櫻井よしこ 『異形の大国 中国』 ( p.112 )
中曽根首相(当時)が靖国神社公式参拝を止めた理由と、それに対する批判が書かれています。
中曽根首相 (当時。以下、「当時」を省略) が靖国神社公式参拝を止めたことが「前例」となり、以降、日本国首相が公式参拝しづらくなっています。
本来、公式参拝するのが当たり前で、公式参拝しないならば、「なぜ、公式参拝しないのか」が問われなければならないはずなのですが、逆に、「なぜ、参拝したのか」が問われかねないのが現在の状況です。
ここでは、その「前例」となった中曽根首相の公式参拝中止の理由が書かれています。中曽根首相自身の説明によれば、
この批判はある意味、「結果論」かもしれません。かりに胡耀邦党総書記 (当時。以下「当時」を省略) が失脚せず、「良好な日中関係」が築かれていたなら、どうなっていたでしょうか。中曽根首相の「英断」だったと評価されていたのではないでしょうか。
しかし、「中国にとっては、靖国問題は「手段」にすぎない」ことを考えれば、その場合であっても、「良好な日中関係」は一時的なものにすぎず、やはり最終的には「中曽根氏は明らかに判断を間違えたのである」ということになったのではないかと思います。
つまり中国に対しては、「(日本的な)配慮」はなんの効果もないということです。
相手(胡総書記)が失脚しようが、権力を維持しようが、どちらに転んでも日本にとって不利益になるのであれば、中曽根首相のような「(日本的な)配慮」はしないほうがよい、ということになるのではないかと思います。
ここで想い出すのは中曽根康弘氏だ。氏は首相在任時の85年、靖国神社公式参拝を中国に非難され、翌年から参拝を止めた。氏はその理由を、胡耀邦党総書記の失脚を避けるためと説明した。良好な日中関係を築こうとした胡総書記の足を引っ張らないために、胡批判の材料とされかねない日本国首相の靖国神社参拝は中止するのがよいと、中曽根氏は決断したというのだ。
だが、権力争いにおいて政敵を葬り去る口実など、山程作り出せるものだ。中曽根氏の配慮などなんの役にも立たず、胡総書記は失脚、そして中国は今日に至るまで靖国カードを握るに至った。中曽根氏は明らかに判断を間違えたのである。そして今もその間違いの延長線上に立ち、靖国に代わる施設を建立せよと説く。政治家が自国の国益を二の次にして他国の国内政治の片方の勢力に力を貸した結果がこれである。
中曽根首相(当時)が靖国神社公式参拝を止めた理由と、それに対する批判が書かれています。
中曽根首相 (当時。以下、「当時」を省略) が靖国神社公式参拝を止めたことが「前例」となり、以降、日本国首相が公式参拝しづらくなっています。
本来、公式参拝するのが当たり前で、公式参拝しないならば、「なぜ、公式参拝しないのか」が問われなければならないはずなのですが、逆に、「なぜ、参拝したのか」が問われかねないのが現在の状況です。
ここでは、その「前例」となった中曽根首相の公式参拝中止の理由が書かれています。中曽根首相自身の説明によれば、
良好な日中関係を築こうとした胡総書記の足を引っ張らないために、胡批判の材料とされかねない日本国首相の靖国神社参拝は中止するのがよいと…(中略)…決断したというのですが、結果として
中曽根首相の配慮などなんの役にも立たず、胡総書記は失脚し、かつ、
中国は今日に至るまで靖国カードを握るに至ったというのですから、著者の説くように「中曽根氏は明らかに判断を間違えたのである」ということになるでしょう。
この批判はある意味、「結果論」かもしれません。かりに胡耀邦党総書記 (当時。以下「当時」を省略) が失脚せず、「良好な日中関係」が築かれていたなら、どうなっていたでしょうか。中曽根首相の「英断」だったと評価されていたのではないでしょうか。
しかし、「中国にとっては、靖国問題は「手段」にすぎない」ことを考えれば、その場合であっても、「良好な日中関係」は一時的なものにすぎず、やはり最終的には「中曽根氏は明らかに判断を間違えたのである」ということになったのではないかと思います。
つまり中国に対しては、「(日本的な)配慮」はなんの効果もないということです。
相手(胡総書記)が失脚しようが、権力を維持しようが、どちらに転んでも日本にとって不利益になるのであれば、中曽根首相のような「(日本的な)配慮」はしないほうがよい、ということになるのではないかと思います。