真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

手塚治虫とアニメ

2006年06月01日 21時15分10秒 | 虫プロ
手塚治虫先生はウォルトデズニーに崇拝していた。昭和二十五年初秋「漫画少年」の加藤謙一先生と劇的な出会いで、「ジャングル大帝」を描く事になるが、翌年
デズニーの「バンビ」が公開されると、加藤先生の長女、美紗子さんを連れ立って、朝から最終の夜まで何日も何日も、「バンビ」を見に通ったという。挙句は、美紗子さんに懐中電灯で照らしてもらい、スケッチまでしていたという。そして昭和26年には 鶴書房から「バンビ」を出版している。既に、アニメに興味を持っていたことは、うかがい知ることができる。 師の父、粲(ゆたか)通称北風さんは、かなりのハイカラな人であったと聞くその影響か、「蜘蛛とチューリップ」や 中国のフィルムの「西遊記 大魔王の巻」 など持っていたという。例えば昭和23年あたり発表の「ぴいこちゃん」など、そんな影響を受けているように見えてしまう。 そんな手塚先生が初台に居を移した頃、戦後初めて劇場用、漫画映画を作るためのスタジオを作った東映映画。その東映動画から「西遊記」の話が来た。「ぼくの孫悟空」それが手塚先生を、アニメ地獄の世界へ引きずり込む 事になったのでは。「西遊記」のときは、漫画原稿締め切りとの葛藤、思い通りにならない作業、など挫折感を味わったはず。しまいには、月岡貞夫先生や、石森章太郎先生に 代理を頼むはめにもなってしまったのだ。
手塚先生は原作などで、東映とは3作品関わることになったが、自分のイメージ通りにアニメを作りたいという、欲望は、媚薬のように師の体を包んで行き、生涯その束縛から解き放たれることはなかったのであった。
当時、長者番付の作家部門でトップとなった、納税者の手塚先生は、病が嵩じて、スタジオを持つことを夢見ることになり、練馬に居屋敷を構え、その仕事場にアニメの同志を6人を集め、屋敷の庭にアニメのスタジオを立ててしまった。そして昭和37年「ある街角の物語」を発表 あえてアニメと言う困難の道を進むのであった。
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