連絡船「とびしま」は、1時間15分程度で勝浦港に接岸した。海上から見て左側、港を抱く
かのような半島が、絵葉書に見える山並みと思うが、かなり小規模だ。地元の方から、
「古い写真ならマリンプラザ(船客待合所)3階に展示してある」と、教えていただいた。似た
方角から撮った写真も展示してあった。半島に見える岩塊は「館岩」と云うらしい。外に出
て、港の背後に鎮座する遠賀美神社を参拝する。日和待ちした船乗りも、訪れたことだろう。

「勝浦会館」という建物の脇だけ、家並みが途切れていて、入江を見渡せたのが幸いした。
ここに間違いない! 道路の形状から、子供達が立った位置も判る。100年近く前、「太湖丸」
を捉えたポイントを、特定することができた。
自分の頭の中で、「太湖丸」は大汽船に膨れ上がっていたようだ。絵葉書で大きく見える
館岩も、せいぜい20数m程度。往時も今も、岩壁の凹凸や山稜に変化無いことに気付く。
レンズの関係か、大部、横に伸びている。これは船影にも影響しているのか。この頂部には
岩砦があり、海賊の城跡とも云われているという。

「太湖丸」が投錨した泊地を望み、まずは海図(写)を拡げた。船影の煙突の背後に、岩礁の
ようなものが見える。1930年(S5)刊行の海図には、標高3.3mの「小島」が確認できる。
煙突の後から、消去しても良いようだ。この島は防波堤工事で消滅している。
持参した絵葉書と、船名録(写)も拡げた。
「第一太湖丸」「第二太湖丸」は1883(M16)年6月、キルビーの小野浜造船所(神戸)で建造され、
琵琶湖畔で組み立てられ、同年9月に竣工した。
同所建造「朝日丸」の画像は残るが、いずれも郵便汽船三菱会社が英国に発注した「横浜丸」
(1884)にとても良く似ている。当時の英国流行スタイルなのかもしれない。
1889(M22)年7月、鉄道連絡船としての役割を終えた「第一太湖丸」」「第二太湖丸」は大津に
係船。翌1890(M23)年、解体され大阪に搬出された。再組立が行われたのは「難波島」。その頃は
西成郡川南村。ただし「難波島」が狭義の「難波島新田」を指すのか、「今木新田」「中口新田」
を含めた広義の地域(島)を指すのか、判らない。船名録の造船地名は、スペースの限りもあり、
省略されることが屡々だ。難波島は、北前船を係船した「船囲場」の東側に位置する。明治20年
頃から多くの造船所が立地した。
両太湖丸の再組立に従事した造船工長は「佐山芳太郎」。ヘダ号建造の際、造船世話掛を勤めた
船匠の一人、佐山太郎兵衛の甥にあたる。造船工長佐山芳太郎の業績を船名録から拾ってみた。
890 第二徳山丸 1885.05 兵庫東川埼町(木)
942 淀川丸 1886.03 六軒家新田(木)
988 中津川丸 1886.12 六軒家新田(木)
1113 阿津丸 1887.10 六軒家新田(木)
1063 紀川丸 1887.12 六軒家新田(木)
1102 快漕丸 1888.05 六軒家新田(木)
1160 和田丸 1888.05 六軒家新田(木)
1093 共立丸 1888.06 六軒家新田(鉄)
1239 駿豆丸 1890.10 材木置場(木)
1246 第一太湖丸 1891.04 難波島(鉄)
1276 第二太湖丸 1891.10 難波島(鉄)
1486 第一號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)
1487 第二號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)
製造地名で佐山芳太郎の足跡を追うことができる。「六軒家新田」は安治川と六軒家川が合流
する位置で、ここで大阪鉄工所は創業した。『日立造船75年史』によると、
‥兵庫造船局(もとの兵庫工作分局)に勤務していた佐山芳太郎氏が造船主任として
招かれた。当時の記録によると、「大阪鉄工所願出につき佐山芳太郎を三個年間貸渡
云々」とある。‥当時の邦人技術者の多くは年少のころから実地に鍛えあげた人々で、
理論的なことは別として、技術は外人に比較して見劣りなく、巧みに外国の技術を採
り入れたものであるが、その努力は涙ぐましいものがあった。
年表から関連事項を拾ってみると、
1885 外人技術者退職、佐山芳太郎ら邦人技術者を採用する。
1886 淀川丸竣工(01)、中津川丸竣工(12)
1887 紀ノ川丸竣工(12)、この年、鉄船建造の施設を整える。
1888 当初最初の鉄製汽船共立丸竣工(05)、この年、佐山芳太郎退職。
駿豆丸が建造された「材木置場」は木津川左岸で、第一、第二太湖丸が再組立された「難波島」
はその対岸で、右岸に位置する。戸田村誌には、佐山芳太郎は「大阪難波島に造船所を創設」と
ある。場所と造船所名は特定できないものの、難波島で再組立されたのは確かなようだ。
1891.05.25 第一太湖丸、大阪で試運転。
1891.11.10 第二太湖丸、大阪で試運転。

太湖丸に迫るため、飛島の画像を反転させ、社史の画像に揃えてみた。さらに、色調補正で
全体を暗くし、コントラストを強くしたところ、見えなかった操舵室が見えてきた。社史の画像では、
船首部の甲板室が操舵室かどうか疑問であったが、操舵はその屋上で行ったようだ。半割の、
カマボコ状甲板室も見えてきた。社史の画像では降ろされているボートも見える。朝日丸と対比す
ると、乾舷が低く見えるのは、元々は湖上船として建造されたためか。航洋船として再組立され
た際、船体は約7m延長されるが、フォアマストと煙突の間隔が間延びしてるため、延長されたの
はここなのか。以前は考えられなかった画像加工で、古絵葉書の判定は格段の進歩をみた。
第二太湖丸は昭和4年版(1928.12.31現在)船名録まで掲載され、昭和5年版から抹消。
第一太湖丸は、関西汽船社史によると、1942.05.10に沈没して失われた。
飛島で捉えられた太湖丸は、そのどちらも可能性がある。
最後は、山高五郎著『日の丸船隊史話』より引用させていただきたい。
猶読者は前記の高齢船及既述の歴史的船舶の内に尼崎汽船部所属のものが甚多いこと
に気付れたことゝ思ふ。實に同社は昔から殆ど他で見離されたやうな高齢船を買入れ、其
独特の保修技術を以て、驚く可き長期間有効に活用されつゝあるのであつて、現に船舶
史上記念すべき船が多数其傘下に集つて長寿を保つて居ることに對し、著者は夙に深甚
の敬意と感謝を捧げて居る。
太湖丸の船影は、尼崎伊三郎所有となっていたため、記録されたと考えたい。湖上に登場した
我が国最初の鉄道連絡船の姿に、平成の世になり接することができたのも、誠に不思議なこと
と言えよう。改めて、山高氏の名文を読み返したことろである。
かのような半島が、絵葉書に見える山並みと思うが、かなり小規模だ。地元の方から、
「古い写真ならマリンプラザ(船客待合所)3階に展示してある」と、教えていただいた。似た
方角から撮った写真も展示してあった。半島に見える岩塊は「館岩」と云うらしい。外に出
て、港の背後に鎮座する遠賀美神社を参拝する。日和待ちした船乗りも、訪れたことだろう。

「勝浦会館」という建物の脇だけ、家並みが途切れていて、入江を見渡せたのが幸いした。
ここに間違いない! 道路の形状から、子供達が立った位置も判る。100年近く前、「太湖丸」
を捉えたポイントを、特定することができた。
自分の頭の中で、「太湖丸」は大汽船に膨れ上がっていたようだ。絵葉書で大きく見える
館岩も、せいぜい20数m程度。往時も今も、岩壁の凹凸や山稜に変化無いことに気付く。
レンズの関係か、大部、横に伸びている。これは船影にも影響しているのか。この頂部には
岩砦があり、海賊の城跡とも云われているという。

「太湖丸」が投錨した泊地を望み、まずは海図(写)を拡げた。船影の煙突の背後に、岩礁の
ようなものが見える。1930年(S5)刊行の海図には、標高3.3mの「小島」が確認できる。
煙突の後から、消去しても良いようだ。この島は防波堤工事で消滅している。
持参した絵葉書と、船名録(写)も拡げた。
「第一太湖丸」「第二太湖丸」は1883(M16)年6月、キルビーの小野浜造船所(神戸)で建造され、
琵琶湖畔で組み立てられ、同年9月に竣工した。
同所建造「朝日丸」の画像は残るが、いずれも郵便汽船三菱会社が英国に発注した「横浜丸」
(1884)にとても良く似ている。当時の英国流行スタイルなのかもしれない。
1889(M22)年7月、鉄道連絡船としての役割を終えた「第一太湖丸」」「第二太湖丸」は大津に
係船。翌1890(M23)年、解体され大阪に搬出された。再組立が行われたのは「難波島」。その頃は
西成郡川南村。ただし「難波島」が狭義の「難波島新田」を指すのか、「今木新田」「中口新田」
を含めた広義の地域(島)を指すのか、判らない。船名録の造船地名は、スペースの限りもあり、
省略されることが屡々だ。難波島は、北前船を係船した「船囲場」の東側に位置する。明治20年
頃から多くの造船所が立地した。
両太湖丸の再組立に従事した造船工長は「佐山芳太郎」。ヘダ号建造の際、造船世話掛を勤めた
船匠の一人、佐山太郎兵衛の甥にあたる。造船工長佐山芳太郎の業績を船名録から拾ってみた。
890 第二徳山丸 1885.05 兵庫東川埼町(木)
942 淀川丸 1886.03 六軒家新田(木)
988 中津川丸 1886.12 六軒家新田(木)
1113 阿津丸 1887.10 六軒家新田(木)
1063 紀川丸 1887.12 六軒家新田(木)
1102 快漕丸 1888.05 六軒家新田(木)
1160 和田丸 1888.05 六軒家新田(木)
1093 共立丸 1888.06 六軒家新田(鉄)
1239 駿豆丸 1890.10 材木置場(木)
1246 第一太湖丸 1891.04 難波島(鉄)
1276 第二太湖丸 1891.10 難波島(鉄)
1486 第一號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)
1487 第二號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)
製造地名で佐山芳太郎の足跡を追うことができる。「六軒家新田」は安治川と六軒家川が合流
する位置で、ここで大阪鉄工所は創業した。『日立造船75年史』によると、
‥兵庫造船局(もとの兵庫工作分局)に勤務していた佐山芳太郎氏が造船主任として
招かれた。当時の記録によると、「大阪鉄工所願出につき佐山芳太郎を三個年間貸渡
云々」とある。‥当時の邦人技術者の多くは年少のころから実地に鍛えあげた人々で、
理論的なことは別として、技術は外人に比較して見劣りなく、巧みに外国の技術を採
り入れたものであるが、その努力は涙ぐましいものがあった。
年表から関連事項を拾ってみると、
1885 外人技術者退職、佐山芳太郎ら邦人技術者を採用する。
1886 淀川丸竣工(01)、中津川丸竣工(12)
1887 紀ノ川丸竣工(12)、この年、鉄船建造の施設を整える。
1888 当初最初の鉄製汽船共立丸竣工(05)、この年、佐山芳太郎退職。
駿豆丸が建造された「材木置場」は木津川左岸で、第一、第二太湖丸が再組立された「難波島」
はその対岸で、右岸に位置する。戸田村誌には、佐山芳太郎は「大阪難波島に造船所を創設」と
ある。場所と造船所名は特定できないものの、難波島で再組立されたのは確かなようだ。
1891.05.25 第一太湖丸、大阪で試運転。
1891.11.10 第二太湖丸、大阪で試運転。

太湖丸に迫るため、飛島の画像を反転させ、社史の画像に揃えてみた。さらに、色調補正で
全体を暗くし、コントラストを強くしたところ、見えなかった操舵室が見えてきた。社史の画像では、
船首部の甲板室が操舵室かどうか疑問であったが、操舵はその屋上で行ったようだ。半割の、
カマボコ状甲板室も見えてきた。社史の画像では降ろされているボートも見える。朝日丸と対比す
ると、乾舷が低く見えるのは、元々は湖上船として建造されたためか。航洋船として再組立され
た際、船体は約7m延長されるが、フォアマストと煙突の間隔が間延びしてるため、延長されたの
はここなのか。以前は考えられなかった画像加工で、古絵葉書の判定は格段の進歩をみた。
第二太湖丸は昭和4年版(1928.12.31現在)船名録まで掲載され、昭和5年版から抹消。
第一太湖丸は、関西汽船社史によると、1942.05.10に沈没して失われた。
飛島で捉えられた太湖丸は、そのどちらも可能性がある。
最後は、山高五郎著『日の丸船隊史話』より引用させていただきたい。
猶読者は前記の高齢船及既述の歴史的船舶の内に尼崎汽船部所属のものが甚多いこと
に気付れたことゝ思ふ。實に同社は昔から殆ど他で見離されたやうな高齢船を買入れ、其
独特の保修技術を以て、驚く可き長期間有効に活用されつゝあるのであつて、現に船舶
史上記念すべき船が多数其傘下に集つて長寿を保つて居ることに對し、著者は夙に深甚
の敬意と感謝を捧げて居る。
太湖丸の船影は、尼崎伊三郎所有となっていたため、記録されたと考えたい。湖上に登場した
我が国最初の鉄道連絡船の姿に、平成の世になり接することができたのも、誠に不思議なこと
と言えよう。改めて、山高氏の名文を読み返したことろである。