津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

石川島修船所の造った船

2011-10-16 | 東京湾汽船
「東京湾汽船創業時に出資された汽船は、一体、どのようなスタイルをしていたのか?」 東海汽船史に関心
を持って以来、長年、抱いてきた疑問であった。創業当初の船隊を構成したのは、汽船が登場した明治
前期に、隅田川河口周辺で建造された汽船であった。明治前期における、東京湾内航路への汽船導入や
建造に関しては、福沢諭吉「祝辞」や櫻井八郎右衛門「新汽船」があり、平野富二伝、東海社史3部作、
各市町村史などから明らかになるものの、利根川水系の外輪汽船に比べ、画像や遺産は極めて乏しい。
しかしながら、建造年や造船所など、夫々違いはあるものの、船名が特定された数少ない画像から見えて
きた一連のスタイルは、「東京湾型」とも云うべき、特徴的なものであった。



この絵葉書に写る小型汽船は、初見時より、操舵室周りや船尾の造作から、明治前期に建造された船で
はないかと見ていた。発行は、仕様から1918(T7)以降である。
数年前、驚くべき史料に出会った。執筆者は、三盛丸に相当な思い入れのある地元の地方史研究者で、
この船名を「第貳號三盛丸」と特定していた。俄には信じがたい事であるが、これが事実なら、船名録に
前船名が記されるとおり、何と海軍省石川島修船所が1876(M9).07に建造した「横須賀丸」の後身なのだ。
建造時の船主は熊本県徳永彌内。民間発注による建造船である。幕末~明治初期、「横須賀丸」は2隻
建造された。もう一隻は、横須賀造船所が横須賀~横浜間の通船として建造(1866)した船である。
徳永が発注した「横須賀丸」の船名由来は何だろうか。船名録には、製造地「石川島」、造船工長「横須
賀造船局」とある。また、後述するが、徳永が居留した豊橋近郊にも、「横須賀」という地名があるのだ。

1876(M09).07  横須賀丸建造。
  〃  08.31 海軍主船寮廃止、石川島修船所閉鎖。
  〃  10.30 石川島平野造船所設立。
  〃  11.03 通運丸建造に着手。
1877(M10).02.04 通運丸完成。
1878(M11).01.07 通快丸進水。福沢諭吉が祝辞。

「横須賀丸」は1885(M18).01時点で、豊橋と神社を結ぶ伊勢湾横断航路に投入されている。船主は徳永
彌内。建造当初と変わっていない。現在の豊橋市船町居留となっている。
1885(M18)年中に柴谷休次郎(大阪府下堺)に売却され、大阪湾内の堺~神戸で使用された。
1887(M20)水橋吉兵衛(大阪府下堺)、1889(M22)三上勝江(駿河国江ノ浦)、1890~91頃中北福松
(東京)に売却された。1892(M25).10中北より三浦共立運輸が購入し、「第貳號三盛丸」と改名された。
三浦共立運輸(1891(M24)設立)と東京湾汽船の確執は、同社設立前から伏線があった。地元資本対
東京資本という図式は各地で見られるが、ここでは、語り継がれる事件となって結末を迎えている。
長く続いた競合を脱し、両社は営業協定を締結した。その協定が発効する1917(T6).05.28を控えた27日、
悲劇は起こった。三浦共立運輸、ひいては三崎町民自慢の優秀船「第三號三盛丸」が、ナカ瀬という暗礁
に乗揚げ、沈没したのだ。
地元では「デマが流れ飛んだ」と記録されている。「いつも3号は通運丸の右舷ギリギリを抜いていくの
で、航路いっぱい、幅寄せしてやろう」という通運丸船員の話を、耳にしたというのだ。事の真相はわか
らない。裁決録によると、東京湾汽船側は「第貳拾五號通運丸」。
翌日から、東京湾汽船との営業協定はスタートした。しかし、三浦共立運輸にとって、最優秀船を失った
痛手は大きかった。前掲の船影は、「第三號三盛丸」が失われた後、撮影されたものである。その当時、
三浦共立運輸が所有したのは、「第貳號三盛丸」と「第壹三盛丸」(7136 / LTBV)の2隻。後者は1912
(M45).06建造であるから、まず、その2隻を誤認することは無かろう。

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