二元論は言います。
「心と体は別物だ。」
あるいは「魂はある」と。
さてある日、暇に任せて神様が考えました。
「ひとつ宇宙でも作って人間とCOM君に将棋をさせよう」と。
物理定数やら宇宙定数やらのファインチューニングがすんで、さてビッグバンのスイッチを「ぽちっ」と。
これでしばらくたてば空間やら時間やら銀河やら生命やらが出来上がりです。
ところで神様、今回は「存在二元論でいこう」と決めてましたので、次は魂を作らなくてはいけません。
魂の材料はビッグバン由来の物質やらエネルギーでは少し「粗すぎて」使い物になりません。
それで特注の素材から「神様手作り」となりました。
魂の働きは「意識の主体として認識し、判断や指示を行うもの」であります。
そうして当然ではありますが、魂そのものの姿は人間の五感ではとらえることはできません。
言いかえますと「魂は3次元世界の物質やエネルギーとは相互作用しない」ということになります。
さて神様、アダムの体や脳みそが出来上がったのを見計らって、鼻から魂をアダムに吹き込みます。
さあこれでアダムが動き出して、最初に将棋を覚える人類になるはず、、、でした。
ところがまてど暮らせどちっともアダムが動かないのです。
いや、動くことは動くのですが、将棋を覚えないのですよ。
神様、「はて、どこかで間違えたかな」と思案顔であります。
と、その時はたと思い当ります。
「そうか、脳みそと魂がリンクしていないのか」とね。
「魂は人間の五感ではとらえられないもの。」
そう決めたのはほかならぬ神様でしたから、これは当然の結末でありましたとさ。
PS
「電王戦記」はこちらから入れます。
PS
3次元世界とは別の世界にある「魂」が「こちらの世界に何の痕跡も残さずに脳みそと相互作用できる」という考え方は「まったくもって不合理」ですね。
そうして「不合理ゆえに我信ず」と看破した方もおられます。
そういう訳で、「信じる」か「信じない」か、それは「究極の個人の好みの問題」なのでありました。
ちなみに「存在一元論」はこちらを参照願います。<--リンク
「心と体は別物だ。」
あるいは「魂はある」と。
さてある日、暇に任せて神様が考えました。
「ひとつ宇宙でも作って人間とCOM君に将棋をさせよう」と。
物理定数やら宇宙定数やらのファインチューニングがすんで、さてビッグバンのスイッチを「ぽちっ」と。
これでしばらくたてば空間やら時間やら銀河やら生命やらが出来上がりです。
ところで神様、今回は「存在二元論でいこう」と決めてましたので、次は魂を作らなくてはいけません。
魂の材料はビッグバン由来の物質やらエネルギーでは少し「粗すぎて」使い物になりません。
それで特注の素材から「神様手作り」となりました。
魂の働きは「意識の主体として認識し、判断や指示を行うもの」であります。
そうして当然ではありますが、魂そのものの姿は人間の五感ではとらえることはできません。
言いかえますと「魂は3次元世界の物質やエネルギーとは相互作用しない」ということになります。
さて神様、アダムの体や脳みそが出来上がったのを見計らって、鼻から魂をアダムに吹き込みます。
さあこれでアダムが動き出して、最初に将棋を覚える人類になるはず、、、でした。
ところがまてど暮らせどちっともアダムが動かないのです。
いや、動くことは動くのですが、将棋を覚えないのですよ。
神様、「はて、どこかで間違えたかな」と思案顔であります。
と、その時はたと思い当ります。
「そうか、脳みそと魂がリンクしていないのか」とね。
「魂は人間の五感ではとらえられないもの。」
そう決めたのはほかならぬ神様でしたから、これは当然の結末でありましたとさ。
PS
「電王戦記」はこちらから入れます。
PS
3次元世界とは別の世界にある「魂」が「こちらの世界に何の痕跡も残さずに脳みそと相互作用できる」という考え方は「まったくもって不合理」ですね。
そうして「不合理ゆえに我信ず」と看破した方もおられます。
そういう訳で、「信じる」か「信じない」か、それは「究極の個人の好みの問題」なのでありました。
ちなみに「存在一元論」はこちらを参照願います。<--リンク