96歳が伝えたシベリアの強制労働。
京都、綾部市、一人暮らし。戦争語り部の原田さん。今年7月に亡くなった。
戦後、57万人がシベリアへ送られ、強制労働をさせられた。
原田さんはその一人。16歳で海軍施設に就職、その後衛生兵として満州へ渡る。
満州では負傷し治療ができず、身体に蛆がわき殺してくれ!と言われたこともある。
悪夢が戦後も長くおそったが、語りべになり悪夢は減り
シベリア体験を語っていこうと決意。
シベリアでは、あらゆる作業をさせられた、大工、石工~
朝、パン1枚、昼夜、スープ1杯だけの食事でマイナス30度
起きると隣が死んでいる、入り口のそばに寝ると寒く凍死する。
誰が死んでもおかしくなかった4年の日々を生きた。
もう1度、シベリアの今を見たい気持ちが強くあり、次女と16年シベリア、
ハバロフスクへ旅する。収容所は今は車の社の車置き場のようになっていた。
当時の物はなにもない。
ハバロフスク・コンサートホールは残っていた。ここでも修理などをした。
130年前の建築、ロシア、地震がないからこそ変わらずあるのだろう。
原田さん、感無量。色々作業をしたとホールの方に話す。
ハバロフスクに建てた、レンガの建物は今は、美術学校だった。
レンガが見え、確かにこれ!と。日に380枚レンガを積むノルマ作業だったという。
映画のポスターが張られた教室、学校関係者がレンガを1枚、原田さんへ渡す。
ハバロフスク、とロシア語で書き、原田さんもロシア語でハラダと書いた。
ロシア語スペルを覚えていた。次女とともに泣いた。
日本人の墓地へ墓参り、仲間はここに眠っている、ここまで来られた、
もう思い残すことはないと語った。
一人暮らし、近くに次女が住み様子を見に来ている。
90代でもお元気で煙突掃除を屋根に上りしていた!
舞鶴の高校生に語るシベリアでの体験、昨年、原田さんが亡くなり次女が
引き継ぐことになった。娘にはあまり話さなかった戦争体験。
遺書には戦争体験が詳しく記録してあり、戦争は二度としてはいけないとあった。
~過酷な体験を生き抜き、90代までお元気、足は弱いが、体力にびっくりした。
もう1度シベリアを見たいという思いは前からあり、過去の記憶を再確認したい
気持ちが強いと感じた。最後まで語りもしっかりし、お丈夫だった。
戦後、多数の仕事をし、家族を養えたと語り、帰還後も苦労が多かっだろう。
1回でもシベリアへいかれ自分の目で過去の体験をみつめ、よかったと思う!