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武士道の考察(62) サンガと大衆僉議

2021-05-17 17:37:14 | Weblog
武士道の考察(62) サンガと大衆僉議

(サンガと大衆僉議)
 土地占有という点において寺院と武士は利害を共有し得ました。総体的関係において両者は利害を共有します。のみならず寺院は武士あるいわ武士団のモデルにもなります。寺院は僧侶という修行者の共同体です。仏教はその草創期に、サンガ、という修行者の共同体を造りました。釈迦のような人は別として、並の人間が一人で修行するのは危険です。容易に自分勝手な異端邪道に迷い込みます。釈迦が菩提樹の下で悟られて最初に付き従った弟子は五名、釈迦を入れて六名が最初のサンガのメンバ-です。釈迦入滅後も弟子たちは共同で住み、共通の戒律を持ち、共に考えました。繰り返しますが修行のための共同体がサンガです。漢訳されて僧ガ(ガは加に人偏)となり、更に略されて僧になり、意味を変じて僧侶つまり修行者個人・お坊さんを意味するようになりました。
 日本でも僧は寺院という共同体の中で修行します。この点律令政府は僧の単独個人修行を厳しく禁じました。奈良時代には一つの寺院にいろいろな宗派のお坊さんが集まって修行したのに対し、平安時代になりますと一寺一宗になります。理由は二つくらい考えられます。奈良仏教の経典暗誦重視に対して、平安仏教は実践的修行を重んじます。実践的修行は経験が重要なので、師匠の影響力は強くいきおい師資相承になります。また寺院は国家から給付を受けず、荘園領主として経済的に自立します。財産を持つとその分閉鎖的になります。
 平安時代の寺院は寺院としての結束を強めます。延暦寺の大衆(だいしゅう)は3000と言われます。大衆は正式に得度受戒した僧侶です。大衆が寺院の重要事項を「大衆僉議(だいしゅうせんぎ)」で決めます。寺院には三綱(さんごう)という役職があります。延暦寺の場合三綱の最高職を座主と言います。しかし寺院の運命を決するような大事はすべて大衆僉議で決められます。荘園に関する所領紛争、政府裁定への不満表明、他寺院との抗争は重要な問題でした。不満の最高の表現が強訴、列参強訴でした。強訴するか否かの決定は寺院の最も重大な問題でした。これは必ず大衆僉議という全員の集会にかけられました。強訴は一揆です。その点では当時の寺院は一番民主的です、民衆的でもありました。地方豪族や有力農民クラス、庶民に近い者たちも勉強し修行すれば高い地位に登れます。もっとも勉強には金が要りますが(それは今でも同じです)。寺院は実力を無視しえない社会です。最澄空海、円仁円珍、良源源信の出自は都の貴族と比べると雲泥の差があります。平安中期以降皇族貴族の子弟が寺院に入り特権的待遇を受けますが、かと言って寺院が彼らの占有物になったわけでもありません。知識と理屈と組織と財力とそして武力をたっぷり持った数千名以上の数の連中を貴族のお坊ちゃん達だけで動かせるはずがありません。大寺院は今の大企業以上に複雑で膨大な組織です。末寺という支店も全国に持っています。だから最終的には大衆僉議による議決の必要がありました。比較の対象に民主主義のモデルと言われる古代ギリシャのアテネを取ってみましょう。最盛期アテネの人口総数は20万人強、奴隷と外国人居留民を除くと正式の市民はせいぜい3万人から5万人。子供と女性を除くとまず10000人、多めにみても20000人が投票権を持ち同時に戦闘参加の義務を負っていました。叡山とほぼ同規模になります。
 大衆の下に堂衆と言われる僧体をした人々がいます。彼らは正式の僧侶ではなく、頭を丸めているだけで、寺院の雑務に従事します。雑務は僧侶が当然行うべき学問修行儀式行為と寺院行政以外のすべてです。今で3Kに属するような下積みの仕事を堂衆が引き受けました。その仕事の中には葬送行為、死体に直接触れ処理埋葬する作業も含まれています。大衆つまり正式の僧侶は、死体を穢れとして避けました。大衆は白衣を着、堂衆は黒衣を着ました。僧侶が皆黒衣になるのは鎌倉時代以降です。鎌倉仏教の大衆性はこんなところにも現れています。大衆と堂衆は対立関係に陥りやすくよく武闘を繰り広げました。
(サンガと武士団)
 武士とは武士団です。一人の豪傑がいるだけでは武士とは言いません。強固な団体を作りその掟に従うから武士なのです。武士団は血縁と地縁を軸として縦に横に個々の武士の関係を形成します。時代が進むとともに結合原理として地縁が血縁を凌駕し武士たちは一揆集団を作ります。こうして戦国大名を中核とする近世の武士社会への歩みを進めます。この一揆は寺院の大衆僉議やサンガがモデルなった、と考えても不思議ではありません。武士と僧侶はその外観とは別に基本的には相同の存在です。現実の社会においても相互に乗り入れし変容しあいます。武士が地域でまとまろうとする時、必ず精神的紐帯を求めます。多くの場合それが寺院です。豪族の菩提寺や中央寺院の末寺です。逆に寺院の勢力拡張のためには地方の実力者である武士の援助が要ります。いろいろな形で寺院は農村社会つまり武士社会に溶け込みました。寺院の結合原理が武士社会のそれにならないはずはありません。
 僧(厳密には僧の団体)の語源である「サンガ」は本来仏教独自の組織形態ではありません。西暦前7-4世紀の古代インド社会において、未だ王国(kingdom)の組織を形成していない中小部族は、部族連合の形で横に連合しました。このような政治組織を首長制(chiefdom)と言います。これがサンガです。従ってサンガは本来戦士共同体を意味します。釈迦は釈迦族の首長の後継者でした。釈迦存命中この首長国は隣国に滅ぼされます。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


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