銀の人魚の海

日々の思いを好きに書いています。映画、海外ドラマ、音楽、本。
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愛と哀しみの果て

2021-10-12 | あ行~さ行 旧作映画観賞

愛と哀しみの果て 85年 BS、161分、再見。
シドニーポラックは大好きな監督、本作もゆったりとしたつくり、

個人の意志が強く出ている物語。原作あり。音楽、Jバリー。

レッドフォード、Mストリープ~メリルはあまり好きではないが、これはいい。
Mキッチン(刑事フォイル)

1913年、デンマーク人、カレンはブロル男爵と契約?結婚。

英国植民地であるアフリカ、ケニアへ渡る。

冒頭のアフリカ大陸列車シーンがとてもいい。広大な大地、ゆったりと進む。
ケニア、景色、動物が色々みられる。

とくに、ペットとしての小さいフクロウがとても可愛い、飼ってみたいな~

カレンは夫と一緒に農園などをしたいが、夫は狩りに出かけたり女性と遊んだり~

孤独な日々。キクヨ族を雇い家事、農業をする。

夫に子供がほしいと言うが、夫は欲しくないよう。
けがをした現地の子供を治療、学校も作り教えもする。

体悪化調、夫から梅毒をうつされ、治療のため英国へ一時、帰国。
完治するが子供ができない体になり戻る。
夫はふらっと帰宅、またどこかへと変わらない日々。

そんな時、デ二ス、これまた自由に生きる男性と出会う。
カレンは彼に自分が作ったお話を長く、デニスと友に語る。

デニスは興味をもち聞き入る。若いレッドフォード、似合う。
デニスの友、コールは(キッチン扮する)、原住民の女性と数年の仲だと話す。
病気になるが、彼女がいる、ここで死にたいといい、治療を受けず亡くなる。

戦争が始まる気配がアフリカへも漂っている。
高地のケニアでは無理だと言われた、コーヒー栽培もできていたが
火事ですべて焼けてしまう。経営もうまくはいかない。

デニスと二人で飛ぶ、小型飛行機は「イングリッシュペイシェント」、

ダンスシーンは「華麗なるギャツビー」を思い出した。

カレンはデニスとの結婚をほのめかすが、彼の気持ちは違っていた。

夫が久しぶりに戻る。デニスは飛行機事故で急死、ショックを受けるカレン。
もうここにいられない、意味もない。帰国する決意をする。

荷物をまとめながら、暖炉の前で本を開く。

これまで一緒に生活してきたケニアの人たちに別れをつげ、アフリカを去る。
カレンは1933年、小説を書き文壇に出るが、アフリカに戻る事はなかった。

ラストに、
アフリカは私の歌を知っているだろうか?
新月は私に似た影をおとすだろうか?

原作「アフリカの日々」からか・・

1900年代の初め、夫とともにとはいえ、異国アフリカへ、波乱万丈人生は
経験しないとわからない、と思い、アフリカ1年なら住んでみたいな~

男女の関係のはかなさ、切なさが強く出た物語なので、若い人は理解できないかもしれない。
原作と映画は、かなり違うらしい。原作を予約したので後日書けたら。

ポラックの映画、7、8割はみている。中で「雨のニューオリンズ」一番好きか

~DVD所持。Nウッド主演。レッドフォードが準主演出演。

南部の町、酒場での青春、どうにもならない男女関係、心理を描いている。

◎シドニー・ポラック。

インディアナ州ラファイエットでウクライナから移民したユダヤ系の家庭に生まれる

俳優としてニューヨークのネイバーフッド・プレイハウスで学び、俳優として活躍し、1955年2月にはクリストファー・フライ(英語版)(Christopher Fry)作《闇も明るく(英語版)》(The Dark Is Light Enough)の米初演でブロードウェイ・デビュー。

終演後、テレビ界に移り、シリーズものにエピソード出演。しかし、1958年より約2年間兵役に就いた。

1959年にはテレビ出演を再開したが、1960年には友人のジョン・フランケンハイマーの依頼で、彼の監督作『明日なき十代』(The Young Savages)に出演する少年たちの台詞指導を担当。

1961年よりテレビ・シリーズのをエピソード監督するようになる。

1965年、映画も監督するようになり、『ひとりぼっちの青春』、『追憶』、『トッツィー』で高い評価を得て、アカデミー賞にもノミネートされた。

そして1985年の『愛と哀しみの果て』でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を受賞[注 1]。

アメリカ映画界に於いて永年に亘り俳優・監督・プロデューサーとして活躍した映画人。

2008年5月26日、癌によりロサンゼルス市内の自宅にてその生涯を終えた。73歳没。

死後、プロデューサーとして関わった『愛を読むひと』で第81回アカデミー賞にてアカデミー作品賞にノミネートされた

(共同でノミネートされたアンソニー・ミンゲラもこの授賞式の時にはすでに亡くなっており、故人二人でノミネートされる形となった)。

主な作品
長編映画監督作
いのちの紐 The Slender Thread (1965)
雨のニューオリンズ This Property Is Condemned (1966)
インディアン狩り The Scalphunters (1967)
大反撃 Castle Keep (1969)
ひとりぼっちの青春 They Shoot Horses, Don't They? (1969)
大いなる勇者 Jeremiah Johnson (1972)
追憶 The Way We Were (1973)
ザ・ヤクザ The Yakuza (1974)
コンドル Three Days of the Condor (1975)
ボビー・デアフィールド Bobby Deerfield (1977)
出逢い The Electric Horseman (1979)
スクープ 悪意の不在 Absence of Malice (1981)
トッツィー Tootsie (1982)
愛と哀しみの果て Out of Africa (1985)
ハバナ Havana (1990)
ザ・ファーム 法律事務所 The Firm (1993)
サブリナ Sabrina (1995)
ランダム・ハーツ Random Hearts (1999)[2]
スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー Sketches of Frank Gehry (2005)
ザ・インタープリター The Interpreter (2005)


半額 賃金上がらず

2021-10-12 | 日々の雑感

少し前に、回転ずしチェーンが全品半額、新聞にも大きく載った。

経済気象台の記事から。

ネットでも当日、この半額がランキング上位だったと思う。

多分、あれ~と思った。こういう回転すしは都心部にないような~

2、3回くらいしか言ったことないかも。

行列10時間、え!そこまでして、並んで食べたいの。

ちょっとあさましいような、8人家族でたまにしか食べられないならわかるが・・

どこまでも行列好きな日本人。

記事は、2時間待ちとして、一人平均千円くらいなので、半額でも

時給250円の得だけ、計算すぐできない(笑)それ以前に並びたくない。

だったら、近くのスーパーおいしいお寿司を買った方がいい。ある、千円くらい。

ゆっくり食べられる。

米の回転寿司は一皿3倍の価格、100キンも2倍くらいとある。

コロナ前の観光客爆買いは物価が安いから、買い食べてくれ、飲食店はもうかった。

安いは悪くはないが、同時に賃金も安く上がらない。

20年の賃金はOECDで22位、そう、韓国よりずっと下がってしまった。

30年で日本はわずか4%しか賃金はあがらず、韓国は90%以上上がった!

安い買い物は安く作り働いているということ。どうなるのだろう・・・

格差が倍増する。

 


前の道路

2021-10-12 | 日々の雑感

うちの前の道路は、幅が広いわりに、人、車の通りが少ない。

先は大型車でも通れるが、少し曲がっていて、知らないと入ってこないから。

人もそれほどは歩いていない。

なので子供がたまに遊んでもいる。駅から近いのに~静か。

火曜日は必ず、コープみらい、トラックが前で荷の整理をして配達、

30分パーキング状態に、もう3年くらいかな~

木曜日も来る。私がとっているパルシステムも、うちの週1、配達のついでに、

10分位荷台を整理、すっかりパーキングロードに。

30分200円のパーキングは多数あるが・・


祖父の絵手紙 戦地に生きた400通

2021-10-12 | ドキュメンタリー NNN、Nスぺ、ガイア、BS世界のドキュメンタリー~など

NNNドキュメント。11日放映。FBS制作。

1913年生まれの祖父が戦中、家族へ送った絵手紙、祖父の足跡を語る、

福岡に住む52歳の孫の語りドキュメント。

祖父は27歳で小倉、陸軍入隊、22歳で結婚し提灯商店営業、日本画を学んだ。

絵がとてもうまいはそのせいだった。

3人の子供を残し小倉から満州へ渡る。41年夏、この時期はまだ激戦はなく

絵手紙が書けた。会いたい、手紙を読むのがとても楽しみ、とある。

絵も上手だが文字数も多い。検閲にかからないように、夫婦でしかわからない言葉、

孫が推測する言葉も多数あった。43年、絵の無い手紙になる。

沖縄へ移動する前、博多経由なので、2日ほど家族と過ごせたことが、

後にわかった。最後の家族と一緒の時間は2日。

44年沖縄へ向かう。米は那覇を空襲し、その時から手紙は3通のみ。

44年、11月から手紙は途絶えた。20年6月の日付で死亡報告がきた。32歳。

孫は何回も沖縄へ出向き、祖父の最後をしろうとする。

ハガキは3世代に受け継がれ、大事に保存、展示会、

学生への講演会も開催している。祖父のいた23連隊、1100名の9割が戦死。

当時、学徒看護隊の女性からも、様子を聴く。米軍はガスを使い壊滅させる作戦で

足など切断のむごい治療が多かった。看護隊も22名犠牲になった。

45年、4月、沖縄の南へ向かい、その後戦死。

それまでは首里の石嶺にいたのではないか、と絵手紙の文面から孫は推測。

これからも絵手紙を保存し沖縄兵の大事な資料として伝えていきたいと、語った。

~絵がとても上手、ハガキの半分近い絵の間に、細かい字がびっしり書かれていた。

沖縄に移動してからの3通は、絵葉書に文だけのものとなった。

最後まで妻子を思う日々だったろう。戦争は、絶対にしてはいけない、絵手紙の

絵から感じる、まだ激戦ではない戦場の日常、心が痛々しくもあった。