津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

太湖汽船と病院船

2011-08-25 | 旅行
1882年(M15)に設立された太湖汽船(旧)は、翌年には「第一太湖丸」「第二太湖丸」を登場させ、
1884.05.15浜大津~長浜の鉄道連絡を開始した。両船は我が国造船史上、黎明期に建造された
鉄船で、興味は尽きない。東海道線の開通により、早くも1889.07に鉄道連絡は終焉を迎えている。
二隻の太湖丸は解体され、海に降ろされた。そこに太湖汽船が「外海営業」を行った端緒がある。
社史は「湖上営業」「外海営業」と区分しているところが面白い。
明治末期には、太湖汽船(旧)も1886年に設立の湖南汽船も、観光航路に軸足を移し、今も多くの
パンフレット類が残っている。



太湖汽船発行のデフォルメされた案内地図には、中央部に沖島が見える。
図にはスキー船(1930.01~)と水泳船(1931.07~)が描かれ、裏面のフリートリストに辯天丸(1935~)
が見当たらないことから、1932~34年に発行されたものと考えられる。



京阪丸に乗り込むスキー客。この画像は戦後のものだが、戦前においても、一晩で2000人を集客し、
浜大津から海津へ向け、7隻もの大型客船が続々出港したという。
社史は次のように記している。

遊覧季節が終了すると、昔ならば全く冬眠する太湖汽船にとって、
却って「冬来りなば」と待望せしめるものこそスキー船である。
何と云っても暖い船室に楽々と横臥して行くことの出来る所謂ス
キー・ホテル船の魅力を忘れてはならない。


戦前の時刻表では、往航は浜大津発0時、復航は海津発17時となっている。今、23:55に浅草駅を
発車する東武鉄道のスキー夜行列車「スノーパル」を思わせる。



『太湖汽船の50年』を見ていると、病院船として活躍した所有船があったことに気付く。病院船と
なったのは「吉生丸」(きっしょうまる)。1881年に英国で建造された「カッサン」が前身。2478G/T。
日露戦争勃発の前年、1903年(M36)に輸入され、太湖汽船は同年12.17原田十次郎より購入した。
一方、同日付で「第一太湖丸」「第二太湖丸」を尼崎伊三郎に売却している。
本船により、太湖汽船は朝鮮・北海道航路を開始。1904.02.18御用船を命じられ、1905.01病院船
となり、同年12.27御用船を解任された。この姿はその間のものである。
1912.04.01樋爪譲太郎へ売却され、樋爪商会を経て、1916堤清六、1917神戸東和汽船の所有となり、
1925頃抹消されている。

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