-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #17-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
さ、今週もさっさといきます。
間もなく台風最接近だし、世界陸上はまだ全日程が終わってないのでオープニングトークで書く事がないんです。
あ、コレだけは言わせて下さい。
今度の新しい総理大臣、……アレは総理の器の顔じゃないですね。
‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐
AiC2nd、デイドリッククエスト編。
今回は、メファーラのクエストを攻略していきます。
まずは場所を確認。(↓) シティの北、街道沿いの宿屋から山肌を登った上にあるのが、メファーラの神像です。
クエスト開始条件は、必須レベルが15以上。 供物としてNightshade(注:イヌホウズキ)という花が必要です。 スキングラッドの北に広がる森の中に群生していますが、比較的簡単に見つけられるでしょう。
で、供物を捧げるとメファーラ様よりありがたいお言葉を頂き、“2つの一族を仲違いさせて欲しい”というクエストを頂戴します。
場所はコチラ。(↓) ←900枚目!
それはさておき、目的地はメファーラの神像から街道をまたいだ西の方角。 周囲を山に囲まれた谷間にある小さな村です。
ココで、仲良く暮らしている2つの種族の族長を暗殺し、お互いの家にある持ち物(注:指輪と短剣。 盗むとクエストダイアログが出るので、それを目印に探して下さい。 ちなみに、昼間ならば両方の家に堂々とはいれるので、ヤるなら昼間の方が確実)を盗んでそれぞれの死体の手に握らせます。
つまり、お互いが犯人だというダイイングメッセージをデッチ上げるワケです。
んで、証拠を握らせたら、村の誰でもよいので話しかけます。 すると……、 両方の一族全員が外に出て、お互いに殺し合います。
勝敗を見届ける必要はありませんが、この時はダークエルフの一族が圧勝しました。
でもって、メファーラの神像に戻ればクエスト完了になります。
手順さえ守れば、完全なスニークミッションというワケではないので比較的ラクに攻略できるでしょう。
もちろん、族長を暗殺する所を誰かに目撃されると、クエスト失敗で永久に攻略できなくなるので注意が必要です。
で、今回の報酬はコチラ。(↓) 出ました。
伝説のカタナ、エボニーブランドです!
片手剣でちょっと重いのがタマにキズですが、攻撃力が高く、加えてエンチャントも付いているTESⅣ最強の武器の一つです。
ゲーム全体を通して、コレが手に入るのはこのクエストのみなので、失くさないように気をつけましょう。
いつぞやのように、次元の狭間に落ちてしまった日にはもう……!
ちなみに、Aliceちんはエルフセイバーが気に入っているそうなので、このカタナは大事ボックスに保管する事にしたそうです。
また、メファーラは4本の腕を持つ両性具有のデイドラ(!?)で、モローウィンドではこの地の現人神、ロード・ヴィヴェックを守護する存在なんだそうです。
ただ、人間に色々と干渉したがるクセがあるそうで、今回のクエストもそんな彼(?)の性格らしいクエストと言えるのではないでしょうか?
以上、今週の連載コーナーでした。
<今週の特集>
今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第17回、いよいよ最終章突入です!
前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。
第8章:運用‐『ブレードランナー』の影響
1982年の公開当時、多くの酷評に晒され興行的失敗に至った『ブレードランナー』は、しかしホームビデオ市場の活性化に伴い、公開から数年を経てヴィジュアル的な面だけでなく、作品が提示した世界観やストーリー、そしてテーマやメッセージといった映画における芸術家の意図が、その先見性と共に再評価されるようになっていった。
この過程において、前章で記した様々な議論がファンの間で沸騰する事になるが、そうして繰り返された議論もまた、この映画の“信奉者”を増殖させていく要因になったのは明らかだ。
そして、そうした“信奉者”によって映画は支えられ、いつしか“カルト映画”と呼ばれるようになっていく。
カルト映画とは、一般受けする作品ではないが、一部に熱狂的なファンを有する映画作品の事であり、それはまさにカルト、すなわち新興宗教における教祖を崇めるがごとき“信奉者”を集めている作品の事である。
こうして、作品がカルト的人気を集めるようになると、本来のカルトがそうであるように、作品に多大な影響を受ける者が現れるようになるのは必然である。
悪い意味で、というイミではない。 宗教に喩えてしまうとどうしてもそういうイメージが強くなってしまうのでアレだが、映画に限らず、ゲームやアニメが青少年の精神衛生に悪影響を与える可能性は否定出来ないし、映画でもそれは同じである。
が、それは飽くまでも本人の気の持ちようが問題なのであって、作品は単なるキッカケに過ぎない。(注:詳しくは第5章を再読の事)
ココでいう影響とは、もちろん良い意味での影響である。
第4章で既に述べたように、ダ・ヴィンチとラファエッロの例を再び持ち出すまでも無く、芸術家が先人の叡智に学び、作風を真似るという行為はオマージュとして古くからよくあった事であり、それ自体は決して悪い事ではない。
それどころか、そうしたオマージュが氾濫するという事は、逆にその作品が極めて優れている事の証明であり、その作品が後の作品に多大な影響を与えている証拠なのである。
というワケで、この章では映画『ブレードランナー』の影響が見られる作品のいくつかを紹介していこうと思う。
ただし、以下に挙げる作品群は、それぞれの作品のクリエーターが影響を受けている事を公言している作品もあるが、中には筆者独自の判断で影響を受けていると“考えられる”作品も含まれているので、そのつもりで読み進めて頂く事を強くお願いする。
1.映画
映画『ブレードランナー』が映画である以上、最もその影響を受けているのはやはり映画である。 中でも、SF系の作品はその影響が多々見られ、中には極めて直接的な表現でオマージュを捧げている作品も少なくない。
特に、巨大都市の中で展開する物語り、という意味においては、映画『ロボコップ』の舞台であるデトロイトや、映画『バットマン』のゴッサム・シティはその最たる例である。
また、さらに言及するなら、『ロボコップ』の作品中でオムニ社が建設に躍起になっているデルタ・シティ(注:夢の未来都市構想)は、都市が政治ではなく企業によって支配される過程を描いており、それはまさに、『メトロポリス』のプリクエル(注:“前編”の意)を構成し、『ブレードランナー』における2019年のLAが本来目指していた姿であると言っても過言ではない。
そして、『バットマン』のゴッサム・シティは、2019年のLAとは異なる形で夢の未来都市構想が失敗に終わった姿なのである。
こうした未来都市構想、すなわち過去と未来が現在で同居するというサイバーパンクにおける基本フォーマットは、SF系の作品以外にも影響を与えており、作品賞を含むオスカー5部門制覇を果たした90年版の『ディック・トレーシー』もまた、オリジナルの1950年代の世界観(注:『ディック・トレーシー』は、元々1950年代にOAされた人気TVシリーズ。 リアルタイムの50年代を舞台にしたディテクティブ・ストーリー)を踏襲しながらも、原色を多用した鮮烈なヴィジュアルの提示に成功し、デザイン面で『バットマン』や『メトロポリス』、そして『ブレードランナー』の影響がそこかしこに見られる作品である。
・JM/ロバート・ロンゴ/1995年
そもそも、映画『ブレードランナー』に端を発するSFの新しい潮流としてのサイバーパンクというジャンルは、小説界が最も早い時期から反応したジャンルである。 そして、その筆頭がサイバーパンクの祖として極めて高い評価を得ている作家、ウィリアム・ギブスンである。
小説『ディファレンシャル・エンジン』でサイバーパンクの基礎を築いたギブスンは、元々映画『ブレードランナー』のファンで、自らの作品でその作風を真似ている事を公言している。
そうして書かれたのが、後に『JM』というタイトルで映画化される事になる作品、『運び屋ジョニー』である。
ギブスン自身、この作品は『ブレードランナー』の影響である事を公言しており、その映画化作品もまた、『ブレードランナー』に多大な影響を受けている作品である。
過去と未来が現在で同居する巨大都市を舞台に、主人公が小さな手がかりを基に自らの脳に記録された情報を取り出す方法を探すというディテクティブ・ストーリーで、しかも“ヤクザ”や“カンジ”など、『ブレードランナー』でも独創的なヴィジュアルを特徴付けていた日本的要素がそこかしこに見られる。
また、職務に忠実で冷酷な“ヤクザ”であるタカハシ(注:北野武)が、最後には主人公に協力するという展開は、デッカードがレプリカントに共感を憶える過程と似ており、“人間性の再発見”というテーマもシッカリと描かれている。
……が、先にも記したが、作品はキャストのギャラにお金を使い過ぎており、それに圧迫される形で世界観の作り込みに使える予算が足りなくなり、極めてチープなセットと時期尚早だったCGIが、『ブレードランナー』の劣化コピー化してしまっている点がとても残念な作品である。
予算の使い方さえ間違えていなければ、『ブレードランナー』の正統な継承者として賞賛されたハズである。
勿体無い! 極めて勿体無い作品である。
・セブン/デイヴィッド・フィンチャー/1995年
映画『ブレードランナー』に影響を受けたクリエーターの中でも、映画『セブン』で世界的大ヒットを記録したデイヴィッド・フィンチャー監督は、まさにその筆頭と言っても過言ではない。
元々、映画『スターウォーズ』を観て映画監督を志したフィンチャーは、当時まだ設立されて間もないILM=インダストリアル・ライト・アンド・マジック社(注:元々は、ルーカスが『スターウォーズ』の特殊効果製作のために設立した会社で、当時はまだ十数人規模の小さな会社でしかなかった。 映画『スターウォーズ』シリーズの大ヒットで様々な映画の特殊効果を担当するようになり、現在はハリウッド最大規模の特殊効果制作会社に成長した。 『トイ・ストーリー』や『ファインディング・ニモ』などでお馴染みのピクサー社も、元々はILMのCGI製作部門が独立して出来た会社)に10代の若さで入社。 映画『スターウォーズ エピソード6:ジェダイの帰還』の製作に参加する。
ココで、映画製作と特殊効果を学んだフィンチャーは、その直後ILMを退社し、友人らと共に自身の映像製作会社、プロパガンダ・フィルムを設立。 TV‐CMやPVの製作を請け負うようになるが、ナイキやコカコーラ、バドワイザーなど、アメリカを代表する大企業のTV‐CMを数多く手がけ、マドンナやローリングストーンズといった名だたるアーティストのPVも手がけ、20代の若さで超売れっ子映像作家になっていく。
この頃すでに、コカコーラのCM(注:ローラーブレードを履いた若者たちが、雨に濡れた夜の街を疾走するという内容)などで、明らかに『ブレードランナー』を意識した映像製作を行っている。
映像作家としての実績が買われ、当時レニー・ハーリン監督(注:代表作は、『ダイ・ハード2』、『クリフハンガー』、『ドリヴン』など)の降板が決定した『エイリアン3』の監督に抜擢され、念願の映画監督デビューを果たす。
この、映画『エイリアン3』では、映画『ブレードランナー』の鮮烈な映像を再現すべく、憧れの撮影監督、ジョーダン・クローネンウェスを召集し、クローネンウェスにライティングやカメラアングルのアドバイスを請う。
しかし、クローネンウェスの持病であるパーキンソン病が悪化。 クローネンウェスは、撮影開始から間もなく、やむなく降板してしまう。
しかも、映画は本撮影中も脚本が完成せず、撮影の中断や設定変更が相次ぎ、さらに主人公が自殺するというラストシーンが当時の観客に理解されず、映画は失敗に終わってしまう。
大切な監督デビュー作で屈辱を味わったフィンチャーは、一時的に映画界から身を引き、CMやPV製作に戻る。
とは言え、映画『エイリアン3』におけるヴィジュアルは、陰影を強調したライティングと、セットのそこかしこから噴出すスチームのゆらめきは、まさに『ブレードランナー』のライティングフォーマットを踏襲した素晴らしい映像である。
現在では、『エイリアン3』の興行的失敗は、営利目的で製作を強行したスタジオ側に責任があるとされ、作品そのモノは「やっぱりフィンチャーはスゴかった」と再評価されている。
映画『エイリアン3』後、一時的に映画界から距離を置いたフィンチャーだったが、しかし脚本家のアンドリュー・ケビン・ウォーカーと知り合い、その脚本に惚れ込んだフィンチャーは再び映画界に挑戦する。 そうして製作されたのが、サイコスリラーとしては映画『羊たちの沈黙』以来の世界的な大ヒットを記録した『セブン』であった。
この作品は、(劇中では非常に解り難いが)ニューヨークを舞台に定年退職間近のベテラン刑事(モーガン・フリーマン)と刑事になったばかりの若手(ブラッド・ピット)の二人が、7つの大罪(注:キリスト教で最も罪が重いとされている罪、すなわち大食、強欲、怠惰、色欲、高慢、ねたみ、憤怒の事)に基づく猟奇的な連続殺人事件を追うというディテクティブ・ストーリーである。
また、何故かいつも雨が降っており、街は昼間でも薄暗く、陰影を強調したライティングと暗闇に差し込む鋭い光は、まさに『ブレードランナー』におけるクローネンウェスのライティング技法を模倣したモノである。
この、陰影を強調したライティングは、その後もフィンチャー監督作品の基本フォーマットになっており、『ゲーム』、『ファイトクラブ』、『パニック・ルーム』など、夜が舞台になっている作品が多いのも、やはり『ブレードランナー』の影響である。
近年になって、『ベンジャミン・バトン‐数奇な運命』や『ソーシャル・ネットワーク』など、比較的(注:飽くまでも“比較的”)明るい作品が多くなったが、いつかまた、『エイリアン3』や『セブン』のような、『ブレードランナー』を彷彿とさせる陰影を強調した“フィンチャー節”を堪能出来る作品を撮ってもらいたいモノである。
・12モンキーズ/テリー・ギリアム/1995年
この映画は、本来は『ブレードランナー』の影響下にある作品ではない。 何故なら、『ブレードランナー』には皆無だったタイムスリップの要素や、未来世界のメトロポリスたる暗黒都市、及びアンドロイドやレプリカントのような人造人間なども登場せず、一見するとただ単に脚本が『ブレードランナー』と同じデイヴィッド・ピープルズというだけの、極めて関連の薄い作品のように思える。
そもそも、映画『12モンキーズ』は、ピープルズの完全なオリジナル脚本の作品というワケではない。
フランスの短編映画、『ラ・ジュテ』という作品が原典となっており、これを観たピープルズは、“自らの死を目撃する男”という設定に魅せられ、『12モンキーズ』の脚本を執筆した。 タイムスリップや殺人ウィルスといったSF的世界観は、この設定を成立させるために追加された、言わば後付け設定である。
ヴィジュアル的な面でも、元々コメディ集団『モンティ・パイソン』のアニメーターとしてのキャリアを持つテリー・ギリアムは、イラストレーターとしてデザインの経験もあり、既に『未来世紀ブラジル』において荒廃した未来世界のヴィジュアルを提示していた。
そしてそれは、『ブレードランナー』よりはむしろフランスコミックのバンドデシネの影響が見て取れる。(注:もっとも、『ブレードランナー』もバンドデシネの影響を受けている作品なので、両者はある種の遠縁と言えるかもしれない)
実際、『12モンキーズ』における未来世界のヴィジュアルは、『ブレードランナー』とはあまり似ていない。 そもそも、この映画に登場する未来世界は殺人ウィルスの蔓延により、人類は地下での生活を余儀なくされており、地上の様子がほとんど映し出されない(注:オープニングクレジットの背景ぐらい)ため、『ブレードランナー』や『メトロポリス』のような乱立する超高層ビル群を有し、過去と未来が現在で同居するサイバーパンクの基本フォーマットを踏襲した街の風景が描かれていない。
以上の事から、ヴィジュアル的な面において、『12モンキーズ』には『ブレードランナー』の影響は無いと結論せざるを得ない。(注:もちろん、それでも低予算映画とは思えない独創的なヴィジュアルを有した良作である事に変わりはない。 ウィルスを完全に遮断する防護服や、タイムマシンのデザインに使われた大量のビニール素材や、尋問を受けるジェームズを見つめる無数の小型モニターが並ぶ球体状のマルチモニターなど、他のSF映画には皆無のオリジナリティ溢れるデザインセンスは、評価されて然るべき)
しかし、そこはピープルズという同一の脚本家による作品だけあって、似ても似つかないヴィジュアルを有する両者は、しかしテーマが非常に良く似ている。
すなわち、“現実とは何か?”である。
未来世界で蔓延する殺人ウィルスの治療法を探すため、ジェームズ(ブルース・ウィリス)は科学者たちが開発したタイムマシンを使って過去へと飛ぶ。 ウィルスの原種を探し、ワクチンを製造するためだ。
しかし、科学者たちの再三の手違いにより、目的とは異なる時代へと飛ばされるうち、ジェームズは狂人扱いされ精神病院に放り込まれる。
そこで出会ったホンモノの狂人(ブラッド・ピット)や女性精神科医のライリー(マデリーン・ストウ)の言葉により、現実と妄想の区別がつかなくなり、未来世界と殺人ウィルスの事を自らの妄想だと思い込むようになる。
すなわち、リアルとアンリアルが逆転したのである。
しかし、ライリーが第1次大戦の頃の写真の中にジェームズが写っていた事を見つけると、ジェームズの妄想はやはり現実で、未来世界で殺人ウィルスが蔓延している事が証明される。
アンリアルがリアルと逆転したワケだ。
トコロが、殺人ウィルスの蔓延の首謀者と見られていた謎の集団、12モンキーズが若者の悪ふざけだった事が分かり、再びリアルがアンリアルに取って代わる。
が、愛の逃避行に向かう直前、ジェームズとライリーはウィルスをばら撒いた真犯人を見つけ、アンリアルはやっぱりリアルだったという事が分かる。
とまあ、映画『ブレードランナー』に勝るとも劣らない複雑極まりない展開は、「さすがピープルズ!」と言う他ないほどであるが、このリアルとアンリアルの逆転を通して語られる“現実とは何か?”というテーマは、『ブレードランナー』に通じるモノがあると言える。
非常に難解な作品だが、鮮烈なヴィジュアルとブラッド・ピットの名演技が堪能出来る映画『12モンキーズ』は、現在もサイバーパンクを語る上で欠く事の出来ない作品として高い評価を得ている事に間違いはない。
ちなみに、スクリーンいっぱいに映し出される“巨大な眼”をヴィジュアル的な面での共通項として指摘する向きもあるようだが、意味合いが大きく異なるので共通項とは言い難い。
これについての詳細は、当ブログの過去記事を参照しの事。
・アイ,ロボット/アレックス・プロヤス/2004年
21世紀中期、AIを搭載したロボットが実用化され、科学が繁栄を極めた時代を背景にしたこの作品は、元々はジェフ・ヴィンターが記した『ハード・ワイヤード』という仮題の脚本がそもそもの始まりである。
アイザック・アシモフが著した古典的SF小説の傑作、『われ、ロボット市民』を原作としたこの脚本は、しかしスタジオに受け入れられず、映画化されないまま10年以上が経過してしまう。
映画『クロウ‐飛翔伝説』(注:ブルース・リーの実子、ジェイソン・リーの遺作)で知られるアレックス・プロヤス監督は、元々原作のファンで、この脚本を気に入り監督を引き受けた事で、映画はようやく製作された。
先にも記した通り、00年代はアメコミヒーロー映画が大流行した時代である。 そのため、このようなSFはあまり観客受けが良くなかったのだが、人気俳優のウィル・スミスが主演し、アメコミヒーロー映画に勝るとも劣らないVFXアクションにした事で、映画は近年のSFとしては突出した大ヒットを記録した。
ヴィンターやプロヤスが認めているワケではないが、この映画にはそこかしこに映画『ブレードランナー』の影響が見て取れる。
例えば、映画『アイ,ロボット』における21世紀中期の街並みは、『ブレードランナー』によってそのフォーマットが確立された過去と未来が現在で同居するサイバーパンク的世界観を提示している。 撮影そのモノはロケ撮影だが、そこにCGIマット(注:手描きではなくCGIのマットペインティングを合成する視覚効果。 やってる事自体は、手描きでもCGIでも同じ)で未来的な超高層ビルを合成する方法が取られ、『ブレードランナー』における(スコット監督が言うトコロの)レイヤリングの技法が利用されている。
また、その合成されるCGIマットの超高層ビルも、USR社の本社ビルも、天高くそびえ建つ様子はまさに『ブレードランナー』におけるタイレル社のピラミッドに相当し、両者とも『メトロポリス』におけるバベルの新塔を模倣していると言える。
また、空を飛ぶワケではないが、スピナーのような未来的な特徴を持つクルマ(注:タイヤの代わりにマウスのトラックボールのような球体で走行する。 そのため、真横に走行したりその場で360度回転したり出来る)が登場したり、地上と地下で多層構造都市を形成していたりと、映画『ブレードランナー』が提示したサイバーパンク的世界観を踏襲しているのは明らかだ。
この作品では、昼間のシーンが多いためにヴィジュアル的に暗く陰鬱とした2019年のLAと比較して、明るく輝かしい未来社会を提示しているように感じるかもしれないが、それは飽くまでも晴れた昼間だからだ。 これが、雨のそぼ降る夜であるなら、その様相は間違いなく『ブレードランナー』に近づく。
そもそも、AIを搭載した“ロボット”というファクターは、『ブレードランナー』におけるレプリカントと下位互換し、天高くそびえるバベルの塔の最上階に君臨するこの世界の神、すなわちUSR社の社長は、まさにエルドン・タイレルの生まれ変わりである。
皮肉にも、自らの飼い犬に噛まれて死んでしまう点まで再現されているほどだ。
ストーリー展開の面では、映画『アイ,ロボット』はアメコミヒーローばりのVFXアクション超大作だが、基本的にディテクティブ・ストーリーである。 警察官のスプーナー(ウィル・スミス)は、科学者(ジェームズ・クロムウェル)の自殺を他殺と信じ、それが“ロボット三原則”によって決して人間に反抗する事がないとされているロボットの犯行(注:シャレではない)である事を証明すべく、博士が残した手がかりをたどっていき、最後にはその死の奥に隠された巨大な陰謀を暴き出す。
モティーフが異なるだけで、『アイ,ロボット』は『ブレードランナー』と同じディテクティブ・ストーリーなのだ。
さらに、作品が提示するテーマとなると、さらに明確である。
スプーナーは、交通事故で片腕を切断するほどの重症を負う(注:この腕は、事故後博士によってサイボーグ化された義手に置き換えられる)が、ロボット三原則に従ったロボットに間一髪で助けられる。 しかし、事故に巻き込まれたのはスプーナーだけでなく、幼い少女もいた。 スプーナーは、少女と比較して生存率が高かったのでロボットが助けたが、スプーナーは少女を助けようとしなかった無感情で心がないロボットを忌み嫌うようになる。
また、映画の終盤、人間の味方をする特殊なロボット、サニーに対してVIKI(注:ヴィキ。 USR社を管理する巨大コンピュータ。 “Virtual Interactive Kinetick Interigence”の略)は人間の愚かさをサニーに解き、自分が人間を管理すべきだと主張する。
が、サニーはそれに、こう答える。
「それではあまりに、“こころ”がない。」
そう、映画『ブレードランナー』が提示したテーマ、すなわち“人間とは何か?”が、この作品のテーマなのである。
ロボットのような人間と、人間のようなロボット。
果たしてどちらが、本当の“人間”なのだろう?
映画『ブレードランナー』、そしてその原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で提示されたこの問いに対し、映画『アイ,ロボット』は、まさに人間的感情たる他者への共感能力を含めた“こころ”という解答を提示しているのである。
映画『アイ,ロボット』は、人気俳優のウィル・スミスとアメコミヒーローばりのVFXアクションで確かに大ヒットしたが、その直前に公開された『マトリックス』三部作と並んで、映画『ブレードランナー』の提示した“人間とは何か?”というテーマを明確に描いた近年のSFとしてはベスト5に入る良作である。
これに続く作品は、(筆者が知る限りでは)残念ながら今のトコロ皆無である。
さて、以上4作品を主に取り上げたが、これ以外にも影響を受けている作品は大量にある。 また、SF/サイバーパンクに限らず、様々な作品で映像的、あるいはテーマ的に『ブレードランナー』の影響を受け、そして継承している(あるいはしようとしている)作品は、この30年間でそれこそ星の数ほど製作されてきた。 それほどまでに、映画『ブレードランナー』は映画界に強い影響を与えており、多くの“信奉者”を擁しているのである。
ココに取り上げた以外の影響を受けている映画作品については、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の413頁~418頁を参照して頂きたい。
なお、『マトリックス』をココで取り上げていないのは、意図的なモノである。 “あえて”そうした。 何故なら『マトリックス』を解説しようとすると、それだけで本が1冊書けるほどの長い解説になってしまうからだ。
手抜きじゃない! 手抜きじゃないよぉーッ!?
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
宵闇の使者。 ※Nightshade Armor v0.95
AiN2ndに絡めて。(笑)
アサシンや盗賊など、スニーク系のキャラクターに最適な軽装装備。 カッコイイだけでなく、実用的でバックシャンがせくすぃー。
シティのストーンウォールシールドで購入出来るが、お値段はかなり高め。
また、専用のフルフェイスヘルメットもある。
Thanks for youre reading,
See you next week!
ではココで、その日本語字幕の全文をまずは確認してみよう。
VHS版から翻訳そのモノは変わっていないようなので、本書ではファイナル・カット版から出力したモノを掲載する事にする。
21世紀の初め アメリカのタイレル社は
人間そっくりのネクサス型ロボットを開発
それらは“レプリカント”と呼ばれた
特にネクサス6型レプリカントは
体力も敏しょうさも人間に勝り
知力も それを作った技術者に匹敵した
レプリカントは地球外基地での奴隷労働や
ほかの惑星の探検などに使われていたが
ある時 反乱を起こして人間の敵に回った
地球に来たレプリカントを処分するために
ブレードランナー特捜班が組織された
現在のソフト版では、以上の字幕が約50秒間(注:ファイナル・カット版のランニングタイム、2:13~3:03)の間に順次画面右側(注:統計学的に、利き目が右目の人が多いため。 エルゴノミクスデザイン=人間工学的根拠に基づく表示位置。 PCのアイコンも、Windowsのような左側ではなく、本来はMacOSのような右側配置がエルゴノミクスデザイン上正しい。 ビル・ゲイツは左側配置にしたかったが、既にスティーブン・ジョブズが商品化していたMacOSのパクリと思われるのを懸念して左側配置にしたとか)に表示される。
上記は1行=1画面で書いており、1画面当りの文字数は最大19文字で、これが11画面に分けて表示されており、1画面当りの表示時間は約4.5秒。 先ほどの“秒間7文字ルール”に換算すると、7文字当たりの表示時間は約1.6秒となる。
確かに、これでも十分説明にはなっているし、意味が通らない表現もない。 あの長ったらしい英文を要約した正しい翻訳だと言える。
が、それは飽くまでも“映画の字幕として”という意味においてである。
本来の原語の意味、すなわちあの長ったらしい英文の“完訳”は、実は以下のようになる。
21世紀初頭、タイレル・コーポレーションは業界に革命をもたらし、
高度に進歩したネクサス型ロボットを開発した。 あらゆる面で人間
そっくりであったそれは、“レプリカント”と呼ばれた。
特にネクサス6型レプリカントは体力も敏捷さも人間に勝り、知力も
それを作った遺伝子工学者に匹敵するほどだった。 レプリカントは
地球外惑星での奴隷労働をはじめ、危険な惑星探査や入植開拓などの
目的に使われていた。
だが、ある時ネクサス6の戦闘チームは、地球外殖民星で血なまぐさ
い反乱事件を起こした。 それ以来、レプリカントは地球上での使用
を禁じられ、違法レプリカントは死をもって罰せられた。
<ブレードランナー・ユニット>と呼ばれる警察の特別チームは、不
法侵入したレプリカントを発見次第、処分するようにとの特命を受けた。
これは事実上、“処刑”だった。
しかし“回収”と言われた。
いかがだろうか?
サモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』に記されている通り(注:同書19頁)、これが最も原語のニュアンスに近い翻訳だが、先ほどの字幕翻訳と比較してかなりの部分で大きな相違が認められる事と思う。
レプリカントが地球上では違法になっている点や、本書でも再三記してきたレプリカントの処分の事を“回収”と呼んでいる点なども、実はしっかりと説明されており、しかも反乱を起こしたのはネクサス6型レプリカントによって編成された戦闘チームであり、この事件がキッカケとなって反乱の輪がレプリカントたちに広がり始めた事実も説明されているのである。
しかし、1行32文字の14行。 約50秒の間に表示する字幕としては、あまりにも長過ぎる。 大半の人は、この半分程度しか読めないだろう。 となると、当然意味は理解出来ない。
これを避けるため、映画ではこれを要約し、“秒間7文字ルール”に収まる文字数まで短くする必要があったのである。
さらに言及するなら、『ブレードランナーの未来世紀』では、町山はかなり過激な表現を用いてこれを翻訳している。(注:同書233頁)
21世紀の初め、タイレル・コーポレーションは遺伝子工学による人
造人間“レプリカント”を開発した。
彼らは地球外植民地の奴隷労働に使われていたが、反乱を起こしたた
め、地球に逃亡したレプリカントは発見され次第、ブレードランナー
によって射殺されることになった。
それは処刑ではない、“廃棄”である。
字幕の翻訳にかなり近いが、“射殺”やら“廃棄”といった過激な表現が用いられており、映画の暴力的な面が強調されてしまっているように感じる。
町山本人の翻訳ではなく、もしかしたら最初の日本での劇場公開時はこういう字幕だったのかも知れないが、ともかく暴力的で過激な文句が並んでいる事に変わりはない。
このように、字幕翻訳とは“秒間7文字ルール”という制約や、翻訳者の解釈の違いによってこれだけ内容が変化してしまうモノなのである。
もちろん、それは“映画の字幕として”は必要な事である事は理解出来るし、日本語と英語は根本的に異なる言語(注:文字や単語、発音のみならず、文法そのモノが異なる。 日本と同じ漢字を使用する中国語は、文字こそ日本語に似ているが、文法が英語に近いため逆に翻訳し易い)で、しかもひとつの単語で複数の意味があり、文脈によって相当する日本語が変わってくるため、翻訳者の解釈ひとつで異なる表現が用いられてしまうというのも、理解出来ない事ではない。
が、同じ原語に対してこのように複数の邦訳があると、それを読んでいる側に無用の混乱を招いてしまう恐れがあるので、翻訳者の皆さまには気を付けて頂きたく候。
このように、ハリウッド映画の中のニッポンが誤解されているように、日本の中のハリウッド映画もまた、誤解している事があるのである。
以上、4項目についてそれぞれ考察してみたワケだが、ココで取り上げた以外の主なキーワードについては、以下の資料にて詳述されているので、そちらを参照して頂きたい。
・ポストモダン
過去と未来が現在で混在するサイバーパンクのヴィジュアルにおける基本フォーマット。 モダニズム文化、ポストモダニズム建築。
『ブレードランナーの未来世紀』第8章(221頁~284頁)。
特に、同書237頁~242頁に詳しい。
・フィルムノワール
古典的ハリウッド映画としてのディテクティブ・ストーリー、あるいは暗黒都市映画としての映画ジャンル。
『ブレードランナー論序説』注釈の第1項(198頁~204頁)。
注釈とは思えないほど極めて詳細な解説がなされている。
・サントラ盤の遅れ
映画の公開から実に12年もかかってようやくリリースされた映画のサントラ盤についての諸々は、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の294頁~296頁に詳しい。
ヴァンゲリス自身の言葉で語られているワケではないが、恐らくコレがホントのトコロだろう。 いわゆる“オトナの事情”というヤツだ。
・“オリガミ”の意味
ガフが皮肉を込めて作る3つの“オリガミ”、すなわち“ニワトリ”、“勃起した人形”、“ユニコーン”にはそれぞれ意味があり、ウェブサイトの『ブレードランナーFAQ』で解説されている通りである。
これ以外の解釈も成立するが、デッカード=レプリカントを成立させる要素であるため、素直にFAQの解説に従うべきである。
・デッカード=レプリカント
この章の最初に記した通り、コレに関しては本書第5章を再読して頂きたい。 アレ以上に語る事は筆者にはない。
それでも納得出来ないのであれば、これを理解するのは諦めるしかない。
さらにこれら以外の議論や小ネタは、後述する“参考資料”に挙げる書籍やウェブサイトを参照して頂きたい。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
全景。
※Felmoon Air Fortress Ver.1.2
プレイ動画『天空の城』でも紹介されていた古代エルフ族の遺産。 文字通りの“天空の城”。 持ち家として利用出来、蒐集したアイテムの保管場所に最適。 外観が異なる『Dawn』(注:キレイ)と『Dusk』(注:荒れ放題)の2種類から選べるが、ロケーションが同一で競合するため同時に導入出来ない。 今回は『Dawn』をセレクトしたが、espファイルのみのシンプルなMODなので、導入がとてもラク。
というワケで、この“天空の城”の魅力を余すトコロなくご紹介してきたワケだが、導入や利用がカンタンなワリにメリットが大きいので、メインの拠点として非常に利用価値が高い良MODである。 オススメです!
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #16-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
あーもー今週は色々あり過ぎッ!
週明けの大雨とか、リビア情勢とか、世界陸上とか(注:女子マラソン惜しかった…)、仕事もプライベートも。 正直疲れたよ。
しかも、今週はシフトの交代があるのでこのブログも書いてるヒマがない! 何が“絶好調”だよローソン星占い! ホントアテになんねーなッ!(怒)
誰か何とかして下さい。(マジで)
あ、そうそう、コレだけはちゃんと書いておかないと。
MFDとasami hiroakiがお送りする『ひぐらしのなく頃に』二次創作小説『Beyond』は、予定通り今月25日にVol.3をアップしました。 画面左側の“サークルウェブサイト”のリンクからMFD‐WEBにアクセスして頂き、PDFファイルをDLしてお楽しみ下さい。
今回の第3話は、皆さまお待たせしましたの沙都子編です。 全国13万飛び飛び飛び4人の自称“沙都子のにーにー”の皆さまに喜んで頂けたら幸いです。
‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐
AiC2nd、デイドリッククエスト編。
今回はペリーテのクエストを攻略していきます。
まずは場所から。 ブラヴィルの対岸から川沿いに東に進んだトコロにあるのがペリーテの神像です。
必須レベルは10以上。 用意する供物はありません。
で、神像に到着すると、信者らしき5人の男女が円陣を組んで立ちすくんでおります。 が、どうやら立ったまま気を失っているらしく、話しかけても全く反応無し。 ココで、クエストダイアログが出て自動的にクエスト開始フラグが立ちます。
神像に語りかけると、ペリーテさまより彼らのいきさつを説明されます。 どうやら、召喚魔法を試みて事故ったようです。
なので、ペリーテさまより「彼らの魂を戻して欲しい」と頼まれます。 了承すると、イキナリオブリビオン界に飛ばされます。 メインクエストで散々っぱら攻略させられたオブリビオンゲートと要領は同じです。
このオブリビオン界に飛ばされてしまった信者たちの魂を捜し、彼らの魂を帰還させる(注:霊体に話しかけるだけでおk)のが目的ですが、コンパスにマーカーが表示されるので問題はないでしょう。
ただ、ゲートの時と同じく、オブリビオン界は複雑な構造をしており、本来は地下道を通って次の場所に行かなくてはいけませんが、これをやっていると確実に道に迷います。
なので、地下に入らず地上の岩場を跳んで行った方が確実です。
ですが……。 やっぱりレベルの上げ過ぎは要注意です。
何だよこのオールスターキャスト! 富沢だけならまだしも、ゴーレム複数同時とかあり得ない!
まあ、Aliceちんは闇討ちの名手なのでそれほど強敵というワケではないんですが、油断してると確実に囲まれてフルボッコ→そしてオワタ。\(^0^)/
てなコトになりかねないので、スニークで慎重に進んでいきます。
……てなコトやってたら、攻略に1時間ぐらいかかってしまいましたが。(笑)
でもって、 コレが霊体。
ナニのん気なコト言ってんですかね? 今はアナタ自身の方が大変なコトになってるんですよ?
こうした霊体を都合5体捜し、順次話しかけていけばおk。
ただし、このクエストはバグが発生し易く、話しかけても魂が肉体に帰還してくれない事があります。
話しかけた直後、霊体が消えてクエストダイアログが表示されれば大丈夫なんですが、霊体が消えない、クエストダイアログが出ないといった場合は、バグが発生しています。 仕方がないので、コンソールで強制的にステージを進行させましょう。
ちなみに、この時がそうでした。 ちゃんと5人とも捜したのに、内2人で上記のバグが発生しました。
まあ、TESⅣでは良くある事です。 さて、5人全員の魂を帰還させると、スタート地点に左図のようなポータルが開きます。
これを通って、シロディールに戻りましょう。
戻ると、元気になった信者たちの姿にペリーテさまは大喜び。 有り難いお言葉を頂戴し、クエスト完了になります。
で、今回の報酬はコチラ。(↓) 30%の魔法反射のエンチャントが付いた盾です。
なんとなく、『Vガンダム』を思い出すのは僕だけでしょうか?(笑)
エンチャント効果はともかく、デカくてカッコイイのはいいんですが、Aliceちんは両手剣派なので使い道無し。 未使用のまま大事ボックスにしまい込まれて忘れられる存在になるでしょう。
いずれにしても、メインクエスト以外でオブリビオン界探索が楽しめるクエストなので、原田さんの根っこや猪口心臓の蒐集にも最適なクエストです。 アルケミストキャラにはもってこいなのではないでしょうか?
ちなみに、ペリーテは龍の姿をしたデイドラで、最下層の秩序と疾病を司るらしい。
……ですが、シロディール帝国の象徴はドラゴンであり、容姿の類似から帝国の成立と何かしら関係があったりなかったりするのかしらん?
てなコトを考える今日この頃、皆さまいかがお過ごしですか?(笑)
<今週の特集>
今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第16回、前回の続きです。
前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。
3.映画の中のニッポン
映画『ブレードランナー』に限った事ではないが、ハリウッド映画では度々ニッポンが描かれる事がある。
ご存知の通り、日本は江戸時代、ポルトガルやオランダなどの極限られた国を除いて完全に国交を絶っていた時代、すなわち鎖国政策が施行されていた時代があり、日本から海外を窺い知る事が出来なかったが、海外からもまた、日本を窺い知る事が出来なかった。
そのため、マルコ・ポーロが著書の中で記したニッポン、すなわち黄金の国ジパングが長い間信じられており、開国した後も、様々な面で誤解される事が多かった。(注:逆に、日本も海外を誤解している事が多かった)
とは言え、諸外国にとってニッポンは、よく分かっていないだけにオリエンタルムード漂う魅力的な国だった。 そのため、日本を訪れたり、あるいは何らかの形で日本の文化に触れて感銘を受け、作品の中でニッポンを描く芸術家が急激に増えたのが、20世紀に入った直後の事であった。
最も有名なのはやはり絵画で、ゴッホやゴーギャンは日本の風景や浮世絵に強い感銘を受け、自身の作品に多大な影響を受けた。
映画でもこれは同じで、ロシア帝国からソビエト連邦になったばかりのロシアでは、史上初の歌舞伎公演が実現し、これを観劇したセルゲイ・エイゼンシュテインは、映画『イワン雷帝』の中でキャストに見得を切らせる演出をしている。
これに先立って、ドイツではフリッツ・ラングがプレ『メトロポリス』作品のひとつでニッポンを描いている。
タイトルからしてそのモノズバリの『ハラキリ』という作品で、ドイツ人の青年と日本人の女性が恋に落ち、子供を身ごもるが時の権力者によって二人の仲は引き裂かれ、子供はドイツ人青年に引き取られる事になり、悲観した日本人女性は切腹して死を選ぶという内容である。
プッチーニのオペラ『蝶々夫人』をベースにアレンジされたこの作品は、当時映画祭用に製作された作品で、一般公開はされなかったそうだが、劣化が激しいがフィルムが残っており、現在はパブリックドメイン化しているのでYouTubeで観る事が出来る。
どこで撮ったのか知らないが、日本家屋や和装の衣装、髪型なども実に良く出来ており、江戸時代末期、あるいは明治初期頃の、文明開化華やかなりし頃の日本が忠実に再現されている良作である。
監督のラングは、若い頃に放浪癖があったらしく、世界各国を旅して回った経験があり、その時に日本も訪れており、日本文化に強い感銘を受けたのだろう。
先にも記した通り、映画『メトロポリス』の中でもYOSHIWARAという日本人が経営するナイトクラブが登場するし、アフター『メトロポリス』作品である『スピオーネ』や『月世界の女』にも、ニッポン的要素や日本人キャラクターが登場し、ラングが日本に対して強い関心を示していた事を伺わせる。
このように、諸外国にとっては日本は非常に魅力的な国だったのだ。
こうして感銘を受けた多くの芸術家によって日本が海外に紹介されるようになると、大衆文化の中にも日本が溶け込んでいき、やがて極めてポピュラーな要素として映画の中でニッポンが度々登場するようになるが、日本が正しく理解されるようになるには、ラングの『ハラキリ』以降、実に80年近い年月を要する事になる。
1960年代、『007』シリーズの5作目として製作された『ボンドは二度死ぬ』(注:原題を『You Only Live Twice』と言い、イアン・フレミングの原作通りなのだが、このタイトルは明らかにフリッツ・ラングのハリウッド進出第1作目となった『暗黒街の弾痕』の原題、『You Only Live Once』のインスパイアである)は、ボンドが宿敵ブロフェルドを追って日本にやってくるというストーリーである。
原作者のイアン・フレミングは、原作の執筆のために取材旅行で日本を訪れており、映画ではフレミングが訪ねた場所を再現する形で日本でロケ撮影が行われた。 日本からも、当時トップスターだった丹波哲郎や浜美恵らが出演し、トヨタの名車、トヨタ2000GTのオープンカーバージョンが特別に製作され、ボンドカーとしてスクリーンに映し出された事でも話題になった。
しかし、映画に登場するニッポンのあり得なさと言ったら、もう笑うしかないほどである。
ニッポンにもボンドが所属するMI6のようなスパイ組織があり、この組織の諜報員はなんと全員ニンジャで(笑)、姫路城の敷地内で剣術や格闘技の訓練をしており、しかもQのような科学者によってボンド顔負けの秘密装備を開発しているという、もう何がなんだかな設定になっているのである。
しかも、ニッポンは男尊女卑社会なので、男が風呂に入る時は数人の若いオネーチャンがご奉仕してくれるという、思わず「フーゾクかい!」とツッコミを入れたくなるような前時代的な描写がそこかしこに散りばめられている。
こうした誤解は60年代から70年代が最も酷いが、80年代以降でもニッポン人のサラリーマンは未だにチョンマゲを結っているとか、ハラキリの習慣が未だに残っているとか、アリエネー描写がされる事が間々あった。
90年代に入ってようやくそういう事がなくなり始めるが、皆無にはなっていない。
ウェズリー・スナイプス主演のアメコミ原作のVFXアクション、『ブレイド』は、“吸血しない吸血鬼”が初めて映画に登場した作品であり、後の『ウルトラ・ヴァイオレット』やTYPE‐MOONの名を一躍日本中に轟かせた『月姫』などに影響を与えた快作であり、後に3作目まで続編が製作される事になった大ヒット作である。
この映画の中で、主人公のブレイドがヴァンパイア崇拝者の警察官を追ってヴァンパイアのアジトになっているナイトクラブに殴り込むシーンがあるのだが、入り口でいきなり日本語で話しかけられるシーンがある。
しかし、この日本語のセリフを話している役者が日本語に明るくない黒人俳優のため、発音がなっておらず全く日本語に聴こえない。 そのため、日本公開版ではこの日本語のセリフに日本語の字幕が付けられて公開された。 日本語なのに。(笑)
しかも、このクラブではニッポンのコギャル(←死語)ファッションをステージ衣装(注:これはかなり正確。 当時のニッポンのコギャルファッションが多少の誇張はあるが、忠実に再現されている。 関係ないが、昔お菓子のCMでアースウィンド&ファイアの『Tha's the way - I Like It』をBGMにスーパーモデルがコギャルファッションになるというモノがあったが、アレには正直脱帽した。 中身が良ければ、ルーソもセクシーファッションになるんだなと感心した。 ニッポンの女子高生たちよ、ギャンはムリでもせめてザクを目指そう! ドムはナイよドムは)にした女性ユニットが日本語のラップを歌っている。
これはちゃんと日本語に聴こえるのだが、歌っているラップの歌詞があり得ない。 放送禁止用語ギリギリのかなりヤヴァイ単語の羅列である。
まあ、作品自体がR‐16レーティングの作品なのでアリなのかもしれないが、PG‐13なら確実に審査員に差し替えを指摘されるトコロである。
日本語に聴こえない日本語と言えば、日本でも大ヒットした『インディペンデンス・デイ』がある。 日本の自衛官らしき人物が日本語のセリフをしゃべるのだが、よ~~く聴かないと何を言っているのか分からない。 しかも、同時録音ではなく明らかにアフレコ(注:リップシンクがまるで合ってない)なのに、である。
これに懲りたのか、同じローランド・エメリッヒ監督の『デイ・アフター・トゥモロー』では、ちゃんと日本人の役者が日本語のセリフをアフレコ(注:同時録音でないのは、撮影中は特殊効果機材などの騒音が酷く、同時録音の音声を使用出来なかったため)している。
今世紀に入ってからの例を挙げると、シルベスター・スタローン主演の『ドリヴン』がある。
インディ・カート・グランプリという作品のモティーフの関係上、この作品では日本が舞台になるシーン(注:インディ・カートは、元々はアメリカ国内のモータースポーツだったが、現在は海外でもシリーズ戦が開催されている。 日本では、インディ・ジャパンの名でツインリンク・もてぎで開催されている)があり、日本国内でゲリラ撮影(注:レースシーン以外は撮影許可が下りなかったらしい)されたが、エステラ・ウォーレンが見事なシンクロナイズド・スイミングを披露(注:ウォーレンは、元シンクロのナショナルチャンピオンチームのメンバーで、この作品が女優デビュー作だった)するプールのシーンは、アメリカ国内のホテルかどこかで撮影された。 そのため、風景が日本に見えない。 これを指摘される事を嫌って、映画ではプールサイドにかなり大きな日の丸を掲揚する装飾が施されているが、あんなトコロに国旗を掲揚しているホテルは日本にはない。
さらに、映画『パール・ハーバー』でも、日本軍参謀本部が真珠湾攻撃の作戦を練っているシーンが度々描かれているが、何故か屋外で、しかも背景には『ドリヴン』と同じく日輪旗が。(笑)
日本語のセリフは(日本人の有名声優がアフレコしているので)正しい日本語で、リップシンクも比較的正しいが、軍人が屋外で作戦会議はナイだろう!
このように、ハリウッド映画の中のニッポンは、現在でも誤解されている事が多いが、80年代まではもっと酷い描写が目立ったモノだ。
そんな80年代に製作された『ブレードランナー』も、ニッポンが多分に描かれている作品だが、かなり間違った描写が目立つ作品である。
例えば、映画ではよく見えないので解り難いが、街の上空を遊覧する広告飛行船の船体には、コカコーラなどのスポンサー企業のステッカーがベタベタと貼ってある。 そして、その中には日本企業や日本語のステッカーも大量にあったりするが、正直「コレはおかしいだろ!」とツッコミたくなるモノがチラホラ。
まあ、広告飛行船は映画ではディテールまではよく見えないので“それっぽい”モノであれば何でも良いのかもしれない。
が、街に溢れているネオンサインは正直アリエネーッス。
濁点の位置間違っており、日本語のていを成していないモノが大量にスクリーンに映し出される。
もちろん、間違っているモノだけでなく、中には正しいモノもあるし、映画冒頭のスシ・バーのシーンでは、店主のセリフとして極めて正しい日本語(注:「ふたつで十分ですよ!」)が使われている。
そもそも、初期の脚本ではガフはシティ・スピークではなく日本語を話すという設定になっており、脚本にもガフのセリフには“日本語で”という指示が明記されていた。
しかし、やはり日本語の発音が難しいためか、ガフを演じたエドワード・ジェイムス・オルモス自身の提案で、英語やスペイン語などをごちゃ混ぜにしたシティ・スピークというちゃんぽん言語が設定され、映画ではこれが採用された。
ただ、正しい日本語であっても、明らかに使い方を間違えているセリフもある。
デッカードがゾーラを追って街の雑踏を駆け抜けるシーンでは、横断歩道の音声案内(注:「Don't walk」と「Stop now」が延々繰り返される)と輻輳して街の喧騒、いわゆる“ガヤ”が聴こえるが、よく聴いていると日本語が混じっている事が分かる。
「誰か何か変なモノ落としていったぜ?」
この日本語は、このシーンだけで実に10回近く聴かれるが、これの前のシーンであるタフィ・ルイスのバーの舞台袖でデッカードが新聞を読みながらゾーラがやってくるのを待っているシーンでも、やはりこのセリフがガヤの一部として複数回聴こえる。
映画に無国籍的な雰囲気を出したかったのだろうが、これだけハッキリ聴こえてしまうとガヤとしての意味を失ってしまう(注:ガヤは、その名の通り何を話しているのかは分からないが、人が話している声がガヤガヤと聴こえる事が重要なのであって、何を話しているかは全く問題ではない)ので、やらない方が良かったのではないかと思う。
こうしてネタにされる事もないし。(笑)
そして、それより何より日本のファンにとって議論のネタにされるのは、巨大スクリーンに映し出される“ゲイシャ・ガール”と“強力わかもと”である。
ビルの壁面に掲げられた巨大なメディアスクリーン、デイヴィッド・ドライヤーが言うトコロの“リドリー・ヴィジョン”に映し出される架空CMは、特殊効果監修のドライヤーが監督して撮影されたモノで、15秒~45秒程度のCMが15本製作され、このリドリー・ヴィジョンや広告飛行船のモニターにハメ込み合成された。
これらの架空CMは、リドリー・ヴィジョンの名が示す通り、スコット監督の要請で製作されたのだが、ゲイシャ・ガールはスコットのアイディアだが、強力わかもとはドライヤーのアイディアなのだそうだ。
加藤は著書の中で、整腸剤兼滋養強壮剤たるこの強力わかもとを指して、「若返り願望の現れ、4年の寿命しかないレプリカントの願望」と解説(注:『「ブレードランナー」論序説』25~26頁参照)しているが、実は全くの間違いである。
スコットの要求は、「ゲイシャ・ガールが不健康な事をしている映像」だった。 そうする事で、未来世界の抑圧的な社会を表現したかったのだ。(注:『メイキング・オブ・ブレードランナー』259~261頁参照)
そこでドライヤーは、ゲイシャ・ガールに避妊用ピルを飲ませる事を思い付く。 こうして、“ゲイシャ・ガールが薬物を口にしている”映像が出来上がった。 が、ココでドライヤーは重大なミスを犯してしまう。 この避妊用ピルと想定した薬物の商品名に、日本の整腸剤兼滋養強壮剤たる強力わかもとを使ってしまったのだ。
ドライヤーは、強力わかもとが意図していたモノとは全く真逆の効能を持つ薬品(注:正確には医薬部外品。 薬事効果が“期待出来る”モノの事。 薬事効果が“ある”モノだけが医薬品と呼ばれる。 ちなみに、避妊用ピルは医薬品)である事を知らず、とりあえずニッポンっぽいモノをテキトーに使ってしまったのである。
こうして、加藤のように日本のファンには誤った解釈が成立してしまう映像テクストが出来上がったワケだ。
しかし、本当はそれとは全く真逆で、未来世界の抑圧的な社会を表現するために、ゲイシャ・ガールが不健康な事をしているCMをスクリーンに映すのが、本来のリドリーの意図であった。
実際、このゲイシャ・ガールがタバコをガンガン吸うCM(注:撮影当時は良かったが、現在は世界各国でタバコ広告が禁止されており、日本でもJTによる喫煙マナー推進CMがOAされているだけで、タバコの商品名などが広告されるCMは全面禁止されている。 街頭ポスターなども禁止されており、これに伴って街頭ポスターとしての機能があるモータースポーツのスポンサーデカールも禁止され、現在はタバコメーカーがモータースポーツのスポンサーから締め出されている状態になっている。 そのため、家電メーカーであるパナソニックや携帯電話サービス会社のヴォーダフォンなどがスポンサーとして参入する事になった)も映し出されるし、ゲイシャ・ガールが口にしている薬物は、強力わかもと本来の錠剤ではなくカプセル薬である。
この“ゲイシャ・ガールと強力わかもと”もまた、ニッポンが誤解されている証拠である。
ハリウッドの映画製作者の皆さま、映画の中でニッポンを使って頂けるのは大変嬉しい事ですが、もうちょっとニッポンを勉強してから使って頂くようよろしくどうぞ。
4.日本の中の映画
前項で記した通り、ハリウッド映画の中ではしばしば誤解されたニッポンが描かれているが、当の日本でもまた、ハリウッド映画はしばしば誤解されている。
先ほどの加藤のような解釈をしている、という意味ではない。 それよりももっと根本的な、日本語字幕の翻訳ミスである。
例えば、映画のタイトル。
先に例を挙げた『ワイルド・スピード』は、原題を『the First and the Furius』といい、正確に翻訳するなら、『速さと激しさ』という意訳になる。
しかし、これだと映画のタイトルとしてはカッコ悪いので、『ワイルド・スピード』という邦題が付けられたが、大正解である。 原題よりもカッコいい。 映画のイメージにも合っていると思う。
その続編である『ワイルド・スピードX2』は、ただ単に“ツー”とするだけでなく、“エックス”が加えられているが、これは原題に準拠したモノである。
この映画の原題は、『2 First 2 Furius』といい、正確に翻訳すると『より速く、より激しく』となる。
もちろん、このままだとカッコ悪いというのもあるが、原題にて強調されている“トゥ”(注:“too”。 “より”、“それ以上の”の意)を表現しなければ、原題の意に反する。 というワケで付け加えられたのが“エックス”であり、これは“より、それ以上の”を意味する“かける”のアナグラムになっているのである。
コレを考えたヒトは天才だ。 カッコいい上にちゃんと意味が通っている。 表彰されるべきだ。 日本オスカーは、“最優秀邦題賞”を設定すべきである。
TVドラマ『X‐ファイル』は、各エピソードにエピソードタイトルが付けられており、日本語版には意訳した邦題が付けられている。
先の『ワイルド・スピード』と同じく、これらも非常にセンス良くまとめられており、日本では意味の解り難い原題を上手く意訳したエピソードタイトルがそこかしこに見られる。
6thシーズンの中ほどに、シリーズを通しての最重要エピソードが2本ある。
この2エピソードは、原題を『One Sun』、『Two Fathers』というのだが、キリスト教国ならともかく、仏教国の日本では何の意味だかさっぱり分からない。 “sun”は“息子”という意味だが、キリスト教の祈りである“父と子と精霊”の“子”という意味もある。 他に、部下や教え子、目下の者に対する敬称としても用いられ、“father”はそのまま“父親”という意味もあるが、“父と子と精霊”の“父”、すなわち神としての“主”という意味もあり、さらに“神父”という意味もある。
宗教的な解釈をするなら、このエピソードタイトルには極めて神話的な意味がある事になるのだが、こうして説明されなければ日本人には解り難い。
そこで、日本語版ではこの2エピソードのエピソードタイトルに『ファイト・ザ・フューチャー』という邦題が付けられた。
クリティカル・ヒット!
asayanは156ポイントのダメージ(注:瀕死)を受けた!
モルダーとスカリーの闘いは、まさに予定調和の至るべき未来との戦いだ。 その“予定”を立てたのは異性人と密約を交わした“影の組織”であり、モルダーとスカリーは未来を信じて戦い続けるのである。
そしてそれは、この“ファイト・ザ・フューチャー”という語に集約されるのである。
シリーズ全体を通して、それまで小出しにされていた情報が整理され、陰謀の全体像がハッキリと示される事になった最重要エピソードのエピソードタイトルとしてこの語を選んだ日本語版製作スタッフに心からの拍手を送りたい。(注:ちなみに、この語が最初に使われたのは、6thシーズンの直前に公開された劇場版、『X‐ファイル・ザ・ムービー』である。 同映画のサントラのジャケットにも明記されており、日本語版製作スタッフはこれに着想を得たモノと思われる)
このように、翻訳された日本語が原語よりも優れているコトは、気付いてないだけで結構多い。 特にタイトルはそうした例が多いので、映画を観る時は原題と邦題を比較してみるとかなり面白い結果が得られるハズである。
が、そうした優れた翻訳がある傍ら、かなり残念な翻訳が多い事も、また事実である。
最も残念な例を挙げるなら、映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が挙げられるだろう。
この映画の中で、ひとつの指輪の処遇を巡って人間、エルフ、ドワーフのそれぞれの種族の代表が集まって話し合うエルロンド卿の館の会議のシーン。 このシーンに登場するエルロンド卿の館があるエルフの集落は、“リヴンデール”というのが本来の名前なのだが、邦訳では“裂け谷”といういかにも締りの無い意訳がなされており、映画の世界観に全く合っていない残念な翻訳になっている。
このシーンの後、自らがひとつの指輪をモルドールへと運ぶ役目を担う事を決めたフロドは、ビルボからエルフが鍛えた魔法の剣を譲り受ける。
この剣には銘があり、“スティング”というカッコいい銘が付けられているのだが、日本語字幕はなんと“つらぬき丸”。(笑) カッコ悪いにもほどがある。
実はコレらの翻訳にはワケがあって、トールキンが著した原作小説の邦訳版、『指輪物語』の翻訳に準拠しているからである。
しかし、小説『指輪物語』の翻訳が行われたのは、映画の公開に先立つこと40年以上前の1960年代。 TVドラマ『忍者部隊 月光』や『怪傑ハリマオ』の時代である。
その当時であれば、カタカナを使うよりも無理矢理な邦訳をした方が分かり易く、読者もイメージし易かった。 が、それは飽くまでも60年代当時の話しである。 映画『ロード・オブ・ザ・リング』が公開された21世紀という時代では、表現が古臭過ぎてカッコ悪さしか伝わらない。
翻訳というのは、時代の移り変わりと共に変化が必要で、既に翻訳されているモノでも、時代と共に“若返らせる”必要があるのである。
聖書なんかはその良い例で、現在一般に普及している版は1970年代に翻訳し直されたモノで、現代の言葉遣いに極めて近い意訳がなされているが、それ以前から何度も再翻訳がされており、現在の版が何度目の再翻訳なのか分からないほどである。
そりゃそうだ。 本来の聖書は、紀元3世紀頃に編纂されたと言われているが、それからもう1700年以上が経過しているのだ。 原語は1700年前のままだとしても、その意味合いや翻訳語はずい分変化しているので、その“誤差”を再翻訳という形ですり合わせなければならない。 そうしなければ、原語の意図した意味とは異なるニュアンスで読者に誤解される可能性があるからだ。
そもそも、言葉というのは時代と共に変化して当たり前のモノである。 そうでなければ、流行語大賞は成立しない。 言葉の時代的変化があるからこそ、その時代時代を端的に表現する語が大衆の間に広まり、“流行語”として市民権を得るのである。
原語にしたってそれは同じで、日本に流行語があるように、海外にだって流行語はある。 という事はつまり、海外でも言葉の時代的変化が存在するという事で、邦訳するにも英訳するにも、時代毎に再翻訳を行い、翻訳を“若返らせる”必要があるのである。
ただし、これとは別に、翻訳者の解釈の違いによる翻訳表記の差異が生まれる事もある。
映画『ブレードランナー』の原典である『メトロポリス』には、映画とは別に、映画の脚本と同じテア・フォン・ハルボウによる小説版(注:原作ではない。 映画の脚本は1924年に初稿が書かれているが、小説版は1926年に新聞で連載され、映画の公開に合わせて1927年に単行本が出版された。 ただし、いわゆるノベライズ版でもない。 映画の脚本は、フォン・ハルボウとフリッツ・ラングの共著で、小説版はフォン・ハルボウ単独で執筆された、“映画とは別のバージョン”と解釈すべき)があるのだが、この邦訳版は戦前に既に存在していたが、2010年に映画の完全復元版がリリースされたのを期に再翻訳され、2011年3月に新約版が出版されている。
が、翻訳したのは映画の字幕翻訳を担当した人物とは異なる人物で、小説版には映画の日本語翻訳と翻訳が異なる箇所が“多々”見受けられる。
例えば、映画でも小説でも重要なテーマになっている格言、すなわち“頭脳と手の媒介者はこころでなければならない”という一節。 この一節の“媒介者”の部分は、映画では“媒介者”だが、小説版では“仲介者”となっている。
意味としてはニュアンスが異なる程度で大きな違いはないのだが、映画の方は“媒介”というイメージ的に伝染病を想起させる語が用いられているので、個人的には小説版の翻訳を支持したいが、翻訳としてはどちらも決して“間違い”とは言い切れない。
さらに、キャラクターの名前にも違いがある。
機会都市の支配たるメトロポリスの“神”は、映画では“ジョー・フレーダーセン”となっているが、小説では“ヨー・フレーデルセン”となっている。
これも、先の例と同様に翻訳者の解釈の違いによるモノで、本来のドイツ語の発音としては小説版の方が正しいのだが、その息子であるフレーダーの名との類似を強調する意味では、映画版の方が意訳として正しいと言える。
どちらも間違っているし、どちらも正しいと言える。
この『メトロポリス』における映画版と小説版の翻訳表記の相違は、翻訳者の解釈の違いによるモノなので無視出来るレベルだが、映画では無視出来ない解釈の相違が見られる事が間々ある。 それが、字幕翻訳と吹替え翻訳である。
近年では、ディズニー&ピクサーのフルCGIアニメーションを初めとした様々な作品でも劇場公開時に日本語吹替えで公開する例が増えてきたが、基本はやはり字幕版である。
90年代後半になって普及し始めたDVDの登場により、それまでのVHS/LDでは分けられていた字幕版と吹替え版が1枚のディスクに同時収録されるようになったため、現在はソフト版を購入(またはレンタル)すれば、字幕版と吹替え版の両方を鑑賞出来る。
筆者は字幕派なので、吹替え版は収録されていてもめったに観ないのだが、たまに観ると字幕版とはニュアンスの異なる翻訳がされていて驚く事がある。
特に、日本語に翻訳するとセリフとしての面白さが失われてしまう英語独特の言い回しや、英語の韻を踏んだダジャレなど、注釈が無いと面白さが分からないようなセリフは、音声情報でしかない吹替えより、字幕の方が原語のニュアンスに近いと言える。(注:字幕にルビを振る事で対処出来るため)
もちろん、吹替えしている声優の声とキャストのイメージが合ってないとか、リップシンクの関係で無理矢理な翻訳になってしまっているとかいう事もあるが、視覚情報を伴う活字メディアを利用した字幕の方が、やはり吹替えより原語に近い表現が可能だと思う。
もちろん、中には優れた吹替え版もある。
映画『フィフス・エレメント』の吹替え版では、リールー役を演じたミラ・ジョヴォビッチのナゾ言語を、人気声優の松本梨香がほぼ完璧に再現しており、原語のイメージを壊す事無く上手く吹き替えされた例と言えるし、映画『マスク』では字幕と吹替えの翻訳者が同一人物(注:本来は、字幕と吹替えの翻訳者が異なるのが普通)のため、翻訳そのモノに大きな違いがなく、やはり原語のイメージを丁寧に日本語化している好例と言えるだろう。
しかし、中にはとんでもなく酷い吹替え翻訳がされている作品も無きにしも非ずで、なんと原語には無いセリフが“追加”されてしまっている作品もある。
先に例を挙げた『ワイルド・スピード』がそれで、主人公のブライアンがストリートレーサーのキングに君臨するドミニクに挑戦するシーン。
このシーンで、ブライアンのマシンをドミニクが値踏みする場面があるのだが、吹替え版には、ココに「(マシンを)インターネットで買ったんだ」というブライアンのセリフが“追加”されているのである。
原語には、コレに相当するセリフは全く無い。
このたった一言で、ブライアンがストリートレーサーとして大してレベルの高くないキャラクターになってしまう。 何故ならストリートレーサーは、自分のクルマを自分でチューンするのが当たり前だからだ。
自分でメンテナンス出来るなら、自分のドライビングに合ったチューンを自分で出来るし、ショップにバカ高い工賃を請求される事もない。 メカに強い事は、レーサーにとって必要な事であり、またある種のステータスでもあるのだ。
トコロが、この何でもない一言が入る事で、ブライアントはクルマのチューンを自分では出来ない、既にチューンされたクルマを買える程度の財力はあってもクルマの事を何にも分かっていない底の浅いレーサー、という事になってしまう。
どうしてこんなセリフが“追加”されたのか今もってナゾだが、吹替え版ではこうした事が間々あるので、筆者は字幕派なのである。
コレだけでなく、普段から我々が日常会話の中で用いている英語(注:いわゆる和製英語)でも、例えば“テキスト”と“テクスト”、“アイディア”と“アイデア”、“コンピュータ”と“コンピューター”等々、解釈の違いによって複数の表記がある語はいくらでもある。
こうした翻訳者の解釈による違いは今後もなくなる事は無いだろうが、読者や観客にとっては混乱の元になる可能性もあるので注意して頂きたい点であるのは確かだ。
さらに、映画の字幕では“文字数の制限”という重要な制約のために翻訳が影響を受ける事が多い。
字幕とは、正確には“字幕スーパーインポーズ”といい、一般には“字幕”、あるいは“字幕スーパー”と呼ばれているが、これは日本国内だけの名称で、海外では“クローズド・キャプション”と呼ばれている。
スーパーインポーズとは、“重ねて挿入する”という意味で、字幕を映画のフィルムに貼り付ける作業過程を指した語である。
この技術が普及した事により、洋画に日本語字幕を貼り付けて、セリフによって語られるストーリーやテーマを理解し易くなり、日本国内で洋画が大衆娯楽として受け入れられる要因になった事は確かだ。
しかし、こうした技術が開発されたからといって、のべつまくなしに字幕を付ければそれで良いのかと言うと、そうではない。 何故なら字幕は、活字メディアを利用した視覚情報の一種だからだ。
ヒトは、1秒間に認識出来る文字数に上限がある。 速読術のような訓練で多くしたり、ある程度の個人差もあるが、平均的なヒトの文字認識力は、“秒間7文字”が限界とされている。
これを超える文字数だと、ヒトは文字を正しく認識出来なかったり、文字が消える前に読み終える事が出来なくなってしまう。
こうした事が字幕で起こると、字幕があるのに映画を正しく理解出来ない事になってしまうため、字幕翻訳ではこの“秒間7文字ルール”が制限となり、翻訳に制限を受けるのである。
洋画ではなく邦画の例にを挙げるが、瀬名秀明の小説を映画化した『パラサイト・イヴ』は、著者の科学的根拠に基づく正確な描写が高く評価され、出版当時『リング』と並ぶSFホラーとして大ベストセラーになった原作を映画化した作品である。
後に、スクウェア・エニックス(注:当時のスクウェア単独)がオリジナルの設定でコンシューマゲーム化し、2011年には10年振りのシリーズ最新作がリリースされた事でも話題になったが、この映画の中で、クライマックスとなる学会のシーンは、学会という設定上、海外の科学者が壇上で英語で講演するシーンがあり、セリフは全て英語で、日本語字幕が添付されるという演出がなされている。
が、この字幕がとにかく読み難い。
一般的な洋画の字幕の半分以下の小さな文字サイズで、しかも3行にも及ぶ長~~い字幕がセリフが始まってから終わるまでず~~っと表示されており、字幕を読んでいるだけでシーンが終わってしまい、全く映像を観る事が出来ないという、本末転倒な字幕になってしまっている。
設定に忠実なのは良い事だが、それならそれに見合ったフォーマットを使うべきである。
この『パラサイト・イヴ』のように、一画面中に表示される文字数が多過ぎると、観客は読むのに一生懸命になってしまって全く映画を観れなくなってしまう。
そのため、映画の字幕では“秒間7文字ルール”の厳守が必須となり、一度に表示する文字数は少なければ少ないほど良い、という事になる。
また、眼の動きという物理的な動作を伴う関係上、一度に表示する文字は2行が上限とされ、これを上回る場合は適度に分割する方法が取られる。
こうする事で、シーンを観ながらでも字幕をしっかり理解出来る程度まで読む事が出来る字幕にする事が出来るのである。
そして、この制約をモロに喰らってしまったのが、映画『ブレードランナー』である。
映画『ブレードランナー』では、映画のオープニングクレジットに続いてゆっくりとスクロールするオープニング字幕が画面に映し出される。
映画の基本的な世界観設定の説明であり、映画のベーシックを観客にある程度知っておいてもらう必要があるため、このような字幕スクロールは『スターウォーズ』シリーズを例に持ち出すまでも無く、映画では度々利用される手法である。(注:中には、パロディとしてこれを利用している『オースティン・パワーズ:デラックス』のようなコメディ作品もあったりするが)
もちろん、字幕と言っても洋画なので、テキストは全て英語で、日本公開版では日本語字幕が付けられている。
to be continued...
-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #15-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
残暑お見舞い申し上げ奉ります。
今年のお盆は暑かったゆすなぁ~。 お盆明けには、全国各地でこの夏一番の酷暑を記録したトコロも多かったようです。
そう言えば、今年のお盆は週末と微妙にズレたコトで、金曜日から、あるいは土曜日から連休というように、多少休みが前後した人も多かったみたいですね。
ウチの店でも、連休初日の金曜はまだ仕事の人も多く、逆に連休終わりの火曜は、まだ休みの人が多かったようです。
水曜にはほぼ平常に戻りましたが、まあ、お盆は本来祝祭日ってワケじゃないですから、こういう事も起こり易いのでしょう。
ちなみに、今年の9月のシルバーウィークは2週連続3連休(注:17~19日、及び23~25日)になるらしいです。
……カンベンしてくれ。 連休多過ぎ。 休み過ぎ。 仕事しろ。
それはともかく、毎年恒例の夏コミも例年通り開催されたワケですが、今回で80回目の開催になったそうです。
で、そのC80。 今回の戦利品はこのようになりました。(↓) 少なッ!!Σ(゜Д゜;)
ってゆーかピンボケ写真になっちゃった。(笑) 撮影モード間違えたッス。
それはともかく、なんでこーなったかと言うと、実は今回から東方アレンジを止めようという事になったからです。
別に東方のファン止めようというワケではないです。 東方アレンジに飽きたワケでもないです。 出来れば買いたかったです。 が、ちょっとしたコチラの都合により、経費削減をする必要が出てきたので、毎回散々散財させられる東方アレンジ系を思い切ってスルーするコトにしました。
まあ、東方アレンジ系だけですでに数百枚(!)あるし、おかげでもう収納スペースもないし、何より一枚一枚をしっかり聴いていられない(注:全部聴き終わる頃にはもう次のが出てしまう)ので、もうちょっと一枚一枚をしっかり聴けるようにしたかったというのもあるし。
いずれにしても、CD3枚、ゲーム2本、同人誌1冊(注:プラス委託版未リリース2点)。 自分でも呆れるほど少ないですが、これからじっくり楽しませて頂きたいと思います。
……つか、竜騎士07さま早いって。 新作は。 フォローし切れないので多少なりとも間を置いて下さい。 コチとら『うみねこ』もまだ終わってないっつーの。
つか、あっしは未だに『ひぐらし』だっつーの。
そうそう、その『ひぐらし』なんですが、二次創作小説『Beyond』の第3話は、予定通り今月25日(注:今週木曜日)にアップ出来そうです。
今回は沙都子編です。 お楽しみに!
ちなみに、原稿の執筆は目下のトコロ順調そのモノ。 今月中には、第5話まで校了出来そうです。
もちろん、地獄の校正作業が残っていますが、この分なら全話とも予定通りにアップ出来そうです。
……でも、次の第6話がなぁ~~。 結構キツいかも。 何せ、シリーズ最長エピソードなので。
いずれにしても、予定通りにアップ出来るようにがんばります!(`・ω・´)/
それでは、今週の連載コーナーをどうぞ。
‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐
AiC2nd、デイドリッククエスト編。
今回は、前回サボってしまったノクターナルのクエストです。
まずは神像の場所から。(↓) レーヤウィンの北、街道からちょっと奥に入ったトコロ。 比較的開けた場所にあるので、比較的簡単に見つけられるでしょう。
クエスト開始条件は、必須レベルが10以上という以外、特別供物が必要というコトもないので、必須レベルに達したらさっさと攻略しても良いです。
で、そのクエストなんですが、様々な事象を見通す事が出来る“Eye of Nocturnal”というアーティファクトが、ネズミ捕りを生業とする二人のアルゴニアン(注:トカゲさん)に盗まれたので、それを取り返して欲しいというモノ。
……またか! ノクターナルさまはよくモノを盗まれる。(注:シーブズギルドのキャンペーン参照。 グレイフォックスのトレードマークであるグレイカウルは、元々ノクターナルの持ち物だったアーティファクト)
で、まずはレーヤウィンに行ってアーティファクトを盗んだ二人のアルゴニアンを捜します。 ←888枚目!
ほとんどの場合、ガードなどに話しかけて左図のようなメッセージが聞ければ、クエストダイアログがアップデートされて二人の住んでいる家が分かります。
で、その家に行って二人に話しを訊くワケですが、さすがに口が堅くてしらばっくれるばかり。 どこに隠してあるのか教えてくれません。
そこで、一旦家を出で、スニークモードで再度入室。 すると、 二人が“Tibewater Cave”という洞窟にアーティファクトを隠した事を盗み聞きする事が出来ます。
ココまで来れば、後はダンジョン探索でアーティファクトを見つければいいだけなので、攻略には問題ないでしょう。
……が、何やら気になる事言ってますね。 洞窟は“トロールでいっぱい”とか。
で、その洞窟なんですが、場所はレーヤウィンの南、トパール湾の海岸沿いにあります。 マーカーも表示されるので、迷う事なくたどり着けるでしょう。
トコロが、Aliceちんが洞窟に着いたその時! イキナリ第一トロール遭遇!
別に強いワケじゃないですが、イキナリだったのでビックリしました。
ちなみに、Aliceちんが持っているのは前回偶然からゲットしたエルムブレード。 カッコイイ。 柄の色も白なのでカラーコーディネートもバッチリ。 気に入ってます。
それはさて置き、改めてダンジョン探索です。
とは言っても、トロールが数匹いるだけなので、特に解説する事はありません。
……まあ、ナゼかクマに襲われたりもしましたが、ダンジョン自体もそれほど大きくなく、敵も少ないので問題なくアーティファクトまでたどり着けるでしょう。
で、コレが問題のアーティファクト。(↓) かなりデカいです。
目玉というよりは、水晶球のようです。
ちなみに、手前に宝箱があり、中にはエンチャント付きのバトルアックスが入ってました。 これはランダム報酬のようなので、攻略時のレベルに合ったアイテムが入っているようです。
また、このアーティファクトは水に沈んでいるので、潜る必要があります。
そう言えば、アルゴニアン二人が“トロールは水が嫌い”とか言ってましたが、フツーにじゃぶじゃぶ入って行ってましたよ? 水の中。
潜ろうとしたら後ろから襲われたし。
それはともかく、これを神像まで持ち帰れば、有り難いお言葉と報酬を受け取ってクエスト完了になります。
で、今回の報酬はコチラ。(↓) スケルトンキーというカギなんですが、なんとコレ、“壊れないロックピック”なんです。
通常、ロックピックは解錠に失敗すると折れてしまうんですが、これはどれだけ失敗しても折れないので、どんな堅牢なカギでも自動解錠で開き放題開け放題。 ロックピックの蒐集に苦労する手間が省けます。
超便利! もうチートそのモノ!
デイドリッククエストは、こういうアイテムが手に入るのでやり甲斐があります。
ちなみに、ノクターナルは夜と闇を司るデイドラで、シーブズギルドは夜の女王=ナイトミストレスとしてこの女神を守護神として崇めています。
……つか、“盗賊の女神”というよりはその被害者の女神なのでは? 人間に2つもアーティファクト盗まれてるし。(笑)
いずれにしても、難易度は低めなので、早い内に攻略してチートアイテムをゲットすれば、冒険は格段にやり易くなります。 オススメです。
以上、今週の連載コーナーでした。
では引き続き、今週の特集コーナーをどうぞ。
<今週の特集>
今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第15回です。
前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。
第7章:解析‐考察雑記
82年の公開当時、興行的失敗に終わった映画『ブレードランナー』は、しかしその後のホームビデオの普及が出資者の思惑と芸術家の意図の折衷案として機能し始め、ソフト版のリリースにより再評価されるようになり、カルト映画として絵画的映画の再評価運動の筆頭兼中心的存在になっていった。
この過程で、信奉者たちはこの難解な絵画的映画を理解しようと、映画にちりばめられた様々な“ナゾ”を見つける度に検証し、議論を繰り返した。
そうして、“6人目のナゾ”や“デッカード=レプリカント”といった議論が重ねられるようになったが、中には加藤や町山が指摘している通り、実に“どーでもいいコト”も議論の対象になっていった。
この章では、そうした議論の中からいくつかをピックアップし、筆者独自の解釈なども交えて考察、解説していく。
この章は、あまり深く考えず、気楽に読んで頂けると筆者的にもなにかと助かる。(笑)
ちなみに、“デッカード=レプリカント”に関しては、すでに相当量の解説を前々章(注:『第5章:複製』を再読の事)にて解説しているので、この章では(同じ解説の繰り返しになるので)割愛させて頂く。
また、ココに取り上げた以外の議論に関しては、複数のウェブサイトやサモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』などで検証する事が可能なので、それらを参照して頂きたい。
1.視覚のモティーフ
加藤が著書の中で再三指摘している通り、映画『ブレードランナー』は事ある毎に視覚のメタファーとしての“円形のモティーフ”がスクリーンに映し出される。
思いつくままに例を挙げると、映画のオープニングを形成する冥界風景のイスタブリッシング・ショットの合間に挿入される、この風景を見つめる巨大な碧い瞳。
タイレル社の一角で、次の被験者であるリオンの到着を待っているホールデンの頭上で回転しているルーフファン。
VKテスト装置のモニターに映し出されるリオンの瞳。
空を飛び交うスピナーのヘッドライトが作る光の輪。
デッカードとガフが乗り込むスピナーの車内の小型ディスプレイに表示されるGUI。
デッカードとガフを乗せたスピナーが降りていく警察署の建物の円筒形の形状。
タイレルのオフィスで飼われている人口動物のフクロウの“赤く光る”大きな瞳。
リオンのアパートのバスタブの中でユラユラとゆらめく光の輪。
ロイとリオンが入っていくチュウの工房の入り口の上に掲げられた、巨大な眼球のモニュメント。
ロイとチュウの会話に織り込まれた“眼”、“見る”という単語。
セバスチャンに接触したプリスの背後に浮かぶ、猫の眼のような街灯。
エスパーのディスプレイに拡大表示される写真の中の丸い鏡。
ゾーラが髪を乾かすために頭を突っ込む球形のヘアドライヤー。
ロイがふざけて弄ぶ眼球の入った球形のプラスチックケース。
ロイにつぶされるタイレルの双眸。
屋上に立つロイの背後で回転する換気装置。
ロイの最後のセリフに織り込まれた“見る”という単語。
等々。
キリがないのでこれぐらいにしておくが、探せばまだまだいっぱいある。
加藤が繰り返し指摘している通り、これら“円形のモティーフ”はそのまま眼球のメタファーであり、眼球を通して脳が認識する視覚情報を連想させ、観客に視界、視覚、視点、“見る”というテーマを認識させるために配置された映像テクストである。
そもそも、ヒトは他の動物と異なり視覚に頼った神経系を形成している生物である。
イヌ科やネコ科の動物を例に挙げるまでもなく、ほとんどの動物は視覚よりはむしろ嗅覚や聴覚を中心とした神経系を形成しており、その優れた感覚神経はヒトの数十倍から数百倍にも及ぶ。
イヌは、ヒトには嗅ぎ分ける事が不可能な極めて微量の匂いを嗅ぎ分け、空港のベルトコンベアの上を流れる数百、数千にも及ぶ乗客の手荷物中からビニール袋で完全密閉された僅か数グラムの麻薬を探し出す。
海洋哺乳類であるイルカは、額から超音波を発信する事が知られているが、その伝達範囲は極めて広範で、数キロ先まで届くという。 声が聞こえずとも、姿が見えずとも、イルカは仲間同士で巨大な超音波ネットワークを構築しているのである。(注:余談だが、空気中よりも水中の方が、実は音が伝わり易い。 空気よりも水の方が、音の振動を伝達し易いからだ。 ただし、伝達速度は空気よりも遅く、加えて“伝わり易過ぎる”ため不要な音まで伝達してしまい、音の伝わり難い空気伝達に慣れてしまったヒトの聴覚では、不要な音声を遮断し切れず激しい残響音を伴うため音を正確に認識出来ない。 母体の子宮内で羊水に満たされている胎児の聴覚は、水と同じく音声を伝達し易い羊水の中でも音を聞き取れるように適応しており、生まれたばかりの乳幼児の耳には、水中では遮断される残響音も聞こえており、全ての音にエコーがかかった状態で聞こえているそうだ。 成長するに従い、空気中の音声伝達に適応し、幼年期健忘=3歳前後までの幼年期の記憶を完全に失ってしまう時期を迎える頃には、このエコーは完全に遮断されるようになる)
人間の嗅覚と聴覚は、他の動物のそれに大きく劣るのだ。
そのため、ヒトは視覚が発達した。
他の感覚が劣るため、視覚に頼るしかなかったのだ。
元々、哺乳類の中でも肉食動物に分類される人類は、比較的視力が良く、物体を立体視する事に適応していた事も、この視覚中心の感覚神経系の進化に拍車をかけたと考えられる。
が、それとは矛盾する事実がある。
ヒトの眼球は、頭部の前面にしか付いていない。 すなわち、自分の背後は見えないのだ。
ヒトの視野角(注:fov)は140度程度と言われているが、これには個人差があり、訓練すれば180度ぐらいまで広げる事が可能なのだそうだ。
が、“たった”180度である。 全方位360度の、僅か半分しかないのだ。
サバンナの草原で生きるガゼルやシマウマは、トラやライオン、チーターといった肉食動物にその命を常に狙われている。 しかし、危険に晒された状態でも草を食み、水を飲まなければ彼らは生きていけない。 そこで草食動物は、眼球を頭部の両側面に配置する事で、視野角をほぼ全方位にまで広げる事に成功した。 この進化により、地面の草を食んでいても、視界だけは周囲ほぼ全方向に注意を払っておけるため、危険を察知し易くなったのだ。
もしも、アナタがサバンナの草原に一人放り出されたら、果たして何日生きている事が出来るだろうか?
餓死する可能性を無視しても、1週間と生きていられないだろう。 脚力はチーターに劣り、腕力はライオンに劣り、体格はハイエナに勝る程度しかなく、しかも全方位の僅か半分しかない視界では、アナタは背後に迫った危険を察知する事が出来ず、肉食動物の恰好の餌食となり、その身を屍に変えて荒野に晒すのがオチだ。
それが解っていながら、ヒトはあえて草食動物のような進化をせず、半分を失った中途半端な視覚中心の感覚神経に進化した。
何故か?
それは、ヒトが視覚と同時に触覚、すなわち手を進化させたからだ。
ヒトの手は、他のどの動物よりも極めて器用で、人類が唯一他の生物よりも優れている点だ。
視覚と触覚を進化させた事により、ヒトは二足歩行と高い知能を有し、万物の霊長として繁栄を極めた。
そしてその視界は、他の動物には見る事の出来ない様々な世界を見る事が可能になった。
ミクロの世界、深海、そして宇宙。
ヒトの視界は、ヒトの手が作り出した様々な道具によって、たとえ180度しかない狭い視野角でも、見ようと思えばどんな世界にまでも視界を広げる事が可能になった。
そしてそれは、自らが見る事が出来ないモノさえも見る事が出来る“眼”を作る事すら可能にした。 それが、ハンニバル・チュウが夢中になって作っている“人類とは異なる眼”、すなわちレプリカントの視界である。
ロイが言う、「オレが見たものをお前にも見せる事が出来たらな。」とは、ヒトが自ら見る事が出来ない自らの視界外の世界、すなわち人類の進化の過程で捨て去られる事になった“残りの180度”なのである。
ロイが見てきたのは、サバンナの荒野で肉食動物に無防備に背中を晒して泉の水を飲むアナタの、“背後に迫った危機”なのである。
それがトラなのか、ライオンなのか、チーターなのか、あるいはハイエナの群れなのかは解らない。 ロイはたとえそれを見ていても、アナタにそれを教えるほど親切な男ではない。
「オレは、お前たち人間が信じられないようなモノを見てきた。」
ロイはただ、アナタの背後に何かしらの危機が迫っている事を教えてくれるだけだ。
その危機とは何なのか?
宇宙のどこかで起こっている戦争なのか?
アナタの命を狙う反逆したレプリカントなのか?
それとも、酸性雨で地球を蝕み続ける環境破壊なのか?
それが識りたければ、アナタは振り返るしかない。 そして、失われていた“残りの180度”を、自らの視界に捉えて見るしかない。
その背後を。
すぐ、後ろを……。
それと同時に、円形のモティーフが示す視界、視点という映像テクストは、先にも記した通り“主人公を見つめる眼”のメタファーでもある。
既に第5章で述べた通り、これは天高くそびえるバベルの塔の最上階から、冥界風景たる暗黒都市を見つめているエルドン・タイレル、すなわち神の視点である。
加藤が述べている通り、映画のオープニングを飾るイスタブリッシング・ショットとその合間に挿入される巨大な碧い眼は、眼の色の一致という点からロイの視点を示唆し、先ほど記した“残りの180度”を示していると考えられるが、問題は、ロイが果たして冥界風景を眺められる場所にいる事が出来るだろうか? という点である。
映画のオープニングを飾るイスタブリッシング・ショットをよく観てほしい。 暗黒都市たる2019年のLAの夜景の中で、これを俯瞰で見る事が出来るような高い建物は二つしかない。 タイレル社の社屋になっている、巨大ピラミッドを模したバベルの塔だ。
そして、その最上階にいるのはロイではなく、タイレルである。
ロイは、そこにいくための方法を探しているが、そこにいるワケではない。 そこにいるのは、飽くまでもタイレルだけだ。
街を俯瞰で見る事が出来るのは、極限られた存在だけなのだ。 街を俯瞰で見る事が出来るのは、極めて特別な事なのだ。
だから、暗黒都市の冥界風景を見つめる巨大な碧い瞳は、(瞳の色が違うという指摘はさて置き)神の視点に立つ唯一の登場人物、エルドン・タイレルの視点なのである。
さらに、映画のそこかしこにちりばめられた視覚のメタファーたる円形のモティーフは、我々人間の行いをいつでもどこでも見ておいでになる偏在する視点、すなわち神の視界を示唆している。
タイレルは、ガフとブライアントにデッカードを監視させ、箱庭世界たるチェスボードの上でシュミレーション実験を行っている神なのである。(注:詳細は、本書第5章を再読の事)
そして同時に、この“神の視点”は我々観客の視点も示唆している。
観客とは、映画の世界から切り離され、しかし映画の世界の全てを、いつでもどこでも、どこからでも、観る事が出来る“神の視点”を持っている。 スクリーンから観客を見つめている巨大な碧い瞳は、客席からスクリーンを見つめているアナタ自身の視点の鏡映なのだ。
ただし、映画の世界の神とは異なり、アナタは神の視点を持ちながら、この世界に介入する事は出来ない。 映画を観る事は出来ても、この世界に介入して主人公たちの運命を変えることは出来ないのだ。
アナタは、この世界を観ている事しか出来ない無知無能な神の劣化コピー、すなわちただの人間でしかないのだ。
ロイが“見せたかったモノ”とは、あるいはそういう事なのかもしれない。
2.6人目のナゾ
これまでにも何度か記したが、映画『ブレードランナー』には大量のテクニカルエラーがある。
テクニカルエラーとは、そのモノズバリ“技術的ミス”の事で、連続するカットであるハズのないモノが無い、無いハズのモノがある、直前のカットと繋がらない、写ってはいけないモノが写っている、セリフ、目線、演技の間違い等々、様々な要因によって起こったミスが修正されないまま完成版に残ってしまう事を指す。
特に、特殊効果を多用したSF映画ではこれが目立つ事が多く、『スターウォーズ』に始まったSFブームの便乗を狙って製作された『007:ムーンレイカー』は、原作からタイトルを拝借しただけで、原作とは大きく離れたSF色の強い作品になっており、なんとボンドが秘密裏に建造された宇宙ステーションに殴り込み、悪の組織の陰謀を壊滅させるという内容になっている。(注:原作では、“ムーンレイカー”と呼ばれる核弾頭がロンドンに向けて発射されるという内容だった。 既に1980年代を迎えた当時、同様のネタは使い古されており、観客に受けないと判断されたための変更だった)
しかも、ボンド映画ではお馴染みの秘密装備として、なんとレーザーガンが登場し、宇宙空間でレーザーガンによる銃撃戦が繰り広げられるという、最早『007』を観ているのか『スターウォーズ』を観ているのか解らなくなってしまいそうな展開である。(注:面白い作品ではあるけどね。 まさかジョーズがあんなコトになるとは……!)
もちろん、数十回にも及ぶ多重露光によって撮影されたレーザーガンの描写は非常に完成度が高く、映画『スターウォーズ』に勝るとも劣らない出来で、当時としてはトップクラスの技術力を誇っていた。
が、宇宙ステーション内で無重力状態になり、ボンドが文字通り宙に浮くシーンでは、残念な事にキャストを吊るしているワイヤーが何本か見えてしまっている。
ワイヤーを使った特殊効果は、戦前から既に使われていた(注:『メトロポリス』のフリッツ・ラング監督が『メトロポリス』後に撮った作品、『月世界の女』でも、無重力空間の表現にワイヤーが使用されている。 これも、ワイヤーが見えてしまっているカットがいくつかある)が、デジタルVFXがなかった80年代当時は、ワイヤーを消すのにとても苦労した。 後から消す事は不可能なので、撮影の段階でフィルムに写らないようにする必要があったのだ。
簡単に説明すると、照明を二方向から当てる事でこれが可能になるのだが、キャストを吊るすワイヤーは、最低でも一人につき2本。 件の『ムーンレイカー』では、20人以上のキャストが同時に宙に浮くという設定だったため、ワイヤーの数は最低でも40本以上。 これだけのワイヤー全てに、しかも二方向から照明を当てるなど不可能である。
そのため、映画『スターウォーズ』では無重力空間の表現が断念されたのである。
デジタルVFXの進歩により、現在はこうしたテクニカルエラーはほとんど見られなくなったが、それでもテクニカルエラー自体が皆無になったワケではない。
2002年に公開されたピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の第2部、『二つの塔』のワンシーン。
フロドとサムは、ゴラムの案内でモルドールへと向かう途中、ファラミアの部隊に見つかり、捕らえられて砦へと連行される。
この時、フロドがひとつの指輪についてファラミアに問い詰められるシーンがあるのだが、このシーンでフロドとサムの背後にあったハズの樽が、カットが切り替わると無くなってしまうというテクニカルエラーが残っている。 言われなければ分からない程度のミスだが、こうしたエラーは今でも時々見かける。
1999年に公開されたデイヴィッド・フィンチャー監督の『ファイトクラブ』では、ボブ役のミート・ローフ・アディは、役作りのため100kgを超える巨漢に見せるため、衣装の下に装具を身に付けて撮影に望んだ。
映画の中ほどにあるシーン、ファイトクラブの取り締まりに熱意を燃やす警察のお偉いさんに、ホテルのトイレで脅しをかけた後地下駐車場へと逃げるのだが、この時ホテルから出てきたボブのスラックスがずり落ち、服の下に隠れていた装具が見えてしまうというエラーが発生し、完成版にも残っている。
撮影現場では気付き難いかもしれないが、編集室では気付いているハズである。 撮りり直しは難しかったかもしれないが、別テイクを使おうとは思わなかったのかしらん?(注:一発撮りで別テイクがなかったのやも知れず) 完璧主義者のフィンチャーらしからぬミスである。
こうしたエラーは、本来は起こらないようにするために撮影中の様々な事柄を事細かに記録する記録係というスタッフが撮影に同行する。
記録係は、セットの様子やカメラ、照明の位置、キャストの立ち位置、小道具(注:映画の撮影では、“セット内の移動可能な装飾品”を全て“小道具”と呼ぶ。 そのため、クルマやバイクも“小道具”に分類される。 これに分類出来ないセットそのモノは、“大道具”として区別される)が置かれている場所などを事細かにノートに記録し、写真を撮る(注:この時撮影された写真は、撮影が終了すると価値を失うため、プロダクションフォトとしてソフト版の特典や雑誌記事、あるいは書籍の写真として“再利用”される)などして撮影が数日に渡って行われる時や、リテイクの際にエラーが出ないようにするのが仕事である。
が、そうしてどんなに気を遣っていても、大なり小なり起こってしまうのがテクニカルエラーのテクニカルエラーたる所以である。
映画製作が、数十人、数百人が携わる大規模な共同作業である限り、エラーを完全になくす事は不可能なのである。
もちろん、だからといってエラーをエラーのままにしておくのは論外である。 エラーに気付いたのならば、少なくともそのエラーが表に出ないように努力する必要がある。 何故なら映画は、観客を楽しませるための娯楽だからだ。 このようなエラーがあっては、観客の興を殺いでしまうからだ。
そうした事がないよう、スタッフには十分気を付けて頂きたいワケだが、映画『ブレードランナー』に限って言えば、“多過ぎる”と言って良いほどのテクニカルエラーが確認されている。
第5章でも記した通り、これらのエラーは技術的なモノはもちろんの事、金銭的、あるいは時間的制約によって起こったモノがほとんどで、たとえ編集段階で気付いても“観客が気付かない事を期待する”しか解決する方法がなかった、というのがホントのトコロのようだ。
しかし、これとは別に、ポス・プロ段階まで製作中に脚本が二転三転したために起こったテクニカルエラーというのもある。
それが、後にファンの間で議論を呼び、K・W・ジッターによって3作もの続編小説が発表されてしまう事になった“6人目のナゾ”である。
何度も記したように、地球に潜り込んだレプリカントは6体で、内2体がタイレル社に押し入って射殺され、残った4体のレプリカントの“回収”がデッカードの任務になる。
が、これは飽くまでもファイナル・カット版でテクニカルエラーが修正された後のハナシで、初期の設定では事情がちと違っていた。
逃げたレプリカント6体は変わらないが、この内の1体、メアリーという名前のレプリカントが映画の冒頭でいきなり自然死し、残りは5体。
この5体の内、2体がタイレル社に押し入って発見されるも、射殺されるのは1体だけで、もう1体は何とか逃げおおせるという設定だった。
そのため、6体の内残ったレプリカントは4体、すなわちゾーラ、リオン、プリス、ロイで設定上は正しいのだが、この最初に自然死するメアリーの設定が予算超過のため丸々カットになってしまい、つじつまが合わなくなってしまった。
そこで、既に撮影済みだったブライアントとデッカードのブリーフィングシーンに合わせてブライアントの音声だけを録り直し、処刑されたのを2体に変更した。
こうして、ワークプリント版では“2体が回収されて4体が残った”という設定に変更されたワケだが、どういうワケかアメリカ国内版とインターナショナル版では、これが“1体が回収されて1体が逃げた”に戻されてしまう。
一説には、収録し直されたブライアントの音声と映像の口の動きが合わなかったため、とされているが、このセリフを言っている時のブライアントはオフ(注:画面の外に外れる事)になるため、リップシンク(注:口の動きと音声を同期させる事)の必要はないので全く問題ない。
今となっては、(関係者ももう憶えていないので)真偽のほどは定かではないが、こうして“1体が回収されて1体が逃げた”という設定に戻されてしまい、しかしメアリーの設定が戻されていないため、“逃げたハズのもう1体のレプリカントはどこに行ってしまったのか?”という疑問がファンの間で囁かれるようになり、結果として“6人目のナゾ”という議論が生まれたワケだ。
この議論は、長年議論される中で様々な憶測を呼び、デッカード、あるいはレイチェルが“6人目”なのではないか?というウワサが実しやかに囁かれる事になった。
結局、これらのウワサはウワサに過ぎず、上記で記したようにタネを明かせばこれは単なるテクニカルエラーで、製作中に設定がコロコロ変更された事実を浮き彫りにしただけだった。
が、このナゾが解明されたのは、82年の公開から25年を経過した2007年、ファイナル・カット版がリリースされてからだった。
それ以前にも、ディレクターズ・カット版で修正するチャンスはあった(注:89年に“2体が回収されて4体が残った”というブライアントのセリフがあるワークプリント版が“発掘”されているため。 音声を差し替えるだけならば、当時の技術的にも全く問題はなかった)が、スコット監督は“ユニコーンの夢”の追加だけに執着しており、“6人目のナゾ”を含めた全てのテクニカルエラーの修正には全く頓着していなかった。
また、編集作業が急ピッチで進められた事もあり、テクニカルエラーの修正まで手が回らなかった。
そのため、ディレクターズ・カット版でもこのエラーは修正されず、ナゾを残したままになってしまい、結果、95年にジッターによって著作権許諾を得た正式な続編小説、『ブレードランナー2』が発表されてしまう。
しかも、ジッターは調子に乗ってさらに続編となる3作目と4作目も執筆。 壮大な4部作が完成してしまう。
トコロが、この直後に先に記したファイナル・カット版がリリースされ、ジッターの力作は“無かった事”になる。
イヤハヤ、なんとも「なんだかなぁ~」としか言いようがない。
しかし、“6人目のナゾ”に限って言えば、これはテクニカルエラーの問題ではなく、商業主義的続編指向の問題である。
この問題は、何も映画に限った事ではないし、ハリウッドに限った事でもない。 TVドラマやアニメ、マンガ、小説、そしてゲームに至るまで、様々な作品で問題になりながらも、しかし何故か誰もこの問題についてクサいモノには蓋を的に無視してしまっている現状がある。
映画で言えば、その筆頭に挙げられるのはやはり『エイリアン』シリーズだろう。
本来、映画『エイリアン』はシリーズ化を前提としていない作品だったが、そのあまりの人気にビジネスチャンスを見出した出資者は、芸術家に続編の製作を命じる。
そうして製作されたのが2作目と3作目だった。
結果として、2作目は前作からの方向転換が当時のアクション映画ブームにハマって成功したが、3作目は1作目のスタイルに戻した事や、主人公のリプリーが自殺するという悲劇的なラストシーンに批判が集まり、失敗作になってしまう。
ただし、これは後に再評価され、『エイリアン』シリーズの3部作完結編と認知され、現在は高く評価されている。
トコロが、出資者の思惑はこの3作目の興行的失敗を回収しようと、完結した作品の続編、すなわち4作目の製作を決定する。
こうして、死んだハズのリプリーはクローンとして蘇り、4作目が製作された。 映画『エイリアン4』を監督したジャン=ピエール・ジュネは、「長いCMを作っている気がした」と、後に語っている。(注:“クライアントの言いなりになっていた”という意味)
実際、映画は駄作ではないが、強いて製作する必要性を感じない内容になっている感は否めない。
結果、続編の可能性を匂わせるエンディングになっているにも関わらず、主演のシガーニー・ウィバーが高齢になってアクションシーンの撮影に耐えられなくなったのを理由に出演を固辞しているため、5作目以降は製作困難になり、『AVP』シリーズに逃げるしかテがなくなってしまった。(注:ただし、『AVP』1作目は、映画ヲタクのポール・W・S・アンダーソンらしく、『バイオハザード』と同様に原典がよく研究された設定になっている良作である。 2作目は最悪だが……)
映画『エイリアン』シリーズは、20世紀フォックスが配給している作品だが、これと似たような事をフォックスは既に経験している。 映画『猿の惑星』シリーズである。
映画界を震撼させたあの衝撃のラストシーンで世界的な大ヒットを記録した1作目だったが、その人気の二番煎じを狙って続編が製作される事になった。 それ自体は、当時でも良くある事だったが、前作があまりにも大ヒットし過ぎたため、続編の失敗を懸念して制作費は大幅に減らされ、しかもかなり無理矢理な設定で展開するストーリーになってしまい、2作目と3作目の続編映画はモノの見事に失敗する。
しかし、それでも懲りずに4作目と5作目が製作されるのだが、設定を大幅に変更し、タイムスリップの要素を加える事で何とかつじつまを合わせ、5作目のラストで1作目の主人公たちを乗せた宇宙船が不時着する、という時間軸ループにする事で完結させているが、やはりあえて製作する必要性を感じる作品にはなっていないと言わざるを得ない。
ヒットした作品の続編を製作する事自体は、決して悪い事ではない。 作品の世界観を拡張し、より大きなスケールの作品にするためには、むしろ必要な事だ。
が、そうであるならば、最初から続編を前提としていなければならない。 そうでなければ、必ずどこかしらに無理が生じ、つじつまが合わなくなったりこじつけが酷くなったりしてしまうからだ。
映画『ワイルド・スピード』シリーズもそうだ。
この作品は、アメリカの若者たちを熱狂させているストリート・ドラッグレース(注:400メートルの直線を駆け抜けるだけのシンプルなモータースポーツ、いわゆる“ゼロヨンレース”だが、ドラッグレースでは走行距離が“4分の1マイル=約400メートル”と定義が微妙に異なる)をモティーフとしながらも、“仁義”という深いテーマを描いた快作で、フルチューンされた日本車が大量に登場(注:映画に登場するクルマは、そのほとんどが一般公募によって集められたホンモノのストリートレーサーのマシン。 マシンのオーナーも、エキストラとして多数映画に出演している)する上、当時の走り屋ブームに乗って日本でも大ヒットを記録した作品である。
この大ヒットを受け、映画は続編が製作/公開されたが、1作目のやや重いストーリーが無くなり、しかし1作目では(アメリカ人には解り難いという意味で)やや不明瞭だった“仁義”というテーマをより明確にし、1作目を超えるカースタントと当時の最新のスポーツカーがわんさか登場し、ノリの軽い雰囲気もあって娯楽作として受け入れられ、映画は再びヒットした。
トコロが、このヒットを受けて製作された3作目は、それまでの“仁義”というテーマはすっかり忘れ去られ、しかも映画の舞台が日本になるという暴挙を慣行。 法律的にもかなりヤヴァい描写(注:高校生、すなわち18歳未満がクルマを運転する。 アメリカでは、クルマの免許は16歳から取得出来るので問題無いが、日本では18歳以上でなければ取得出来ない)もあり、ストーリー的にも設定的にも2作目までをほとんど無視した作品になってしまい、やはり製作する必要性を感じられない作品になってしまっている感は否めない。
設定を変更したいのであれば、それはもう“続編”としてではなく“新作”として、“別の作品”として製作すべきである。 “続編”というネームバリュー売りにこだわるから、逆に前作のファンを失望させてしまうのである。
映画『ワイルド・スピードX3:トーキョー・ドリフト』も、タイトルを変えて完全に“別の作品”として製作すれば、批判はされなかったハズである。
しかも、これにさらに輪をかけるように、4作目が製作されてしまう。
1作目、2作目から離れ過ぎてしまった設定を1作目に戻すべく、1作目の主要キャストが復帰した注目作品となり、筆者もかなり期待していた。
が、フタを開けてみればチョーガッカリ。 3作目の設定を踏まえた上で、1作目の正統な続編になっているのはいいのだが、その結果、なんと2作目が“無かった事”にされてしまったのである!
もちろん、“仁義”というテーマも描かれておらず、やはり製作する必要性が感じられない作品であると言わざるを得ない。(注:ちなみに、この更なる続編になる5作目が、日本でも間もなく公開される。 海外では既に大ヒットを記録しているようだが、筆者は全く期待していない)
映画『スターウォーズ』の旧三部作、『エピソードⅣ:新たなる希望』は、ルーカスの構想では最初から続編が前提だった。 そのため、1本の映画作品としてしっかりと完結しているラストシーンであるにも関わらず、続編には何の無理もなく繋がっている。
映画『マトリックス』三部作もそうだ。 ウォッシャウスキー兄弟の構想では最初から三部作だったが、スタジオ側が映画の失敗を懸念して、とりあえず1作だけで完結するストーリーを用意するようウォッシャウスキー兄弟に要請し、1作目は1本の映画作品としてしっかりと完結する内容になっている。
これとは反対に、続編を前提としていないが故に失敗した例はいくらでもある。
映画『ブレアウィッチ・プロジェクト』、『キューブ』、『13日の金曜日』、『エルム街の悪夢』、日本の『リング』シリーズなんかもそうだ。(注:なんかホラー映画ばっかだな) 続編を作りたいのであれば、1作目から続編を前提として製作する必要があるのである。
ゲームなんかは特に酷い。 タイトルが同じなだけで、もう“続編”とは呼べないような“続編”ばかりである。
大人気のRPGシリーズである『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』なんかはその最たる例で、前作が何であれ、続編では根本的に異なる世界観とストーリーが語られる。 全く以って“続編”にする意味がない。 ってゆーか、『FF』シリーズはいい加減『ファイナルファンタジー』というタイトルを捨てるべきだ。 もう“ファンタジー”ですらない。 全くのSFである。 ……ん? “サイエンス・フィクション”じゃなくて“サイエンス・ファンタジー”ってか?(笑)
いずれにしても、続編を作りたいのであれば、1作目から続編を前提として製作すべきなのである。
……とは言え、中にはそうして続編を前提に製作された作品であっても、『アンダーワールド』のように失敗する例も無きにしも非ずなのだが……。
それはともかくとして、では映画『ブレードランナー』の場合はどうか? 続編は必要なのだろうか?
必要ない。
断言してもいい。 全く以って不要である。
逃亡したデッカードとレイチェルのその後? そんなモノは、語る必要の無い事だ。 それこそ“どーでもいいコト”だ。 そんな事は、観客が映画を観た後に勝手に想像してくれればいい事だ。 芸術家が語る事ではない。
何故なら映画とは、物語りを通して、芸術家の意図たるテーマやメッセージを語るモノだからだ。 それがシッカリと語られているのなら、続編など必要ないのだ。
映画『X‐メン』シリーズは、原作であるコミックス版は今もなお新作が発表され続けているが、映画版は作品のテーマをシッカリと語った上で、三部作で完結した。 それ以降は、世界観を拡張させるための“そこに至るまでの過去”を描く事に終始しており、実質的な“続編”は1本も製作されていない。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
展望台。 ※Felmoon Air Fortress Ver.1.2
プレイ動画『天空の城』でも紹介されていた古代エルフ族の遺産。 文字通りの“天空の城”。 持ち家として利用出来、蒐集したアイテムの保管場所に最適。 外観が異なる『Dawn』(注:キレイ)と『Dusk』(注:荒れ放題)の2種類から選べるが、ロケーションが同一で競合するため同時に導入出来ない。 今回は『Dawn』をセレクトしたが、espファイルのみのシンプルなMODなので、導入がとてもラク。
ワープポータルを使うと、城全体が見渡せる展望台に行ける。 俯瞰から城を眺めるのも良いですが、ココから見える風景もまた絶景である。
Thanks for youre reading,
See you next week!
-"BLADERUNNNER" 30th Anniversary #14-
皆さんおはこんばんちわ!
asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
先週、「酷暑というカンジはしない」と書きましたが、その直後から気温が急上昇。 週明けには全国各地で酷暑日を記録。 消費電力量も最高値を更新したトコロが多かったようです。
連日の熱帯夜続きで寝苦しい日が続いていますが、皆さんは夏バテなどになっていないでしょうか?
しかし、それと同時にやっぱり怖いのは熱中症です。 昨年は記録的な酷暑のため、熱中症による死者が過去最高になりましたが、日本の研究機関によるコンピュータを使ったシュミレーションによると、車中などで気温が45度を超えると、成人の場合は約1時間。 3歳児の場合は、なんと僅か13分(!)で熱中症になり、1時間もあれば死に至るという研究結果が発表されました。
たった13分じゃ、そりゃパチンコ屋の駐車場に置き去りにされた子供が死んじゃうのは当然ッスよね?
世の親御さんの皆さま、子供の置き去りダメ!ゼッタイッ!!
……って言っても、今年もきっと多いんだろうなぁ。
パチンコなんてやってる場合じゃないっつーの。 つか、子供連れてパチンコ行くなよ。 ナニ考えてんのかね? ……あ、何にも考えてないのか。(笑)
……アナタのコトですよ?
そうそう、それとは関係ないですが、C80の戦利品は来週報告します。 モノがまだ手元に無いんで。
‐Alice in Cyrodiil:2nd Season‐
AiC、デイドリッククエスト編。
今回はノクターナルのクエスト攻略の予定でしたが、諸般の事情によりこのコーナーは今週はお休みさせて頂きます。 すまぬ……。つД`)゜。
……いえ、クェイクコン開催合わせのQ4再リリースに浮かれて、Q4やらD3やらETQWやUT3まで買ってしまってハマってたからじゃないッスよ?
つか、D3はもう何度もプレイムービー観てますが、実際にやってみると独特のあの暗闇のためにモノスゴく集中力が必要なゲームなので、あんまり長時間プレイ出来ないし。
TESⅣのダンジョンなんか比べ物にならんッス。
でも、あの緊張感は良いですね。 『RAGE』リリース後(注:10/7リリース予定)には、オープンソース化されるらしいですし。
まあそんなワケで(←?)、今週はお休みです。 来週こそは! 来週こそは必ず!
<今週の特集>
今週の特集コーナーは映画『ブレードランナー』の徹底解説シリーズ、『異説「ブレードランナー」論』の連載第14回です。
前回までの記事を読みたい方は、画面右側のカテゴリー欄より、“異説『ブレードランナー』論”のリンクをクリックして下さい。
ちなみに、このシリーズは9月いっぱいで終了する予定です。
あと1ヵ月半。 引き続きお付き合い下さいませませ。(願)
第6章:出荷‐失敗の原因
1982年6月25日―。
映画『ブレードランナー』は、本国アメリカで全国一斉ロードショウになった。
全米1290館で一斉に封切られた『ブレードランナー』は、ハリソン・フォードとリドリー・スコットの最新作とあって、映画ファンには熱狂を以って迎え入れられた。
しかし、観客が熱狂を維持したのは、封切から僅か数日の事でしかなかった。 新聞や雑誌などのメディアが、映画『ブレードランナー』の酷評を掲載したからだ。
ステート・アンド・コロンビア・レコード紙、LAタイムズ、NYタイムズ、シカゴ・サン=タイムズ等々。 主要なメディアの批評家たちは、こぞってこの作品を酷評した。
そうした批評が物語るように、映画館の客入りは週を追う毎に減り続け、最終的な興行収益は僅か1400万ドルにしかならなかった。(注:飽くまでもアメリカ国内での収益記録。 その後の海外配給により、映画はかろうじて黒字に転じた)
結果的に、映画『ブレードランナー』はその総製作費2800万ドルの内の半分しか回収出来なかった。
映画は、完全な失敗作に終わったのである。
確かに、映画『ブレードランナー』は非常に難解な作品で、極めて哲学的なテーマを語っている作品である。 観客や批評家が、“難しい”、“理解出来ない”と感じるのは当然である。 セバスチャン役を演じたウィリアム・サンダーソンも、「理解するまでに時間がかかる」と評価している。
が、それが“面白くない”と同義かと言うと、実は全くの別問題である。
映画『ブレードランナー』の公開に先立つ事約10年前、1973年に公開された映画、『エクソシスト』。 今もなお、オカルトホラーの金字塔として頂点に君臨し続けているこの作品は、しかし公開当時、宗教的な理由から“悪魔の映画”、“神を貶める映画”といった痛烈な批判に晒され、中には公然とこの映画を酷評する有名人も少なくなかった。
しかし、映画は全米はもとより世界中で記録的な大ヒットを続け、最終的な興行収益は総製作費の30倍以上(!!)に達し、世界的なオカルトブームの火付け役になった。
批評家の酷評と興行収益は、決して比例するモノではないのだ。
最近の例で言えば、ダン・ブラウンの世界的ベストセラー小説の映画化作品、『ダ・ヴィンチ・コード』(06年)は、『エクソシスト』と同じく宗教的な理由から多くの批判の的にされたが、映画は近年のサスペンススリラーとしては桁違いの大ヒットを記録した。
ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』(09年)は、酷評されたワケではないが、アカデミー賞では主要5部門にはかすりもせず、全くの惨敗に終わった。 しかし、映画はそれまで『タイタニック』(97年)が持っていた世界歴代興行収益記録を12年ぶりに、しかもキャメロン監督自身の手で塗り替えるという偉業を成し遂げた。
酷評が観客動員数の直接的な要因になるとは限らないのである。
しかし、映画『ブレードランナー』は大失敗に終わった。
何故か?
再評価された今でこそ、この結果に我々ファンは「なんで?」と首を捻るばかりだが、これには公開当時にあった決して無視出来ない、そして、あながち間違いとは言い切れない複数の原因があったのである。
この章では、映画『ブレードランナー』が興行的失敗に至った原因を検証していく。
1.絵画的映画
これは飽くまでも筆者の個人的な考察に基づくモノだが、映画はそのスタイルによって大きく分けて3種類に分類出来ると考えている。
一つは、“文学的映画”である。
これは、映画が物語るストーリー、すなわち登場人物たちが織り成す人間関係によって構成されるドラマを重視し、キャストのセリフや演技、それによって繰り広げられるストーリー展開に重点を置いた映画の事で、観客は小説を読むように映画を観る事が出来る作品の事である。
ジャンルで言えば、ラブストーリーやヒューマンドラマ、サスペンスなどがこれに当たり、シェークスピア劇のような舞台演劇もこれに分類される。
キャラクターの感情、心の動き、すなわち情動がセリフ、あるいはキャストの演技によって語られ、感情移入し易く、比較的解り易い作品が多いのも特徴である。
二つ目は、“音楽的映画”である。
ストーリーやテーマ性を低くし、細かいカット割りとテンポの速い展開で観客をグイグイ映画に引き込むのが最大の特徴であり、まるでオーケストラのように映像を構成している作品の事である。
ジャンル的には、アクションやホラー、SFなどがこれに分類され、ストーリー性よりも娯楽性を重視した作品になっている事が多いのも特徴である。
キャストのセリフや演技よりも、映画全体のテンポ、スピード感、テンションが重要視されており、音楽のようにクライマックスに向かってテンポアップしながらどんどん盛り上がっていくような作品であり、あまり難しく考える必要も無く、ポップコーンとコーラで2時間の間タップリ楽しめる映画、いわゆる“サタデーナイトムービー”と呼ばれるような作品がこれに分類される。
そして、最後の一つが“絵画的映画”である。
上記の二つとは大きく異なり、非常に抽象的な表現と曖昧な展開、そして、観る人によって複数の解釈を容易にしている作品の事で、一部のSFやホラーなどがこれに分類されるが、何と言ってもこれ以外に分類出来ないのはサイバーパンクである。
映像があり、セリフがあり、物語りがあるのに、表現方法が抽象的かつ曖昧なため、その根底にあるテーマが極めて解り難い。 しかも、ハッキリと明記されているワケではないため、読み解き方によっては相反する複数の解釈を容易にしてしまうという欠点があるのが特徴と言えば特徴だ。
映画『ブレードランナー』はもちろんの事、サイバーパンクに分類される作品はそのほとんどが“絵画的映画”である。 最近の例で言えば、映画『マトリックス』シリーズはその最たる例と言えるだろう。
映画『ブレードランナー』以降、サイバーパンク系の作品は先を争うように製作、公開されていったが、その中でも最も『ブレードランナー』に近い“絵画的映画”を挙げるなら、やはり『バンカー・パレス・ホテル』を置いて他にはないだろう。
時は21世紀初頭のフランス。 核戦争の勃発により世界が終末を迎えようとしていたこの頃、フランスの政府高官たちは地下深くに作られた核シェルター、バンカー・パレス・ホテルに集まった。
反政府組織のメンバー、アンナは、成り行きからこのシェルターに潜入し、政府高官たちと避難生活を送る事になるのだが……?
というのが主な内容。
1991年に公開されたこの映画は、公開当時のフランス国内の歴代興行収益記録を塗り替えるほどの大ヒットを記録し、現在もサイバーパンク系映画の中でも極めて重要な作品の一つとしてカルト的な人気を誇る作品である。
監督のエンキ・ビラルは、本来はコミック作家であり、フランスコミック界でもSF/サイバーパンク系の作品を得意とする作家たちの中でも重鎮の一人に数えられ、ジャン・“メビウス”・ジローと並ぶバンドデシネ(注:フランスコミック界において、SF/サイバーパンク系の作品を総じてこう呼ぶ)のトップアーティストに君臨している人物である。
そんなビラルが監督したこの作品は、酸性雨が降りしきる核戦争勃発後の荒廃した世界観を提示し、凄まじいまでのヴィジュアルで観客を圧倒する作品に仕上がっている。
が、この作品のストーリーやテーマを理解する事は困難を極める。
アンナがシェルターに潜入し、何か極秘情報を得てシェルターを脱出するとか、逆に逃げ道を絶たれて殺されるといった悲劇的な展開になる事もなく、登場人物たちが何やらワケの解らない事を言い合っているだけで、ストーリーが進行しているのかどうかすら、観客には何の説明も無いまま映画は進み、そしてやはり意味不明なエンディングで観客をおいてけぼりにしたまま映画はジ・エンドになってしまう。
何が言いたいんだかさっぱり解らない。
筆者はもう10回以上観ているが、理解不可能と判断してこの映画の解釈を諦めた。(笑)
だが、この映画の興行収益が示している通り、これが“面白くない”という評価と同義かと言うと、決してそうではない。
筆者は、この映画を“面白くない”と思った事は一度も無い。 筆者に理解出来るだけの感性が無いだけで、この作品が“面白くない”ワケでは決して無い。 この映画が“面白くない”のであれば、当時の歴代興行収益記録を塗り替えるような大ヒットをするハズがないからだ。
これと同じ事が、映画『ブレードランナー』にも言える。
極めて抽象的、かつ曖昧な表現手法と、相反する複数の解釈を容易にする説明不足な展開は、映画『ブレードランナー』を『バンカー・パレス・ホテル』と同じように極めて難解な作品にしているのである。
本書の最初、序文の中で、筆者は「ダ・ヴィンチやモネは理解出来るが、ピカソは未だに理解出来ない」と記した。 序文の中でも記した通り、それはそのまま、映画『ブレードランナー』や『バンカー・パレス・ホテル』にも言える事なのである。
序文にも記した通り、絵画というのは芸術家の意図がカンバスに描かれているワケだが、それは文章でも、音楽ですらないため、見る人によっては解釈が変化したり、また解釈そのモノが不可能になってしまう事が多い。 ピカソに代表される抽象画や、ダリに代表されるシュールレアリズムはその最たる例で、小学生の落書きにしか見えない絵に、果たしてどのような芸術家の意図があるのかは、説明されても理解するのは難しい。 何故ならそれは、見る人に芸術家の意図を理解出来るだけの感性が備わっていないからだ。
芸術家と同じか、あるいは近い感性がなければ、ピカソやダリを理解するのは極めて困難、あるいは不可能なのである。
映画『ブレードランナー』、そして『バンカー・パレス・ホテル』にも、これと同じ事が言える。
抽象的で曖昧な表現手法と相反する複数の解釈を容易にする“絵画的映画”は、まさに“ゲージツ”たるピカソやダリの作品と同じなのである。
だから、理解出来ない人々は映画を酷評するし、面白いと感じられないから“面白くない”のだろうという評価を下してしまう。 だから、『ブレードランナー』は興行的失敗に至ったのである。
それでも、映画『バンカー・パレス・ホテル』がフランス国内の歴代興行収益記録を塗り替えるほどの大ヒットに至ったのは、それが“フランス国内”だからである。 フランス人の感性を以ってすれば、あれはアレで理解出来る作品なのだろう。
ちなみに、『バンカー・パレス・ホテル』は日本では劇場未公開で、94年にソフト版がリリースされただけだが、リリース直前に一度だけ、CS放送で有料放送が行われている。 筆者もそのおかげで観る事が出来たのだが、やっぱり未だによく解らない作品である。
2.映画の流行
もう一つの原因として考えられるのが、公開当時の映画の流行である。
ご存知の方も多いと思うが、映画にはある程度の期間ごとに流行り廃りがある。
例えば、00年代は『スパイダーマン』や『X‐メン』、ノーラン版『バットマン』に代表されるアメコミスーパーヒーローモノが大流行した。 そしてそのどれもが、世界的な大ヒットを記録する事になった。
それよりも前の90年代は、前半と後半で流行が極端に変化している。
90年代前半は、『羊たちの沈黙』の大ヒットによってサイコスリラーブームが巻き起こった。 最終的に、このムーブメントは映画『セブン』で頂点に達する。
しかし、頂点を極めた直後に映画『ツイスター』が公開され、90年代後半はディザスター・パニック映画が次々と公開される事になった。 そしてそれは、『ダンテズ・ピーク』、『ボルケーノ』といった良作を世に送り出し、最終的に『タイタニック』、『ディープ・インパクト』、そして『アルマゲドン』という過去に例を見ないほどの大ヒット作を生むに至った。
こうした映画の流行は、何もハリウッドに限った事ではない。 日本でもよくある事だ。
ハリウッドでサイコスリラーブームが巻き起こっていた頃、日本ではある1本の2時間ドラマをキッカケに、空前のオカルトホラーブームが起こっている。 TVドラマ版の『リング』である。
それ以降、シリーズ化されTVと映画で何度も映像化される事になる『リング』シリーズの初の映像化作品であるこの2時間ドラマ版は、かつて一大ムーブメントと巻き起こしたTVドラマ、『ナイトヘッド』の生みの親である飯田譲治が脚本を手がけた事もあって話題となり、高視聴率をマークし、後のソフト化の際もレンタルランキングの上位にランクインするほどの人気を得た。
この『リング』ムーブメントは、90年代後半のオカルトホラー系作品の頻作に繋がり、最終的にこのムーブメントはハリウッドにまで飛び火し、ハリウッドリメイク版どころか、日本人クリエーター本人がハリウッドに招かれて作品が製作されるほどだった。 いわゆるJホラーブームである。
それとは対照的に、ベストセラー小説の映画化と韓国ドラマの輸入をキッカケに、いわゆる純愛モノがムーブメントを巻き起こしたのも、90年代以降の日本映画における映画の流行の一例である。
こうした映画の流行は、例えばファッションやヘアスタイル、音楽、アクセサリーなどがそうであるように、キッカケとなる最初のヒット商品の2番煎じ、3番煎じを狙った類似商品が頻作される事によって“流行”へと成長する。 インターネットの普及により、高度情報化社会が実現した事で、消費者が情報を入手し易くなり、“今何が流行っているのか?”を知り易くなったのも、こうしたムーブメントに拍車をかけていると言えるだろう。
しかし、映画の流行は何も最近になって始まった事ではない。 映画黎明期の20世紀初頭には、既に映画の流行が存在した。
1900年代、映画がまだキネマトグラフ=活動写真と呼ばれていたこの頃は、トリック撮影映画が全盛期を迎えた。
映画『月世界旅行』や『不思議の国のアリス』、『オズの魔法使い』を例に持ち出すまでも無く、ただ単に“動く写真”から映画ならではの現実にはあり得ない事象を映像化するという試みにより、映画は娯楽性を増し、大衆娯楽として受け入れられ、より斬新な映像、奇抜で面白い映像を作り出すために、様々な撮影技法が次々と生み出された時代だった。 そしてそれは、1910年代まで続いていく事になる。
1920年代は、ドイツ映画と巨大映画が全盛期を迎える。
第1次大戦終結後、焼け野原からの復興を余儀なくされたドイツは、ワイマール政権の失策により最大1兆倍(!!)という空前絶後のインフレが発生し、国内情勢は悪化する一方だった。
しかし、1919年に公開された『カリガリ博士』が、ドイツ国内のみならずヨーロッパ各国で絶賛された事により、ドイツ映画は黄金時代を迎える。 そして、『ゴーレム』や『ノスフェラトゥ』、『死滅の谷』といった名作を数多く世に送り出し、最終的にそれは、『ドクトル・マブゼ』、『ニーベルンゲン』、『メトロポリス』という巨大映画を世に送り出すまでになる。
当時はもちろん、今現在でも不可能なほどの大規模なセットやエキストラ、そして、国家予算かと言いたくなるような制作費が費やされたこれらの作品は巨大映画と呼ばれ、そしてそれはドイツ国内に止まる事無く、フランス映画の『ナポレオン』、ハリウッド映画の『グリード』や『イントレランス』といった超巨大映画の量産を促す事になる。
1930年代は、ギャング映画が台頭を始めた時代である。
1929年、ニューヨーク市場の株価の大暴落に端を発した世界恐慌は、資本主義社会に大打撃を与え、アメリカ国内の失業率と犯罪発生率の増加を招いた。 その結果、すさみきった世相を背景に、犯罪映画が頻作されるようになり、ギャング映画、後のフィルムノワールブームのキッカケとなり、『暗黒街の顔役』などの名作を世に送り出す事になる。
しかし、こうした娯楽映画は1930年代末に急速に衰えていく。 これはハリウッドだけの現象ではなく、世界的な傾向として多くの先進諸国に見られるモノであった。 何故なら、第2次大戦が始まろうとしていたからだ。
1933年に独裁政権を樹立したヒトラー率いるナチス党は、政府内閣に宣伝省を設け、大臣のゲッペルス指揮の下、プロパガンダ映画の製作にいそしむようになる。 そしてこれは、ヨーロッパ各国やソ連、アメリカ、そして日本にまで飛び火し、世界中で大量のプロパガンダ映画が頻作されるようになる。 このプロパガンダ映画ブームは、大戦が終結する40年代半ばまで続く事になった。
終戦後の40年代後半は、終戦直後という事もあり戦争映画が流行し、これは50年代まで続いていく事になるのだが、同時に映画業界が衰退期を迎える事になる。 映画に代わる新しいメディア、TVメディアの普及である。
これを期に、映画館に観客を呼び戻そうと、映画はモノクロからカラーへと進化し、さらにワイドスクリーンが普及し始める。
1960年代に入ると、コメディ映画がムーブメントの中心になっていく。 ピーター・セラーズ主演の『ピンク・パンサー』シリーズを例に持ち出すまでもなく、ハラの底から大笑い出来るスラップスティック・コメディ(注:ドタバタ喜劇の事)がヒットするようになる。 同時に、ミュージカル映画が全盛期を迎えたのも、1960年代である。
ミュージカル映画は、トーキー黎明期の1920年代後半に既に存在していたが、全盛期を迎えたのは60年代に入ってからである。
ディズニーの『メリー・ポピンズ』に端を発するこのムーブメントは、『サウンド・オブ・ミュージック』や『チキチキ・バンバン』、『屋根の上のバイオリン弾き』などの歴史的名作を数多く生み出し、60年代の映画界を牽引していく事になる。
しかし70年代に入ると、ブームによって巨大化し過ぎたミュージカル映画は製作が困難になり、急激に衰退していく。 そして、先に記した『エクソシスト』の大ヒットをキッカケに、世界的なオカルトブームが巻き起こり、ホラー映画の頻作が始まる。
特に、ダリオ・アルジェン監督を中心としたイタリアのホラー映画は、この頃全盛期を迎え、後に絶大な信奉者を抱えるカルト映画を数多く生み出す事になる。
同時に、低予算でも製作が可能なため、ホラー映画は若手映画監督の登竜門となり、後のヒットメーカーを数多く輩出する事にもなる。
が、このムーブメントも急激に衰退する。 その原因を作ったのは、1977年に公開されたある1本の低予算映画であった。
映画『スターウォーズ』である。
このSF映画の空前の大ヒットをキッカケに、70年代末に史上最大規模のSFブームが巻き起こり、後の『未知との遭遇』、『エイリアン』、『ET』、『トロン』、そして『ブレードランナー』へと続く80年代のSFブームの基礎を築いたと言える。
このように、映画は時代時代の世相を反映するように流行と衰退を繰り返しているワケだが、『スターウォーズ』に端を発する80年代のSF映画ブームが背景にありながら、映画『ブレードランナー』は失敗に終わってしまう。 それは何故か?
その原因は、80年代のもう一つの流行が背景にあったからだ。
アドベンチャー映画ブームである。
1981年に公開された『レイダース‐失われた聖櫃』に端を発するこのムーブメントは、『グーニーズ』や『ロマンシング・ストーン』といったヒット作を世に送り出し、夢と冒険の詰まったアクション満載のアドベンチャー映画の頻作へと繋がっていく事になった。
そして、このSF映画とアドベンチャー映画の流行は、映画『ブレードランナー』にとっては逆風にしかならなかったのである。
映画『ブレードランナー』で主人公のデッカードを演じたハリソン・フォードは、先に例を挙げたアドベンチャー映画ブームの火付け役たる『レイダース‐失われた聖櫃』で主人公のインディアナ・ジョーンズを演じ、アクションスターとしての地位を確かなモノにした。 そして、映画『ブレードランナー』は、ビッグスター、ハリソン・フォード主演の最新作として、ファンに大きな期待を以って公開が待たれた作品だった。
だが、いざ映画が公開されると、ファンは期待を大きく裏切られる事になった。
映画『レイダース‐失われた聖櫃』とは似ても似つかない、暗く陰鬱とした世界観を有する難解な作風は、『レイダース‐失われた聖櫃』のようなフォードらしい爽快なアクションを期待していたファンにとっては、肩透かしを食らわされたようなモノでしかなかった。
しかも、素直に“面白い”と呼べるような作品ならまだしも、難解で何を言いたいのか理解出来ないストーリーとテーマは、SF映画やアドベンチャー映画に慣れた観客には受け入れ難いモノがあった。
そのため、映画は批評家からも、観客からも酷評され、興行的失敗を招く事になったのである。
さらに言えば、サモンが指摘している通り、映画『ブレードランナー』の直前に公開されたSFファンタジー、『ET』のロングランヒットも、これに拍車をかける事になったのは間違いない。
映画『ブレードランナー』の関係者は、『ET』のような“甘ったるい作品”に飽きて、観客はハードな作品を求めるだろうと読んでいたが、その読みはモノの見事に外れてしまう。 映画『ET』は、『ブレードランナー』公開後もロングランヒットを続け、最終的に当時の世界歴代興行収益記録第1位を樹立する事になる。(注:この記録は、93年に同じくスピルバーグが監督した『ジュラシック・パーク』が公開されるまで、10年もの間破られる事がない金字塔となった。 ちなみに、『ジュラシック・パーク』の記録は97年にキャメロン監督が『タイタニック』で破り、さらに12年後の09年には同じくキャメロン監督が『アバター』で更新する事になる。 自らが打ち立てた記録を自身で更新したのは、歴史上スピルバーグとキャメロンだけ)
こうした“映画の流行”という背景による興行収益への影響は、現在でも少なからずあるモノで、まだレンタルビデオ市場が出来上がっていなかった80年代初頭は、特にこの影響が顕著だった。 ソフト版のリリースにより、興行的失敗を回収する機会がなかったからだ。
特に、当時のSF映画、アドベンチャー映画の流行は極めて大きな流れで、この流行に乗れなかった作品はことごとく失敗する事になった。
映画『ブレードランナー』は、先にも記した通りSFの最終進化系たるサイバーパンクという新ジャンルの作品である。 SFという流行に即したカテゴリーにありながら、流行の流れに乗れなかったのはそのためだ。
しかし面白いのは、そうしてSFブームに便乗できなかった『ブレードランナー』が、80年代後半からのレンタルビデオの普及により再評価され、90年代前半まで続くカルト映画としてのサイバーパンクムーブメントのキッカケを作り、また中心的存在になった事である。
この事実から、やはりサイバーパンクはSFの一ジャンルではなく、SFから派生した“別のジャンル”と考えるのが妥当なのではないかと筆者は考える。
3.時代背景
以上のように、映画『ブレードランナー』は難解な作風と公開当時の映画界の流行が逆風となり、興行的失敗を招く事になったが、ココで注目して頂きたいのは、絵画的映画にも映画の流行にも、“時代背景”という当時の世相が関係している点である。
1940年代―。
第2次大戦の終戦により、世界は平穏を取り戻したハズだったが、終戦と同時に新たな戦いが始まった。
東西冷戦である。
終戦直後、日本によって占領されていた朝鮮半島の主導権を巡って米ソが対立。 直接的な武力衝突にまで発展したこの対立は、後に朝鮮戦争と呼ばれ、米ソ冷戦構造の直接的なキッカケになった。
結局、米ソの対立は和解を見ないまま休戦となり、朝鮮半島は北緯38度線を境に南北に分断され、現在まで続く民族分断の悲劇を招いた。
これと時を同じくして、ヨーロッパでは敗戦国ドイツの主導権を巡って、やはり米ソの対立が激しくなっていった。
元々、終戦直前に交わされたポツダム会議によって、アメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連の4ヵ国がドイツを4分の1ずつ分割統治する事が約束されたが、問題は首都ベルリンだった。
ベルリンは、後の東ドイツ、すなわちソ連が分割統治する地域に含まれていたが、首都だけに西側諸国も譲らず、結局これも分割統治する事で決着した。
そして、東半分をソ連が。 西半分をアメリカ、イギリス、フランスが分け合う事になった。
こうして、東西冷戦構造の地盤は固まった。
終戦直後で疲弊していたソ連は、東ベルリンに対して十分な物資を補給する事が出来ず、しかし事実上国内での戦闘が皆無だったアメリカは好景気に恵まれ、豊富な物資を西ベルリンに輸送し続けた。
これを知った東ベルリン市民は、西ベルリンへの“脱出”を始めた。 結果、東ベルリンは物資だけでなく、人的資源さえも失っていく事になった。
これに憂慮したソ連は、西ベルリンと接する“国境”にフェンスと鉄条網を設置。 実質的な国境閉鎖に踏み切った。
しかし、警備の目を盗んで西ベルリンへと“脱出”する東ベルリン市民は絶えなかった。
そこでソ連は、フェンスと鉄条網をレンガ造りに変え、西ベルリンと接する建物の窓にも、レンガとセメントで堅牢な“封印”を施した。
こうして完成されたのが、この後半世紀近くの間ベルリンを東西に隔て続ける事になった、あの悪名高き“ベルリンの壁”である。
これにより、ヨーロッパの米ソ対立に一応の決着が付くと、両国は相手を圧倒する兵器開発にいそしむようになる。
核開発競争である。
既にヒロシマ・ナガサキ型原爆の開発に成功していたアメリカは、ソ連に対して一日の長があったワケだが、それでも核開発の手を緩める事無く、逆にその勢いを加速させていった。 ネバダ州の砂漠地帯や、太平洋にあるビキニ環礁などで核実験を繰り返し、その回数は年間200回以上にも及んだ。
核兵器の開発、というよりは、実験の映像を世界中に向けて配信する事で、強大な武力を有している事をアピールするためのデモンストレーションだった。
アメリカに遅れを取ったソ連は、何とか最初の核実験を成功させるモノの、その後の開発は一向に進まず、実験は失敗を繰り返した。
この事実は、冷戦終結までひた隠しにされ、ソ連は密かに核開発を進めていると、西側諸国に思い込ませるのに成功する。
そして、それを確信の域にまで達しさせる事に成功したのが、世に言うキューバ危機である。
中米の島国キューバで、革命によって共産主義政権が樹立。 これは、ソ連の援助によって推し進められた共産化であった。
これにより、キューバにソ連の核ミサイル発射施設が建造されたと考えられるようになり、時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、核ミサイルの発射ボタンに指をかけるトコロまで、米ソの緊張が高まる事になる。
結果的に核戦争は回避されたが、米ソの対立は、いつ核戦争が起こってもおかしくないほどの状況になっていった。
これと時を同じくして、核開発が一向に進まないソ連は、核ミサイルよりも先に核ミサイルをより正確に目標に命中させる技術の研究開発を始める。
宇宙開発競争の始まりである。
どんなに強大な攻撃力を有する兵器を保有していても、それが正確に目標を破壊してくれなければ何の意味もない。 ターゲットであるホワイトハウスに正確に命中させる技術を開発する事は、核ミサイルの開発そのモノよりも急務だった。
そこで、人工衛星を打ち上げて、敵国を上空から監視する“目”を作ろうとしたワケだ。
この開発は急ピッチで進められ、ソ連は世界初の人工衛星、スプートニク1号の開発と打ち上げに成功する。
その後も、ソ連は次々と人工衛星の打ち上げに成功し、史上初の有人飛行に成功したユーリ・ガガーリンの発した「地球は青かった」の名言を以って、宇宙開発で絶対的な優位に立った。
一方アメリカは、巨大になり過ぎた国防費に圧迫される形で宇宙開発の予算が確保出来ず、開発は遅れに遅れた。
しかし、ケネディ大統領は有人飛行計画をさらに発展させた月面着陸計画、アポロ計画を発表。 なんと“10年以内に人類を月面に立たせる”と宣言した。
この発表は、しかしNASAの宇宙開発を促進し、人工衛星開発や有人飛行計画を推し進め、なんとかソ連に追いつく事に成功する。 そしてこれは、ケネディ大統領がダラスでパレード中に狙撃を受け暗殺された後も続いた。
暗殺されたケネディ大統領の後任を期待された弟のロバート・ケネディも、予備選挙中に暗殺されてしまい、やがてニクソン政権へと時代は移り変わっていく。
最終的に、宇宙開発競争は1969年にアポロ11号が月面に降り立ち、「私にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」というニール・アームストロングの名言を以って、アメリカ勝利で幕を閉じる事になった。
しかし、それと前後して東南アジアで世界を揺るがす異変が起きる事になった。
ベトナム戦争の勃発である。
ソ連主導の共産主義陣営と、アメリカ主導の自由主義陣営の対立は、東南アジアの小国で本格的な武力衝突を伴う戦争にまで発展した。
宇宙開発競争で優位に立ったアメリカは、この戦争に直接武力介入する。
ホーチミン率いる共産主義陣営を壊滅し、ベトナムをアジア地区における自由主義陣営の最前線基地にするのが目的だった。
当然、相手は満足な武力を持たない前時代的な装備しかない弱小軍隊で、しかしアメリカはソ連との軍拡競争によって実戦配備された最新兵器で完全武装した軍隊で、誰がどう考えても、アメリカ軍は数ヶ月とかからずベトナムを占領するモノと思われた。
しかし、ここでアメリカにとって思わぬ誤算が生じる。
ベトナムの国民は、アメリカ軍を占領軍扱いし、共産主義陣営に味方したのだ。
しかも、弱小軍隊は弱者の戦い方を心得ており、ゲリラ戦術でアメリカ軍を翻弄したのだった。
さらに間の悪い事に、アジア特有の亜熱帯気候に慣れていない兵士は体調不良が続出。 食中毒や熱病なども蔓延し、精神的にも肉体的にも兵士たちは疲弊するばかりだった。
こうした様々な要因が逆風となり、ベトナム戦争は両者共に決定打のないまま長期化。 やがて、アメリカ国内の政府に対する対ベトナム政策の不信へと発展し、やがて反戦運動を発生させる事になる。
この反戦の輪は、アメリカ国内に止まらず世界中へと拡大し、世界各地で反戦運動が展開され、世論は戦争反対へと傾いていった。
最終的に、対ベトナム政策を進めていたニクソン大統領が、ウォーターゲート事件で失脚し、後にも先にも史上唯一の“大統領辞任”に追い込まれた事で、対ベトナム政策は修正され、段階的な軍の引き上げが決定された。
アメリカ軍がいなくなった事で、共産主義陣営は難なくベトナムを占領。 共産主義政権が樹立し、アメリカは“勝って当たり前”の戦争に負けた。
核開発で引き分け(注:先にも記したように、西側はソ連の核開発状況を知らなかったので)、宇宙開発に勝ち、しかしベトナム戦争で負けた事により、アメリカはソ連にトドメを刺す機会を失い、米ソ冷戦構造は振り出しに戻った。
こうして、米ソ冷戦が決着しないまま迎えた1980年代、アメリカを初めとした西側諸国は、共産主義陣営の拡大に怯えていた。 そして、この時代背景が映画界にも影響を与える事になった。
先に記した通り、80年代は『スターウォーズ』と『レイダース‐失われた聖櫃』の大ヒットにより、SFとアドベンチャー映画の大流行へと発展したが、問題はその内容の方で、実はどちらの作品にも、その根底に米ソ冷戦構造がある。
ルーカス監督は否定するかもしれないが、『スターウォーズ』でジェダイの騎士の敵となる帝国軍は、明らかにナチスドイツやスターリン政権下のソ連のメタファーである。 絶対的な権力と強力なカリスマ性で帝国を支配する皇帝やダース・ベイダーは、明らかにヒトラーやヨシフ・スターリンそのモノであるし、画一的なユニフォームと統率された組織構造は、第2次大戦中のドイツ軍そのモノである。
兵器開発に余念がない点も、ヒトラーの新兵器マニア的側面を垣間見せている。
また、『レイダース‐失われた聖櫃』となると、状況はさらに直接的になる。
作品の設定年代は第2次大戦直前の1930年代末で、インディアナ・ジョーンズと聖櫃を巡って争奪戦を繰り広げるのは、間もなくポーランド侵攻を始めようかというトコロのナチスドイツの特務部隊である。 インディは、アメリカを代表してナチスと戦う事になるワケだ。
そして、両者ともナチスに対抗した自由主義陣営、すなわちアメリカの象徴(注:もしくは代表)が勝利するという結末で、これはまさに、ベトナムでアメリカやろうとしていた事そのモノである。
映画『ブレードランナー』の直前に公開されて世界的大ヒットとなった『ET』にしても、政府機関が絶対的な権力を振りかざしてETを捕獲しようとする行は、まるで自由主義者が秘密警察に追われているようである。
こうした東西冷戦構造を根底に持ち、しかし最後には自由主義が勝利するという痛快なクライマックスを有した当時の“流行りの映画”は、観客の期待に応えた良作として大きな支持を得る事になった。
しかし、こうしたベーシックを持たない絵画的映画たる『ブレードランナー』は、当時の世相や時代背景から完全に切り離されており、絵画的映画らしく芸術家の意図たるゴタクを並べただけの映画として認識され、当時の観客の支持を得る事が出来ず、興行的失敗を招いたのである。
東西冷戦構造が終結に向かって動き始めた80年代後半、人々はようやく核戦争の不安から開放され、それまで見向きされなかった絵画的映画にも目を向けるようになった。
そして、出資者の思惑と芸術家の意図の折衷案として機能し始めたホームビデオの普及により、かつては駄作の烙印を押された絵画的映画の数々が、再評価される機会を得る事になった。
映画『ブレードランナー』は、その筆頭として再評価運動の中心的存在になっていく。
公開当時は、時代背景に毛嫌いされたこの作品の芸術家の意図たるゴタクが、不安から開放された人々によってようやく(“正しく”というワケではないが)理解され始める事になったのである。
何度も例に挙げているが、映画『メトロポリス』を監督したフリッツ・ラングは、視力低下が原因で1960年を最後に監督業を引退するが、その後TVのインタビューに答えて、こんな事を言っている。
「私は、いつも映画を撮る時にその時代を反映させるように意識している。」
何故なら映画は、時代ごとにその流行が移り変わり、観客の求める映画が変化し続けるからだ。
「私は若者が好きだ。 私は若者に従う。」
何故なら時代は、常に次の世代を担う若者が創っていくモノだからだ。
そう、映画とは、“時代を写す鏡”であるべきなのである。
以上のように、主にこの3つの要因が、映画『ブレードランナー』の興行的失敗を招いた原因だと、筆者は考える。
ただし、注意してもらいたいのは、この3つの要因を味方に付け、大ヒットした映画が“面白い映画”と同義かというと、決してそうはならないという点である。
映画がヒットする原因は、上記3つ以外にもいくつか考えられるが、それは飽くまでも“売れる映画”の条件であって、“面白い映画”の条件ではない。 いわゆるジャニーズ映画が本当に“面白い映画”かどうかははなはだ疑問である。
実際、映画『ブレードランナー』は全く売れなかった映画だが、ならばこれは面白くない映画なのだろうか? とてもそうは思えない。
先ほど記したように、サンダーソンが述べている通り「理解するのに時間がかかる映画」だが、面白くない映画では決してない。 80年代後半になって再評価された事実こそが、何よりの確たる証拠である。
そう、“売れる映画”と“面白い映画”は同義ではなく、映画のセールスと映画の面白さは、決して一致しないのである。
この辺りが、映画の面白いトコロであり、同時に怖いトコロである。
だが、筆者はこの点が何より、映画という芸術の面白さだと考える。
そして、売れない映画の中で本当の意味で“面白い映画”に出会った時、それはまるでインディが失われた聖櫃を探し当てた時のような感動を覚えるのである。
だから、映画ヲタクって止められないんだよねぇ~。
ちなみに、今なら2011年5月に、イスラム原理主義派の武装組織、アルカイダのリーダーであるウサマ・ビンラディンの殺害に成功したアメリカ海軍特殊部隊、ネイビー・シールズを主人公した映画を作れば、大ヒット間違いなしだろう。 9.11から10年もの間、全てのアメリカ国民が待ち望んでいた事なのだから。
しかし、逆に東日本大震災は、映画の題材にするにはまだまだ時期尚早だ。 記憶が生々し過ぎてシャレにならない。
9.11直後、ハリウッドがテロや市街戦を題材にした映画を全面的に自粛したのは、それと同じなのである。
といったトコロで、今週はココまで。
楽しんで頂けましたか?
ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
LunaちゃんのMODコレ!
展望台。※Felmoon Air Fortress Ver.1.2
プレイ動画『天空の城』でも紹介されていた古代エルフ族の遺産。 文字通りの“天空の城”。 持ち家として利用出来、蒐集したアイテムの保管場所に最適。 外観が異なる『Dawn』(注:キレイ)と『Dusk』(注:荒れ放題)の2種類から選べるが、ロケーションが同一で競合するため同時に導入出来ない。 今回は『Dawn』をセレクトしたが、espファイルのみのシンプルなMODなので、導入がとてもラク。
プレイ動画『天空の城』では、ドラゴンの発着場にされていた展望台。 ココからの眺めがまた良いのだ。
Thanks for youre reading,
See you next week!