に全く時間を割けなかったのだ。
 結局、2002年の20周年記念盤は発売中止となり、ファンは2007年まで待たされる事になった。
 しかし、2005年に法的問題が解決し、加えてスコットにもようやくヒマが出来、25周年に間に合わせるべく、再びファイナル・カット版の製作がスタートした。
 このファイナル・カット版では、02年にロージリカが“発掘”したフィルムを使用して、失われたショットの追加、及びそれに伴う既存のシーンの短縮(注:元々、モノローグを入れるための“間”が必要だったため、セリフが全く無い助長なシーンが多く、映画の前半部は特にそれが顕著。 しかし、個人的にはこの“間”が結構スキだったりする。 スコット監督の長編2作目に当たる『エイリアン』では、映画の前半部がかなりゆったりしたペースで進み、山場はせいぜいスペースジョッキーとエッグチェンバーを発見するシーンぐらいしかない。 最初の40分間は、ほとんど何も起きないと言ってもいい。 しかし、衝撃的なチェストバスターのシーンを境に、映画はどんどんテンポアップしていき、ラストまで一気に駆け抜けていく。 映画『ブレードランナー』でもこれは同じで、前半は非常にゆったりとしたペースで進み、しかし中盤辺りからどんどんテンポアップしていく。 スコット監督の初期の作品は、一貫してこのテンポアップ演出が光る作品が多い)が行われているが、これらは大した変更点ではない。 失われたショットの復活と既存のシーンの短縮は、飽くまでも古くなってしまった映画を現代的にするためのモノで、初めて『ブレードランナー』を観る若い世代にもアピール出来る作品にするためだ。(注:カット数を増やす必要があるため。 映画のカット数は年々増加の傾向にあり、80年代以前の作品と近年の映画を比較すると、同じ2時間の作品でもカット数が2倍近くになっている作品も少なくない。 カット割りを細かくした方が映画のテンポが速くなり、観客の集中力を維持させる事が出来るため。 昔の作品を今観ると、1カットがやたらと長い作品が多い事に気付くハズである)
 しかし、それよりも重要なのは、既存のシーンに初めて手が加えられた点である。
 スコット監督を形容する言葉として、“完璧主義者”という語がよく用いられる。 それは、自分の望んだ映像が撮れるまで何度でもリテイクを繰り返し、スタッフに無理難題を強いて、自らのヴィジョンを忠実に再現するその姿勢のためである。 そのため、スコットはスタッフやキャストから嫌われる事も少なくない。
 しかし、そんなスタッフやキャストも、最後にはスコットを信じる他なくなってしまう。 何故なら、そうして撮影された映像が、常に鮮烈で観客を圧倒する映像に仕上がっているからだ。
 ちなみに、スコット監督のこの完璧主義は、CMディレクター時代に養われたモノと思われる。
 TV‐CMというのは、最長でも30秒。 最短だと僅か10秒しかない極めて短い映像だが、その製作の舞台裏は、時には映画1本分に匹敵する苦労がある事も少なくない。
 なにせ、僅か30秒である。 この僅かな時間の中で、商品名と商品の特徴を的確に、しかも明確に表現し、視聴者の購買意欲をそそるような、一度観たら決して忘れる事が出来ないようなインパクトのある映像を作らなくてはならない。 しかも、映画よりも極めて厳しい時間的、金銭的制約の中で、である。
 完全なアイディア勝負であるCM業界においては、完璧な映像が常に求められるのである。
 そのため、CMの撮影では僅か数秒のために3桁にも及ぶリテイクが重ねられるのは最早当たり前で、その苦労たるや想像に難しくない。 それもこれも、より完璧な映像を作るためなのだ。
 そんなCM業界の第一線で活躍していたスコット監督が完璧主義者になるのは、むしろ必然と言える。 同様に、TV‐CMやビデオクリップで名を馳せたデイヴィッド・フィンチャーや、“ヴィジュアル・モンスター”の異名を持つターセムもまた、スタッフやキャストがうんざりするほどリテイクを繰り返す事で有名だが、それもこれも、自らのヴィジョンを実現するためには必要な事なのである。
 しかし、そんなスコット監督であるにも関わらず、映画『ブレードランナー』に限っては映画のそこかしこにミスが目立ち、映像としての完成度は実はあまり高くなかった。 いわゆるテクニカルエラーである。
 もちろん、先にも記したように『ブレードランナー』の製作は常に時間的、金銭的制約との闘いであった。 そのため、テクニカルエラーが生じてもこれを修正するだけの時間的、金銭的余裕は無かったのかもしれないが、それにしても多過ぎるという印象が強い。
 例を挙げると、冒頭でタイレル社の一室で窓際に立っているホールデンの姿が映し出されるが、次の室内のショットでは、窓はホールデンの遥か頭上にあり、窓の外からホールデンの姿が見えるワケがない。
 電話ボックスに入っているロイは、リオンが扉をノックする音で振り返るが、その時居るハズのない“誰か”の手がロイの右肩に乗っているのが見える。
 デッカードは、コンピュータで写真からゾーラの姿を見つけ出すが、この時のゾーラの顔はジョアンナ・キャシディとは全くの別人である。
 ゾーラの死のダンスのシーンでは、それまで何も無かったのに、仰向けにされたゾーラの左ほほに突然ヘビのタトゥが浮かんでいる。
 デッカードを職質する警官のスピナーが上昇する時、スピナーを吊るしているワイヤーがかなりハッキリと見える。
 等々。
 このようなテクニカルエラーは、挙げればキリがないほどいくらでも出てくる。 設定の変更からセリフが修正されないまま公開(注:正確には、修正したがナゼか元に戻された)されてしまい、“6人目のナゾ”という議論を生む事になったりもしている。
 完璧主義者のスコット監督とは思えないようなこれらのミスは、92年のディレクターズ・カット版製作の際に修正するチャンスはあった。 しかし、ようやくCGIの有用性が実証されたばかりで、フィルムの加工技術がまだ未熟だった当時は、高価だった事もありやりたくてもやれなかった。
 もちろん、スコット監督自身が“ユニコーンの夢”に執着するあまり、これらのテクニカルエラーの修正に全く頓着しなかったのも、理由として考えられる。
 いずれにしても、これらのテクニカルエラーは修正されないままになってしまったが、21世紀を迎え、技術的にも十分修正が可能になったのを期に、ファイナル・カット版では全編に渡って点在するテクニカルエラーの修正が重点的に行われた。
 その結果、ファイナル・カット版はストーリー的、あるいは設定上の矛盾を克服し、全くミスの無い完璧な、本来の意味での“完成版”になったと言えるだろう。(注:ただし、それでも修正されないままになっているテクニカルエラーがいくつかある。 これは、技術云々以前にセットやキャストを揃えて撮り直すしか修正のしようがない根本的なミスのため。 冒頭の窓際のホールデンや、デッカードがブライアントから説明を受けているシーンのレプリカントたちの製造年月日など)
 そして、テクニカルエラーの修正と同時に、映画『ブレードランナー』では初めて行われたのが、デジタルリマスター化である。
 デジタルリマスターとは、古くなったフィルムをスキャニングしてコンピュータに取り込み、フィルムに付いたキズやゴミ、汚れを消してより美しい映像にマスタリングし直す技術の事である。
 元々は、ジョージ・ルーカスが映画『スターウォーズ』シリーズの旧三部作のVHSソフトの再リリースのために、古くなってしまったマスターフィルムに本来の美しさを取り戻そうとILM社に開発させたTHXデジタリーマスタードが最初で、旧三部作は公開時以上に美しい映像を取り戻す事に成功した。
 現在は、リマスター専用の映像修正ソフトが複数開発されており、古くなったフィルムを自動的に認識し、簡単にリマスター出来るソフトもあるほどポピュラーな技術になっている。(注:ただし、自動だけだとゴミが完全に取り除けなかったり、逆に本来あるべき映像まで消されてしまう事もあるため、細かいトコロはまだまだ人手が必要な発展途上の技術である)
 こうしたソフトが開発されたおかげで、先に記した『メトロポリス』の完全復元版BDソフトがリリース出来たのは確かだ。
 しかし、既に90年代には実現していたこの技術が、『ブレードランナー』にはナゼかこれまで適用されてこなかった。 コストの問題もあるだろうが、ファンとしてはそう簡単に納得出来る事ではない。
 事実、『ブレードランナー』は一度ディレクターズ・カット版(注:当時の最終版)がDVD化されているが、VHSをそのままMPEG2フォーマットにエンコーディングしただけで、リマスターどころかセーフティエリアの調整(注:アナログ信号のVHSには、ブラウン管TVの周囲で映像が切れてしまわないように映像が記録されていない真っ黒な“余白”が含まれている)もされておらず、LDどころかVHSにも劣る低質なモノであった。
 こういった諸要素を取り除き、公開時以上に美しい映像が蘇ったファイナル・カット版は、まさに“完成版”=“最終編集版”=“ファイナル・カット版”と呼ぶにふさわしいバージョンになったと言えるだろう。


 作品の解釈的な面では、ディレクターズ・カット版から大幅な変更をされているワケではないので、異版というよりはディレクターズ・カット版のアップデート的な位置付けになると思われる。
 とにかく、本来の意味での“完成版”であるこのバージョンは、同時に本当の意味での“最終版”でもある。 芸術家の意図として、「これが最後! これで終わり! もう語る事はない!」という明確な意思表示がなされたこのバージョンの解釈を、我々観客は無条件で受け入れなければならない。 これを否とする事は、名画を切り刻む愚行を犯すも同然である。
 どうしても受け入れられないと言うなら、それはアナタがこの作品を嫌いなのと同義であり、ファンでいる事を辞めなければならない。 ファンで居続けたいのであれば、芸術家の意図を理解し、それを無条件で受け入れなければならないのだ。
 筆者自身、最初はインターナショナル版が一番スキだった。 モノローグもハッピーエンディングも気に入っていた。 しかし、ある時それが間違いだと気付き、ディレクターズ・カット版を受け入れた。 今では、ディレクターズ・カット版はファイナル・カット版と並んでスキなバージョンである。
 映画ではないが、アニメやマンガで、時々どうしても受け入れ難い作品になってしまっている作品を見かける事がある。
 例を挙げると、『コードギアス』シリーズや『ぼくらの』、『ガンスリンガーガール』などがあるが、『コードギアス』や『ぼくらの』は、もう作品そのモノが嫌いな作品になったが、『ガンスリンガーガール』はTVアニメの1stシーズン以外は、2ndシーズンも原作も受け入れられない。 どちらも明らかに描き方を間違えている。 どちらも、芸術家の意図そのモノなのに、である。
 ……まあ、最初に観たのがTVアニメ1stシーズンだったからかもしれない。 完成度が高過ぎて、他が低質に見えてしまう感は否めない。
 映画『ブレードランナー』において、ディレクターズ・カット版やファイナル・カット版を受け入れられないのは、これに似たトコロがあるやも知れず。
 いずれにしても、『ブレードランナー』のファンで居たいのであれば、芸術家の意図たるディレクターズ・カット版とファイナル・カット版は、受け入れて然るべきバージョンなのである。
 ちなみに、ファイナル・カット版の相違点の詳細については、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の483頁~502頁を参照されたし。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


実験くん。


Felmoon Air Fortress Ver.1.2

 プレイ動画『天空の城』でも紹介されていた古代エルフ族の遺産。 文字通りの“天空の城”。 持ち家として利用出来、蒐集したアイテムの保管場所に最適。 外観が異なる『Dawn』(注:キレイ)と『Dusk』(注:荒れ放題)の2種類から選べるが、ロケーションが同一で競合するため同時に導入出来ない。 今回は『Dawn』をセレクトしたが、espファイルのみのシンプルなMODなので、導入がとてもラク。
 室内の奥には玉座があるが、その向かって左側に、錬金術の道具が一式揃ったデスクがある。 周囲には収納も豊富で、錬金素材を入れておくのに便利。 アルケミストキャラを使っている方にオススメ。



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See you next week!

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153.異説『ブレードランナー』論:5.量産②a

2011年07月24日 | 異説『ブレードランナー』論

-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #11-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先日の台風、皆さんの在住地域はどうでしたか?
 今回の台風は、風はそれほどだったように感じましたが、それより何より雨がスゴかった上、普段の台風に比べて足が遅い遅い。 僕の在住地域もほぼ直撃でしたが、丸2日も雨が降り続きました。
 が、それにも増して摩訶不思議だったのが、台風通過後の天候です。
 台風一過が無し!?Σ(゜Д゜;)
 通常、台風は温かく湿った空気によって発生し、台風通過後は太平洋高気圧を活性化させ、いわゆる“台風一過”となって暑い夏の原因になるワケですが、気温は平年並みかそれ以下に止まり、朝晩は肌寒さを感じるほどでした。
 まあ、節電のためにはその方がいいんですが、台風一過を見込んでアイスやドリンクを大量発注したこっちの身にもなってほしいです。 おかげで在庫の山が……。
 何にしても、今年の夏は昨年の夏とは違う意味で異常です。 皆さんもご注意下さい。(←どーやって!?)


 それとは関係ありませんが、『Beyond』のVol.2は予定通り、25日にUPします。 お楽しみに!


 それでは、今週も連載コーナーからどうぞ。


‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐

 AiC2nd、デイドリッククエスト編。 今回は、ヴァーミーナのクエストです。
 場所はコチラ。(↓)
Blog0866  シェイディンハルの南、小さな湖の畔に、ヴァーミーナの神像があります。
 クエスト開始条件が非常に厳しく、必須レベルは5以上ですが、供物としてなんと“ブラックソウルジェム”が必要です。
 元々入手し難いアイテムで、メイジギルドのキャンペーンで入手出来る以外は、基本的に入手不可能です。 MODを導入してこれを取り扱うショップを追加するか、コンソールでチートする以外に手が無いです。 僕はチートしました。つД`)゜。
 で、供物を捧げるとヴァーミーナ様より有り難いお言葉を賜り、Arkvedなる人物に奪われたオーブを奪還せよというクエストを与えられます。
 場所はコチラ。(↓)
Blog0867  神像の北にある砦に入っていきます。 Aliceちんお得意のダンジョン攻略です!
 で、このダンジョン。 内部構造が非常に特殊で、トラップやニセモノの扉が多く、しかも敵として大量のデイドラ系のクリーチャーがエントリー(注:レベルによる。 高レベルだとかなり大量になる)されています。
 しかし、そこは弓の達人Aliceちん。 闇討ちボーナスでバッタバッタと敵をなぎ倒しながらダンジョンを奥へと進んでいきます。
 ……って、ナンダコレ?(↓)
Blog0868  家具が天井に?
 上が下で下が上?
 …………。(´・ω・`)?
 まあ、空間利用の劇的ビフォアアフターと言っておこう。(?)
 それはさて置き、ダンジョンは中規模程度の比較的大きなモノで、基本的には一本道なので迷う事はまずありません。 敵を倒しながらさらに奥へと進んでいきます。
 とぉッ!?
Blog0869  ぅおぉいなんだこりゃ?
 何処だよココ。 何故にオブリビオン界のオブジェクトが?
 ちなみに、落ちたら戻ってこれないそうです。 気を付けましょう。
 そんなこんなでとにかくダンジョンをひたすら奥へと進んでいきます。
 ヴァーミーナの説明によると、目的のオーブは信者の夢の世界から持ち去られたモノで、夢の世界を現実化する力があるらしいです。
 ってコトは、このダンジョンはオーブを奪ったArkvedさんの夢が具現化した世界ってコト?
 ……どんな夢見てんだよ。
 ってぇッ!!
Blog0870  今度はデッカいのかよ!?
 周りに転がっているのはゴーレム系のクリーチャーの死体ですが、彼らの寝床なんでしょうか?
 ただし、この部屋にある宝箱や地下室に降りるドアはナゼか逆に超ミニマム。 見落とし易いので注意が必要です。
 でもって……、
Blog0871  中にはこんな部屋も。
 これがArkvedさんの夢の具現化したモノならば、彼はきっと子供の頃スゴいイジメられっ子だったのでしょう。 んで、夢の中でイジメっ子に復讐してたんですよきっと。 そんで、オーブを手に入れたらそれが具現化してこーなったと。
 ……イイッスね! 僕にもそのオーブ下さい。(←マテ)
 さて、そのArkvedさんですが、
Blog0872  居ました。 ベッドで呑気に寝てます。
 ……お客さまをお迎えする時はもーちょっと部屋を片付けた方がいいッスよ?
 それはともかく、この部屋のテーブルの上に目的のオーブがあるので、これをゲットしたら左図の奥に見えている扉に入りましょう。 ショートカットして外に出られます。
 外に出たら、再びヴァーミーナ様の神像に向かい、有り難いお言葉を頂いてオーブを返還すれば、クエスト完了です。
 で、今回の報酬はコチラ。(↓)
Blog0873  とっても悪趣味な杖です。
 こういう系統の装備がスキな人にはたまらないモノがあるかもしれませんが、これはさすがにAliceちんの趣味ではないので大事ボックスにしまっておきます。
 クエスト開始条件が極めて厳しいですが、ダンジョンの構成が非常にユニークで、比較的大きめなのでやり応えのあるクエストだと思います。
 ちなみに、Arkvedさんは夢の世界に行ったきり帰って来ない(起きない)ので、イタズラし放題、……じゃなかった。 一切反応しないので、スニークスキルが低くても攻略には支障がありません。
 また、ヴァーミーナはもうお分かりの通り夢を司る女神。 主に悪夢を司るデイドラだそうです。


 以上、今週の連載コーナーでした。
 では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ!



<今週の特集>

 今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第11回です。
 前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。


5.ディレクターズ・カット版(初出:92年9月)

 1992年、映画の初公開から10年を経て公開される事になった“異版”が、このディレクターズ・カット版である。
 このリリースに先立ち、1989年にある重大な“発掘”があった。 上映用70ミリプリントのワークプリント版の発見である。
 マイケル・アリックによって“発掘”されたこのワークプリント版は、しかし最初は誰も、これがワークプリント版だとは気付かなかった。 ただ単に、高画質の70ミリプリントとしか考えられていなかった。
 時折しも、ホームビデオの普及で『ブレードランナー』が再評価され、カルト的な人気を得るまでになっていた頃である。 これを期に、この70ミリプリントを映画祭などで上映しようという企画が浮上したのは、至極当然の成り行きと言える。
 トコロが、上映された映画に、集まった観客は我が目を疑った。
 あるべきシーンがない。 観た事も無いシーンがある。 あるハズのモノローグとハッピーエンディングがない。 ラスト20分余りの音楽が全く異なる。
 映画を観終わった観客は、この『ブレードランナー』(?)がいったい何なのか理解出来ず、ただ呆然とするしかなかった。
 この『ブレードランナー』(らしき映画)は、ウワサがウワサを呼び、いつしか“ディレクターズ・カット版”と呼ばれるようになり、全米数箇所で限定的に上映された。 その度に、劇場には入り切らないほどの人々が大挙して詰め掛けた。
 この現象は、スタジオやスコット監督も知るトコロとなり、仮に“ディレクターズ・カット版”と呼ばれていたワークプリント版に代わる本当の意味での“ディレクターズ・カット版”を製作、公開しようという事になった。
 こうして、再編集されて公開されたのが、現在我々が観る事が出来るディレクターズ・カット版である。


‐サイバーパンクの完成‐

 ディレクターズ・カット版は、インターナショナル版よりもアメリカ国内版に近く、3点が異なっているだけで編集上の相違点は極めて少ない。(注:サモンは4点の相違を挙げているが、暴力シーンが短縮されているのはアメリカ国内版と同じなので“相違”とは認められない)
 しかし、この“極めて少ない相違”が、現在も続く長い長いエンドレス・ディスカッション、エターナル・クエッションの原因になっているのは確かだ。
 まず、モノローグとハッピーエンディングが削除された点についてだが、これはあって然るべきカットである。 何故なら、映画『ブレードランナー』はSFであり、サイバーパンクという新しいジャンルの作品だからだ。
 確かに、フィルム・ノワール、古典的ハリウッド映画としての『ブレードランナー』を語るならば、加藤が指摘している通り、その基本フォーマットであるモノローグ演出とハッピーエンディングは必要不可欠なモノである。
 チャップリンの名作のひとつ、『サーカス』という作品では、放浪紳士が偶然からサーカスの団員になり一躍トップスターになるという内容だが、空中ブランコ芸人のマドンナに恋するも、二枚目の綱渡り芸人に心ときめかせるマドンナと綱渡り芸人の恋のキューピット役になり、放浪紳士は失恋し、サーカス団からも去る、
 失意の放浪紳士は、しかしまあいいかと気持ちを切り替え、沈み行く夕日に向かって歩き出すのであった。
 まさに古典的ハリウッド映画の象徴たるチャップリン作品の中でも、一際爽やかなラストシーンを見せているこの作品には、このほんのりとしたハッピーエンディングは必要なモノだった。
 しかし、これがマドンナと駆け落ちするというハッピーエンドだったとしたらどうだろう? それは作品を、そして放浪紳士というキャラクターの基本スタンスを根底から覆す的外れなエンディングとなり、映画をダメにしてしまっていただろう。 放浪紳士というキャラクターは、自らは幸せになれずとも、出会った人々を幸せにするキャラクターなのだ。 チャップリンの映画では、不幸になる人がいてはいけないのだ。
 これと同じ事が、『ブレードランナー』にも言える。
 フィルムノワール、古典的ハリウッド映画という意味においては、確かにモノローグもハッピーエンディングも必要不可欠なモノである。 が、的外れであってはならない。 映画の世界観やテーマ、映画の中で確立さているスタイルから外れたモノであるなら、逆に無い方がマシなのだ。 それぞれの要素が映画の構成として正しい意味を持つのは、それが理に適った、的を射たモノでなければ蛇足にしかならないのである。
 映画『ブレードランナー』におけるモノローグとハッピーエンディングは、映画『サーカス』でいうトコロの駆け落ちパターンのハッピーエンディングなのである。
 ってゆーか、そもそも『ブレードランナー』はフィルム・ノワールでもなければ古典的ハリウッド映画でもない。 もう、そういう古いカテゴリーに分類する事が不可能なほど、様々なジャンルの要素を混在させ、SFの最終進化形たるサイバーパンクという新ジャンルを確立した初めての作品である。 旧来のカテゴリーには、もう当てはまらないスタイルが映画の中で完成している作品なのだ。
 さらに言うなら、スコット監督はそもそもハリウッドの映画監督ではない。 イギリス人で、しかも元々はTV‐CMのディレクターである。 映画監督ですらないのだ。
 しかも、スコット監督にとっては『ブレードランナー』が長編映画3作目の監督作品で、ハリウッドで製作するのはこれが初めてだった。(注:前2作は、どちらもイギリスで製作されている)
 アメリカとイギリスは、同じ英語圏の国だが大西洋を隔てているだけに両国は様々な面で異なる文化と歴史を有している。 これは、優劣の問題ではなくただ単に歩んできた道のりの違いである。
 が、こうした“違い”が両国にあるが故に、そこに暮らす人々にもまた、国民性の違いが生じているのは明らかだ。 この“違い”こそが、スコット監督のハリウッドらしからぬズバ抜けたヴィジュアルセンスを有する個性になっているのは疑いようも無い。
 もちろん、スコット自身も最初はフィルム・ノワール、古典的ハリウッド映画を踏襲しようと考えていた。 モノローグもハッピーエンディングも、最初はスコット自身が入れようと考えていたのだ。
 が、ギリギリまで悩んだ末、スコット監督は考え方を変え、旧来のあるべきフォーマットを捨てる決定を下した。 ヨーロッパ人である自らの感性に従ったのだ。
 こうして、旧来の基本フォーマットを捨てた事で、映画『ブレードランナー』はSFの最終進化形たるサイバーパンクへと完成した。 そして、アメリカ国内版やインターナショナル版では中途半端だったそれを正しく“完成”に導いたのが、このディレクターズ・カット版なのである。


‐リック・デッカードはユニコーンの夢を見るか?‐

 さて、モノローグとハッピーエンディングについては以上だが、このディレクターズ・カット版で行われた重大な改変がもう一つある。 それが、この後繰り返し繰り返し議論される事になるユニコーンの夢である。
 デッカードがレプリカントである事を示唆する最重要テクストであるこのショットは、スコット監督のアイディアによるモノだった。 が、“デッカード=レプリカント”という設定を最初に思い付いたのは、他ならぬハンプトン・フィンチャーだった。
 フィンチャーは、原作を脚色した最初の人物だが、原作にはデッカードがレプリカントである事を示唆する記述がそこかしこにあり、デッカードがVKテストを受けるシーンまであるほどで、原作者のディックは明らかにその意図を以って原作を執筆している。
 これを読んだフィンチャーが、映画の脚本にこの要素を取り入れないハズがない。 フィンチャーは、極自然な成り行きで、脚本の第1稿のラストシーンにデッカードがレプリカントである事を示唆する要素を加えた。 フィンチャー自身、「観客に“デッカードはロイと同じなのか?”と考えてほしかった」と、意図的な導入である事を認めている。
 スコット監督との対立が強くなり、フィンチャーが降板すると、後任を任されたデイヴィッド・ピープルズもこの考えには賛成し、改稿の際にこれとは異なるシーンでデッカードがレプリカントである事を示唆するシーンを挿入している。
 これは、当時まだ捨てられていなかったデッカードのモノローグとしてラストシーンで語られるモノで、ピープルズは「哲学的な思索を意図した」と、意図的な導入である事を認めている。
 スコット監督もこのアイディアに賛同し、デッカードがレプリカントである事を示唆するシーンを入れる事を強く希望した。
 そうして出てきたのが、件の“ユニコーンの夢”である。
 先にも記したように、当初の計画ではデッカードのモノローグもハッピーエンディングも盛り込む予定だったが、上手く行かなかったり時間的、金銭的制約のために諦めざるを得なくなった。 が、まだ諦められていなかった頃の予定では、ハッピーエンディングの中にこの“ユニコーンの夢”が挿入される予定だった。
 森の中をひた走るセダンの車中から、デッカードが森の中にいるユニコーンを見つけ、それがデッカード自身の記憶、そして、ガフの残したオリガミに結び付くというシーンになるハズだった。
 最終的に、ハッピーエンディング自体がボツになったため、このシーンは諦めざるを得なかったが、スコットはこれに固執し、本撮影終了後の1982年1月、ポス・プロの真っ最中にユニコーンのショットを半ば強引に撮影する。 そして、このショットを何とか映画にインサートするために、試行錯誤を繰り返した。
 結果、あのピアノを弄ぶデッカードの白昼夢、“ユニコーンの夢”のシーンが出来上がったのだそうだ。
 しかし、これに物言いが付く。
 このシーンを観たスタジオ側が、“曖昧過ぎる”、“解り難い”という理由でカットを要求したのである。
 全く以って頭を捻るばかりの指示である。 こんなにも分かり易いシーンなのに!
 その困惑は、スコット監督も同じだった。
 しかし、既に予算超過を理由に映画の所有権が完成保証人に移行してしまっていたため、スコットはこの指示に従うしかなかった。 無理矢理とは言えせっかく撮影したユニコーンのショットは、ポス・プロのかなり早い段階でカットされた。
 このオリジナルのショットのフィルムは、カットされた直後から行方不明になってしまい、今日に至るもこのオリジナルのショットのフィルムは、ネガもポジも紛失したまま見つかっていない。(注:恐らく、もう破棄されたモノと思われる)
 しかし、92年になってイギリスのフィルム倉庫からユニコーンのショットが発見される。 オリジナルのショットではなかったが、NGテイクのフィルムが見つかったのだ。
 スコットは早速、これ幸いと当時編集作業中だったディレクターズ・カット版にこのフィルムを挿入し、ユニコーンの夢のシーンを復活させた。
 これで、芸術家の意図たるデッカード=レプリカントを明確に示す事が出来、それまで長い間議論されてきたエターナル・クエッションに終止符を打つ事が出来る。 ……ハズだった。
 結果的に、ディレクターズ・カット版のリリースはファンを混乱させただけで、終止符を打つドコロか、逆に議論を再燃しただけだった。
 その理由については、後に他の要素と合わせてまとめて解説するとして、このユニコーンの夢は上記の通り、芸術家が明確な意図を以って挿入された決定的な証拠なのである。
 これが重要な理由として、第1章で記したディック作品に共通するテーマを思い出して頂きたい。 そう、“現実とは何か? 人間とは何か?”である。
 この二つの最重要テーマは、アメリカ国内版やインターナショナル版でもしっかりと語られているが、比較的曖昧で解り難い。 が、このディレクターズ・カット版では、このユニコーンの夢が挿入された事でこれがより明確に、疑いの余地無しに語られているのである。
 どういう事かと言うと、まずこのユニコーンの夢の意味を考えて頂きたい。
 デッカードがピアノを弄んでいる時に、フラッシュバックのようにデッカードの脳裏を過ぎるユニコーンは、デッカードが何らかの形で過去に経験した記憶であり、これをレプリカントたちの持っていた写真を見ている内にふと思い出し、白昼夢としてその光景を思い出した。
 それは、デッカードにとっては経験した過去としての“記憶”であり、それがたとえ昔観た映画のワンシーンであったとしても、デッカードにとっての“思い出”である事に間違いはない。
 確かに、デッカードの“思い出”を語るには唐突で前後の脈絡を欠いたインサートに思えるかもしれない。 しかし、“思い出す”というのは、往々にして唐突で前後の脈絡を欠いた瞬間的なモノである事は、誰でも経験のある事のハズだ。 タイミングなどは些細な問題でしかない。
 問題は、その記憶が何であれ、“現実であるか否か?”である。
 何故ならこの作品世界では、記憶は簡単に操作出来るからだ。
 この作品世界のレプリカントは、生産の際に外部から入力された情報を記憶として保存させる事が出来る。 その内容は千差万別で、且つ極めてリアルな“思い出”であり、当のレプリカントにとってそれは、疑いようも無い現実である。
 しかし、実際にはそれは作られた記憶であり、飽くまでもレプリカントの感情的混乱を抑えるための擬似過去でしかない。 そのため、レイチェルはタイレルの本当の姪の“思い出”を記憶としてプリインストールされた。
 デッカードは、その事をタイレル本人の口から聞き、(映画では描かれていないが)レイチェルに移植されている記憶の記録を見た。 だから、デッカードはレイチェルが“誰にも話していないハズの思い出”をレイチェル自身に話して聞かせ、レイチェル自身にレプリカントである事を自覚させる事が出来たのである。
 レイチェルにとっての現実は、作られたヴァーチャル・リアリティでしかなかったのである。
 そして、レイチェルにそれが可能なのであれば、同じくレプリカントであるデッカードにも可能な事なのである。
 デッカードが白昼夢として思い出すユニコーンの夢は、誰にも話していないハズのデッカードの思い出である。 しかし、ガフはさもそれを“識っている”と言わんばかりに、デッカードのアパートの前にユニコーンのオリガミを置く。
 他人が知り得ないハズの記憶を誰かが“識っている”と示唆する事で、デッカードの記憶が実は作られたヴァーチャル・リアリティであり、デッカードが擬似過去を与えられたレプリカントである事を示しているのである。
 原作において、ウィルバー・マーサーやバスター・フレンドリーのウソ八百を暴露する事で示されていた“リアルとアンリアルの逆転”は、こうして『ブレードランナー』でもシッカリと語られているのである。
 もっとも、アメリカ国内版やインターナショナル版では、この“リアルとアンリアルの逆転”を明確に示す事になるハズだったユニコーンの夢が無く、なのにユニコーンのオリガミが出てくるので、公開当時の観客の混乱は、今現在の我々よりも相当ヒドいモノだっただろう。
 その混乱を正しく修正するために、このディレクターズ・カット版におけるユニコーンの夢の追加は、絶対に必要な事だった。
 25周年記念盤の特典映像として収録されたインタビューにおいて、映画監督のフランク・ダラボンはこのユニコーンの夢を指して、「あれはレイチェルの記憶で、デッカードはレイチェルを想っているのだ」と、デッカード=レプリカント説に反論している。
 確かに、デッカードは自らがレプリカントである事を識り、泣き濡れるレイチェルに同情し、人間的感情たる他者への共感能力、すなわち思いやりを見せており、ダラボンが指摘する通りであるなら、ユニコーンの夢はこれを強調するための要素という事になる。
 だが、それだとガフのユニコーンのオリガミが意味不明になり、さらにガフの最後のセリフが噛み合わなくなってくる。

「彼女も惜しいですな! 短い命とは。 なら、誰が長生きするんでしょうな?」

 デッカードがタイレルにレイチェルの記憶の事を説明されるシーンにおいて、デッカードはタイレルの口から「レイチェルには寿命がない」と説明されている。 つまり、デッカードはレイチェルが“短い命”ではない事を知っているのだ。
 ガフはその事を知らないのか、彼女の事を“短い命”と言う。 そしてデッカードに、“長生きするのは誰か?”と問う。
 そう。 このガフのセリフは、ユニコーンのオリガミと合わせてデッカードが“短い命”のレプリカント(注:後述と矛盾する解説だが、ココではあえてこう記しておく)である事を暗示しているのである。
 これが、ユニコーンの夢がレイチェルの記憶だとすると、デッカードに「彼女は人間じゃなくてレプリカントだぞ」という、無意味な念押しをしているようにしか見えない。 デッカードも観客もとっくに知っている説明の繰り返しでしかない。
 だが、これがデッカードはレプリカントで、ユニコーンの夢はデッカードの思い出だという事になれば、このショットの意味は大きく変わってくる。
 すなわち、レプリカントであるデッカードにも、原作で示された“人間とは何か?”という問いに対する答え、すなわち人間的感情たる他者への共感能力である“思いやり”があるという意味に変わるのだ。
 人間とは何か? 人間とレプリカントを区別するモノは何か?
 無い。
 骨格や筋肉が人工物であるか天然であるかなど、人種が異なる程度の違いでしかなく、人間的感情たる他者への共感能力としての“思いやり”があれば、それはもう人間なのだ。
 同人一次創作としてスタートし、メジャー雑誌での連載、TVアニメ、コンシューマゲームへとメディア展開し、高い人気を誇る相田裕の人気コミック『ガンスリンガーガール』。 同作品の中でも一際人気の高い『ピノッキオ』のエピソードに登場する暗殺者ピノッキオは、間違いなく人間だが、暗殺者としての能力がずば抜けており、義体化した少女たちにとっての“最強の敵”として登場する。
 しかし、暗殺者故に人間的感情に乏しく、彼を慕う近所の少女に対してもそっけない態度でしか接する事が出来ない。 そして、いざ仕事となれば彼はまさにマシーンとなり、ターゲットを容赦なく殺す。
 義体化した少女たちは、肉体を改造されたロボットだが、それとは裏腹に感情表現に富み、泣いたり笑ったり怒ったり寂しがったりする。
 人間のようなロボットと、ロボットのような人間。
 果たして、どちらが本当の“人間”なのだろう?
 そしてそれは、そのまま映画『ブレードランナー』にも当てはまる。
 デッカードは、強制されて仕方なくとは言っても、容赦する事無くレプリカントたちを追いかける。 そして、見つけたら弁解の余地無しに、ためらう事無くトリガーを引き絞る。
 この無感情な“回収作業”をこなすデッカードは、人間的感情の欠如したロボットとしか言いようがない。
 対して、ロイやプリスといったレプリカントたちは、人間ではないのに泣いたり笑ったり怒ったり、時には希望を絶たれて絶望したりする、極めて感情表現に富んだ人間的なキャラクターばかりである。
 ロボットのような人間と、人間のようなロボット。
 果たして、どちらが本当の“人間”なのだろう?
 しかし、デッカードはレプリカントたちを追いかけ、またレイチェルに同情する事で人間的感情たる他者への共感能力としての“思いやり”取り戻していく。 それは、あたかもロボットのような人間が人間らしさを取り戻していく過程のように思える。
 が、これがデッカード=レプリカントという事になると、事情は変わってくる。
 そう、デッカードは、人間的感情を“取り戻した”のではなく、“目覚めさせた”という事になり、人間とレプリカントを区別するモノなどなく、人工であっても天然であっても、人間的感情たる他者への共感能力としての“思いやり”があれば、それはもう本当の“人間”なのだ。
 日本のマンガ、そしてアニメの祖として“神”と呼ばれる偉大な作家、手塚治虫の代表作にして、自身の“ライフワーク”としてその生涯をかけて描き続けられた名作、『火の鳥』シリーズ。
 人類共通の“生命と何か?”という根本的な哲学を描き続けながら、最終的に作者死去のため未完に終わったこの作品に関して、一つの“ウワサ”が今もなお実しやかに囁かれている。
 それは、シリーズ完結編、『現代編』のウワサである。
 同シリーズは、最初の『黎明編』で日本誕生という神話の世界にまで遡る過去が描かれるが、続く『未来編』では、それから何千年も後の超未来で起こる世界の終末が描かれる。
 トコロが、その後は再び過去に戻り、次に未来に飛び、過去と未来が交互に展開され、しかしシリーズが進むに従って次第に、現在に近づいているのである。
 この事実から、手塚は同シリーズのラスト、完結編において今現在を描く『現代編』にする構想があったのではないか? というのが、このウワサの根拠である。
 そして、この『現代編』で描かれる“今現在”とは、西暦2003年だったのではないか? というのである。
 手塚作品のファンなら、もうお分かりだろう。
 西暦2003年は、同じく手塚の代表作の一つ、『鉄腕アトム』の主人公、アトムが誕生する設定年代である。
 そう、“生命とは何か?”というテーマを時代を変えて描き続けた後、西暦2003年の“現在”において、新たなる生命が誕生して壮大な叙事詩は幕を閉じるのである。
 人間とは何か?
 そして、人間とレプリカント区別するモノとは何か?
 そんなモノは無い。
 加藤がバッサリと切り捨てている通り、そんな事はどーでもいい。
 町山が言い切っている通り、どっちでもいい。
 何故なら、“思いやり”のない人間は、その中身が人工であれ天然であれ、人間ではなくロボットなのだ。
 逆に、“思いやり”があるのなら、その中身が何であれ、それはもう、人間なのだ。
 映画『ブレードランナー』において、デッカードがレプリカントである事は、これを示す重要な意味を持つ要素なのである。
 だから、それを示唆するためにユニコーンの夢が必要不可欠だったのである。
 ちなみに、様々なテクストで指摘されている通り、ユニコーンの夢以外にもデッカードがレプリカントである事を示唆する描写はいくつかある。
 最もよく指摘されるのは、リオンを“回収”した後、デッカードのアパートでレイチェルとデッカードが話すシーンである。
 ココで、デッカードの目が赤く光る。
 タイレルのフクロウやレイチェルのVKテスト、プリスやロイなど、『ブレードランナー』に登場するレプリカントは目が赤く光るという特徴がある。
 皆さんも、カメラで夜間に撮影した時に人物の目が赤く光った状態で写ってしまった経験があると思うが、『ブレードランナー』では逆にこれを利用し、キャストの目元にスポット照明を当てる事で目を赤く光らせるという演出が意図的に成された。 これは、スコット監督自身が認めている事である。
 すなわち、何かの拍子に目が赤く光るキャラクターは、全てレプリカントなのである。
 そして、デッカードの目が赤く光るショットは、後述するアウトテイク版以外の全てのバージョンに含まれているショットである。
 だから、デッカードはレプリカントなのである!
 ちなみにちなみに、「じゃあ、その特徴をレプリカントの識別テストに利用しないのは何故?」という指摘が聞かれるが、これは答えるまでもなく、飽くまでも観客にそれと解らせるためだけの“マン符的表現”(注:マンガ独特の現実にはあり得ない表現手法の事。 驚いた時に目が飛び出したり、感電した時に骨格が透けて見えたり、怒った時に額に青筋が立つといった表現がソレ。 書き文字やスピード線などもこれの一種)だからであり、映画のキャラクターには認識出来ない“特徴”だからである。


 いずれにしても、このディレクターズ・カット版の再リリースはファンの疑問に答えるためだったハズが、逆にファンを混乱させただけに終わったのは確かだ。
 ちなみに、アメリカ国内では劇場公開もされたが、日本では“最終版”と題されたVHSとLDのソフト版がリリースされたのみで、劇場公開はされていない。 また、日本ではこのバージョンのみがDVD化され、これ以外のバージョンは25周年記念盤がリリースされるまで、長らくVHSとLDでしか観る事が出来なかった。
 しかも、その唯一のDVD版は、DVDのフォーマットにエンコーディングされただけの、VHSにも劣る画質でしかなく、それさえも間もなく絶版になってしまう。
 トコロで、日本のあるマンガ家が日本国内での劇場公開当時に、「最終版(ディレクターズ・カット版)を劇場で観た」と主張しているが、全く以ってあり得ない。 ウラを取ったワケではないが、インターナショナル版とディレクターズ・カット版の明確な相違点は、モノローグ、ハッピーエンディング、そしてユニコーンの夢の有無である。
 先にも記した通り、モノローグとハッピーエンディングはワークプリント版にも無いので、これがどこかから流出して日本にやってきた可能性は否定出来ない。 が、まずあり得ない。 何故ならワークプリント版は、飽くまでも試写会用のプリントなので、複数プリントされたという事は考え難い。 公開前の作品だけに、複数プリントする事で外部に流出する危険性を可能な限り低くする必要があるからだ。 またそうであるなら、唯一の上映用プリントが後にアメリカのフィルム倉庫から“発掘”されたのは論理的におかしい。 その頃には、このプリントは日本にあるハズなのだから!(注:こっそり返還されたのでもなければね)
 さらに言うなら、当時の日本では35ミリプリントが一般的で、70ミリプリントは映写機自体がないので一般的な映画館では上映出来ないハズである。
 ユニコーンの夢の有無を指して「最終版を観た」と言っているのであれば、それこそ間違いなくあり得ない。 何故なら82年初頭の製作当時、確かにユニコーンの夢は撮影されたが、ポス・プロ段階でカットされ、そのままお蔵入りになってしまう。 ディレクターズ・カット版に追加されたユニコーンの夢は、92年にイギリスのあるフィルム倉庫から“発掘”されたモノで、しかもアウトテイクだった。
 これを修復したのが、現在もディレクターズ・カット版やファイナル・カット版で観る事の出来る唯一のフィルム素材で、OKテイクであるオリジナルフィルムは、現在に至るも見つかっていないのだ。
 すなわち、ユニコーンの夢が撮影された1982年1月から、アウトテイクが“発掘”される1992年8月までの間、このユニコーンの夢はこの世に存在していなかったも同然で、一般人が、ましてや日本国内でそれを観る事など、絶対に出来なかったのである。
 したがって、このマンガ家の「最終版を観た」という主張は、本人の記憶違い以外絶対に、確実に、100%、あり得ないのである!
 分かりましたか光原センセ!?
 ちなみにちなみに、この辺りの詳しい経緯については、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の17章(注:370頁~389頁)を参照の事。


6.ファイナル・カット版(初出:07年12月)

 2007年、映画『ブレードランナー』の公開25周年を記念した記念盤のリリースに合わせて製作されたのが、このファイナル・カット版である。


‐最終編集権の行使‐

 ファイナル・カットとは、“最終編集版”を意味し、本来は劇場で一般公開される完成バージョンの事を言う。
 先にも記した通り、映画は何度も何度も編集を繰り返し、試写会の結果から更なる検討が重ねられてようやく、我々一般人が劇場で観る事が出来る“完成版”、すなわち“最終編集版”になる。
 しかし、この“完成版”が芸術家の意図した本当の意味での“ファイナル・カット版”と同義かというと、決してそうならないのが映画界の七不思議である。
 何故なら映画界には、“最終編集権”という法的拘束力を持つ権利があり、これは監督には与えられない場合がほとんどだからだ。
 スコット監督と同じくイギリス映画界で成功を収め、その鮮烈なヴィジュアル・センスが極めて高い評価を得て、後に映画『12モンキーズ』を大ヒットさせる事になるテリー・ギリアム監督は、80年代に鳴り物入りでハリウッドに迎えられ、映画『未来世紀ブラジル』を監督した。
 しかし、試写会の結果は惨憺たるモノで、スタジオ側は映画の失敗を大いに懸念した。
 そして、ギリアムの反対を押し切って、最終編集権を行使し、映画にギリアムが全く意図しない的外れなハッピーエンディングを追加して公開。 ギリアムはこれに腹を立て、スタジオ側を公然と批判し、映画を「自分が意図しないモノ」と言い切ってしまった。
 元々、スタジオ側の誤ったプロモーション展開も逆風に追い風を与えてしまい、映画はモノの見事に大失敗した。 ……まるっきり『ブレードランナー』と同じである。
 その後、ギリアム監督は度々スタジオ側と対立し、複数のプロジェクトが頓挫するなどしたためハリウッドから締め出され、ギリアム監督自身も映画界そのモノから距離を置くようになってしまう。
 後に、『未来世紀ブラジル』は折衷案としてのソフト化によって再評価され、ギリアム自身の手でディレクターズ・カット版が再リリースされた現在は、映画『ブレードランナー』と並んでSF/サイバーパンク系の作品を語る上で欠く事の出来ないほど高く評価されている。
 これと時を同じくして、ギリアム監督は再びハリウッドに呼ばれ、『12モンキーズ』を監督するが、この時は先のような失敗が再び起きないよう、予め最終編集権を契約に入れる事に成功し、意図した通りの作品に仕上げる事が出来たようだ。
 いずれにしても、これは最終編集権が出資者の思惑と芸術家の意図の対立を生んだ最も顕著な例と言える。
 映画『ブレードランナー』でも、これと全く同じ事が起こった結果、芸術家の意図しないモノローグとハッピーエンディングの追加が直接的な原因となり、映画の興行的失敗へと発展していったワケだが、ではそもそも、最終編集権という対立の原因にしかならないような権利が存在し、そしてコレが芸術家に与えられないのはナゼなのだろう?
 その答えは、ヒドく単純明快である。
 何故なら出資者の思惑は、常に芸術家の意図に優先されるからだ。
 映画とは産業であり、産業は、出資者がいて初めて成立するモノだからだ。
 しかし、だからと言って権利を行使する時と場合を間違えてしまっては元も子もない。 例えば、酒やタバコがそうであるように、与えられているからと言って強いて行使しなくても良い権利というのは、実際に存在しているのだ。
 権利とは、“力”ではない。 権利とは、“選択の自由”を与えられる事である。
 しかし、間違えてはいけないのは、“自由”とは“何をしても良い”という意味ではなく、“自由”とは、“責任を伴うモノ”だという事だ。 銃を買って所有する自由には、引き金を引いた時の責任が伴うのだ。 この意味を履き違えてしまうと、先のような大失敗の原因になり、結局は自分で自分の首を絞める結果になってしまうのである。


to be continued...

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