おお、「若草」だ! 観音崎燈台に展示の油絵に気付いた時、久しぶりに彼女に再会したかの
ような、懐かしさがこみ上げてきた。原画はここにあったのか。
28隻組の終末期、その数隻にしか接することができなかった者にとって、船内に足を踏み入れる
ことのできた「若草」は、思い出深い一隻だ。
1973(S48)暮のこと、父島から戻る定期船の出迎えか、船見散歩だったのか、はっきり覚えてない
ものの、竹芝から芝浦の東海汽船船溜りにかけて、岩壁を歩いた。日の出には「若草」「拓洋」
が並んで接岸していた。「若草」を至近で眺めるのは初めてなので、船体の造りを観察していた
ところ、船上の海上保安官は「乗って来いよ」と声を掛けてくれた。
当時、現場の方々は、気軽に子供に接して下さった。国鉄電車区も港湾も、拒まれた覚えがない。
「若草」の船橋楼内は、客船時代と大きな変化は無いようで、薄暗い廊下に面し、並んだニス塗り
の扉が重厚感を醸し出していた。船橋甲板の木甲板は、美しかった。間近に眺めた太い煙突も、コン
パスマークの後ろに、「大」を想像した。船内には数時間、居心地良く、入り浸らせていただいた。
「若草」は解役後、しばらく東京港内に係船されていたものの、知らぬ間に、姿を消してしまった。
1977(S52)秋、東海汽船「椿丸」は解徹のため、赤穂に向かうとの情報が、編纂会報に載った。この
界の先輩菊池氏の投稿だった。「椿丸」は八丈航路や父島航路で幾度となく乗船し、思い出詰まっ
た船である。その最期の姿を一目見たいと、大垣夜行と新快速を乗継ぎ、坂越に向った。姫路で乗
換えた赤穂線電車は、名残の日も近い岡転の80形だった。
アポ無し訪問だったにもかかわらず、久三商店社長家治久英氏は、大変親切に応対してくださった。
遠路、船を追いかけて来たことを労ると共に、名刺を渡された。10代後半の当時、実は、人生初め
て頂いた名刺が、氏からのものだった。今も大切に残してある。
事務所では、色々と、解体船の話を聞かせて下さった。必死の形相だったのかもしれない。そんな私
を諭すかのように、「また、ナベ釜になるんだよ」と語って下さった一言が、とても心に残ってる。
「椿丸」の手前には、船楼も撤去され、上甲板むき出しの解体船があった。船名を伺ったところ、
なんと「若草」だった。図らずも、28隻組同士、で舷を接したのだ。「若草」の甲板を歩き
回ってから、解体未着手の「椿丸」の舷門をよじ登った。帰路、「椿丸」を振返りながら、坂越の街
を歩いている時、金属くずを満載したトラックが、脇を走り抜けて行った。
これは、燈台補給船として再登場する際、配布された絵葉書である。発行から、既に50年以上が経過
した。1956(S31).1月、海上保安庁は大阪商船「若草丸」を、「宗谷」に代わる燈台補給船として購入。
タトウの内側には、次の文言がある。
燈台補給船とは
燈台事業88年の間広く世に親しまれている「燈台補給船」は南冥の孤島、北辺の
岬端にある燈台へ種々の航路標識用物資、器材及び医療品等の補給に従事し、
その間航路標識の性能試験を行ったり職員の服務規律並びに健康管理に従事し、
燈台職員及びその家族にとっては海のサンタクロースと愛称されています。
先日、所用で男木島に渡り、古くからの宿に投宿した。年輩のご主人は、代々おつきあいして来た
燈台長の話や、映画ロケの話をお聞かせ下さった。1957(S32)に封切られた映画『喜びも悲しみも
幾年月』には「若草」が登場する。備讃の海で、また、「若草」を想った。宿の窓からは、備讃瀬戸
航路を行き来する船の灯火を、間近に眺めることができた。宿は1926(S1)の創業という。この窓から、
尼崎汽船部の船ぶねや、別府航路歴代の名船を、眺めることもあったろう‥。そんなことを考えなが
ら眠りについた。
翌朝立った男木島灯台は無人化され、花々が咲き乱れていた。灯台の資料室には、「若草」の写真も
展示されていた。彼女が終焉を迎えた坂越の港は、遠くに見える小豆島の、その向こう側にある。
ような、懐かしさがこみ上げてきた。原画はここにあったのか。
28隻組の終末期、その数隻にしか接することができなかった者にとって、船内に足を踏み入れる
ことのできた「若草」は、思い出深い一隻だ。
1973(S48)暮のこと、父島から戻る定期船の出迎えか、船見散歩だったのか、はっきり覚えてない
ものの、竹芝から芝浦の東海汽船船溜りにかけて、岩壁を歩いた。日の出には「若草」「拓洋」
が並んで接岸していた。「若草」を至近で眺めるのは初めてなので、船体の造りを観察していた
ところ、船上の海上保安官は「乗って来いよ」と声を掛けてくれた。
当時、現場の方々は、気軽に子供に接して下さった。国鉄電車区も港湾も、拒まれた覚えがない。
「若草」の船橋楼内は、客船時代と大きな変化は無いようで、薄暗い廊下に面し、並んだニス塗り
の扉が重厚感を醸し出していた。船橋甲板の木甲板は、美しかった。間近に眺めた太い煙突も、コン
パスマークの後ろに、「大」を想像した。船内には数時間、居心地良く、入り浸らせていただいた。
「若草」は解役後、しばらく東京港内に係船されていたものの、知らぬ間に、姿を消してしまった。
1977(S52)秋、東海汽船「椿丸」は解徹のため、赤穂に向かうとの情報が、編纂会報に載った。この
界の先輩菊池氏の投稿だった。「椿丸」は八丈航路や父島航路で幾度となく乗船し、思い出詰まっ
た船である。その最期の姿を一目見たいと、大垣夜行と新快速を乗継ぎ、坂越に向った。姫路で乗
換えた赤穂線電車は、名残の日も近い岡転の80形だった。
アポ無し訪問だったにもかかわらず、久三商店社長家治久英氏は、大変親切に応対してくださった。
遠路、船を追いかけて来たことを労ると共に、名刺を渡された。10代後半の当時、実は、人生初め
て頂いた名刺が、氏からのものだった。今も大切に残してある。
事務所では、色々と、解体船の話を聞かせて下さった。必死の形相だったのかもしれない。そんな私
を諭すかのように、「また、ナベ釜になるんだよ」と語って下さった一言が、とても心に残ってる。
「椿丸」の手前には、船楼も撤去され、上甲板むき出しの解体船があった。船名を伺ったところ、
なんと「若草」だった。図らずも、28隻組同士、で舷を接したのだ。「若草」の甲板を歩き
回ってから、解体未着手の「椿丸」の舷門をよじ登った。帰路、「椿丸」を振返りながら、坂越の街
を歩いている時、金属くずを満載したトラックが、脇を走り抜けて行った。
これは、燈台補給船として再登場する際、配布された絵葉書である。発行から、既に50年以上が経過
した。1956(S31).1月、海上保安庁は大阪商船「若草丸」を、「宗谷」に代わる燈台補給船として購入。
タトウの内側には、次の文言がある。
燈台補給船とは
燈台事業88年の間広く世に親しまれている「燈台補給船」は南冥の孤島、北辺の
岬端にある燈台へ種々の航路標識用物資、器材及び医療品等の補給に従事し、
その間航路標識の性能試験を行ったり職員の服務規律並びに健康管理に従事し、
燈台職員及びその家族にとっては海のサンタクロースと愛称されています。
先日、所用で男木島に渡り、古くからの宿に投宿した。年輩のご主人は、代々おつきあいして来た
燈台長の話や、映画ロケの話をお聞かせ下さった。1957(S32)に封切られた映画『喜びも悲しみも
幾年月』には「若草」が登場する。備讃の海で、また、「若草」を想った。宿の窓からは、備讃瀬戸
航路を行き来する船の灯火を、間近に眺めることができた。宿は1926(S1)の創業という。この窓から、
尼崎汽船部の船ぶねや、別府航路歴代の名船を、眺めることもあったろう‥。そんなことを考えなが
ら眠りについた。
翌朝立った男木島灯台は無人化され、花々が咲き乱れていた。灯台の資料室には、「若草」の写真も
展示されていた。彼女が終焉を迎えた坂越の港は、遠くに見える小豆島の、その向こう側にある。